ポルト旧市街は大人のテーマパークだった






夜に訪れた若い主人が営む小さなレストランや、そこで飲んだミネラル感たっぷり塩味が感じられる白ワインや、深夜までライブを楽しんだ宿の隣のスタンドバーなど、ポルトの思い出は書いていたらきりがないので、このあたりでおしまいとしたい。
そして、すでにポルトガルから帰ってきてから半年もたつのだが、今も毎日の仕事のおともにファドのCDをかけているのである。
夜に訪れた若い主人が営む小さなレストランや、そこで飲んだミネラル感たっぷり塩味が感じられる白ワインや、深夜までライブを楽しんだ宿の隣のスタンドバーなど、ポルトの思い出は書いていたらきりがないので、このあたりでおしまいとしたい。
すっかり間が空いてしまいましたが、ポルトガルの旅の最後の町、ポルトの話。
コインブラからは、特急アルファペンドラーレに乗って、1時間半くらい。名前からして、振り子式の列車なのだろう。どこか垢抜けないスタイルだが、昔のポルトガルの鉄道とくらべたら素晴らしい変化である。
リスボンで指定席を買うのにこりたので、今度はネットで予約。車内の検札では、Eチケットを印刷した紙も不要で、タブレットを見せたが、それも必要ないという。名前だけ尋ねられておしまいであった。
大変だったのは、ポルトの駅から宿までである。
妻が「疲れたからタクシーで行きたい」というので、ポルトの駅前で待ったのだが、待てど暮らせどタクシーがやってこない。
長距離列車が停まるポルト・カンパーニャ駅は中心から外れているので、重い荷物を持って歩くわけにもいかない。
やむなく、不機嫌な妻とその重い荷物を引っ張って、なんとか200mほど離れたメトロ(というより、どちらかというとトラム)の駅まで移動。4駅乗って、さらに20分ほど歩いて旧市街の宿に着いた。
あとで知ったのだが、なんとタクシー運転手がストライキをしている日だったのだ。
宿の人も気の毒そうな顔で迎えてくれた。
宿にした旅行者用アパートは、世界遺産にもなっている旧市街の北側にある。
ちょっと殺風景だったポルト・カンパーニャ駅周辺とは打って変わって、味わい深い建物の数々に魅了された。
最初の写真は、宿からほど近い場所にあるクレゴリス教会とその塔。
「はじめて訪れた町では、まず高いところに登る」
この行動規範を守って、翌朝早くにここを訪れて、塔から町を見下ろした。
2、3枚目の写真は、町の中心部にあるポルト・サンベント(Porto São Bento)駅である。
アズレージョ(青タイル)が美しい建物はポルトガルじゅうにあるが、とくにここの構内は素晴らしかった。
近郊電車がたまに発着するだけの駅だが、利用者の何倍、いや何十倍もの観光客で賑わっていた。
せっかくならば、長距離列車もこの駅まで乗り入れてほしいものである。
行き止まり式のホームなので使い勝手が悪いのかもしれないが。
そして、一大観光スポットであるドン・ルイス1世橋(Ponte Luís I)の近くで撮ったのがこの写真。
橋は2段になっていて、上段にはメトロが通っていた。
このメトロは都心では地下に潜り、郊外では外を走る。まさにLRTの見本といっていい路線である。
空港にも延びていて、旅行者の使い勝手もいい。
こんな便利な鉄道が、日本の地方都市にあればいいのだが……と思うことしきりであった。
さて、宿泊したアパートの室内がこれである。
建物の外側は、旧市街とあってどうということのないものだが、中はきれいにリフォームしてあった。
こんな宿ならば1週間くらい泊まりたいものだが、今回は2泊だけ。
夜になって、どこかに軽く飲みに行くところはないかと思っていたら、まったく心配なかった。
なんと、宿の前の道に面して、何軒ものビア・バーや軽食屋が並んでいるではないか。
飲み屋街のまっただなかに泊まったようなイメージである。
そして、夜遅くに店を出てびっくり。
土曜の夜とはいえ、まさに道路を埋めつくすような人出なのである。
宿のテーブルの上に耳栓が備えられていた理由がよくわかった。
人の声は、明け方4時ごろまで聞こえていた。
昨年秋に訪れたポルトガルの旅をもう少し。
コインブラは1泊だけだったが、そろそろ疲れがたまってきたので、朝はゆっくりすることにした。
ホテルのチェックアウトは12時というのはときにあるのだが、なんとこここでは朝食が7時から12時!
