カテゴリー「鉄道、乗り物」の232件の記事

2023-11-15

南チロルからエミリア-ロマーニャへ移動

9月9日、3泊したボルツァーノに別れを告げて向かったのは、ボローニャにほど近いエミリア-ロマーニャ州のフォルリ。この町の名前は、アクセントが最後のiにあるので、最後の「リ」を強めて伸ばし「フォルリー」と発音するほうが近い。

エミリア-ロマーニャ州では、すでにボローニャに泊まったことがあるので、以後の旅程や宿の値段も考えてフォルリを選んだ。ボローニャのあるエミリア地方よりも、地味で注目度が低いロマーニャ地方に魅力を感じていたこともある。

イタリアの鉄道雑誌

ボルツァーノ駅構内の売店でイタリアの鉄道雑誌「I Treni」と「Tutto Treno」を購入してバールでひと休み。鉄道雑誌は、町なかの書店でも売っている店が少ない。むしろ、大きな鉄道駅で雑誌や雑貨を扱う売店のほうが確率が高い。

乾いた空気のなか、オレンジの生ジュース(スプレムータ・ディ・アランチャ)が喉にしみる。。

ボローニャ駅

まずは、ボルツァーノ発ボローニャ行きのRegionale Veloce(レジョナーレ・ヴェローチェ)に乗って終点のボローニャへ。レジョナーレは「地域の」という意味で普通列車を指すが、レジョナーレ・ヴェローチェはそれに「速い」が加わった列車種別だ。特別料金がいらない速い普通列車なので、日本流でいえば「快速」に当たる。

ボローニャ駅では40分ほどの待ち合わせ時間があったので、軽食をとってちょっと構内をぶらぶら。奇妙な窓ガラスがある待合室には、以前も訪れたことがある。

この待合室については、2009年にこのブログで「過去の記憶をとどめるボローニャ駅の待合室」と題して取り上げたことがある。1980年に起きた大規模な爆弾テロで多くの死傷者を出した事件の跡をとどめているのだ。旅行中の日本人男子学生も巻き込まれて亡くなっている。私と同じ年代の人だった。事件で割れたガラスを両側からはさんで、その形状を保存したのが上の写真である。

ボローニャ駅

2009年のブログで書いたように、前回は待合室内に事件直後の駅の写真、犠牲者全員の名前と年齢を彫り込んだ壁面、へこんだままの床が保存されていた。だが、今回行ってみると、割れたガラスのほかには事件直後の駅の写真があるだけで、ちょっとがっかりして驚いた。

名前を彫り込んだ壁は、どこにいったのだろうか。イタリアのことだから、そのまま廃棄することはないだろう。どこか別の場所に保存されているに違いない。

ボローニャ駅

さて、ボローニャからはアドリア海方面(イタリア東海岸)に向かう路線を利用する。この路線のローカル列車は、上の写真にある日立レール社製の 電車ETR421、通称「Rock」が使われていた。2019年に登場した車両で、内部は2階建てになっている。

フォルリ駅

車内の液晶画面には、途中駅や次の駅の案内のほかに速度も表示される。イタリアの幹線は駅間距離が長く、線路幅も広いので普通列車なのに最高150km/hで跳ばしていた。
ロックと聞くと上下左右にぐいぐい揺れそうに思えるが、新しい車両だけあって乗り心地は大変よろしかった。

途中、サーキットで有名なイモラの町を通り、ボルツァーノから都合4時間ほどかけてようやくフォルリの駅に到着した。

フォルリ駅

1時間に1、2本しか列車が停車しない割には、立派すぎるほどの駅舎である。
それはいいのだが、町の中心部が駅から1km近く離れている。
宿は旧市街の細い道に面しているので、バス停からも遠い。重い荷物もあることだし、駅前に停まっているタクシーを利用することにした。

フォルリの宿

イタリアの旧市街によくあるように、道は一方通行だらけ。しかも、週末とあって広場で開かれる演奏会のために広場付近はすでに通行止め。
ぐるぐると旧市街をまわったすえに、なんとか宿の前にたどりついた。料金は15ユーロだったか。

