カテゴリー「沖縄あちらこちら」の45件の記事

2017-03-07

多良間島から豚も船に乗る

宮古島から多良間島まで、行きは飛行機(プロペラ機)に乗ったので、帰りはフェリーにしようと思っていた。
フェリー「たらまゆう」は日曜を除いて、毎日1往復しているが、年に7カ月ほどの19日には牛のセリがあるために、多良間島止まりの片道運航。翌20日は宮古島止まりになる。
牛の積み込みと積み下ろしに時間がかかるからなのだろう。

宮古島と多良間島を結ぶフェリー「たらまゆう」

帰りは19日の予定だったが、その7月は牛のセリがない月なので、平常運航であることを多良間海運のホームページで確認しておいた。
ところが……である。

前の週にドックで整備されて出てきたはずの船に不具合があったとのことで、なんと19日からしばらく運休ということに。
これにはさすがにあせったが、飛行機の空席があって安堵した。

積み込みを待つ豚2頭

この写真は、ぞの前日の18日、再ドック入り直前の運航。「徐行」して宮古島に向かうという。
知人がこれに乗って帰るというので、例の村営バスで港まで見送りに行った。

すると、牛の積み込みこそなかったものの、その代わりに港で見つけたのが檻に入った2頭の豚。
このあとの我が身の運命も知らずに、フガフガと音をたてながら無心に餌をむさぼり食っていた。

いよいよ豚の積み込み

興奮させるといけないので、遠巻きに見守っていた私である。
出航時刻が近づくと、フォークリフトが檻ごと豚を持ち上げて、船尾から船に積み込んでいった。

多良間空港のヘミングウェイ氏

さて、19日の午前中、再び村営バスで空港に。
それにしても、飛行機の定員は19名である。空席があったからよかったものの、なかったからどうなったのか。
……と思ったが、勤め人の妻はいざ知らず、フリーランスの私はとくに問題がないことに気づいたのであった。

狭い空港では時間を持て余すかと思ったが、空港の片隅にある喫茶店でマスターとあれこれを話しているうちに、いつしか時間が過ぎていった。
愛想のいいマスターは、ひげの様子がちょっとヘミングウエイに似た、なかなか魅力的な中年男性である。
多良間のことばについて、いろいろ質問をしたが、今となってはわからないことも多いようである。

伊良部島上空

帰りも宮古島まで20分ほど。怖がるまもなく着いてしまった。
本来ならば、ボンバルディアのプロペラ機、村営のミニバス、フェリー「たらまゆう」という、多良間島の3つの公共交通を制覇するはずだっが、前述のようにフェリーに乗り損ねたのは残念である。
いつか再挑戦をしなくては。

2017-03-03

多良間島の集落をぶらぶら散歩

夏の思い出、多良間島の続きです。
村の周囲に点在する史跡をめぐったのち、集落に突入。

おしゃれなおばちゃん

上の写真は中心部あたりで見かけたおばちゃん。
帽子(?)がおしゃれだ。

比嘉おかず店

これもまた中心部近くの「比嘉おかず店」。
沖縄の食堂では、よく「おかず」という謎のメニューを見かけることがある。
野菜とポークの炒めものをベースにした一皿で、ときに目玉焼きが乗っていたりする。
で、「おかず店」というのは弁当屋のような存在……であるらしい。
この店は覗いていないのでよくわからないけれど。
この小さな島で、どれだけ弁当屋の需要があるのかは不明である。

多良間シャンゼリゼ通り

多良間島の集落の中心部がここ。
私たちは多良間シャンゼリゼと呼んでいた。
手前はコープ多良間店、向かいは中央スーパーである。都会ならともかく、このような小さな島で、似たような業態の店が向かい合ってやっていけるのだろうか、ひと事ながら心配になる。
正面には池城商店という看板が見えるが、どうも営業していないようだ。

多良間島唯一の信号

沖縄の離島に来ると、どんなに小さな島でも、たいてい必ず1カ所は信号が設けられている。
「子どもが都会に出たときに、戸惑わないために」という教育的配慮なのだそうだ。
波照間島にも与那国島にも伊是名島にもあったっけ。
ここ多良間島にも、石嶺商店の前にあった。
たまに通る車は、律儀に信号を守っていたけれど、自転車のおばさんや歩行者はあまり気にしている風はなかった。

