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著書

  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『ひたすら眺めていたシベリア鉄道』(私家版)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)

カテゴリー「ニッポン旅ごころ(東京、沖縄以外)」の187件の記事

2019-11-03

道路が拡幅されて──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(4)

ちょっと間があいてしまいましたが、拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)の販促企画第4回。
今回は、道路拡幅前後の比較写真です。

最初は、滝桜で有名な福島県三春町の中心部。拡幅前の国道288号線は片側一車線で、道沿いに趣ある家並みが続いていましたが、拡幅によってすっかり姿を変えてしまいました。
昔の家並みが消えたのは残念ですが、せめてものなぐさめは、新築された店舗や住宅がシックな色と形で統一されていることでしょう。

福島県三春町の1992年

福島県三春町の2019年b

次は東京都北区赤羽。東北本線の線路の西側には、日光街道の脇街道だった日光御成道(岩槻街道)が並行して走っています。
沿道には昔ながらの商家が並んでいい雰囲気でしたが、とうとう拡幅工事が終わってがらりと変貌してしまいました。

東京都北区赤羽の1989年1c

東京都北区赤羽の2019年1d

3組目は、赤穂浪士であまりにも有名な兵庫県赤穂市。突き当たりに赤穂城があるこのお堀通りには、いい雰囲気で商家が建ち並んでいました。拡幅後にはあまりにも姿が変わっていたので、位置の特定にはかなり時間がかかってしまいました。
沿道の建物はすべて建て替えられましたが、旅館山長は場所を変えて健在です。

兵庫県赤穂市の1992年e

兵庫県赤穂市の2019年

最後は、沖縄県石垣市。石垣島の港に近い繁華街です。ここトニーそばこと栄福食堂は、強烈な個性の店主が経営する謎の店。
著名な旅ガイド『ロンリープラネット』にも紹介されているので外国人の客も多いようです。
将来そんな店になるとは知らず、初めての石垣島訪問でたまたま撮っていました。

沖縄県石垣市の1994年g

沖縄県石垣市の2019年h

 

2019-10-26

宿場町の面影──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(3)

10月に刊行した拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)から、テーマを絞って紹介する記事の第3回。今回は、宿場町の変化である。この2地点とも、1990年代に撮影したものだが、その変化に驚く。

まずは、久喜市との合併前、1992年の栗橋町。利根川に沿って走る栗橋本通りは、江戸時代に日光街道の栗橋宿として栄えた町でした。東武鉄道の栗橋駅からは徒歩15分ほどのところにあります。
平成に入ってからも栗橋宿には豪壮な建物が軒を連ね、商店街としてさまざまな店舗が並んでいたのですが、今ではその面影はほとんどなく、沿道には「栗橋宿」の旗がはためくばかりでした。

埼玉県久喜市栗橋1992年

埼玉県久喜市栗橋2019年b

次の写真は、愛知県豊川市内にある旧東海道御油宿の東端あたり。東海道で隣り合う御油宿と赤坂宿には、平成の初めころまで、江戸時代の街道の雰囲気を偲ばせる家々が建ち並んでいました。今でもところどころに古い家が残るものの、ここにあの東海道が走っていたとは想像できません。

愛知県豊川市御油1994年

愛知県豊川市御油2019年d

いまでも、全国に旧街道の宿場町の面影を残す場所はあるけれども、2000年代に入って急速に姿を消しつつあります。
逆に、保存されたのはいいけれど、観光化されすぎてしまった町もあります。なかなか難しいものです。

2019-10-24

消えた水辺──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(2)

新刊『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)から、興味深い定点対比を紹介するシリーズの第2回。今回のテーマは「消えた水辺」です。

最初の写真は、1983年と2019年の愛媛県宇和島市大滝地区。JR宇和島駅の北西2kmほどのところに位置し、リアス式海岸が美しい場所でした。入江に沿って、道がくねくねと延び、私が乗ったバスは一つひとつカーブを丁寧に曲がっていったことを覚えています。その後、湾の一部が埋め立てられ、最近になって埋め立て地に水産業関連の施設の建設がはじまったとのこと。新しい写真の左端に、その建物の骨組みが見えています。

愛媛県宇和島市大浦の1983年

愛媛県宇和島市大浦の2019年

次の写真は、多くの国宝や重要文化財があり、大陸との交流もあったことから、「海のある奈良」と呼ばれる小浜市の1978年と2019年。京都に至る鯖街道の起点としても有名です。写真の中央を流れる堀川は、幕末の大火を教訓にして、防火線として開削したものです。現在は暗渠となり、その上には広い道路となっていました。