宿は、最近のイタリアで急速に増えている旅行者用アパートである。正面の白い2階建ての建物がそれだ。ここの1、2階がすべて使える。

フォルリの宿

内部は清潔で、洗濯機も冷蔵庫も備わっている。これでホテルよりもずっと安いのだから、利用しない手はない。
朝食は出ないが、かえって時間を自由に使えていい。いつでも好きなときに出入りできるのは、気ままな旅が好きな人間にはぴったり。
ここに3泊する。

2023-11-10

カルダーロでメンデル峠の長大ケーブルカーに乗車

ボルツァーノ滞在中、ティローロ(チロル)訪問の翌日に向かったのは、ボルツァーノの南西にある「ワイン街道のカルダーロ」。
愛称のように聞こえるが、これがこの自治体の正式名称なのだそうだ。カルダーロという町はよそにもあるので、そう名付けたらしい。もちろん、地元の人たちはみんなはカルダーロ(ドイツ語はカルターン)としか呼んでいない。

カルダーロのワイン畑

ワイン街道というだけあって、町の周辺には緩やかな斜面にワイン用のぶどう畑がびっしり。
ボルツァーノからカルダーロへは直通の路線バスで40分ほどである。

メンデル峠のケーブルカー

上の写真は15年前の2008年に、カルダーロの市街地から撮ったものだ。すさまじい勾配を登っていくケーブルカーに驚いたのだが、乗り場までは遠そうだし、バスの路線も時刻もわからなかったので乗らずじまいになってしまった。

その後のネットの発達によって日本に居ながらにして情報が検索できるようになったので調べてみると、丘上にあるメンデル峠(イタリア語名:メンドラ峠)に向かうケーブルカーだとわかった。今回は満を持しての乗車である。

メンデル峠のケーブルカー

グーグルマップのおかげで、ボルツァーノのバス発車時刻もすぐにわかり、ケーブルカーの乗り場にバスで直接乗り付けることができた。
この写真は、丘下の乗り場近く。真紅の車体が映える。バックに見えるゴシックの尖塔は聖アントニオ教区教会だ。

メンデル峠のケーブルカー

ケーブルカーの定員は40人くらいだろうか。ドイツ系のおじおば観光客に加えて、イタリア語を話す親子にまじり、ケーブルカーに乗車。
かなりの距離をすさまじい勾配で登っていくので、みんな大喜びである。

メンデル峠のケーブルカー

中間地点でのケーブルカーのすれ違い。
所要12分というから、かなり乗りでがある。

メンデル峠のケーブルカー

これが丘上の終点。路線延長は2.37kmとのことで、その間に854 mの標高差を登る。丘上のメンデル峠にきてみると、ちょっぴり俗っぽい観光地だった。
ケーブルカーと並行して、ヘアピンカーブを描いて登ってくる峠道がある。それが目当てなのだろうか、何軒もあるカフェテラスのあちこちでバイクツーリングのグループが休憩をしていた。天気もよくのどかな光景である。

2023-11-05

本家「チロル」のチロル城を目指して

ソプラボルツァーノの軽鉄道とともに、15年前の旅行で行きそびれたのが「ティローロ」(Tirolo)だ。ドイツ語名は「ティロル」、日本語では「チロル」として知られている地名である。
「チロル」と聞くとスイスやオーストリアアルプスの山深い風景を思い浮かべる人が多いだろうが、実はその由来となったチロル(ティロル/ティローロ)の町はイタリアにある。

ボルツァーノ駅

すでに書いたように、第一次世界大戦の結果、ハプスブルク家支配下のチロル伯領のうち、北チロルと東チロルはオーストリアに、南チロルはイタリアに分割された。そして、チロル伯がかつて居城としたチロル城は南チロルにあるので、チロルの本家本元はイタリアにあるのだ。
……なんてことを知ったのは、前回の旅から帰ってからのことである。「行っておくべきだった」と悔やんでも後の祭り。その「宿題」をやり遂げる機会がようやくやってきたのである。

