カテゴリー「蔵出し旅写真(海外編)」の22件の記事

2018-12-23

味わい深いリスボン サンタ・アポローニャ駅

たったの2泊3日だったが、濃密なリスボン滞在であった。

アルファマに近いサンタ・アポローニャ駅から、コインブラに向かったのは9月21日のこと。
ここは、昔ながらの始発駅という情緒を色濃く残している駅だ。
下の写真で、右端に半分だけ写っている青っぽい建物が駅の正面。

サンタ・アポローニャ駅付近

駅の雰囲気はいいのだが、切符の自販機がないのには困った。
午前中にベレンに行く前に購入したのが、出札口はかなりの行列で、窓口にたどりつくまでに20分ほどかかってしまった。
しかも、希望した最速の特急列車はすでに満席。
その前の列車も、並びの席はなく、通路をはさんで隣り合う席がようやく買えた。

サンタ・アポローニャ駅

やはり、ネットで買うのが正解のようである。
フォロからリスボンへの列車は、ポルトガル鉄道のサイトに登録してまで予約しておいたのだが、リスボンからコインブラまでは本数が多いからと甘く見ていた。
旅先ではチケットの控えの紙を印刷できないから困ると思ったが、スマホがあればいいんだし、車内ではそれさえも見せることなく、名前を聞かれただけで検札が終わった。

コインロッカーも幸い空きがあってよかったが、鍵をかけてコインを投入してレシートを受け取る手順が、日本と微妙に違っていた。
一応、手順が図解されているのだが、欧米系の旅行者もとまどっているようだった。

サンタ・アポローニャ駅

近くで、私たちとほぼ同時に荷物を預けていた老夫婦などは、間違えて私たちのロッカーのレシートを受け取って2ユーロを投入してしまっていた。

もちろん、丁寧に説明をして2ユーロを支払い、レシートを受け取った。
さらに、彼らが荷物を預けるのを手伝ってあげたのは言うまでもない。

サンタ・アポローニャ駅で発車を待つ「アルファ・ペンドラーレ」号

出発時刻までは、学食みたいなカフェでビールを飲み、駅構内にあるスーパーマーケットを見物したり、駅の端から端まで歩いて写真を撮ったりと、意外と忙しく過ごしたのである。

最後に、1981年との定点比較写真を撮影。

37年前は、この駅からスペイン経由でフランスに直通する国際列車に乗ったように記憶している。下の写真の右側の列車である。

1981年のサンタ・アポローニャ駅
サンタ・アポローニャ駅

まだ20代だった私は、時刻表を見間違えて、発車予定時刻の2時間後に駅に来たのだが、まだ列車は発車していなかった!
近くの乗車口にいた女の子2人連れに「この列車は何時に出発するの?」と尋ねたら、「私たちもわからない」と困ったような顔をしていたっけ。フランス人だった。

結局、始発駅だというのに3時間も遅れて発車。
どうなるのだろうと思っていたら、フランス国境の駅で3時間も停車するスケジュールになっているではないか。
「最初から遅れを見越しているのか!」とびっくり。
フランス領内に入ったとたん列車のスピードが上がり、時刻表どおりに走るようになったのが印象的だった。

今回の旅では、さすがにそんなに遅れることはなかったが、このとき私たちが乗る列車は30分の遅れでリスボンをあとにしたのであった。

2018-12-16

リスボンのケーブルカー2路線、そしてポルトガル人とスペイン人の違いを知る

路面電車のほかに、リスボンの乗り物で忘れちゃならないのがケーブルカーだ。
低地の中心部と、周囲の丘を結ぶケーブルカーの路線が確か3路線あったと記憶していた。
3つとも乗りたかったのだが、時間の関係で今回は2路線の乗車である。

ケーブルカー・ビカ線

まずは、観光ポスターの写真にもよく登場するビカの路線である。
宿泊していたアルファマ地区とは、都心をはさんで反対側にあるが、28系統の路面電車で乗り換えなしにケーブルカーの上の駅近くに行ける。

バックにテージョ川が見えるこのアングルが人気だ。

案の定、乗ってくるのは観光客ばかり。
確か15分おきくらいに動いてたように記憶している。

ケーブルカー・ビカ線

しばらく待っても発車する気配がないので、線路に並行する道を下り、車両がすれ違う中間地点あたりで走行写真を撮ることにした。
だが、登ってきた車両は落書きだらけ。撮影意欲が著しく減退してしまった。
その一方で、最初に見た車両は落書きのない美しい姿だったのは運がよかった。

