カテゴリー「東京ぶらぶら散歩」の114件の記事

2014-05-31

向島ぶらぶら歩き

先日は、浅草から隅田川を渡り、向島百花園から東向島あたりをぶらぶらしてきた。
東武線と隅田川にはさまれた地域である。
父母のどちらの実家にも近いのだが、バスで通過したことはあっても、30歳を過ぎるまでめったに降りたことはなかった。

水戸街道にある魚大

この写真は、水戸街道の東向島三丁目交差点にある料理屋の魚大。
もとは魚屋だったそうで、おいしい魚が食べられると店のホームページに書いてあった。
店ができて70年というから、戦争直後に開業したのだろうか。このあたりは、空襲で焼け野原になったはずである。

鳩の町商店街

水戸街道を500mほど南下すると、小さな東向島一丁目交差点から東側に、墨堤通りまで「鳩の町商店街」が続く。かつて、遊里として知られていた一帯である。この付近は、東京大空襲で焼け残ったため、狭い道の両側に戦前からの古い家屋が今でも残っている。

同じ墨田区でも、玉ノ井のいろは通り、京島の橘銀座通り(現・キラキラ橘)では、ほとんどの家が建て替えられてしまっているのに対して、この商店街の東側には、まだこうした古い家が何軒も残っている。
この店は米屋。なかには、古い家屋をそのまま生かして、喫茶店にしているところもあった。

鳩の町商店街

鳩の町商店街をさらに東に進んだところにある酒屋(右奥)雨宮商店。
右手前の店(赤松商店)は化粧品店だったのか雑貨店だったのか。看板の「ラモナー化粧品」が興味をそそる。
ネットで調べてみると、大正4年に創業した石田香粧株式会社の商標で、同社は今でも下谷に本社を置き、戸田と蕨の工場で化粧品を製造して、OEMを中心とした事業を展開しているそうだ。

質屋

このあたりの道は、複雑怪奇に交わったり、離れたりで、実に簡単に道に迷う快感にひたれる。
そんななかで、鳩の町商店街から100mほど南、小さな四つ辻にひっそりとたたずんでいたのがこの質屋。
やっぱり、質屋は目立たないところに建っているのが本来の姿かなと思うのである。

昔のごみ箱

そして、古い板壁の家の前に置かれていたのがこれ。
この写真を見て何であるかがわかるのは、少なくとも東京生まれの人間では、50代以上だろう。
かつては、どの家の前にも、こんなごみ箱が置かれていたものだった。
週に2、3回しかごみを出せなくなる前の話である。

もっとも、ごみ出しの日時を限定したことで、今のような清潔な町になったのだと思えば、面倒もいたしかたない。
このごみ箱は、鉢植えの台として第二の(?)人生を送っていた。

向島の原風景

ぶらぶら歩いているうちに、日が傾いてきた。
夕日に照らされる木造の家、わけがわからないほどに込み入った道、雑然として統一のとれていない家並み、軒先の鉢植え……戦後の高度成長期に育った者にとって、まさにこれが東京下町の原風景である。
まあ、向島が下町かどうかについては議論があるかもしれないが、今や柴又や都電荒川線沿線を下町と呼んでいるのだから、向島を下町といっても問題はないだろう。

2014-05-17

浅草: 三社祭を待つ街角

今年も三社祭がはじまった。
たまたま16日の昼すぎに浅草に行ってみると、やけに観光客は多いし、観音様の境内には所狭しと店が出ているし、何事かと思った私である。

小学校時代に浅草に住んでいたにもかかわらず、三社祭を忘れていたなんて、江戸っ子の風上どころか、風下にも置いてもらえそうにない。

浅草東町会の神輿

ぶらぶら歩いていると、町のあちこちで神輿の準備をしているのが目に入る。
せっかくだからと、別の用事で持っていたカメラを取り出してパチパチと撮影。

浅草公園町会の神輿

前にも書いたけれど、小さいころは祭りが好きではなかった。
とくに、浅草に住んでいたころは、周囲の大人たちや同級生があまりに熱狂しているのを見て、どうにも近寄りがたいものを感じ、一人冷めていたものであった。

