カテゴリー「本棚の肥やし」の15件の記事

2014-02-16

『「かど」と「すみ」の違いを言えますか?』 (青春出版社/青春文庫)

ここでちょっとコマーシャル。
私が関わった本が、このたび発売になりました。
先週から店頭に並んでいるかと思います。

編集者との飲み会からできた企画です。
日本語教師をやっていたときに仕入れたネタや、編集者からの提案、独自にうなりながら考えたネタが、全部で70あまり。
タイトル項目のほか、「のぼる」と「あがる」はどう違う? 「自然に」と「ひとりでに」はどう違う? 「あける」と「ひらく」はどう違う? 「いつも」と「つねに」はどう違う? 「機嫌」と「気分」はどう違う? 「内回り」と「外回り」はどうやって区別する? 「うら寂しい」の「うら」って何? なぜ「茶色」はお茶の色じゃないの? などなど、ほとんど全項目が1~2ページずつ、かわいいイラスト中心でわかりやすく楽しく説明しています。

1日=24時間なのに、「1日おきに風呂に入る」と「24時間おきに風呂に入る」はなぜ違うのか。
──これは、われながらよく考えついたネタです。自画自賛。

ことばの本というと、難しい四字熟語の意味を問うてみたり、一生に一度も出会うことのないような訓読みを出題したりと、頑固親父がつくったような本が多いのですが、この本はいつも無意識に使っていることばを再認識して、「へえっ、そうだったんだ」と目のウロコを何枚も落として、頭を柔らかくする本になっております。自画自賛。

どれも、説明は非常に簡潔にしてありますので、すべてを説明しつくしているわけではありません。
例外はありますし、地域や個人個人によって、ことばの意味は少しずつ違ってくるものです。
どうか、「この説明は間違っとる」と腹を立てることなく、「なるほどそういう考え方もあるよな」程度に笑って読んでやってください。言い訳。

ことばって、みんな一家言あって、大変なんですよね。なお、あくまでも「日本語研究会(編)」であって、著者は不詳です(笑)

(発行:青春出版社 青春文庫、日本語研究会(編)、定価:600円+税、初版発行:2014年2月20日、ISBN978-4-413-09590-7)

2013-05-08

『写真への旅』(1976年、荒木経惟)  アラーキーは”秀才”である

"アラーキーは秀才である"……と思う。もちろん、いい意味である。だから、いい加減な文体で好き勝手に書いているように見えて、要点は的確に押さえられている。写真をどう撮るかが具体的に示されていて、これを読んだことで私は写真がうまくなった……と自画自賛をしている。
もっとも、荒木が秀才だなんて書くと、「アラーキーは天才だ! 偉そうなことをいうな」と文句を言う人があるかもしれない。でも、学生時代、リアルタイムに荒木を手本にして写真を撮り、人一倍その写真を見てきてそう思うのだ。

『写真への旅』

この本の存在を教えてくれたのは高校時代の友人である。大学に入っても、数人でよく旅行に出かけたり写真を撮ったりして遊んでいたのだが、そんな我々の間でこの本はあたかもバイブルのように扱われていたのだった。
そして、ここに書かれているアラーキーのことばが、金言のように私たちの頭に刻まれた。
「写真は対決である。ノーファインダーで撮ってはならない。写される人と目が合っていなくてはならない」
「相手と自分との関係が写真に表れる」
「大切なのは被写体である。写真はそれを切り取るだけ。写真は複写であり記録だ」
「風景写真は順光で撮れ」などなど。

これを読んで、憧れの女性を望遠で隠し撮りしていた友人は、彼女に堂々と声をかけて間近で写真が撮れるようになった。
逆光で海を写して「きれいだなあ」なんて喜々としていた私も自分を恥じた。そして、それまでに撮ってきた写真のうち、およそ3分の2は実質的に何も写っていないことに気づいたのだった。
「写真の本質は記録なのだ。被写体がつまらないのに、それを小手先のテクニックで美しく見せようというのは間違っている。重要なのは、人間にせよ風景にせよ、記録に値する被写体を見つけることだ。美しさを”創造”するのは絵画に任せればいい」

