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2017年5月の6件の記事

2017-05-30

ジャワ島東端 夕刻のバニュワンギで味わった幸福感

マカッサルでは名物の牛煮込みスープ「チョト・マカッサル」を食べることもなく、翌日早朝にあわただしくスラバヤに向けて出発。
空港のゲートからバスに乗ってプロペラ機に搭乗し、座席につこうと思ったら、なんと先客がいる。
チケットを見せて、ここは自分たちの席であることを主張したところ、彼もチケットを見せてここは自分の席だと言っているようである。

バニュワンギの市場通り

すぐにCAの女性が駆けつけてチェック。数秒して、私たちに向かい、
「あなたがた、スラバヤ?」と尋ねる。
うなずくと、
「これはスラバヤ行きじゃないわ!」

突如、周囲が大騒ぎとなった。乗務員たちがあちこちに無線で連絡をはじめ、私たちは閉まりかけた飛行機のドアに一目散に駆けつける。
たまたま、飛行機のそばに停まっていた業務用の車(たぶん)に便乗して、ほぼ空港の反対側に停まっていたスラバヤ行きに横付け。
インドネシア人乗客の注目を浴びながら(たぶん)、席に着いた。
「これが日本だったら、白い目でお出迎えされるところだったね」と言いつつ。

バニュワンギの市場通り

それにしても、同じゲートから、ほぼ同じ時刻にガルーダ・インドネシア航空の国内線が出発するのが間違いのもとである。
私たちがゲートでチケットを見せたとき、その場にいた係員が何か話し合っていたように見えたのだが、なぜそこでしっかりと確認してくれなかったのだろう。

チケットはマカッサル~スラバヤとスラバヤ~バニュワンギ行きの2枚重ねで、すでに1枚目のチケットは半分切ってあるのでわかりにくかったのだろうか?
それにしても、2枚目のチケットがスラバヤ~バニュワンギならば、ちょっと考えれば見当がつきそうなものである。

もっとも、タカをくくって搭乗時間に遅れて来たわれわれもいけなかった。
バスでの搭乗だったので、もっと時間にぴったりに着いておくべきだったのである。

と、心の中で反省はしてみたが、なかなか得難い体験ができて、わくわくしたというのが正直なところである。

バニュワンギの市場通り

そんなハプニングもあったが、昼頃にはジャワ島の東端にある町、バニュワンギに無事到着。
観光地としては、あまり知られていないが、対岸には大きくバリ島が見えている。
ガイドブックには、「バリ島からのフェリーの到着地であり、イジェン山への夜行登山が有名」とある。夜には噴出するガスが青く見えるのだそうだ。

東京で今年の春まで日本語を教えていた介護士候補生インドネシア人グループの一人が、このバニュワンギ出身であった。
彼女によれば、「イジェン山では、毎年毒ガスで死ぬ人がいるんですよ」とのこと。どうやら硫化水素ガスのようである。日本でも草津白根山で以前何度か事故があったっけ。

バニュワンギの大通りにて

私はバリ島のリゾートも夜行登山もあまり興味がないので(妻は夜行登山に興味を示していたが……)、一休みしたのち、町のぶらぶら散歩を楽しんだ。
最初に尋ねたのは、ホテルの近くにある市場通り。
大昔の上野アメ横の道幅を広くした感じで、なかなか雰囲気がよい。
最初の3枚の写真である。
もう3時過ぎだったためか、人通りはあまりなく、リヤカーならぬフロントカー式の人力車「ペチャ」の車夫のおじさんたちも暇そうであった。

空港からホテルまでのタクシーでは、中心部に大きなショッピングモールがあるのが見えた。
あちらは若い人を中心に賑わっていたことから、最近では日用品や食料品は、市場通りよりもショッピングモールで買う人が多いのではないかと想像する。

バニュワンギの大通りにて

バニュワンギは大通り(街道といったほうが正確か)に沿って、断続的に数キロも市街地が続いている。
だから、どこが都心だかよくわからないのだが、一応、ショッピングモールと市場通りの間あたりが商店も多く、人通りも多い。

