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著書

  • 『ひたすら眺めていたシベリア鉄道』(私家版)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)

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2018年10月の7件の記事

2018-10-29

予定外のいきなりコルドバ訪問

セビーリャ旧市街の主だった場所は、着いた日に一通り歩き回ったので、翌日はコルドバに行ってみることにした。
コルドバへまでは高速鉄道ならば、わずか1時間半ほどである。マドリードに少し引き返す形になる。

指定券は券売機で買える。ただし、現金は使えず、クレジットカードもICチップが付いていないと使えない。
券売機は英語表示もあり、発駅、着駅、時刻などを入力するのはイタリアのものと同じ。
ただし、イタリアでは最後にカードを挿入口に入れるのだが、スペインではICチップをかざすようになっていた。

Taberna Bar Santos

コルドバ駅から旧市街のメスキータまでは2kmほど。
われわれはタクシーに乗らず、駅前から15分おきくらいに出ている3番のバスで地元の人たちにもまれながら、メスキータに近い川べりで下車した。
バスの乗り場も時刻表も、Googleマップでもわかるのだから、便利になったものである。

トリウンフォ広場

旧市街に入ったら、まず腹ごしらえ。
出発前に知人から勧められていた「タベルナ・バル・サントス」(Taberna Bar Santos)に迷わず入店した。トップの写真のような親しみやすい店である。

まず、ワインとこの店の名物のトルティージャ・デ・パタタ(スペイン風オムレツ)を注文。
さらに、隣の人が食べていたメニューの名前を図々しく尋ねて、それも注文した。
ジャガイモのアーリオ・オーリオであった。イモが重複してしまったが、わざわざ名前を聞いた以上、頼まないのも申し訳ないと思う、日本人の私であった。

上から見たメスキータ

腹ごしらえをしたら、いよいよメスキータに突入。
前回と違ったのは、塔の上から全体を見下ろせたことだ。それが、上の写真。あとから増改築したキリスト教会の部分がアンバランスである。

そして、内部は動画で撮ってみた。アーチの柱にしても、壁の幾何学模様にしても、まさにイスラム建築。
かつては、この広々とした場所で礼拝をしていたのだと思うと感慨深い。

記憶では、静謐といった雰囲気がぴったりだったのだが、さすがに世界遺産となって観光客が次々に訪れていてざわざわしていた。

内部の何割かはキリスト教会になっていたが、やっぱり違和感がある。
16世紀に、このモスクの一部を教会に改造すると発表されたときに、コルドバ市民が大反対したというのもよくわかる。
かつての異民族、異教徒支配の名残とはいえ、その芸術的価値を理解していた人びとに敬意を表したい。

そのあとは、白い家々と細い路地が続く旧ユダヤ人街をぶらぶら。
歴史的なシナゴーグ(ユダヤ教会)は改装中で入れなかったが、その近くに「セファルディの家」(Casa de Sefarad)と呼ばれる小さなユダヤ博物館があった。

セファルディの家

イスラム教徒の支配者たちは、商売の上手なユダヤ人を呼んで、町や国を栄えさせたという。
ところが、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服)が完了すると、やがてイスラム教徒やユダヤ教徒、そして改宗したイスラム教徒らに対する異端審問が行われ、多数の追放者や処刑者を生んでしまう。

この博物館では、ユダヤ教徒の知識人たちの伝記とともに、そうした悲しい歴史について記されていた。
受付にいた物腰の柔らかなイケメンのお兄さんは、ユダヤ人のインテリなのだろう、各国の観光客にそれぞれの国のことばで対応しており、片言ではあるがきれいな発音の日本語も話してくれた。

アンダルスの家

この写真は、セファルディの家の近くで公開されていた「アンダルスの家」(La Casa Andalusí)。こちらも、セファルディの家と同じく、イスラム風の美しい中庭をもった白い家である。

1981年の旧ユダヤ人街

37年前に、この地区を歩いたとき、白壁の向こうにちらりと美しい中庭をかいま見た。
ぜひとも、中に入って見てみたいと思いつつ撮ったのが最後の写真である。
入ってみたくなるでしょ!