グーグルマップによれば、チロル城の近くまではメラーノ(Merano)駅前からバスがあると知り、まずはポルツァーノから列車でメラーノへ。
メラーノ行きのローカル列車は、1番線の端にある1A番線で発車を待っていた。自転車も積み込み可能である。

メラーノ駅

40分ほどでメラーノ着。ここは保養地として知られた町だが、駅は中心部から2kmほど離れている。

さて、イタリアでバスに乗るときのいつもの問題は、どこで切符を買うかである。近くには切符売場もタバッキもない。
思い余って近くに停まっていた別系統の運転手に聞いてみたところ、「バスのなかで買えるよ」とのこと。ほっとしてバスの到着を待つ。

カステル・トッレのバス終点

やってきたのはミニバス……というよりワゴンだった。「切符を2枚!」というと、運転手は「ない」という。
「えっ、車内で買えると聞いたのに!? またイタリアのバスの罠か……」
だが、それは思い違いだった。
「無料なんだよ。切符はいらない」と運転手は予想外のことを口にした。どうやら、山の上のほうに向かう住民や旅行者の利便をはかるために、無料で運行されているようだ。

途中から急勾配のくねくね道を走ること30分、終点のカステル・トッレ(塔の城)に到着した。そこは、上の写真のような味気ない駐車場だった。終点まで乗ったのは10人ほどである。

スーンシュタイン城

 バス停からすぐのところにあったのが、このスーンシュタイン城。これがイタリア語では通称「塔の城」というようだ。
なかなかフォトジェニックな建物である。
現在はレストラン付きのホテルになっていて、さきほどの駐車場はここを利用する人のためのようだ。

チロルの町遠景

グーグル先生によると、バス終点からティローロ城までは徒歩25分とある。丘の中腹をめぐる道で、坂はきつくないのが幸いである。
バスに乗ってきたドイツ系観光客のうち、2組ほどの高齢夫婦が同じルートで城に向かっていった。

彼らは高齢の人たちでもよく歩く。
「あんなに歩いているのに、どうしてみんな太っているのかしら」とは私の妻の感想である。

チロル城遠景

ドイツ系観光客はすたすたと先に行ってしまったが、われわれはあまりの絶景に感動して、あちこちで立ち止まっては写真を撮るので、なかなか進まない。
想定よりもかなり時間がかかったが、ようやく行く手にチロル城が見えてきた。

2023-11-03

ボルツァーノの高原を走る軽鉄道(下)

コッラルボからレノン鉄道(リトナーバーン)に乗って、ソプラボルツァーノに戻る途中で、走行写真を撮りたいと思った。
もちろん、撮影場所は行きの車内からチェックしていた。

コスタロバーラ(ヴォルフスグリューベン)駅

 下車したのは、中間地点に近いコスタロバーラ(ドイツ語名:ヴォルフスグリューベン)駅。この駅で下車して、ホームから発車シーンを撮影した。上の写真である。

コスタロバーラ(ヴォルフスグリューベン)駅

 次に、駅から離れてコッラルボ行きの列車を撮影。まるで模型のレイアウトのような情景である。駅のホームは、上の写真の奥にちらりと見える。

 

 高原をのんびりと走る列車の車窓。

ラッスンタ駅

 大半の列車はソプラボルツァーノ~コッラルボを走っているが、一部の列車はソプラボルツァーノからさらに西へ1駅のラッスンタ駅まで走っている。購入した切符は1日乗り放題なので、律儀にラッスンタ駅まで乗車して撮影することにした。上の写真である。

ソプラボルツァーノ高原

ラッスンタ駅からソプラボルツァーノ駅へ歩いて向かう途中ののどかな風景。ドロミティ山塊をバックに、ボルツァーノから登ってくるロープウェイが見えた。

旧型車両

ソプラボルツァーノの構内に置かれている旧型車両。特別列車としてときどき運行されるらしい。駅にポスターが貼ってあった。

 