多良間島の標語 その1

多良間島の村内では、あちこちに標語を書いた看板が立っていた。
対人口比標語看板率は、日本有数かもしれない。
そのうちから、2つほどをピックアップ。

「家庭学習 上手にかけば せいせきアップ」
あまりにもストレートで潔い内容に圧倒される。多良間小学校3年生の作のようである。
7・7・7という、意表をつきながらもまとまりのあるリズムにも脱帽した。

多良間島の標語 その2

その2
「声かけよう うちの子 よその子 見かけた子」
こちらは、6・4・4・5である。多良間村学力向上対策委員会の作。
本土の7・5調でもなく、琉歌の8・8・8・6でもないところが新鮮。
うまくまとまっているが、さっきの小学校3年生の作のほうが素朴な力強さがある。
たとえてみれば、「万葉集」と「古今和歌集」の違いかな。

それにしても、これは、子どもを見たら誰でも声をかけろということか。
「声かけよう 見かけた子」で済む内容であるが、それじゃ標語にならないね。
うちの子に声をかけることを、わざわざ言わなくてもいいと思うが、まあそれは語調を整えるために必要なんだろう。

夏休みの小学生

ランニング姿で捕虫網を持って歩いている小学生というのは、もはや離島に生息する昆虫以上に絶滅危惧種かもしれない。
実は、妻が世話になっているダイビングショップの息子の友だちの一人である。
ところで、多良間島では地域のみんなで子どもを育てるという風習が残っていて、近所の子どもを預かったり、いつのまにかよその子が泊まりに来ていたりするということが、よくあるのだそうだ。
どこかの大学の社会学だか文化人類学だかの先生が研究に来たという話を聞いた。

アイス屋

そして、その近所には不思議な「アイス屋」の看板が。色が落ちた部分もよく見ると「島アイス」と書かれている。
はたして、この家に入っていけば買えるのか。
結局、確かめなかった。
(つづく)

2016-08-24

多良間島でぶらぶら史跡めぐり

翌7月18日は、妻とその友人がダイビングに行くのを見送ったのち、多良間島の散歩に出かけた。
小さく見えても直径5kmほどの島なので、歩いて全島をめぐるのは大変。
でも、集落は島の北部に集中しているので、この範囲ならば午前中だけでもまわることは可能だともくろんだ。

多良間島の道

まず向かったのは、集落の北側から。
家並みを見るのは後回しにして、周辺にある遺跡、史跡をめぐることにした。

泊御嶽入口

これは泊御嶽の入口。御嶽(うたき)というのは、沖縄各島にある聖域のこと。
この入口には鳥居が設けられているが、これは明治以降に立てられたものであって、沖縄本来のものではない。
付近は、うっそうとした林に覆われていて、珍しい散歩者を直射日光から守ってくれる。

泊御嶽

なかに入ると、祭祀を執り行うための、こうした建物がある。
沖縄をめぐっていると、意外に新しく建て直されたものが多く、ここもまたコンクリート製でアルミサッシがついている。今一つ神秘さに欠けるようにも思えるが、台風が多い土地柄、しかたのないことなのだろうと、サッシがついた理由は察しがついた。
ときに、茅葺きや木造の昔ながらのものも見かけることがあるが、たいていそういうのは、あえて保存をしているケースが多いようで、やはり実用に使われるのは、ほとんどが新しいものである。

多良間方言の表記

史跡めぐりで、個人的に興味を引かれたのが、看板の表記である。
宮古諸島では、「人」が「ぴとぅ」というように、おそらく古代の日本語が残っていると言われている。
とくに、半濁音が多いのが特徴だ。沖縄本島で使われる「世果報」(ゆがふ)は、ここでは「ゆがぷ」なのだそうな。
畑が「ぱり」なのは、土が「張る」>「張り」から来ているのではないかと思う。
ちなみに、やまとことばの「春」は、暖かくなって土が「張る」状態に由来しているという説が有力だと聞いている。

前置きが長くなったが、この看板には、「ム゜」「イ゜」「リ゜」という文字が見える。ほかに、宮古島には「ス゜」もあったっけ。半濁点がついているけれども、「パピプ……」のような半濁音というわけではなく、「それに近いけれども、ちょっと発音が違う」くらいの表記のようだ。
「イ゜」は、「イ」の口の形で、舌と上顎の間隔を狭めて出す「ズ」に近い音のはず。「ス゜」は、「ツ」と「ス」の間のようなくぐもった音だった。、「ム゜」「リ゜」については未確認である。

