カテゴリー「イタリアの旅 北から南まで」の301件の記事

2024-08-26

夕暮れのロッサーノ・カラブロ

ロッサーノ・カラブロには2泊。大きすぎず、小さすぎず、ほどほどの規模の町に泊まるのは楽しい。観光客はほとんど見なかったけれどゼロではないようだし、顔なじみになる人も出てくる。

まずは、夕暮れの町をぶらぶら。人口は丘下の駅周辺を合わせると3万5000人あまりということで、かなりの規模である。

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ここが町の中心の広場! 飾りつけは、町の守護聖人である聖ニーロのお祭りだからだそう。

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坂だらけの町をぶらぶら。町外れまでくると、いかにも南部の丘上の町という風情である。

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夕食に入ったレストラン"La Villa"ではテラス席に通された。隣席には90歳のマンマの誕生日を祝うファミリー。
一緒にお祝いの言葉を述べたら、スパークリングワインの乾杯の相伴に預かり、ケーキのおすそ分けも!
イタリア語をやっていてよかったと感じる瞬間である。

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店のご主人とマダムは、とっても上品で親切。

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ピッツァ職人も笑顔が素敵。

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2日目の夜は、町の端にあるビザンティンの名前を冠したレストランへ。
静まり返った道を歩いた先に、こんな賑わいがあった!
ここでも周囲のおじさんや店の人と大盛り上がり! イタリア語をやっていてよかったと感じる瞬間である(しつこい)

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この直後、店内のテレビで放映されていたUEFAチャンピオンズリーグで、ラツィオのゴールキーパー(!)による起死回生のヘディング同点ゴールという世にも稀なシーンを生で見ることになる。

そして、夜のロッサーノ・カラブロ駅。

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これは、2日目に隣のコリリアーノ・カラブロに行った帰りに乗った列車。
ディーゼルカーALn663は、まだまだ地方のローカル線で見ることができる。

2024-08-25

ビザンティンの残り香 丘上の町ロッサーノ・カラブロ

2023年秋のイタリア3週間の旅の続き。旅も終盤にさしかかり、かかとのプーリア州から列車を2回乗り換え、土踏まずに沿って西へ進んでつま先にあたるカラブリア州へ移動。昔から行ってみたいと思っていた丘上の古い町ロッサーノ・カラブロに2泊した。

大聖堂前の広場

日本ではほとんど情報がないだけでなく、丘下にある駅からのバスの時刻もバス停の位置もよくわからないまま、久しぶりの手さぐりの旅にドキドキわくわくしていた。
バスは30分おきに運行されていることがわかったものの、荷物が多いので行きは駅前に貼ってある電話番号を見てタクシーを呼ぶことにした。

狭い道を縫って走る路線バス

宿は町の中心にある大聖堂(ドゥオーモ)前の狭い広場に面した居心地のよい旅行者用アパート。
当日は結婚式があるらしく着いた直後に、窓から一部始終を見ることができた。

花嫁の到着

翌日に大聖堂の内部を見学したのだが、「鄙には稀な」といっては失礼なほどの素晴らしい内陣であり、この町の歴史を感じさせる。

大聖堂の内部

ロッサーノは今では単なる田舎町に見えるけれど、その歴史は紀元前11世紀までさかのぼり、ギリシャ人、ローマ人などの支配を受けたのち、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のもとで大いに栄えたのだという。

町の時計塔

隅々までじっくり観光すればさまざまな文化遺産、歴史遺産に触れることができただろうが、例によって町をぶらぶらすることと夜のレストランで地元の人と交流を深めることに終始してしまったのであった。

町外れには、ビザンティン時代の古く小さな教会があった。

ビザンティン様式の教会

 

2024-05-12

800体のしゃれこうべが眠る平和な保養地オートラント

レッチェ滞在3日目は日曜日。スドゥエスト線は8割以上減便となり、路線バスはほぼ全路線運休になってしまう。
そこで昼間は市内観光にあてていたのだが、夕方の便で東海岸の保養地オートラントに行くことに決めた。

