カテゴリー「沖縄ぶらぶら歩き」の58件の記事

2023-02-10

西表島 路線バスで村めぐり(13・終)祖納(その2)

祖納の坂道を海岸に向かって下っていくと、石垣に囲まれた沖縄風の茅葺屋根の家が!
本島の安波(あは)や与那国島で見たことはあったが、こんな大きな家は初めて!

新盛家住宅

この日の夜、宿泊地の白浜の食堂で聞いたところ、「ああ、新盛(しんもり)さんのお宅だね」と教えてくれた。
保存家屋になっており、今でも定期的に屋根を葺きかえているそうだ。

新盛家住宅

現在は誰も住んでいないようだが、掃除道具は備えられており、床もきれいに磨かれている。
それにしても、台風の猛烈な風が吹く沖縄で、茅葺き屋根の家は飛ばされなかったのだろうか。
以前、本島で年配のタクシーの運転手に聞いた話では、「大昔は台風が通りすぎると、屋根が吹き飛ばされた家がずいぶんあったよ」とのことだった。
この家は周囲にめぐらした木が防風林の役割をしてくれるのだろう。

スーパー星砂

県道(周遊道路)に出て最終バスを待つ。白浜までは歩けないこともないが、2日連続で歩き回ったのでさすがに疲れたのでバスを待つ。
バス停前には、西表島でも数少ないスーパーが建っていた。

祖納バス停

午後5時ちょっと前、1日4往復の西表交通の最終バスがやってきた。このバスの色は遠くからでも目立つからいい。

というわけで、13回にわたった「西表島 路線バスで村めぐり」はおしまい。2021年11月の記録でした。
山ほど撮った写真は、またどこかで公開したい。

2023-02-08

西表島 路線バスで村めぐり(12)祖納(その1)

干立から10分ほど歩いて、島でもっとも古いという祖納(そない)集落に到着。集落内に起伏があるのは、ほかの集落にない特徴だ。
そして、見るからに年季が入った家屋が多く、いかにも歴史を感じさせるたたずまいであった。
祖納という地名は、与那国島にもあった。語源は不詳のようだが、高台のある土地を指すという説もあるようだ。

祖納の赤瓦の家

上の写真は、昔ながらの赤瓦の家だが、白壁に赤瓦か陶器の破片らしきものを散りばめているのがおしゃれ。
外壁を塗り直すときにそのようにしたのだろうか。

坂の上の民家

長寿坂という名の坂上にある由緒ありそうなお宅。ヒンプン(家の入口の目隠し)がブロック塀なのは今どきだが、ちょっとしゃれている。
BSアンテナも設置して、過去と現在がうまく調和した民家である。

祖納の坂上から

坂道の上の四つ角で、赤子をおぶった30代くらいの西洋人男性とすれ違った。
彼は流暢に「こんにちは」というので、ここに住んでいる人なのだろう。

茅葺きの民家

坂道を下ると海が見えてきた。伝統的な石垣に囲まれているのは、なんと茅葺きの家である!

2023-02-01

西表島 路線バスで村めぐり(11)干立

西表島の海岸沿いには戦前からいくつかの集落があったが、マラリアや戦争で廃村を余儀なくされたところも多い。そんななかで、西側の干立(ほしだて)、祖納(そない)は古くから残る集落なのだそうだ。

干立バス停

干立は、島を周遊する県道を走るだけでは、フクギ(福木)の林に視線を遮られて集落の様子がうかがいしれない。
バス停の周囲には心細くなるほど何もなく、集落へは細い道を入っていく。

赤瓦の家

こんもりと繁ったフクギが南国の強い日射しをさえぎるので、ぶらぶら歩きをするにも涼やかで気持ちがいい。
ぽつりぽつりと家屋があるのだが、これは県道に近いところにあった赤瓦のお宅。

干立の海岸

こぢんまりとしたホテルやダイバー向けの宿が点在する集落をつっきると、美しい星立海岸に出た。
朝、この海岸を散歩すると、イリオモテヤマネコの足跡が見られるとか。

干立の御嶽

海に向かって建つ小さな干立御嶽。こうした聖域(御嶽)を沖縄本島の言葉ではウタキというが、八重山方言ではオンと呼ばれている。
海に面しているのは、海の彼方から神様がやってくるという意識なのだろうか。
この干立御嶽は、国指定重要無形民俗文化財「西表島の節祭」の中心となっている。