下りは歩いても5分ほど。あっというまに着いてしまった。
上りはさすがにつらそうなので、超満員のケーブルカーを待って乗ることにした。

ケーブルカー・ビカ線

次に向かったのが、そこから500mほど北にあるグロリア線。
ロシオ駅の北側からサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台のある公園横に至る短い路線だ。

ここには1981年にたまたま通りかかって写真に撮っていた。
それが下の写真である。
車体は水平につくってあるものだから、下から見るとかなり馬ヅラなのが印象的だった。

現在は2両とも落書きだらけでがっかり。あまりにも違う雰囲気が、よくも悪くも対比になった。

ケーブルカー・グロリア線
ケーブルカー・グロリア線

たいした距離でもないのだが、市内1日切符があったので乗ってみることにした。
ビカ線ほど観光地としては知られていないが、それでも観光客がたくさん乗り込んでくる。

発車ぎりぎりに駆け込んできたのが、6、7人ほどのおばさん軍団。
派手な色の服を着て、大声で会話をしている様子は、まるで大阪のおばちゃんである。
「どこの国でも、おばさんパワーはおんなじだね」と微笑む私たち。

だがそこで、「うむ、待てよ」と私は違和感を覚えた。

ケーブルカー・グロリア線

よくよく彼女らの会話に耳を済ませていると、ポルトガル語じゃなくてスペイン語のようなのである。
「グラシアス」なんて言葉がはさまっていたし、ハ・ホといった「j」音も多く含まれていたので間違いない。

「なるほどねー」と私は納得した。
前にも書いたように、この旅で最初に訪れたマドリードでもセビーリャでも、スペイン人は、エネルギーの無駄使いじゃないかと思うほど大きな声でしゃべっていたのである。夜の飲み屋はもうカオスであった。

ところが、国境を越えてポルトガルに入ったとたん、周囲の人たちの声のトーンが下がったのを感じた。
レストランでも夜の雑踏でも、音のレベルがスペイン人よりもかなり低いのだ。

「日本じゃ、ポルトガル人もスペイン人も変わりないと思われているけど、実際に来てみると違いがよくわかるね」
満員のケーブルカーのなかで、まるで大発見でもしたかのように満足する私であった。

2018-12-12

アルファマの路地をゆく路面電車

鉄道好きにとって、リスボンと聞けばすぐに路面電車(トラム)を思い浮かべるほど、この町の電車は世界中に知られている。

とくに、町の東側にあるアルファマ地区と西側にあるバイロ・アルト地区を結ぶ28系統は、昔ながらの小型の車両が走っていて大人気。アルファマでは、中心部のやや北側を通っているのだが、こんな狭い裏通り──というよりも路地によく線路を敷いたものだと感心する。

アルファマの路面電車

1981年にリスボンに来たときも、路面電車のことは知っていたから、このあたりをぶらぶらするついでに写真を撮っていた。そこで、これもまた今回、定点比較写真をしようと思ったのである。

下の写真は、複線の線路がカーブする地点だが、曲がり角で道幅が狭いために、一方の線路が他方に割り込んでいるのがわかる。専門用語で「ガントレット」と呼ばれる方式で、もちろんここで両側から同時に電車がやってきたら正面衝突してしまう。

それを避けるために、当時は1日じゅう係員が立っていて、衝突しないように電車に向かって手で信号を出していた。
左側の写真の左端あたり。木の下に2人立っているのだが、その人が手信号を出している。
棒の先につけている丸い板は、片面が赤、もう片面が緑になっていて、そのどちらかを運転士に向かって見せるわけだ。

さすがに、今回行ってみたら自動信号に変わっていた。

ガントレット区間の1981年と2018年

しかも、信号は500mほど先のもう1つの信号と連動していて、その間の区間が交互通行になっているのだ。
つまり、電車だけでなく自動車もまた、何分かおきかに一方通行になるのであった。

下の写真は、ガントレットを撮った場所から180度振り向いて撮ったもの。
線路はいったん複線に戻っているが、さらにその先で単線になっている。
運悪くここで両側から電車が出くわしても、ここですれ違うことができそうだ。

それにしても、周囲の情景がほとんど変わっていないのに驚く。

アルファマの路面電車1981年
アルファマの路面電車2018年

さらに進んでいくと、本当に建物すれすれのところを電車が通っていく場所がある。
それが下の写真の区間である。
左が1981年の写真だが、このときは電車が通過するときに、建物にぴったりと張りついてやり過ごした記憶がある。写真に写っている女性も同様だった。
ファドの歌詞に出てきそうな趣のある女性で、今回もそんな人が歩いてこないかなと待っていたのが、残念ながらそううまくはいかなかった。