もっとも、この表記は確立されたものではないようで、この看板にある「ウガム゜」(「拝み」=「拝所」のことだろう)を「うがん」と記したところもあった。
(となると、「ム゜」は口をしっかり閉じて母音なしで出す語尾のm音か?)
(で、多良間方言には「r」音以外に「l」音が現れるというから、「リ゜」は「l」かも)

里子之墓

さてこれは、18世紀の和文学者であり劇(組踊)作家である平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)の子孫の墓。
今でいえば、革命的文化人だったのだろう。琉球王朝に批判的だった彼は、とうとう王朝に処刑されてしまう。
その事件の顛末は、「落書事件」として知られるのみで、真相はすべて抹殺されてしまったという。

多良間島に流刑となった息子とその子孫の墓がここで、のちに朝敏の遺骨もここに収められた……とここに書いてあった。
平敷屋朝敏の名前は、沖縄の歴史や文学をほんのちょっとかじっただけでも知っているほどの有名人なのだが、そんな人の墓が、首里からはるか離れた多良間島の、しかも草が繁った脇道──というより草むらの中にあるとは驚いた。

多良間神社

能書きが続いたので、あとは簡単に。
これは多良間神社の拝殿。多良間神社は、島の興隆の礎を築いた16世紀の豪族、土原豊見親(んたばる・ とぅゆみゃ)の偉業をたたえて、明治になってからつくられたもの。
神社ではあるが、建物の内外とも、かなり沖縄化されている。

多良間島

このほかにも山ほど遺跡や史跡の写真を撮ったのだが、このくらいにしておこう。
史跡めぐりを終え、集落めぐりの前に、やってきたのが八重山遠見台。
標高33mの高台になっていて、石垣島などの八重山諸島を遠望できることから、その名がついている。
多良間島を訪れる前は、津波に襲われたらどうするんだと心配をしていたが、なんとかここまでたどり着けば、超大津波でなければ助かるかもしれない。

現在はその頂上に灯台のような展望台ができていたので、蒸し暑い中をひいこら階段を上り、周囲を見渡した。
それが最後の写真である。
ここまで登ると、さすがに風が吹き抜けて、ほんの少しだけ涼しさを感じたのであった。

2016-08-18

多良間島「海の日ハーリー大会」に遭遇

地図で見るとわかるように、多良間島はまんまるに近い島で、直径は5~6km。空港は島の南西部にあるが、集落は北部にあり、フェリーが発着する前泊港も集落の近くにある。

空港から集落までは400円。村営バスの運転手に行き先を告げると、すぐ前まで運んでくれる。結局、このときの乗客は私一人だった。

前泊港前の横断幕

実は、ダイビングをしている妻が、やはりダイバーの知人と2日前から島に来ていた。
泊まっていたのは、2003年にできた村営の「夢パティオ たらま」という、ちょっと照れくさい名称の宿である。

空港に着いた旨のメッセージを妻に送ると、すでにこの日のダイビングを終えていたらしく、「ハーリー大会をやっているから、ぜひ港に来るように」という返事が届いた。

港に来いと言われても、右も左もわからなくて困ったが、スマホのGoogleマップを参考にしてたどりついた。
いやはや、20年前だったら、マップどころかメッセージも受け取れず携帯電話もなかったから、どうなっていたんだろう。

前泊港

宿から港までは歩いて10分ほど。海が見えてくると、遠くから歓声が断続的に聞こえてきた。
ハーリー船競走の真っ最中のようである。

ハーリー(爬龍)とは、中国から伝わった手漕ぎの高速船のことで、名前のように船首と船尾に龍の模様が彫られている。長崎のペーロンと同類なんだろう。

ハーリー大会

港には、各集落の名前入りのテントがいくつも立っていて、そこで自分たちのチームを応援しているらしい。
妻も、ちゃっかりそのテントの一つに入り込み、ベンチに腰をかけていた。

船は2艘だけで、那覇のハーリー大会にくらべると、実にのどかである。
集落対抗のほか、中学生チーム、たまたま入港していた海上保安庁のチーム、役場チームなどが交代で、沖にある杭まで行って海岸に戻るコースを懸命に漕いでいた。