2023-11-01

ボルツァーノの高原を走る軽鉄道(上)

 今回、ボルツァーノを再訪した目的の一つが、背後の丘上(というより山上)を走る軽鉄道レノン鉄道(ドイツ語名:リトナーバーン)に乗ることだった。15年前にはそんな鉄道があることを知らず、帰国してから地団駄を踏んだものだった。

ボルツァーノのロープウェイ

レノン鉄道に乗るには、ボルツァーノ駅近くにあるロープウェイに乗ってソプラボルツァーノへ。前回もロープウェイがあることはわかったが、丘上に立派な観光地があるとは想像もしていなかった。
ロープウェイは所要15分ほどだったか。窓からは遠くにドロミーティ山塊を見ることができる。

コッラルボ駅

レノン鉄道のソプラボルツァーノ駅は、ロープウェイ終点の目の前だった。レノン鉄道の運行は30分おき。ホームには大勢の観光客が到着を待っていたが、そのほとんどがドイツ語を話す年配の観光客だった。 
まずは、終点のコッラルボまで乗り通した。

コッラルボ駅

終点のコッラルボからは、バスでさらに上を目指す人や、自転車でめぐる人たちがほとんど。だが、私は列車の撮影のために、わき目もふらずに線路沿いに早足で歩く。
撮影場所は、車内から目星をつけておいた。もちろん、光線具合も折り込み済みだ。南向き斜面なので、順光で写真が撮りやすいのはよかった。

コッラルボ駅付近

そして、コッラルボ駅に戻って跨線橋の上から駅を撮影。
レノン鉄道は、ときに路面電車に区分されることがあるが、路面は走っていない。ただ車両は小型で、あえていえば関東の江ノ電や関西の叡山電車のような位置づけといっていいだろう。

コッラルボ駅

コッラルボ駅に隣り合うテラス席は居心地がよさそう。でも、ちょっと値段が高い。
だからといって列車ですぐに戻るのもつまらないので、コッラルボの中心部に歩いて向かうことにした。

コッラルボの村

駅から坂を降りること5分ほど。コッラルボの村はドロミーティを望むのどかで美しい村だった。地元の人が犬を連れて散歩をしたり、スーパーに買い物に行ったりする様子が見られるのもいい感じ。
中心部には立派な4つ星ホテルがあったので、そこに併設されたバールで休憩したのだが、ケーキもコーヒーも駅よりも安くて超美味だった。店内は広々としていて、カウンターの向こうには創業者らしき男性の写真が飾られていた。そして、その創業者の子孫らしき女性が、にこやかに応対してくれた。 

2023-10-31

ボルツァーノの賑わい(下)

前回も書いたように、ボルツァーノ自治県(=南チロル=アルトアディジェ)では、イタリア語とドイツ語が公用語になっている。ボルツァーノという町の呼び名自体も、ドイツ語ではボーツェンであり駅名は併記されている。

印象的だったのは本屋である。旧市街の書店で旅行ガイドブックを買おうしたのだが、旅行書の棚に行ってみても有名なTCI(ツーリングクラブ・イタリアーノ)の緑色のガイドブックが1冊も見当たらない。

ボルツァーノ旧市街

おかしいなあと思いながら探すこと数分、店員にイタリア語で尋ねると、「イタリア語の本は下のフロアなの」とのお言葉。言われてよく見ると、そのフロアにあったのはすべてドイツ語の本だった。

階段を降りると、ドイツ語の本のフロアとほとんど同じ構成で、雑誌、児童書から文学、旅行ガイドまで、イタリア語の本が並んでいた。たぶん、世界的なベストセラーも、ここではドイツ語訳とイタリア語訳が別々のフロアで売られているのだろう。単純に考えれば、同じ品揃えなのに普通の本屋の2倍の売場面積が必要になるわけだ。二カ国語併用は思った以上に大変に違いない。

