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初めてイタリアを訪れたのが1981年のこと。それ以来40年間のイタリア旅から厳選した紀行本を書きました。
『ローカル鉄道と路線バスでめぐる 果てしなきイタリア旅』(草思社)
2月3日発売です。

ローマもミラノもフィレンツェもヴェネツィアもナポリも出てこない不便で楽しい公共交通期間利用の旅。
シチリア島南岸、つま先のカラブリア州東岸、ドイツ語圏の南チロル、フランス語圏のアオスタ、アブルッツォ・モリーゼ州の内陸縦断、サルデーニャ島内陸など、ほかではなかなか紹介されない8つのルートを列車とバスを乗り継ぎ、田舎町を訪ねていきます。
メインは2004年から2023年の旅で、ときどき20世紀の旅も回想として出てきます。
旅先で遭遇した爆笑と驚愕のエピソード、ささやかな思い出、そして乗り物や知られざる歴史のウンチクが満載。ドキドキわくわくしながら一緒に旅行した気分になることでしょう。
なぜイタリア旅が「果てしない」のかは、本書をご覧ください。
イタリア好きなら知らない人はいない法政大学の陣内名誉教授推薦!
よろしくお願いします!
遅ればせながら、新年おめでとうございます。
3年前から年賀状をやめたにもかかわらず、この年末年始も大忙しの日々でした。
今年も、ちょぼちょぼと更新をしていくつもりですので、よろしくお願いいたします。

撮影場所は東京台東区谷中の三浦坂です。
今から45年も前の1979年夏、北海道旅行で立ち寄ったのが、網走郊外にあったジャッカ・ドフニという資料館である。たいていの観光客は網走刑務所に向かうのだが、どんなものかも知らず私はこちらを選んだ。訪れてみると、そこは林の中にある真新しい木造の小さな平屋の建物だった。

館長は本名ダーヒンニュニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)という戦前の樺太(サハリン)出身の北方少数民族ウィルタ(旧称・オロッコ)の中年男性。ほかに誰もいない建物で、感受性豊かだった学生の私は、戦争をはさんで日露の間で翻弄されたゲンダーヌさんの、哀しくも波乱に満ちた人生譚をじっくりと聞くことができた。

樺太・千島交換条約で樺太全体がロシアのものとなったが、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太は日本領となる。日本語教育を受けていたゲンダーヌさん自身は通訳の仕事をしていたというが、いろいろと話をしていれば情報のやりとりも生じたことだろう。戦後、スパイ容疑でソ連に何年も拘留されてしまった。
釈放されたのち、「あの国ではまたいつ逮捕されるかもわかりませんから、日本にやってきたんです」というが、日本では就職や結婚への差別に苦しんだ。
「ろくな仕事ももらえないし、結婚まで考えて付き合った女性は何人かいたのですが、私がウィルタであることをいうと、みな去っていきました」
さらに日本政府の対応は冷たく、戦前戦中と日本のために働いたのに、正式な徴用ではなかったとして関係者の努力もむなしく軍人恩給をもらえなかった。堪忍袋の緒が切れた彼は、北川源太郎の日本名を捨てて、自分はウィルタのゲンダーヌであると宣言したのだ。

せめてもの慰めは、地元の網走市に理解があったことだろう。市が土地を提供してくれたことでジャッカ・ドフニが1978年に開館。館内に集められたさまざまな文物や資料に交じって、地元の小学生による寄せ書きや「ゲンダーヌをたたえる歌」を公会堂のようなところで歌っている写真が飾られていた。
当時、日本でウィルタだと名乗り出ていた人は、彼の義父や義妹をはじめとして限られた人数だった。
「函館で結婚しているウィルタの女性と手紙のやりとりをしていたのですが、私がウィルタであると世間に公言した直後、もう手紙を寄こさないでくれと書いてきました」

ジャッカ・ドフニには小一時間ほど滞在したが、ほかに誰も訪問者はなかった。記念写真の1枚も撮らなかったのは痛恨の極みだが、そのときに購入した木彫りの木偶は大切にとってある。
そのうちに再訪しようかと思っていたら、なんと1984年にゲンダーヌさんは急逝してしまった。

そんなジャッカ・ドフニという名前を久しぶりに耳にしたのは先週のこと。日本橋高島屋4階にある史料館で、8月25日まで「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家」展が開催されているのだと聞いて、23日に足を運んでみた。
小さな館内は、いかにも意識が高そうな中年男女がひっきりなしに訪れていた。45年を経て、書物やネットでゲンダーヌさんの名前を知る人が増えたようである。
展示品のなかには、私が買った木彫りを一回り大きくしたものが飾られていた。宗教儀式などに使うセワという木像なのだそうだ。

あまりの多忙で更新が滞ってすみません。
なんとか生きていますのでご心配なく。
このたび、こんな本を上梓しました。
『辞書には載っていない!? 日本湖』(青春出版社/青春新書プレイブックス)
6月18日発売でした。

ちなみに、鉄道、旅の本は本名(二村高史)で出していますが、言葉の本はペンネーム(高村史司)にしています。
ペンネームでの第3弾です。よろしくお願いいたします。
2023年、明けましておめでとうございます。

