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2015年5月の18件の記事

2015-05-31

沖縄で出会ったネコたち 2015/04

たった3泊4日の旅を、引き延ばしに引き延ばして回を重ねてきた沖縄の旅も最終回。
ごく一部に期待され、しかしながら多くの方に「やっぱり」と見透かされていたであろう、ネコ写真です。

今回の旅は、真っ昼間に行動していたことが多かったので、あまりネコの姿を見ることができなかった。
沖縄のネコ全般がそうなのかどうかわからないが、警戒心はそれほどない一方で、人馴れしているというほどでもなく、なかなか距離を縮めることもできずに通り一遍の写真になってしまったのは残念である。
……と、言い訳を先にしておいて写真を4枚。

開南のネコ

まずは、那覇の下町ともいえる開南の、農連市場付近で出会った礼儀正しいネコ。
三つ指をついた姿勢でファインダーに収まってくれた。
開南の再開発もこれからが本格化するところ。このネコちゃんの運命やいかに。

牧志のネコ

こちらも那覇の中心部、国際通りの裏、壺屋から牧志あたりを歩いていたときに出会ったネコ。
こんなところまで来てネコを写す観光客もいないのだろう、ちょっと警戒している表情である。

伊計島のネコ
都会から離れて、与勝諸島の一番奥、伊計島へ。
ヌンドゥンチ(祝女殿内)という聖なる場所で昼寝をしていたおネコさまである。
写真を撮る私を不思議そうに見つめていたが、これ以上近づいたら逃げて行ってしまった。

150530e
最後は、本部半島のの備瀬にいたネコ。
昼過ぎの暑い時間ではあったが、フクギの林は風通しもよく涼しい。
ネコにとっては天国のような場所に違いない。
無防備な姿で日向ぼっこ……いや日陰ぼっこをしていた。

視線がカメラに向いている写真もあるのだが、ちょっと視線をずらしたこの表情がかわいい。
よく見ると、木漏れ日がネコの足跡のよう!


2015-05-28

瓦もいろいろ、シーサーもいろいろ

屋根の上に鎮座しているシーサーは、田舎に行けば行くほど、手づくり感あふれるユニークなものが多い。
では、今回の旅で見つけた楽しいシーサーをいくつか。
よろしければ、どのシーサーがお好みか、ご遠慮なくコメントを!

浜比嘉島・比嘉

まずは、浜比嘉島の比嘉集落で見たもの。
真っ青な空に真っ白く塗ったコンクリート屋根、そこに真っ赤なシーサーが映える。
尻尾がくるりんとなっているのがかわいい。

宮城島

これは宮城島。
顔の周囲が白く塗られているのは、よだれかけみたい。
口のまわりが黒いのは、マンガに出てくる古典的なドロボーのようにも見えなくもない。
ヘタウマな顔が味を出している。

宮城島

これも宮城島のシーサー。
獅子というよりも、沖縄の森に住んでいるという精霊・キジムナーのような顔をしている。
い、いやキジムナーを見たことがあるわけじゃないんですが。
技術的にはなかなか細かいところまでよくできている。

宮城島

これもまた宮城島。
ウマいんだか、ヘタなんだか、評価が分かれるところかもしれない。
伝統的な赤瓦の家に乗っているだけあって、貫祿があるようにも見える。

国頭村・奥


ここから3つは、国頭村奥集落のシーサー。
これは確か、民宿の屋根に乗っていたもの。間延びしてユーモラスな表情がかわいい。

国頭村・奥


そして、これがビックリの巨大シーサー。私が今まで見たなかで最大のものである。
さすがに屋根の斜面に乗せることはできなかったようで、玄関上の平らな面に乗っている。ちょっぴり野卑で野性的なところがおもしろい。
台風が来たときなんか、これで大丈夫なのだろうかと、よけいな心配をしてしまう。
22年前に訪れたときの写真を見たら、このシーサーも写っていた、ということは大丈夫だったんだろう。

国頭村・奥


最後は、表情もきりりと締まったハンサムなシーサー。
緑多い奥の集落に、赤と黄の色が鮮やかだった。
ちなみに、赤と黄色といえば、沖縄の箸を思い出す。

改修工事はじまる那覇バスターミナル、そして壺川の機関車

那覇バスターミナルは、ゆいレール旭橋駅のすぐそばにある。
ここを起点として、沖縄本島各地に路線バスが出発し、構内には各社の事務室や休憩所などが設けられていたのだが、改修工事にともなって閉鎖となっていた。

那覇バスターミナル

戦前は沖縄県営鉄道の起点である那覇駅がここにあったという。
レール幅の狭い軽便規格の鉄道だが、北は嘉手納、東は与那原、南は糸満まで走っていた。
それが1945年の地上戦で破壊されてしまい、それ以来ゆいレールの開通まで沖縄には鉄道が存在しなかったのである。
(ゆいレール=モノレールが鉄道であるかどうかは議論が分かれるだろうが)

葉っぱの形をした構内には、つねにバスがぎっしりと待機して、ひっきりなしに発車していったのも、今は思い出である。
こんなことなら、もっとターミナルの写真をとっておけばよかった……というのは、いつもの後悔だ。

かろうじて、2007年に3枚ほど撮ったものの1枚が下の写真。

2007年の那覇バスターミナル

工事が終わって、どんな形になって現れるのか、楽しみではある。

最近、沖縄では「わった~バス党」(私たちバス党)という路線バス乗車促進のキャンペーンを開始した。
交通渋滞や環境問題を考えて、みんなもっとバスに乗ろうということである。あちこちでポスターも目にした。
私も微力ながら貢献したつもりでいる。
また、私が帰った直後の4月27日から、ICカード「オキカ」が各社のバスでも使用できるようになった。
今回の旅でも、運賃支払いのために、バスの所要時間がかかってしまった例を何度も目にしたが、これで少しは解決するかもしれない。旅行者にとっても多少は利用しやすくなるのではないかと思う。

壺川東公園

さて、鉄道ファンにとって、那覇で忘れてはいけない巡礼の地が、ゆいレール壺川駅から徒歩5分ほどのところにある壺川東公園である。ここは、前述した沖縄県営鉄道の那覇駅と壺川駅の中間にあたるそうで、加藤製作所製の小さなディーゼル機関車が保存されている。
じつは、この機関車は沖縄県営鉄道のものではなく、南大東島でサトウキビ運搬のために働いていたディーゼル機関車なのだ。

すでに南大東島の軌道は廃止されてしまったが、私が大学生のころはまだ走っていた。
撮影に行きたかったが、さすがに遠く、時間もカネもかかる。
それでも、サトウキビの収穫時期にはアルバイトを募集しており、島までの交通費も支給されると聞いて、本気で行こうかと考えたこともあった。
「でも、アルバイトに忙しくて写真を撮る時間はあるだろうか」なんていう悩みもあった。
今思うと、行っておけばよかったかな。

ゆいレール2005年

ところで、ゆいレールの車内放送は、各駅ごとに「安里家ユンタ」や「てぃんさぐの花」などの沖縄の歌や民謡のBGMが流れて楽しいのだが、この壺川駅は「唐船(とうしん)どぅーい」なのだ。
カチャーシーのときに必ず流れるアップテンポの民謡で、車内で「チャンチャ、チャチャチャチャ……」と鳴り出すと、どうしても体や足が動きそうになる。

ましてや、沖縄の人が耳にしたら、動かないではいられないと思って、ここを通過するたびに、地元の人らしき乗客を探してこっそり観察している。
だが、残念ながら、まだこの曲で体を動かしている人を見たことがない。ましてや、車内で踊りだす人もいない。

──やっぱり、電子音じゃなくて三線じゃないといけないのかな。
そう思うのだが、本当に踊りだす人が出たらいけないから、あえて電子音なのかもしれない。
もしかすると、開通直後は、思わず体を動かす人が続出したのではないかと、私は密かに思っているのである。
(ゆいレールの写真は2005年に撮影したもの)

2015-05-26

海洋博公園内を素通りして渡久地へ

汗をかきながら備瀬から10分ほど歩くと、右手に大きな駐車場が見えてきた。海洋博公園だ。
ここまでの歩道ではほとんど人影がなかったのだが、公園内を覗くと人でごった返しているではないか。
その対比が、どうにも不可思議で非現実的に思えたのであった。

渡久地港

私の目的地は道をさらに直進して、本部(もとぶ)町の中心地である。だが、そこまではまだ5kmあまり残っているから、歩いて1時間。一方、ここで次のバスまで待っても、やはり1時間以上ある。
さて、どうしようかと公園の中央ゲートを見ると、「本日は入場無料(美ら海水族館を除く)」という看板が出ているではないか。
時間は13時少し前だったか。「せっかくだから、バスが来るまで園内で涼んでいくか」と思って、門をくぐることにした。