今聞くと、目新しくもない発見だが、時あたかも「コンポラ」と称するわけのわからない写真が一世を風靡していたころである。カメラ雑誌には、ボケボケ、ブレブレ、意味のない高コントラスト、むやみやたらな粗粒子の写真が所狭しと掲載されていた。
「こんな写真、もらってもうれしくないよなあ。10年たったら何の価値もない」と私は思っていた。
コンポラとは、コンテンポラリー・フォトグラフィー(現代写真)の略。異議申し立て運動の一種だったと思うが、それが主流になってしまうと、ただつまらないものでしかない。

私は大学入学と同時に写真クラブに1か月ほど入っていたのだが、部員が学園祭に出品する写真というのが、一方はこのコンポラ、他方はこれまた手近な机や花を写しましたという意味のないサロン風写真ばかりだった。ご丁寧に、写真の枠に飾り模様を入れていたりして、もう見るに耐えないものばかりであった。
そんな環境に辟易していたころだったから、この本は私たちにとって待望の1冊だった。本のなかで、荒木は日本の各地に出向いて、独りよがりの写真サークルに優しく指導したかと思うと、けっして美人ではない田舎のバーのママを「複写」してくるのである。
私は写真クラブをすぐに辞めて、志を同じくする友人たちとともに、荒木を見習って現実をひたすら複写し続け、以後の学園祭に出展していたのだった。

もとは『アサヒカメラ』の連載だったものを1冊にまとめた本である。2007年に光文社文庫で復刊したが、それでも旧版の初版本がネットで8000円の値がついているのには驚く。私の手元にあるのは、もちろん当時買った初版である。

若いころの私は中途半端なインテリだったから、スーザン・ソンタグの『写真論』やら富岡多恵子の『写真の時代』を読んだこともあったが、それでうまい写真が撮れるようにはならなかった。ところどころにいいことも書いてあったが、あくまでも写真の評論や批評であって、創作の役には立たなかった。
そんな小難しい理屈よりも、荒木のいう「バーシバシ写真を撮って、いい写真をたくさん見ること」のほうが、ずっと的確なアドバイスであった。

ところで、世の中の多くの人は「アラーキーは天才だ!」というが、そのどれだけの人が彼の写真をじっくり見ているのだろうか。あんなに地味で実直でストレートな写真はない。だけど、荒木はシャイだから、そんな自分が照れくさくて、「俺は天才だ!」と叫んでいたのだろう。かつて『写真時代』なんかで発表していたエロ写真も、現実を複写するという真摯な態度の延長だと私は感じている。

アラーキーのあのチョビひげや丸メガネにだまされてはいけない。千葉大学を出て電通に入った彼は、日本写真界の秀才なのである。そもそも天才が、これほど素人のためになる文章を書くわけがない。まあ、あえていえば、秀才から5分の1ほど天才寄りくらいかなあ、と勝手に私は思っている。

(発行:朝日ソノラマ 現代カメラ新書、著者:荒木経惟、定価:650円、初版発行:1976年5月25日)
 2007年に光文社文庫で復刊

2011-12-01

『万葉集』下巻 万葉のファンキー歌人・長忌寸意吉麻呂

『万葉集』が好きである。
「過去の歴史のどこでもいいから、タイムマシンで1つだけ行かせてやる」
そういわれたら、迷わず万葉の時代を選ぶ。
まだ、大陸の堅苦しい文化がそれほど入ってこなかった時代、人びとはどんなことばを使って、どんなことを考えていたのか、この目で見てみたい。

歌に使われていることばを見ても、漢語はほとんどなく、いわゆる大和言葉がほとんど。その原始的で呪術的とさえ思える力強さを感じることができるのだ。

『万葉集 下巻』(角川文庫)

と、能書きはこれくらいにして、手元にある角川文庫版の『万葉集』から、なぜ上巻でなく下巻を選んだのか。

それは、ひとえに、この歌人を紹介したいからである。その名は、長忌寸意吉麻呂(ながのいみき・おきまろ)。

「長」が氏(うじ)で、「忌寸」は姓(かばね)、渡来人の家系のようである。

巻1、2、3、9にも取り上げられているが、なんといっても本領を発揮しているのが、巻16(角川文庫では下巻に収録されている)の8首。

・さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来む 狐に浴(あ)むさむ (3824)