残念ながら、そのときは公開されている家はなかったのだが、その望みがようやくかなったわけである。
これを見ただけでも、いきなりコルドバに来たかいがあったというものだ。

2018-10-25

夜のセビーリャ、乗った食った飲んだ

スペインの夜は長い。
地元の店は9時ごろから客が集まり、12時過ぎても町は賑わっている。
マドリードほどではなかったが、セビャーリャもそうだった。

最初の写真は、2007年に開通したセビーリャのトラム(路面電車)。
今どきの超低床車が、サン・ベルナルドからプラサ・ヌエーバ(ヌエーバ広場)までの1路線2.2kmを往復している。
この写真は、一方の終点であるプラサ・ヌエーバで撮ったもの。

プラサ・ヌエーバ終点

セビーリャは、トラムとは別に、メトロ(主に地下を走っているが、地下鉄というよりも軽鉄道というイメージ)もあるが、さすがに歴史的な旧市街の地下は簡単に掘れないようで、旧市街はこのトラムが走っているというわけだ。

今回は、観光地でもあるスペイン広場に行った帰りに、新市街でこのトラムに乗った。
電車はやがて旧市街に入り、セビーリャ大聖堂の横を通り、まもなく終点のプラサ・ヌエーバに着いた。
乗ってみると、あっという間である。

プラサ・ヌエーバを出発するトラム

ところで、旧市街の北西にあるプラサ・デ・アルマスのバスターミナルには、下の写真のような電車が保存されていた。
車両の大きさからいうと、昔の路面電車のようにも見えるが、屋根に乗っているのは大型の菱形パンタグラフである。
もしかすると、都心と近郊を結ぶ電車だったのかもしれない。

ちなみに、プラサ・デ・アルマスのバスターミナルの隣には、1990年まで鉄道駅として使われていた駅舎が保存されている。

保存されている古い車両

ところで、2泊したセビーリャで連続して通ったのが、旧市街のホテル近くにある「Los Coloniales」(ロス・コロニアレス)という店。
最初は日曜の夜だったので、夜遅くまで開いている店が少なくて、たまたまここに入ったのだが、これが当たりだった。

しかも、「テラスが満員なので、ここで待っていてくれ」といわれたカウンターが楽しかった。
客は、地元の人と観光客が半々くらいか。

ハモン・イベリコや野菜・タコのサラダなどをつまみに、生ビール、白ワイン、赤ワインと、すすめられるままに、いろいろと飲んで食べた。

楽しいタパスバー

まあ、食べものうまい店は、ほかにいくらでもあるだろうが、ここは店員のおじさん、お兄さんたちの愛想がいい。よすぎるくらい。
グラスワインは、おかわりするたびに量が増えていく。4杯目はグラスになみなみと注いでくれた。
1杯飲んでサッサと帰る客が多いなかで、2時間ほども粘ったわれわれである。

イタリア語まじりのインチキスペイン語と英語で、適当に楽しく意思を疎通させた。

これは、Tindo de verano(ティント・デ・ベラーノ)という飲み物をつくっているところ。
店によって作り方が違うそうだが、ここでは赤ワインをレモンジュースで割っていた。
スペインの暑い夏には、これがピッタリだ。

勝手に動画を撮って公開してしまったわけだが、まあ宣伝になるからいいよね。
スマホで動画を撮っているとは思わず、ずっとポーズを撮っている2人がかわいい。

2018-10-20

セビーリャの今昔を味わう定点比較写真

さて、しつこく書いているように、今回の旅の目的の一つは、37年前に来たコースをたどるセンチメンタルジャーニーなので、当時写真を撮ったのと同じ場所で撮影を試みた。

日本でも拙ホームページの1コーナー「東京 -昭和の記憶-」で公開している定点対照写真である。
2015年にはロシアでもやって、「ひたすら眺めていたシベリア鉄道」の本にも収録してある。(まだ本の在庫はあります!)