それは、浅草生まれではないよそ者という意識があったからかもしれない。
でも、父や母の実家がある向島あたりの祭りも、とくに興味を抱いたことはなかった。
要するに、あの熱狂が苦手だったのだ。

浅草公園町会の神輿

祭りで冷めていたのは、父親も似たようなものだったから、それは遺伝か家庭の雰囲気からきているのかもしれない。
とはいえ、三社祭のときには土曜日の授業が2時間で終わるので、それだけは楽しみだった。

そして、祭りが終わった月曜日には、同級生たちが顔をしかめながら、「神輿をかついで肩が痛くなった」と自慢げに話しているのを、「ふうん、そんなもんなのか」と聞くのが毎年の決まり事であった。

それでも、浅草を離れてみると、やはり懐かしい日々である。
大人になると祭りの意義もわきまえてきて、「祭りも悪くはないな」なんて、偉そうに評価するまでになった。

御幣棒を運ぶ人

そして、昨日である。

町を歩いていると、神輿の準備だけでなく、御幣棒を運ぶ人もよく見かけた。
ひさご通りの喫茶店では、町内の人たちで貸切りとなり、法被姿の人たちが打ち合わせらしきことをしていた。

町全体から浮足立っている様子がうかがえる。
そんな雰囲気も悪くはない。
あえて例えてみると、それは遠足に行く前の小学生の気分といったところか。

今日からは祭りも本格的になる。
観光客もたくさん出て、浅草は大賑わいになるに違いない。
でも私は、祭りの前の空気を味わうことができただけで、それでもう十分に満足したのであった。

2013-12-01

猫が静かに歓迎してくれた亀戸の天祖神社

押上駅を出て、訳あって東京スカイツリーとは反対方向に歩く。
浅草通りを歩いても殺風景なので、その南側の路地に入ったところで木々が目に入った。

亀戸の天祖神社

以前も通りかかったことはあったが、境内に入るのは今回が初めてかもしれない。
天祖神社という名前は、おそらく明治以降に付いたものだろう。
昔は村の小さな鎮守さまという感じだったのだと思う。

亀戸の天祖神社

住所は江東区の亀戸だが、江東区の北の端にあるので、ずっとこのあたりは墨田区だとばかり思っていた。
JRの亀戸駅よりも、押上駅のほうがずっと近い。

密集した家々に囲まれて、この狭い境内だけが木がうっそうと繁り、しんと静まり返っているのも不思議な感じである。

天祖神社の猫

その静かな境内で、まるでつくりもののようにじっとしていたのがこの猫。
近くに寄っても警戒する気配もなく、三つ指ついて(?)迎えてくれた。

亀戸三丁目

お賽銭を大枚50円はずんで、私はこのひそやかな空間がいつまでも残ることを祈るのであった。

2013-08-03

「赤羽」のイメージをくつがえす赤羽西の趣深い台地

さらに、初夏の思い出編の続き。
iPhone/iPadアプリ「TimeTours」用の写真を撮りに行ったついでにぶらぶらした赤羽駅の西側一帯である。
赤羽というと、安い飲み屋が林立して、人でごったがえしているイメージがあるかもしれないが、それは駅の東側である。
赤羽駅の西側、台地の上にある赤羽西あたりは、静かで味わい深い住宅街が続いているのだ。

赤羽西

駅を降りて西側に歩くと、まもなく急な坂や階段があって、飛鳥山あたりから続く台地の上に出ることになる。台地に登るコースはいくらでもあるのだが、個人的なおすすめは、拡幅工事が進んでいる岩槻街道を100mほど南下して右に曲がったところにある稲付城跡の階段を登るルートである。

ここは現在、静勝寺というお寺になっており、昼間は境内を通り抜けることができる。そこが、赤羽西に広がる迷宮(というほど大げさではないが)の入口である。

赤羽西

この一帯は、私の散歩道の空白地帯で、最近になるまであまり歩いたことがなかったのだが、非常に気に入った。
第一に、丘の上だからほどよく起伏があること。第二に、やはり丘の上だから道路がくねくねと曲がりくねっていること。そして第三に、昔ながらの商店や民家が、上品な感じでところどころに残っていることである。