アルファマの路面電車1981年と2018年

不思議なことに、今回は電車が通過してもスペースに余裕があった。
「不思議だな。昔の記憶はいいかげんだったのか」

そう思ったのだが、家に帰って写真をくらべてみてわかった。
左側の建物は建て替えられていたのである。何十センチかセットバックしたおかげで、歩道に余裕ができたことがわかった。

アルファマの路面電車

最後の写真は、交互通行の反対側の信号機がある地点である。電車と自動車が青信号を待っているところだ。
電車は次から次へとやってくるので、このあたりはいくらいても飽きない。

そして、乗客の半数以上は観光客のようである。
地元の人にとっては迷惑かもしれないが、やはり乗っていても楽しい。
もちろん、この区間だけでなく、丘を昇り降りする区間ではカーブと坂の連続。次に来るときは、じっくり時間をとって、この28系統を制覇しなくては。

2018-12-05

リスボン散歩1日目、そして楽しく不思議な出会い

アルファマ地区はリスボンの下町とも呼ばれている古い市街地である。
下町とはいうが、低い丘の上に広がっている。

リスボンは、1755年に起きた大地震で壊滅的な被害を受けたが、そんななかでアルファマ地区だけは比較的被害が軽かったのだそうだ。
だから、昔ながらの入り組んだ路地がつづき、味わい深い町並みを形づくっている。

アルファマの路地

37年前は、ガイドブックでは治安がよくない地域と書かれていたが、そんな感じはなかった。
建物が古びていて道が狭いので、観光客にはそう見えたかもしれないが、よくよく見れば私が育った昔の東京の下町と変わりない。
人びとの様子は垢抜けなかったが、町は活気にあふれていた。

前回は急ぎ足の貧乏旅行だったので、今回はアルファマ地区に宿をとって、リスボン市内をじっくりと歩き、夜は地元の人が通うようなライブハウスで本物のファドを聞きたいと思っていたのである。

現在のアルファマは、観光客であふれ返る町となっていた。

1981年のアルファマ
2018年のアルファマ

上の写真は、アルファマの中央部あたりの定点比較写真。
今回の宿は、たまたまこのすぐそばのアパートであった。

ところで、リスボンをじっくり歩くといっても、2泊3日なのが少し寂しい。
本来ならば3泊はしたかったのだが、妻の仕事の都合上、いたしかたなかった。

1981年と2018年のアルファマ

もちろん、前回来たときに歩きまわったのはアルファマ地区だけではない。
丘を下った都心でも散歩をして写真を撮っていた。

下の写真もその1枚。よく見ると看板に果物屋(FRUTARIA)と書いてあるのだが、なぜか店先に鶏肉がぶら下がっていた。
クリスマスだったから、たまたまなのだろうか。
こんな風景には慣れていなかったので、ビックリして少し離れたところから写した記憶がある。

この果物屋という看板、番地の数字、そして前後の写真の撮影場所を頼りとして、出発前にGoogleマップでここを探し当てるまでには何日もかかった。
それでも、なんと奇跡的に同じ場所で、同じ名前の果物屋が残っているではないか。
都心の繁華街の北側にある一角だ。

現地に足を運んでみると、店頭に親父さんがいたので、iPadミニでこの写真を見せた。

1981年の都心部の風景
2018年の都心部の風景

親父さんは、写真を見てすぐにわかってくれたようだ。
英語はあまり通じないようで、例によってイタリア語まじりのインチキポルトガル語風スペイン語と、わかりやすい英語で会話。

店の奥から出てきた奥さんともども大喜びしてくれて、ぜひ送ってほしいという。
もちろん快諾して、ここでも定点写真を撮影した。現在の写真で緑のポロシャツを着ているのが旦那である。

その夜、Google先生の翻訳サイトを活用して、日本語からポルトガル語に翻訳。
さっそくメールに写真を添付して送った。
すると、翌朝に長い感謝のメールが届いたのであった。それによると、彼にとって、まさに当時は古きよき時代だったようだ。

はたして、あんな観光客だらけの都心で、いつまで果物屋を続けられるのだろうか、人ごとながらちょっと心配になるのであった。

庶民的なレストラン

その夜、晩飯に選んだのは、ポルトガルに詳しい妻の友人がメールで教えくれた店である。
鶏の丸焼きがうまいというそのレストランは、例の果物屋のすぐそばだった。

けっして高級店というわけではないが、きちんとした仕事をする町の食堂といった風情で、店で働くのは地元の人らしき中年のおじさんたちばかり。その愛想のよさが、店の印象をアップさせてくれる。
(上の写真は、翌日の昼間に撮ったもの)