「12時といったら、もう昼飯じゃないか。さすがに客はほとんどいないだろう。メシも残っているかどうか……」
ところがビックリ。朝食会場は多くの人で賑わっていて、パンもおかずもたっぷり残っていた。
中級レベルのホテルなのだが、何種類も用意されていたパンはうまいし、ポルトガル名物のナタ(エッグタルト)もしっかりと用意されていて感激。
あなどりがたしポルトガル! である。
チェックアウトをしてホテルに荷物を預け、予約した列車が出る3時ごろまで、コインブラの町を散策することにした。
まずは、丘上都市の遠景を拝んだのち、その丘に登っていく。
大学は丘の頂上周辺にある。
そこに行くには徒歩やミニバスでもいいが、あえてぐるりと町を半周してエレベーターと斜行エレベーターで登頂。
世界遺産のコインブラ大学については、私がここで書くこともないのだが、外装はもちろん内部の至るところに大航海時代の富のすごさを見せつけるような華やかさであった。
よく知られているのは、門を入ったところにある、塔を従えた下の写真の建物であるが、よくよく見ると壁に「法学部」と記されている。
大学の建物は門の外にも数多くあったが、「文学部」「医学部」などと書かれた建物は、直方体の機能的なもの。やはり、法学部は別格なのだろうか。
豪華絢爛な図書館は予約が必要だという。入場券売り場では16時に来いといわれたのだが、それではポルト行きの列車に間に合わない。
やむなく、それは次回への宿題として(はたして再訪はあるのだろうか?)、せめてもの記念にと塔に登ることにした。
この写真にもちらりと写っているように、塔の下は7、8人が順番待ちをしている。
どうやら、内部が狭いために限られた人数しか入れないようで、担当の若い男性がトランシーバーで交信している。相手は塔の上にいる人らしい。
要するに、何人かが降りてくると、入れ代わりに何人かが登っていくというシステムのようである。
エレベーターはなく、すれ違いができない狭い階段があるだけなのだとわかった。
ここで仕切りをしているお兄さんもコインブラ大学の学生アルバイトなのだろうか。
客に合わせて、ポルトガル語、英語、フランス語、スペイン語を見事に使い分けている。
そこまでできるならイタリア語も話せるんだろうと英語で聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「スペイン語はポルトガル語に近いけど、イタリア語はだいぶ違うから難しい。むしろフランス語に近いですね」
ふーん、地元の人にとってはそんな印象なのかなと、いま一つ納得がいかないうちに、いよいよ順番がまわってきて、さあ登ろうとしたときのことである。いきなり、彼が私に向き直ってこう尋ねてくるではないか。
「You are not a ××?」
××がわからなくて聞き直したのだが、どうも聞き慣れない単語である。
聞き取れたのは、「……フォビア」という語尾だけであった。
そこで、私の疲れ切っていた脳ミソが久しぶりにフル回転した。
「確か、フォビアが語尾につくのは何かの精神的な症状を示すことばだったよな。しかも、塔が狭くて高いことを考えると、これは高所恐怖症か閉所恐怖症ではないかを尋ねているに違いない。だったら、病人でないことを宣言しなければ、30分近い待ち時間が水の泡だ」
私はにっこり微笑んで「ノー」と答えた。
それにしても、いざ登ろうというときに、わざわざそんなことを聞くのも不思議なものである。
否定疑問文につられて、うっかり「イエス」と答えたらどうなっただろうか。
もしかして、過去に神経症の人がいて、塔の中で問題を起こしたのだろうか。
今後は、よくある病名や症状くらいは、英語で言えるようにしておこうと思った体験であった。
コインブラ(Coimbra)の主要駅には、コインブラB駅とコインブラA駅がある。
リスボンやポルトと結んでいる本線上にあるのは、町外れにあるB駅。町の中心部に行くには、そこからローカル列車に乗ってA駅まで行く必要がある。
B駅とA駅の間は約3km。1区間だけの盲腸線が結んでいる。
あとで知ったのだが、2010年ごろまではA駅から先に路線が延びていたようだ。