(現代語訳)みんな、鍋(柄のついた鍋)に、お湯を沸かせ。櫟津(地名)の檜橋(ヒノキの橋?)から来る狐に浴びせようぜ。

詞書き(ことばがき)には、こうある。
右の一首は、傳へて云ふ。一時(ひととき)衆集ひて宴飲(うたげ)しき。時に夜漏三更、狐の声聞こゆ。ここに衆諸(もろびと)、意吉麻呂を誘(いざな)ひて曰く、この饌具(せんぐ)の雑器、狐の声、河、橋等の物に關(か)けて、ただに歌を作れといひき。すなはち、声に応へてこの歌を作りき。

つまり、みんなが「ここにある道具と狐の声と川と橋などを使って、歌をつくれ」というのに応えて、即興でつくった歌のようだ。「来む」(=来るだろう)が、狐の鳴き声の「コン」に掛けている。

彼は、こういう「折り込み」が得意だったようで、ほかにもこんなのがある。

  香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠める歌
・香塗れる塔にな依(よ)りそ 川隅(かはくま)の屎鮒(くそぶな)喫(は)める痛き女奴(めやっこ) (3828)

(現代語訳)香を塗った塔に近寄るな、川の隅(の厠)に住む屎鮒を食べた汚い女奴は

なにも、厠だの屎だのを、わざわざ歌に詠まなくてもいいと思うのだが……。
それをあえて詠むやつも詠むやつだが、それを『万葉集』に載せて後世に残そうとしたやつも偉い。こんな歌が高校の古文の教科書に出てきたら、もう少し生徒の興味を引くに違いない。

そして、何よりも私が驚嘆したのはこれである。

  双六(すごろく)の頭(さえ)を詠める歌
・一二の目のみにあらず 五六三四さへありけり双六の頭 (3827)

現代語訳を書くまでもないだろう。「1、2の目だけじゃなくて、5、6、3、4まであるじゃないか双六のサイは」というわけだ。
このサイが現代のサイコロと同じなのかどうかわからないが、それにしてもファンキーな歌である。
「ありけり」の「けり」は、過去を表しているのはなくて、感嘆の気持ちを表しているんだろう。

「当たり前だ」と言ってはおしまいである。今から1000年以上前の歌である。当時にあって、これをクソまじめに詠もうと思ったことが素晴らしい。
どうやら、人間の目とサイの目を対比して「2つだけじゃないよ」と言っているらしいのだが、そうであっても感動は薄れない。

さきほどは「ファンキー」と書いたが、はっきり言って「ダダイズム」であり「シュルレアリスム」である。
山上憶良も悪くはないが、長忌寸意吉麻呂のこの現代性は、もっと多くの人に知ってほしいと思うのだ。

2011-08-20

『歎異抄』(関西弁訳)

親鸞聖人による「他力」の教えをまとめた『歎異抄』(たんにしょう)を、なんと関西弁で訳したものである。
はたして『歎異抄』を関西弁で訳すことに意味があるのかといえば……頭の固い人にはおもしろくないだろうが、私はあると思う。そもそもこの書物自体、親鸞聖人亡きあと、その教えが師のものと「異」なっていることを、弟子の唯円が「歎」き、師の口述をまとめたものである。
だったら、人びとに教えを広めた口調で訳してちっとも不思議ではないと思う。実際に親鸞聖人が、どんなお国ことばで話していたかは別として。
原文もついているので、古文の勉強にもなるし、関西弁の勉強にもなる、かもしれない。

『歎異抄』(関西弁訳)

かの有名な「悪人正機の教え」の一節の前半は、原文では次のように記されている。
「悪人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを 世のひと つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」

これを、この本はこう訳している。
「善(え)え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なんで善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理屈に合(お)うとるようやけど、それは『ひとまかせ(=他力本願)』ちゅうモットーにはずれとるんや。つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、『お願いします』ちゅう気持ちの欠けている分だけ、アミダはんのいわはる誓いと違(ちご)うとる」