赤羽西

ここは、一般の人が抱く赤羽というイメージからはかけはなれた、落ち着いた町なのだ。なにしろ、高級住宅街さえあるのだから。
もちろん、私個人としては、ごちごちゃした赤羽駅の東一帯も捨てがたいが、この西側もまたいい。

赤羽西

個人的に、一度来た道を戻るのは苦手なので、たいていは十条まで南下するか、ずっと西に向かって都営地下鉄三田線の本蓮沼に出るかというコースをとることにしている。
本蓮沼方面へはバスも頻繁に通っているから、疲れたときはバス通りまで降りればいい。

十条に向かっていくと、やがて台地の縁に出るのだが、そこからの眺めはまた格別である。

赤羽西

また、台地の縁近くには、こんなひそやかなお宅もあったりして、実に趣深い。
そして、赤羽西の台地南西端にあるのが、稲付自然公園。こんもりとした林に囲まれ、広い敷地には、もったいないくらいに何もない公園である。
──こんなところに家でもあれば、落ち着いて原稿でも書けるだろうなあ。

そう思っていたら、かつてここには講談社の創立者である野間清治氏の別邸があったのだとか。
こんな場所に別邸でも持ちたいものである。

稲付公園から見た「はやぶさ」

公園の東側は崖になって開けており、見晴らしはなかなかのものである。
はるかかなた、東北新幹線の高架橋を、はやぶさが通過していった。

2013-07-31

稲荷町~田原町あたり

これもまただいぶ前のこと、6月下旬に上野から浅草まで歩いたときのことである。
地下鉄銀座線に乗ると、途中に稲荷町、田原町と2駅あるが、歩いてもたいしたことはない。
仏壇通り、合羽橋道具街、合羽橋本通りなど、ほかではあまり見られない商店街もあって、散歩しても飽きない町である。

稲荷町にて

もっとも、稲荷町も田原町も、すでに地名としては消えてしまって、北上野、松が谷、西浅草などとなっているい。松が谷はいかにも由緒ありそうに聞こえるが、旧地名には存在していなくて、昔はずいぶん不思議に感じたものだった。
付近に「松」の付く「松葉町」「松山町」「松清町」があったことに由来しているのかもしれない。

同潤会上野下アパートメント

今回はたまたま同潤会上野下アパートメントの取り壊し現場を見ることができた。
同潤会住宅最後の建物だという。かなり老朽化が進んでいたので、しかたないといえばしかたがないかもかしれない。
健在なりしころの写真を1枚貼って、昔を偲ぶこととしたい。

同潤会上野下アパートメント

撮影したのは1984年。もっとも、前庭に木が生い茂っていて建物がよく写っていないのは勘弁のほどを。
詳しくは、拙ホームページをご覧ください。

そして、上野下アパートと向かい合っている落語長屋(噺家長屋)はというと、かろうじて残ってはいるが、もはや長屋にはなっていない。残った建物は両側が駐車場になっていて、いかにも息苦しそうである。
かつては、ここに四軒長屋があって、稲荷町の師匠こと8代目林家正蔵(のちの林家彦六)と9代目桂文治が住んでいたのである。
四軒長屋が健在だったころの写真も上記のページにあるので、お暇な方は見てくだされば幸いである。

落語長屋

そんなことを思いながら、浅草に向かってずんずんと歩いていくと、かなり面妖な建物が目に入った。
トップの写真の建物である。
昔は四軒か五軒の棟割長屋だったのだろう。右端の建物がモルタルで固められ、中央あたりも変容している。わずかに、豆腐屋だけが昔の雰囲気を残しているのだろう。
豆腐屋の部分をメインにしたのが下の写真である。

木村豆腐店

上野と浅草の中間あたに来ると、、時折降っていた霧雨もやみ、陽が戻ってきた。
そして、行く手にスカイツリーが見えてきたのである。

妙音寺前

それにしても、このあたりは東本願寺をはじめ、やたらに寺がある。
写真の左側は妙音寺という寺である。
浅草といえば観音様ばかりが有名だが、このあたりが寺だらけということは、あまり知られていないのではないか。

とまあ、こんな感じで30分弱の散歩も終わり。あとは、いつものように喫茶マウンテンで休憩。
このときは、はじめてクリームあんみつを注文したのだが、その量の多さとほどよい甘さに疲れも吹き飛ぶような気がしたのであった。

