カテゴリー「東京ぶらぶら歩き」の122件の記事

2023-01-26

西表島 路線バスで村めぐり(7)古見

2021年11月に訪れた西表島路線バス旅のつづき。
野生動物保護センターから歩いて戻ったのは、古見(こみ)の集落。西表島東部でもっとも古い村だそうだが、ここもほかの集落と同じくマラリアで廃村を繰り返し、現在の集落は戦後に入植してきた人たちによるものだという。

古見のバス停

野生動物保護センターからは1kmあまり。県道にはさえぎるものがほとんどないので真夏は大変だろうが、11月なのでやや蒸し暑い程度で県道を歩くことができた。

古見小学校

バス停そばには立派な古見小学校がある。
西表島には、古見のほか、大原、上原、西表(祖納)、白浜、船浮の全部で6つの小学校がある。

赤瓦の民家

島の東部では珍しい赤瓦のお宅。バス停に隣接していた。庭がきれいに整備されている。

集落下の泉

県道からそれて海側に歩いていくと、村外れにこんな石垣があった。泉がわいている歴史的な場所のようで、看板が立っていたが撮り損ねてしまった。
琉球王国時代、古見は八重山諸島のなかでも重要な村だったそうだ。海岸近くには沖縄では珍しい製鉄所があり、造船所もあったという。それを偲ぶ跡が残っていると知ったのは、東京に帰ってきたからのことである。

県道沿い

歌手の夏川りみさんのお母さんがやっている喫茶店があったが、もう閉店の時間が迫っていたので残念ながら訪ねることができなかった。
近くを通ると、たぶん地元の人たちらしい明るい話し声が庭から聞こえてきた。

バス到着

こうして西表島村めぐりの1日目はおしまい。白浜行きの最終バスがやってきた。
白浜到着は午後5時ちょうどである。

2021-08-10

オリンピック 五輪色の東京スカイツリー

8月8日、東京オリンピックが閉会となった。
開催前からすったもんだがあったけれど、私はやってほしいと思っていた。
まあ、その辺はいろいろな意見があるだろうから、ここでは深入りしないことにします。

閉会式はちょっと拍子抜けだったけど、選手入場のときに流れた古関裕而の「オリンピックマーチ」が聞こえたときには身震いがした。
最初の一節だけで、1964年のあのころのことが一気によみがえってきた。

十間橋から見た東京スカイツリー

あのころの日本は夢と希望にあふれていたなあ。
まあ、本当は公害やらなんやらで大変な時期ではあったはずだが、好奇心にあふれた小学校2年生だった私には、毎日がおもしろいことでいっぱいだった。
世界にはいろいろな国があって、いろいろな人がいることも知った。

区立の小学校に通っていたのだが、当時にしては珍しく各教室にテレビが備えつけられていた。
先生は、「あと100年は日本でオリンピックはないだろうから、しっかりと見ておきなさい」といって授業中のときどきに見せてもらえたのだった。
マラソンの中継では、まだ何人もが先頭集団をつくっている時点で、先生がアベベを指さして「この人が優勝するわよ」と言ったのが記憶に残っている。

開会式の日は窓から自衛隊のジェット機が描いた五輪も見たし、家の近くを走っていった聖火も見に行った。聖火は鮮やかなオレンジ色をしていたのが印象的だった。

水泳ではショランダーをはじめとしたアメリカ選手の強さが際立っていて、あれでアメリカ国歌のメロディーを覚えてしまったほどだった。
もちろん東洋の魔女も重量挙げの三宅義信も見たし、柔道のヘーシンク対神永も覚えている。100mを10秒00で走ったボブ・ヘイズも、重量挙げのジャボチンスキーも。当時の興奮がよみがえってきたのも、あのオリンピック・マーチが聞こえてきたからだ。
ああ、こんなことを書いていたらきりがない。

今回の写真と動画は、五輪に彩られた東京スカイツリーである。実家から帰る途中に、珍しいカラーリングが目に入ったので、ちょっと遠回りして十間橋の上から眺めてみた。

橋の上には入れ代わり立ち代わり人がやってきては写真を撮っていた。
子ども連れのお父さんやお母さんもいた。
あの子たちは、今回のオリンピックをどのように思い出すのだろうか。