バイクや車もずいぶん多かったが、このあとに見ることになるインドネシアの大都会とくらべて、田舎臭いところがよい。その一方で、活気もあるのが好ましく思えた。

バニュワンギの路地裏散歩

大通りを行ったり来たりしているうちに、そこから脇に入っていく細い路地が気になってきた。
だが、いかにもごく普通の民家が建ち並んでいるだけで、しかも夕涼みに人が出ているものだから、ちょっと入りにくい。

そんな路地の1本を大通りから撮っていたら、上の写真のような風呂上がり(?)の上半身裸のおじさんと目が合って、にこやかな表情で大きく手を振ってくれるではないか。

バニュワンギの路地裏散歩

「これは行ける」と私は判断した。

まあ、ここでおじさんのところに突撃するのも恥ずかしいので、もう1本先の路地から探索することにした。

まず目に入ったのは、狭い路地に置いた机に向かって、石をコツコツと叩いている男性。よく見ると、会社のネームプレートを彫っている職人さんのようである。
NHKでやっていた世界なんとか街歩きのディレクター気分で、しばし(といっても20秒ほどだが)間近で作業を見学させてもらった。

見事な腕前をほめたいのだが、「ほー」とか「ふーん」とかしか言えないのがもどかしい。
英語で「ベリー・グッド」なんて言ったが、やはり地元のことばで話しかけたいものである。

バニュワンギの路地裏散歩

そこで、せめて「こんばんは」だけは口にできるようにしようと、「地球の歩き方」を開いた。
朝のあいさつ「Semalat pagi」(スマラッ・パギ)だけは覚えていたが、あとの昼のあいさつ、夕方のあいさつ、夜のあいさつは、まだ頭に入っていなかったのだ。
夕方のあいさつが「Semalat sore」(スマラッ・ソレ)だと知って百人力。

さらに路地裏を奥へたどっていくと、ちょっとおしゃれな家が続くかと思うと、古めかしい家もあったりするところは、東京の下町と変わらない。
かと思うと、放し飼いのニワトリが道端でうろうろしているのは、こちらならではの風景である

道がカーブしたあたりに、家の前で夕涼みをしていた中年男女4人と遭遇。近所の人なのだろう。

にこやかに微笑んで「スマラッ・ソレ」と言うと、穏やかな表情で「スマラッ・ソレ」と返してくれた。

バニュワンギの路地裏散歩

さらに進むと、なんと川が流れているではないか。
かなり汚い川であるが、風景だけは上等である。
遠くのほうをよく見ると、川のなかに子どもが2人、向こうむきで座り込んでいた。
何をしているのかと見ていたら、立ち上がったその下半身は裸であった。
「トイレ代わりか!」

日本語にもトイレのことを「かわや(厠)」というが、その語源は「川屋」のようであるからして、川で用便をしてもまあ不思議ではない。

バニュワンギの路地裏散歩

汚い川沿いを歩いていたら、3m幅くらいの少し広い道に出た。
道沿いには瓦葺きの民家が建ち並び、ゴム草履またははだしの子どもたちが凧をあげて遊んでいた。
空を見ると、いくつかの凧が上空で小さく舞っている。すると、どこにこんなにいたのだろうという子どもたちがやってきて、空を見上げながら、あっちに走り、こっちに走りしていくのだ。
そんな道を、時折バイクに乗ったおばさんが走り抜けていく。

地元の人と視線が合うたびに「スマラッ・ソレ」を連発。
おかげで、たくさんの微笑みに出合うことができた。

バニュワンギの路地裏散歩

バニュワンギでは、夜の民族舞踊ショーも見ず、夜行登山にも行かなかったが、夕刻にこの路地裏に居合わせただけで、もう十分に幸福だった。

2017-05-27

スラウェシ島でひと休み

パプア島のソロンから向かったのはスラウェシ島の南西端にあるマカッサルである。
かつて、スラウェシ島はセレベス島、マカッサルはウジュン・パンダンと呼ばれていた。
セレベス島に来ることがあるなんて、世界地図を見ることが好きだった小中学生時代には想像もしなかった。

