カテゴリー「蔵出し旅写真(国内編)」の9件の記事

2019-11-03

道路が拡幅されて──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(4)

ちょっと間があいてしまいましたが、拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)の販促企画第4回。
今回は、道路拡幅前後の比較写真です。

最初は、滝桜で有名な福島県三春町の中心部。拡幅前の国道288号線は片側一車線で、道沿いに趣ある家並みが続いていましたが、拡幅によってすっかり姿を変えてしまいました。
昔の家並みが消えたのは残念ですが、せめてものなぐさめは、新築された店舗や住宅がシックな色と形で統一されていることでしょう。

福島県三春町の1992年

福島県三春町の2019年b

次は東京都北区赤羽。東北本線の線路の西側には、日光街道の脇街道だった日光御成道(岩槻街道)が並行して走っています。
沿道には昔ながらの商家が並んでいい雰囲気でしたが、とうとう拡幅工事が終わってがらりと変貌してしまいました。

東京都北区赤羽の1989年1c

東京都北区赤羽の2019年1d

3組目は、赤穂浪士であまりにも有名な兵庫県赤穂市。突き当たりに赤穂城があるこのお堀通りには、いい雰囲気で商家が建ち並んでいました。拡幅後にはあまりにも姿が変わっていたので、位置の特定にはかなり時間がかかってしまいました。
沿道の建物はすべて建て替えられましたが、旅館山長は場所を変えて健在です。

兵庫県赤穂市の1992年e

兵庫県赤穂市の2019年

最後は、沖縄県石垣市。石垣島の港に近い繁華街です。ここトニーそばこと栄福食堂は、強烈な個性の店主が経営する謎の店。
著名な旅ガイド『ロンリープラネット』にも紹介されているので外国人の客も多いようです。
将来そんな店になるとは知らず、初めての石垣島訪問でたまたま撮っていました。

沖縄県石垣市の1994年g

沖縄県石垣市の2019年h

 

2019-10-26

宿場町の面影──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(3)

10月に刊行した拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)から、テーマを絞って紹介する記事の第3回。今回は、宿場町の変化である。この2地点とも、1990年代に撮影したものだが、その変化に驚く。

まずは、久喜市との合併前、1992年の栗橋町。利根川に沿って走る栗橋本通りは、江戸時代に日光街道の栗橋宿として栄えた町でした。東武鉄道の栗橋駅からは徒歩15分ほどのところにあります。
平成に入ってからも栗橋宿には豪壮な建物が軒を連ね、商店街としてさまざまな店舗が並んでいたのですが、今ではその面影はほとんどなく、沿道には「栗橋宿」の旗がはためくばかりでした。

埼玉県久喜市栗橋1992年

埼玉県久喜市栗橋2019年b

次の写真は、愛知県豊川市内にある旧東海道御油宿の東端あたり。東海道で隣り合う御油宿と赤坂宿には、平成の初めころまで、江戸時代の街道の雰囲気を偲ばせる家々が建ち並んでいました。今でもところどころに古い家が残るものの、ここにあの東海道が走っていたとは想像できません。

愛知県豊川市御油1994年

愛知県豊川市御油2019年d

いまでも、全国に旧街道の宿場町の面影を残す場所はあるけれども、2000年代に入って急速に姿を消しつつあります。
逆に、保存されたのはいいけれど、観光化されすぎてしまった町もあります。なかなか難しいものです。

2019-10-24

消えた水辺──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(2)

新刊『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)から、興味深い定点対比を紹介するシリーズの第2回。今回のテーマは「消えた水辺」です。

最初の写真は、1983年と2019年の愛媛県宇和島市大滝地区。JR宇和島駅の北西2kmほどのところに位置し、リアス式海岸が美しい場所でした。入江に沿って、道がくねくねと延び、私が乗ったバスは一つひとつカーブを丁寧に曲がっていったことを覚えています。その後、湾の一部が埋め立てられ、最近になって埋め立て地に水産業関連の施設の建設がはじまったとのこと。新しい写真の左端に、その建物の骨組みが見えています。