なんとすっきり心に入ってくることだろう。
自力本願がかなわぬゆえ、迷いの尽きない凡夫である我々の目の前に、親鸞聖人がすっくと立ち現れて、優しくせつせつと説教してくれているようにさえ思える。
賛否両論はあろうが、まさしく、目のうろこが落ちる(この表現自体は、異教の聖典である『聖書』という書物にあるそうなのだが)気分である。

思えば、かの大震災以後、いかに数多くの善人が世の中に出現したことか。
でも、新聞やネットで「学級委員の主張」のような「正論」ばかり読んでいると、少し息苦しい。「ちょっと待ってくれよ」と、へそ曲りの虫が騒ぎだすのである。

善人の定義をどうするかは論議があるだろうが、現代語の語義のまま、私は「自分はいいことをしていると思っている人」「自分の言動や行動に、いささかの疑問も抱いていない人」として解釈したい。
もちろん、そうした善人の方々の発言や行動が、「なにか、自分にできることをしなくては」という、ある種の使命感や焦燥感にかられてのことだということは理解できる。

でも、「自分はいいことをしている」と、かすかでも思い込むと厄介である。そう思った瞬間に、世の中を一つの価値観で判断するようになってしまうのだから。それはやがて、「自分はいいことをしているのに、なぜ理解できないのだ」「自分の意見に反するやつは悪だ」という発想につながってくる。
だから「善人」は救われないのだ。

結果的にいいことをしたのなら、それはそれでいい。でも、「自分はいいことをしているぜ」「自分が世の中をよくするんだ」なんて思ったら「善人のはじまり」である。「やりたいからやっているだけ」「気持ちいいから続けているだけ」というスタンスを守っていきたい。

世の中はなるがままにしかならないのだ。
「『自分たのみ(=自力本願)』という心を入れ替えて、まあ『あんじょう頼んます』と願(ねご)うとれば、ホンマもんの極楽行きも間違いなしやで」と親鸞聖人は教えている。

(発行:光文社 古典新訳文庫、著者:唯円、訳者:川村湊、定価:533円+税、初版発行:2009年9月20日、ISBN978-4334751937)

2010-04-14

『鉄道を撮る』創刊

創刊号表紙

宣伝です!


昨12日、新しく鉄道雑誌が創刊されました。こんなご時世に……。
その名も『鉄道を撮る』(コスミック出版)。


タイトルでわかるように、鉄道雑誌のなかでも、撮影を中心とした雑誌です。
定価980円(税込)。
隔月刊で、偶数月の12日に発売されます。
(当面は月刊誌『クロスワードプラザ』の増刊という扱い)


この雑誌のなかで、「特別企画 首都圏 vs. 関西圏」というシリーズ16ページを、これまで鉄道本でご一緒した宮田さんと私が受け持っています。

今回のテーマは、「山手線 & 大阪環状線」。


金網と塀に囲まれた都会の路線で、ベストショットを探しました。
ぜひご覧ください。

2008-10-08

『芸術新潮』2008年1月号「ブルーノ・ムナーリ入門」

 本当だったら去年のうちに書くつもりだったが、いまになってしまった。
 去年のある日、家の近くにある本屋に入り、いつものようにぼんやりと店内をまわっていたときである。
 見たことのある表紙が目に入り、本当に背筋がぞくっとした。

 それは忘れもしない、いまを去ること20数年前、イタリア・フィレンツェの語学学校の教材として使われた本の表紙であった。
 いや、正確にいうと、その教材の表紙と同じ表紙をした雑誌が平積みになっていたのである。下の写真左「芸術新潮2008年1月号」である。

芸術新潮2008年1月号 「間違いの本」

 恥ずかしながら、ブルーノ・ムナーリという名前を聞いたのはそれが初めてであった。もひとつ恥ずかしながら、「芸術新潮」を買ったのは、これが初めてであった。(あ、恥ずかしくない?)