観光用ミニトレイン

第一次大戦後に南チロル(=アルトアディジェ)がイタリア領になってからは、イタリア化政策が強引に進められたという。ドイツ語の使用は禁止され、「チロル(ティロル)」という地名さえも禁句になったという。学校ではイタリア語による教育が行われ、公職に就くにはイタリア語が堪能ではなければいけなかった。
さらに中南部からイタリア人の移住も国策として進められ、摩擦が耐えなかったと聞く。

連接バス

なんとか周辺国のとりなしもあって南チロルの自治権が大幅に認められると、今度は公職に就くにはドイツ語とイタリア語のどちらもが話せないといけなくなり、イタリア系住民は苦労してドイツ語を学ぶことになったという。

ちなみに、上の写真2枚は前回の記事でフレスコ画を紹介したドメニコ会教会の前をゆく観光用ミニトレインと連接バスである。フレスコ画の華麗さとは対照的に外観はシンプルなのがおかしい。

ビアパブ

さて、ボルツァーノでの晩飯だが、東京で南チロル料理をやっている三輪さんに勧めてもらった旧市街の店のうち、なんとなく雰囲気がよさそうなクラフトビール屋に突入した。
テラス席もあるが、目の前でビールが注がれるカウンターを選択。地元のおじさんがわいわいとおしゃべりしているのを聞いているだけでも楽しい。もっとも、ドイツ語で話していたので意味はわからなかったが。

ビールは絶品でメシもうまいので、結局3日間通いつめてしまった。イケメンで気が利いて頭の回転も早いマルコがサーブしてくれる。もちろん彼もイタリア語、ドイツ語、英語が堪能。いろいろとおしゃべりをしていくうちに、徐々に私もイタリア語が出てくるようになった。
フロアだけでなく地下には大きな醸造樽や醸造タンクがあった。

週末のボルツァーノ旧市街

観光シーズンの終わりに近い週末だったからか、市内ではビール祭りが開かれていた。ヴァルター広場をはじめ、旧市街にはビールや食べ物の露店が並び、大宴会場と化していた。ソーセージが焼けるよい香りが漂い、あちこちでバンドのステージが開かれている。

マルコに「きょうはビール祭りなんだね」と聞くと、「そうらしいね」と気のない返事。「関係ないんだ。大手のビールメーカーの祭りだから?」と聞くと、にやりとして「うん」と言う。規模が小さくてもいいビールを造っている誇りがあるのだろう。

夕刻のボルツァーノ駅

最後にもう一度ボルツァーノ駅の写真を。
駅から見えるドロミーティ山塊は本当に見事である。とくに、山肌が真っ赤に染まる夕刻はいくら見ても見飽きない。

ボルツァーノ駅

そして、これがボルツァーノ駅の出札所。基本的には15年前と変わらないクラシックな造りである。でも、駅の隣で大規模な建設工事が進められていたので、もしかすると駅もそのうちにそちらに移転するかもしれない。

2023-10-30

ボルツァーノの賑わい(上)

ボルツァーノを県都とするボルツァーノ自治県は、ドイツ語では南チロル、イタリア語ではアルトアディジェ(アディジェ川上流の意味)と呼ばれている。
その昔チロル伯が治めていたチロル伯領は、現在のオーストリアとイタリアにまたがる地域であり、その後ハプスブルグ家の支配下に入り、さらにオーストリア領となった。
第一次世界大戦後、オーストリアとの戦いでイタリアはトレンティーノを含む南チロルを領土とした。だが、トレンティーノが以前からイタリア系の住民が大半を占めている一方で、アルトアディジェにはドイツ語を話すドイツ系の人びとがほとんどだったことから、のちのちまで禍根を残すことになる。

ボルツァーノ駅

その後の経緯を書くと膨大な分量になるので省略するが、興味のある方はぜひ調べていただきたい。
イタリア支配に不満をもつ人びとによって、1970年代までは爆弾事件もあったりして不穏な状況が続いたが、紆余曲折を経てボルツァーノ県に大幅な自治が認められた。
現在では、トレンティーノ-アルトアディジェの州として機能は有名無実となり、トレンティーノ自治県とボルツァーノ自治県それぞれが行政を行っている。