渡久地港

門の中は、まったくの別世界であった。
通勤時間帯の新宿駅とはいわないが、少なくとも駒込駅よりは多い人びとが、あっちへ行ったりこっちへ来たり。
イベント広場周辺ではエイサーをアレンジしたような太鼓と踊りの音楽が響き、そばでは甲高い声で中国語を話す団体が大喜びで写真を撮っていた。

そんな様子を見ているうちに、素晴らしいアイデアがひらめいた。
──そうだ、ここには安くていい移動手段があるじゃないか!
地図を見ると、海洋博公園の敷地はとてつもなく広いのだが、園内を巡回する電気バスに乗れば、2kmほど離れた南ゲートまで100円で行けるのだ。
そして、南ゲートまで行けば、目的地までの半分近くまで達したことになる。

渡久地

私は、お祭り広場のイベントを横目に見て、美ら海水族館前の混雑を尻目に、家族連れにまじって小さな巡回バスの客になり、植物園もやり過ごして南ゲートから徒歩で出場したのであった。

このときの時刻は14時近く。結局、南ゲート近くの食堂で沖縄そばを食べることにしたので、残りの3kmは歩かずにバスを待つことにしたのだが、久しぶりの見事な頭の回転に自画自賛、自己満足にひたることができた。

渡久地

さて、前置きが長くなったが、今回の写真は本部町の中心地である渡久地(とぐち)である。
渡久地は小さな湾のようになっていて、漁港もあれば水納島へ行く高速船も出ている。

町はずれの本部港からは鹿児島、奄美大島、那覇、伊江島などに向かう船が出ているが、こちらは渡久地から2kmほど南に位置している。

渡久地

渡久地の湾の奥まったところには、無数の鯉のぼりならぬカツオのぼりが翻っていた。
トップの写真である。
聞けば、5月の連休には「カツオのぼり祭り」というのがあるとのこと。
ちょうど、そのころにカツオの初水揚げなのだそうで、観光客もずいぶんと訪れるらしい。

渡久地

しかし、この日は週末なのに町のなかに観光客らしき人はいなかった。
でも、中心部の飲み屋や商店を見ると、かつてはずいぶん栄えたのだろう。いや、まだそこそこ客がいるから店は営業を続けているに違いない。

そもそもなぜ、私が渡久地にやってきたのかというと、以前、母、弟、妻、義母を引き連れて美ら海水族館を訪れたときに、弟の運転するレンタカーでここを通過したからである。
その渋い町並みに、私はいたく心を動かされた。だが、さすがに「ここで降りて町並みを見学しよう」とは言えなかった。
せめて、表通りでアイスクリームでも売っている店が1軒でもあれば、降りる言い訳ができたかもしれないが。

そのときに、再訪を誓ったのである。
10年近くたって、ずいぶん変わってしまったのではないかと心配していたが、少なくとも雰囲気はまったく変わりがなかった。
もっとも、それが地元の人たちにとって、よいことなのかどうなのかはわからない。

渡久地

町をぶらぶらしているうちに、日はどんどんと傾いていった。
私は、渡久地15時39発のバスに乗り、名護のバスターミナルに戻っていったのである。

これで、3泊4日の沖縄旅行も大団円となるのだが、あと3回ほど、おまけの記事に付き合っていただきたい。

2015-05-24

備瀬のフクギ林でのんびり

今帰仁の仲宗根の雰囲気にひたりすぎ、あまりにものんびりしすぎてしまった。
「そろそろ次のバスの時間かな」と思って、表通りに向かって歩きはじめたとたん、狭い道の向こう、20mほど先をバスが左から右へと通りすぎていくのが見えた。
そこで走り出したけれども、遅すぎた。

備瀬のフクギ林

行き当たりばったりの旅が好きな私だが、さすがにこれにはがっくりした。
なにしろ、この日は旅の最終日だから、ある程度計画的に動かなくてはならなかったのだ。しかも、土曜日だったから、バスの本数が少ない。

それにしても、前のバスから30分しか間がなくて、次のバスまで1時間半も空いているとは、どういうことなのか。不条理というほかない。
とはいえ、文句を言ってもしかたがない。今帰仁村でさらに昼の1時間半ほどのんびりしようかと思ったが、食事をする店も見あたらないし、ましてや喫茶店もなさそうである。

──まずは、スーパーで頭と体を冷やすか。
国頭村とは違って、そこそこ大きなスーパーがあった。そこに入ろうと思ったところで、店の前にあるタクシー会社が目に入った。

備瀬

次の目的地である備瀬までは、10km弱といったところか。
「ちょっと出費が痛いけれどタクシーを使うか。それともやせ我慢をして、ここで1時間半過ごすか?」
30秒ほど迷った末、清水の舞台……いや今帰仁城の城砦から飛び降りたつもりで、タクシーに乗ることにした。

乗ってしまえば楽チンである。
エアコンはついているし、40代半ばから後半と見える運転手のお兄ちゃんと楽しく会話もできて、しかも2000円台で済んだ。東京のイメージで、4000円近くかかるんじゃないかと覚悟していたものだから、これは望外の喜びであった。

備瀬

「きょうみたいな暑い日は、備瀬はいいよ。フクギが茂っているから日が当たらないしね」
運転手氏の言ったことは確かだった。

フクギ(福木)というのは、沖縄や台湾でよく見かける葉の厚い木である。
ここ備瀬の集落は、村にフクギを植えてあるというよりも、フクギ林のなかに村があるといったほうが近いだろう。
密生したフクギのおかげで、厳しい日光の直射を避けることができる。しかも、海から吹き寄せる風はよく通る。まさに、この土地ならではの工夫といってよい。
なぜ、ほかの村ではこうしなかったのかと思うほどだ。

備瀬

美ら海水族館のある海洋博公園からも近く、ガイドブックには必ず載っている場所なのだが、観光客でごった返しているというほどではない。
集落は意外と広いので、入口から奥に行くにしたがって人影はまばらになっていく。

落ち葉を掃除している地元の奥さんがいた。
目が合うと、「掃除をするのも大変なのよ~」と笑っていた。
確かに、ずいぶん道がきれいだなと思っていたのだが、その陰にはこんな苦労があるのだ。
集落の入場料があるわけでもないのに、観光客としては頭が下がる思いである。

備瀬から見る伊江島

フクギ林の向こうに海が見えたので、そのまま海岸に向かってみると、タッチュー(城山)に特徴のある伊江島が見えてきた。
でも、日なたは暑いので、すぐにフクギ林に引っ込んでしまう軟弱な私であった。

──さて、そろそろ次のバスが来るころかな。
そう思ってバス停にやってくると、なぜか次のバスは1時間以上も後。
前のバスからは2時間40分もの間隔があった。
──おかしいなあ、今帰仁のバス停の時刻表だと前のバスの1時間半後にやってくるはずなんだが……。

理由はあとでわかったのだが、乗ろうと思ったバスはこの備瀬を経由しないのであった。備瀬や海洋博公園といった岬の端を通らずに、内陸の謝花という集落を通る。

ということは、今帰仁で1時間半待っていたら、そのバスは備瀬に来なかったのである。結果的にタクシーに乗ったのは大正解であった。
もっとも、謝花経由の便に乗ったら乗っていたで、何かおもしろい出来事があったかもしれないけどね。

いずれにしても、さらに1時間以上、今帰仁よりも何もないここで過ごすのはつらそうである。昼過ぎの刺すような日射しを脳天に受けながら、何も考えずに本部方面に向かって歩きだす私であった。

2015-05-22

今帰仁の仲宗根をぶらぶらした理由

3泊4日の沖縄旅行をさんざん引き延ばしてきたが、いよいよ最終日。
この日は、宿泊地の名護をスタートして、本部半島を一周することにした。
幸い、海岸沿いを一周するバスは、右まわりの65系統も左まわりの66系統も1時間に1本は出ている……と思ったが、よく考えると当日は土曜日。平日よりも本数が少なくなっていて難儀してしまった、という話はのちほど。

今帰仁・仲宗根

まず降りたのは、名護バスターミナルから30分ほど乗った今帰仁。
「なぜこれが『なきじん』って読むんだ!」と文句を言う人がいるが、それほど不思議ではない。

当初の地名がどうだったのかは知らないが、「今帰仁」と当てた字をそのまま読めば「いまきじん」だ。
語頭の「い」や「え」などの母音は、よく消えてしまう。とくに、ウチナーグチにはよくあること。
そして、「m」音と「n」音は発声のしかたや場所が近いため、よく入れ替わる。宮古と書いて「ミャーク」と読んだり「ナーク」と読んだりするのもその一例。
というわけで、「いまきじん」→「まきじん」→「なきじん」と変化したのだろう。

