1960年代のブルーバードに出会う
ワクチン接種を受けるために家の近くを歩いていたら、懐かしい車に出会った。
1960年代のダットサン・ブルーバード!
目つきの鋭い新車にまじって、昔ながらのデザインはなんだかほっとするなあ。
ナンバーは、「練馬5」という1桁。
オーナーが大切に使い続けているのだろうか。
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ワクチン接種を受けるために家の近くを歩いていたら、懐かしい車に出会った。
1960年代のダットサン・ブルーバード!
目つきの鋭い新車にまじって、昔ながらのデザインはなんだかほっとするなあ。
ナンバーは、「練馬5」という1桁。
オーナーが大切に使い続けているのだろうか。
キラキラ橘通りを南下して、たから通りを渡って京島二丁目に入ると商店よりも一般の住宅のほうが多くなっている。かつては、このあたりにも沿道に商店が軒を連ねていたものだった。
橘通りは、北の端でこの十間橋通りに合流する。通りに面した家は建て替えられたリフォームされたりしているが、低層住宅が多く、昔の雰囲気は残っている。子どもだった私にとっては、古切手、古銭を扱う店を訪れるのが楽しみだった。
さらに南下していくと、町名は文花(ぶんか)から押上へと変わる。その道沿いに不思議な建物があった。
間口というか、道に面した部分がやたらに広いのである。
写真を拡大してみると、日本そばも出す喫茶店になっているようだ。
十間橋通りは、その南端に十間橋があり、そこで北十間川を渡る。北十間川は江戸時代に開削された運河で、川幅が10間(約18m)であることから名付けられたそうだ。
もっとも、今ではコンクリート堤防でしっかりと固められていて、実際の川幅はそれよりは狭いような気がする。
そんな十間橋の手前にあったのが、この牛乳販売店。われわれの世代には、「保証牛乳」という名前が懐かしい。
小学生のころには、テレビCMもやっていた。♫ 十字のマーク、ほしょ~ぎゅうにゅ~♫
下町の小賢しい小学生である級友の一人は、さっそく替え歌をつくり「十字架のマーク、保証しない牛乳~」と歌っていたっけ。
ここまでくると、東京スカイツリーはもう目の前。地下鉄半蔵門線が開通して、さらにこれが建ったおかげで、少なくとも東京都区内に住む人の大半には、「押上」という地名を間違いなく読んでもらえるようになった。
十間橋から望むスカイツリーはあまりにも有名すぎるので、ちょっとひねくれて、路地の向こうに見える風景を撮ってみた。
京島三丁目というと有名なのが、橘通り商店街である。昔ながらの雰囲気が残る商店街として、よくテレビにも紹介される。
最近では「下町人情 キラキラ橘商店街」という、ちょっぴり照れくさい、文字通りキラキラネームがついている。以前は「橘銀座商店街」といわれていたが、そのいわれは、かつてここに橘館という映画館があったからだ。だから、1960年代ころまで、地元の人たちは「橘館通り」と呼んでいた。
前回の記事でネコとすれ違った路地を出ると、橘通り商店街のここに出る。
正面は「たぬき寿司」、写真の左手前にちらりと写っているのは、この界隈で最古参の店の一つだと祖母がいっていた「さがみ庵」である。以前は、「相模屋」という店名だったと記憶している。
このあたりは、橘通りの北の端。すぐ向こうに見えているのは明治通りである。昔、地元の人たちは「環状線」と呼んでいた。
この明治通りは昭和になってからできた道で、橘通りは斜めに交差している。明治通りの向こう側にも同じ角度で細い道が続いているのは、昔1本の道だった名残だろう。
上の写真に写っている「バーバー アラキ」は、幼稚園・小学校のころにお世話になった店である。
このあたりは、関東大震災前は田んぼが広がっていたという。震災後に周辺に数多くの工場ができたために、そこに勤める人たちの住宅が次々にできて、一気に住宅密集地になったのだそうだ。
1960年代前半だったか、週刊誌の記事に「世界第2番目の人口密度の町」として取り上げられたのを覚えている。
母の実家に行ったときに、叔父がその週刊誌を開き、「ほらこんなに有名になってる」「2番目というのがちょっと怪しい」などと笑いながらみんなに紹介していた。
かつて橘通りは、夕方になると買い物客で大変に賑わったものだった。とくに年末になると、それはそれはすごい人出であった。
現在は、高齢化が進んで商店街はシャッターを閉めたままの店も多い。
とはいえ、ここ数年、若い人が中心になって地域を盛り上げる活動が起きているのは頼もしい。
昔のままに朽ちていく様子が取り柄の町だったが、ここに来て興味深い店や住宅が次々にできている。