2013-07-28

市谷薬王寺町の路地

極多忙の1か月あまり、ほとんど家を出ることなく、ブログの更新をする暇もなくて失礼しました。
まずは、リハビリついでの1本。
打ち合わせの帰りに、ぶらぶらと歩いているうちに行き当たった市谷薬王寺町の路地から。

市谷薬王寺町の路地

5月末であったが、すでに蒸し暑い日であった。
それでも、仕事で煮詰まった頭を冷やすために、大久保通りの脇道を神楽坂に向かっていると、味わい深い階段に行き当たったのである。

一見、階段の上はそのまま民家の敷地に入っていきそうだったが、どうやら路地になっていることがわかった。趣深い路地というのは、たいていが通るのがはばかられるように見えるのだ。

市谷薬王寺町の路地

この写真は、階段を上りきって後ろを振り返ったところ。
路地に咲くツツジが美しい。

市谷薬王寺町の路地

板張りの塀、凝灰岩のブロック、舗装されていない道に敷かれた石──この石はかつての都電の敷石にも見えるがどうなんだろう──など、パーフェクトとは言えないまでも、路地歩きの心を満たしてくれる素材にあふれている。

市谷薬王寺町の路地

自宅を出たら、すぐにこんな路地があるような生活はいいなあ。
住んでいる人にとっては、いろいろと不便があるだろうが、少なくとも子どもの情操面にはプラスになるような気がする。なによりも、飛び出したとたんに車にはねられる心配はないね。

2013-05-15

浅草: 六区の裏にあるワイルドなアーケード街「ひさご通り」

昼間に上野まで出たついでに、時間があったので浅草へ。
ひところは、ずいぶん足が遠のいていたのだが、このところ用事もないのにちょくちょく訪れるようになった。
やはり多感な小学校時代を過ごした町である。表通りは観光客であふれる一方、裏通りはただ雑然としている町なのではあるが、どこか落ち着くのは不思議である。

ひさご通り

まずは、バスを浅草一丁目で降り、「すし屋横丁」を抜けて六区に向かってみた。最近は、「すしや通り」と呼ぶのだそうで、ちょっと薄味になった感じである。
六区は再開発の真っ最中で、知らない間に大きなホテルができていたり、あちこちが更地になっていたりして驚いた。
以前のままがよかったという人もいるかもしれないが、あのままじゃ座して死を待つだけだから、しかたないところだろう。かつての賑わいを少しでも取り戻してくれればいいのだが。

ひさご通り

六区の北側から千束通りに通じるアーケード街が「ひさご通り」である。
同じ浅草でも、仲見世や新仲見世がお客様向けの商店街ならば、ここはなんと言えばよいのだろうか。地元に密着した商店街というわけでもなく、昔から薄暗くて不気味な場所であった。
かつては、安っぽい飲み屋や作業着を売る店が建ち並んでおり、労務者と呼ばれていた人たちがたむろしていたように記憶している。
小学生時代、一人で六区から竜泉、あるいは花川戸から今戸あたりまで、ふらふらと遊びに出かけていた私でさえ、ここを一人で通るのをはばかられたものである。

元祖・コリアンストリート

今では、雰囲気もずいぶん明るくなって、かつてのワイルドさはずいぶん薄れてきた。
ただ、人通りが少ないので自転車が何台も全速力で走り抜けるのは困りものである。

そんな「ひさご通り」なのだが、脇道を一歩入ると、この写真のような焼肉屋が並ぶ細い細い路地がある。
このうちでも先輩格らしき店を実家に持つ知人によると、朝鮮半島から出てきた人たちが、戦後の苦難の時代をここで助け合って暮らしてきたのだとか。
新大久保などは目じゃない元祖コリアンストリートである。今度、ゆっくり店を訪問してみようと思う。

花やしき

レトロっぽさが人気の遊園地「花やしき」はこのすぐ東側にある。
昔は入場無料なので気軽に出入りできたが(もちろん遊具や乗り物は有料)、例の風営法のからみで入場が有料になったのだと聞いた。子どもたちが遅くまでたむろするのを防ぐためらしいが、ご丁寧なことである。