今帰仁・仲宗根

ウンチクはこのくらいにして、今帰仁村の謝名で下車したのち、ぶらぶらと仲宗根まで戻ってきた。

「へえ、小さな村を歩くのが好きなんだ? 明日は本部一周? だったら、仲宗根がいいかな」
前夜に行ったバーのマスターが教えたくれたからだ。

バーといっても気軽な雰囲気の店で、ガラス張りなので外から中の様子がわかるようなところ。
東京にはよくあるが、沖縄、しかも名護では珍しいのではないかと思う。

晩飯をとろうとして、最初はホテル近くの居酒屋に入ったのだが、店が賑わっているわりに内容はイマイチ。
生ビールを飲もうと思ったら発泡酒だし、本物の生オリオンビールは注文する人が少ないと見えてやや酸化していた。刺身も量は多いのだが、ちょっと……。
値段は非常に安く、店主は一生懸命働いているようなのだが、残念ながらそれ相応の内容であった。

こりゃあ飲み直しが必要だとぶらぶら歩いているうちに、「エビスビールあります」という看板にひかれて、ふらふらと入ったのがその店だったというわけである。

今帰仁・仲宗根

じつは、店の前を1回通りすぎていた。
そのときに店内を覗いたのだが、周囲の店が賑わっているのに、ここだけ客はゼロ。
しかも、カウンターの向こうには、いかつい顔をしたお兄さんというか親父さんが仁王立ちしていたのである。

それでも、「ええい、ままよ。乗りかかった船、いや、通りかかったバーだ」と、清水の舞台から、いや万座毛の崖から飛び降りる気分でドアを開けた私であった。

今帰仁・仲宗根

「えっ、生ビールが発泡酒だったって? そりゃあ、いくら安くてもオレも飲まないよ。名護でエビスの生を出しているのはウチだけなんだ」
誇らしげなマスター。いかつい顔ではあるが、笑うとかわいらしくも見えた。

そのあとは、年格好が近いこともあって、初めて会ったとは思えないほど、あれやこれやと話をした。
名護出身の彼は、大学時代に名古屋に行ったらしい。名古屋芸術大学だという。
「なんでまた?」
「高校の同級生がそこに行くっていうからさ。オレも島から離れてみようかと思って」
名護だから名古屋というシャレかと思ったら、事実はもっと不条理であった。もちろん、同級生というのは男である。
沖縄出身の2人はたいそう珍しがられ、私が聞いただけでも大笑いする体験をいろいろとしたようだが、それをいちいち書いていったら、ブログの記事が5回ぐらいできてしまう。

今帰仁・仲宗根

そんな彼にぶらぶら歩きを勧められたのが、ここ今帰仁の仲宗根地区である。確かに古い家並みが残っていて、初夏の日射しに映えていた。

そうそう、名護の店の名前は「クィッキーウィッキー」。開店して間もないようである。
なぜ、わざわざ店の名前まで紹介するかというと、私が滞在した1時間半ほど、ほかに客が1人も来なかったからである。
「変だなあ。こんなことは珍しいんだけど」
「大丈夫? 次に来るまで店を続けておいてよ」
マスターは「大丈夫、大丈夫」と言っていたが、心配なのでこれを読んだ方は名護に行ったら立ち寄ってほしい。
場所は、宮里1丁目23番。有名な「宮里そば」の近くである。
料理も手が込んでいて、うまい。なかでも塩味のもつ煮込みが絶品だった。
「吉田類の酒場放浪記をいつも妻と二人で正座して見ているんだけどさ、沖縄にはもつ煮込みがないっていうから、つくったんだ」とのことである。

今回は、今帰仁の町並みというよりも、名護の店の話になってしまった。
今帰仁の町の雰囲気は、写真を見ていただければ味わっていただけると思う。
それはともかく、私はあまりにも写真に夢中になっていて、大失敗をしてしまったのである……。

2015-05-19

奥は昔の奥だった

楚洲から13時17分発の村営バスに乗ったのは私一人。
来た道を奥まで引き返した。もちろん、ヤンバルクイナが飛び出してこないかと、まばたきもしないで、目を皿のようにして見ていたが、残念ながら現れなかった。

奥のバス停

さて、奥の集落は、まさに沖縄本島の北の奥にある。
沖縄に住んでいる人でも、奥と聞くと、やんぱるの最果ての地という印象らしい。
といっても、そこそこ大きな町であり、宿も2、3軒あるようだ。また、ここはお茶がとれることでも知られている。

奥の集落

前にも書いたように、22年前に奥に来たときは、バスの折り返しのわずか15分ほどを利用して、集落のほんの表面をなでただけのような滞在だった。
「またこのバスで帰るからね」と運転手に念を押して、走って一周して写真を撮ったのである。

今回は、東線経由の次のバスまで1時間15分。その次の奥線なら1時間45分の余裕があった。
私は、集落が見渡せる丘に上り、路地という路地をくまなく歩き、奥の空気を堪能することができた。

赤瓦のお宅

前回の短い訪問では、伝統的な平屋の家が多く、赤瓦もずいぶん残っていると記憶している。

で、今回の印象はどうだったかというと、22年のギャップを感じさせることなく、奥は昔の奥だった。
那覇の変化とは無縁……まったく無縁ではないだろうが、昔の印象そのままといってもよいくらいである。

奥の集落

ぶらぶらと歩いていると、どこかの家の前から話し声が聞こえた。
「おばあちゃんがいらっしゃったら、話をお聞きしたいんですけど」
どうやら、那覇からテレビ局のクルーが来ていて、取材の下交渉をしているようである。

奥の集落

沖縄の人にとっても、ここは貴重な存在なんだろうなあ……なんて思いながら歩いていると、目の前を軽トラックが走って行った。荷台のワンちゃんと目が合う。
とっさにカメラを構えて撮ったのがこの写真である。

この直後には、白く長いあごひげをたくわえたおじいさんが、トラクターにのって前を横切って行ったが、タッチの差で撮影のチャンスを逃してしまった。横顔は撮ったんだけど。

奥の集落

この集落では見事なシーサーをいくつか目にした。
黄色と赤の鮮やかなシーサー、こんなのを屋根に乗せて大丈夫かと心配するほど大きなシーサーなどなど。
そして、家の入口に鎮座していたのがこのシーサー。確かに魔よけの役割ならば、このほうがいいかもしれない。
それにしても、なんだかスマトラかボルネオの村のようにも見える。

奥の共同売店

そして最後には、例によって共同売店に突入。
さんぴん茶とクリームパンを買って、「前に来たときは、バスの折り返しの時間が短かったんだけど、今回はゆっくりできました」と、やはり不審者ではないことを強調。まあ、楚洲と違って奥ならば、旅行者には慣れているには違いないが。
「ああ、琉球バスの時代よね~」と、おそらく私より少し年下ではないかと思われるおねえさんは、にこやかに応対してくれた。

奥から辺土名への帰り道は、行きに使った西海岸経由の奥線ではなく、楚洲、安田、安波の東海岸を経由して、山越えをする東線を利用。この便の客は、最初から最後まで私一人。あとは、安田で荷物を運転手に託した人がいただけだった。

幸運にも、その便は、日に1回だけ、やんばるの森という研修・宿泊施設を経由するものだった。これも今回のダイヤ改正でできたコースで、途中は森また森の中を通り、カーブとアップダウンの連続。なかでも、山中にある安波ダムの堰堤の上を通っていくのには感激した。

もちろん、ヤンバルクイナがいつ出現してもいいように、目をしっかり開けていたが、視野に入ってくるのは深い森と、「ヤンバルクイナの飛び出し注意」「リュウキュウオカガメに注意」という看板だけだった。

「いやあ、楽しみました」
「なんにもないでしょう」
「そこがよかった!」
辺土名の終点で、私は興奮収まらぬ状態で運転手さんに運賃の650円を手渡したのであった。

あとは名護まで路線バスで1時間。結局、この日は都合5時間以上バスに乗ったことになる。

2015-05-16

あこがれの楚洲、そして痛恨の見逃し

辺土名からの国頭村営バスは、奥線と東線の2路線がある。
奥線は、辺土名から西海岸に沿って北上し、北端の辺戸(へど)を経て奥まで行く路線。

22年前に来たときは民間の琉球バスの路線だったが、撤退して村営のマイクロバスに変わった。
琉球バスで来たときは、目的地の奥での折り返し時間が15分ほどしかなく、大急ぎで村を半周して戻るしかなかった。それを逃すと次のバスは3、4時間後だったから。

国頭村営バス

東線は、辺土名から山越えをして、東海岸にある安田(あだ)、楚洲(そす)の集落に立ち寄って、安波(あは)で折り返す路線だった。
こちらも安波で20分くらいの折り返し時間しかなかったが、同乗した小学校の先生のご厚意で、帰りは辺土名に向かう地元の人の車に乗せてもらい、1時間半ほど滞在することができた。

