ポルト旧市街は大人のテーマパークだった






夜に訪れた若い主人が営む小さなレストランや、そこで飲んだミネラル感たっぷり塩味が感じられる白ワインや、深夜までライブを楽しんだ宿の隣のスタンドバーなど、ポルトの思い出は書いていたらきりがないので、このあたりでおしまいとしたい。
そして、すでにポルトガルから帰ってきてから半年もたつのだが、今も毎日の仕事のおともにファドのCDをかけているのである。
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夜に訪れた若い主人が営む小さなレストランや、そこで飲んだミネラル感たっぷり塩味が感じられる白ワインや、深夜までライブを楽しんだ宿の隣のスタンドバーなど、ポルトの思い出は書いていたらきりがないので、このあたりでおしまいとしたい。
すっかり間が空いてしまいましたが、ポルトガルの旅の最後の町、ポルトの話。
コインブラからは、特急アルファペンドラーレに乗って、1時間半くらい。名前からして、振り子式の列車なのだろう。どこか垢抜けないスタイルだが、昔のポルトガルの鉄道とくらべたら素晴らしい変化である。
リスボンで指定席を買うのにこりたので、今度はネットで予約。車内の検札では、Eチケットを印刷した紙も不要で、タブレットを見せたが、それも必要ないという。名前だけ尋ねられておしまいであった。
大変だったのは、ポルトの駅から宿までである。
妻が「疲れたからタクシーで行きたい」というので、ポルトの駅前で待ったのだが、待てど暮らせどタクシーがやってこない。
長距離列車が停まるポルト・カンパーニャ駅は中心から外れているので、重い荷物を持って歩くわけにもいかない。
やむなく、不機嫌な妻とその重い荷物を引っ張って、なんとか200mほど離れたメトロ(というより、どちらかというとトラム)の駅まで移動。4駅乗って、さらに20分ほど歩いて旧市街の宿に着いた。
あとで知ったのだが、なんとタクシー運転手がストライキをしている日だったのだ。
宿の人も気の毒そうな顔で迎えてくれた。
宿にした旅行者用アパートは、世界遺産にもなっている旧市街の北側にある。
ちょっと殺風景だったポルト・カンパーニャ駅周辺とは打って変わって、味わい深い建物の数々に魅了された。
最初の写真は、宿からほど近い場所にあるクレゴリス教会とその塔。
「はじめて訪れた町では、まず高いところに登る」
この行動規範を守って、翌朝早くにここを訪れて、塔から町を見下ろした。
2、3枚目の写真は、町の中心部にあるポルト・サンベント(Porto São Bento)駅である。
アズレージョ(青タイル)が美しい建物はポルトガルじゅうにあるが、とくにここの構内は素晴らしかった。
近郊電車がたまに発着するだけの駅だが、利用者の何倍、いや何十倍もの観光客で賑わっていた。
せっかくならば、長距離列車もこの駅まで乗り入れてほしいものである。
行き止まり式のホームなので使い勝手が悪いのかもしれないが。
そして、一大観光スポットであるドン・ルイス1世橋(Ponte Luís I)の近くで撮ったのがこの写真。
橋は2段になっていて、上段にはメトロが通っていた。
このメトロは都心では地下に潜り、郊外では外を走る。まさにLRTの見本といっていい路線である。
空港にも延びていて、旅行者の使い勝手もいい。
こんな便利な鉄道が、日本の地方都市にあればいいのだが……と思うことしきりであった。
さて、宿泊したアパートの室内がこれである。