……と、宣伝はこのくらいにして本題である。
とりあえず、旧市街で撮った3カ所を紹介しよう。

まずは、旧市街中心部にありながら、賑やかな場所から少し入った地元の人向けの商店街といった風情のフランコス通りの今昔から。

1981年のフランコス通り
2018年のフランコス通り

古い写真は色が悪くて恐縮だが、カメラを構えていたら修道女が通りかかったのか、修道女が通りかかったからカメラを構えたのかは忘れたが、真正面で撮っては失礼なので、隅に入れて街並みを中心にしたアングル。
確かに、こんな地味な雰囲気の町だった。
今でも、建物はほぼ昔のまま。右側の建物は、正面をちょっと改装していることがわかる。

1981年のサルバドール広場
2018年のサルバドール広場

次は、やはり中心部にあるサルバドール広場。左は、イグレシア・デ・パスという教会。日本語にすると、平和教会という感じか。この写真手前側には、広場の名前になった大きなサルバドール教会があって、まるで教会銀座のよう。

今では、広場には日除けがかけられて、市民や観光客の憩いの場となっている。

1981年のセビーリャ大聖堂前
2018年のセビーリャ大聖堂前

この写真だけは、撮影場所をほぼ覚えていた。セビーリャ大聖堂の周囲である。
とはいえ、大聖堂はこの写真の背後にあって、この建物はインディアス古文書館というのだということを、今回知った。

1981年の写真では、大勢の人がバスを待っていたようである。
今回行ってみると、建物の外壁はきれいに修復されていた。バス停は移転したようで、観光馬車のたまり場となっていた。

セビーリャの中心部

実は、昔の写真はどこで撮ったかの記憶がなく、旅行前にGoogleストリートビューで、さんざん調べたのである。
最後の大聖堂前は覚えていたが、前の2枚がわからない。

なにしろ、当時は足の向くまま気の向くままで歩いたものだから、前後の写真の場所から足どりをたどり、「このあたりかな」、と見当をつけては「違ったか」という繰り返しであった。

夕暮れの小さな広場

下の3枚は、今回の旅で撮った街角のスナップと教会内での写真。
一番下の写真は、さきほどのサルバドール広場に面したもう一つの教会であるサルバドール教会の内部である。

37年前の旅で、スペイン(少なくともアンダルシア)の教会にあるマリアさまは、どれもリアルで色っぽいことが記憶にあった。端正な顔だちは、日本人好みではないかと思う。
前回は、コルドバだったか、セビーリャだったかで、この色っぽい顔で涙を流しているマリア像を見て、20代なかばの純情な私はきゅんときてしまった。

サルバドール教会

この日は、どういう催しなのかはしらないが、そのマリア像の手に参拝者が次々とキスをしていった。
左の男の子は、そのたびにマリアの手を拭いている。
確かに、唾液を通じて病原菌がうつるといけないからね。消毒しているだろう。
大昔は、そんなことをしていたのだろうか。

2018-10-17

セビーリャの賑わいと素顔

マドリードから、アンダルシア州の州都セビーリャ(セビリア)までは約2時間半。
しかも、エアコン完備でリクライニングシートという快適な旅である。ちなみに、車内販売では缶ビールを売っていた。
最近のヨーロッパでは、車内でアルコール類を飲んではいけない国が多いが、スペインはよいようだ。
これがなくちゃ、暑い国ではやっていられない。

メトロボール・バラソル

どうしても、昔の旅と比較してしまうのだが、37年前はこの区間を古いコンパートメント式の客車に乗って移動した。
スピードは今とは比較にならず、行けども行けども乾いた大地が続いていた印象が残っている。
私が乗ったコンパートメントには、中年のご婦人が2人乗り合わせていたっけ。

メトロボール・バラソルの上からの眺め

宿は、セビャーリャの旧市街にとっておいた。狭い路地に面した昔ながらの邸宅を改造したようなクラシックな宿で、こぢんまりとした中庭やそれを囲むアーチ状の柱が、アラブの影響を思わせた。

昔のセビャーリャのことは、ほとんど記憶のかなただが、「住みやすそうだ」という印象を抱いたのは覚えている。
町は大きすぎず小さすぎず、冬だったからかもしれないが、落ち着いた雰囲気なのが気に入った。
イタリアのフィレンツェで学校に通ったあとだったので、「セビーリャにもしばらく滞在して、スペイン語を習ってみるか」と本気で考えた。