2021-07-16

地下鉄丸ノ内線後楽園駅

丸ノ内線の後楽園駅というと、上下線のホームを覆うドームを思い出すが、残念ながら撮影していない。
中学・高校と毎日通過していたのだが、……いや、通学で使っていたからこそ、撮るチャンスがなかった。
今のようなスマホや高性能コンパクトカメラがあれば別だが、わざわざ学校にカメラを持っていくわけにもいかなかった。

丸ノ内線後楽園駅

後楽園の駅ビル建設とともに、駅は屋根の低い味気ない形になってしまったが、歩道橋のこの角度から見ると意外に愛嬌がある。
ドジョウが水の中からちょっと顔を出したような感じ。

2021-06-21

京島から押上へ十間橋通りを歩く

キラキラ橘通りを南下して、たから通りを渡って京島二丁目に入ると商店よりも一般の住宅のほうが多くなっている。かつては、このあたりにも沿道に商店が軒を連ねていたものだった。

京島南公園

商店街からちょっと脇にはいったところにあるのが、この通称「マンモス公園」
正式には京島南公園というらしいが、昔からマンモス公園と呼ばれていた。
何がマンモスかといえば、この滑り台である。かなりの迫力で人気があり、私が子どものころには階段に行列をつくって滑るのを待っていたほどである。

十間橋通り

橘通りは、北の端でこの十間橋通りに合流する。通りに面した家は建て替えられたリフォームされたりしているが、低層住宅が多く、昔の雰囲気は残っている。子どもだった私にとっては、古切手、古銭を扱う店を訪れるのが楽しみだった。

十間橋通り

さらに南下していくと、町名は文花(ぶんか)から押上へと変わる。その道沿いに不思議な建物があった。
間口というか、道に面した部分がやたらに広いのである。
写真を拡大してみると、日本そばも出す喫茶店になっているようだ。

押上

十間橋通りは、その南端に十間橋があり、そこで北十間川を渡る。北十間川は江戸時代に開削された運河で、川幅が10間(約18m)であることから名付けられたそうだ。
もっとも、今ではコンクリート堤防でしっかりと固められていて、実際の川幅はそれよりは狭いような気がする。

そんな十間橋の手前にあったのが、この牛乳販売店。われわれの世代には、「保証牛乳」という名前が懐かしい。
小学生のころには、テレビCMもやっていた。♫ 十字のマーク、ほしょ~ぎゅうにゅ~♫
下町の小賢しい小学生である級友の一人は、さっそく替え歌をつくり「十字架のマーク、保証しない牛乳~」と歌っていたっけ。

東京スカイツリー

ここまでくると、東京スカイツリーはもう目の前。地下鉄半蔵門線が開通して、さらにこれが建ったおかげで、少なくとも東京都区内に住む人の大半には、「押上」という地名を間違いなく読んでもらえるようになった。
十間橋から望むスカイツリーはあまりにも有名すぎるので、ちょっとひねくれて、路地の向こうに見える風景を撮ってみた。

2021-06-16

墨田区京島 キラキラ橘商店街

京島三丁目というと有名なのが、橘通り商店街である。昔ながらの雰囲気が残る商店街として、よくテレビにも紹介される。
最近では「下町人情 キラキラ橘商店街」という、ちょっぴり照れくさい、文字通りキラキラネームがついている。以前は「橘銀座商店街」といわれていたが、そのいわれは、かつてここに橘館という映画館があったからだ。だから、1960年代ころまで、地元の人たちは「橘館通り」と呼んでいた。

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前回の記事でネコとすれ違った路地を出ると、橘通り商店街のここに出る。
正面は「たぬき寿司」、写真の左手前にちらりと写っているのは、この界隈で最古参の店の一つだと祖母がいっていた「さがみ庵」である。以前は、「相模屋」という店名だったと記憶している。

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このあたりは、橘通りの北の端。すぐ向こうに見えているのは明治通りである。昔、地元の人たちは「環状線」と呼んでいた。
この明治通りは昭和になってからできた道で、橘通りは斜めに交差している。明治通りの向こう側にも同じ角度で細い道が続いているのは、昔1本の道だった名残だろう。
上の写真に写っている「バーバー アラキ」は、幼稚園・小学校のころにお世話になった店である。

