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2016年8月の3件の記事

2016-08-24

多良間島でぶらぶら史跡めぐり

翌7月18日は、妻とその友人がダイビングに行くのを見送ったのち、多良間島の散歩に出かけた。
小さく見えても直径5kmほどの島なので、歩いて全島をめぐるのは大変。
でも、集落は島の北部に集中しているので、この範囲ならば午前中だけでもまわることは可能だともくろんだ。

多良間島の道

まず向かったのは、集落の北側から。
家並みを見るのは後回しにして、周辺にある遺跡、史跡をめぐることにした。

泊御嶽入口

これは泊御嶽の入口。御嶽(うたき)というのは、沖縄各島にある聖域のこと。
この入口には鳥居が設けられているが、これは明治以降に立てられたものであって、沖縄本来のものではない。
付近は、うっそうとした林に覆われていて、珍しい散歩者を直射日光から守ってくれる。

泊御嶽

なかに入ると、祭祀を執り行うための、こうした建物がある。
沖縄をめぐっていると、意外に新しく建て直されたものが多く、ここもまたコンクリート製でアルミサッシがついている。今一つ神秘さに欠けるようにも思えるが、台風が多い土地柄、しかたのないことなのだろうと、サッシがついた理由は察しがついた。
ときに、茅葺きや木造の昔ながらのものも見かけることがあるが、たいていそういうのは、あえて保存をしているケースが多いようで、やはり実用に使われるのは、ほとんどが新しいものである。

多良間方言の表記

史跡めぐりで、個人的に興味を引かれたのが、看板の表記である。
宮古諸島では、「人」が「ぴとぅ」というように、おそらく古代の日本語が残っていると言われている。
とくに、半濁音が多いのが特徴だ。沖縄本島で使われる「世果報」(ゆがふ)は、ここでは「ゆがぷ」なのだそうな。
畑が「ぱり」なのは、土が「張る」>「張り」から来ているのではないかと思う。
ちなみに、やまとことばの「春」は、暖かくなって土が「張る」状態に由来しているという説が有力だと聞いている。

前置きが長くなったが、この看板には、「ム゜」「イ゜」「リ゜」という文字が見える。ほかに、宮古島には「ス゜」もあったっけ。半濁点がついているけれども、「パピプ……」のような半濁音というわけではなく、「それに近いけれども、ちょっと発音が違う」くらいの表記のようだ。
「イ゜」は、「イ」の口の形で、舌と上顎の間隔を狭めて出す「ズ」に近い音のはず。「ス゜」は、「ツ」と「ス」の間のようなくぐもった音だった。、「ム゜」「リ゜」については未確認である。

もっとも、この表記は確立されたものではないようで、この看板にある「ウガム゜」(「拝み」=「拝所」のことだろう)を「うがん」と記したところもあった。
(となると、「ム゜」は口をしっかり閉じて母音なしで出す語尾のm音か?)
(で、多良間方言には「r」音以外に「l」音が現れるというから、「リ゜」は「l」かも)

里子之墓

さてこれは、18世紀の和文学者であり劇(組踊)作家である平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)の子孫の墓。
今でいえば、革命的文化人だったのだろう。琉球王朝に批判的だった彼は、とうとう王朝に処刑されてしまう。
その事件の顛末は、「落書事件」として知られるのみで、真相はすべて抹殺されてしまったという。

多良間島に流刑となった息子とその子孫の墓がここで、のちに朝敏の遺骨もここに収められた……とここに書いてあった。
平敷屋朝敏の名前は、沖縄の歴史や文学をほんのちょっとかじっただけでも知っているほどの有名人なのだが、そんな人の墓が、首里からはるか離れた多良間島の、しかも草が繁った脇道──というより草むらの中にあるとは驚いた。

多良間神社

能書きが続いたので、あとは簡単に。
これは多良間神社の拝殿。多良間神社は、島の興隆の礎を築いた16世紀の豪族、土原豊見親(んたばる・ とぅゆみゃ)の偉業をたたえて、明治になってからつくられたもの。
神社ではあるが、建物の内外とも、かなり沖縄化されている。