建物の外側は、旧市街とあってどうということのないものだが、中はきれいにリフォームしてあった。
こんな宿ならば1週間くらい泊まりたいものだが、今回は2泊だけ。
夜になって、どこかに軽く飲みに行くところはないかと思っていたら、まったく心配なかった。
なんと、宿の前の道に面して、何軒ものビア・バーや軽食屋が並んでいるではないか。
飲み屋街のまっただなかに泊まったようなイメージである。
そして、夜遅くに店を出てびっくり。
土曜の夜とはいえ、まさに道路を埋めつくすような人出なのである。
宿のテーブルの上に耳栓が備えられていた理由がよくわかった。
人の声は、明け方4時ごろまで聞こえていた。
コインブラ(Coimbra)の主要駅には、コインブラB駅とコインブラA駅がある。
リスボンやポルトと結んでいる本線上にあるのは、町外れにあるB駅。町の中心部に行くには、そこからローカル列車に乗ってA駅まで行く必要がある。
B駅とA駅の間は約3km。1区間だけの盲腸線が結んでいる。
あとで知ったのだが、2010年ごろまではA駅から先に路線が延びていたようだ。
Googleストリートビューを見ると、確かに廃線跡が伸びていて駅も残っている。そのまま跡をたどっていきたかったが、1泊2日ではそんな時間はなく、道路上に残るレールを撮ったのみに終わった。
コインブラ訪問の目的は、世界遺産にもなっているコインブラ大学と、コインブラ独自のファドである。
情念の固まりのようなリスボンのファド(みんながみんなそうではないけれど)と違って、コインブラのファドは青春のセンチメントを歌いあげるというのが私の勝手なイメージである。
なにより、歌い手がコインブラ大学の在学生か卒業生の男性に限られているというが興味深い。
下調べをしてみると、コインブラのファドが聴ける場所は限られているようで、そのなかでも夜遅くまでやっている中心部のカフェ・サンタクルス(Café Santa Cruz)に向かうことにした。
金曜日の夜なので、そこそこ人は出ているが、さすがに大学を中心にできた都市だけあって、リスボンのような喧騒はない。
その代わり、中心部の広場ではなぜか東欧風の民族舞踊が行われていて黒山の人だかり。
しかし、踊りはともかく歌い手がひどく下手だった。
それは素人でもわかる下手さ加減で、妻も同意見だから間違いない。
だが、それでも見物人はみな喜んでいるようなのは解せないところである。ほかに娯楽が少ないからなのだろうかと勘繰ってしまうほどの体験であった。
それはそれでいいのだが、目指すカフェ・サンタクルスの入口が、その踊りをやっているすぐ脇にあるのだ。
上の写真で、中央に見えるのがサンタクルス教会で、カフェはその右の建物である。
「こんなうるさくちゃ、ファドのライブは休みかな……」
心配になったが、店の入口には18時からと22時からライブがあるとの貼り紙がしてある。
恐る恐るドアを開けると、カフェの内部はかなり広く、奥の舞台で男性歌手がギタリスト二人を従えて歌っていた。
防音もしっかりしているのか、店に入るとあの下手くそな歌声はほとんど聴こえなくなっていたのは幸いである。
来店が遅くて結局1時間弱しか聴けなかったが、いかにもコインブラ大学卒業生という感じの中年インテリ男性は、透き通った高い声でファドをすがすがしく歌いあげていた。
そして、ここでも客で唯一CDを購入。カフェが製作したオムニバス盤であった。
「私は20年ほど前、演奏旅行で日本に行ったことがありますよ。素晴らしい国民ですね!」