福井県小浜市堀川の1978年

福井県小浜市堀川の2019年

最後は、宮城県塩釜市の仙石線本塩釜駅近くの1980年と2019年。鹽竈(しおがま)神社の門前町らしく、太田味噌醤油醸造元(中央と右)と和菓子の丹六園の豪壮な建物が並んでいます。かつて建物の前を流れていた小川は、片側2車線の舗装道路に姿を変えました。 

宮城県塩釜市の1980年

宮城県塩釜市の2019年

2019-10-20

新しい道ができていた──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(1)

10月はじめに刊行された拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)のなかから、新旧の対照が興味深いポイントを紹介したいと思います。販促もかねて……。

さて、今回は「新しい道ができていた」という話。
この2カ所とも、1990年代の撮影なので、それほど古い写真ではありませんが、今回行ってビックリ! 新しい道ができていて、すっかり変わっていました。
まあ、正確にいうと、「行ってビックリ」ではなく、「行く前にGoogleストリートビューで事前チェックをしてビックリ」なんですが。

まずは、鹿児島県南さつま市坊津(ぼうのつ)。鑑真和上の上陸地として知られる町内の坊地区の1990年と2019年の比較です。
斜面に狭い道がくねくねと続き、国道226号線のネックとなっていたのですが、2019年になると、たまたま写真を撮っていた場所にバイパスが開通していました。
背後の山並みと、右手奥の建物(お寺?)の屋根で、同じ場所だとわかります。南さつま市坊津1990年

南さつま市坊津2019年

次は、東京都東大和市芋窪の1994年と2019年。青梅街道が片側1車線と狭くなっている区間で、いかにも武蔵野を思わせる雑木林が見えます。
この2枚の写真の間で、多摩モノレールが上北台まで開通。そこから北に延びる芋窪街道が、ちょうど写真を撮った地点で青梅街道に突き当たっていました。

東京都東大和市芋窪1994年

東京都東大和市芋窪1994年2019年

最後は、天草下島へのフェリーが発着する長崎県南島原市口之津(旧口之津町)の1990年と2019年の比較。町の南東にある集落へ向かう道は狭く、大型車両は通行できなかったのですが、なんばん大橋という橋ができていたのにびっくり。
写真というものは、とやかく理屈をいう前に、まず撮っておくものだと改めて納得。大きな橋に見えますが、道幅は3mで大型車のすれ違いはできません。

長崎県南島原市口之津1990年

長崎県南島原市口之津2019年

ちなみに、この本の企画の経緯や撮影の裏話については、ダイヤモンド社のダイヤモンドオンラインに「六本木、京都、福岡…昭和から令和への「定点写真」に見る都市の移ろい」と題して(題を決めたのは私ではありませんが)、セルフ紹介文を書きましたので、おひまなときにご覧ください。

2019-09-28

『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』上梓!

このたび、青春出版社から『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』
(青春新書インテリジェンス)を刊行します。10月2日発売です。
見本ができあがりました。

190928a

本の内容は、タイトルとサブタイトルからわかるように、昭和・平成の時代に撮った写真(1970年代~90年代がほとんど)と、令和になってから同じ場所で撮ったいわゆる定点写真を集めたものです。
ホームページ本館の『東京 -昭和の記憶-』の拡大版。令和になってからの5月から8月末までの期間に、47都道府県の撮影ポイントをすべてまわってきました。

構成は、見開きでまず現在の写真を3~4枚、次の見開きで同じ地点の昔の写真を3~4枚並べています。

190928b 190928c

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取り上げたのは、東京が21カ所、地方が全道府県です。写真が全部で400枚以上になりました。
新書判で、紙は写真向きの厚手のもの、写真が400枚以上あって定価は1705円(本体1550円+消費税)です。
写真もきれいに印刷されました。

店頭には10月3日か4日ころから並ぶかと思います。ぜひ手にとってご覧ください。
願わくは、そのままレジに運んでいただければと。

2018-10-10

中国山地ローカル線乗り歩き 姫新線(2) 津山~姫路

だらだらと書いてきたこの旅の記録も、これが最終回。
姫新線を津山から姫路まで乗ったときの話である。

姫新線は、前にも書いたが姫路と新見を結ぶ路線のこと。ただし、現在は直通列車がない。
いや、ないどころか、何回も乗り換えなくてはならない。
このときも、前日に新見~津山を乗ってから、津山~佐用、佐用~播磨新宮、播磨新宮~姫路と4列車を乗り継いだ。