多良間島

このほかにも山ほど遺跡や史跡の写真を撮ったのだが、このくらいにしておこう。
史跡めぐりを終え、集落めぐりの前に、やってきたのが八重山遠見台。
標高33mの高台になっていて、石垣島などの八重山諸島を遠望できることから、その名がついている。
多良間島を訪れる前は、津波に襲われたらどうするんだと心配をしていたが、なんとかここまでたどり着けば、超大津波でなければ助かるかもしれない。

現在はその頂上に灯台のような展望台ができていたので、蒸し暑い中をひいこら階段を上り、周囲を見渡した。
それが最後の写真である。
ここまで登ると、さすがに風が吹き抜けて、ほんの少しだけ涼しさを感じたのであった。

2016-08-18

多良間島「海の日ハーリー大会」に遭遇

地図で見るとわかるように、多良間島はまんまるに近い島で、直径は5~6km。空港は島の南西部にあるが、集落は北部にあり、フェリーが発着する前泊港も集落の近くにある。

空港から集落までは400円。村営バスの運転手に行き先を告げると、すぐ前まで運んでくれる。結局、このときの乗客は私一人だった。

前泊港前の横断幕

実は、ダイビングをしている妻が、やはりダイバーの知人と2日前から島に来ていた。
泊まっていたのは、2003年にできた村営の「夢パティオ たらま」という、ちょっと照れくさい名称の宿である。

空港に着いた旨のメッセージを妻に送ると、すでにこの日のダイビングを終えていたらしく、「ハーリー大会をやっているから、ぜひ港に来るように」という返事が届いた。

港に来いと言われても、右も左もわからなくて困ったが、スマホのGoogleマップを参考にしてたどりついた。
いやはや、20年前だったら、マップどころかメッセージも受け取れず携帯電話もなかったから、どうなっていたんだろう。

前泊港

宿から港までは歩いて10分ほど。海が見えてくると、遠くから歓声が断続的に聞こえてきた。
ハーリー船競走の真っ最中のようである。

ハーリー(爬龍)とは、中国から伝わった手漕ぎの高速船のことで、名前のように船首と船尾に龍の模様が彫られている。長崎のペーロンと同類なんだろう。

ハーリー大会

港には、各集落の名前入りのテントがいくつも立っていて、そこで自分たちのチームを応援しているらしい。
妻も、ちゃっかりそのテントの一つに入り込み、ベンチに腰をかけていた。

船は2艘だけで、那覇のハーリー大会にくらべると、実にのどかである。
集落対抗のほか、中学生チーム、たまたま入港していた海上保安庁のチーム、役場チームなどが交代で、沖にある杭まで行って海岸に戻るコースを懸命に漕いでいた。

ハーリー大会

妻と知人が世話になっているダイビングショップチームも登場したが、沖に出る前に、まっすぐに進むことができず、くるくると3回転したのち、あえなく地元の人に引っ張られて海岸に戻ってきて、会場は爆笑。

それにしても、島民のほとんどが集まったんじゃないかと思うほどの賑わいである。
2泊3日で、こんなに人間を一度に見たのは、これが最初で最後であった。
もっとも、あとで調べたら島の人口は1200人ほどなので、思ったより多い。暑くて寝ていた人も多かったのだろう。

即席売店

最後の写真は、海岸の入口に設けられた即席の売店。妻は、そこで多良間名物の「ぱなぱんぴん」を購入。
「ぱな」は花、「ぱんぴん」は揚げ菓子のことで、ドイツのプレッツェルを小さくしたような菓子だ。
子どものおやつにも、ビールのつまみにもいい。
「つくる人によって、味や舌触りが違うんだよねぇ」
昨年に続く2度目の来島となる妻は、偉そうな口ぶりでそう言っていた。