Googleストリートビューを見ると、確かに廃線跡が伸びていて駅も残っている。そのまま跡をたどっていきたかったが、1泊2日ではそんな時間はなく、道路上に残るレールを撮ったのみに終わった。
コインブラ訪問の目的は、世界遺産にもなっているコインブラ大学と、コインブラ独自のファドである。
情念の固まりのようなリスボンのファド(みんながみんなそうではないけれど)と違って、コインブラのファドは青春のセンチメントを歌いあげるというのが私の勝手なイメージである。
なにより、歌い手がコインブラ大学の在学生か卒業生の男性に限られているというが興味深い。
下調べをしてみると、コインブラのファドが聴ける場所は限られているようで、そのなかでも夜遅くまでやっている中心部のカフェ・サンタクルス(Café Santa Cruz)に向かうことにした。
金曜日の夜なので、そこそこ人は出ているが、さすがに大学を中心にできた都市だけあって、リスボンのような喧騒はない。
その代わり、中心部の広場ではなぜか東欧風の民族舞踊が行われていて黒山の人だかり。
しかし、踊りはともかく歌い手がひどく下手だった。
それは素人でもわかる下手さ加減で、妻も同意見だから間違いない。
だが、それでも見物人はみな喜んでいるようなのは解せないところである。ほかに娯楽が少ないからなのだろうかと勘繰ってしまうほどの体験であった。
それはそれでいいのだが、目指すカフェ・サンタクルスの入口が、その踊りをやっているすぐ脇にあるのだ。
上の写真で、中央に見えるのがサンタクルス教会で、カフェはその右の建物である。
「こんなうるさくちゃ、ファドのライブは休みかな……」
心配になったが、店の入口には18時からと22時からライブがあるとの貼り紙がしてある。
恐る恐るドアを開けると、カフェの内部はかなり広く、奥の舞台で男性歌手がギタリスト二人を従えて歌っていた。
防音もしっかりしているのか、店に入るとあの下手くそな歌声はほとんど聴こえなくなっていたのは幸いである。
来店が遅くて結局1時間弱しか聴けなかったが、いかにもコインブラ大学卒業生という感じの中年インテリ男性は、透き通った高い声でファドをすがすがしく歌いあげていた。
そして、ここでも客で唯一CDを購入。カフェが製作したオムニバス盤であった。
「私は20年ほど前、演奏旅行で日本に行ったことがありますよ。素晴らしい国民ですね!」
サインをしながら、歌手のアントニオ・ディニスさんは穏やかな微笑みを浮かべて語った。
半分は社交辞令であっても、うれしいものである。
そういえば、上の写真では、舞台の上に椅子が逆さまに吊る下げてあるのが見えるが、その理由を聞きそこなった。
「ダモクレスの剣」のようなものなのか。よくわからない。
さて、目的のコインブラのファドは聴けたが、すでに時刻は11時半。
カフェの飯では寂しいので、まともな晩飯を食べようと町をめぐるのだが、どこも閉店の札が。
最後にたどりついたのが、その名も「ソラール・ド・バカリャウ」(Solar do Bacalhau)という鱈(タラ)が名物らしきレストラン。バカリャウは、ポルトガル語でタラのことである。
団体観光客でも来るのか、かなりの広さの店であった。
もう、一部では片づけはじめていたところを、店長らしき人がにこやかに招き入れてくれた。
料理は十分にうまかった。
名前になっているだけあって、干し鱈の料理はとくによい。
店の片隅には、干し鱈ミニ博物館のようになっていて、ビンテージ干し鱈がぶら下がっていた。最後の写真である。
料理を食べ終わり、ホテルにたどりついたのは夜中の1時ごろ。
フロントは24時間サービスをしているというので、まるで警備員のようなフロントのおじさんにお願いして、エスプレッソコーヒーを入れてもらい、薄暗いロビーで飲む私たちであった。
たったの2泊3日だったが、濃密なリスボン滞在であった。
アルファマに近いサンタ・アポローニャ駅から、コインブラに向かったのは9月21日のこと。
ここは、昔ながらの始発駅という情緒を色濃く残している駅だ。
下の写真で、右端に半分だけ写っている青っぽい建物が駅の正面。
駅の雰囲気はいいのだが、切符の自販機がないのには困った。