ハーリー大会

妻と知人が世話になっているダイビングショップチームも登場したが、沖に出る前に、まっすぐに進むことができず、くるくると3回転したのち、あえなく地元の人に引っ張られて海岸に戻ってきて、会場は爆笑。

それにしても、島民のほとんどが集まったんじゃないかと思うほどの賑わいである。
2泊3日で、こんなに人間を一度に見たのは、これが最初で最後であった。
もっとも、あとで調べたら島の人口は1200人ほどなので、思ったより多い。暑くて寝ていた人も多かったのだろう。

即席売店

最後の写真は、海岸の入口に設けられた即席の売店。妻は、そこで多良間名物の「ぱなぱんぴん」を購入。
「ぱな」は花、「ぱんぴん」は揚げ菓子のことで、ドイツのプレッツェルを小さくしたような菓子だ。
子どものおやつにも、ビールのつまみにもいい。
「つくる人によって、味や舌触りが違うんだよねぇ」
昨年に続く2度目の来島となる妻は、偉そうな口ぶりでそう言っていた。

2016-08-17

沖縄 多良間島へ

旧盆も過ぎて今さらだが、7月なかばに沖縄の多良間島へ行ったときのことなどを書いてみたいと思う。

出発は7月17日の日曜日。羽田空港から那覇空港、宮古空港と2回乗り換えて、多良間島へ。
多良間島は宮古島と石垣島の中間に位置する島で、古くから宮古島とのつながりが強い。
かつては石垣島からも飛行機が飛んでいたが、今は宮古島から飛行機か船で行くしかない。

宮古空港

宮古空港からはRAC(琉球エアコミューター)のプロペラ機。39人乗りのボンバルディア社製だ。
以前はトラブルが頻出した同社製のプロペラ機だったが、最近では幸いなことにあまり不調を聞かない。

ちょっとドキドキはしたが、乗ったらもうどうしようもないので、運を天に任せるしかない。
十数人を乗せた飛行機は、ブルンブルンとプロペラを回しはじめて、めでたく離陸。
恐いと思うひまもなく、多良間空港まで20分で着いてしまった。
眺めもよかったし、こうなるともう少し乗っておきたかったと勝手なことを思うのであった。

宮古空港

ところで、RACやJTAの飛行機では、ちょっと楽しい到着の案内放送がある。
那覇から宮古に着いたときに知ったのだが、「到着地の方言で案内をします」というのだ。
そして、「たんでぃがー、たんでぃー」で始まったからビックリした。
これは、宮古方言の「ありがとうございます」のこと。那覇方言だと「にふぇーでーびる」だから、まったく違う。

「えっ、まさか、ずっと宮古方言で案内をするの?」と、さすがの私もあせった。
那覇方言ならば、何を言っているかくらい、ある程度見当はつくが、宮古方言になるとチンプンカンプンである。
……と思ったら、方言は最初の「ありがとう」でおしまい。
あとは標準語の案内になってしまった。
「なーんだ」と、ほっとしながらも少しがっかり。

機上から

で、多良間島到着のときはどうだったかというと、やっぱり多良間方言でやってくれた。
「すーでぃが ぷ」
東京・亀戸にある宮古島料理の店「ラッキー」のおばあに聞いた通りであった。
この最後の「ぷ」がユニークである。
多良間のことばを素でしゃべると、那覇の人にはもちろん、宮古の人にも通じないという。

ちなみに、下から2枚目の写真に、「かりゆす 多良間空港」という掲示が見えるだろう。
これは、那覇方言ならば「かりゆし」となるところだ。
ちょっとナマっていてかわいい。

多良間空港ターミナル

さて、多良間空港は2003年に現在の場所に移転したとかで、小さいけれどもこぎれいなターミナルが待っていた。
もちろん、飛行機からターミナルへは徒歩移動である。

多良間空港

降りたはいいが、那覇で預けた荷物を受け取らなくてはならない。
どこの空港でも同じなのだが、「ここをいったん外に出たら、戻ることはできません」という掲示があるので、私は荷物受け取りカウンターの前でしばらく待たなくてはならない。
ほかの乗客はというと、一人残らず素通りをして出て行ってしまった。
「ああ、地元の人はたいした荷物もないんだな」