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このあたりは、関東大震災前は田んぼが広がっていたという。震災後に周辺に数多くの工場ができたために、そこに勤める人たちの住宅が次々にできて、一気に住宅密集地になったのだそうだ。
1960年代前半だったか、週刊誌の記事に「世界第2番目の人口密度の町」として取り上げられたのを覚えている。
母の実家に行ったときに、叔父がその週刊誌を開き、「ほらこんなに有名になってる」「2番目というのがちょっと怪しい」などと笑いながらみんなに紹介していた。

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かつて橘通りは、夕方になると買い物客で大変に賑わったものだった。とくに年末になると、それはそれはすごい人出であった。
現在は、高齢化が進んで商店街はシャッターを閉めたままの店も多い。
とはいえ、ここ数年、若い人が中心になって地域を盛り上げる活動が起きているのは頼もしい。
昔のままに朽ちていく様子が取り柄の町だったが、ここに来て興味深い店や住宅が次々にできている。
私も、この町にもっと足を運び、母のいなくなった実家を拠点にして、できればあちこちの店に少しずつカネを落としつつ、変化を見つめていきたいと思っている。

2021-06-12

京島三丁目の路地でネコとすれ違う

東京都墨田区の京島は、東京大空襲で大半が焼失した下町にあって、奇跡的に焼け残った地区である。
なかでも私の母の実家がある三丁目は、昔ながらの裏通りや路地が残り、初めて来た人は歩いているうちに方向感覚を失い、道に迷うこと必定である。

京島三丁目のネコ

上の写真は、路地が裏通りを横切るところにある地面の表記である。
確かに、この表記がないと、地元の人でなければ、こんなところに路地があるとはわからないだろう。
もっとも、この裏通りはすぐに突き当たるため、地元の人以外はあまり通ることはない。

京島三丁目のネコ

ある日のこと、この勝手知ったる路地を歩いていると、一匹の猫と遭遇した。
彼または彼女は、こちらをじっと見てニャアと鳴く。
勝手知ったるとはいえ、今は都内の別の場所に住む私である。ここは、地元に住む彼または彼女に道を譲るのがよいと考えた。
本当はバッグの中にあるカメラを出したかったのだが、怯えるといけない。手に持っていたスマホでそっと撮ったのがこの一連の写真である。

京島三丁目のネコ

脅かさないように、狭い路地の端に寄って、彼または彼女がすれ違える空間をつくった。
すると、空いた空間をささっと走り抜け、こちらを振り向いてニャア。
お礼のことばなのだろうか。

京島三丁目のネコ

本当はそのまますれ違って終わりになるはずだったが、ちょっと猫のあとをつけてみた。
すると、彼または彼女は、最初の写真の裏通りに出ていく。
これは画になると、スマホを構えてその後ろ姿を撮ろうとしたときのことだ。
気配を感じたのか、こちらを振り向くではないか。
そして、「なんだまだいるのか」とばかりに、また一声ニャアと鳴いたのであった。

2021-06-01

静かな柴又帝釈天参道と「ママの店」のこと

新型コロナのおかげで、海外旅行どころか国内ものんびり旅ができない今日このごろ。仕事の進行と空模様と相談しつつ、都内をぶらぶらとめぐっている。
先日は、やぼ用で葛飾区役所に行ったついでに、久しぶりに柴又帝釈天を訪ねてみた。

柴又帝釈天

この偽芸術的写真は、いまから約四半世紀前に撮ったものである。
モノクロフィルムを使っていた最後の時期だ。
デジタル写真を安直にモノクロ化したのとは、やはり違う。

柴又帝釈天参道

それにてしも、いくら平日とはいえ、普段なら観光客で混雑している境内も参道も閑散としている。
寅さん映画がはじまる以前は、新年や庚申の日を除いて平日は人も少なかったが、ここまで人がいない帝釈天ははじめてである。

柴又帝釈天参道

参道の店も半分以上が閉まっている。
どうやら開いているらしい「川千屋」を撮ろうと構えたら、いい感じに自転車がファインダーを横切っていったのでパチリ。

実は、この柴又帝釈天参道は、2018年に国の重要文化的景観に指定された。
景観の維持には、地元の人たちの並々ならぬ努力があるそうな。
おかげで、私が子どものころに見た風景と同じ……いや電線もなくなっているので、昔よりも味わい深い風景として残されているわけだ。