午前中にベレンに行く前に購入しようとしたところ、出札口はかなりの行列で、窓口にたどりつくまでに20分ほどかかってしまった。
しかも、希望した最速の特急列車はすでに満席。
その前の列車も、並びの席はなく、通路をはさんで隣り合う席がようやく買えた。
やはり、ネットで買うのが正解のようである。
フォロからリスボンへの列車は、ポルトガル鉄道のサイトに登録してまで予約しておいたのだが、リスボンからコインブラまでは本数が多いからと甘く見ていた。
旅先ではチケットの控えの紙を印刷できないから困ると思ったが、スマホがあればいいんだし、車内ではそれさえも見せることなく、名前を聞かれただけで検札が終わった。
コインロッカーも幸い空きがあってよかったが、鍵をかけてコインを投入してレシートを受け取る手順が、日本と微妙に違っていた。
一応、手順が図解されているのだが、欧米系の旅行者もとまどっているようだった。
近くで、私たちとほぼ同時に荷物を預けていた老夫婦などは、間違えて私たちのロッカーのレシートを受け取って2ユーロを投入してしまっていた。
もちろん、丁寧に説明をして2ユーロを支払い、レシートを受け取った。
さらに、彼らが荷物を預けるのを手伝ってあげたのは言うまでもない。
出発時刻までは、学食みたいなカフェでビールを飲み、駅構内にあるスーパーマーケットを見物したり、駅の端から端まで歩いて写真を撮ったりと、意外と忙しく過ごしたのである。
最後に、1981年との定点比較写真を撮影。
37年前は、この駅からスペイン経由でフランスに直通する国際列車に乗ったように記憶している。下の写真の右側の列車である。
まだ20代だった私は、時刻表を見間違えて、発車予定時刻の2時間後に駅に来たのだが、まだ列車は発車していなかった!
近くの乗車口にいた女の子2人連れに「この列車は何時に出発するの?」と尋ねたら、「私たちもわからない」と困ったような顔をしていたっけ。フランス人だった。
結局、始発駅だというのに3時間も遅れて発車。
どうなるのだろうと思っていたら、フランス国境の駅で3時間も停車するスケジュールになっているではないか。
「最初から遅れを見越しているのか!」とびっくり。
フランス領内に入ったとたん列車のスピードが上がり、時刻表どおりに走るようになったのが印象的だった。
今回の旅では、さすがにそんなに遅れることはなかったが、このとき私たちが乗る列車は30分の遅れでリスボンをあとにしたのであった。
リスボン滞在最終日の朝、サンタ・アポローニャ駅で夕方のコインブラ行き列車の乗車券を買い、コインロッカーに荷物を預けてから、西に6imほど離れたベレン(Belém)に向かった。
初めて知ったのだが、世界遺産「ジェロニモス修道院とベレンの塔」があるベレンは、ポルトガル語で「ベツレヘム」のことなのだそうだ。
リスボン中心部からは、路面電車の15系統、または近郊鉄道のカスカイス線で行くのが便利だということだが、サンタ・アポローニャ駅からはどこかで1回か2回乗り換えなくてはならない。
そこでGoogle先生に一番便利なコースを尋ねてみたところ、なんと駅前から728番のバスに乗れば乗り換えなしで行けるではないか。
本当は鉄道に乗りたいところだが、時間もない。すぐにやってきた連接バスに乗って約30分。ベレンに着いた。
ちなみに、「リスボンカード」を買っていれば、どの交通機関にも乗れる。
さあ、ジェロニモス修道院に突入……と行きたいところだが、妻から待ったがかかった。
修道院の手前にあるお菓子屋──いや、今どきはパティスリーというべきか、「パスティシュ・デ・ベレン」(Pasteis de Belém)という店に立ち寄れと知人から厳命されていたのである。
ポルトガルのお菓子として有名なのはナタ(エッグタルト)。でも、ファロですでに食べていたし、わざわざ行くのかよというのが本音であった。
しかも、店の前は大行列。行列嫌いの私は、それだけで拒否反応が起きていた。
だが、行列ができていたのは持ち帰りの人たちのようで、店内で食べるには勝手に店内で席を探せばよいらしいとわかった。
入口から見える定員30人ほどの部屋は客でいっぱい。……なのだが、不思議なのは奥のほうから次々に店を出てくる人がいること。