サインをしながら、歌手のアントニオ・ディニスさんは穏やかな微笑みを浮かべて語った。
半分は社交辞令であっても、うれしいものである。
そういえば、上の写真では、舞台の上に椅子が逆さまに吊る下げてあるのが見えるが、その理由を聞きそこなった。
「ダモクレスの剣」のようなものなのか。よくわからない。
さて、目的のコインブラのファドは聴けたが、すでに時刻は11時半。
カフェの飯では寂しいので、まともな晩飯を食べようと町をめぐるのだが、どこも閉店の札が。
最後にたどりついたのが、その名も「ソラール・ド・バカリャウ」(Solar do Bacalhau)という鱈(タラ)が名物らしきレストラン。バカリャウは、ポルトガル語でタラのことである。
団体観光客でも来るのか、かなりの広さの店であった。
もう、一部では片づけはじめていたところを、店長らしき人がにこやかに招き入れてくれた。
料理は十分にうまかった。
名前になっているだけあって、干し鱈の料理はとくによい。
店の片隅には、干し鱈ミニ博物館のようになっていて、ビンテージ干し鱈がぶら下がっていた。最後の写真である。
料理を食べ終わり、ホテルにたどりついたのは夜中の1時ごろ。
フロントは24時間サービスをしているというので、まるで警備員のようなフロントのおじさんにお願いして、エスプレッソコーヒーを入れてもらい、薄暗いロビーで飲む私たちであった。
たったの2泊3日だったが、濃密なリスボン滞在であった。
アルファマに近いサンタ・アポローニャ駅から、コインブラに向かったのは9月21日のこと。
ここは、昔ながらの始発駅という情緒を色濃く残している駅だ。
下の写真で、右端に半分だけ写っている青っぽい建物が駅の正面。
駅の雰囲気はいいのだが、切符の自販機がないのには困った。
午前中にベレンに行く前に購入しようとしたところ、出札口はかなりの行列で、窓口にたどりつくまでに20分ほどかかってしまった。
しかも、希望した最速の特急列車はすでに満席。
その前の列車も、並びの席はなく、通路をはさんで隣り合う席がようやく買えた。
やはり、ネットで買うのが正解のようである。
フォロからリスボンへの列車は、ポルトガル鉄道のサイトに登録してまで予約しておいたのだが、リスボンからコインブラまでは本数が多いからと甘く見ていた。
旅先ではチケットの控えの紙を印刷できないから困ると思ったが、スマホがあればいいんだし、車内ではそれさえも見せることなく、名前を聞かれただけで検札が終わった。
コインロッカーも幸い空きがあってよかったが、鍵をかけてコインを投入してレシートを受け取る手順が、日本と微妙に違っていた。
一応、手順が図解されているのだが、欧米系の旅行者もとまどっているようだった。
近くで、私たちとほぼ同時に荷物を預けていた老夫婦などは、間違えて私たちのロッカーのレシートを受け取って2ユーロを投入してしまっていた。
もちろん、丁寧に説明をして2ユーロを支払い、レシートを受け取った。
さらに、彼らが荷物を預けるのを手伝ってあげたのは言うまでもない。
出発時刻までは、学食みたいなカフェでビールを飲み、駅構内にあるスーパーマーケットを見物したり、駅の端から端まで歩いて写真を撮ったりと、意外と忙しく過ごしたのである。
最後に、1981年との定点比較写真を撮影。
37年前は、この駅からスペイン経由でフランスに直通する国際列車に乗ったように記憶している。下の写真の右側の列車である。
まだ20代だった私は、時刻表を見間違えて、発車予定時刻の2時間後に駅に来たのだが、まだ列車は発車していなかった!
