多良間島でぶらぶら史跡めぐり
翌7月18日は、妻とその友人がダイビングに行くのを見送ったのち、多良間島の散歩に出かけた。
小さく見えても直径5kmほどの島なので、歩いて全島をめぐるのは大変。
でも、集落は島の北部に集中しているので、この範囲ならば午前中だけでもまわることは可能だともくろんだ。
まず向かったのは、集落の北側から。
家並みを見るのは後回しにして、周辺にある遺跡、史跡をめぐることにした。
これは泊御嶽の入口。御嶽(うたき)というのは、沖縄各島にある聖域のこと。
この入口には鳥居が設けられているが、これは明治以降に立てられたものであって、沖縄本来のものではない。
付近は、うっそうとした林に覆われていて、珍しい散歩者を直射日光から守ってくれる。
なかに入ると、祭祀を執り行うための、こうした建物がある。
沖縄をめぐっていると、意外に新しく建て直されたものが多く、ここもまたコンクリート製でアルミサッシがついている。今一つ神秘さに欠けるようにも思えるが、台風が多い土地柄、しかたのないことなのだろうと、サッシがついた理由は察しがついた。
ときに、茅葺きや木造の昔ながらのものも見かけることがあるが、たいていそういうのは、あえて保存をしているケースが多いようで、やはり実用に使われるのは、ほとんどが新しいものである。
史跡めぐりで、個人的に興味を引かれたのが、看板の表記である。
宮古諸島では、「人」が「ぴとぅ」というように、おそらく古代の日本語が残っていると言われている。
とくに、半濁音が多いのが特徴だ。沖縄本島で使われる「世果報」(ゆがふ)は、ここでは「ゆがぷ」なのだそうな。
畑が「ぱり」なのは、土が「張る」>「張り」から来ているのではないかと思う。
ちなみに、やまとことばの「春」は、暖かくなって土が「張る」状態に由来しているという説が有力だと聞いている。
前置きが長くなったが、この看板には、「ム゜」「イ゜」「リ゜」という文字が見える。ほかに、宮古島には「ス゜」もあったっけ。半濁点がついているけれども、「パピプ……」のような半濁音というわけではなく、「それに近いけれども、ちょっと発音が違う」くらいの表記のようだ。
「イ゜」は、「イ」の口の形で、舌と上顎の間隔を狭めて出す「ズ」に近い音のはず。「ス゜」は、「ツ」と「ス」の間のようなくぐもった音だった。、「ム゜」「リ゜」については未確認である。
もっとも、この表記は確立されたものではないようで、この看板にある「ウガム゜」(「拝み」=「拝所」のことだろう)を「うがん」と記したところもあった。
(となると、「ム゜」は口をしっかり閉じて母音なしで出す語尾のm音か?)
(で、多良間方言には「r」音以外に「l」音が現れるというから、「リ゜」は「l」かも)
さてこれは、18世紀の和文学者であり劇(組踊)作家である平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)の子孫の墓。
今でいえば、革命的文化人だったのだろう。琉球王朝に批判的だった彼は、とうとう王朝に処刑されてしまう。
その事件の顛末は、「落書事件」として知られるのみで、真相はすべて抹殺されてしまったという。
多良間島に流刑となった息子とその子孫の墓がここで、のちに朝敏の遺骨もここに収められた……とここに書いてあった。
平敷屋朝敏の名前は、沖縄の歴史や文学をほんのちょっとかじっただけでも知っているほどの有名人なのだが、そんな人の墓が、首里からはるか離れた多良間島の、しかも草が繁った脇道──というより草むらの中にあるとは驚いた。
能書きが続いたので、あとは簡単に。
これは多良間神社の拝殿。多良間神社は、島の興隆の礎を築いた16世紀の豪族、土原豊見親(んたばる・ とぅゆみゃ)の偉業をたたえて、明治になってからつくられたもの。
神社ではあるが、建物の内外とも、かなり沖縄化されている。
このほかにも山ほど遺跡や史跡の写真を撮ったのだが、このくらいにしておこう。
史跡めぐりを終え、集落めぐりの前に、やってきたのが八重山遠見台。
標高33mの高台になっていて、石垣島などの八重山諸島を遠望できることから、その名がついている。
多良間島を訪れる前は、津波に襲われたらどうするんだと心配をしていたが、なんとかここまでたどり着けば、超大津波でなければ助かるかもしれない。
現在はその頂上に灯台のような展望台ができていたので、蒸し暑い中をひいこら階段を上り、周囲を見渡した。
それが最後の写真である。
ここまで登ると、さすがに風が吹き抜けて、ほんの少しだけ涼しさを感じたのであった。
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