ワルター広場

ボルツァーノ自治県ではドイツ語を母語とする人が現在7割を占めており、イタリアにありながらドイツ語も公用語になっている。
だから、1枚目の写真のように、駅名もなにもかも二言語併記となっている。

上の写真は町の中心部にあるヴァルター広場とボルツァーノのドゥオーモ(大聖堂)。広場の名前は中世ドイツの詩人にちなんでおり、広場の中央にはその銅像も立っている。

考古学博物館

ボルツァーノに午後に到着して、まず訪れたのは県立考古学博物館である。ここには、1991年にアルプスの氷の中でミイラ状態で見つかった「アイスマン」をガラス越しに見ることができる。「エツィ」の愛称を持つ彼は、5300年前にこのあたりに住んでいた人間だということは、当時日本でもメディアで紹介された。
閉館時間に近かったので、幸いなことに待ち時間もなく入ることができた。エツィのミイラは撮影禁止だが、この復元像は撮影できる。

ボルツァーノ旧市街

前回のボルツァーノ訪問当時は日本語による情報もほとんどなく、町をぶらぶらして近郊のメラーノとヴィピテーノ、カルダーロを訪れるだけで終わってしまったが、今回はきちんと下調べをしての訪問だ。

ボルツァーノ旧市街

それにしても、どこかうら寂しい雰囲気のあった15年前とは大違い。週末にかかっていたこともあり、市内は観光客で大賑わいだった。
その観光客のほとんどがドイツ系の人たち。町にはドイツ語があふれていた。

ボルツァーノ旧市街

実は15年前に訪れたときは、バールに入るのも道を聞くのも、ちょっと気が引けていた。ドイツ語はほとんどわからないし、南チロルの歴史を多少でも知ってしまうと、軟弱なアジア人観光客がイタリア語で話しかけたら嫌な顔をされるのではないかと危惧したからである。なにしろ、相手は体格のいいゲルマン民族だ。けんかをしたら勝ち目はない……かも。

フランチェスコ会修道院

もちろんそんな心配は杞憂に終わったのだが、それでもあとになって調べてみると、ボルツァーノで見そびれたり、周辺の町で行きそびれたところが山ほどあることを知り、今回は満を持して3泊4日で訪ねることにしたのである。
ドロミーティ山塊にも行きたかったのだが、今回の旅にはイタリアの各地をまわってアフターコロナの様子を探るという使命もあったので、ボルツァーノだけで時間をとるわけにはいかない。ドロミーティ方面は、また次回以降への宿題である。

ドメニコ会教会

最後の写真は、ドメニコ会教会のサンジョバンニ礼拝堂。立派な外観のドゥオーモに気をとられていて、こんな素敵なフレスコのある教会がその近くにあることを危うく見逃すところだった。外観があまりにもシンプルすぎる教会なので、内部がこうなっているとは気がつかない。

2023-10-28

ブレンナー峠を越えてイタリアへ

しばらく更新を怠っていましたが、9月にコロナ禍以降初の海外旅行として、3週間イタリアに行ってきました。
北から南までかなりの距離を移動しました。その旅のつれづれを少しずつアップしていきます。

ブレンナー峠

航空券が高騰している9月初旬、安くてそこそこまともな航空会社を探してようやく見つけたのがポーランド航空。ワルシャワ経由でミュンヘンに着いて1泊し、オクトーバーフェスト直前の町でしこたまビールを飲んだ。

そして翌日、ミュンヘン中央駅発オーストリア経由の国際列車でイタリアに向かう列車に乗り込んだ。

ブレンナー峠

ヴェネツィア行きの列車はドイツ人観光客で満員。私のコンパートメントは、ヴェローナに向かう老夫婦、自転車で北イタリアをめぐる中年夫婦、そして私たち2人である。

ブレンナー峠

最初の3枚の写真は、オーストリアとイタリアの間にあるブレンネーロ(ドイツ語名:ブレンナー)峠の車窓風景。古くはモーツァルトやゲーテも通った道である。第二次世界大戦直後には、秘かに南米に逃亡を企てるナチス高官も通ったのだそうだ。