エアコンの効いていない狭苦しい部屋にしばらく一人で残されていたものだから、心細いこと限りない。しかも、到着時間に合わせて運転されているという村営バスに置いてけぼりを食わないか、気が気じゃない。

荷物の運び出しにずいぶん時間がかかり、そろそろチビりそうになるころ、ようやくトラックが建物に横付けされて、シャッターがガラガラと音を立てて開けられた。

多良間村営バス

と、そのときである。
エアコンの利いた待合室から、ぞろぞろとさきほどの飛行機の乗客が"逆流"してきたではないか。
バカ正直に、暑くて狭いところで待っていた私が愚かだった。
あなどりがたし多良間島。私はさっそくその洗礼を受けることとなってしまった。

もっとも、村営バスはちゃんと待っていてくれた。
タクシーのないこの島で、集落まで行く唯一の交通機関である。
外に出ると、日射しは東京のそれとはケタ違いに強かった。

2015-05-31

沖縄で出会ったネコたち 2015/04

たった3泊4日の旅を、引き延ばしに引き延ばして回を重ねてきた沖縄の旅も最終回。
ごく一部に期待され、しかしながら多くの方に「やっぱり」と見透かされていたであろう、ネコ写真です。

今回の旅は、真っ昼間に行動していたことが多かったので、あまりネコの姿を見ることができなかった。
沖縄のネコ全般がそうなのかどうかわからないが、警戒心はそれほどない一方で、人馴れしているというほどでもなく、なかなか距離を縮めることもできずに通り一遍の写真になってしまったのは残念である。
……と、言い訳を先にしておいて写真を4枚。

開南のネコ

まずは、那覇の下町ともいえる開南の、農連市場付近で出会った礼儀正しいネコ。
三つ指をついた姿勢でファインダーに収まってくれた。
開南の再開発もこれからが本格化するところ。このネコちゃんの運命やいかに。

牧志のネコ

こちらも那覇の中心部、国際通りの裏、壺屋から牧志あたりを歩いていたときに出会ったネコ。
こんなところまで来てネコを写す観光客もいないのだろう、ちょっと警戒している表情である。

伊計島のネコ
都会から離れて、与勝諸島の一番奥、伊計島へ。
ヌンドゥンチ(祝女殿内)という聖なる場所で昼寝をしていたおネコさまである。
写真を撮る私を不思議そうに見つめていたが、これ以上近づいたら逃げて行ってしまった。

150530e
最後は、本部半島のの備瀬にいたネコ。
昼過ぎの暑い時間ではあったが、フクギの林は風通しもよく涼しい。
ネコにとっては天国のような場所に違いない。
無防備な姿で日向ぼっこ……いや日陰ぼっこをしていた。

視線がカメラに向いている写真もあるのだが、ちょっと視線をずらしたこの表情がかわいい。
よく見ると、木漏れ日がネコの足跡のよう!


2015-05-28

瓦もいろいろ、シーサーもいろいろ

屋根の上に鎮座しているシーサーは、田舎に行けば行くほど、手づくり感あふれるユニークなものが多い。
では、今回の旅で見つけた楽しいシーサーをいくつか。
よろしければ、どのシーサーがお好みか、ご遠慮なくコメントを!

浜比嘉島・比嘉

まずは、浜比嘉島の比嘉集落で見たもの。
真っ青な空に真っ白く塗ったコンクリート屋根、そこに真っ赤なシーサーが映える。
尻尾がくるりんとなっているのがかわいい。

宮城島

これは宮城島。
顔の周囲が白く塗られているのは、よだれかけみたい。
口のまわりが黒いのは、マンガに出てくる古典的なドロボーのようにも見えなくもない。
ヘタウマな顔が味を出している。

宮城島

これも宮城島のシーサー。
獅子というよりも、沖縄の森に住んでいるという精霊・キジムナーのような顔をしている。
い、いやキジムナーを見たことがあるわけじゃないんですが。
技術的にはなかなか細かいところまでよくできている。

宮城島

これもまた宮城島。
ウマいんだか、ヘタなんだか、評価が分かれるところかもしれない。
伝統的な赤瓦の家に乗っているだけあって、貫祿があるようにも見える。

国頭村・奥


ここから3つは、国頭村奥集落のシーサー。
これは確か、民宿の屋根に乗っていたもの。間延びしてユーモラスな表情がかわいい。

国頭村・奥


そして、これがビックリの巨大シーサー。私が今まで見たなかで最大のものである。
さすがに屋根の斜面に乗せることはできなかったようで、玄関上の平らな面に乗っている。ちょっぴり野卑で野性的なところがおもしろい。
台風が来たときなんか、これで大丈夫なのだろうかと、よけいな心配をしてしまう。
22年前に訪れたときの写真を見たら、このシーサーも写っていた、ということは大丈夫だったんだろう。