柴又帝釈天参道

この写真の左奥にあるのが有名な団子屋「高木屋本舗」。向かいの店舗が茶店というか喫茶室になっていて団子が食べられるのだが、コロナの影響で閉まっていた。せめて土産として買っていきたかったが、当日はそのあとに行くところがあったので断念した。

さて、その「高木屋本舗」の向こうに車が見えるが、そこが柴又街道である。
金町と小岩を結ぶ道で、さらに南へ行徳方面に向かっている。交通量も多く、バスも頻繁に走っている道だ。
ところが、この付近では片側一車線しかないため、昔からとくに朝夕の混雑がひどい。

柴又帝釈天参道

そうした道路混雑を解消するために、この柴又街道を拡幅する計画が東京都から出てきたという。もし実施されるとなると、参道と交差する部分で、古い建物の取り壊しが避けられない。
たとえば、この写真の「だるまや」も引っかかってくるだろう。
反対の声が多いと聞くが、はたしてどうなることやら。

柴又帝釈天参道

梅雨間近なじめじめした空気のなか、柴又駅からぶらぶらと、昔住んでいた高砂に向かった。
高砂駅に向かう道の途中で見かけたのが、この廃墟のような建物。看板を見ると、「ママの店」と書かれているではないか。
半世紀前の記憶が、突如として脳の無意識の領域からよみがえってきた。
母がこの店名をよく口にしていたっけ。家からは歩いて15分ほどかかったが、当時は近所にスーパーもなかったので、ここまで買い物に来ていたものだった。もちろん私も、営業していた当時の賑やかな様子を覚えている。
子どものころから何度か引っ越しをしているが、昔住んでいた町の近くを歩いていると、こうした瞬間がときどき訪れるのである。

2019-09-28

『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』上梓!

このたび、青春出版社から『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』
(青春新書インテリジェンス)を刊行します。10月2日発売です。
見本ができあがりました。

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本の内容は、タイトルとサブタイトルからわかるように、昭和・平成の時代に撮った写真(1970年代~90年代がほとんど)と、令和になってから同じ場所で撮ったいわゆる定点写真を集めたものです。
ホームページ本館の『東京 -昭和の記憶-』の拡大版。令和になってからの5月から8月末までの期間に、47都道府県の撮影ポイントをすべてまわってきました。

構成は、見開きでまず現在の写真を3~4枚、次の見開きで同じ地点の昔の写真を3~4枚並べています。

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取り上げたのは、東京が21カ所、地方が全道府県です。写真が全部で400枚以上になりました。
新書判で、紙は写真向きの厚手のもの、写真が400枚以上あって定価は1705円(本体1550円+消費税)です。
写真もきれいに印刷されました。

店頭には10月3日か4日ころから並ぶかと思います。ぜひ手にとってご覧ください。
願わくは、そのままレジに運んでいただければと。

2014-05-31

向島ぶらぶら歩き

先日は、浅草から隅田川を渡り、向島百花園から東向島あたりをぶらぶらしてきた。
東武線と隅田川にはさまれた地域である。
父母のどちらの実家にも近いのだが、バスで通過したことはあっても、30歳を過ぎるまでめったに降りたことはなかった。

水戸街道にある魚大

この写真は、水戸街道の東向島三丁目交差点にある料理屋の魚大。
もとは魚屋だったそうで、おいしい魚が食べられると店のホームページに書いてあった。
店ができて70年というから、戦争直後に開業したのだろうか。このあたりは、空襲で焼け野原になったはずである。

鳩の町商店街

水戸街道を500mほど南下すると、小さな東向島一丁目交差点から東側に、墨堤通りまで「鳩の町商店街」が続く。かつて、遊里として知られていた一帯である。この付近は、東京大空襲で焼け残ったため、狭い道の両側に戦前からの古い家屋が今でも残っている。

同じ墨田区でも、玉ノ井のいろは通り、京島の橘銀座通り(現・キラキラ橘)では、ほとんどの家が建て替えられてしまっているのに対して、この商店街の東側には、まだこうした古い家が何軒も残っている。
この店は米屋。なかには、古い家屋をそのまま生かして、喫茶店にしているところもあった。