とはいえ、夕方15時半にマカッサル空港に着いて、翌朝6時に出発するというスケジュール。要するに、ジャワ島の目的地に一気に行く時間がなくて、ここでひと休みという寸法である。
このことをSNSに書いたら、「マカッサルまで行って、なぜトラジャを訪問しないんだ」とお叱りを受けたが、今回の旅の目的が別のところにあるのでしかたがない。

ホテルも空港内にとったのだが、せっかくだからここの町なかを見てみたいということで、空港から1300円ほどの定額タクシーで都心に向かった。

ロッテルダム要塞の城壁上

タクシーの運転手に頼んだ行き先は、町の中心にあるロッテルダム要塞。
いかにもオランダ統治時代の名残の名称である。
さして高くない城壁の内側には、いかにもヨーロッパ風の建物と緑地が広がっていた。

中に入ろうとすると係員に呼び止められ、管理室のようなところに招かれた。
正面には偉そうな人が座っていて、机の上に芳名帳のようなものが乗っている。
どうやら、そこに名前を書いてくれということらしい。

名前を書いて、さあ入場料は……と聞いてみると、彼は「ドネーション」という。
いくらでもいいと言われると、かえって悩んでしまうのだが、ポケットにあった小銭を置いてきた。

今から考えると、ちょっとケチくさかった。
あれだけの規模の史跡を維持するには、かなりのカネがかかるはず。
だが、まだ日本円の約100倍の数字が書かれたインドネシア・ルピアに慣れておらず、1万ルピアさえもったいないと思ってしまうのであった。

マカッサルの「椰子の実通り」

ちょうど仕事や学校の帰りなのだろう、要塞の内部では若者のグループやカップルが散歩をしていた。
トップの写真はそんな一組。
ここでも、自撮り写真は盛んなようである。

日が暮れないうちに町の様子を見ようと、ロッテルダム要塞を出て海岸沿いの道を早足でぶらぶら。
この道には食事ができる露店が軒を連ねていて、どの店頭にも写真のような椰子の実が積み重ねられている。
そこで私は、この一帯を「椰子の実通り」と勝手に名付けた。

マカッサルの中心部

その昔、インドに行ったときには、「水は当たるかもしれないから、喉が乾いたら椰子の実のジュースを飲むといい」と言われて実践していたものだった。

ここでも飲んでみたかったのだが、まあ味も知っているし先を急ぐのでスルー。

川べりの露店では、ぼつぼつ客が集まりはじめていた。
心地よい風も吹いていい気分である。
セレベスというと、南方の灼熱の土地にあって、おんぼろな家が続くイメージかもしれないが、このマカッサルの川沿いは近年になって整備されたようで、都会的なセンスの散歩道と広場が連続して、市民の憩いの場となっていた。

川沿いの青空飲食街

さて、我々も晩飯をどこでとろうかということで、ネットと妻に相談。
露店でも悪くはないのだが、落ち着いて食べたいし、ビールも飲みたい。
だが、スラウェシ島南部は敬虔なイスラム教徒が多いと聞いていたので、露店でビールを飲むことはまず不可能である。

レストランでも難しいかなと思いつつ、海の幸がおいしいという評判の立派なレストランに行ってみると、うれしいことにメニューにビールがあった!
どうやら、ほかの大きなレストラン同様、ここも華人の経営のようである。

やはり、暑い土地ではビールがうまい。
2人でビンタンビール大瓶を2本飲み、極上の海の幸をあれこれと食べて、勘定は全部で2000円ほどという驚くべきコストパフォーマンス。
繰り返すが、露店ではなくて、立派な建物のレストランである。
店の入口付近には冷蔵ケースのなかに鮮度のよさそうな魚が並べられていた。