村外れにいた馬

村はずれには別の聖域があり、その登り口に馬がいた。
Googleマップによれば、「うぃぬうがん」というのだそうだ。これは沖縄本島の言葉の知識でいうと、「上の拝み(礼拝所)」ということかなと想像する。
馬はというと、私にちらりと視線を投げてよこしたものの、たいして意も介さず、黙々と草をはんでいた。

2023-01-31

西表島 路線バスで村めぐり(10)船浦

船浦は、上原から1kmほど東に位置している。小規模な集落だが漁港があり、ホテルや民宿が何軒かある。
ここから東は、ホテルやロードパークが点在しているものの、由布島に向かい合う美里までしばらく集落がない。

ぽけっとはうす

上原と船浦の中間にある喫茶店に行こうとしたのだが、残念ながら休業中。しかたがないので、船浦までそのまま歩くことにした。
これは、県道の船浦交差点にある居酒屋「ぽけっとはうす」

船浦中学校

船浦の交差点をそのまま県道の道なりに左折すると、すぐにこの竹富町立船浦中学校があった。
校内からは中学生の元気な声が聞こえてきた。

船浦中学校前

船浦中学校前から船浦交差点を望む。

畑

中学校から交差点の反対側に進むと、民家と宿が何軒かあるだけで、あとは茫漠とした畑が広がる。
西表島の内陸というとすぐにジャングルを思い浮かべるが、この周辺ではこうした風景を見ることができた。

2023-01-30

西表島 路線バスで村めぐり(9)上原

ウタラ炭坑探索を終え、バスで上原に着いたころにようやく雨があがった。
西表島北部にある上原は、石垣島と結ぶ定期船が発着する港があり、島最大の集落だ。

上原の県道沿い

最大の集落といっても、家が密集しているわけではなく、中心部も上の写真のようにまばらに家がある感じ。
上原には星野リゾートをはじめとしてホテルやゲストハウスが何軒もあるが、そのほとんどは中心地から県道を白浜に向かう途中にある。

ランチハウスたまご

まずは腹ごしらえということで、食堂を探したのだがコロナ禍にシーズンオフが重なってどこも休み。
ようやく見つけたのが港から200mほど北側の県道沿いにある「ランチハウスたまご」だった。なかなか居心地のよい店で、カレーチャーハンと八重山そばのセットも美味だった。

新八食堂

妻に勧められた新八食堂は、その週いっぱい休業とのことだった。

標語

沖縄の離島でよく見かける標語の看板。
「しゅくだいは やりたくないけど やらないと0てんとっちゃうよ」
小学1年生の作だそうである。
大丈夫、やらなくても0点になることはないよ。でも、やらないよりやったほうがいいかな。

デンサー食堂

港の入口にあるデンサー食堂も休業中。店の名前は民謡のデンサー節にちなんでいるのだろう。
デンサー節は沖縄本島の民謡として知られているが、そのオリジナルは西表島のここ上原が発祥の地だと知った。
それをもとに編曲したのが、現在広く知られているデンサー節らしい。聞きくらべてみると、歌詞も節回しも微妙に違っていた。

上原港

次のバスまではかなり時間があったので、上原港の待合室でしばし休憩。
ここでも、安永観光と八重山フェリーが競っていて、どの便もほぼ同時刻に出発するのは悩ましいものである。

上原港

まだまだ時間があったので、小高い場所から港をぼんやり眺める。
近くには上原集落とデンサー節の由来が書かれた大きな石碑が建っていた。へ
それによると、ここ上原もマラリアの蔓延によって一時廃村になったが、戦後になって新たに入植した人によって発展したのだそうだ。

2023-01-27

西表島 路線バスで村めぐり(8)ウタラ炭坑跡

路線バスで西表島の村めぐりの2日目。まず向かったのは宿泊地の白浜から8kmほど北東にある浦内川だ。まともな観光客ならば、ここでジャングルクルーズの遊覧船に乗るかカヌー遊びをするところだが、そうじゃないのでウタラ炭坑跡の探索をすることにした。

浦内川バス停

浦内川バス停で下車。一人ぽつんと取り残される。この日は朝から雨模様だった。

浦内川観光船

雨でぬかるんだ道を、傘をさしながら単独行の約20分。シダが密生するくさむらの向こうに、浦内川観光船が川を遡っていくのが見えた。
実は、浦内川の観光船にはすでに30年前に乗ったのだ。そのときは宿泊地の石垣島から船でやってきて、マリュウドの滝やカンピレーの滝も見たっけ。夏の観光シーズンだったので、同行の観光客も多かった。