愛媛県宇和島市大浦の1983年

愛媛県宇和島市大浦の2019年

次の写真は、多くの国宝や重要文化財があり、大陸との交流もあったことから、「海のある奈良」と呼ばれる小浜市の1978年と2019年。京都に至る鯖街道の起点としても有名です。写真の中央を流れる堀川は、幕末の大火を教訓にして、防火線として開削したものです。現在は暗渠となり、その上には広い道路となっていました。

福井県小浜市堀川の1978年

福井県小浜市堀川の2019年

最後は、宮城県塩釜市の仙石線本塩釜駅近くの1980年と2019年。鹽竈(しおがま)神社の門前町らしく、太田味噌醤油醸造元(中央と右)と和菓子の丹六園の豪壮な建物が並んでいます。かつて建物の前を流れていた小川は、片側2車線の舗装道路に姿を変えました。 

宮城県塩釜市の1980年

宮城県塩釜市の2019年

2019-10-20

新しい道ができていた──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(1)

10月はじめに刊行された拙著『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』 (青春出版社)のなかから、新旧の対照が興味深いポイントを紹介したいと思います。販促もかねて……。

さて、今回は「新しい道ができていた」という話。
この2カ所とも、1990年代の撮影なので、それほど古い写真ではありませんが、今回行ってビックリ! 新しい道ができていて、すっかり変わっていました。
まあ、正確にいうと、「行ってビックリ」ではなく、「行く前にGoogleストリートビューで事前チェックをしてビックリ」なんですが。

まずは、鹿児島県南さつま市坊津(ぼうのつ)。鑑真和上の上陸地として知られる町内の坊地区の1990年と2019年の比較です。
斜面に狭い道がくねくねと続き、国道226号線のネックとなっていたのですが、2019年になると、たまたま写真を撮っていた場所にバイパスが開通していました。
背後の山並みと、右手奥の建物(お寺?)の屋根で、同じ場所だとわかります。南さつま市坊津1990年

南さつま市坊津2019年

次は、東京都東大和市芋窪の1994年と2019年。青梅街道が片側1車線と狭くなっている区間で、いかにも武蔵野を思わせる雑木林が見えます。
この2枚の写真の間で、多摩モノレールが上北台まで開通。そこから北に延びる芋窪街道が、ちょうど写真を撮った地点で青梅街道に突き当たっていました。

東京都東大和市芋窪1994年

東京都東大和市芋窪1994年2019年

最後は、天草下島へのフェリーが発着する長崎県南島原市口之津(旧口之津町)の1990年と2019年の比較。町の南東にある集落へ向かう道は狭く、大型車両は通行できなかったのですが、なんばん大橋という橋ができていたのにびっくり。
写真というものは、とやかく理屈をいう前に、まず撮っておくものだと改めて納得。大きな橋に見えますが、道幅は3mで大型車のすれ違いはできません。

長崎県南島原市口之津1990年

長崎県南島原市口之津2019年

ちなみに、この本の企画の経緯や撮影の裏話については、ダイヤモンド社のダイヤモンドオンラインに「六本木、京都、福岡…昭和から令和への「定点写真」に見る都市の移ろい」と題して(題を決めたのは私ではありませんが)、セルフ紹介文を書きましたので、おひまなときにご覧ください。

2019-09-28

『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』上梓!