2022年9月の佐賀・長崎行きの話があとわずかで年を越してしまいました。
今年もよろしくお願いいたします。
昨年(2019年)春のネパール旅行の途中ですが、お知らせを一つ。
5月26日発売の『サンデー毎日』6月7日号に、私の記事が掲載されました。
題して「脳と体を活性化する今昔写真の底力」。
“コロナ緊急事態解除へ 「健康」を取り戻す”という大特集のなかの4ページ(2見開き)で、今昔写真(定点写真)を3カ所(東京:京島・西台、大阪:新世界)取り上げて、その推理小説的な楽しみ方を解説すると同時に、運動不足解消と認知症予防にもなるという自画自賛、我田引水の話です。
ちなみに、昔のことについて思い出したり、語り合ったりすることは、「回想法」として認知症予防の効果があると、内外の専門家の間でも認められています。記事では、仕事で顔見知りの認知症予防の専門家の先生にコメントをいただいています。
興味のある方はぜひご覧ください。今号は税込450円です。

ちょっと間があいてしまいましたが、拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)の販促企画第4回。
今回は、道路拡幅前後の比較写真です。
最初は、滝桜で有名な福島県三春町の中心部。拡幅前の国道288号線は片側一車線で、道沿いに趣ある家並みが続いていましたが、拡幅によってすっかり姿を変えてしまいました。
昔の家並みが消えたのは残念ですが、せめてものなぐさめは、新築された店舗や住宅がシックな色と形で統一されていることでしょう。


次は東京都北区赤羽。東北本線の線路の西側には、日光街道の脇街道だった日光御成道(岩槻街道)が並行して走っています。
沿道には昔ながらの商家が並んでいい雰囲気でしたが、とうとう拡幅工事が終わってがらりと変貌してしまいました。


3組目は、赤穂浪士であまりにも有名な兵庫県赤穂市。突き当たりに赤穂城があるこのお堀通りには、いい雰囲気で商家が建ち並んでいました。拡幅後にはあまりにも姿が変わっていたので、位置の特定にはかなり時間がかかってしまいました。
沿道の建物はすべて建て替えられましたが、旅館山長は場所を変えて健在です。


最後は、沖縄県石垣市。石垣島の港に近い繁華街です。ここトニーそばこと栄福食堂は、強烈な個性の店主が経営する謎の店。
著名な旅ガイド『ロンリープラネット』にも紹介されているので外国人の客も多いようです。
将来そんな店になるとは知らず、初めての石垣島訪問でたまたま撮っていました。


10月に刊行した拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)から、テーマを絞って紹介する記事の第3回。今回は、宿場町の変化である。この2地点とも、1990年代に撮影したものだが、その変化に驚く。
まずは、久喜市との合併前、1992年の栗橋町。利根川に沿って走る栗橋本通りは、江戸時代に日光街道の栗橋宿として栄えた町でした。東武鉄道の栗橋駅からは徒歩15分ほどのところにあります。
平成に入ってからも栗橋宿には豪壮な建物が軒を連ね、商店街としてさまざまな店舗が並んでいたのですが、今ではその面影はほとんどなく、沿道には「栗橋宿」の旗がはためくばかりでした。


次の写真は、愛知県豊川市内にある旧東海道御油宿の東端あたり。東海道で隣り合う御油宿と赤坂宿には、平成の初めころまで、江戸時代の街道の雰囲気を偲ばせる家々が建ち並んでいました。今でもところどころに古い家が残るものの、ここにあの東海道が走っていたとは想像できません。


いまでも、全国に旧街道の宿場町の面影を残す場所はあるけれども、2000年代に入って急速に姿を消しつつあります。
逆に、保存されたのはいいけれど、観光化されすぎてしまった町もあります。なかなか難しいものです。
新刊『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)から、興味深い定点対比を紹介するシリーズの第2回。今回のテーマは「消えた水辺」です。
最初の写真は、1983年と2019年の愛媛県宇和島市大滝地区。JR宇和島駅の北西2kmほどのところに位置し、リアス式海岸が美しい場所でした。入江に沿って、道がくねくねと延び、私が乗ったバスは一つひとつカーブを丁寧に曲がっていったことを覚えています。その後、湾の一部が埋め立てられ、最近になって埋め立て地に水産業関連の施設の建設がはじまったとのこと。新しい写真の左端に、その建物の骨組みが見えています。


次の写真は、多くの国宝や重要文化財があり、大陸との交流もあったことから、「海のある奈良」と呼ばれる小浜市の1978年と2019年。京都に至る鯖街道の起点としても有名です。写真の中央を流れる堀川は、幕末の大火を教訓にして、防火線として開削したものです。現在は暗渠となり、その上には広い道路となっていました。


最後は、宮城県塩釜市の仙石線本塩釜駅近くの1980年と2019年。鹽竈(しおがま)神社の門前町らしく、太田味噌醤油醸造元(中央と右)と和菓子の丹六園の豪壮な建物が並んでいます。かつて建物の前を流れていた小川は、片側2車線の舗装道路に姿を変えました。


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