津山まなびの鉄道館

津山では午前中に「津山まなびの鉄道館」を見学。
不覚にも、現地に行くまでは、こんな立派な扇形庫が残っていて、それが公開されているとは知らなかった。
「学ぶ」のはもうたくさんという気持ちはあるが、楽しく見ることができた。

駅から構内を横切ればすぐだが、さすがにそうはいかず、ぐるりと大回りして歩いて15分。帰りは市内を巡回しているミニバスを利用した。

津山駅

そして、津山駅を12時16分に発車する佐用行きに乗車。またしてもキハ120である。
まあしかたない。だんだんと、この乗り心地の悪さにも慣れてきた。
佐用までの車窓は、まさに里を行くローカル線といったのどかな風情である。

美作大崎駅

ここで気がついたのだが、昨日の木次線からずっと同じ列車に乗っている40代くらいの男性がいる。
木次線で私は、運転席近くに行って前面の車窓を撮ったり最後尾に行ったりと、落ち着きなくうろうろして、あたり構わず写真を撮っていたのだが、彼はじっと席に座っていた。
長時間停車になるとコンパクトカメラを手にして、何枚か写真を撮ると車内に戻っていく様子を覚えている。
彼も津山か新見で泊まったのだろう。

佐用駅前

それはさておき、佐用には13時12分着。
姫新線は、佐用で智頭急行に接続している。その接続を重視しているのか、姫新線内の津山~佐用と佐用~姫路の接続はきわめて悪い。
佐用では1時間半近い待ち合わせ時間があったので、これを昼休みの時間だとプラスにとらえて、町をぶらぶらして昼飯をとることにした。
駅自体はコンクリートがむき出しの殺風景なものだが、駅前の建物が興味深かった。
昭和40年ごろに建てられただろう建物は、けっして骨董的な価値があるわけではないだろうが、個性的な外観でおもしろい。

そして、昼飯は駅近くの「和楽路」へ。これがなかなかいい店だった。若い夫婦が営んでいる店だろうか、シンプルに見える料理も手の込んだ自然の味わいが感じられ、また客あしらいもいい感じ。客には子ども連れもいて、地元の人で込み合っているのも、むべなるかなと感じた。

佐用駅

佐用から乗ったのは、14時36分発の播磨新宮行き。この列車にも、例の彼が乗っていた。
どこかでメシを食べてきたのだろうかと、人ごとながら心配になる。

なにはともあれ、ようやくキハ120の呪縛から逃れることができた。キハ127系のふかふかのクロスシートに座ったとたん、これまでたまった疲労と、うまいものを食べた満足感とで、うとうとしてしまった。

播磨新宮駅

播磨新宮では、ホームの対面に停車している姫路行きに乗り換え。
姫路が近づくにつれ、徐々に乗客が増えていく。
そして、15時37分ににめでたく姫路駅着。今回の中国山地ローカル線乗り歩きは完結である。

前回来たとき、姫路駅は工事中で、姫新線のホームは柵に囲まれた地平にあったが、今では高架に移っていた。
高架ホームからは姫路城が額縁に収まっているかのように、正面に見えた。これは見事な演出である。

姫路駅

乗ってきた車両の写真を撮っていると、「彼」は少し後ろで私の撮影が終わるのを待っていた。
結局、会話を交わすどころか、まともに視線も交わすこともなかった。
だが、長い時間を共有した仲間ではある。もう二度と会うことはないだろうと思うと、少ししんみりしたのであった。

2018-10-07

歴史を感じさせる津山の街並み

中国地方ローカル線の旅の記録が終わらないうちに次の旅に出てしまい、また間隔が空いてしまいました。
前回のつづきです。

5月29日は、津山で宿泊。
前日にネットで宿を探したのだが、平日なのになぜかどこも満員。
もともとホテルが少ないということもあるのだろうが、どこかで学会か研修会でもあったのだろうか。

小性町(小姓町ではない)にある木造3階建て

結局、泊まることができたのは町の西側にある割烹旅館である。
といっても食事は供されない。素泊まりである。
私にとって、久しぶりの純日本風の部屋での宿泊であった。風呂はもちろん、トイレも共用。
値段は安くてよかったのだが、駅から遠いうえに雨が降ってきたので、タクシーを利用。
翌朝も雨でまたタクシーを使ったので、合わせるといい値段になってしまった。

180901b

ところで、前回津山を訪れたのは1988年だから、ちょうど30年ぶりの訪問である。
前回も町並みを見てまわったのだが、メインが鉄道乗り歩きだったので(今回もそうなのだが)、見どころもなんにもわからず、ただ闇雲に歩き回っただけであった。