オートラント駅

オートラント支線は休日3往復。レッチェからは片道1時間半をかけて到着。15年前と駅の様子はまったく変わっていなかったが、車両は新しくなった。前回はまばらだった乗客も、そこそこ乗っていた。

オートラントの城壁

オートラントの海岸には、保養地に不釣り合いなほどの城砦がある。というのも、オートラントから対岸のバルカン半島アルバニアまでは直線距離で70kmほど。何度も外敵の進入があったため、これほど頑丈な城壁にしたのだろう。

なかでも、15世紀後半のオスマン帝国軍の襲来は、オートラントに深い爪痕を残した。オスマン帝国に抵抗を続けたアルバニアの英雄スカンデルベグ(ジェルジ・カストリオティ)が没すると、オスマン帝国のメフメト2世はバルカン半島を平定してイタリア侵略の足掛かりとして軍勢をオートラントへ差し向けたのだ。

オートラント旧市街

オートラントを支配していたナポリ王国は、フィレンツェのメディチ家との闘争にうつつを抜かして防御を怠っていたため、あっというまにオートラントは占領されてしまった。捕らえられた市民800人はイスラム教への改宗を拒否して惨殺されたという。

オートラント旧市街

もっとも、観光客で賑わう現在のオートラントからは、そんな歴史を感じとることができない。
唯一その悲劇が実感できるのは、オートラントの大聖堂(ドゥオーモ)である。

オートラント大聖堂

大聖堂へ行くと日曜日夜のミサをやっていた。教会内陣の右側にある礼拝堂に向かう。

オートラント大聖堂の礼拝堂

礼拝堂の壁面には、ガラス越しにしゃれこうべがぎっしり!
改宗を拒んでオスマン軍に殺害された市民800人の骨である。町の奪還後に遺体は収容されて祀られるようになり、のちに聖人として認定され、ここに納められたという。

オートラント大聖堂の床

前回の訪問では、まるで情報がなかったので礼拝堂を見損なっていた。教会の床に描かれたモザイクのヘタウマさ加減に気を取られてしまい、奥間で進まなかったのである。もちろん、このモザイク画も貴重なもの。聖書の各場面が描かれている。

夕暮れのオートラント

名残惜しいけれど終電を逃すわけには行かないので、食前酒のスプリッツを1杯だけ飲んでアリヴェデルチ・オートラント。

2024-04-30

尖塔そびえる静かな田舎町ソレート

ガッリーポリからレッチェへの帰りに立ち寄ったのは、知る人ぞ知る、知らない人はまったく知らないソレートの町。
目的は、プーリアゴシック様式というライモンデッロの尖塔とサント・ステファノ教会に描かれたビザンチン風のフレスコ画である。

ソレート駅

スドゥエスト鉄道のソレート駅は、レッチェとガッリーポリを結ぶ路線にある。

ソレート駅

ひなびた無人駅だが、一応立派な屋根がついている。
ここで降りたのはわれわれだけだった。

サン・ヴィート門

ソレートはごくごく典型的な南部の田舎町である。ガッリーポリとは打って変わって観光客の姿が見えない。
駅から5分ほど歩くと、ソレートの旧市街入口であるサン・ヴィート門があった。

ライモンデッロの尖塔

低層の家が並ぶ町で、ここだけが異世界のライモンデッロの尖塔。マリア・サンティッシマ・アッスンタ教会に付属した塔の形をとっているが、この周辺を治めていたソレート伯オルシーニ家のライモンデッロの野心が表現されているのだという。

ライモンデッロの尖塔

ごてごての装飾とマジョルカ焼きの屋根が見もの。残念ながら登ることはできないが、さぞかし見晴らしがいいことだろう。

マリア・サンティッシマ・アッスンタ教会

マリア・サンティッシマ・アッスンタ教会を裏側から見たところ。あとからごてごてと増築したらしき跡がうかがえる。

近所の親父たち

4時ごろになって近所の親父たちが集まってくる。
店はどこもかしこも閉まっていたが、4時をまわってようやく広場に面したバール兼ピッツェリアか開いて、水分を補給することができた。