だが、安田と楚洲には降りている時間がない。安田は通過して車窓から見たのだが、私の乗ったバスは楚洲は通らなかった。そう、楚洲は、まだ見ぬあこがれの集落となっていたのである。

楚洲

ところが、沖縄に着いてから知ったのだが、幸運なことに今年の4月から路線と時刻が改正になっていた!
奥線のうち1便は奥から楚洲まで延長運転となり、東線の1便も楚洲から奥まで延長されていた。

しかも、うまく乗り換えると、楚洲に40分、奥に70分~90分滞在できることがわかったのだ。
地元の人の意見を聞いて利便性を上げたと書いてあったが、私のようなマニアックな人間にもありがたい改正である。

楚洲共同スーパー

というわけで、辺土名11時30分発の奥線楚洲行きで、まずは終点までいくことにした。所要時間はほぼ1時間である。
辺土名から奥までの間に、同乗していた数人のおじさん、おばさん方が1人、2人と降りていき、奥では日野市から来たご夫妻が下車。とうとう一人になった。
奥から楚洲までは、いよいよ初体験の路線である。

途中までは林のなかを走っていったかと思うと、ところどころで東海岸の荒々しい海岸線が見えてくる。
──全然、観光地化されていなくて、おもしろいなあ。
と左側の車窓に見とれていたそのとき、40歳ほどと思われる運転手が声を上げた。

「ほら、あれ。ヤンバルクイナ!」
「えっ、どこどこ?」
「今、道を横切っていったでしょ」
「……」

楚洲共同店

海に見とれていたのが間違いだった!
私は、走る車内から必死に周囲を見回したが、見つけられなかった。
バスは無情にも、そのまま走っていくだけだった。

見られるチャンスがまったくなければ、全然気にしなかったものを、紙一重で見る機会を逃したのは非常に悔しい。
──これは、野生のヤンバルクイナを見ずに死ぬことはできないぞ。
私はそう決心するのであった。

楚洲

11時31分、楚洲に到着。
目の前に海が開けた、小さな平地に30戸ばかりの家が並んでいる。
私以外の98%くらいの人にとっては、単なる沖縄の田舎の集落にしか見えないだろうが、私にとってはあこがれの地である。そこがなんの変哲もないところでも幸せだった。

例によって、まずはバス停前の共同店に突入。
意外に広々として明るい雰囲気である。60代後半と見えるおばさまがレジのところにいた。
「バスで来ました~。前からここに来たいと思っていたんですよ」
「今月から時刻が変わったからね」
と、和やかな会話を交わすことで、さりげなく不審者じゃないことを印象づける私。

空腹なのでパンを買いたかったが、まだ配送のトラックが来ていないようでパンがない。
しかたがないので、飲み物と甘い菓子を買って、店の前の小さな広場で食べることにした。

楚洲

店内の写真を撮らせてもらったのだが、そこで見つけたのが「やんばるくいな」なる泡盛。この記事の上から4枚目の写真である。
実物を見られなかった悔しさをまぎらわせるために、この泡盛の写真を撮る私であった。
「それは空港で買うと2倍近くするわよ、おほほほ、いかが?」

うーん、ちょっと食指が動いたが、このあとずっとこの瓶を抱えて移動するのも面倒なので、残念ながらあきらめた。

楚洲

折り返しの時間まで約40分。
小さな小さな集落なので、それだけあれば4周も5周もできる。あまった時間は、小さな広場でぼんやり過ごすことにした。

それにしても、車を使っても奥までは15分、南隣の安波までは20分。自動車が普及するまでは、さぞかし移動も大変だったに違いない。船が頼りの生活だったのだろうか。
正面の海を見ながら、昔の楚洲の暮らしを想像してみるのであった。

2015-05-15

辺土名で村営バスに乗り換え

名護バスターミナルからほぼ1時間、到着したのは辺土名(へんとな)である。
ここから先は、村営バスに乗って国頭村の小さな集落へ向かう予定だ。
村営バスの発車まで40分ほどあったので、町をぶらぶら歩いてみることにした。

辺土名シャンゼリゼをゆくバス

辺土名は、1993年に来たことがある。中心部には商店や銀行が建ち並んでおり、私はここを辺土名シャンゼリゼと勝手に呼ぶことにしている。
当時撮った写真をスマホでも見られるようにしてあるので、現状とくらべてみたのだが、町並みはそれほど変わっていないという印象だ。

沖縄の地方都市は完全なクルマ社会なので、町を歩いている人はほとんど見かけないのだが、辺土名はそれでも村役場があるだけあって、たまに歩行者を見ることができた。

辺土名シャンゼリゼに残る古い民家

22年前は、辺土名の民宿に泊まった。
インターネットで宿泊施設を探すなんて想像もできない時代だったから、バスで昼前に辺土名に着いてから、飛び込みで宿をとったのだ。

その日の宿泊者は、確か3、4人。
食堂で夕食をとっているときに、いろいろと話をした。
なかに、私よりも5歳くらい年上の男性がいて、どこから来たのかは忘れたが、やんばるの森にカミキリムシを採集にやってきたのだという。
「えーっ、ハブは恐くないんですか?」と思わず聞いてしまった。
すると、にやにやしながら「大丈夫だよ」と答えてくれたっけ。ヤンバルテナガコガネなんかよりも、カミキリムシのほうがずっとおもしろいらしい。
あの人は、いまどうしているだろうか。

1993年の辺土名

これは、当時の辺土名。
背景の家や店はあまり変わっていないが、この3人の少年はもう30歳くらいになっていることだろう。
学校を卒業して那覇に出ているのか、それとも地元に残って仕事をしているか。あるいは、東京か大阪あたりにいるのだろうか。

辺土名の比嘉理容所

この写真は、辺土名シャンゼリゼの中央あたりにある味わい深い「比嘉理容所」。
昔ながらの民家の正面に看板を立てて商店としているわけで、いわば看板建築の原始的な形といっていいかもしれない。
金曜日だから定休日でもないだろうし、店はもう閉めてしまったのか。

辺土名

表通りから1本入ると、もうそこは静かな住宅街と畑になる。そして、反対側はすぐ海だ。
この場所では22年前にも写真を撮っていたが、まったく変わっていない。
建物は古いけれど、きれいな花で飾られているのが心地よい。

国頭村営バスは、村役場が表通りに面しているあたりから発車する。立派な待合室もできていた。
先客は、私と同じように名護からやってきた60代くらいのご夫婦。東京の日野市から来たとのことで、奥(集落の名前)の民宿で知人と待ち合わせているそうだ。

国頭村営バス

そして、地元の70代くらいのご婦人2人。体も頭もお元気そうで、いろいろな話をした。
話をしながら、またまた昔のことを思い出した。
──22年前にこの村営バスに乗ったときには、同乗のおじいさんと話が通じなくて、那覇から来ている小学校の先生に通訳をしてもらったっけ。

彼女によれば、「名護を過ぎると、時間の感覚がまったく変わるのよ。バスを降りるときも、那覇だとせかせか降りるけれど、こっちだと、おばあが後ろのほうからのんびり歩いてきたかと思うと、小銭をじゃらーんと床に落として、それをまたのんびり拾う、という調子」なのだそうだ。

2015-05-12

魅惑の名護バスターミナル

コザに2泊したあとの最後の1泊は、那覇にするか名護にするか、最後まで迷っていた。
でも、よく考えると、最終日は那覇空港からの最終便なので、名護を夕方に出ても高速バスで十分に間に合う。じゃあ、なるべく田舎にとどまろうということで、名護をベースキャンプにして2日間をやんばる(山原)めぐりにあてることにした。

今回の記事は、肝心のやんばるめぐりを前に、個人的に気に入っている名護バスターミナルを紹介したい。

名護バスターミナル

沖縄南インターバス停から名護行きの高速バスに乗ろうとすると、運転手が「名護行きですよ。いいですか」と心配そうに確認するではないか。ここから名護に行く観光客なんて、まずいないのだろう。出だしから気分が盛り上がってくる。

約1時間で名護のバスターミナル着。ここはもう3度目だが、いつ見てもいい雰囲気である。
──そういえば、10年前に来たときに1日3便のローカルバスに乗ったら、運転手と意気投合して、その晩に名護のカラオケスナックに連れていってもらったなあ。
なんていう楽しい思い出もよみがえってくるのであった。

名護バスターミナル

名護のバスターミナルのどこがいいかというと、まず敷地が広くて停泊しているバスの数が多いこと。しかも、それが全部見渡せるから、乗り物ファンにとっては楽しくてたまらないのだ。

