ボルツァーノの賑わい(下)
前回も書いたように、ボルツァーノ自治県(=南チロル=アルトアディジェ)では、イタリア語とドイツ語が公用語になっている。ボルツァーノという町の呼び名自体も、ドイツ語ではボーツェンであり駅名は併記されている。
印象的だったのは本屋である。旧市街の書店で旅行ガイドブックを買おうしたのだが、旅行書の棚に行ってみても有名なTCI(ツーリングクラブ・イタリアーノ)の緑色のガイドブックが1冊も見当たらない。
おかしいなあと思いながら探すこと数分、店員にイタリア語で尋ねると、「イタリア語の本は下のフロアなの」とのお言葉。言われてよく見ると、そのフロアにあったのはすべてドイツ語の本だった。
階段を降りると、ドイツ語の本のフロアとほとんど同じ構成で、雑誌、児童書から文学、旅行ガイドまで、イタリア語の本が並んでいた。たぶん、世界的なベストセラーも、ここではドイツ語訳とイタリア語訳が別々のフロアで売られているのだろう。単純に考えれば、同じ品揃えなのに普通の本屋の2倍の売場面積が必要になるわけだ。二カ国語併用は思った以上に大変に違いない。
第一次大戦後に南チロル(=アルトアディジェ)がイタリア領になってからは、イタリア化政策が強引に進められたという。ドイツ語の使用は禁止され、「チロル(ティロル)」という地名さえも禁句になったという。学校ではイタリア語による教育が行われ、公職に就くにはイタリア語が堪能ではなければいけなかった。
さらに中南部からイタリア人の移住も国策として進められ、摩擦が耐えなかったと聞く。
なんとか周辺国のとりなしもあって南チロルの自治権が大幅に認められると、今度は公職に就くにはドイツ語とイタリア語のどちらもが話せないといけなくなり、イタリア系住民は苦労してドイツ語を学ぶことになったという。
ちなみに、上の写真2枚は前回の記事でフレスコ画を紹介したドメニコ会教会の前をゆく観光用ミニトレインと連接バスである。フレスコ画の華麗さとは対照的に外観はシンプルなのがおかしい。
さて、ボルツァーノでの晩飯だが、東京で南チロル料理をやっている三輪さんに勧めてもらった旧市街の店のうち、なんとなく雰囲気がよさそうなクラフトビール屋に突入した。
テラス席もあるが、目の前でビールが注がれるカウンターを選択。地元のおじさんがわいわいとおしゃべりしているのを聞いているだけでも楽しい。もっとも、ドイツ語で話していたので意味はわからなかったが。
ビールは絶品でメシもうまいので、結局3日間通いつめてしまった。イケメンで気が利いて頭の回転も早いマルコがサーブしてくれる。もちろん彼もイタリア語、ドイツ語、英語が堪能。いろいろとおしゃべりをしていくうちに、徐々に私もイタリア語が出てくるようになった。
フロアだけでなく地下には大きな醸造樽や醸造タンクがあった。
観光シーズンの終わりに近い週末だったからか、市内ではビール祭りが開かれていた。ヴァルター広場をはじめ、旧市街にはビールや食べ物の露店が並び、大宴会場と化していた。ソーセージが焼けるよい香りが漂い、あちこちでバンドのステージが開かれている。
マルコに「きょうはビール祭りなんだね」と聞くと、「そうらしいね」と気のない返事。「関係ないんだ。大手のビールメーカーの祭りだから?」と聞くと、にやりとして「うん」と言う。規模が小さくてもいいビールを造っている誇りがあるのだろう。
最後にもう一度ボルツァーノ駅の写真を。
駅から見えるドロミーティ山塊は本当に見事である。とくに、山肌が真っ赤に染まる夕刻はいくら見ても見飽きない。
そして、これがボルツァーノ駅の出札所。基本的には15年前と変わらないクラシックな造りである。でも、駅の隣で大規模な建設工事が進められていたので、もしかすると駅もそのうちにそちらに移転するかもしれない。
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