サント・ステファノ教会

裏通りに面して見逃しそうなサント・ステファノ教会。
この小さな教会の内側に、貴重なフレスコ画があるのだが、なんと日曜だけでなく土曜日も休館とは不覚だった。再訪はあるのだろうか。

旧市街

教会のまわりを除くと、旧市街はうらぶれた南部の町そのもので、とくに見るべきものはない……と思いつつ目をこらすと何か向こうのほうに見えてきた。

フィアット500

裏通りのできすぎた構図……いや芸術的な構図でフィアット500(チンクエチェント)が駐車していたのである。

フィアット500

せっかくなのでアップも1枚。

2024-04-29

陽光ふりそそぐガッリーポリ

レッチェ滞在の2日目はガッリーポリへ。前も訪れたことがあるのだが、妻にとっては未訪の町であるし、私にとっては前回は撮った写真がイマイチだったのでリベンジも兼ねての訪問である。

ガッリーポリ駅

レッチェを10時ごろに出発。私鉄スドゥエスト鉄道(南東鉄道)で1時間半ほどでガッリーポリ着。エアコンのない旧型車は見るのはいいけど、乗るものじゃないと再認識。帰りは新型車でほっとした。

ガッリーポリ駅

ガッリーポリ駅構内。駅舎にあるホームには新型車が停車していた。車両は新しくなったが線路の状態が悪いようで、途中からは時速40kmほどのノロノロ運転が続くのは困ったものである。

ガッリーポリ旧市街

駅のある新市街から歩いて10分ほど。橋を渡った先に旧市街がある。つまり、旧市街は島になっているのだが、とくに島の名前は付いていないようだ。なんとなく、シチリアのシラクーサを思わせるのは、駅が新市街にあって、旧市街が島(シチリアではオルティージャ島)、シラクーサ駅

ガッリーポリの砂浜

旧市街北側にあるスピアッジャ・プリタというビーチ。きれいな砂浜、清涼な砂浜といった意味で、9月半ばになっていたが、週末ということもあってか海水浴客で賑わっていた。

ガッリーポリのドゥオーモ

ガッリーポリのドゥオーモ。前回見損なってた内部を見たかったのだが、なんと昼休みで閉まっていた。

ランチタイムを迎えて、旧市街のレストランは万全の観光客受け入れ態勢へ。

旧市街は500m四方くらいと小さいので、少し歩くとすぐに海が見えてくる。

砂浜と反対側の南側の海岸には、数多くのボートが停泊していた。奥に見える町並みは、橋の東側にある新市街。

海の幸の前菜

海の見えるレストランはちょっと高そうだけど、せっかくなのでおいしそうな店で軽くランチ。まず海の幸の前菜からスタートした。もちろん地元の白ワインで。

このランチに舌鼓を打って時間をとりすぎた。この日はもう1つの町に行きたかったので、日が傾かないうちにガッリーポリをあとにすることになり、またもや中途半端な滞在になってしまった。

 

2024-04-26

南のバロック都市 レッチェ旧市街

イタリア東海岸を南下してやってきたのが、かかとにあたるサレント半島の中心都市レッチェ。
1980年代に初めて訪れたときは、「こんな辺鄙な土地にこんな壮麗な町があるとは!?」と驚いた。
それもそのはずで、当時先端だったバロック様式で町づくりが行われたところだ。旧市街は1km四方ほどあり、壮麗な建築物が立ち並ぶ。

旧市街の中心にあるドゥオーモ(大聖堂)広場。
不思議なことに、この広場への入口は1カ所しかない。つまり、袋小路になっているという珍しい広場である。

ドゥオーモ広場

 ここは、朝、昼、晩、いつ見ても美しい。大聖堂は、正面(ファサード)が2つある(?)不思議な教会だ。
レッチェを訪れたのは3度目だが、ようやく修復の終わった姿を見ることができた。
もっとも、今回も塔の先端だけは修復中だった。