 で、私が実家に保存してあったのが、写真右にある「IL LIBRO DEGLI ERRORI」(イル・リーブロ・デッリ・エッローリ)、つまり「間違いの本」「誤りの本」という名の本である。しかも大型の1964年版。のちに出た小型版ではない。(ちょっと自慢。でも、色が褪せているので、左の本と色調がちがってしまった)
 ブルーノ・ムナーリについての詳細はネットで調べていただければわかるが、デザイナー、絵本画家・作家という狭い範疇でくくるには難しいユニークな人であった……そうだ。板橋区立美術館で開催されたブルーノ・ムナーリ展にも行って楽しんできた。

 「間違いの本」は、そのムナーリが挿絵を描き、ジャンニ・ロダーリという人が文章を書いたもので、イタリア語や文法、方言にちなんだ短い寓話が数十編収録されている。イタリアの子どもの必読書らしいのだが、イタリア語を学ぶ外国人にも、イタリア語の根底にあるものに触れることができるので、おすすめである。

 授業で取り上げられたのは、そのごく一部だが、なかでも印象に残っているのが、「L'Acca in fuga」(ラッカ・イン・フーガ)、つまり「H(アッカ)の逃亡」「逃げるH」といった意味のタイトルの寓話である。

 イタリア語のアルファベットのうち、Hは(フランス語やスペイン語と同様)発音しない。そこで、イタリアにいるHはいじけてしまう。
「自分はいてもいなくても構わない存在なんだ」と感じて、Hをしっかりと発音してくれるドイツ語圏に逃亡しようと企てる。

 だが、Hが行方不明になったとたん、イタリアじゅうで大混乱が起きた。キャンティ(Chianti)のワインはチャンティ(Cianti)になって、急にマズくなった。キョード(Chiodo/釘)はチョード(Ciodo)になってしまい、金槌で打ったらバターのように柔らかくなってしまった……などなど。
 というわけで、これは大変と捜索隊がHを探し回り、ようやく北部のブレンネーロ近くで、オーストリアに密入国しようとしているHを発見。Hはパスポートを持っていなかったのだ。

 捜索隊はHにひざまづいて懇願する。
「君はとっても大切な存在だ。君がいないとダンテ・アリギエーリの名前も発音できない(ダンテ・アリジエーリになる)。キウジ・キャンチャーノテルメ(Chiusi-Chianciano Terme)駅の駅長からも、君がいないとチウジ・チャンチャーノテルメ(Ciusi-Cianciano Terme)になってしまって格下げになると嘆く手紙が届いている……」
 これを聞いてHは気を取り直してイタリア脱出をやめたとさ。めでたしめでたし。

 この話を読んでから、ローマ・フィレンツェ間にあるキウジ・キャンチャーノテルメ駅を通るたびに、思わず頬がゆるむとともに、口の中で「チウジ・チャンチャーノテルメ」とつぶやくようになった私であった。もっとも、その後、新線ができたために特急列車はこの駅を通らなくなってしまったが。

 ブルーノ・ムナーリ展は、去年から東京・板橋区立美術館、滋賀県立近代美術館などで開催。現在は愛知県・刈谷市美術館で今月26日まで開かれている。

2008-06-15

『世界飛び地大全』

 地図好きの身にとって、「飛び地」というのは、どこかロマンを感じる存在である。
 奈良県と三重県の県境に和歌山県の飛び地を見つけたり、埼玉県に東京との飛び地があるのを聞いたりすると、そこにどんな歴史やいわれがあるのかと想像するだけでもおもしろい。
 だが、国内の飛び地ならともかく、国と国との飛び地となると厄介な存在のようである。そんな世界の飛び地を集めたのがこの本。先日、たまたま本屋をぶらぶらしていて見つけた。

『世界飛び地大全』

 有名どころでは、かつての香港・マカオ、西ベルリン、現存するものではジブラルタル、ガザ地区などが挙げられているが、それ以外に、こんなにあるのかというほどの飛び地が取り上げられている。

 とくに多いのが、インド周辺と旧ソ連だ。ソ連が分裂することで、きのうまでは隣の都道府県のような存在で自由に行き来できた場所が、別の国になってしまったのだから大変である。
 とくに、飛び地に住んでいた人にとっては、まったく迷惑な話である。

 それにしても、飛び地の謎を知ることで、世界史が目の前にいきいきと展開されるのがおもしろい。飛び地である西ベルリン(厳密にいうと西ドイツの飛び地ではなくて英米仏の統治下にあったのだが)にも、さらに飛び地がいくつもあり、その一つ、シュタインシュトゥッケンという地域は東ドイツ内にある西ベルリンの飛び地として190人が住んでいたという。