近くの乗車口にいた女の子2人連れに「この列車は何時に出発するの?」と尋ねたら、「私たちもわからない」と困ったような顔をしていたっけ。フランス人だった。
結局、始発駅だというのに3時間も遅れて発車。
どうなるのだろうと思っていたら、フランス国境の駅で3時間も停車するスケジュールになっているではないか。
「最初から遅れを見越しているのか!」とびっくり。
フランス領内に入ったとたん列車のスピードが上がり、時刻表どおりに走るようになったのが印象的だった。
今回の旅では、さすがにそんなに遅れることはなかったが、このとき私たちが乗る列車は30分の遅れでリスボンをあとにしたのであった。
路面電車のほかに、リスボンの乗り物で忘れちゃならないのがケーブルカーだ。
低地の中心部と、周囲の丘を結ぶケーブルカーの路線が確か3路線あったと記憶していた。
3つとも乗りたかったのだが、時間の関係で今回は2路線の乗車である。
まずは、観光ポスターの写真にもよく登場するビカの路線である。
宿泊していたアルファマ地区とは、都心をはさんで反対側にあるが、28系統の路面電車で乗り換えなしにケーブルカーの上の駅近くに行ける。
バックにテージョ川が見えるこのアングルが人気だ。
案の定、乗ってくるのは観光客ばかり。
確か15分おきくらいに動いてたように記憶している。
しばらく待っても発車する気配がないので、線路に並行する道を下り、車両がすれ違う中間地点あたりで走行写真を撮ることにした。
だが、登ってきた車両は落書きだらけ。撮影意欲が著しく減退してしまった。
その一方で、最初に見た車両は落書きのない美しい姿だったのは運がよかった。
下りは歩いても5分ほど。あっというまに着いてしまった。
上りはさすがにつらそうなので、超満員のケーブルカーを待って乗ることにした。
次に向かったのが、そこから500mほど北にあるグロリア線。
ロシオ駅の北側からサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台のある公園横に至る短い路線だ。
ここには1981年にたまたま通りかかって写真に撮っていた。
それが下の写真である。
車体は水平につくってあるものだから、下から見るとかなり馬ヅラなのが印象的だった。
現在は2両とも落書きだらけでがっかり。あまりにも違う雰囲気が、よくも悪くも対比になった。
たいした距離でもないのだが、市内1日切符があったので乗ってみることにした。
ビカ線ほど観光地としては知られていないが、それでも観光客がたくさん乗り込んでくる。
発車ぎりぎりに駆け込んできたのが、6、7人ほどのおばさん軍団。
派手な色の服を着て、大声で会話をしている様子は、まるで大阪のおばちゃんである。
「どこの国でも、おばさんパワーはおんなじだね」と微笑む私たち。
だがそこで、「うむ、待てよ」と私は違和感を覚えた。
よくよく彼女らの会話に耳を済ませていると、ポルトガル語じゃなくてスペイン語のようなのである。
「グラシアス」なんて言葉がはさまっていたし、ハ・ホといった「j」音も多く含まれていたので間違いない。
「なるほどねー」と私は納得した。
前にも書いたように、この旅で最初に訪れたマドリードでもセビーリャでも、スペイン人は、エネルギーの無駄使いじゃないかと思うほど大きな声でしゃべっていたのである。夜の飲み屋はもうカオスであった。
ところが、国境を越えてポルトガルに入ったとたん、周囲の人たちの声のトーンが下がったのを感じた。
レストランでも夜の雑踏でも、音のレベルがスペイン人よりもかなり低いのだ。
「日本じゃ、ポルトガル人もスペイン人も変わりないと思われているけど、実際に来てみると違いがよくわかるね」
満員のケーブルカーのなかで、まるで大発見でもしたかのように満足する私であった。
鉄道好きにとって、リスボンと聞けばすぐに路面電車(トラム)を思い浮かべるほど、この町の電車は世界中に知られている。
とくに、町の東側にあるアルファマ地区と西側にあるバイロ・アルト地区を結ぶ28系統は、昔ながらの小型の車両が走っていて大人気。アルファマでは、中心部のやや北側を通っているのだが、こんな狭い裏通り──というよりも路地によく線路を敷いたものだと感心する。
1981年にリスボンに来たときも、路面電車のことは知っていたから、このあたりをぶらぶらするついでに写真を撮っていた。そこで、これもまた今回、定点比較写真をしようと思ったのである。
下の写真は、複線の線路がカーブする地点だが、曲がり角で道幅が狭いために、一方の線路が他方に割り込んでいるのがわかる。専門用語で「ガントレット」と呼ばれる方式で、もちろんここで両側から同時に電車がやってきたら正面衝突してしまう。
それを避けるために、当時は1日じゅう係員が立っていて、衝突しないように電車に向かって手で信号を出していた。
左側の写真の左端あたり。木の下に2人立っているのだが、その人が手信号を出している。
棒の先につけている丸い板は、片面が赤、もう片面が緑になっていて、そのどちらかを運転士に向かって見せるわけだ。