ドゥオーモ広場

塔の上にはエレベーターで登ることができる。意外に空いていたのでスムーズにたどりつくことができた。

ドゥオーモ広場

高所恐怖症の人はかなり恐いのではと思う。

サンタクローチェ教会

 これは、レッチェバロック建築の粋といってよいサンタクローチェ教会。正面にはごてごてした装飾が、これでもかと施されている。

サンタクローチェ教会

夜のサンタクローチェ教会界隈。コロナ禍以後は、密を避けてテラス席で食事する習慣がイタリア全土で普及したとのこと。

レッチェ旧市街の夜

 夜の裏通りはレストランのテラス席が並び、観光客で賑わいます

レッチェ旧市街

 観光ルートから外れた裏通りで見かけた素敵な中庭

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サンタ・キアラ教会。正面(ファサード)に多用されている柱は、シチリアと共通する南イタリアのバロック教会の特徴。南イタリアを何度も襲った地震対策として、この柱によって耐震性をもたせているとのことだ。

2024-02-26

光に満ちた海辺の町ポリニャーノ・ア・マーレ

バーリ中央駅からイタリア鉄道で向かったのは、バーリから南東へ30kmあまりにあるポリニャーノ・ア・マーレ(Polignano a Mare)。
海岸に面した保養地で、1950年代末に「ボラーレ」 を全世界にヒットさせたドメニコ・モドゥーニョの生まれた町でもある。 

ポリニャーノ・ア・マーレの海岸

ポリニャーノ・ア・マーレの中心部へは駅から徒歩で15分ほど。海に突き出した旧市街にある旅行者用アパートに宿をとった。
その宿からすぐのところに、絶景のビューポイントがあった。

ポリニャーノ・ア・マーレの海岸

ポリニャーノ・ア・マーレといえば、この風景である。緑色の海と2つの岬にはさまれた狭い砂浜。
9月半ばとはいえ昼間は33度に達する暑さのなか、日中は海水浴客であふれていた。

ドメニコ・モドゥーニョの銅像

その一方の岬の突端近くに立つドメニコ・モドゥーニョの銅像。彼が作曲して歌った「ヴォラーレ」は、1958年のサンレモ音楽祭の優勝曲となり全世界で大ヒット。アメリカの第1回グラミー賞も受賞した。ヴォラーレ以外にも、「チャオ・チャオ・バンビーナ」「Dio come ti amo(愛は限りなく)」など、数多くのヒット曲があり、のちにはイタリアの国会議員も務めた地元の英雄である。

海沿いに立つ銅像の前では、観光客が銅像と同じ格好で記念写真を撮影。ここにくると、誰もが笑顔になるのがいい。
われわれも撮ってもらった。ちなみに、原題の「Nel ble dipinto di blu」は、「青(い空)の中で青く染まって」というような意味なので、この日の天気はぴったり。

ポリニャーノ・ア・マーレの海岸

ドメニコ・モドゥーニョの銅像がある岬の先にまわって、反対側の岬をまたパチリ。いくら撮ってもきりがない。
宿は、この写真の中央やや左あたりにあり、屋上からは海が見えた。

旧市街

プーリア名物のパニーノは「プッチャ(Puccia)」。複数形はプッチェで、ここのようにプッチャを売る店が「プッチェリーア」。ピッツァのような生地のパンで、店によっていろいろなものが練り込まれているという。
看板横に飾られているのはタコ! 南イタリアやギリシャでは、日本と同じくタコを食べるのだ。
もちろん、タコのプッチャもあった。