私は一応鉄道好きということになっているが、バスもけっして嫌いではない。とくに沖縄のバスは鉄道の代わりのようなもので、じつに楽しいのだ。
長距離を走る路線バスはあるし、琉球バス交通、沖縄バス、那覇バス、東陽バスの4社が入り乱れて、さまざまカラーのさまざまな形式が走っているのが魅力である。

名護バスターミナル

名護のバスターミナルには、琉球バス交通と沖縄バスが乗り入れているが、その事務所がターミナル内にあって、学校の職員室みたいな雰囲気の部屋が乗客からも見えるのも興味深い。

前回までは気がつかなかったが、「がじまる食堂」という地味な食堂もあった。中を覗いてみると一昔前の社食のような様子は魅力的だったが、まだ腹が減っていないので、残念ながら入らずに終わってしまった。

名護バスターミナルの時刻表

バスターミナルに貼りだされた手書きの時刻表もまた味わい深い。
10年前の写真を見ると、路線名も手書きだったが、さすがにIT時代になって、そのくらいはパソコンから印刷するようになったのだろう。

名護バスターミナルの売店

これは売店の入口である。飲み物やらパンやらお菓子やらを売っているのだが、中は薄暗くて、なんとも怪しげな雰囲気である。
コカコーラのロゴが入った冷蔵庫に貼ってあるのは、地元の民謡研究会の発表会を知らせるポスターだ。

名護バスターミナルの売店

それにしても、店内のこの荷物の積み上げ方はなんなんだろうか。
荷物の向こう側から、おばちゃん2人の話し声が聞こえてきたところから推察するに、この荷物がおばちゃんたちのプライバシーを守る砦のようなものなのだろうと思う。

私が冷蔵庫から飲み物を取り出すと、荷物の向こう側からおばちゃんが出てきて、ちゃんとお金を受け取って、ちゃんとお釣りを出してくれた。当たり前だけどね。

名護バスターミナル

事務所前は、いわば到着ホームのような設定である。名護バスターミナルに戻ってきたバスは、ここで客を降ろして、バス溜まりに向かう。
ここにコインロッカーがあるので、私は荷物をロッカーに入れて、やんばるの旅に出ることにした。ホテルで預かってもらうほうが費用もかからなくていいのだが、バスターミナルからホテルまで歩いてまた戻ってくるのは面倒なのだ。

それにしても、写真右端に見える「ドラム缶内で雑巾を洗うな!」という標語がおもしろい。
最後の!マークが、担当者のいらだちと怒りを端的に表現している。

名護バスターミナルのネコ

さて、雑巾を洗ってはいけないドラム缶の近くでは、何匹かのネコがうろうろしていた。写真では2匹のネコが写っているのが見えるだろう。

名護バスターミナル

さて、出発時間が近づいてきたので発車ホームに移動するのだが、その前にしつこくバス溜まりを撮影。
ここは、市の中心地から離れているので、周囲にあまり高い建物がない。だから、空がやけに広く見える。遠くの山並みもすがすがしいのだ。

名護バスターミナル発車ホーム

乗り場は4つか5つに分かれていたが、それほど混雑するわけではないし、頻繁にバスが出るわけでもない。残念ながら、10年前、22年前に来たときよりも、本数は3割減くらいになってしまっていた。
そんなことを懐かしみながら、ぼんやりと北に行くバスを待つ私であった。

名護バスターミナル発車ホーム

やがて、やってきたのは9時50分発の67系統辺土名(へんとな)行き。
辺土名は国頭村(くにがみそん)の中心地。村役場がある町である。
名護から辺土名まで約1時間。沖縄北西部の海岸に沿って走っていく。

2015-05-11

コザの南北問題

平敷屋から疲れ切ってバスに乗り、さあ今度こそホテルで一休みするつもりだったが、また貧乏根性が湧いてきた。
1993年にコザ十字路で撮った写真と同じ場所で、現在の写真を撮ってみようと思いついたのだ。
コザ十字路は、コザの中心部から北東寄りにある交差点である。

その写真というのがこれ。コザ十字路の北西側から南東方向を撮ったものだ。

コザ十字路1993年

すでに1990年代になっており、沖縄の町もずいぶん変わっていたので、那覇やコザの市内ではあまり写真を撮っていなかった。そんななかで、写しておいた数少ない写真の1枚がこれなのだ。

さて、それと同じ場所の現在の姿が下の写真。

コザ十字路2015年

以前の味わいのある建物は姿を消し、どこにでもあるような郊外の風景になってしまった。
まあ、22年もたったからしかたがない。それしても、もっと当時の街並みを撮っておけばよかった。

コザ十字路のすぐ近くには「銀天街」というアーケードがある。沖縄市がコザ市だったころには賑わっていたという商店街であるが、残念ながら現在はシャッターの閉まったままの店が多い。

20年以上前だったか、商店街の活気を取り戻そうと。テレビ番組とタイアップしたことがあったっけ。
10年前に来たときは、その関係なのか、商店街の真ん中に和田アキ子の像がドーンと派手に建っていたのを見た。

銀天街入口

はたして、現在はどうなっているのか。中を歩いてみるべきだったが、道路の反対側から見ると、営業している店が見えず、薄暗い。交差点まで戻って横断歩道を渡るまでの気力が湧いてこなかった。
ただ、周辺の商店の壁をペインティングしているところをみると、いろいろと試行錯誤しているのだろう。頑張ってほしいものである。無責任な旅人の感想にすぎないけど。

その代わりといってはなんだが、歩いて向かったのは銀天街とは反対側の丘にある越来城跡。越来は「ごえく」ではあるが、ウチナーグチの会話では一般的には「ぎーく」と発音するようである。民謡の「職業口説(くどぅち)」にも出てきたっけ。

越来城跡からの眺め

越来城跡はこぢんまりとした公園になっていて、コザの市内(正しくは沖縄市内だけど……)を見渡すことができた。
那覇が大都会になったことは、モノレールの車内からもわかるが、コザもまた大きな都市であることを実感する。

さて、今度こそホテルに戻って……と思ったが、そこでその日の朝にホテルの旦那から聞いた話を思い出した。
「南のパークハウスの先に、大きなイオンのショッピングモールができたんよ。グランドオープンは25日からだけど、もう昨日(22日)からプレオープンしてるから行ってみたら?」
「へえー、プレオープンって、誰でも入れるの?」
「地元の人には招待状が届いたけどね。大丈夫、誰でも入れるよ」

越来の坂道

そのときはさして興味もなかったが、ローカルニュースではどこもトップ扱いである。
まあ、ホテルから南へ1.5kmほど。国道に面していてバスでも行けるという。ものは試しと訪ねてみることにした。
招待状がなくても大丈夫かなと思ったが、そんなに人が集まるところで、沖縄の人がいちいち入口で招待券をチェックするわけがないと信じた。いや、けっしてけなしているんじゃなくて、ほめているんですよ。念のため。

行ってみると、それはそれは城砦のような大きな建物。
なかに入ると、プレオープンというのに、館内には多くの人が集まっていた
食事処、ファッションの店、そして大きな書店などなど。あんな立派で品揃えもよい書店は、東京でもそんなにあるものではない。
沖縄ならではの品もあって、地元の人も観光客も楽しめるようにできていた。
「中国人の観光客も見込んでいるらしいよ。那覇から観光バスで直行するっていうから」というホテルの旦那の話も本当らしい。
こんなものができたら、銀天街はひとたまりもないなあ、としみじみ感じてしまう。

ライカムのイオンモール

腹が減ったのでなにか食べようと思ったが、食事処はどこも東京で聞いたことがあるような店ばかり。これじゃしょうがないと帰ろうと思って館内案内図をみたら、オリオンビールのビアホールを発見。
結局、この日の夕食は、ここですませることにした。

オリオンビアホール

ところで、ショッピングモールは、沖縄市ではなく南隣の中城町に位置している。聞くところによると、ここは米軍のゴルフ場があったところだそうで、なるほどと思った。
そのゴルフ場の名前にちなんで、ライカムのイオンショッピングモールと呼ばれているらしい。
それにしても、このショッピングモールの文化的影響と経済効果は大変なものになるだろう。

そして、どこかの人が書いていたことの受け売りになるが、こうした施設の成功が続くことで、米軍基地がなくなっても沖縄は経済的に困ることはないと確信できたという。
沖縄の現状を知らない人は、いまだに「沖縄の人は基地がなくなったら、経済的にも困るだろう」などと言っているが、けっしてそうではないことが、すでに北谷でも証明されているし、ここでも証明されるだろう。
一抹の不安をもっていた沖縄の人もいただろうが、こうした成功が続くことで自信につながるに違いない。