国頭村・奥


最後は、表情もきりりと締まったハンサムなシーサー。
緑多い奥の集落に、赤と黄の色が鮮やかだった。
ちなみに、赤と黄色といえば、沖縄の箸を思い出す。

改修工事はじまる那覇バスターミナル、そして壺川の機関車

那覇バスターミナルは、ゆいレール旭橋駅のすぐそばにある。
ここを起点として、沖縄本島各地に路線バスが出発し、構内には各社の事務室や休憩所などが設けられていたのだが、改修工事にともなって閉鎖となっていた。

那覇バスターミナル

戦前は沖縄県営鉄道の起点である那覇駅がここにあったという。
レール幅の狭い軽便規格の鉄道だが、北は嘉手納、東は与那原、南は糸満まで走っていた。
それが1945年の地上戦で破壊されてしまい、それ以来ゆいレールの開通まで沖縄には鉄道が存在しなかったのである。
(ゆいレール=モノレールが鉄道であるかどうかは議論が分かれるだろうが)

葉っぱの形をした構内には、つねにバスがぎっしりと待機して、ひっきりなしに発車していったのも、今は思い出である。
こんなことなら、もっとターミナルの写真をとっておけばよかった……というのは、いつもの後悔だ。

かろうじて、2007年に3枚ほど撮ったものの1枚が下の写真。

2007年の那覇バスターミナル

工事が終わって、どんな形になって現れるのか、楽しみではある。

最近、沖縄では「わった~バス党」(私たちバス党)という路線バス乗車促進のキャンペーンを開始した。
交通渋滞や環境問題を考えて、みんなもっとバスに乗ろうということである。あちこちでポスターも目にした。
私も微力ながら貢献したつもりでいる。
また、私が帰った直後の4月27日から、ICカード「オキカ」が各社のバスでも使用できるようになった。
今回の旅でも、運賃支払いのために、バスの所要時間がかかってしまった例を何度も目にしたが、これで少しは解決するかもしれない。旅行者にとっても多少は利用しやすくなるのではないかと思う。

壺川東公園

さて、鉄道ファンにとって、那覇で忘れてはいけない巡礼の地が、ゆいレール壺川駅から徒歩5分ほどのところにある壺川東公園である。ここは、前述した沖縄県営鉄道の那覇駅と壺川駅の中間にあたるそうで、加藤製作所製の小さなディーゼル機関車が保存されている。
じつは、この機関車は沖縄県営鉄道のものではなく、南大東島でサトウキビ運搬のために働いていたディーゼル機関車なのだ。

すでに南大東島の軌道は廃止されてしまったが、私が大学生のころはまだ走っていた。
撮影に行きたかったが、さすがに遠く、時間もカネもかかる。
それでも、サトウキビの収穫時期にはアルバイトを募集しており、島までの交通費も支給されると聞いて、本気で行こうかと考えたこともあった。
「でも、アルバイトに忙しくて写真を撮る時間はあるだろうか」なんていう悩みもあった。
今思うと、行っておけばよかったかな。

ゆいレール2005年

ところで、ゆいレールの車内放送は、各駅ごとに「安里家ユンタ」や「てぃんさぐの花」などの沖縄の歌や民謡のBGMが流れて楽しいのだが、この壺川駅は「唐船(とうしん)どぅーい」なのだ。
カチャーシーのときに必ず流れるアップテンポの民謡で、車内で「チャンチャ、チャチャチャチャ……」と鳴り出すと、どうしても体や足が動きそうになる。

ましてや、沖縄の人が耳にしたら、動かないではいられないと思って、ここを通過するたびに、地元の人らしき乗客を探してこっそり観察している。
だが、残念ながら、まだこの曲で体を動かしている人を見たことがない。ましてや、車内で踊りだす人もいない。