その庶民的な接客にも満足して、37年前に撮った市内の写真を見せたところ、じっくり見入って喜んでくれた。

私はさらに気をよくして、翌日の夜にファドのライブを聴きたいんだけどと打ち明けてみた。

「おお、うちに元ファド歌手がいるよ。彼はイタリア語が話せるよ。呼んでこよう!」

なんという不思議な巡り合わせだろうか。奥から出てきたその人は、苦み走った雰囲気で、年は私より少し上。若いころはスイスで仕事をしていたことがあるという。イタリア語はそこで身につけたのだろうか。
たちまちのうちに意気投合してしまった。

そして、彼が教えてくれたのは、アルファマ地区にある観光客向けではないディープな穴場の店であった。

2018-11-21

37年ぶりに訪れたリスボンで感じたサウダーデ

ファロ発の急行の終着駅は、リスボン・オリエンテ駅。ホーム屋根の装飾がなかなか派手な駅である。
1998年に開催されたリスボン万博に合わせて開業した駅だそうで、長距離列車のほとんどがこの駅を発着するか経由している。

リスボン市内には、ほかにもロシオ駅やサンタ・アボローニャ駅のような行き止まり式のターミナル駅があるが、現在はこのオリエンテ駅が中心駅となっているようだ。

リスボン・オリエンテ駅

1981年に南部からリスボンに入ったときは、テージョ川の南側に終着駅があって、そこから船に乗って都心に向かった覚えがある。

ホームを出て出口に向かうと、「荷物を持つよ、荷物を持つよ」と大きな声で客を迎える若い男性が何人もいて、アジアの国を訪れたような印象を持ったものである。

今では、テージョ川に鉄道と道路の併用橋ができて、都心に直接乗り入れるようになった。

テージョ川の眺め

37年前、リスボンに滞在したのはわずか1泊2日だったが、そのときの印象は鮮鋭に残っている。
到着したのは、ちょうどクリスマス・イブだった。人で賑わっているはいるが、どんよりとした曇り空のもと、なんとも垢抜けない町の様子は、私が小さな子どもだったころの東京を思い出させた。

街角で売られている臓物の煮込み入りパンの香りにつられて、ポルトガル語もわからないのに思わず列に並んだことがあった。うまかった。

アルファマの路地に分け入ると、そこはまさしく生まれ育った下町の路地そのものだった。
ひまそうなおじさんたちがうろうろしているかと思うと、物売りのおばちゃんが道端で大声を出していたっけ。

(以下は、どれも同じ場所を撮った1981年と2018年の定点比較写真です)

1981年のロシオ広場
2018年のロシオ広場

夜になると近所のバルに入り、ワインを飲みながらカウンターに並んでいる料理を物色して、「これ」「あれ」と指さして注文していた。

当時撮ったリスボンの写真を見ると、そのときの町の雑踏や匂いがよみがえってくる。
そして、そのたびに、なんでもっと滞在しなかったんだろう、早く再訪して町をゆっくり歩きまわり、アルファマの路地の店で真夜中までファドを聴いていたいと思うのだった。

1981年のカモンイス広場
2018年のカモンイス広場

だから、リスボンに到着すると同時に、37年間延ばしに延ばしていた宿題を、ようやく提出するときが来たという気持ちになったものだった。

もちろん、そこにあったのは昔のリスボンではなかったが、昔撮った写真の場所をめぐっていくうちに、まだ20代半ばだった当時の気持ちが少しずつ思い出されてきた。
大学を卒業して就職もせず、シベリア鉄道に乗ってモスクワ経由でイタリアへ、さらにユーラシア大陸の西の果てのリスボンまでやってきて、さあこれからの人生はどうなるんだろうと、まるで人ごとのように考えていたっけ。

1981年のコンメルシオ広場をゆくトラム
2018年のコンメルシオ広場をゆくトラム

そして、ふと思ったのだ。ポルトガル人のいうサウダーデ(サウダージ)は、こんな気持ちなのかもしれないと。

サウダーデとは、単なる哀愁ともセンチメンタルな気持ちとも違って、過ぎ去ったものに対する懐かしさ、もう戻らないことをいとおしむ気持ちを含む複雑な心境なのだと聞く。
もうそうだとしたら、そもそも私が写真を撮る行為がサウダーデなのかもしれない。

まあ、柄にもなく、そんなことを考えさせられるのも、サウダーデの本場であるリスボンの魔力なのだろう。

2018-11-15

ポルトガルのヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオで1時間もうけた話

スペイン側のアヤモンテから、グアディアナ川を渡って20分、対岸のヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ(Vila Real
de Santo Antonio)の港に着いた。