このたび、青春出版社から『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』
(青春新書インテリジェンス)を刊行します。10月2日発売です。
見本ができあがりました。

190928a

本の内容は、タイトルとサブタイトルからわかるように、昭和・平成の時代に撮った写真(1970年代~90年代がほとんど)と、令和になってから同じ場所で撮ったいわゆる定点写真を集めたものです。
ホームページ本館の『東京 -昭和の記憶-』の拡大版。令和になってからの5月から8月末までの期間に、47都道府県の撮影ポイントをすべてまわってきました。

構成は、見開きでまず現在の写真を3~4枚、次の見開きで同じ地点の昔の写真を3~4枚並べています。

190928b 190928c

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取り上げたのは、東京が21カ所、地方が全道府県です。写真が全部で400枚以上になりました。
新書判で、紙は写真向きの厚手のもの、写真が400枚以上あって定価は1705円(本体1550円+消費税)です。
写真もきれいに印刷されました。

店頭には10月3日か4日ころから並ぶかと思います。ぜひ手にとってご覧ください。
願わくは、そのままレジに運んでいただければと。

2015-03-12

津軽半島「ニューヨーク・ローマとむすぶ蟹田」の今昔写真

8日から10日までの3日間、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス」を使って東北を訪ねてきた。
初日は津軽半島。
上野から6時38分発の「はやぶさ1号」に乗ると、9時50分に新青森駅に着くというのは、昔を知る人間としては何度驚いてもきりがないほどである。
1975年の旅では、上野発19時10分の急行「八甲田」に乗って、青森駅に6時15分に着いている。

それはさておき、新青森から目指すは龍飛岬。函館行きの「スーパー白鳥1号」に乗り、蟹田で津軽線の三厩行きに乗り換えることになる。

津軽線三厩駅

これが蟹田駅。写真右端の木製の看板には、「北緯41°ニューヨーク ローマと結ぶ かにた」という大胆なキャッチコピーが書かれていた。

蟹田駅では30分ほどの待ち合わせ時間があったので、町中をぶらぶらすることに。
用意していた1977年撮影の町なかの写真と照らし合わせて、定点写真を撮ろうという魂胆である。

蟹田1977年10月

蟹田2015年3月

まずは、駅前を直進して、海岸に沿って走る松前街道との交差点。
1977年には洋館づくりのような味わい深い木造の建物があったのだが、もちろんそれは姿を消していた。

蟹田1977年10月

蟹田2015年3月

交差点を左折(北上)して100mほど進んだところにあった、これまた味わい深い消防団の倉庫。
左は火の見櫓だろうか。木造の火の見櫓は、ここ以外に見たことがない。
今でも同じ場所に、消防団(分団)の消防車格納庫があった。

蟹田1977年10月

蟹田2015年3月

さらに、300mほど直線。このあたりの松前街道沿いは、かつては商店街を構成していたところ。現在でも、かろうじて、商店が残っている。
手前から2軒目の安田薬店は、建て替えていまでも営業中。奥の信号の先にある家は、昔のまま残っていた。

おわかりのように、最後の写真だけはカラーで撮っている。当時の旅行は、カメラを2台持って、1台にモノクロフィルム、もう1台にカラーポジフィルムを入れていたのである。
カラーは高いので、ここぞというときにしか撮っていなかった。

1977年、津軽半島に残る森林鉄道の跡を探る旅だった。

2014-08-19

小樽の今昔写真 1979年8月、1991年4月

小樽というと、北海道では押しも押されもせぬ観光地。
古い建造物や運河が残っていることでも知られている。
とはいうものの、保存建造物は別として町の姿は行くたびに大きく変わっている。
実は、運河の姿もすっかり変わっているのだ。

これが、1979年当時の小樽運河。運河の上にはしけが並んでいるのがわかる。
その後、札幌と小樽を結ぶ道路をつくるために、この運河を埋め立てるという話が起こり、町をあげて賛成・反対の運動が巻き起こったことは、もう地元の人でもないと覚えていないかもしれない。

1979年の小樽運河
43.197969,141.003008 (緯度,経度)

結局、運河の一部を埋め立てて道路を広げ、残る運河の反対側で倉庫を整備するということになった。
というわけで、運河沿いに並んでいる倉庫はもう消えてしまったかと思ったら、古い写真の左にある薄紅色の倉庫が、道路沿いに残っていた! その両脇の建物も昔のままのようだ。

2011年の小樽運河

たまたまこのストリートビューには映っていないが、このあたりは今では観光客でいっぱいである。
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もう1枚の写真は、それから12年たって訪れたときのもの。
小樽駅前である。
いかにも地方都市という風情が好ましい。バス停でたくさんの人が待っている。