 そこの住民がどのような生活を強いられたかは、この本を読んでいただくとして、第二次世界大戦前には単なるベルリン市の飛び地だったものが、なんと社会主義の大海に浮かぶ資本主義の小島となってしまったのだから、もうこれは単なる悲劇を越えて悲喜劇である。

 ひるがえってみるに、もし敗戦後に日本が英米仏とソ連とで分割統治されていたら、埼玉県新座市にある練馬区の飛び地が、同じような境遇にあったかもしれないわけである。
 中学・高校の世界史の時間に、こんな資料を使って授業をしていれば、もっと面白く勉強できたに違いない。

(発行:社会評論社、著者:吉田一郎、定価:2400円+税、初版発行:2006年8月15日、ISBN978-4-7845-0971-3)

2008-06-12

『私の日本地図』

 いまから何十年も前のこと、小学校高学年になった私は図書館に行くという楽しみを見つけた。
 そこで、世の中にはいろいろな本があることを知ったのだが、なかでも日本の地誌に属する本にはかなり興味を引かれた。もともと、遠くに出かけるのが好きだったからだろう。のちに、あちこちを旅行する素地が、このときに固められたのかもしれない。

 何冊かあったお気に入りのうちの一つが、この宮本常一の『私の日本地図』(同友館)である(右側)。
 とくに、全15巻のうち、第3巻「下北半島」が好きだったのだが、その理由は当時まだ現役で働いていた森林鉄道の写真が、ふんだんに載っていたという単純なものであった。

新版『私の日本地図』    旧版『私の日本地図』(箱入り)

 だから、ほかの巻はあまり真剣に読んでいなかったのだが、それでもこの日本中を歩き回っている宮本常一という人に興味を持ち、こんなことができたらいいなあと思っていたのである。しかも、文章がわかりやすく、学者っぽくないのが気に入った。
 その後、大学時代に「下北半島」だけは八重洲ブックセンターで入手したのだが、その他の巻は買わずじまいとなり、しまったと思ったときには絶版となっていた。

 折あるごとに神田神保町の古本屋街をはじめ、あちこちで探したのだが、1冊も目にすることがなかった。宮本常一全集にも入っていなかった。
 そんな幻のシリーズを古本屋街で見かけるようになったのは、ここ数年のことである。せっせと15冊取り揃えようとがんばり、ようやく7冊目まで揃ったところであった。

 なんと、新装なった『私の日本地図』(未來社)が新刊書として書店に並んでいるではないか(左側)。うれしいような、力が抜けたような、複雑な気分であった。
 まあ、それでもよく見ると、中身の印象は昔のままでありながら、印刷はきれいになっているし、表紙のセンスもいい。思わず、大枚2310円を払って買ってしまった私である。

 第一回配本は、宮本常一の出身地である「周防大島」。実にいい選択である。
 で、中身を読むと、やはり読みやすい。柳田国男のような堅苦しさがなく、おおらかである。しかも、徹底して現地を歩いて、ものを考えているのがいいんだなあ。今回は生まれ故郷だから当たり前だけど。

 それにしても、ほんの40年ほど前には、日本のどこにもこんな風景や生活があったのだ。そして、著者はそれがまもなく大きく変貌することに気づいている。でも、それを止めることができないこともわかっている。
 宮本常一のいいところは、それを声高に批判するでもなく、もちろん歓迎するでもなく、自分の見たことや聞いたこと、考えたことを淡々と、細部にいたるまで記録していることだろう。それが、このシリーズの大きな価値だと思うのだ。
 各ページに最低1枚は、著者の撮った写真がある。当時の人にとってはあまりにもありふれた風景ばかりなのだろうが、今となってはその1枚1枚が珠玉のようである。何の誇張もなく、派手な創作もない写真を見ながら、記録というものの大切さを感じるのであった。

(発行:未來社、著者:宮本常一、定価:2200円+税、初版発行:2008年3月31日、ISBN978-4-624-92494-2)