──やっぱり、電子音じゃなくて三線じゃないといけないのかな。
そう思うのだが、本当に踊りだす人が出たらいけないから、あえて電子音なのかもしれない。
もしかすると、開通直後は、思わず体を動かす人が続出したのではないかと、私は密かに思っているのである。
(ゆいレールの写真は2005年に撮影したもの)

2015-05-26

海洋博公園内を素通りして渡久地へ

汗をかきながら備瀬から10分ほど歩くと、右手に大きな駐車場が見えてきた。海洋博公園だ。
ここまでの歩道ではほとんど人影がなかったのだが、公園内を覗くと人でごった返しているではないか。
その対比が、どうにも不可思議で非現実的に思えたのであった。

渡久地港

私の目的地は道をさらに直進して、本部(もとぶ)町の中心地である。だが、そこまではまだ5kmあまり残っているから、歩いて1時間。一方、ここで次のバスまで待っても、やはり1時間以上ある。
さて、どうしようかと公園の中央ゲートを見ると、「本日は入場無料(美ら海水族館を除く)」という看板が出ているではないか。
時間は13時少し前だったか。「せっかくだから、バスが来るまで園内で涼んでいくか」と思って、門をくぐることにした。

渡久地港

門の中は、まったくの別世界であった。
通勤時間帯の新宿駅とはいわないが、少なくとも駒込駅よりは多い人びとが、あっちへ行ったりこっちへ来たり。
イベント広場周辺ではエイサーをアレンジしたような太鼓と踊りの音楽が響き、そばでは甲高い声で中国語を話す団体が大喜びで写真を撮っていた。

そんな様子を見ているうちに、素晴らしいアイデアがひらめいた。
──そうだ、ここには安くていい移動手段があるじゃないか!
地図を見ると、海洋博公園の敷地はとてつもなく広いのだが、園内を巡回する電気バスに乗れば、2kmほど離れた南ゲートまで100円で行けるのだ。
そして、南ゲートまで行けば、目的地までの半分近くまで達したことになる。

渡久地

私は、お祭り広場のイベントを横目に見て、美ら海水族館前の混雑を尻目に、家族連れにまじって小さな巡回バスの客になり、植物園もやり過ごして南ゲートから徒歩で出場したのであった。

このときの時刻は14時近く。結局、南ゲート近くの食堂で沖縄そばを食べることにしたので、残りの3kmは歩かずにバスを待つことにしたのだが、久しぶりの見事な頭の回転に自画自賛、自己満足にひたることができた。

渡久地

さて、前置きが長くなったが、今回の写真は本部町の中心地である渡久地(とぐち)である。
渡久地は小さな湾のようになっていて、漁港もあれば水納島へ行く高速船も出ている。

町はずれの本部港からは鹿児島、奄美大島、那覇、伊江島などに向かう船が出ているが、こちらは渡久地から2kmほど南に位置している。

渡久地

渡久地の湾の奥まったところには、無数の鯉のぼりならぬカツオのぼりが翻っていた。
トップの写真である。
聞けば、5月の連休には「カツオのぼり祭り」というのがあるとのこと。
ちょうど、そのころにカツオの初水揚げなのだそうで、観光客もずいぶんと訪れるらしい。

渡久地

しかし、この日は週末なのに町のなかに観光客らしき人はいなかった。
でも、中心部の飲み屋や商店を見ると、かつてはずいぶん栄えたのだろう。いや、まだそこそこ客がいるから店は営業を続けているに違いない。

そもそもなぜ、私が渡久地にやってきたのかというと、以前、母、弟、妻、義母を引き連れて美ら海水族館を訪れたときに、弟の運転するレンタカーでここを通過したからである。
その渋い町並みに、私はいたく心を動かされた。だが、さすがに「ここで降りて町並みを見学しよう」とは言えなかった。
せめて、表通りでアイスクリームでも売っている店が1軒でもあれば、降りる言い訳ができたかもしれないが。

そのときに、再訪を誓ったのである。
10年近くたって、ずいぶん変わってしまったのではないかと心配していたが、少なくとも雰囲気はまったく変わりがなかった。
もっとも、それが地元の人たちにとって、よいことなのかどうなのかはわからない。