だからどうしたと言われても困るが、普天間基地が返還されて、あの土地が再開発されたら、どんなことになるのかぜひ見てみたい気がする。
もっとも、普天間返還には辺野古の問題がからんでいるので、一筋縄ではいかないのだが……。


2015-05-09

平敷屋のぶらぶら歩きと「ハロー」

日焼け止めを忘れたまま、ハードな与勝諸島めぐりをしたもので、そのままホテルのあるコザに帰って一休みしようかと思ったが、ちょっと考え直した。
せっかくここまで来たのだから、見られるものは見てしまおうという貧乏根性が頭をもたげてきた。

すでに、狭い道の両側に赤瓦の家が並ぶ与那城の町は歩いているし、世界遺産にもなった勝連城にも登っている。
10年前のことで、与那城町、勝連町、具志川市、石川市が合併してうるま市が発足する直前である。
そのときのブログ記事はここ

そこで、今回は津堅(つけん)島への船か出ている平敷屋(へしきや)あたりをぶらぶらしようと考えた。
まったくの思いつきだが、港があるのだから、何かおもしろい発見があるかもしれないというわけである。

屋慶名バスターミナル

まずは、島めぐりのマイクロバスの終点であるJA与那城から、屋慶名(やげな)バスターミナルまで500mほど歩く。
JA与那城のすぐ前にもバス停はあるのだが、せっかくだから終点から乗りたいのだ。

バスターミナルに来て、ちょっとびっくり。
10年前はひっきりなしに出ていたバスなのだが、いまは1時間に3本程度。
広いバスだまりにも、3、4台のバスが停まっているだけだった。

平敷屋

平敷屋までは10分弱くらいだったか。
港はバス停からすぐかと思ったら、やけに遠い。
疲れている身に、さらに20分ほどの徒歩はつらい。行きは下りだからいいのだが、帰りが思いやられた。

ちょうど坂下にある小学校の下校時刻だったのか、子どもたちが三々五々坂道を登ってくる。
私は、不審者や変質者と思われないように注意しつつ、風景を撮るふりをして、こっそり子どもたちをファインダーの隅に入れて写真を撮ったのであった。

平敷屋港

平敷屋港は、漁港に隣接していて、いかにも沖縄のローカル港という好ましい雰囲気。
1日にフェリーが2便、高速船が2便就航しているようで、これならコザに泊まっても日帰りが可能だ。
写真の左に見えるのがフェリーで、その手前に見える小さな船が高速船である。

右側には小さな平屋の待合室が見える。
ちょうど、最終便の40分ほど前とあって、待合室には乗客と関係者と見える人たち4、5人ほどがいた。

しかし、その人たちのしゃべっていることが、まったくわからない。
ウチナーグチといっても、那覇弁や首里弁ならば、地元の人どうしの会話でも、何を話しているかくらいはわかることが多い。
だが、このことばはまた別物だった。語尾が不明瞭で、全体がもやもやとしていて、どこが単語の切れ目かもわからないというありさま。
まあ、こんな経験ができるから旅は楽しいのだ。

平敷屋港待合室

待合室のポスターを見ると、津堅島の民宿の宣伝もあって、見ていたら行きたくなってきた。
最近は、ニンジンの栽培が盛んなようで、キャロットアイランドという愛称があるのだそうだ。
もちろん、民宿ではとれたての魚がたらふく食べられるとのことで、やっぱり日帰りじゃなくて泊まりのほうがいいかもしれない。

平敷屋バス停への帰り道は、行きとは別の道を通ることにした。
まあ、別の道を選んでも、上り坂であることは間違いない。
──なんで、わざわざこんな苦しい旅をしなくちゃならないんだろう。
そう嘆きつつも、いい被写体を逃すまじと、ひいこらいいながら坂を登る私であった。

平敷屋

そして、この古い商店を撮ろうとしたときのことである。
道端でしゃがみこんでいた中学生らしき3人のうちの1人が声をかけてきた。
「ハロー」

──なんだ、こいつは。大人をからかっているのか!
と思ったが、温厚な性格の私はにっこり微笑んで、「こんにちは、いい建物だね」と答えたのである。

それだけのやりとりである。だが、なんかしっくりこないものがあった。
帰りのバスで考えたのだが、もしかするとあの子たちは、私のことを本気で日系米人とでも思ったのかもしれない。
──沖縄の人間でなさそうなのはすぐにわかるし、本土の人間にしては派手なシャツを着て、日焼けで真っ赤な顔をしている。そもそも、こんな町に歩いてやってきて、写真を撮るような酔狂な人間が、日本人にいるわけない。米軍にいる日系人じゃないのか。
そういう結論に基づいた結果が、あの「ハロー」だったのか?

そういえば、20年ほど前、インドに行ったときのこと、真っ黒に日焼けして、現地で買った派手なシャツを着て町を歩いていたら、道端で商売をしているインド人から「カトマンドゥ!」と声をかけられたことが二度ほどあったっけ。
「こいつら、何をいっているんだ?」と思いつつ「やあ」なんて返事をした私だったが、よく考えてみると、ほんとうにネパール人だと思われていたのかもしれない。
あそこには、日本人みたいな顔をした少数民族がいるからね。

そんなことを、ふと思い出した平敷屋の夕暮れであった。

2015-05-08

神様の住居跡と墓がある:浜比嘉島

宮城島からまたバスに乗り、平安座島を経由して浜比嘉島へ。
バスは上り下りとも、本島-平安座島-宮城島-伊計島というメインルートからいったん外れ、浜比嘉大橋を渡って浜比嘉島に立ち寄る。

浜比嘉島には、海沿いに浜、比嘉、兼久(かねく)という3つの集落がある。
平日7往復のうち5往復は、島の北西部の浜、北東部の比嘉の2つの集落だけに寄って平安座島に戻るのだが、2往復だけは島の南にある兼久まで行く。
そして、私が宮城島の新里商店前で13時8分に乗ったバスは、まさにその兼久まで行く便であった。

シルミチュー入口

せっかくなら端まで行こうという軽い気持ちで、兼久まで乗っていくことにした。
次に上りのバスがやってくる2時間以内に、比嘉か浜に戻らなくてはならないが、遠いほうの浜までも距離は3km程度だから楽勝である。
ちなみに、私が乗ったときの乗客はゼロ。途中で年配の男性が2人乗り込んできた。

シルミチュー

兼久で私がバスを降りると、50代と見える善良そうな運転手さんが心配そうに「帰りは……」と言うので、「歩いていくから大丈夫」と答えた。
すると、安心したように、「シルミチューはこっちをまっすぐ」と教えてくれた。

ここで白状しなくてはいけないのだが、偉そうにこの記事のタイトルに「神様うんぬん」と書いたものの、ここに着くまでシルミチューが何かも知らなかった。
運転手にしてみれば、「バスを使ってまでシルミチューを見に来るとは、なんと熱心な観光客なのだろう」と思ったに違いない。

兼久集落と漁港

この浜比嘉島は、琉球開祖の神とされる女神アマミキヨ(アマミチュー)と男神シルミキヨ(シルミチュー)が住んでいた島という伝説があるのだそうだ。本土でいえば、イザナギ・イザナミにあたる。
アマミキヨが琉球開祖の偉い神さまというところまでは知っていたが、不覚にもシルミキヨは知らなかった。

ここまで来たのも何かの縁かと思って、林のなかを歩いてくと階段があった。
そこを登ると、いかにもおどろおどろしい場所が……。これが二神の住んでいたという霊場シルミチューだ。
トップの2枚の写真がそれである。
本格的に礼拝をする人は、鍵を借りて柵の奥にある場所に行くようになっている。

比嘉集落の赤瓦の家々

シルミチューへは無料で行けるのだが、これとは別に、シルミチューのある山上の展望台に、有料で登れるようになっていた。
管理人である地主さんの家は休憩所となっていて、奥からおばさんが出てきた。
「300円いただきます。これは飲み物代が入っているから帰りに寄って飲んでいってね」とのこと。
きれいに手入れされた庭を横切り、急な斜面の岩場を最後は鎖を頼りに頂上に登った。
そこからの眺めが3枚目の写真である。

展望台からの帰りに、休憩所でマンゴージュースを飲んだのち、併設されていた土産物の部屋を覗いてみた。
すると、そこには水晶をはじめとした鉱物の数々が。
見事な結晶もあって、「これは珍しいよ」とおばさんに言われるのだが、見ている分にはいいものの、個人的にこうしたものにはあまり購入意欲が湧かない。
「パワーストーンのアクセサリーもありますよ」と勧められたのだが、丁重に辞して店を出た。

比嘉集落から見た平安座島

兼久で意外と時間をとったので、あとは早足で比嘉、浜の両集落へ。
この写真は、比嘉集落の付近から平安座島を見たところである。
左に見えるのが浜比嘉大橋だ。
平安座島の上や右あたりをよく見ると、大きなタンクのようなものが見えるだろう。
これが、備蓄用の石油タンクである。