2013-05-06

板橋区大門: 浅間神社

世の中は神社ブームだそうである。
仏像ブームに続いて神像が人気を呼んでいるというから、寺ガールの次は神ガールが話題になるかもしれない。

町並みの変化を味わいながら散歩をする身にとっては、寺や神社は昔とほとんど変わることがなくて、失礼ながらそれほど強い興味を持っていなかった。
だが、都会のまん真ん中にうっそうとした鎮守の森があって、静寂に満ちた空間が広がるというのは、なかなかいい風景である。ほかの国では、あまり見られないのではないか。

浅間神社

と、さんざん能書きを垂れたあとで今回紹介するのが、板橋区大門にある浅間神社である。
このあたりは、かつて徳丸ヶ原と呼ばれた地域の一部で、純然たる農業地帯だったという。

20年ほど前に訪れたときも、都区内とは思えないほどのんびりとした風景が広がっていたが、なかでも興味を抱いたのはこの地域に点在する神社の数々であった。

浅間神社

この地域で有名な神社というと、重要無形民俗文化財に指定された「田遊び」の祭りが行われる板橋北野神社と赤塚諏訪神社だが、それにも増して印象的だったのが、この写真の浅間(せんげん)神社である。
ほかの神社ならば、大きな鳥居の向こうに立派なお堂が建っているところだが、トップの写真を見ればわかるように境内はがらんとしている。しかも、写真の手前側には金網が張ってあって、奥のほうにぐるっとまわって入るしかない。

浅間神社の富士山

すると、境内の隅に小さな鳥居があり、小さな祠が3つ、石像が2体立っている。ほかの神社の境内でも、メインのお堂の端にこうした祠が間借りするように合祀されている例はよくみるが、ここはこの祠が主人公である。
パワースポットという呼び方は好きではないが、この神秘的ともいえる情景を見ていると、どこか不思議な気分になってくるのは確かである。

そして、碑がいくつも建っているのが見えるが、その多くは富士講のようである。浅間神社という名前からも、ここが富士信仰の神社であることはわかる。
そして、祠の裏にはやはり富士山があった。ここを登ることで、富士山に登ったことになるというやつである。最近では、東京の富士山めぐりをする物好きな人も増えてきたようで、ご同慶の至りである。

浅間神社の富士山

そして、これがその富士山山頂からの眺め。ピンクの木は花桃だろうか。
奥の無機質な塀は国道17号線新大宮バイパスである。20年ほど前、初めて大門・徳丸を散歩したときには、まだ用地買収が始まったばかりだったが……。

浅間神社の富士山

これが、山頂から「登山道」を振り返った写真。
そういえば、私が小学生のころに住んでいた浅草北部にも、浅間神社があった。やはり富士信仰の神社で、地元では「お富士さん」と呼ばれていた。有名な浅草の植木市はここを中心にして開かれる。

ところで、「せんげん」という音読みの呼び名は中世か近世になってからだろう。もとは、「あさま」だったのは間違いない……と思って調べたらやはりそのようだ。「浅草(あさくさ)」と「浅草寺(せんそうじ)」のようなもので、ちょっと気取って音読みにする例はよくある。

では、なぜ浅間山ではなくて富士山信仰が「あさま」なのかと誰もが考えるところだが、はっきりとしたことはわかっていないらしい。
それらしい説明として、「あさま」ということば自体に火山の意味があって、大昔は噴煙を上げていた富士山も「あさま」だったのではないかという。おそらく、そんなところだろう。
となると、「あさま」の語源は何かということになるが、「あ・さ・ま」をどう分けても、くっつけても該当する古語は思い当たらない。アイヌ語が語源ではないかという説もあるそうで、謎は深まるばかりである。

2013-04-21

渋谷駅周辺あれこれ

九州に行ったときのことをだらだらと書いているうちに、東京では桜が咲いて散り、東横線の渋谷駅が地下化され、下北沢付近の小田急線も地下に潜ってしまった。
そこで、遅ればせながら、渋谷駅とその周辺のことなど。

東横線渋谷駅

東横線渋谷駅の雰囲気は独特なものがあったので、以前から撮っておかなくてはと思っていた。
とくに、改札口の外から、行き止まり式のホームに停まっている車両と、雑踏を写しとれればとは考えていたのだが、とうとうそれもできずに廃止を2日後に迎えることになってしまった。