港といっても、小さな船着場とローカル鉄道駅のような待合室があるだけ。
振り返ると、アヤモンテの白い町並みが対岸に見えていた。

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオからスペインのアヤモンテを望む

1981年に訪れたときは、確かヴィラ・サント・アントニオ(Vila Santo Antonio)という地名だったと記憶している。
いつのまにか、「レアル・デ」が付いていた。「王の村たる聖アントニオ村」といった意味だろうか。
ポルトガル語でも長くなるので、駅や道路の標識では、しばしば「VRSA」と表記されていた。

37年前は、この船着場のそばにある鉄道駅から、リスボン行きの夜行列車に乗ったのだった。
今では駅は町はずれに移転しているが、元の駅舎もホームもはっきりと残されていた。
古い写真に写っている2両編成の客車は、ディーゼル機関車が牽引するローカル列車である。

1981年のヴィラ・サント・アントニオ駅
2018年の旧駅跡

かつては静かな田舎町という印象だったが、ここもまた賑やかな観光地と化していた。
中心部の道路は歩行者専用になっており、カフェテラスが続いている。
おもしろかったのは、この町でくつろいでいる旅行者が、なぜか中高年ばかりであること。

「おじおば向けののんびりした保養地なんだよ」
妻は、そう断言した。そんな静かな町で、大きなスーツケースをごろごろ言わせながら早足で歩いている私たちは、まったく異質の存在で、みんなの注目を引いてしまった。

「まあ、ここまで来たら一安心、ビールを飲んで休憩しよう」と私は提案した。
旅の必須単語であるビールは、スペイン語ではセルベッサだったが、今日からはセルヴェージャである。

問題なのは2つ注文するとき。スペイン語ならば常にDos(ドス)といえばいいが、ポルトガル語だと、形容する名詞が男性形か女性形かで違ってくる。男性形ならばDois(ドイシュ)、女性形ならばDuas(ドゥアシュ)なのである。
……と偉そうに書いているが、当初はそれを知らずに、「Dois cervejas!」と注文していたのが恥ずかしい。まあ、見たまんま外国人だからいいだろう。

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオの中心部

37年前は、わずかな列車の待ち時間を利用して、町をほんの少しだけうろついた。
真っ白なスペイン南部の町並みとは打って変わって、カラフルな家々が印象的だった。

1枚だけ写真が残っていたのだが、日本にいるときにグーグルストリートビューでこの場所を特定するには時間がかかった。
撮影した日は曇っていたようで、日陰の向きで方角の検討をつけることができない。
奥のビルや周囲の家々の形をヒントに、何日もかけて町じゅうをチェックしてようやく特定できた場所は、賑やかになった通りのすぐそばだった。

1981年のヴィラ・サント・アントニオ住宅街
2018年のヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ住宅街

ところで、船で港に到着したのが15時20分。列車は16時27分発である。
1kmほど離れた駅へは、港近くに2、3台ほど並んでいたタクシーで行けば十分間に合うと思っていたのだが、ビールを飲んだり、写真を撮ったりしているうちに、スマホをふと見るとすでに「20分」という表示。

「まずい! 間に合わない!」
その次の列車は1時間半後。ファロに着くころには夜になってしまう。
冷や汗が出た直後、よくスマホを見ると「15:20」と表示されているではないか。
船で到着した時刻である。

「あれ? スマホの時計が壊れた?」

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ中心部

2、3秒ほど脳味噌がフル回転したのち、「もしや……」と思って、隣の席にいたポルトガル人のおじさん、おばさんグループに声をかけた。
とくにそのうちで、一番近くに座っていたおばさんは、さっきから私たちのほうをちらちら見て、好奇心を隠しきれないようだったのである。

ところが、英語が通じないし、イタリア語まじりのインチキスペイン語も通じない。
しかたがないので、おばさんの腕時計を指し、川のかなたを指しながら、「ポルトガル、エスパーニャ、1時間?」と英語とスペイン語でいうと、奥にいたおじさんが理解してくれたようだった。
ポルトガル語で説明してくれたみたいなので、詳細はわからないが、要するに時差があるということだけは飲み込めた。

移転したヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ新駅

賢いことに、スマホは国境を越えたところで時刻を自動修正してくれていたのである。
発車まで残り7分かと思っていたら、残り1時間7分に増量。
「1時間もうけた!」
そして、もうけた1時間は、もう1杯ビールを飲むことに費やすのであった。