川沿いの散歩道

ところで、スラウェシ島の形を地図で見るたびに、思い出すものがある。
それが、1956年に公開された『宇宙人東京に現わる』という映画に登場した宇宙人の姿だ。
もちろんリアルタイムで見たわけではないが、その昔、映画館で若き宇津井健主演の特撮映画『スーパージャイアンツ』と2本立てで観てどちらも衝撃(笑撃?)を受けた記憶がある。
ほら、似てるでしょ。

スラウェシ島と『宇宙人東京に現わる』

2017-05-24

天国のラジャアンパットから下界のソロンへ降りる

「せっかく行ったんだから、もっと長くいればいいのに」という一部の声もあったが、ラジャアンパットにある知人の仕事場からは3泊で撤収。友人夫妻と別れを告げ、ここからは妻と二人旅となる。

行きとは逆コースでワイサイまでモーターボートで2時間、ワイサイからソロンまでは高速船で2時間の旅である。
インドネシアの島を結ぶ船というと、しばしば沈没とか火災とかがニュースになるので、やや恐れていたが、それは古い木造フェリーの話らしい。
少なくとも、ワイサイからソロンまでの船は、金属でできている旅客専用の高速船なので心配ないようだ。

運賃は一般船室が1300円ほど、私たちが利用したエアコン付きのVIP船室(!)は2000円ほどである。

ワイサイ~ソロンの高速船の船内

ソロンの町はパプア(ニューギニア)島の北西端にあり、人口20万人を超える大都会である。
船の上からは派手な色合いのモスクが目立つが、キリスト教徒も多く、立派な教会もいくつかある。

先住民系の人たちはキリスト教徒が多く、観光地での仕事を求めてインドネシアじゅうから集まってきた人たちはイスラム教徒が多いとのことだ。

船から見えるソロンの町

さて、ソロンの港に着くと、タクシーやバイクの客引きが山のように出迎えてくれる。
天国のようなラジャアンパットを思い出すと、まさに「下界に降りてきた」という印象である。

空港までは車で15分ほどかかり、暑いなかを大荷物を引いて歩ける距離ではないので、知人が出迎えを頼んでおいてくれたはずなのだが、とうとう出会えなかった。

ソロンの港付近

タクシーといっても、そのほとんどすべてが8人ほどが乗れるワゴン車。
料金を聞くと10万ルピア(900円ほど)と口を揃えるのは、知人やネットで知った相場と同じである。
ジャワ島のタクシー料金とくらべれば、とんでもなく高いのだが、ここも辺境・観光地料金のようだ。

しかたがないので、最後の最後あたりにいた人のよさそうな運転手に、「2人で、これだけの荷物があるけど、全部で10万ルピアでいいんだよね」と念を押して空港まで運んでもらうことにした。

ソロンの中心部

3日前に空港から港まで乗せてもらった車は、バイパスのような広い道を通ってきたが、せっかくだから町の中心部を見たい。
船の中で必死になって覚えた「私は町を見たい」というインドネシア語を口にすると、彼はにっこり笑って了解してくれたようである。

町の中心部に入ると、運転手は「ジャランジャランする(散歩する)?」と聞いてくれているようなのだが、蒸し暑いし車も多いしで、そんな気分にもならない。
不精をして、タクシー(という名のおんぼろワゴン)の窓から、町の様子を撮影することにした。エアコンがないので、窓が開けっ放しなのが幸いである。

ソロンの中心部

怪しいTシャツ

中心部にはさまざまな露店が軒を連ねていたが、上の写真のTシャツは怪しさ満点だ。
それぞれ、「賢 死 愛」「死 愛 父」「良 男 金 朝 犬」という漢字が書かれたTシャツもあれば、韓国の国旗の下になぜか「ノラスィチ」というカタカナが書かれたTシャツも見える。

ソロンの小学校

この写真は小学校のようである。
オレンジ色のシャツに、白い半ズボンやスカートという、おしゃれな制服に身を包んだ子どもたちが、元気に遊んでいた。

バティックエアの飛行機

ソロン空港からは、バティックエアに乗ってスラウェシ(セレベス)島のマカッサルへ2時間半ほどの旅である。

2017-05-22

ラジャアンパットでご近所めぐり

ラジャアンパット(Raja Ampat)という地名は、王様を意味する「ラジャ」と、4を意味する「アンパット」を合わせたもの。
かつて、この地を4人の王様が治めていたことに由来するという。