さすがに、今回行ってみたら自動信号に変わっていた。
しかも、信号は500mほど先のもう1つの信号と連動していて、その間の区間が交互通行になっているのだ。
つまり、電車だけでなく自動車もまた、何分かおきかに一方通行になるのであった。
下の写真は、ガントレットを撮った場所から180度振り向いて撮ったもの。
線路はいったん複線に戻っているが、さらにその先で単線になっている。
運悪くここで両側から電車が出くわしても、ここですれ違うことができそうだ。
それにしても、周囲の情景がほとんど変わっていないのに驚く。
さらに進んでいくと、本当に建物すれすれのところを電車が通っていく場所がある。
それが下の写真の区間である。
左が1981年の写真だが、このときは電車が通過するときに、建物にぴったりと張りついてやり過ごした記憶がある。写真に写っている女性も同様だった。
ファドの歌詞に出てきそうな趣のある女性で、今回もそんな人が歩いてこないかなと待っていたのが、残念ながらそううまくはいかなかった。
不思議なことに、今回は電車が通過してもスペースに余裕があった。
「不思議だな。昔の記憶はいいかげんだったのか」
そう思ったのだが、家に帰って写真をくらべてみてわかった。
左側の建物は建て替えられていたのである。何十センチかセットバックしたおかげで、歩道に余裕ができたことがわかった。
最後の写真は、交互通行の反対側の信号機がある地点である。電車と自動車が青信号を待っているところだ。
電車は次から次へとやってくるので、このあたりはいくらいても飽きない。
そして、乗客の半数以上は観光客のようである。
地元の人にとっては迷惑かもしれないが、やはり乗っていても楽しい。
もちろん、この区間だけでなく、丘を昇り降りする区間ではカーブと坂の連続。次に来るときは、じっくり時間をとって、この28系統を制覇しなくては。
いよいよ、旅のメインイベントの1つ、スペインからポルトガルへのちょっと変わった国境越えである。
この日の目的地は、ボルトガル南部にあるファロ(Faro)の町。
現在は、セビーリャからの直行バスが、日に何本か所要2時間半で走っているのだが、それじゃおもしろくない。
1981年に利用したコースをたどっていくことにした。
まずは、セビーリャ・サンタ・フスタ駅を10時に発車するウエルバ(Huelva)行きに乗車。
ウエルバまでは1時間半の旅である。
この区間は1日に3本しか走っていないので(ほかにマドリード発ウエルバ行きが2本あるようだ)、満員になったら大変と、日本にいるうちからネットで予約しておいた。
だが、乗ってみたら車内はがらがら。6両ほどの編成の各車両に2、3人ずつが乗っているだけだった。
また、AVE(高速列車)と違って、乗車前の荷物検査もない。
気抜けして、車窓のアンダルシアの風景をぼんやり見つめる私であった。
もちろん、下の写真は、1981年に乗ったときのものである。
1981年当時は、おんぼろなレールバスのような車両で、2倍くらいの時間がかかったように思う。
列車は速くなったしエアコンが効いて快適ではあるのだが、あの、行けども行けども続く乾いた大地を眺めながら、暑苦しい車内で過ごしたけだるい時間が懐かしい。
実は、終点のウエルバ駅は、つい最近になって新装オープンしたばかり。
500mほどセビーリャ寄りに移転して開業したことを、日本出発直前に知った。1日に5本くらいしか発着しないのに、ずいぶんな投資である。
しかも、町の中心から離れてしまったので、列車を降りた乗客の何人かは、がらんとしたタクシー乗り場で茫然とする始末。
バスターミナルへは歩いて30分近くかかるので、重い荷物を抱えた私たちはひたすら待つしかなかった。
上の写真が、1981年当時のウエルバ駅。
手前のホームに停まっているのは、スペインが誇る高速客車「タルゴ」。
マドリード方面からやってきたのだろう。自動で軌間変換する機能がついている車両なので、もしかするとさらにフランスに乗り入れていたのかもしれない。
当時はずいぶんな利用客がいたんだなあと感慨深い。
そのときは、ここからさらに西にあるポルトガル国境のアヤモンテまで、ローカル線に乗り換えて向かった。
だが、その路線はすでに廃止されている。
だから、ここでバスに乗り換えなくてはならないのである。
ウエルバ駅から乗ったタクシーの運転手に、「バスターミナルまで。その途中で、ウエルバの旧駅を見たい」と伝えて、昔撮った写真を見せると、「おお、この駅は6カ月前まで使われていたんだよ!」と興味を示してくれた。
1981年は、駅の構内で乗り換えただけなので、こんな立派な駅舎だとは思わなかった。
ただし、もう営業をやめているので、カギがかかって入れない。しかも、周囲は2メートルほどのコンクリートの瓶がめぐらしてある。
ぐるりと駅の横にまわり込むと、足場代わりになりそうな50センチほどの鉄の棒が立てかけてあるのを見つけた。
周囲には人もいないし、これは決行するしかない!
