3泊したフォルリをあとにして、南イタリア・レッチェ行きのインターシティ(急行列車)に乗車した。最終的にはレッチェに行くことになるのだが、一気に行くのではなく途中で何か所か下車する計画である。
まず降りたのが、アドリア海沿岸のアブルッツォ州ヴァスト(Vasto)である。
広いビーチがある保養地で、丘上には旧市街があるというだけの情報だったが、むしろあまり情報のない町のほうが楽しみだ。
だが、この町に到着した直後、思い出すたびに冷や汗が出てくる「事件」が起きてしまうのである。

重いスーツケースを抱えて丘上の宿まで歩くのは不可能なので、ヴァストの駅からタクシーで行こうと考えていたのだが、そこそこの規模の町で保養地の駅のくせにタクシーが停まっていない。
どこかにタクシーの電話番号でも書いた貼り紙でもないかと思って探していると、駅前に市内の路線バスが到着した。市内バスの存在は事前の調べでも見つからなかったのだが、「系統番号1と書いてあるくらいだから、たぶん都心に行くのだろう」と思って乗ってみることした。

「切符はどこで買うの?」と聞くと、車内中央部にある年季の入った券売機を示された。どう使うのか迷っていると、運転手が代わりに買ってくれた。
私はバスの前方に陣取って、Googleマップと車窓を代わる代わる凝視する。
駅を出るとバスは国道に出て、なんと丘上の町とは反対側に向かっていくではないか。
「これはマズい」とそわそわしていると、しばらくしてバスはUターンして国道を駅のほうに引き返す。
そして、今度こそ丘上に向かって快走していったのである。

やがてバスは国道から脇道に入り、急坂を登っていく。丘上の都心に向かう道だ。ほっとした。
そして、町の入口にあたるジュゼッペ・ヴェルディ広場で停まると、大勢の人が降りていった。
宿のある停留所は2つほど先のようである。
「ロッセッティ広場に行きたいんだけど……」とそのバス停を運転手に聞いてみた。
「ああ、行くけれども、このバスは町を大回りするから、ここで降りて歩いたほうがいいよ」
それを聞いて、あわてて荷物をまとめて妻とバスを降りたのである。

「列車から降りてすぐにバスに乗れて安上がりで済んだ。ラッキー!」
そう喜んでいられたのも、そのあと7、8分の間だけである。
荷物を引いて旧市街の中心部までやってきた。
「宿はもうすぐそばだから、冷たいものでも1杯飲んでいくか」
そういってテラス席に腰をおろした。広場の反対側には教会が建っていて、フォトジェニックな光景だ。
いざ、カメラを出して撮ろうと思った、そのときである。

「ない!」
このときは、スーツケースとショルダーバッグのほかに肩掛けの小さなバッグを使っていた。
それがないのだ。
カメラだけならまだしも、パスポートも財布もクレジットカードもそこに入れたままだった。
頭の中には、これからやらねばならないかもしれない、面倒なことがらが渦巻いた。
──バスの会社に連絡して、カード会社にもすべて連絡して、警察に行って、ローマまで行って大使館に顔を出さなくちゃならないか……まだ旅はこれからだというのに……。

まさに、進退きわまった状況である。
「でも、とりあえず今できることはないのか」
意外に冷静に考えて思い出したのが、さっきのバスの運転手のひと言である。
バスは町を大回りして、さっきのバス停に戻ってくるはずである。町の上下を結ぶ主な道はあそこしかない。
私は、荷物を妻にゆだねて、スマホだけを持ち(これだけは手に持っていた)、さっきのバス停まで走って戻ったのである。

バス停まできて時刻表を確認。駅に向かう1系統はあと5分ほどでやってくるようだ。
「駅に行くバスはここに停まるんですよね」と近くで待っていた中年男性に聞く私。
息を切らした東洋人に問い詰められて彼は驚いたかもしれないが、「Sì」と答えてくれた。
そして、予定時刻より少し遅れてバスはやってきた。
待っている人は7、8人いたが、私はまっさきに入口に駆け寄った。扉が開いた。

「さっきの運転手に間違いない」とまず確認して、ほんの少し安心する。
「小さなバッグの忘れ物はなかった?」
すると、彼は一瞬の間を置いて答えたのだが、その間がちょっと恐かった。
「座席を見てみたら」
そう言われて、前から2番目の席に一目散に走り込むと……あった。
へなへなと崩れかけたが、気を取り直して「あったよ!」と運転手に声をかけると、彼は表情を変えずに小さくうなずいただけだった。
バスの入口に戻り、乗車を待つ人たちに向かって「バッグがあったんです!」と元気に報告したが、誰もさして興味を示さず、入れ代わりにバスに乗っていった。
もっと南の地域だったら、みんなで揃って喜んでくれたかもしれないと思ったが、逆に考えれば忘れ物が残っていることが当たり前という意識なのかもしれない。
広場に戻ると妻は喜んでくれたが、私が突然走り出してどこに荷物を探しに行く気なのかと驚いていたらしい。
町を1周して戻るバスを待ち構えるとは考えつかなかったのだそうだ。
「ふふ、ちょっと頭を使っただけさ」と自慢げな私。
それにしても、あのバスの運転手のひと言のおかげで、機転を利かすことができたのは喜ばしい。
いや、待てよ。あのひと言がなければ、のんびりと町を1周してあわてることなく宿の最寄りのバス停で降りたはずだ。そうすれば、バッグを置き忘れることはなかったに違いない。
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