「ははあ、まだ奥に部屋があるのか」と思って人をかき分けていくと……。
迷路のような通路の奥に、何百人も入れそうなだだっ広いホールを発見。
そこは、まるで昭和40年代のデパートの大食堂のような雰囲気でああった。
忙しそうな店員をつかまえて、ナタとケーキを注文。飲み物は、例によってヴィーニョ・ヴェルデである。
10分ほどして運ばれてきたナタをひと口食べてびっくり! うまいのなんのって。甘すぎないところは日本人好みの味。さくさくした食感もよく、5つくらいはラクに食べられそうだった。
十分に満足して、その後はジェロニモス修道院を見学。
大航海時代の富をつぎ込んでつくられた修道院は、ただ立派というしかない。
修道院という性格上、豪華絢爛とは少し違うが、大規模な建築物の隅々まで手の込んでいる印象であった。
修道院のあとは、もう一つの世界遺産であるベレンの塔に行くべきだったのだが、あまりの暑さに疲れ果て、「発見のモニュメント」の上にのぼるだけで満足することにした。
リスボンへの帰りは近郊電車に乗ろうと思ったのだが、ホームを間違えるという、鉄道愛好家らしからぬ失態を犯してしまった。
ポルトガルの道路や地下鉄は右側通行なのだが、一般の鉄道は左側通行だったのだ。
次の電車まではだいぶ間があるので、しかたなくまたバスに乗って帰ってきたのであった。
路面電車のほかに、リスボンの乗り物で忘れちゃならないのがケーブルカーだ。
低地の中心部と、周囲の丘を結ぶケーブルカーの路線が確か3路線あったと記憶していた。
3つとも乗りたかったのだが、時間の関係で今回は2路線の乗車である。
まずは、観光ポスターの写真にもよく登場するビカの路線である。
宿泊していたアルファマ地区とは、都心をはさんで反対側にあるが、28系統の路面電車で乗り換えなしにケーブルカーの上の駅近くに行ける。
バックにテージョ川が見えるこのアングルが人気だ。
案の定、乗ってくるのは観光客ばかり。
確か15分おきくらいに動いてたように記憶している。
しばらく待っても発車する気配がないので、線路に並行する道を下り、車両がすれ違う中間地点あたりで走行写真を撮ることにした。
だが、登ってきた車両は落書きだらけ。撮影意欲が著しく減退してしまった。
その一方で、最初に見た車両は落書きのない美しい姿だったのは運がよかった。
下りは歩いても5分ほど。あっというまに着いてしまった。
上りはさすがにつらそうなので、超満員のケーブルカーを待って乗ることにした。
次に向かったのが、そこから500mほど北にあるグロリア線。
ロシオ駅の北側からサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台のある公園横に至る短い路線だ。
ここには1981年にたまたま通りかかって写真に撮っていた。
それが下の写真である。
車体は水平につくってあるものだから、下から見るとかなり馬ヅラなのが印象的だった。
現在は2両とも落書きだらけでがっかり。あまりにも違う雰囲気が、よくも悪くも対比になった。
たいした距離でもないのだが、市内1日切符があったので乗ってみることにした。
ビカ線ほど観光地としては知られていないが、それでも観光客がたくさん乗り込んでくる。
発車ぎりぎりに駆け込んできたのが、6、7人ほどのおばさん軍団。
派手な色の服を着て、大声で会話をしている様子は、まるで大阪のおばちゃんである。
「どこの国でも、おばさんパワーはおんなじだね」と微笑む私たち。
だがそこで、「うむ、待てよ」と私は違和感を覚えた。
よくよく彼女らの会話に耳を済ませていると、ポルトガル語じゃなくてスペイン語のようなのである。
「グラシアス」なんて言葉がはさまっていたし、ハ・ホといった「j」音も多く含まれていたので間違いない。
「なるほどねー」と私は納得した。
前にも書いたように、この旅で最初に訪れたマドリードでもセビーリャでも、スペイン人は、エネルギーの無駄使いじゃないかと思うほど大きな声でしゃべっていたのである。夜の飲み屋はもうカオスであった。
ところが、国境を越えてポルトガルに入ったとたん、周囲の人たちの声のトーンが下がったのを感じた。
レストランでも夜の雑踏でも、音のレベルがスペイン人よりもかなり低いのだ。