助走をつけてその棒に足を乗せ、その勢いで塀の上に手をかけ、懸命にふんばって塀の上に登ることができた。
そうして撮ったのが、上の写真である。昔の写真とは、高さこそ違うが、近いアングルである。
「思い出の写真は撮れた?」
駅前で待っていてくれた運転手が、にこやかに迎えてくれた。
アヤモンテ行きのバスは13時発。
しばらく、バスターミナル前の軽食堂で、腹ごしらえをして待つことにした。
スペインの夜は長い。
地元の店は9時ごろから客が集まり、12時過ぎても町は賑わっている。
マドリードほどではなかったが、セビャーリャもそうだった。
最初の写真は、2007年に開通したセビーリャのトラム(路面電車)。
今どきの超低床車が、サン・ベルナルドからプラサ・ヌエーバ(ヌエーバ広場)までの1路線2.2kmを往復している。
この写真は、一方の終点であるプラサ・ヌエーバで撮ったもの。
セビーリャは、トラムとは別に、メトロ(主に地下を走っているが、地下鉄というよりも軽鉄道というイメージ)もあるが、さすがに歴史的な旧市街の地下は簡単に掘れないようで、旧市街はこのトラムが走っているというわけだ。
今回は、観光地でもあるスペイン広場に行った帰りに、新市街でこのトラムに乗った。
電車はやがて旧市街に入り、セビーリャ大聖堂の横を通り、まもなく終点のプラサ・ヌエーバに着いた。
乗ってみると、あっという間である。
ところで、旧市街の北西にあるプラサ・デ・アルマスのバスターミナルには、下の写真のような電車が保存されていた。
車両の大きさからいうと、昔の路面電車のようにも見えるが、屋根に乗っているのは大型の菱形パンタグラフである。
もしかすると、都心と近郊を結ぶ電車だったのかもしれない。
ちなみに、プラサ・デ・アルマスのバスターミナルの隣には、1990年まで鉄道駅として使われていた駅舎が保存されている。
ところで、2泊したセビーリャで連続して通ったのが、旧市街のホテル近くにある「Los Coloniales」(ロス・コロニアレス)という店。
最初は日曜の夜だったので、夜遅くまで開いている店が少なくて、たまたまここに入ったのだが、これが当たりだった。
しかも、「テラスが満員なので、ここで待っていてくれ」といわれたカウンターが楽しかった。
客は、地元の人と観光客が半々くらいか。
ハモン・イベリコや野菜・タコのサラダなどをつまみに、生ビール、白ワイン、赤ワインと、すすめられるままに、いろいろと飲んで食べた。
まあ、食べものうまい店は、ほかにいくらでもあるだろうが、ここは店員のおじさん、お兄さんたちの愛想がいい。よすぎるくらい。
グラスワインは、おかわりするたびに量が増えていく。4杯目はグラスになみなみと注いでくれた。
1杯飲んでサッサと帰る客が多いなかで、2時間ほども粘ったわれわれである。
イタリア語まじりのインチキスペイン語と英語で、適当に楽しく意思を疎通させた。
これは、Tindo de verano(ティント・デ・ベラーノ)という飲み物をつくっているところ。
店によって作り方が違うそうだが、ここでは赤ワインをレモンジュースで割っていた。
スペインの暑い夏には、これがピッタリだ。
勝手に動画を撮って公開してしまったわけだが、まあ宣伝になるからいいよね。
スマホで動画を撮っているとは思わず、ずっとポーズを撮っている2人がかわいい。
このところ、秋はイタリア旅行が定例化していたのだが、今年はスペイン、ポルトガルを目的地にした。
とはいっても、スペインは行き帰りに立ち寄るだけで、メインはポルトガル。