とはいえ、パプア島ソロン(Sorong)からの高速船が着くワイサイ(Waisai)のほか、いくつかの小さな町以外は、ほとんど人の住んでいない未開の土地である。はたして、ほんとうに4人もの王様がいたのだろうか。

ソロンとワイサイを結ぶ高速船

ワイサイの町は、ラジャアンパット県の県庁所在地である。ラジャアンパット県はいくつかの島からなっていて、総人口は5万人弱というから、ここにも1万人くらいはいるのかもしれない。

ワイサイの町をゆっくり歩き回る余裕はなかったが、港から少し離れたところに市場があって、そこを巡ることができた。

ワイサイの市場

「なかなか雰囲気のいい市場じゃないですか」
私がいうと、知人は、
「いや、最近になって観光客が増えてきて手狭になったので、ここに市場を新しく建てただけなんですよ」とのこと。その割には年季が入っているように見える。

市場にある食べ物は、魚を除いてほとんどが、ほかの島から運んできたものだから、物価が高いのだという。よく見ると、袋詰めの「味の素」も売られていた。日本語が書いてある。

ワイサイの市場

ラジャアンパットの宿泊施設は、このワイサイ周辺に集中しているようで、海辺に立つ木造のゲストハウスがボートからもいくつか見えた。クルーズ用の豪華ヨットも2、3艘見かけた。

もっとも、ボートで10分も走ると、もう原始のままの状態である。

ラジャアンパットの漁村

そんななかで、海辺に建つ漁村を3つほど見ることができた。海中に柱を打ち込んで建てられた家々は、まるでおもちゃのようである。
背後には小さな畑らしきものも見える。自給自足で生活しているのだろうか。

ラジャアンパットの漁村

私たちの宿からは、たまに小さな漁船が通っていくのが見えて、「いったいどこからどこに行くんだろう」と思っていたのだが、こんな村に住む人たちなのかもしれない。
最近では、町や宿泊施設に魚を売って現金収入にしているようである。

私が厄介になっている仕事場の若きインドネシア人社員

4月30日から3泊したラジャアンパットとも、5月3日でお別れ。
これで今回の旅も終わり……ではなく、実はこれからが本番なのである。

2017-05-21

楽園ラジャアンパットでひらすらゴロゴロ

2日目はダイビングに行く妻と友人夫妻を見送ると、あとはただぼんやりするだけ。
宿舎の付近を散歩しようにも、どこにも通じる道はなく、船着場を中心に左右100mも歩けばあとは行き止まりというか、密林になってしまう。

ぶらぶらと散歩をしたあとは、東京でやり残したわずかな仕事を半分だけ片づけて昼寝するというのんびりした1日となった。
おかげで、日本で悩まされていた眼精疲労も、いつのまにか治っていた。

リゾート裏の船着場

3日目は気の毒に思ってくれたのか、3人がダイビングの拠点としているリゾートコテージまで連れて行ってもらった。

モーターボートで10分ほどの距離にある施設で、スイス人が経営しているのだそうだ。質素なつくりだが居心地はよさそうである。
もっとも、ツアー料金はかなりいい値段なのだそうだ。町からここまでの移動も大変だし、食料もすべて町から運ぶのだから、高いのも致し方ないだろう。

岸辺に並ぶリゾートのコテージ

われわれが到着したのはそのリゾートの裏側の港で、入江の奥まったところにあるためか、まるで油を流したような水面が印象的だった。
トップの写真がそれである。

岩山から見た外海側の眺め

ダイビングに向かう人びとを見送ると、経営者の一人である若いスイス人に、裏の岩山に登ることを勧められた。途中に鎖場があるらしいが、頂上からの展望は抜群とのこと。
ビーチサンダルで来たことを悔いたが、「ゆっくり登れば大丈夫」と言われてチャレンジした。