「日本じゃ、ポルトガル人もスペイン人も変わりないと思われているけど、実際に来てみると違いがよくわかるね」
満員のケーブルカーのなかで、まるで大発見でもしたかのように満足する私であった。
鉄道好きにとって、リスボンと聞けばすぐに路面電車(トラム)を思い浮かべるほど、この町の電車は世界中に知られている。
とくに、町の東側にあるアルファマ地区と西側にあるバイロ・アルト地区を結ぶ28系統は、昔ながらの小型の車両が走っていて大人気。アルファマでは、中心部のやや北側を通っているのだが、こんな狭い裏通り──というよりも路地によく線路を敷いたものだと感心する。
1981年にリスボンに来たときも、路面電車のことは知っていたから、このあたりをぶらぶらするついでに写真を撮っていた。そこで、これもまた今回、定点比較写真をしようと思ったのである。
下の写真は、複線の線路がカーブする地点だが、曲がり角で道幅が狭いために、一方の線路が他方に割り込んでいるのがわかる。専門用語で「ガントレット」と呼ばれる方式で、もちろんここで両側から同時に電車がやってきたら正面衝突してしまう。
それを避けるために、当時は1日じゅう係員が立っていて、衝突しないように電車に向かって手で信号を出していた。
左側の写真の左端あたり。木の下に2人立っているのだが、その人が手信号を出している。
棒の先につけている丸い板は、片面が赤、もう片面が緑になっていて、そのどちらかを運転士に向かって見せるわけだ。
さすがに、今回行ってみたら自動信号に変わっていた。
しかも、信号は500mほど先のもう1つの信号と連動していて、その間の区間が交互通行になっているのだ。
つまり、電車だけでなく自動車もまた、何分かおきかに一方通行になるのであった。
下の写真は、ガントレットを撮った場所から180度振り向いて撮ったもの。
線路はいったん複線に戻っているが、さらにその先で単線になっている。
運悪くここで両側から電車が出くわしても、ここですれ違うことができそうだ。
それにしても、周囲の情景がほとんど変わっていないのに驚く。
さらに進んでいくと、本当に建物すれすれのところを電車が通っていく場所がある。
それが下の写真の区間である。
左が1981年の写真だが、このときは電車が通過するときに、建物にぴったりと張りついてやり過ごした記憶がある。写真に写っている女性も同様だった。
ファドの歌詞に出てきそうな趣のある女性で、今回もそんな人が歩いてこないかなと待っていたのが、残念ながらそううまくはいかなかった。
不思議なことに、今回は電車が通過してもスペースに余裕があった。
「不思議だな。昔の記憶はいいかげんだったのか」
そう思ったのだが、家に帰って写真をくらべてみてわかった。
左側の建物は建て替えられていたのである。何十センチかセットバックしたおかげで、歩道に余裕ができたことがわかった。
最後の写真は、交互通行の反対側の信号機がある地点である。電車と自動車が青信号を待っているところだ。
電車は次から次へとやってくるので、このあたりはいくらいても飽きない。
そして、乗客の半数以上は観光客のようである。
地元の人にとっては迷惑かもしれないが、やはり乗っていても楽しい。
もちろん、この区間だけでなく、丘を昇り降りする区間ではカーブと坂の連続。次に来るときは、じっくり時間をとって、この28系統を制覇しなくては。
リスボン滞在2日目の夜に目指したのは、前日に町の食堂で教えてもらったファドハウス。
アルファマの中心部にある宿からは、歩いて5分ほどのところにある。
昼間のうちに場所を確かめておいたが、注意していなくては見過ごしてしまいそうな場所だった。
狭いとはいえ表通りには面しているが、昼にはシャッターを下ろしていたためか、2度ほど店の前を行ったり来たりしてようやく見つけることができた。
それにしても、営業日が木曜~日曜日というだけで興味をそそる。
前夜にレストランで教えてくれた人も、「ああ、あの店は休みか……。いや、明日行くなら木曜日だからやってるぞ!」とうれしそうであった。
ライブは夜9時からはじまるというので、宿でひと休みしてから、しばらくはアルファマの町をうろうろ。