ブレンネーロ駅

ブレンネーロ駅の直前まではオーストリア領で、ちょうどこの写真あたりに国境があるはず。
ブレンネーロ駅構内には長大な貨物列車が何本も出発を待ち、並行する道路には荷物を満載したトラックが走っている。ここはまさにアルプスの南北をつなぐ要衝であると実感させられた。

ブレンネーロ駅

いよいよイタリア、ブレンネーロ駅到着である。だが、ホームは狭苦しいし、警察官が巡回してものものしい雰囲気である。
もちろんEU域内なのでパスボートチェックも何もないのだが、どうやら不法移民や密輸に目を光らせているのだろう。

ブレンネーロ駅

ブレンネーロ駅には20分ほど停車して発車。結局、乗降客はほとんどいなかった。
イタリア領内に入ると、車内放送もイタリア語、ドイツ語の順になる。
ポルツァーノ自治県はドイツ語を母語にしている人が7割を占めており、イタリア語のほかにドイツ語も公用語である。だから、駅の表示もバス停も2か国語併記となっているのだ。

2023-08-27

夕刻に訪れた伊予長浜 瑞龍寺

ながながと続いてきた2022年春の四国の旅は、やっと最終回。伊予長浜の町をぶらぶらしているうちに、日が傾いてきた。

瑞龍寺

肱川の対岸にある瑞龍寺でしばし休息。全然知らなかったのだが、映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」のロケ地だったそうで、一時はたくさんの観光客が訪れたのだという。境内の鐘楼の横には、牛の石像とお釈迦様の涅槃像(牛の左側)があった。

瑞龍寺

瑞龍寺の山門で出迎えてくれたのは、素朴でユーモラスな仁王像だった。

瑞龍寺

これも牛の像だろうか。エジプトの壁画に描かれていて不思議ではない。

伊予長浜駅

海岸で日没を愛でたのちは、肱川を渡って伊予長浜駅に戻る。

伊予長浜駅

2時間に1本の予讃線(海線)の列車で松山へ戻ったのであった。

2023-08-14

予讃線(海線)に乗って伊予長浜へ

2022年5月の四国旅行を長々と書いてきた紀行も大詰め。最終日の午後は松山からどこに出かけようかと考えて、決めたのが予讃線の旧線(海線)だ。海線といえば、下灘駅が「海に一番近い駅」として一躍有名になったため、連休の最中は人でごったがえしていると考えて(事実そうだった)、その先の伊予長浜(大洲市長浜)へ向かった。

伊予長浜駅

そこそこ古い町並みがあるようなので、夕日を眺めがてらのんびりしようという目算であった。
1両のディーゼルカーに乗って伊予長浜駅に到着。

伊予長浜駅

そのまま町歩きに出ようとしていたら、地元の人らしきおじさんが、「もうすぐ『伊予灘ものがたり』がくるよ」と教えてくれた。松山と八幡浜を海線経由で結んでいる観光列車である。カメラを出して車両を写していたのだから、親切にも教えてくれたのだ。丁重に礼をいい、順光で「伊予灘ものがたり」を撮った。

伊予長浜の町並み

古い町並みは、駅から5分ほど歩いたところにある。さっそく味わい深い商家を発見した。残念ながら閉まっているが、四つ角にあわせてコーナーを削る形になっている。

伊予長浜の町並み

さらに進むと、スーパーの正面に食堂も発見。この日は閉まっていたが、普段は営業しているようだ。最近はこうした町の食堂がめっきり少なくなってしまった。

長浜大橋

町外れに流れるのが肱川。冬の朝、上流から川面を伝って流れてくる「肱川あらし」が有名だ。
川をわたる開閉橋の長浜大橋は、なんと塗装中だった。まあ肝心の中央部が見えたからいいか。そして、橋を渡って対岸へ。


より以前の記事一覧

著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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