炭坑跡への道

炭鉱跡まではこんな道を約1km。よりによって、この間だけ雨が激しくなってきた。
そういえば、30年前の浦内川観光のときも雨。カンピレーの滝のそばでは、足をすべらせて約2m下の河原の石畳に背中から落ちてしまった。頭から血を流して同行者たちにひどく心配されたが、頭を打ったわけではなくバッグの金具が額の上をこすって傷ついたのであった。

炭坑の廃墟

たどりついた炭坑跡は、ほぼ自然に返っていた。目が慣れると、トロッコ軌道の橋脚が見えてきた。上の写真である。橋脚にからみついている木が年月を語っている。

炭坑の廃墟

これは炭坑で使用した機械のようである。それにしても、よくこんなところに人が住んでいたと思う。まさかこんなひどいところとは思わず、金を稼ぐために各地から人がやってきたのだという。タコ部屋のようなところに住まわされ、脱走して逃げきれずに捕まったりマラリアで死んだ人も数多かったとか。当時日本領だった台湾から来た人もいたという。
一時は待遇改善が進んで夫婦者も住むようになり、ちょっとした町ができていたというが、戦時色が濃くなると石炭増産のためにまたぞろ待遇が悪くなっていったそうだ。

案内板

地面は雨でどろどろにぬかるんでいるが、この一帯だけは手すり付きの木道が整備されていて、ところどころにこんな説明板が設けられていた。
さきほどからの偉そうな説明も、これで仕入れたにわか知識である。

2023-01-22

西表島 路線バスで村めぐり(6)野生動物保護センター

大富からバスで向かったのは野生動物保護センターである。
ここには、イリオモテヤマネコの貴重な剥製が展示されているほか、西表島のさまざまな野生動物を紹介していると聞いていたからだ。
村めぐりがメインとはいえ、ここだけは外すわけにはいかない。

野生動物保護センター入口

バス停は、古見集落の北1kmほどのところ。下車したのは私一人だった。もっとも、行きのバスではここで降りた人が何人かいたので、バスの利用者もそこそこいるのだろう。
周囲には人家も畑もなく、ただ野生動物保護センターを示す看板が立っているだけ。ここから、500mほど入った場所にセンターがある。

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センターへの道沿いには植物がうっそうと茂り、美しい色をしたさまざまな蝶が乱舞していた。
上の写真は、はじめて見た蝶だ。オオムラサキに似ているが、沖縄にいるはずはないと思って調べてみると、1990年代に沖縄に居ついたツマムラサキマダラというタテハチョウの一種らしい。

イリオモテヤマネコの剥製

車でやってきた人も多く、野生動物保護センターには20人ほどの人がいただろうか。私が見学している間にも、次々に人が訪れていた。
この写真は、交通事故にあって保護されたイリオモテヤマネコの「よん」の剥製。けがの程度がひどかったために野生に返すことを断念し、余生をセンターで過ごしていたそうだ。

後良川

野生動物保護センター見学のあとは、白浜行き最終バスに乗るために古見の集落に戻ることにした。
途中、マングローブが美しい後良(しいら)川を越える。

イリオモテヤマネコの親子像

道端にはイリオモテヤマネコの親子の銅像が建っていた。

2023-01-20

西表島 路線バスで村めぐり(5)大富

仲間川をはさんで大原と向かい合う大富は、1952年(昭和27年)から竹富島、波照間島、沖縄本島からの人びとが入植してできた集落だという。

仲間川

豊原や大原もそうだが、それまで西表島東部がずっと無人だったというわけではなく、戦前にも村があちこちにあった。だが、マラリアや戦争などの理由によって、そのほとんどが廃村になってしまったのだ。

仲間川から大富集落を望む

仲間川左岸の河口近くに位置する大富は、仲間川クルーズの拠点になっていて、クルーズ船の乗り場があった。
このあたりでは仲間川の川幅は200mほどある。入植当時はもちろん川に橋など架かっておらず、港がある大原とは小舟で行き来していたそうだ。

カンムリワシ?