立ち飲みのバーがあったので、リスボン名物というサクランボのリキュール「ジンジャ」を注文した。
スーパーに行けば瓶で売っているのだが、こんな店で1杯引っかけるのがいい。
これで1ユーロだった。
ジンジャはどこでも飲めるようで、道端でおばさんが瓶とグラス1つで商売しているのも、昔のアルファマを思い出させてくれる。
9時を少しまわったころにたどりついたその店「Tasca do Chico Alfama」では、すでにライブがはじまっているようで、店主らしい太った親父さんに、1曲目が終わるまで外で待つようにいわれた。
「レストランでジョゼ・バティスタさんに紹介されたんですよ」と一応言ってみると、「ああ、おじさんだよ」と店主はにこりともせずに答えてくれた。
(ちなみに、Jose Batistaで検索したら、YouTubeに動画が1本アップされており、まさにあの人であった)
店内は6人がけのテーブルが8つほどあっただろうか。
幸い、歌手に一番近いテーブルの片方に空きがあり、そこに案内された。
とくに舞台があるわけでもなく、狭い店の中央に、ギターの伴奏3人を従えて歌手が歌っている。
1回のステージは20分くらいと短かったが、夜中1時のラストまで、休憩をはさんで7、8ステージを楽しんだ。
最初のステージで歌っていたのは20代後半に見える若い女性だった。
なかなか迫力があって、これぞファドという感じ。
でも、最初のステージに出てくるのだから、前座かと思っていた。
その次のステージに登場したのは、上の写真の太っちょのおじさん。
どこにでもいそうな風貌のおじさんが歌っているのも、なかなかいい感じ。
特別に上手というわけではないが、雰囲気があって十分によく聞かせる。
隠れ家ファドハウスとはいえ、やはり客の大半は観光客のようである。私たち以外は欧米系であった。
伴奏がはじまってもしゃべっていて、「シー」と繰り返し叱られている。
もちろん、私は37年にわたる念願がかなうひとときである。食い入るように集中して、見て聴いていたのは言うまでもない。
このおじさんのステージが終わると、CDを売りにまわるのだが、どの客も買おうとしないので寂しそうである。
結局、15ユーロ也をはたいて買ったのは私たちだけだった。サインもしてもらった。
ジャケットの写真が今よりずっと若い。「ジョアン・カルロス」というよくありそうな名前のこのおじさんは、YouTubeにも動画が出ていた。
家に帰ってCDを聴いたが、陰影に欠けていて今一つという感じ。
ライブで聴いたほうがずっとよかった。
ファドというと、あまりにもアマリア・ロドリゲスが世界的に有名になっているが、彼女のファドはちょっと暗い。
確かに素晴らしいのだが、何曲も聴いていると正直なところ、ちょっと飽きるのである。
ほかにもいい歌手が数多くいて、いい曲もあるのに……と思っていたところ、この店で聴いたファドはまさに望んでいたものにぴったりであった。
しっとりとした情緒や哀感をたたえる歌が多いのはもちろんだが、ときに明るく躍りたくなるような曲も交じって、心から楽しむことができた。
そして、なんといってもファドといえば、伴奏のポルトガルギターを抜きにして語るわけにはいかない。上の写真の左2つがそれである。
ファドの伴奏は、ベースを受け持つギターのほかに、メロディを奏でる2台のポルトガルギターが付くのだが、これがほんとうに哀愁漂う音を出してくれるのだ。
最終ステージで歌ったのは、当初前座ではないかと失礼ながら誤解したこの女性。
3回登場したのだが、やはり回が進むにつれて乗ってきた。オーソドックスなファドが素敵だった。
写真の右側で耳をそばだてているのは、その前の回で歌った男性歌手である。この人は2曲しか歌わなかったが、声も表現力も素晴らしく圧倒的にうまかった。
そして、夜1時にお開き。最初から最後まで粘ったのは、我々だけだったかもしれない。
さぞかし熱心な東洋人だと思われたことだろう。
幸福感にひたりつつ、石だたみの道につまずきながら宿に戻る私であった。
もう2カ月以上たったいまも、ポルトガルギターの哀愁ただよう音色と、歌手たちの情感あふれる歌声が頭から離れない。次は、リスボンに1週間くらい滞在して、さまざまな店をめぐってみたい。