旧市街

狭い旧市街はどこも観光客で大混雑。海が見える路地は人気が高い。

夕暮れの海岸

夕食前の散歩。海水浴客がいなくなった砂浜に降りてみた。

夜の海岸

夕食を食べたあと、宿のそばからまたパチリ。本当にいくら撮ってもきりがない。

2024-02-23

明るい観光地となったバーリ旧市街

今回、バーリはちょっと下車をするだけ。これまでも何回か泊まったことがあるので、宿泊地は別の町にした。

バーリを紹介するときのお決まりのフレーズは、「昔の旧市街は治安が悪かったけれど、今はすっかりきれいになって観光客で賑わっている」というもの。アフターコロナで、この町もアルプスの北側から来たと思われるヨーロッパ人の観光客が闊歩していた。

バーリ旧市街

バーリ旧市街の入口の一つ。アーチ型の入口の向こうにこぢんまりとした美しい旧市街が広がる。

サンニコラ教会

旧市街の北側の海岸近くには、バーリの守護聖人である聖ニコラ(サンニコラ)を祀った聖ニコラ教会が建っている。

サンニコラ教会

聖ニコラ教会の地下には、聖ニコラの聖遺物が収められている。聖ニコラは3~4世紀の神学者で、ラテン語にすると聖ニコラウス。サンタクロースのモデルになった人物でもある。
カメラを構えていたら、この子にじっと見つめられてしまった。

旧市街のフィアット500

聖ニコラ教会の横にあるサングレゴリオ教会は、バーリでも古い教会とのこと。シンプルな幾何学的な造型が美しい。

フィアット500

バーリはナポリ以南のイタリア本土では最大の都市だけど、旧市街はせいぜい500m四方の大きさ。散歩にはちょうどいい。

上の写真は、旧市街を歩いていて出会った旧型のフィアット500(チンクエチェント)。まだまだ南イタリアではよく見かける。

バーリ大聖堂

これがバーリ旧市街の中心に建つ大聖堂(ドゥオーモ)

バーリ大聖堂

バーリの大聖堂は見る角度によって、さまざまな表情を見せる。これは裏側から撮ったもの。

バーリ旧市街

バーリ旧市街の西側にある広場。旧市街には特別の許可がないと車が入れないので、この手前の駐車場には数多くの車が停まっている。
写真中央のアーチ型の入口の向こうが旧市街だ。

2024-02-13

明るく近代的に変身したバーリ駅

ルチェーラを朝に出て、列車でバーリ中央駅へ。バーリはプーリア州の州都で、ナポリ以南の本土では最大の町だ。
フォッジャから乗った列車は、この写真の電車ETR104、愛称「ポップ」(POP)である。

ETR104' POP

「ポップ」は、2010年代の終わりに登場したアルストム社製の3車体または4車体の連接車で、地方都市の近郊列車に使用されている。
同時代には、「ロック」も製造されて大都市近郊の幹線の普通列車に使われている。そちらは、日立製作所のグループ会社であるイタリア・日立レール社の車両だ。

ETR104' POP

カラーリングは、最近のイタリア国鉄の標準的なもの。正面のデザインはごついが、この色の使い方はいかにもイタリアだ。

バーリ中央駅

バーリ中央駅は、すっかりきれいになっていてびっくり。途中には、こんな吹き抜けもある。
以前は古めかしくて薄暗い駅だったが、明るく居心地のいい駅になった。

バーリ中央駅

バーリ中央駅からは、イタリア鉄道のほかにイタリア半島のかかとに向けて路線網を持つ南東鉄道(スドゥ・エスト鉄道)も走っている。
世界遺産の町アルベロベッロに向かう鉄道として観光客にもおなじみの路線だ。
以前は、イタリア国鉄お下がりの古いディーゼルカーやディーゼル機関車ばかりだったが、現在はイタリア鉄道の持ち株会社FSの傘下に入って体質改善を図り、何年か前にターラントまでの区間が電化された。このニュースには、私を含めて昔のこの鉄道を知る人びとは驚かされた。

近くまで撮りにいく余裕がなかったが、駅舎のそばから南東鉄道の車両を見たのが上の写真。車両は、ポーランド・ネワグ社製の最新型電車ETR322だ。3車体の連接車である。