結局、お金が底を尽きそうだったので断念したが、無理をすれば1カ月はいられただろう。そうしたら、私の人生は少し変わっていたかもしれない。

旧市街の路地

では、現在のセビャーリャはどうかというと、記憶のなかの町よりもずっとモダンになっていて、人も多くて賑わっていた。
スペインに詳しい知人によれば、「1992年に万博があってから、すっかり変わりましたよ」とのことだったので、町の雰囲気の変化にはそれほど驚かなかったが、観光客が多いことにはびっくり。

月曜日朝のセビャーリャ

宿を出て、まず向かったのは、万博を記念して建てられた「メトロボール・バラソル」。
5分ほど歩いたところで、行く手に大きな建造物が見えてきた。パラソルというよりキノコというのが第一印象。トップの写真である。
キノコの笠の上に登れるようになっていて、まずは町を見渡した。新しい町を訪れたら、まず高いところに登るという私のモットーが実現できてなによりである。

もっとも、遮るものがないから暑いのなんのって。入場券(登頂券?)が飲物の割引券を兼ねているので、それで飲んだモヒートが全身に沁みた。

月曜日朝のセビャーリャ

その日は、宿に着いたのが4時ごろだったので、当日はあまり町を見られないと思っていたが、さにあらず。
たででさえ西ヨーロッパ時間帯の西端にあって日の入りが遅いうえに、まだ夏時間であった。
4時過ぎでも太陽が中天高くいたものだから、その日のうちに中心部の主な場所は巡ってしまった。

1~3枚目の写真が、観光スポットの集中する旧市街である。

月曜日朝のセビャーリャ

そして、4~6枚目は翌朝に撮った宿の近くの写真。
宿の前にある路地を50mほど歩くと、何の変哲もない、しかし庶民的な界隈に出る。

スペインに到着してから、土曜、日曜と、観光客や地元の若者が夜遅くまで騒々しくしていたのに疲れていたものだから、月曜日になり、朝日を浴びて人びとが働きだした様子が新鮮に感じられた。

2018-10-13

33年ぶりのスペイン、37年ぶりのマドリード

このところ、秋はイタリア旅行が定例化していたのだが、今年はスペイン、ポルトガルを目的地にした。
とはいっても、スペインは行き帰りに立ち寄るだけで、メインはポルトガル。

スペインは1981年と85年、ポルトガルは81年に行ったきりだから、それぞれ33年ぶり、37年ぶりの訪問である。
イタリアのすぐ近くにあるのだが、イタリア国内をめぐるのに心を奪われて、なかなか足を延ばすことができなかったのだ。

マドリード・アトーチャ駅

飛行機はイベリア航空でマドリード直行。そこから、セビーリャ(セビリア)を経由して、南から国境を越えてポルトガルに入る予定である。
実は、これは1981年のコースと同じ。当時は、イタリア・フィレンツェでの3カ月近い語学学校を終え、下宿先のおばちゃんに無理をいって荷物を置いてもらい、1週間ほどのスペイン、ポルトガル旅行に出たのであった。
つまり、同じコースをたどって、37年前と同じ場所を見てみようと思ったわけである。定点比較写真も公開していくのでお楽しみに!。

そんなセンチメンタルジャーニーだから一人で行こうかと思ったのだが、妻が付き合いたいというので、今回も二人旅となった。

1981年のアトーチャ駅

1981年のスペインというと、独裁者フランコが死んでまだ7年。「ピレネー山脈の南側は、半ばアフリカ」とまで言われたほどで、旅行者も今ほど多くなかった。

もちろん高速列車などなく、バルセロナ~マドリード、マドリード~グラナダは夜行列車を利用したっけ。
日中にはまあまあ速い特急列車があったが、本数が少なくて当日になって指定券を買おうとしても満員のことが多く、のんびりとしたローカル列車で移動を強いられたのもいい思い出である。

改装された旧ホーム跡

トップの写真は、マドリードの中心にあるアトーチャ駅。ここから、高速列車AVEが各地に走っている。
2枚目は、1981年のアトーチャ駅である。青い車体は近郊に向かう電車だ。このドームの一部は、待合室を兼ねた飲食店街になっていた。3枚目の写真である。

