高島屋史料館の「ジャッカ・ドフニ」展とゲンダーヌさんの思い出
今から45年も前の1979年夏、北海道旅行で立ち寄ったのが、網走郊外にあったジャッカ・ドフニという資料館である。たいていの観光客は網走刑務所に向かうのだが、どんなものかも知らず私はこちらを選んだ。訪れてみると、そこは林の中にある真新しい木造の小さな平屋の建物だった。
館長は本名ダーヒンニュニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)という戦前の樺太(サハリン)出身の北方少数民族ウィルタ(旧称・オロッコ)の中年男性。ほかに誰もいない建物で、感受性豊かだった学生の私は、戦争をはさんで日露の間で翻弄されたゲンダーヌさんの、哀しくも波乱に満ちた人生譚をじっくりと聞くことができた。
樺太・千島交換条約で樺太全体がロシアのものとなったが、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太は日本領となる。日本語教育を受けていたゲンダーヌさん自身は通訳の仕事をしていたというが、いろいろと話をしていれば情報のやりとりも生じたことだろう。戦後、スパイ容疑でソ連に何年も拘留されてしまった。
釈放されたのち、「あの国ではまたいつ逮捕されるかもわかりませんから、日本にやってきたんです」というが、日本では就職や結婚への差別に苦しんだ。
「ろくな仕事ももらえないし、結婚まで考えて付き合った女性は何人かいたのですが、私がウィルタであることをいうと、みな去っていきました」
さらに日本政府の対応は冷たく、戦前戦中と日本のために働いたのに、正式な徴用ではなかったとして関係者の努力もむなしく軍人恩給をもらえなかった。堪忍袋の緒が切れた彼は、北川源太郎の日本名を捨てて、自分はウィルタのゲンダーヌであると宣言したのだ。
せめてもの慰めは、地元の網走市に理解があったことだろう。市が土地を提供してくれたことでジャッカ・ドフニが1978年に開館。館内に集められたさまざまな文物や資料に交じって、地元の小学生による寄せ書きや「ゲンダーヌをたたえる歌」を公会堂のようなところで歌っている写真が飾られていた。
当時、日本でウィルタだと名乗り出ていた人は、彼の義父や義妹をはじめとして限られた人数だった。
「函館で結婚しているウィルタの女性と手紙のやりとりをしていたのですが、私がウィルタであると世間に公言した直後、もう手紙を寄こさないでくれと書いてきました」
ジャッカ・ドフニには小一時間ほど滞在したが、ほかに誰も訪問者はなかった。記念写真の1枚も撮らなかったのは痛恨の極みだが、そのときに購入した木彫りの木偶は大切にとってある。
そのうちに再訪しようかと思っていたら、なんと1984年にゲンダーヌさんは急逝してしまった。
そんなジャッカ・ドフニという名前を久しぶりに耳にしたのは先週のこと。日本橋高島屋4階にある史料館で、8月25日まで「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家」展が開催されているのだと聞いて、23日に足を運んでみた。
小さな館内は、いかにも意識が高そうな中年男女がひっきりなしに訪れていた。45年を経て、書物やネットでゲンダーヌさんの名前を知る人が増えたようである。
展示品のなかには、私が買った木彫りを一回り大きくしたものが飾られていた。宗教儀式などに使うセワという木像なのだそうだ。
« 『辞書には載っていない!? 日本語』刊行! | トップページ | ビザンティンの残り香 丘上の町ロッサーノ・カラブロ »
「ニッポンぶらぶら歩き(東京、沖縄以外)」カテゴリの記事
- 高島屋史料館の「ジャッカ・ドフニ」展とゲンダーヌさんの思い出(2024.08.24)
- 夕刻に訪れた伊予長浜 瑞龍寺(2023.08.27)
- 予讃線(海線)に乗って伊予長浜へ(2023.08.14)
- 豪壮な家並みが残る内子の町(2023.08.08)
- 松山市内で乗り物三昧とぶらぶら散歩(2023.08.03)
「日々の思い」カテゴリの記事
- 高島屋史料館の「ジャッカ・ドフニ」展とゲンダーヌさんの思い出(2024.08.24)
- 『辞書には載っていない!? 日本語』刊行!(2024.06.22)
- 謹賀新年 2023年(2023.01.02)
- 『サンデー毎日』6月7日号に記事掲載(2020.05.27)
- 道路が拡幅されて──『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』から(4)(2019.11.03)
« 『辞書には載っていない!? 日本語』刊行! | トップページ | ビザンティンの残り香 丘上の町ロッサーノ・カラブロ »
コメント