アルファマ地区はリスボンの下町とも呼ばれている古い市街地である。
下町とはいうが、低い丘の上に広がっている。
リスボンは、1755年に起きた大地震で壊滅的な被害を受けたが、そんななかでアルファマ地区だけは比較的被害が軽かったのだそうだ。
だから、昔ながらの入り組んだ路地がつづき、味わい深い町並みを形づくっている。
37年前は、ガイドブックでは治安がよくない地域と書かれていたが、そんな感じはなかった。
建物が古びていて道が狭いので、観光客にはそう見えたかもしれないが、よくよく見れば私が育った昔の東京の下町と変わりない。
人びとの様子は垢抜けなかったが、町は活気にあふれていた。
前回は急ぎ足の貧乏旅行だったので、今回はアルファマ地区に宿をとって、リスボン市内をじっくりと歩き、夜は地元の人が通うようなライブハウスで本物のファドを聞きたいと思っていたのである。
現在のアルファマは、観光客であふれ返る町となっていた。
上の写真は、アルファマの中央部あたりの定点比較写真。
今回の宿は、たまたまこのすぐそばのアパートであった。
ところで、リスボンをじっくり歩くといっても、2泊3日なのが少し寂しい。
本来ならば3泊はしたかったのだが、妻の仕事の都合上、いたしかたなかった。
もちろん、前回来たときに歩きまわったのはアルファマ地区だけではない。
丘を下った都心でも散歩をして写真を撮っていた。
下の写真もその1枚。よく見ると看板に果物屋(FRUTARIA)と書いてあるのだが、なぜか店先に鶏肉がぶら下がっていた。
クリスマスだったから、たまたまなのだろうか。
こんな風景には慣れていなかったので、ビックリして少し離れたところから写した記憶がある。
この果物屋という看板、番地の数字、そして前後の写真の撮影場所を頼りとして、出発前にGoogleマップでここを探し当てるまでには何日もかかった。
それでも、なんと奇跡的に同じ場所で、同じ名前の果物屋が残っているではないか。
都心の繁華街の北側にある一角だ。
現地に足を運んでみると、店頭に親父さんがいたので、iPadミニでこの写真を見せた。
親父さんは、写真を見てすぐにわかってくれたようだ。
英語はあまり通じないようで、例によってイタリア語まじりのインチキポルトガル語風スペイン語と、わかりやすい英語で会話。
店の奥から出てきた奥さんともども大喜びしてくれて、ぜひ送ってほしいという。
もちろん快諾して、ここでも定点写真を撮影した。現在の写真で緑のポロシャツを着ているのが旦那である。
その夜、Google先生の翻訳サイトを活用して、日本語からポルトガル語に翻訳。
さっそくメールに写真を添付して送った。
すると、翌朝に長い感謝のメールが届いたのであった。それによると、彼にとって、まさに当時は古きよき時代だったようだ。
はたして、あんな観光客だらけの都心で、いつまで果物屋を続けられるのだろうか、人ごとながらちょっと心配になるのであった。
その夜、晩飯に選んだのは、ポルトガルに詳しい妻の友人がメールで教えくれた店である。
鶏の丸焼きがうまいというそのレストランは、例の果物屋のすぐそばだった。
けっして高級店というわけではないが、きちんとした仕事をする町の食堂といった風情で、店で働くのは地元の人らしき中年のおじさんたちばかり。その愛想のよさが、店の印象をアップさせてくれる。
(上の写真は、翌日の昼間に撮ったもの)
その庶民的な接客にも満足して、37年前に撮った市内の写真を見せたところ、じっくり見入って喜んでくれた。
私はさらに気をよくして、翌日の夜にファドのライブを聴きたいんだけどと打ち明けてみた。
「おお、うちに元ファド歌手がいるよ。彼はイタリア語が話せるよ。呼んでこよう!」
なんという不思議な巡り合わせだろうか。奥から出てきたその人は、苦み走った雰囲気で、年は私より少し上。若いころはスイスで仕事をしていたことがあるという。イタリア語はそこで身につけたのだろうか。
たちまちのうちに意気投合してしまった。
そして、彼が教えてくれたのは、アルファマ地区にある観光客向けではないディープな穴場の店であった。
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