180901d

今回は、少しだけ前の日の車内で予習をしておいた。それによると、古い街並みが残っている地区として知られているのは町の東側、津山城から川を隔てた場所にある中之町、勝間田町を中心とする旧町人町である。
ただ、実際に行ってみると、町の西側にある宮脇町あたりの道路沿いにも、味わい深い街並みがあって撮影意欲をいたく刺激された。

今回の写真のうち、トップの写真は町の中央部にある小性町(小姓町ではない)にある木造3階建て。
2枚目が宮脇町にある葉茶屋。3~5枚目が、中之町あたりの街並みである。

180901e

中之町あたりは、道の両側に驚くほど昔ながらの街並みが残っている。しかも、いかにも保存していますという、よくありがちな風景ではないところがいい。
そこには普段の生活があり、家々はほどほどにメンテナンスがなされ、電柱も電線もある(まあ、電柱や電線はなくていいのだが)。

180901f

この狭い道を、ミニバスが30分おきに走っているのは重宝した。
ミニバスはどの系統も駅前を発着しており、こんな雨の日に町めぐりをするには便利である。
もっとも、2回乗ったバスには、昼前という中途半端な時間だったこともあってか、地元の人も観光客の姿もなく、私の貸し切りであった。

2018-08-29

中国山地ローカル線乗り歩き 姫新線(1) 新見~津山

まだまだ続く、だらだらと続く今年5月末の中国山地ローカル線横断の旅。

備後落合から新見までの芸備線は、前日通った路線である。
この旅で芸備線と木次線全線を乗るために、結局ここを二度通らざるをえなかった。

新見駅

前の日は新見から特急「やくも」に乗り、伯備線で松江に抜けたのだが、この日は新見から姫新線で津山に向かうことにした。
新見か中国勝山(真庭)で泊まることも考えたが、新見で泊まってしまうと、翌日東京に帰るのが大急ぎになってしまう。中国勝山駅近くには宿がなかった。

新見駅前

新見駅には16時ちょうど着。津山行きの発車まで1時間近くあったので、町をぶらぶら散歩することにした。
といっても、古い家が建ち並んでいるらしい場所は、駅から歩いて15分ほどのようである。

荷物がなければ、さっさと行って、さっさと帰ってくるところだが、そうもいかない。
荷物を預けて行くという手もあったが、その前のベトナム旅行からの疲れがたまっていたので、駅前を歩くだけで我慢することにした。

新見駅前

駅舎は、ご覧のとおり、国鉄時代を思われセルいい雰囲気。
駅前には木造の商家が建ち、目の前を川が流れている。
この川も、先日の水害のときには大変だったのだろうか。

新見駅

ひと通り駅前を徘徊したあとは、待合室でぼんやり。
そして、発車の15分ほど前にホームに向かった。

刑部駅

待っていたのは、またもやキハ120である。
これで、津山まで約1時間半の旅だ。

姫新線は、線名でわかるように姫路と新見を結ぶ路線だが、直通の列車はない。
何十年か前に乗ったはずだが、まったく記憶がないので、新鮮な気分で車窓を眺めていた。

津山駅

ここまでくると、備後落合付近の「深山幽谷を走る」というのとは違って、「里の集落を結ぶ」という雰囲気である。
そして、16時53分、雨に煙る津山に到着した。
約30年ぶりの訪問だ。

2018-08-11

中国山地ローカル線乗り歩き 木次線(4) 出雲坂根~備後落合

無人駅の出雲坂根駅での20分停車の間は、さすがに持て余した。
後ろから前から、そして右から左から列車と駅の写真を撮ったら、構内に引き込んである「延命水」をたっぷりと飲
んで、あとは構内にあるスイッチバックのジオラマを眺めるくらくいである。

出雲坂根駅

1988年にここを訪れたときは、すれ違い列車との交換があったが、現在のダイヤではなくなってしまったようだ。
下の写真は、当時の交換風景。
このときも、たっぷりある時間を利用して、延命水を飲みながら待っていた記憶がある。

手前が乗車していた急行「ちどり」。向こうからやってきたのは、スイッチバックを降りてきた普通列車である。

1988年の出雲坂根駅

さて,13時50分に出雲坂根駅を発車して、2段目のスイッチバックに入る。
駅からずっと動画で撮ろうと思ったら、意外と長い。
途中でスマホが過熱して停止してしまったので、中央が切れているけれど、まずは車両の最後部から撮った1分44秒の動画。

.