スペインは1981年と85年、ポルトガルは81年に行ったきりだから、それぞれ33年ぶり、37年ぶりの訪問である。
イタリアのすぐ近くにあるのだが、イタリア国内をめぐるのに心を奪われて、なかなか足を延ばすことができなかったのだ。
飛行機はイベリア航空でマドリード直行。そこから、セビーリャ(セビリア)を経由して、南から国境を越えてポルトガルに入る予定である。
実は、これは1981年のコースと同じ。当時は、イタリア・フィレンツェでの3カ月近い語学学校を終え、下宿先のおばちゃんに無理をいって荷物を置いてもらい、1週間ほどのスペイン、ポルトガル旅行に出たのであった。
つまり、同じコースをたどって、37年前と同じ場所を見てみようと思ったわけである。定点比較写真も公開していくのでお楽しみに!。
そんなセンチメンタルジャーニーだから一人で行こうかと思ったのだが、妻が付き合いたいというので、今回も二人旅となった。
1981年のスペインというと、独裁者フランコが死んでまだ7年。「ピレネー山脈の南側は、半ばアフリカ」とまで言われたほどで、旅行者も今ほど多くなかった。
もちろん高速列車などなく、バルセロナ~マドリード、マドリード~グラナダは夜行列車を利用したっけ。
日中にはまあまあ速い特急列車があったが、本数が少なくて当日になって指定券を買おうとしても満員のことが多く、のんびりとしたローカル列車で移動を強いられたのもいい思い出である。
トップの写真は、マドリードの中心にあるアトーチャ駅。ここから、高速列車AVEが各地に走っている。
2枚目は、1981年のアトーチャ駅である。青い車体は近郊に向かう電車だ。このドームの一部は、待合室を兼ねた飲食店街になっていた。3枚目の写真である。
9月15日、アトーチャ駅近くのホテルに到着したのは午後8時過ぎ。
スペインのメシ屋は夜遅くまでやっていることはわかっているので、少し休憩をして9時をまわってから都心まで歩いていった。
まず向かったのは、中心の広場であるプエルタ・デル・ソル。
直訳すると「太陽の門」だ。だから、最初にここに来たときは、近くにいたおじさんを捕まえて、「門(プエルタ)はどこですか?」とウブな質問をしたものだった。
周囲の人たちは、「はて? この東洋人の若造は何を言っているんだろう?」と微笑みを返してくれたことを覚えている。
上の写真は、プエルタ・デル・ソルのシンボル(?)である「ティオ・ペペ」の広告である。
土曜日ということもあってか、真夜中になっても都心はすさまじい人出。
まずは、何か食べようということで、「ムセオ・ディ・ハモン」(ハム博物館)というユーモラスな名前の店に突入。
満員の客をかきわけて、カウンターに場所を確保して、生ハムとビールを注文した。
それにしても、なぜスペイン人はあんな大きな声で会話をするのか。イタリア人の比ではないと感じた。
この疑問は、結局、旅の最後までつきまとっていたのであった。
もう一つ驚いたのは、どの店でも、そしてホテルの朝食でも野菜が出てこないこと。
スペイン人は野菜を食べなくても平気なのか、あるいは平気じゃないのか。それとも、家で野菜をたっぷり食べているのか、これまた大きな疑問となって私を当惑させた、33年ぶりのスペイン、37年ぶりのマドリードであった。
翌日は、午前中にプラード美術館、そしてソフィア王妃美術館のゲルニカを見てから、午後1時発のセビャーリャ行き高速列車(AVE)の客となったのである。
だらだらと書いてきたこの旅の記録も、これが最終回。
姫新線を津山から姫路まで乗ったときの話である。