2016-08-17

沖縄 多良間島へ

旧盆も過ぎて今さらだが、7月なかばに沖縄の多良間島へ行ったときのことなどを書いてみたいと思う。

出発は7月17日の日曜日。羽田空港から那覇空港、宮古空港と2回乗り換えて、多良間島へ。
多良間島は宮古島と石垣島の中間に位置する島で、古くから宮古島とのつながりが強い。
かつては石垣島からも飛行機が飛んでいたが、今は宮古島から飛行機か船で行くしかない。

宮古空港

宮古空港からはRAC(琉球エアコミューター)のプロペラ機。39人乗りのボンバルディア社製だ。
以前はトラブルが頻出した同社製のプロペラ機だったが、最近では幸いなことにあまり不調を聞かない。

ちょっとドキドキはしたが、乗ったらもうどうしようもないので、運を天に任せるしかない。
十数人を乗せた飛行機は、ブルンブルンとプロペラを回しはじめて、めでたく離陸。
恐いと思うひまもなく、多良間空港まで20分で着いてしまった。
眺めもよかったし、こうなるともう少し乗っておきたかったと勝手なことを思うのであった。

宮古空港

ところで、RACやJTAの飛行機では、ちょっと楽しい到着の案内放送がある。
那覇から宮古に着いたときに知ったのだが、「到着地の方言で案内をします」というのだ。
そして、「たんでぃがー、たんでぃー」で始まったからビックリした。
これは、宮古方言の「ありがとうございます」のこと。那覇方言だと「にふぇーでーびる」だから、まったく違う。

「えっ、まさか、ずっと宮古方言で案内をするの?」と、さすがの私もあせった。
那覇方言ならば、何を言っているかくらい、ある程度見当はつくが、宮古方言になるとチンプンカンプンである。
……と思ったら、方言は最初の「ありがとう」でおしまい。
あとは標準語の案内になってしまった。
「なーんだ」と、ほっとしながらも少しがっかり。

機上から

で、多良間島到着のときはどうだったかというと、やっぱり多良間方言でやってくれた。
「すーでぃが ぷ」
東京・亀戸にある宮古島料理の店「ラッキー」のおばあに聞いた通りであった。
この最後の「ぷ」がユニークである。
多良間のことばを素でしゃべると、那覇の人にはもちろん、宮古の人にも通じないという。

ちなみに、下から2枚目の写真に、「かりゆす 多良間空港」という掲示が見えるだろう。
これは、那覇方言ならば「かりゆし」となるところだ。
ちょっとナマっていてかわいい。

多良間空港ターミナル

さて、多良間空港は2003年に現在の場所に移転したとかで、小さいけれどもこぎれいなターミナルが待っていた。
もちろん、飛行機からターミナルへは徒歩移動である。

多良間空港

降りたはいいが、那覇で預けた荷物を受け取らなくてはならない。
どこの空港でも同じなのだが、「ここをいったん外に出たら、戻ることはできません」という掲示があるので、私は荷物受け取りカウンターの前でしばらく待たなくてはならない。
ほかの乗客はというと、一人残らず素通りをして出て行ってしまった。
「ああ、地元の人はたいした荷物もないんだな」

エアコンの効いていない狭苦しい部屋にしばらく一人で残されていたものだから、心細いこと限りない。しかも、到着時間に合わせて運転されているという村営バスに置いてけぼりを食わないか、気が気じゃない。

荷物の運び出しにずいぶん時間がかかり、そろそろチビりそうになるころ、ようやくトラックが建物に横付けされて、シャッターがガラガラと音を立てて開けられた。

多良間村営バス

と、そのときである。
エアコンの利いた待合室から、ぞろぞろとさきほどの飛行機の乗客が"逆流"してきたではないか。
バカ正直に、暑くて狭いところで待っていた私が愚かだった。
あなどりがたし多良間島。私はさっそくその洗礼を受けることとなってしまった。

もっとも、村営バスはちゃんと待っていてくれた。
タクシーのないこの島で、集落まで行く唯一の交通機関である。
外に出ると、日射しは東京のそれとはケタ違いに強かった。

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  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
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