9月15日、アトーチャ駅近くのホテルに到着したのは午後8時過ぎ。
スペインのメシ屋は夜遅くまでやっていることはわかっているので、少し休憩をして9時をまわってから都心まで歩いていった。

真夜中のプエルタ・デル・ソル

まず向かったのは、中心の広場であるプエルタ・デル・ソル。
直訳すると「太陽の門」だ。だから、最初にここに来たときは、近くにいたおじさんを捕まえて、「門(プエルタ)はどこですか?」とウブな質問をしたものだった。
周囲の人たちは、「はて?  この東洋人の若造は何を言っているんだろう?」と微笑みを返してくれたことを覚えている。

上の写真は、プエルタ・デル・ソルのシンボル(?)である「ティオ・ペペ」の広告である。

生ハムがぶらさがる店内

土曜日ということもあってか、真夜中になっても都心はすさまじい人出。
まずは、何か食べようということで、「ムセオ・ディ・ハモン」(ハム博物館)というユーモラスな名前の店に突入。

満員の客をかきわけて、カウンターに場所を確保して、生ハムとビールを注文した。
それにしても、なぜスペイン人はあんな大きな声で会話をするのか。イタリア人の比ではないと感じた。
この疑問は、結局、旅の最後までつきまとっていたのであった。

真夜中のマドリード都心

もう一つ驚いたのは、どの店でも、そしてホテルの朝食でも野菜が出てこないこと。
スペイン人は野菜を食べなくても平気なのか、あるいは平気じゃないのか。それとも、家で野菜をたっぷり食べているのか、これまた大きな疑問となって私を当惑させた、33年ぶりのスペイン、37年ぶりのマドリードであった。

アトーチャ駅のAVE

翌日は、午前中にプラード美術館、そしてソフィア王妃美術館のゲルニカを見てから、午後1時発のセビャーリャ行き高速列車(AVE)の客となったのである。

2018-10-10

中国山地ローカル線乗り歩き 姫新線(2) 津山~姫路

だらだらと書いてきたこの旅の記録も、これが最終回。
姫新線を津山から姫路まで乗ったときの話である。

姫新線は、前にも書いたが姫路と新見を結ぶ路線のこと。ただし、現在は直通列車がない。
いや、ないどころか、何回も乗り換えなくてはならない。
このときも、前日に新見~津山を乗ってから、津山~佐用、佐用~播磨新宮、播磨新宮~姫路と4列車を乗り継いだ。

津山まなびの鉄道館

津山では午前中に「津山まなびの鉄道館」を見学。
不覚にも、現地に行くまでは、こんな立派な扇形庫が残っていて、それが公開されているとは知らなかった。
「学ぶ」のはもうたくさんという気持ちはあるが、楽しく見ることができた。

駅から構内を横切ればすぐだが、さすがにそうはいかず、ぐるりと大回りして歩いて15分。帰りは市内を巡回しているミニバスを利用した。

津山駅

そして、津山駅を12時16分に発車する佐用行きに乗車。またしてもキハ120である。
まあしかたない。だんだんと、この乗り心地の悪さにも慣れてきた。
佐用までの車窓は、まさに里を行くローカル線といったのどかな風情である。

美作大崎駅

ここで気がついたのだが、昨日の木次線からずっと同じ列車に乗っている40代くらいの男性がいる。
木次線で私は、運転席近くに行って前面の車窓を撮ったり最後尾に行ったりと、落ち着きなくうろうろして、あたり構わず写真を撮っていたのだが、彼はじっと席に座っていた。
長時間停車になるとコンパクトカメラを手にして、何枚か写真を撮ると車内に戻っていく様子を覚えている。
彼も津山か新見で泊まったのだろう。

佐用駅前

それはさておき、佐用には13時12分着。
姫新線は、佐用で智頭急行に接続している。その接続を重視しているのか、姫新線内の津山~佐用と佐用~姫路の接続はきわめて悪い。
佐用では1時間半近い待ち合わせ時間があったので、これを昼休みの時間だとプラスにとらえて、町をぶらぶらして昼飯をとることにした。
駅自体はコンクリートがむき出しの殺風景なものだが、駅前の建物が興味深かった。
昭和40年ごろに建てられただろう建物は、けっして骨董的な価値があるわけではないだろうが、個性的な外観でおもしろい。