鳩の町商店街

鳩の町商店街をさらに東に進んだところにある酒屋(右奥)雨宮商店。
右手前の店(赤松商店)は化粧品店だったのか雑貨店だったのか。看板の「ラモナー化粧品」が興味をそそる。
ネットで調べてみると、大正4年に創業した石田香粧株式会社の商標で、同社は今でも下谷に本社を置き、戸田と蕨の工場で化粧品を製造して、OEMを中心とした事業を展開しているそうだ。

質屋

このあたりの道は、複雑怪奇に交わったり、離れたりで、実に簡単に道に迷う快感にひたれる。
そんななかで、鳩の町商店街から100mほど南、小さな四つ辻にひっそりとたたずんでいたのがこの質屋。
やっぱり、質屋は目立たないところに建っているのが本来の姿かなと思うのである。

昔のごみ箱

そして、古い板壁の家の前に置かれていたのがこれ。
この写真を見て何であるかがわかるのは、少なくとも東京生まれの人間では、50代以上だろう。
かつては、どの家の前にも、こんなごみ箱が置かれていたものだった。
週に2、3回しかごみを出せなくなる前の話である。

もっとも、ごみ出しの日時を限定したことで、今のような清潔な町になったのだと思えば、面倒もいたしかたない。
このごみ箱は、鉢植えの台として第二の(?)人生を送っていた。

向島の原風景

ぶらぶら歩いているうちに、日が傾いてきた。
夕日に照らされる木造の家、わけがわからないほどに込み入った道、雑然として統一のとれていない家並み、軒先の鉢植え……戦後の高度成長期に育った者にとって、まさにこれが東京下町の原風景である。
まあ、向島が下町かどうかについては議論があるかもしれないが、今や柴又や都電荒川線沿線を下町と呼んでいるのだから、向島を下町といっても問題はないだろう。

2014-05-17

浅草: 三社祭を待つ街角

今年も三社祭がはじまった。
たまたま16日の昼すぎに浅草に行ってみると、やけに観光客は多いし、観音様の境内には所狭しと店が出ているし、何事かと思った私である。

小学校時代に浅草に住んでいたにもかかわらず、三社祭を忘れていたなんて、江戸っ子の風上どころか、風下にも置いてもらえそうにない。

浅草東町会の神輿

ぶらぶら歩いていると、町のあちこちで神輿の準備をしているのが目に入る。
せっかくだからと、別の用事で持っていたカメラを取り出してパチパチと撮影。

浅草公園町会の神輿

前にも書いたけれど、小さいころは祭りが好きではなかった。
とくに、浅草に住んでいたころは、周囲の大人たちや同級生があまりに熱狂しているのを見て、どうにも近寄りがたいものを感じ、一人冷めていたものであった。

それは、浅草生まれではないよそ者という意識があったからかもしれない。
でも、父や母の実家がある向島あたりの祭りも、とくに興味を抱いたことはなかった。
要するに、あの熱狂が苦手だったのだ。

浅草公園町会の神輿

祭りで冷めていたのは、父親も似たようなものだったから、それは遺伝か家庭の雰囲気からきているのかもしれない。
とはいえ、三社祭のときには土曜日の授業が2時間で終わるので、それだけは楽しみだった。

そして、祭りが終わった月曜日には、同級生たちが顔をしかめながら、「神輿をかついで肩が痛くなった」と自慢げに話しているのを、「ふうん、そんなもんなのか」と聞くのが毎年の決まり事であった。

それでも、浅草を離れてみると、やはり懐かしい日々である。
大人になると祭りの意義もわきまえてきて、「祭りも悪くはないな」なんて、偉そうに評価するまでになった。

御幣棒を運ぶ人

そして、昨日である。

町を歩いていると、神輿の準備だけでなく、御幣棒を運ぶ人もよく見かけた。
ひさご通りの喫茶店では、町内の人たちで貸切りとなり、法被姿の人たちが打ち合わせらしきことをしていた。

町全体から浮足立っている様子がうかがえる。
そんな雰囲気も悪くはない。
あえて例えてみると、それは遠足に行く前の小学生の気分といったところか。

今日からは祭りも本格的になる。
観光客もたくさん出て、浅草は大賑わいになるに違いない。
でも私は、祭りの前の空気を味わうことができただけで、それでもう十分に満足したのであった。

より以前の記事一覧

著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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