岩山から見た水路側の眺め

登山といっても、ビーチサンダルで10分ほど。確かに素晴らしい眺めだった。
しばらくここにいたいと思ったが、9時を過ぎて日射しも強くなってきた。

インドネシアのビンタンビール

リゾートの食堂に戻り、ビンタンビールで喉をうるおす。
やはり労働をしたあと(ちっとも労働じゃないが)のビールはうまい。

モーターボート到着

1時間ほどして、出迎えのモーターボートで宿に戻った。
上の写真の手前左に停泊しているのは、リゾートに魚を納入している地元の漁師さんの船。

途中、海にそそりたつ岩肌にある、「古代人の手形」というものを見せてもらった。
下の写真にあるような「遺跡」で、写真では見づらくて恐縮だが、中央付近に3つの手形が見える。
この「遺跡」については、この後に乗ったガルーダ・インドネシア航空の機内誌でも紹介されていた。

「古代人の手形」

もっとも、私が世話になった職場で働く2人の日本人は、その「遺跡」にかなり懐疑的であった。
「あんなに、はっきりと手形が残っているものなんですかねえ。最近になって誰かがペンキで塗ったんじゃないのかなあ?」とのこと。

とはいえ、「手形」は絶壁のかなり高いところにある。現代人が描くにしても一筋繩ではいかないだろう。

モーターボート

……なんてことを考えながら宿に着いたのはまだ10時ごろ。夕方のビールの時間まで、この日もごろごろしながら風景を眺めるという生活であった。

最後の写真、モーターボートを操縦してくれているのは、知人の仕事場で働いている、気のいいインドネシア人従業員である。この日は日曜日だったので、知人が個人所有しているモーターボートを借りて迎えに来てくれたのであった。
ちなみに、インドネシア東部のパプア州は、この右側の若者のように、メラネシア系の人が多い。インドネシアは多民族国家であることがよくわかる。

2017-05-19

はるかなるラジャアンパットへ

成田空港から7時間かけてジャカルタへ。乗り換えのために空港で8時間滞在。夜中の1時発の国内線で空路6時間、次に高速船で水行2時間、さらにモーターボートで水行2時間。
はるばるやってきたのは、『魏志倭人伝』の邪馬台国じゃなくて、インドネシアの辺境、パプア州(パプア・ニューギニア島の西側)の北西端にあるラジャアンパット諸島である。

ラジャアンパット到着

金持ちのインドネシア人も憧れる「この世の楽園」なのだそうだが、なにしろ交通が不便で宿泊施設も少ない。ここを訪れるのは、暇と金のある欧米人や日本人のダイバーが中心らしい。

ラジャアンパット到着

そんなリゾート地なのだが、我々が泊まるのは、妻の知り合いの日本人が寝泊まりする宿舎。
彼が現地でとある仕事をしていて、その奥さんが現地に向かうのに同行して、3泊4日の間、お邪魔しようという魂胆である。
そこで働いているのは、妻の知人を含めて日本人男性が2人と、インドネシア人が20人ほどである。

ラジャアンパットの海

到着したのは4月30日の昼過ぎ。天気もいいし、なにしろ風景が素晴らしい……のだが、とにかく疲れたので、もったいないけどまずは昼寝。

手こぎの漁船が通っていく

泊まるのは、日本人用の社員寮のような建物で、まあ、林間学校に毛が生えたようなものを想像するとよいかもしれない。

ラジャアンパットの「宿」

夕方になってごそごそと起き出し、貴重品のビールで乾杯しながら、「こんな夕焼けは珍しい」と知人が驚くほどの夕景を眺めつつ、とりとめないないことをおしゃべりをして、夕食をとって寝たことだけは覚えている。

ラジャアンパットの夕焼け

ちなみに、知人夫婦と妻は毎日ダイビングに出る予定だが、私はダイビングをしない。
宿舎の周囲には、よそに通じるような道もない。
はたして、どれだけここでぼんやりとできるのか、われながら楽しみである。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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