そして、昼飯は駅近くの「和楽路」へ。これがなかなかいい店だった。若い夫婦が営んでいる店だろうか、シンプルに見える料理も手の込んだ自然の味わいが感じられ、また客あしらいもいい感じ。客には子ども連れもいて、地元の人で込み合っているのも、むべなるかなと感じた。

佐用駅

佐用から乗ったのは、14時36分発の播磨新宮行き。この列車にも、例の彼が乗っていた。
どこかでメシを食べてきたのだろうかと、人ごとながら心配になる。

なにはともあれ、ようやくキハ120の呪縛から逃れることができた。キハ127系のふかふかのクロスシートに座ったとたん、これまでたまった疲労と、うまいものを食べた満足感とで、うとうとしてしまった。

播磨新宮駅

播磨新宮では、ホームの対面に停車している姫路行きに乗り換え。
姫路が近づくにつれ、徐々に乗客が増えていく。
そして、15時37分ににめでたく姫路駅着。今回の中国山地ローカル線乗り歩きは完結である。

前回来たとき、姫路駅は工事中で、姫新線のホームは柵に囲まれた地平にあったが、今では高架に移っていた。
高架ホームからは姫路城が額縁に収まっているかのように、正面に見えた。これは見事な演出である。

姫路駅

乗ってきた車両の写真を撮っていると、「彼」は少し後ろで私の撮影が終わるのを待っていた。
結局、会話を交わすどころか、まともに視線も交わすこともなかった。
だが、長い時間を共有した仲間ではある。もう二度と会うことはないだろうと思うと、少ししんみりしたのであった。

2018-10-07

歴史を感じさせる津山の街並み

中国地方ローカル線の旅の記録が終わらないうちに次の旅に出てしまい、また間隔が空いてしまいました。
前回のつづきです。

5月29日は、津山で宿泊。
前日にネットで宿を探したのだが、平日なのになぜかどこも満員。
もともとホテルが少ないということもあるのだろうが、どこかで学会か研修会でもあったのだろうか。

小性町(小姓町ではない)にある木造3階建て

結局、泊まることができたのは町の西側にある割烹旅館である。
といっても食事は供されない。素泊まりである。
私にとって、久しぶりの純日本風の部屋での宿泊であった。風呂はもちろん、トイレも共用。
値段は安くてよかったのだが、駅から遠いうえに雨が降ってきたので、タクシーを利用。
翌朝も雨でまたタクシーを使ったので、合わせるといい値段になってしまった。

180901b

ところで、前回津山を訪れたのは1988年だから、ちょうど30年ぶりの訪問である。
前回も町並みを見てまわったのだが、メインが鉄道乗り歩きだったので(今回もそうなのだが)、見どころもなんにもわからず、ただ闇雲に歩き回っただけであった。

180901d

今回は、少しだけ前の日の車内で予習をしておいた。それによると、古い街並みが残っている地区として知られているのは町の東側、津山城から川を隔てた場所にある中之町、勝間田町を中心とする旧町人町である。
ただ、実際に行ってみると、町の西側にある宮脇町あたりの道路沿いにも、味わい深い街並みがあって撮影意欲をいたく刺激された。

今回の写真のうち、トップの写真は町の中央部にある小性町(小姓町ではない)にある木造3階建て。
2枚目が宮脇町にある葉茶屋。3~5枚目が、中之町あたりの街並みである。

180901e

中之町あたりは、道の両側に驚くほど昔ながらの街並みが残っている。しかも、いかにも保存していますという、よくありがちな風景ではないところがいい。
そこには普段の生活があり、家々はほどほどにメンテナンスがなされ、電柱も電線もある(まあ、電柱や電線はなくていいのだが)。

180901f

この狭い道を、ミニバスが30分おきに走っているのは重宝した。
ミニバスはどの系統も駅前を発着しており、こんな雨の日に町めぐりをするには便利である。
もっとも、2回乗ったバスには、昼前という中途半端な時間だったこともあってか、地元の人も観光客の姿もなく、私の貸し切りであった。

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