"アラーキーは秀才である"……と思う。だから、いい加減な文体で好き勝手に書いているように見えて、要点は的確に押さえられている。写真をどう撮るかが具体的に示されていて、これを読んだことで私は写真がうまくなった……と自画自賛をしている。

この本の存在を教えてくれたのは高校時代の友人である。大学に入っても、数人でよく旅行に出かけたり写真を撮ったりして遊んでいたのだが、そんな我々の間でこの本はあたかもバイブルのように扱われていたのだった。
そして、ここに書かれているアラーキーのことばが、金言のように私たちの頭に刻まれた。
「写真は対決である。ノーファインダーで撮ってはならない。写される人と目が合っていなくてはならない」
「相手と自分との関係が写真に表れる」
「大切なのは被写体である。写真はそれを切り取るだけ。写真は複写であり記録だ」
「風景写真は順光で撮れ」などなど。
これを読んで、憧れの女性を望遠で隠し撮りしていた友人は、彼女に堂々と声をかけて間近で写真が撮れるようになった。
逆光で海を写して「きれいだなあ」なんて喜々としていた私も自分を恥じた。そして、それまでに撮ってきた写真のうち、およそ3分の2は実質的に何も写っていないことに気づいたのだった。
「写真の本質は記録なのだ。被写体がつまらないのに、それを小手先のテクニックで美しく見せようというのは間違っている。重要なのは、人間にせよ風景にせよ、記録に値する被写体を見つけることだ。美しさを”創造”するのは絵画に任せればいい」
今聞くと、目新しくもない発見だが、時あたかも「コンポラ」と称するわけのわからない写真が一世を風靡していたころである。カメラ雑誌には、ボケボケ、ブレブレ、意味のない高コントラスト、むやみやたらな粗粒子の写真が所狭しと掲載されていた。
「こんな写真、もらってもうれしくないよなあ。10年たったら何の価値もない」と私は思っていた。
コンポラとは、コンテンポラリー・フォトグラフィー(現代写真)の略。異議申し立て運動の一種だったと思うが、それが主流になってしまうと、ただつまらないものでしかない。
私は大学入学と同時に写真クラブに1か月ほど入っていたのだが、部員が学園祭に出品する写真というのが、一方はこのコンポラ、他方はこれまた手近な机や花を写しましたという意味のないサロン風写真ばかりだった。ご丁寧に、写真の枠に飾り模様を入れていたりして、もう見るに耐えないものばかりであった。
そんな環境に辟易していたころだったから、この本は私たちにとって待望の1冊だった。本のなかで、荒木は日本の各地に出向いて、独りよがりの写真サークルに優しく指導したかと思うと、けっして美人ではない田舎のバーのママを「複写」してくるのである。
私は写真クラブをすぐに辞めて、志を同じくする友人たちとともに、荒木を見習って現実をひたすら複写し続け、以後の学園祭に出展していたのだった。
もとは『アサヒカメラ』の連載だったものを1冊にまとめた本である。2007年に光文社文庫で復刊したが、それでも旧版の初版本がネットで8000円の値がついているのには驚く。私の手元にあるのは、もちろん当時買った初版である。
若いころの私は中途半端なインテリだったから、スーザン・ソンタグの『写真論』やら富岡多恵子の『写真の時代』を読んだこともあったが、それでうまい写真が撮れるようにはならなかった。ところどころにいいことも書いてあったが、あくまでも写真の評論や批評であって、創作の役には立たなかった。
そんな小難しい理屈よりも、荒木のいう「バーシバシ写真を撮って、いい写真をたくさん見ること」のほうが、ずっと的確なアドバイスであった。
ところで、世の中の多くの人は「アラーキーは天才だ!」というが、そのどれだけの人が彼の写真をじっくり見ているのだろうか。あんなに地味で実直でストレートな写真はない。だけど、荒木はシャイだから、そんな自分が照れくさくて、「俺は天才だ!」と叫んでいたのだろう。かつて『写真時代』なんかで発表していたエロ写真も、現実を複写するという態度の延長だと私は感じている。
アラーキーのあのチョビひげや丸メガネにだまされてはいけない。千葉大学を出て電通に入った彼は、日本写真界の秀才なのである。
(発行:朝日ソノラマ 現代カメラ新書、著者:荒木経惟、定価:650円、初版発行:1976年5月25日)
2007年に光文社文庫で復刊
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