2008-04-03

『国鉄風景の30年』

 自著の宣伝です (^^;;
 とうとう復刊しました。『国鉄風景の30年』。「写真でくらべる昭和と今」という副題が付いているように、私が学生時代に撮りだめていた鉄道風景の場面を再訪し、できるだけ同じアングルで撮影して比較したものです。
 いわゆる定点写真というやつ。

表紙

 じつは、昨年11月末に山海堂という出版社から発売されたのですが、なんとその版元が12月3日に倒産、そのまま解散してしまいました。
 この出版社にはそれまで4冊ほど鉄道関係の本を出してお世話になっていたので、非常に残念なことです。

 その後、おかげさまで縁あって、今回の技報堂出版からの復刊(再版)となりました。

 しかし、昔をしのぶ内容も去ることながら、刊行直後に版元倒産というドラマ(?)がウケたのか、1月11日(覚えやすいゾロ目の日)の日本経済新聞朝刊には、なんと文化面にデカデカと顔写真入りで紹介され、信じられないほどの大きな反響を受けました。

 その後、週刊朝日2月22日号(これもゾロ目の日付)のグラビアにも7ページにわたってカラーで紹介され、「ああ、いま手元に本があれば、ヒジョーに売れるのに」と、切り干し沢庵ならぬ切歯扼腕しておりました。

 まあ、そんな内輪の話はともかく、お手にとってごらんくだされば幸いです。
 日本全国をまわっていますので、「うちの近くの駅だ」「故郷のそばだ」ということがあるかと思います。
 なお表紙に見えるのは、左側が清水港線(いまは廃止)の三保駅(静岡県)、右側が筑豊本線鯰田駅(福岡県)の今昔です。

(発行:技報堂出版、著者:二村高史、定価:1600円+税、初版発行:2008年3月25日、ISBN978-4-7655-4458-0)
 アマゾンのページは ここ

2007-02-10

『日本トンデモ祭』

 日本の祭りというと、京都の祇園祭とか東京の神田祭りなんかを思い出す人が多いだろう。まあ、それは確かに代表的な祭りなのだが、こうした大規模な祭りには小さいころからなじめなかった。
 下町生まれ、しかも小学生時代は浅草で育ったくせに、祭り嫌いな子だったのだ。

『日本トンデモ祭』

 そもそも、人に指示されて行動するのが嫌いだったので、大勢の人間がまとまって動くのが気に入らなかったのかもしれない。
「大の大人が、揃いも揃って夢中になっちゃって。何が楽しいんだろうね」なんて内心で思っていたわけだ。嫌な子である。

 だが、この本に登場する祭りは違うんだなあ。軍隊的な統制もないし、説教臭い道徳も登場しない(と思う)。
 副題は「珍祭・奇祭きてれつガイド」。だが、マスコミにときどき登場するような「奇祭」とは、よくも悪くもケタが違う。

ピンクの男根が町を練り歩く川崎の「かなまら祭り」
逆に巨大な女性器が町を行く犬山の「大縣神社豊年祭」
ピエロのような怪人が「笑え! 笑え!」と強要する和歌山・日高川の「笑い祭」
人びとが神官たちに悪態をつき供え物を略奪する茨城・岩間の「悪態祭り」
棺桶から生き返った幽霊がズンドコ節(!)を踊る秩父の「ジャランポン」
乞食に扮して広場にたたずむ男性に人びとが敬意を表する岐阜県川辺の「こじき祭り」
などなど、アナーキーでファンキーな祭りが満載である。

 行ってみたい、見てみたい。でも、あまりポピュラーになってほしくない祭りも多いなあ。乞食祭りの乞食役にカメラの砲列が向けられるようになったら、つまらない。 
 まあ、いずれにしても、こんなばかばかしい祭りがあることに、日本文化の底力を見るような気がするのである。

 祭りに対する著者のスタンスもいい。どんなばかばかしい祭りにも畏敬の念を忘れず、しかし野次馬精神を失わない。けっして、偉そうな顔をしてウンチクを語らないところに好感が持てる。

(発行:美術出版社、著者:杉岡幸徳、定価:1500円+税、初版発行:2005年10月10日、ISBN4-568-43061-5)

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