タクシーで乗り付けた新駅からは、ファロ行きの普通列車が1時間半から2時間おきくらいに運転されている。
「この鉄道はよく運休するから、何かあったらここに電話して」
タクシーの運転手は笑いなからそういって名刺をくれたが、幸いなことに、すでにディーゼルカーはホームに到着しており、ポルトガル時間の16時27分の定刻通りにファロに向けて無事発車したのであった。

ちなみに、無人駅で券売機もなかったが、切符は乗車後に車掌から買うことで問題なかった。

2018-11-14

国境の町アヤモンテの今昔比較写真

前回予告したポルトガルとの国境の町アヤモンテ(Ayamonte)の定点対照写真である。

アヤモンテなんてどこにあるか知っている人は少ないだろうし、興味がないという人も多いだろう。
だが逆にいえば、1981年にここで国境を越えて、しかも町の写真を撮っていた人はほとんどいないだろうから、地元の人にとっても、そこそこ貴重な記録かもしれないと勝手に思っている。

まずはアヤモンテ駅である。
現在、鉄道はウエルバで行き止まりになっているが、かつてはそこからアヤモンテまで線路が続いていた。

旧アヤモンテ駅は、そのままバスターミナルに変身。町外れに位置しているため、今でも背後には何もない。

1981年のバスターミナル
2018年のバスターミナル

次の写真は、駅から中心部に向かう途中の脇道を入ったところ。
白い壁の家々が続いて、南スペインに来たなという印象だった。

今では、家が増改築されて2階建ての家が増え、壁の色もさまざま。
左端の家の看板に「TAL」と見えるのは、「HOSTAL」のこと。安宿である。

1981年のアヤモンテの住宅街
2018年のアヤモンテの住宅街

500mほど歩くとアヤモンテの中心部あたりに達する。
当時は、地元の人で賑わっており、少なくともここには観光客の姿は見えない。

現在も建物自体はほとんど変わっていないが、おしゃれな感じに整備されて、壁の色がここでもカラフルになっていた。

1981年のアヤモンテ中心部
2018年のアヤモンテ中心部

そして、川辺の様子がこれ。
ここから川沿いに真っ直ぐいくと、ポルトガルに向かうフェリーの乗り場になる。
フォークリフトだろうか、重機に二人乗りしているおじさんたちがかわいい。

川の中に立っているコンクリートの構造物が、今でも同じ場所に残っていた。

1981年のアヤモンテのフェリー乗り場近く
2018年のアヤモンテのフェリー乗り場近く

下の写真の正面左側が、フェリー乗り場になる。
1981年はEU統合前(シェンゲン条約前)なので、国境を越えるときにはパスポートチェックがあって、ちょっと緊張する場所だった。もっとも、貧乏学生には税関の検査はなかった。

今では、切符(1.75ユーロ)を買うだけで、気軽に行き来できる。

1981年のアヤモンテのフェリー乗り場近く
2018年のアヤモンテのフェリー乗り場近く

残念だったのは、当時の船の写真を撮っていなかったこと。
国境だからと、ちょっと緊張してカメラを出さなかったからかもしれない。

2018-11-10

セビーリャからウエルバへの鉄路今昔

いよいよ、旅のメインイベントの1つ、スペインからポルトガルへのちょっと変わった国境越えである。
この日の目的地は、ボルトガル南部にあるファロ(Faro)の町。

現在は、セビーリャからの直行バスが、日に何本か所要2時間半で走っているのだが、それじゃおもしろくない。
1981年に利用したコースをたどっていくことにした。

セビーリャ・サンタフスタ駅

まずは、セビーリャ・サンタ・フスタ駅を10時に発車するウエルバ(Huelva)行きに乗車。
ウエルバまでは1時間半の旅である。

この区間は1日に3本しか走っていないので(ほかにマドリード発ウエルバ行きが2本あるようだ)、満員になったら大変と、日本にいるうちからネットで予約しておいた。

アンダルシアの車窓

だが、乗ってみたら車内はがらがら。6両ほどの編成の各車両に2、3人ずつが乗っているだけだった。
また、AVE(高速列車)と違って、乗車前の荷物検査もない。
気抜けして、車窓のアンダルシアの風景をぼんやり見つめる私であった。

もちろん、下の写真は、1981年に乗ったときのものである。

1981年の車内

1981年当時は、おんぼろなレールバスのような車両で、2倍くらいの時間がかかったように思う。
列車は速くなったしエアコンが効いて快適ではあるのだが、あの、行けども行けども続く乾いた大地を眺めながら、暑苦しい車内で過ごしたけだるい時間が懐かしい。