姫新線は、前にも書いたが姫路と新見を結ぶ路線のこと。ただし、現在は直通列車がない。
いや、ないどころか、何回も乗り換えなくてはならない。
このときも、前日に新見~津山を乗ってから、津山~佐用、佐用~播磨新宮、播磨新宮~姫路と4列車を乗り継いだ。
津山では午前中に「津山まなびの鉄道館」を見学。
不覚にも、現地に行くまでは、こんな立派な扇形庫が残っていて、それが公開されているとは知らなかった。
「学ぶ」のはもうたくさんという気持ちはあるが、楽しく見ることができた。
駅から構内を横切ればすぐだが、さすがにそうはいかず、ぐるりと大回りして歩いて15分。帰りは市内を巡回しているミニバスを利用した。
そして、津山駅を12時16分に発車する佐用行きに乗車。またしてもキハ120である。
まあしかたない。だんだんと、この乗り心地の悪さにも慣れてきた。
佐用までの車窓は、まさに里を行くローカル線といったのどかな風情である。
ここで気がついたのだが、昨日の木次線からずっと同じ列車に乗っている40代くらいの男性がいる。
木次線で私は、運転席近くに行って前面の車窓を撮ったり最後尾に行ったりと、落ち着きなくうろうろして、あたり構わず写真を撮っていたのだが、彼はじっと席に座っていた。
長時間停車になるとコンパクトカメラを手にして、何枚か写真を撮ると車内に戻っていく様子を覚えている。
彼も津山か新見で泊まったのだろう。
それはさておき、佐用には13時12分着。
姫新線は、佐用で智頭急行に接続している。その接続を重視しているのか、姫新線内の津山~佐用と佐用~姫路の接続はきわめて悪い。
佐用では1時間半近い待ち合わせ時間があったので、これを昼休みの時間だとプラスにとらえて、町をぶらぶらして昼飯をとることにした。
駅自体はコンクリートがむき出しの殺風景なものだが、駅前の建物が興味深かった。
昭和40年ごろに建てられただろう建物は、けっして骨董的な価値があるわけではないだろうが、個性的な外観でおもしろい。
そして、昼飯は駅近くの「和楽路」へ。これがなかなかいい店だった。若い夫婦が営んでいる店だろうか、シンプルに見える料理も手の込んだ自然の味わいが感じられ、また客あしらいもいい感じ。客には子ども連れもいて、地元の人で込み合っているのも、むべなるかなと感じた。
佐用から乗ったのは、14時36分発の播磨新宮行き。この列車にも、例の彼が乗っていた。
どこかでメシを食べてきたのだろうかと、人ごとながら心配になる。
なにはともあれ、ようやくキハ120の呪縛から逃れることができた。キハ127系のふかふかのクロスシートに座ったとたん、これまでたまった疲労と、うまいものを食べた満足感とで、うとうとしてしまった。
播磨新宮では、ホームの対面に停車している姫路行きに乗り換え。
姫路が近づくにつれ、徐々に乗客が増えていく。
そして、15時37分ににめでたく姫路駅着。今回の中国山地ローカル線乗り歩きは完結である。
前回来たとき、姫路駅は工事中で、姫新線のホームは柵に囲まれた地平にあったが、今では高架に移っていた。
高架ホームからは姫路城が額縁に収まっているかのように、正面に見えた。これは見事な演出である。
乗ってきた車両の写真を撮っていると、「彼」は少し後ろで私の撮影が終わるのを待っていた。
結局、会話を交わすどころか、まともに視線も交わすこともなかった。
だが、長い時間を共有した仲間ではある。もう二度と会うことはないだろうと思うと、少ししんみりしたのであった。
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