さらに、折り返して37秒の動画。
もちろん、スイッチバックしたから、今度は車両の先頭になる。

.

周囲はまるで森林鉄道の路線のよう。
廃止になったら、5年もしないうちに自然に戻ってしまうことだろう。

出雲坂根~三井野原

スイッチバックを越えても、かなりの上り勾配がしばらく続く。
右手に、国道314号線の「おろちループ」の立派な橋が見えるが、木次線の質素な線路とは対照的である。
この国道が木次線に並行して開通したことが、木次線の乗客が激減した大きな原因の一つなのだろう。

出雲坂根~三井野原

そして、これまたまるで森林鉄道のようなトンネルをくぐる。
知らない人が初めて乗ったら、いったいどこに連れて行かれるのだろうと不安になるに違いないころ、再び国道が並行してくる。
周囲に何軒かの建物が見えてくると゛三井野原(みいのはら)駅である。

三井野原駅

車内放送によると、この駅はJR西日本の最高地点にあるのだとか。
標高は727m。だから冬には雪も降り、駅のすぐ近くにはスキー場がある。

備後落合駅到着

そして、14時33分の定刻に備後落合駅に到着。
木次線を全線乗ったという喜びよりも、座り心地が悪いキハ120での3時間以上の乗車に疲れたという感想が先に出てくる。

それにしても、いくら雰囲気がいいとはいえ、2日連続でこの山中の駅に降り立つというのも、われながら酔狂なものである。でも、芸備線と木次線の両方を1回の旅行で全線乗ろうとすると、そうするしかほかない。
そしてまた、前日と同様、ここから新見に向かうのである。

2018-08-08

中国山地ローカル線乗り歩き 木次線(3) 出雲横田~出雲坂根

先月(2018年7月)はじめに西日本を襲った大水害によって、この木次線では出雲横田~備後落合が不通となっていたが、8月8日、つまり今日から運行が再開された。
災害を受けて、そのまま廃線になる例も少なくないため、木次線もどうなるかと心配されたが、まずはめでたい限りである。

出雲横田駅

さて、これは5月29日のこと。
出雲横田駅には12時51分着。この駅では、上下の列車が交換できるだけでなく、車両を留置しておく側線もある。このときは、写真のように赤い車体のキハ120がとまっていた。

右側のクリーム色のキハ120が、宍道から乗ってきた列車である。
この駅では18分も停車するので、車両を降りて駅をくまなく徘徊……じゃなくて見学。
新しいトイレも利用した。

出雲横田駅の駅舎

駅舎は出雲大社をイメージしているのか、寺社つくりを思わせる立派な建物である。
駅舎の入口には注連縄が張られていた。

駅前には奥出雲交通と記されたミニバスがとまっていて、列車を降りた老婦人が乗り込むと、まもなく発車していった。
こんなバスを見ると発作的に乗りたくなるのだが、そんなことをすると晩に泊まるところがなくなるので自粛した。

出雲横田で後ろの1両を切り離し。
その1両は、折り返しの宍道行きとなって、先に発車していった。

八川駅

出雲横田から備後落合方面はぐっと本数が減って、平日3往復になる。
ちなみに、宍道方面は平日10本が設定されているのだが、そのうち3本は途中の木次駅止まりなのが珍しい。
つまり、山陰本線の接続駅である宍道駅まで行かず、ローカル線の途中駅発途中駅着というわけなのだ。

出雲横田を発車すると、列車はやや開けた盆地を走っていき、数分で次の八川駅へ。
Wikipediaによると、この駅の1日平均利用客数は2004年度以降2人以下。2014年度以降はゼロである。
1日平均がゼロということは、通学客もいないということだろう。
1994年度は34人、1984年度は42人だったとのことで、その変化が寂しい。

八川~出雲坂根

と、センチメンタルな気分にひたっているうちに列車は森を縫って走り、やがて左手に別の線路が寄り添ってきた。

これはほかの路線ではなく、出雲坂根でスイッチバックする線路である。
これが本日のメイン・イベントなのだ。

出雲坂根駅に到着

出雲坂根でも20分の停車をするので、列車から降りて無人の駅を端から端まで徘徊。
すでにこのとき、列車の客は私を含めて3人になっていた。

出雲坂根駅

ほかの2人は、年のころは40~50代か。地元の人ではなくて、列車に乗るために来たようである。
とくにあいさつをするわけでもなく、でもお互いになんとなく気を使いながら、あっちへ行ったり、こっちへ来たりとうろうろしながら、コンパクトカメラで写真を撮っていたのである。

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