1991年の小樽駅前
43.198047,140.995402 (緯度,経度)

現在では、道路がかなり拡幅されて、昔の面影はまったくない。
道路沿いの家がすべて取り壊されてしまって、すっきりはしたが、どこかきれいすぎるんじゃないかと思うのは、散歩者のわがままな感覚か。

2011年の小樽駅前

バス停は立派になって、以前と同じ場所にあるのがわかる。

2014-08-12

留萌十字街の今昔写真 1979年8月

今回の今昔比較写真は、道北にある日本海に面した留萌。
増毛方面からバスでやってきて、留萌十字街で下車すると、ずいぶん商店街が賑わっていた記憶がある。
当時のメモには、ここから留萌駅まで歩いて列車に乗る40分の間に、ラーメンを食べたとある。
交差点には「本町3」と記されているのが見える。

留萌十字街
43.941498,141.640361 (緯度,経度)

現在の交差点名は本町2丁目のようである。
今回、ストリートビューで見て、あまりの変わりように目を疑った。
道路が拡幅されたのはいいが、商店街がすっかり姿を消している。
ネットを探しまくってかつての賑わいを確認し、さらに旧写真の中央奥にある「山下商店」が現在の「山下ビル」ではないかと見当をつけて、やはりこの場所だろうと断定した。

留萌十字街

ストリートビューの奥に向かう道が、旧写真の左奥-右手前を走る道。
昨今は、地方都市の商店街が軒並み消えているが、それにしてもここの変化には驚いた。
そもそも、「十字街」という名称は、十字路のある商業地区の中心地である場合が多いのだが、すでにここは場末となってしまっているようだ。

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ついでにもう1枚。留萌十字街から留萌駅に向かう道の途中のスナップだが、場所が特定できない。
仮店舗で「名古屋セトモノ市」というのをやっている。

留萌市内

場所特定のポイントになりそうなのは、左端にある「キャバレー モンバリ」の看板。
もし、ご存じの方がいらっしゃったらお知らせください。

→コメントのやりとりで場所が判明しました。Kuroppiさん、ナオナオさん、ありがとうございます!

この写真の中央を拡大するとこんな感じ。

留萌市内

小さな器(皿?)が1枚10円! それ以外も30~100円という値段は、当時にしても安かったと思う。

2014-08-10

首里の街角の今昔写真 1993年3月

多忙でなかなか更新がままならない今日このごろ、
仕事の合間に気分転換でやっている日本各地の新旧対照をブログで公開してみようと思い立ちました。
古い写真は私が撮ったもの、新しい写真はグーグル・ストリートビューの画面をキャプチャーしたものです。
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まずは、沖縄県那覇市首里の街角で撮った写真2枚。
1993年というから、それほど古くはないけれど、こう見るとずいぶん昔のように見えるから不思議。
このときはまだ、モノクロ用とカラー用のカメラ2台持ち。
こうしたスナップ写真はモノクロで撮っていた。

まずは、首里桃原(とうばる)町にあった松山御殿跡。このときは庭園として開放されていた。
この庭園内にあった茶室で飲んだ「ぶくぶく茶」がなつかしい。
詳しい歴史については、ここ のページで。

松山御殿跡
26.223586,127.716925(緯度,経度)

ちなみに、これが庭園入口。バス停「桃原」前。
松山御殿跡

現在は、ライオンズマンション首里桃原が建っている

ライオンズマンション首里桃原

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もう1枚は、上の写真の少し南にある首里池端町の交差点。
角の店は赤瓦もゆかしい首里書房である。

首里池端町交差点
26.22008,127.715941(緯度,経度)

ちなみに、これが首里書房を正面から見たところ。
首里書房

現在、ストリートビューによると、ここは空き地になっていた。

首里池端町交差点

首里書房は、モノレール首里駅近くに移転しているようである。

著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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