ウエルバ新駅

実は、終点のウエルバ駅は、つい最近になって新装オープンしたばかり。
500mほどセビーリャ寄りに移転して開業したことを、日本出発直前に知った。1日に5本くらいしか発着しないのに、ずいぶんな投資である。

しかも、町の中心から離れてしまったので、列車を降りた乗客の何人かは、がらんとしたタクシー乗り場で茫然とする始末。
バスターミナルへは歩いて30分近くかかるので、重い荷物を抱えた私たちはひたすら待つしかなかった。

1981年のウエルバ駅

上の写真が、1981年当時のウエルバ駅。
手前のホームに停まっているのは、スペインが誇る高速客車「タルゴ」。
マドリード方面からやってきたのだろう。自動で軌間変換する機能がついている車両なので、もしかするとさらにフランスに乗り入れていたのかもしれない。

当時はずいぶんな利用客がいたんだなあと感慨深い。

そのときは、ここからさらに西にあるポルトガル国境のアヤモンテまで、ローカル線に乗り換えて向かった。
だが、その路線はすでに廃止されている。
だから、ここでバスに乗り換えなくてはならないのである。

廃止されたウエルバ旧駅

ウエルバ駅から乗ったタクシーの運転手に、「バスターミナルまで。その途中で、ウエルバの旧駅を見たい」と伝えて、昔撮った写真を見せると、「おお、この駅は6カ月前まで使われていたんだよ!」と興味を示してくれた。

1981年は、駅の構内で乗り換えただけなので、こんな立派な駅舎だとは思わなかった。
ただし、もう営業をやめているので、カギがかかって入れない。しかも、周囲は2メートルほどのコンクリートの瓶がめぐらしてある。

ぐるりと駅の横にまわり込むと、足場代わりになりそうな50センチほどの鉄の棒が立てかけてあるのを見つけた。
周囲には人もいないし、これは決行するしかない!
助走をつけてその棒に足を乗せ、その勢いで塀の上に手をかけ、懸命にふんばって塀の上に登ることができた。
そうして撮ったのが、上の写真である。昔の写真とは、高さこそ違うが、近いアングルである。

ウエルバのバスターミナル

「思い出の写真は撮れた?」
駅前で待っていてくれた運転手が、にこやかに迎えてくれた。

アヤモンテ行きのバスは13時発。
しばらく、バスターミナル前の軽食堂で、腹ごしらえをして待つことにした。

2018-11-05

セビーリャ プラサ・デ・アルマス駅跡の日本人尋ね人

セビーリャを出発するまでに、ずいぶん回数がかかってしまったが、いよいよここからがこの旅のメインイベントである。
でも、ちょっとその前に、エピソードを一つ。

セビーリャの鉄道駅として、現在は旧市街の東側にあるサンタ・フスタ(Santa Justa)駅が玄関口となっているが、かつては町の西側にプラサ・デ・アルマス(Plkaza de Armas)という駅があった。下の写真である。
1981年は、この中央に停まっている列車に乗っていった。

1981年のプラサ・デ・アルマス駅

この駅は1990年に廃止され、その跡地がショッピング・モールとなっていたことは出発前に知った。
そこに行って撮ったのが下の写真である。

2階部分がつくられたため、以前とまったく同じ場所からは写真が撮れなくなってしまったが、外側のドームは以前のままであり、中央の時計も昔のまま残っている。

残念ながら、ショッピング・モールだったらしき部分は、ほとんどシャッターが閉まっていた。
そんななか、大勢の人の声が聞こえてくるので近寄って、なんとダンス教室!
下の写真の突き当たりの場所である。

.2018年のプラス・デ・アルマス駅跡

駅跡をぶらぶらしていると、壁に5組7枚の写真か貼られている一角があった。
駅のあった当時の写真である。

たまたまその写真に見入っている50代くらいの男性がいたので、にっこり微笑んでスペイン語であいさつすると、彼はおそらく「ここは昔、駅だったんだよ」ということをスペイン語でいう。
「そうでしょう、そうでしょう」と私は言いながら、トップの写真を見せた。
「学生時代の1981年、ここで撮った写真です」とイタリア語まじりのインチキスペイン語で説明すると、とても懐かしがってくれたようだった。

プラサ・デ・アルマス駅跡にあった写真

自分の写真を喜んでくれた人がいたことにうきうきしながら、改めて7枚の写真をみると、どうも気になる1枚がある。
上の3枚のパネルの一番左である。どうも、日本人としか思えない顔だちなのだ。
撮影されたのは1990年以前だから、中国人や韓国人も少なかっただろう。
帰国後この写真を見た友人は、「履いている靴が、当時は海外で普及していなかったアシックスのようなので、日本人の可能性は高い」というするどい意見を寄せてくれた。