すでに、鉄道ファンのみならず、ごく普通のOLとも見える人たちまで、スマホで撮影しているような状況だった。しかも、夕方だったので乗降客が多く、改札の外からは車両が見えない。
というわけで、撮れたのは上のような写真だけ。

東横線渋谷駅

でも、この日が来ることを想定して、2008年にホームで撮っていた写真があった。
それが、この上と下の写真である。

東横線渋谷駅

まあ、あの雰囲気がわずかでも残せたのはいいのかなというところだろう。

さて、この東横線の駅の移転だけでなく、渋谷はここ10年で大きく姿を変えようとしている。今の姿を残しておくのは早いほうがいい。

渋谷駅南西側

じつは、私が以前から気に入っているのが、渋谷駅の南西側の一角である。
すっかりおしゃれになってしまった渋谷周辺にあって、このあたりはかろうじて昔ながらの泥臭い雰囲気を残している。

渋谷駅南西側

いずれ、この一角も、すぐ近くにそびえるセルリアンタワーのような高層ビルになってしまうのかもしれない。

渋谷駅南西側

そのときは、先日の東横線渋谷駅のような大騒ぎもなく、ひっそりと姿を消していくことだろう。

2013-03-13

久しぶりの浅草松屋屋上は狭かった

浅草にある松屋が改装されて、昔の姿を取り戻した。
それは知っていたのだが、再び屋上に立ち入れることになったのは、現地に行くまで知らなかった。
今からン十年前、私が幼かったころに、よく母親に連れてこられた懐かしの場所である。

というわけで、さっそくエレベーターで屋上へ。

浅草松屋屋上

もとより昔の遊戯施設が残っているとは思わなかったが、それにしてもガランとしている。
しかも、警備員にしっかりと監視されているので、ちょっと背中がこそばゆい。

なぜ、こんな殺風景な屋上を公開したのかといえば、どうやら、スカイツリーが間近に見えることが売りのようだ。売りといっても、もちろん無料で立ち入れる。

浅草松屋屋上

ときは2月14日、世の中はバレンタインデーと称する日だったため、申し訳程度に地味な飾りつけがされていたのが微笑ましい。

それにしても、遊戯施設があったころの松屋屋上は、ずいぶん広く感じられたのだが、こうして見るとやけに狭い。
建物が更地になって狭く見えるのと同じ感覚か、それとも単に私が小さかったからなのか。
ここで、ホームページ本館でも紹介している、1972年当時の浅草松屋の写真を貼り付けておきたい。高校生のときに撮った写真だ。

1972年当時の浅草松屋

注目は屋上に見える遊戯施設の数々である。
ちょっと拡大。

1972年当時の浅草松屋

観覧車をはじめとして、名前は忘れてしまったが、いろいろな乗り物が写っている。
もちろん、ここに見えている以外にも、さまざまな乗り物やアトラクションがあったっけ。
私が神童だった幼年時代の思い出がここに詰まっている。

さて、最後の写真は1986年のもの。外装の老朽化が進んでいたというので、金属の板らしきものが張りつけられた。いかにも応急措置という印象で、風格ある松屋のイメージもなくなってしまい、がっかりした人も多かった。
古いものを下に隠してでも、薄っぺらな新しさが求められた時代だったのである。
「浅草松屋」を「松屋浅草」と呼ぶようにしたのも、このころからだったか。今でもなじめない。
とはいえ、外装をまったく破壊しなかったのがよかったのだろう。それが今回の復元につながったに違いない。

1986年の浅草松屋

モノクロ写真で残念なのだが、手前の都バスは黄色の地に赤帯。
それまでの薄いクリーム色の地に青帯は、美濃部革新都政のイメージが強かったので、代わって登場した鈴木俊一都知事本人か取り巻きかが色を塗り替えさせたというのが定説である。

かつての濃いクリームに朱色の帯という配色を再現したつもりかもしれないが、以前よりもかなり色が強かった。
「あまりにも暑苦しい」という都民からのクレームが相次いで、あっという間に消え去ったのであった。

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