メトロ・バーリ駅

南東鉄道のほかに、バーリからは内陸のマテーラ方面に向かうアップロ・ルカーネ鉄道、そしてバーリ空港やプーリア州北部に向かう北バーリ鉄道(トランヴィアーリア鉄道)も走っている。
この日、バーリ空港に到着するという妻の甥を迎えに、はじめて北バーリ鉄道に乗ることになった。

メトロ・バーリ駅

昔は1日に何本もないバスが走るだけの不便な空港だったが、今ではバーリ駅前広場の半地下からこんな電車が走っている。
もっとも、列車の運転間隔は約40分おきで、駅に着いたときは前の電車の発車直後。うんざりしながら発車を待つことになった。

 

2024-02-09

ルチェーラの夕べ

宿でひと休みして大聖堂周辺をぶらぶらしたあと、日が暮れないうちにと向かったのは町はずれの城砦だ。下の動画がそれである。ガイドブックには17時までと書いてあったが、9月中旬だったためか18時までオープンしているとのことで運よく入ることができた。

フェデリーコ2世は、シチリアて反乱を起こしたイスラム教徒をここに住まわせて自治権を与えたという。住民たちはその温情に応えて、彼に心から感謝して、いざ戦いがあると惜しみなく力を発揮したとのことだ。

フェデリーコ2世の印象的なエピソードといえば、十字軍遠征を求める教皇との軋轢である。そんなことに興味のない彼は、さんざんはぐらかしていたのだが、破門をちらつかされて、とうとうエルサレムに向かって進軍することになる。
ところが、現地では戦うことなくイスラム教徒の君主アル・カーミルと意気投合。厚い友情を結んで、キリスト教徒とイスラム教徒の共存を実現する。

そして、キリスト教徒が安全にエルサレムに巡礼できるよう、話し合いをつけたのである。12、13世紀の人とは思えない、どこまでも破天荒で合理的な人だ。ところが教皇は、「イスラム教徒と戦わないとは何事か」と激怒して彼を破門してしまったのである。

夜の大聖堂前広場

さて、のんびりと町なかをぶらぶらしていたら、いつのまにかとっぷりと日が暮れた。昼間はまだ夏の暑さが残る時期だったので、夜になってようやく気温が下がると、中心部に人が増えはじめた。

8時を過ぎたところで、私たちは宿のマダムにすすめられたレストランに向かった。こんな田舎町に? と思うような創作的な料理が出てくる素敵なレストランでびっくり。

夜の大聖堂前広場

それにしても、宿のマダムもレストランのおやじも、私がフェデリーコ2世という名前を口にしたとたん、雄弁にその偉業をたたえはじめたのには驚いた。それだけ、この町では今も尊敬して親しまれているだろう。

路地裏のネコ

ネコちゃんも涼しい石畳で休憩中。

宿の朝食

ルチェーラの宿は旅行者用アパートではなくB&Bなので朝食が出る。
歴史がありそうな立派な建物だけあって、昔は居間だっただろう朝食部屋は、赤を基調にしたゴージャスな雰囲気。正直なところ客室はだいぶくたびれた感じだったが、この部屋は別格だった。

野菜を売る人びと

駅へ向かう路線バスの時刻と停留所を教えてもらい、スーツケースを引っ張って石畳を歩いていくと、あちこちで即席の露店が出ていた。
これは、色鮮やかな野菜売りのご夫婦である。

バスは町のあちこちを遠回りしていくので、1時間おきに発車するガルガノ鉄道に間に合うのか、心中穏やかではなかったが、そこはきちんと接続していることに感心した。
発車の5~7分ほど前には、私たちのバスを含めて、町の各方面からやってきた4台の小型バスが駅前に揃った。

より以前の記事一覧

著書

  • ローカル鉄道と路線バスでめぐる
    果てしなきイタリア旅 (草思社)
  • 辞書には載っていない⁉ 日本語[ペンネーム](青春出版社)
  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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