それにしても、なぜここに日本人の顔写真が……。
しかも、7枚ある写真のうち、これだけが人物を真正面から撮っているのだ。

プラサ・デ・アルマス駅跡にあった写真

はたしてどんな人物なのか。
ちょっとみると、アリスにいた歌手の堀内孝雄さんのようにも見えるが、この時代に一人旅をしていたとは思えないし、写真家の柳沢信さんではないかという意見もあったが、私は顔を知らないのでなんともいえない。
医学者の向井万起男さんだろうという声もあったが、はたしてどうなのか。俳優の常田富士男さんにも似ていないこともない。
ま、いずれにしても、こんな感じの人はよくいたものだった。

とはいえ、着ているものも持ち物もオシャレだし、小ぶりのナップザックにポリ袋という持ち物を見て、裕福な駐在員か留学生ではないかという意見もあった。

もし、これは自分だ、あるいは私の知人だという方がいらっしゃれば、ぜひコメントに書き込んでいただきたい。

2018年のプラス・デ・アルマス駅跡

プラサ・デ・アルマス駅跡を外から見ると、こんな感じ。
この背中側には、大きくて明るいスーパーマーケットがあり、買物客で賑わっていた。
ショッピング・モールがシャッター街になってしまったのは、それが原因かもしれない。

2018-11-03

コルドバのいまむかし1981-2018年 定点比較写真

予定外のコルドバ訪問だったが、せっかくなので、ここでも37年前との定点比較写真をやってみた。
最初の2カ所は、メスキータが写り込んでいるので、すぐに場所が特定できた。

1981年のローマ橋

これは、1981年12月、グアダルキビル川を渡る「ローマ橋」(Puente Romano)の上から、メスキータを望んだ写真である。
冬ということもあるが、どこか寂しい田舎町といったたたずまい。
今から思うと信じられないが、観光客の姿もまばらだった。

2018年のローマ橋

そしてこれが、ほぼ同じ場所からの写真。
観光客がひっきりなしに橋を渡っている。
賑やかなイタリア人のグループが、メスキータをバックに記念写真を撮っていた。

1981年のメスキータ東側

次の1枚は、このローマ橋のメスキータ側。
写真の手前側が、橋のたもとにあるがトリウンフォ広場で、この写真の正面の道は「トリホス通り」(Calle Torrijos)という。
右に見える壁がメスキータである。
あたりまえのように自家用車が走り、道端に駐車している。

2018年のメスキータ東側

現在、車は通行止めになっているようで、観光客がのんびりと歩く道となった。
道の奥のほうには土産物屋や飲食店が建ち並んで賑わっている。

1981年のアグルパシオン・デ・コフラディアス広場

この写真を撮ったのは1981年のクリスマスの少し前のことである。
白壁の家が続く静かな町並みを歩いていると、どこからともなく女声の美しいコーラスが聞こえてきた。
やがて歌声が近づいてきて、彼女たちが姿を現した。

中学生か高校生くらいの女の子3、4人が歌っていたのは、イタリアの歌手ニッラ・ピッツィが1953年のサンレモ音楽祭で披露した「カンパナーロ」(鐘をつく人)というロマンチックな歌だった。

学校からの帰り道に、クリスマスで歌うための練習をしていたのだろうか。
ニッラ・ピッツィの艶やかな声とは対照的に、少女たちのさわやかで可憐な歌声が、静かな旧市街に響いていた。そのひとときが、この世のものとは思えず、いまも記憶に刻まれているのである。

2018年のアグルパシオン・デ・コフラディアス広場

実は、この撮影場所が最後までわからなかった。
メスキータの塔が写っているから、すぐにわかるかと思ったが、そうはいかなかった。

さして広くない旧市街とはいえ、狭い道が迷路のように続くなかで、この場所を探しあてるまで1時間近くもかかっただろうか。
最終的にヒントとなったのは、塔の先についている旗のようなものである。
おそらく金属でできているだろうかか、その向きは今でも変わっていないはずだと思い、だいたいの方向を知ることができた。そこまでわかっても、まだずいぶん時間がかかったのである。

そして、ようやく探し当てたここ「アグルパシオン・デ・コフラディアス広場」(Plaza Agrupación de Cofradías)には、カフェテラスが並び、観光客がひっきりなしに行き来する場所となっていた。
でも、背後の建物は昔のままである。

最後に、ニッラ・ピッツィが歌う「カンパナーロ」をYoutubeからリンクしておく。

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