私も、この町にもっと足を運び、母のいなくなった実家を拠点にして、できればあちこちの店に少しずつカネを落としつつ、変化を見つめていきたいと思っている。
東京都墨田区の京島は、東京大空襲で大半が焼失した下町にあって、奇跡的に焼け残った地区である。
なかでも私の母の実家がある三丁目は、昔ながらの裏通りや路地が残り、初めて来た人は歩いているうちに方向感覚を失い、道に迷うこと必定である。
上の写真は、路地が裏通りを横切るところにある地面の表記である。
確かに、この表記がないと、地元の人でなければ、こんなところに路地があるとはわからないだろう。
もっとも、この裏通りはすぐに突き当たるため、地元の人以外はあまり通ることはない。
ある日のこと、この勝手知ったる路地を歩いていると、一匹の猫と遭遇した。
彼または彼女は、こちらをじっと見てニャアと鳴く。
勝手知ったるとはいえ、今は都内の別の場所に住む私である。ここは、地元に住む彼または彼女に道を譲るのがよいと考えた。
本当はバッグの中にあるカメラを出したかったのだが、怯えるといけない。手に持っていたスマホでそっと撮ったのがこの一連の写真である。
脅かさないように、狭い路地の端に寄って、彼または彼女がすれ違える空間をつくった。
すると、空いた空間をささっと走り抜け、こちらを振り向いてニャア。
お礼のことばなのだろうか。
本当はそのまますれ違って終わりになるはずだったが、ちょっと猫のあとをつけてみた。
すると、彼または彼女は、最初の写真の裏通りに出ていく。
これは画になると、スマホを構えてその後ろ姿を撮ろうとしたときのことだ。
気配を感じたのか、こちらを振り向くではないか。
そして、「なんだまだいるのか」とばかりに、また一声ニャアと鳴いたのであった。
新型コロナのおかげで、海外旅行どころか国内ものんびり旅ができない今日このごろ。仕事の進行と空模様と相談しつつ、都内をぶらぶらとめぐっている。
先日は、やぼ用で葛飾区役所に行ったついでに、久しぶりに柴又帝釈天を訪ねてみた。
この偽芸術的写真は、いまから約四半世紀前に撮ったものである。
モノクロフィルムを使っていた最後の時期だ。
デジタル写真を安直にモノクロ化したのとは、やはり違う。
それにてしも、いくら平日とはいえ、普段なら観光客で混雑している境内も参道も閑散としている。
寅さん映画がはじまる以前は、新年や庚申の日を除いて平日は人も少なかったが、ここまで人がいない帝釈天ははじめてである。
参道の店も半分以上が閉まっている。
どうやら開いているらしい「川千屋」を撮ろうと構えたら、いい感じに自転車がファインダーを横切っていったのでパチリ。
実は、この柴又帝釈天参道は、2018年に国の重要文化的景観に指定された。
景観の維持には、地元の人たちの並々ならぬ努力があるそうな。
おかげで、私が子どものころに見た風景と同じ……いや電線もなくなっているので、昔よりも味わい深い風景として残されているわけだ。
この写真の左奥にあるのが有名な団子屋「高木屋本舗」。向かいの店舗が茶店というか喫茶室になっていて団子が食べられるのだが、コロナの影響で閉まっていた。せめて土産として買っていきたかったが、当日はそのあとに行くところがあったので断念した。
さて、その「高木屋本舗」の向こうに車が見えるが、そこが柴又街道である。
金町と小岩を結ぶ道で、さらに南へ行徳方面に向かっている。交通量も多く、バスも頻繁に走っている道だ。
ところが、この付近では片側一車線しかないため、昔からとくに朝夕の混雑がひどい。
そうした道路混雑を解消するために、この柴又街道を拡幅する計画が東京都から出てきたという。もし実施されるとなると、参道と交差する部分で、古い建物の取り壊しが避けられない。
たとえば、この写真の「だるまや」も引っかかってくるだろう。
反対の声が多いと聞くが、はたしてどうなることやら。
梅雨間近なじめじめした空気のなか、柴又駅からぶらぶらと、昔住んでいた高砂に向かった。
高砂駅に向かう道の途中で見かけたのが、この廃墟のような建物。看板を見ると、「ママの店」と書かれているではないか。
半世紀前の記憶が、突如として脳の無意識の領域からよみがえってきた。
母がこの店名をよく口にしていたっけ。家からは歩いて15分ほどかかったが、当時は近所にスーパーもなかったので、ここまで買い物に来ていたものだった。もちろん私も、営業していた当時の賑やかな様子を覚えている。
子どものころから何度か引っ越しをしているが、昔住んでいた町の近くを歩いていると、こうした瞬間がときどき訪れるのである。
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