「最初は賛成の人も反対の人もいたけどね。最後は金を積まれて賛成ということになったわけ」
翌朝、私が与勝諸島に行ってきたというと、コザのウエスタンホテルの主人は、こう説明してくれた。
地図で見ると、島の4分の3近くが石油基地となっているのがわかる。
おそらく、海中道路はその見返りなのだろう。

浜集落の家

「オレが高校生のころは、まだ橋がなくてさー。そのころ平安座島で大きな火事があって、みんなで見に行こうということになったんよ。でも、その日は船が終わっていてさ、次の日に船で行ってみたら、もう火事は消えていたわけ」
40代と見えるウエスタンホテルの主人は、当時をこう述懐した。

ところで、比嘉集落近くの海岸には岩場があって、そこにアマミキヨとシルミキヨの墓がある。
でも、この二人……というか二神というか二柱は神様である。
ということは、そこには神様の遺体や遺骨が納められているのか?
そもそも、神様に墓があるものなのか?
不思議でならないが、そこがまた興味深い。

浜集落

浜比嘉島にはリゾートホテルが1軒あるが、全体にのんびりとした雰囲気である。
かつては農業が盛んだったということだが、現在は漁業と水産加工業がメインの産業である。
とくに、もずくの生産はかなりの量にのぼるようだ。
浜の漁港の前には、こんな店もあった。
もずく直売店だから「もずく家」というストレートなネーミングが心地よい。

こうして、伊計島、宮城島、浜比嘉島の3島を濃密にめぐり、かなり満腹になって、しかも疲れたので、平安座島には立ち寄らずに帰ることにした。
奥のほうの島を先に行っておけば、次回は手前の島に行くだけでいいので楽だという理屈である。

2015-05-07

丘の上の集落:宮城島

与勝諸島の4つの有人島は、それぞれ特徴があるのがおもしろい。
伊計島の手前にある宮城島は高低差があって、台地の上や斜面に集落がある。
南部にある桃原漁港こそ低地に位置しているが、北部から中央部にある池味、上原、宮城の集落は、比較的高い場所にある。
もしかすると、津波を避けて高い場所に集落をつくったのかもしれない。岩手県気仙沼市の沖合にある大島もそうだったなと思い出す。

宮城島池味

そんな集落の一つを、カメラを持ってぶらぶらしていると、三人で立ち話をしていたおしゃれな中年女性の一人に声をかけられた。
「写真を撮りにいらっしゃったんですか?」
いや、歩いて自分の目で見るのが大切であって、写真はあくまでも補助的な記録なんです……などと理屈を述べてもしょうがないので、「はい」と答えた。
「伊計島から歩いてきました」
「えー! これからどこへ?」
「ぶらぶらして、バスがまた来たらそれに乗って……」

宮城島の馬

まあ、バスに乗ってやってくる観光客など、ほとんどいないのだろう。にこやかではあるが、珍しいものでも見るような顔つきであった。
「写真を撮るなら、この道を曲がれば見晴らしがいいですよ」という教えにしたがって撮ったのが最初の写真である。
宮城島の北端にある池味集落だ。

宮城島上原

池味から小さな小さな尾根を一つ越えると、すぐに上原の集落になる。
ここが、宮城島の中心地といっていいだろう。
簡易郵便局、小さな商店、さしみ屋、小学校もある。ちなみに、さしみ屋というのは、本土でいう鮮魚店である。

池味から上原に向かう途中には、なんと馬がいた。
畑仕事に使われているのだろうか。私が近くを通っていても、顔をちらりと見ただけで、とくに興奮することもなく関心を払うこともなかった。2枚目の写真である。

宮城島上原

上原にある新里商店には、5月2、3日にこの島で開かれる「たかはなり市(いち)」のポスターが貼られていた。
高離島というのは、宮城島の古称である。
たかはなり市は、与勝諸島4島の物産を集めて販売する市のようで、本島からも人がやってきたことだろう。
真っ昼間にこの島をぶらぶら歩いていても、ほとんど人と会わないのだが、そのときに来れば、もっと地元の人と出会えたに違いない。

宮城島上原、新里商店

笑ってしまったのは、その市が開かれる会場の地図である。
郵便局や商店が示されているのは当然として、会場への曲がり角に「馬」とあった。
「はて……馬?」と2秒ほど考えてわかった。さっきの馬である。
地元の人には、「馬」だけで、もう場所がわかってしまうのだろう。
もっとも、本島から来る人たちがそれで理解できるのかどうか……。

宮城島上原

比較的大きな上原集落を一周しているうちにバスの時間となった。
マイクロバスは新里商店前の狭い道に停まることになっている。

私は新里商店で、ペットボトル入りの「さんぴん茶」とパンを買い込み、写真を1枚撮らせてもらった。
笑顔が素敵なおじさん、いやお兄さんだった。

2015-05-04

バスで「海中道路」とその先へ:伊計島

2日目は、以前から懸案だった与勝諸島を目指した。
沖縄中部、うるま市の東側に浮かぶ平安座(へんざ)島、宮城島、浜比嘉(はまひが)島、伊計(いけい)島の有人4島である。
現在は、本島の与勝半島から橋でつながっており、とくに平安座島への橋は長く、まるで海の中を走っているように感じられるので、「海中道路」と呼ばれている。

「えっ、海の中をトンネルで走るんですか?」と、翌日某所で東京から来た人とその話題になって、びっくりされた。いわれてみれば、確かに海中道路はおかしい。正しくは海上道路なのだが、それではインパクトが足りないのだろう。

伊計島共同スーパー前

宿泊地のコザから屋慶名(やげな)行きのバスで約1時間、終点近くのJA与那城前で下車し、JA敷地内から出るうるま市有償バスに乗り換える。

これは、市が平安座総合開発に委託しているもので、マイクロバスが平日7往復、休日6往復して、4つの島を結んでいる。

伊計島共同スーパー

やはり、「まずは終点まで乗らないと」ということで、一番奥にある伊計島まで乗り通した。
500円、46分の旅である。

乗り込んだのは私を含めて3人。終点の伊計島共同スーパー前まで乗り通したのは私一人だった。
ところで、共同売店、共同スーパーというのは、地元の人たちが、文字通り共同で運営している店のことで、沖縄の田舎や離島に行くと、まだまだ見かけることができる。

今回の旅では、「共同売店を見つけたら、必ず店に入ってなにかを買い、ずうずうしく店内の写真を撮る」ということを旨とした。
その1枚目が上の写真である。

伊計島

ちょっと早い昼飯代わりにパンと飲み物を買い、「すみません、写真を撮っていいですか?」とひと言。
そんなことを聞かれるとは思わなかったのか、一瞬のためらいがあったようだが、「いいですよ」と答えてもらった。
おしゃべりをしている近所のおばちゃんを入れたら失礼かと思ったが、広角レンズの端っこに収めてしまった。

伊計島

それにしても、沖縄は真夏の日射しである。
帽子とサングラスは持ってきたのだが、うかつなことに日焼け止めを忘れてしまった。
「まあ、まだ4月だし大丈夫だろう」なんて思っていたら、夜になって後悔することになった。

前回の記事までは、渋い町並みの写真ばかりだったので、今回はとくにサービスカットである。
いかにも沖縄らしいイメージの写真を選んでみた。

伊計島

伊計島の集落は島の南部に集中している。
北部にはリゾートホテルがあるのだが、そこまではバスが行かないし、行ってもしかたがないので、次のバスまでの2時間で、隣の宮城島に歩いて移動することにした。

もちろん、行きのバスのなかから、道をしっかりと確認していた。
とくに分かれ道では、目印をしっかりと頭に入れておかないと、あとで面倒なことになる。

伊計島

ところで、伊計島には島北部のリゾートとは別に、島の南端にも砂浜がある。
小さな駐車場や売店もあって、ささやかなビーチである。(上の写真は、そのビーチの反対側)
本土からの観光客向けというより、地元のうるま市、あるいはコザや那覇市からの日帰りの人が大半ではないかと思う。

伊計島

平日ということもあって、ビーチにいるのは20人ほど。
どちらかとうらぶれた雰囲気が好ましい。
そして、スピーカーから流れているのは、サンバやボサノバであった。

個人的には、沖縄民謡のほうが合っていると思うのだが、地元の人にとってはそれではあまりにも日常的すぎるのだろう。
せっかく、海までやってきたのだから、非日常を演出してもらいたい、演出してあげたいという気持ちはわかる。でも、このこぢんまりとしたビーチに、サンバはやっぱりしっくりこないんだよなあ。

