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2024年8月の3件の記事

2024-08-26

夕暮れのロッサーノ・カラブロ

ロッサーノ・カラブロには2泊。大きすぎず、小さすぎず、ほどほどの規模の町に泊まるのは楽しい。観光客はほとんど見なかったけれどゼロではないようだし、顔なじみになる人も出てくる。

まずは、夕暮れの町をぶらぶら。人口は丘下の駅周辺を合わせると3万5000人あまりということで、かなりの規模である。

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ここが町の中心の広場! 飾りつけは、町の守護聖人である聖ニーロのお祭りだからだそう。

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坂だらけの町をぶらぶら。町外れまでくると、いかにも南部の丘上の町という風情である。

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夕食に入ったレストラン"La Villa"ではテラス席に通された。隣席には90歳のマンマの誕生日を祝うファミリー。
一緒にお祝いの言葉を述べたら、スパークリングワインの乾杯の相伴に預かり、ケーキのおすそ分けも!
イタリア語をやっていてよかったと感じる瞬間である。

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店のご主人とマダムは、とっても上品で親切。

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ピッツァ職人も笑顔が素敵。

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2日目の夜は、町の端にあるビザンティンの名前を冠したレストランへ。
静まり返った道を歩いた先に、こんな賑わいがあった!
ここでも周囲のおじさんや店の人と大盛り上がり! イタリア語をやっていてよかったと感じる瞬間である(しつこい)

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この直後、店内のテレビで放映されていたUEFAチャンピオンズリーグで、ラツィオのゴールキーパー(!)による起死回生のヘディング同点ゴールという世にも稀なシーンを生で見ることになる。

そして、夜のロッサーノ・カラブロ駅。

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これは、2日目に隣のコリリアーノ・カラブロに行った帰りに乗った列車。
ディーゼルカーALn663は、まだまだ地方のローカル線で見ることができる。

2024-08-25

ビザンティンの残り香 丘上の町ロッサーノ・カラブロ

2023年秋のイタリア3週間の旅の続き。旅も終盤にさしかかり、かかとのプーリア州から列車を2回乗り換え、土踏まずに沿って西へ進んでつま先にあたるカラブリア州へ移動。昔から行ってみたいと思っていた丘上の古い町ロッサーノ・カラブロに2泊した。

大聖堂前の広場

日本ではほとんど情報がないだけでなく、丘下にある駅からのバスの時刻もバス停の位置もよくわからないまま、久しぶりの手さぐりの旅にドキドキわくわくしていた。
バスは30分おきに運行されていることがわかったものの、荷物が多いので行きは駅前に貼ってある電話番号を見てタクシーを呼ぶことにした。

狭い道を縫って走る路線バス

宿は町の中心にある大聖堂(ドゥオーモ)前の狭い広場に面した居心地のよい旅行者用アパート。
当日は結婚式があるらしく着いた直後に、窓から一部始終を見ることができた。

花嫁の到着

翌日に大聖堂の内部を見学したのだが、「鄙には稀な」といっては失礼なほどの素晴らしい内陣であり、この町の歴史を感じさせる。

大聖堂の内部

ロッサーノは今では単なる田舎町に見えるけれど、その歴史は紀元前11世紀までさかのぼり、ギリシャ人、ローマ人などの支配を受けたのち、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)のもとで大いに栄えたのだという。

町の時計塔

隅々までじっくり観光すればさまざまな文化遺産、歴史遺産に触れることができただろうが、例によって町をぶらぶらすることと夜のレストランで地元の人と交流を深めることに終始してしまったのであった。

町外れには、ビザンティン時代の古く小さな教会があった。

ビザンティン様式の教会

 

2024-08-24

高島屋史料館の「ジャッカ・ドフニ」展とゲンダーヌさんの思い出

今から45年も前の1979年夏、北海道旅行で立ち寄ったのが、網走郊外にあったジャッカ・ドフニという資料館である。たいていの観光客は網走刑務所に向かうのだが、どんなものかも知らず私はこちらを選んだ。訪れてみると、そこは林の中にある真新しい木造の小さな平屋の建物だった。

「ジャッカ・ドフニ」展に展示されていた昔のウィルタの家の模型

館長は本名ダーヒンニュニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)という戦前の樺太(サハリン)出身の北方少数民族ウィルタ(旧称・オロッコ)の中年男性。ほかに誰もいない建物で、感受性豊かだった学生の私は、戦争をはさんで日露の間で翻弄されたゲンダーヌさんの、哀しくも波乱に満ちた人生譚をじっくりと聞くことができた。

「ジャッカ・ドフニ」展に展示されていた昔のウィルタの家の模型

樺太・千島交換条約で樺太全体がロシアのものとなったが、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太は日本領となる。日本語教育を受けていたゲンダーヌさん自身は通訳の仕事をしていたというが、いろいろと話をしていれば情報のやりとりも生じたことだろう。戦後、スパイ容疑でソ連に何年も拘留されてしまった。
釈放されたのち、「あの国ではまたいつ逮捕されるかもわかりませんから、日本にやってきたんです」というが、日本では就職や結婚への差別に苦しんだ。
「ろくな仕事ももらえないし、結婚まで考えて付き合った女性は何人かいたのですが、私がウィルタであることをいうと、みな去っていきました」
さらに日本政府の対応は冷たく、戦前戦中と日本のために働いたのに、正式な徴用ではなかったとして関係者の努力もむなしく軍人恩給をもらえなかった。堪忍袋の緒が切れた彼は、北川源太郎の日本名を捨てて、自分はウィルタのゲンダーヌであると宣言したのだ。

サケを干している情景の模型

せめてもの慰めは、地元の網走市に理解があったことだろう。市が土地を提供してくれたことでジャッカ・ドフニが1978年に開館。館内に集められたさまざまな文物や資料に交じって、地元の小学生による寄せ書きや「ゲンダーヌをたたえる歌」を公会堂のようなところで歌っている写真が飾られていた。
当時、日本でウィルタだと名乗り出ていた人は、彼の義父や義妹をはじめとして限られた人数だった。
「函館で結婚しているウィルタの女性と手紙のやりとりをしていたのですが、私がウィルタであると世間に公言した直後、もう手紙を寄こさないでくれと書いてきました」

サケを干している情景の模型

ジャッカ・ドフニには小一時間ほど滞在したが、ほかに誰も訪問者はなかった。記念写真の1枚も撮らなかったのは痛恨の極みだが、そのときに購入した木彫りの木偶は大切にとってある。
そのうちに再訪しようかと思っていたら、なんと1984年にゲンダーヌさんは急逝してしまった。

1979年に購入した木彫りの「セワ」

そんなジャッカ・ドフニという名前を久しぶりに耳にしたのは先週のこと。日本橋高島屋4階にある史料館で、8月25日まで「ジャッカ・ドフニ 大切なものを収める家」展が開催されているのだと聞いて、23日に足を運んでみた。
小さな館内は、いかにも意識が高そうな中年男女がひっきりなしに訪れていた。45年を経て、書物やネットでゲンダーヌさんの名前を知る人が増えたようである。
展示品のなかには、私が買った木彫りを一回り大きくしたものが飾られていた。宗教儀式などに使うセワという木像なのだそうだ。

高島屋史料館の「ジャッカ・ドフニ」展入口

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著書

  • 辞書には載っていない⁉ 日本語[ペンネーム](青春出版社)
  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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