渡久地

町をぶらぶらしているうちに、日はどんどんと傾いていった。
私は、渡久地15時39発のバスに乗り、名護のバスターミナルに戻っていったのである。

これで、3泊4日の沖縄旅行も大団円となるのだが、あと3回ほど、おまけの記事に付き合っていただきたい。

2015-05-24

備瀬のフクギ林でのんびり

今帰仁の仲宗根の雰囲気にひたりすぎ、あまりにものんびりしすぎてしまった。
「そろそろ次のバスの時間かな」と思って、表通りに向かって歩きはじめたとたん、狭い道の向こう、20mほど先をバスが左から右へと通りすぎていくのが見えた。
そこで走り出したけれども、遅すぎた。

備瀬のフクギ林

行き当たりばったりの旅が好きな私だが、さすがにこれにはがっくりした。
なにしろ、この日は旅の最終日だから、ある程度計画的に動かなくてはならなかったのだ。しかも、土曜日だったから、バスの本数が少ない。

それにしても、前のバスから30分しか間がなくて、次のバスまで1時間半も空いているとは、どういうことなのか。不条理というほかない。
とはいえ、文句を言ってもしかたがない。今帰仁村でさらに昼の1時間半ほどのんびりしようかと思ったが、食事をする店も見あたらないし、ましてや喫茶店もなさそうである。

──まずは、スーパーで頭と体を冷やすか。
国頭村とは違って、そこそこ大きなスーパーがあった。そこに入ろうと思ったところで、店の前にあるタクシー会社が目に入った。

備瀬

次の目的地である備瀬までは、10km弱といったところか。
「ちょっと出費が痛いけれどタクシーを使うか。それともやせ我慢をして、ここで1時間半過ごすか?」
30秒ほど迷った末、清水の舞台……いや今帰仁城の城砦から飛び降りたつもりで、タクシーに乗ることにした。

乗ってしまえば楽チンである。
エアコンはついているし、40代半ばから後半と見える運転手のお兄ちゃんと楽しく会話もできて、しかも2000円台で済んだ。東京のイメージで、4000円近くかかるんじゃないかと覚悟していたものだから、これは望外の喜びであった。

備瀬

「きょうみたいな暑い日は、備瀬はいいよ。フクギが茂っているから日が当たらないしね」
運転手氏の言ったことは確かだった。

フクギ(福木)というのは、沖縄や台湾でよく見かける葉の厚い木である。
ここ備瀬の集落は、村にフクギを植えてあるというよりも、フクギ林のなかに村があるといったほうが近いだろう。
密生したフクギのおかげで、厳しい日光の直射を避けることができる。しかも、海から吹き寄せる風はよく通る。まさに、この土地ならではの工夫といってよい。
なぜ、ほかの村ではこうしなかったのかと思うほどだ。

備瀬

美ら海水族館のある海洋博公園からも近く、ガイドブックには必ず載っている場所なのだが、観光客でごった返しているというほどではない。
集落は意外と広いので、入口から奥に行くにしたがって人影はまばらになっていく。

落ち葉を掃除している地元の奥さんがいた。
目が合うと、「掃除をするのも大変なのよ~」と笑っていた。
確かに、ずいぶん道がきれいだなと思っていたのだが、その陰にはこんな苦労があるのだ。
集落の入場料があるわけでもないのに、観光客としては頭が下がる思いである。

備瀬から見る伊江島

フクギ林の向こうに海が見えたので、そのまま海岸に向かってみると、タッチュー(城山)に特徴のある伊江島が見えてきた。
でも、日なたは暑いので、すぐにフクギ林に引っ込んでしまう軟弱な私であった。

──さて、そろそろ次のバスが来るころかな。
そう思ってバス停にやってくると、なぜか次のバスは1時間以上も後。
前のバスからは2時間40分もの間隔があった。
──おかしいなあ、今帰仁のバス停の時刻表だと前のバスの1時間半後にやってくるはずなんだが……。

理由はあとでわかったのだが、乗ろうと思ったバスはこの備瀬を経由しないのであった。備瀬や海洋博公園といった岬の端を通らずに、内陸の謝花という集落を通る。

ということは、今帰仁で1時間半待っていたら、そのバスは備瀬に来なかったのである。結果的にタクシーに乗ったのは大正解であった。
もっとも、謝花経由の便に乗ったら乗っていたで、何かおもしろい出来事があったかもしれないけどね。

いずれにしても、さらに1時間以上、今帰仁よりも何もないここで過ごすのはつらそうである。昼過ぎの刺すような日射しを脳天に受けながら、何も考えずに本部方面に向かって歩きだす私であった。

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