カラリと晴れた空の下、そんなことを考えながら、だんだんと遠ざかるサンバの音に送られて、私は宮城島に通じる短い橋を歩いて渡っていったのである。

2015-05-03

コザのクラシックな町とホテル

コザの宿泊は、中心部から南寄りにある園田(そんだ)のウエスタンホテル。
2、3週間前、ネットでホテルを探していると、平日なのにコザのホテルが軒並み満員になっていたのが不思議だったが、その理由はあとになってわかる。

園田あたり

ホテルの近くには、民謡酒場の「姫」がある。
ここは、まさしく沖縄民謡の"姫"である我如古より子さんがやっている店だ。
夜遅い沖縄(とくにコザ)の店にあって、24時閉店という健康的な店である。
前回は、その後に男性の唄者(歌手)である久志さんと意気投合して、隣の居酒屋で4時ごろまで飲んでいたのが楽しい思い出である。

園田あたり

今回も「姫」を訪ねようと思っていたが、どうやら当日はご本人が不在なようだし、翌朝は早起きして遠出とシビアなウォーキングをしようと思っていたので、残念ながらあきらめることにした。

さて、ホテルのある園田あたりは、道幅が広く高い建物も少ない。おまけに電線も地中化されているので、かなり空が広く見える。ちょっと日本離れした光景だ。

なかでも興味深かったのが、上から2枚目のワールドツーリストの建物。
確か20年くらい前までは、那覇の国際通りの南端あたりにも、同じように飛行機を描いた小さな建物があったように記憶している。
那覇の町ももっと写真を撮っておけばよかった。
すでに、新しい建物への建て替えが進んでいたころだったが、まさか現在のように高層ビルが建ち並ぶ町になるとは想像もしなかった。

ウエスタンホテル入口

さて、ウエスタンホテルの入口を入って、階段で2階のフロントに上がると、そこはこんな感じ。
20年くらい前の旅を思い出す。
旦那は40代後半から50代といった感じのさばけた人で、昔の沖縄とコザの話がほろ苦くも楽しい。

ウエスタンホテル

2年前から三線をはじめたそうで、部屋からもその音が聞こえた。
だが、少なくとも、10年前に私が稽古をしていたころのほうが、ずっとうまかった。
あれからずっと稽古を続けていれば、彼を驚かすことができたのにと思うと残念でならない。

ウエスタンホテル

部屋もまた、よき時代のホテルである。
もちろん、バストイレがついていて、朝はコーヒーとトースト、ゆで卵が用意されて1泊4300円だから、もう十分である。
道路に面しているので、宵の口はうるさかったが、2日目になったらもう慣れた。

2015-05-02

謝苅を歩いてみた

旅先で路線バスに乗って楽しいのは、その土地の特徴ある地名である。
沖縄では、その感動もまたひとしおだ。
那覇から20番のバスで初めて名護方面に向かったとき、とくに印象に残ったのは2つの地名である。

1つは、浦添市にある「勢理客」。
ワンマンバスの電光掲示板に「勢理客」と表示されて、「次はじっちゃく」というアナウンスが流れたときは、さすがに驚いた。だが、尊敬すべき半田一郎東京外国語大学名誉教授・琉球大学教授に琉球語の手ほどきを受けていたおかげで、次の瞬間に「なるほど」と納得した。

言語学の話になるので詳細は省くが、母音のなんとか化や子音のなんとか化などによって、
「せりきゃく」→「しりきゃく」→「しりちゃく」→「じっちゃく」と変化したのだろう。
まあ、「勢理客」自体が当て字だろうから、最初の読みが正確に「せりきゃく」だったかどうかは、わからないが。
ちなみに、別の場所では、同じ字で「せりきゃく」と読む地名もあった。

謝苅入口バス停

もう1つは、今回のぶらぶら散歩先である「謝苅」である。
女性の声で「次は、ジャーガル入口、ジャーガル入口」というアナウンスを聞いて、心がわくわくした覚えがある。

漢字を見ると「謝苅」である。「じゃがる」ではなくて「じゃーがる」というおっとりとした、多少の間延びのした音に魅せられて、いつかは入口ではない真正「謝苅」に行ってみようと思うようになったのである。

謝苅二区バス停

謝苅入口からコザ方面行きに乗り換えると、バスはヘアピンカーブの道を、丘の上に向かって進んでいく。
謝苅の町は、かなりの高度をかせいだところにあった。
さて、どういう町だったかといえば、たぶん私以外のほとんどの人間なら、なんの変哲もない町だったと答えるに違いない。
でも、私にとって、初めて行く町というのは、どんな町でも楽しいのである。

謝苅二区のバス停で降りると、歩道のない道を歩いていくしかない。しかも、国道58号線からコザに向かう道だから、交通量は多くてかなり危ない。

謝苅公園からの眺め

少し歩くと、公園があって展望台が設けられていた。
そこは、北谷の町が一望できる特等席だった。
列をつくって、くねくねと登ってくる車もよく見える。

謝苅公園からの眺め

真西に面しているから、夕焼けはさぞ美しいだろう。
この日は晴れたりくもったりだったから、あまり夕焼けは期待できなかったが、それでもあと1時間半ほどいれば、日没は見られたかもしれない。
しかし、日が沈んでから町歩きをしてもおもしろくなさそうだし、なによりも交通量の激しい道を歩くのは危険である。
再び坂を登ることにした。

謝苅一区

あちこちで、道路から住宅地に入る分かれ道がある。
そんななかで、雰囲気のある道に入ってみた。
うっそうと茂った木々のあいだに、ぽつりぽつりの昔ながらの家があって、車がひしめく車道から見ると、ちょっと別世界である。
住宅地をしばらく進むと階段があって、車道に戻ることができた。

車道に戻ると、ぶらぶら散歩を楽しんでいた私の目に、大きな看板のイラストが飛び込んできた。
なんと、このくねくね道を整備して、カーブの少ない広い道路にしようということらしい。

はたして、そのときにこのひそやかな住宅地はどうなるのだろうか。

150502f

くねくね道がようやく平らになったあたりに「団地入口」というバス停があり、鳥居が目に入った。
奥には拝所(うがんじゅ<おがみしょ)があった。本土でいえば鎮守の森にある神社のようなところである。

そして、拝所の向かいの眺めのいい場所には、上の写真のような「平和之塔」なるものが立っていた。
そして、そのそばの碑には、さきの戦争においてこの町で亡くなった人の名前が記されていた。
見ると、1つの集落で何十人から何百人という人が死んでいる。
ここでもまた、いくら想像しても、したりないほど、すさまじい地上戦があったのだ。

坂をひたすら登った疲れもまじって、大きなため息をつくしかなかった。

2015-05-01

那覇:再開発が進む開南本通り

姿を変えようとしているのは、農連市場だけではなかった。
農連市場を含む開南地区全体が再開発の対象となっていたのである。

開南は、那覇中心部の南東側に位置しており、いかにも那覇の下町といった風情の町である。
どことなく、台北の下町や基隆にも似ているような気がする。
最近は、那覇に来るとこのあたりをぶらぶらするのがお決まりの散歩コースとなっていた。

開南バス停

とくに気に入っているのは、開南交差点から南に走る開南本通り。
狭い道には、ひっきりなしに大型のバスが行き来し、その両側には、戦後まもなく建てられたと思われる古めかしい木造商家や味わい深いビルが建ち並んでいる。
那覇は8年ぶりだったので、どうなっているかと心配していたが、農連市場から通りに出てみると、意外なほど変わっていなかったのでほっとした。

開南本通り

そう思ったのも束の間、家が取り壊されて更地になった場所を見ると、その更地の上に新しく歩道ができているではないか。
これが何を意味するのかというと、それまで建物があったところまで車道が拡幅されるということである。

開南本通り

まあ、建物の入れ替わりがあるのはしかたがない。
それで、町の雰囲気がすっかり変わるときもあるし、昔の面影を残す場合もある。
だが、道路が拡幅されて、町が再開発されてしまうと、もう昔を偲ぶよすががなくなってしまうことが多いのだ。

開南本通り

残念ではあるが、地元がそれを選択したのだからしかたがない。
たまにやってきて散歩するだけの旅行者があれこれ言う資格はないのである。

通りを歩いてよく見ると、古い建物が残っていたのは、もう農連市場の入口周辺だけ。
開南交差点の近くは更地になっており、農連市場よりも南側の通りは、道路の拡幅がだいぶ進んでいた。

開南本通り

「もうここに来るのも最後かな」などと思いながら、ひたすら写真を撮るしかなかった。
いや、ここにはあともう一回足を運ぶかもしれない。そのときは、昔と今との定点観測の対照写真を撮るときだろう。

じつは、安里や牧志あたりも再開発が急速に進んでいて、幸か不幸か対照写真のネタは尽きないのである。

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著書

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  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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