イリオモテヤマネコの像が鎮座する仲間橋を渡り切ったときのことである。突然近くの木のてっぺんに大きな鳥が舞い降りた。写真を撮ろうとそっと1歩近づいたら逃げてしまった。かろうじて撮ったのがこの1枚。
あとで野生動物保護センターの人に聞いたところ、たぶんカンムリワシだろうとのことである。

大富共同売店

大富の県道沿いには共同売店があった。地元の人だけでなく、車で行き来する人がひっきりなしに出入りする。島の東部では、県道に面した売店がほとんどないからだろう。

大富バス停

昼飯をくいそびれた私は、この大富共同売店でパンと飲み物を買い込んで、30分後にやってくるバスを待つことにした。

2023-01-19

西表島 路線バスで村めぐり(4)大原

豊原から約3km、徒歩30分ほどで着いたのが港のある大原だ。
旅客船が発着する西表島のメインの港は上原だが、風向きによっては大原に発着する。

大原の県道沿い

旅客港があるくらいだから、かなり賑やかなところかと思ったら、静かな集落だった。
とはいえ、ここにも宿が2軒、食堂が2軒あるようだ。
県道沿いには、西表島交通の工場やレンタカー営業所があった。

西表大原郵便局

これは集落の中心部にある西表大原郵便局。
入口のヒンプンの上にはシーサー……ならぬイリオモテヤマネコ様が来客を威嚇している。

スーパーマーケット

脇道に入って集落をぶらぶらしてみると、スーパーが2軒、向かい合って建っている。
以前、多良間島でも見た情景だが、狭い集落なのに隣接していて過当競争にならないのだろうかと心配になる。
それとも、うまく棲み分けているのだろうか。

大原神社

中心部を通りすぎて、大原集落の北側にある大原神社。
県道をはさんで向かいには大原集落発祥の地の碑が立っていた。それによると、この村は1938年(昭和13年)に新城島の17戸が入植してできたのだとのことだ。

仲間川のヤマネコ像

バスの時刻までは時間があったので、仲間川を越えてもう1つ向こうの集落まで歩くことにした。1.5kmほど先にある大富である。
河口近くに架かる近代的な仲間橋の親柱の上には、イリオモテヤマネコ様が鎮座していた。
反対側には、低い体勢で獲物を狙う姿のヤマネコ様がいて、阿吽の態をなしていた。

2023-01-18

西表島 路線バスで村めぐり(3)豊原

船浮から戻って、いよいよ西表島交通の路線バスで村めぐりへ。
バスは、島の北西部にある白浜と南東部の豊原を結ぶ約50kmを1時間40分かけて走っている。
島の外周をぐるりと半周ちょっとめぐる路線で、残りの半分は道路がないのでバスはおろか車もバイクも自転車も走れない。

白浜バス停

白浜のバス停は港のそばにある。海まで10mといったところ。
バス車内で1日乗車券を買って、いざ出陣である。1日4往復だが、1本は早朝に白浜を出るので、実際に使えるのは1日3往復。
バスと徒歩を組み合わせて、2日間で島の主な集落をめぐろうという計画だ。

バス車内

バスの車内はこんな感じで近代的。旅行者の利用が意外に多い。
船に乗車する日は、船会社の専用バスで送迎してくれるが、そうでないときはこのバスが一番。
レンタカーでめぐることのできる観光地は限られているので、ツアーに飽き足らない人や長期滞在する人は、私のようにバスでブラブラを決め込むようだ。星野リゾートからも何人か乗り込んできた。

豊原バス停

まずは、宿泊地の白浜からはるばる豊原へ。終点から終点まではさすがに乗りでがあったが、おかげで島の様子が頭に入った。
これは豊原バス停。琉球瓦のこぎれいな待合所だ。バスの写真を撮ろうと思っていたら、すぐに発車してしまった。たぶん、この先に停泊所があるのだろう。
道路は、集落の5kmほど先で途切れる。

富原の集落

バス通りで見た掲示板には、「豊原入植60周年記念  平成25年」とあったので、この土地が開拓されたのは1953年(昭和28年)からとわかる。
集落に入ると、碁盤の目状になった街区にコンクリート平屋の建物が並ぶ。戦後になって、沖縄本島や宮古島などから移住した人たちが苦労して拓いた村だと聞いた。

富原の集落

Googleマップによれば、民宿2軒、食堂2軒があるようだ。
とはいえ、まだ腹も減っていないし、折り返しのバスが発車するまでに1つ前の集落に歩いて移動しなくてはならない。
海を遠くに見ながら、バスで来た道を引き返す。

豊原から大原へ

11月とはいえここは南国、日射しも強い。日焼け止めはもちろん塗ったが、首に布を巻き、帽子をしっかりとかぶって歩きだした。
こんなところを歩いて移動する人間は珍しいのだろう。山羊が不審な表情でこちらを見る。

より以前の記事一覧

著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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