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2013年12月の11件の記事

2013-12-29

三陸縦断の旅10: 田野畑から久慈へ 北リアス線の車窓

小本から田野畑までの振替バスは約30分の道のり。
ここで、この日4回目の乗り換えにして、最大の1時間7分という待ち合わせ時間となる。

田野畑駅前

とはいっても、駅の付近には岬に囲まれた平井賀という小さな集落があるだけ。町の中心部はここから4kmほど内陸の国道45号線沿いにあるらしい。また、リアス式海岸の豪快な様子が眺められる北山崎は、ここから海岸沿いに10kmほど北上しなくてはならない。20年前に行った当時は路線バスがあったと記憶している。

平井賀集落

結局、1時間あまりを駅周辺でぶらぶら過ごすのだが、そこで目にしたのが上の光景。
一瞬、「水門の上に三陸鉄道の車両が保存されている?」と思ったが、よく見ると水門の上の構造物(管理用か?)に色を塗ったものだった。ややデッサンは狂っているが、うまく窓の配置が合っていてユーモラスだ。
写真の右側が海、奥が平井賀の集落。これもよく見ると、ある高さより下の部分に更地が広がっている。海抜でいうと10~15mくらいだろうか。

田野畑駅

同じバスに乗ってきた10人ほどの客の大半は、同じようにぶらぶらと1時間を過ごし、ようやくやってきた久慈行きの折り返し列車の客となった。
久慈からの列車にはかなりの乗客が乗っていて、ほぼ全員が小本行きのバスに乗り換えていった。どうやら、その多くは大人の休日倶楽部パスの利用者のようだ。

堀内駅

田野畑を15時52分に発車した列車は、途中の堀内駅で3分ほど停車。ここは、NHKの朝ドラ「あまちゃん」に袖ヶ浜駅として登場した駅とのこと。海の眺めがいいし、3分の停車は乗客サービスである。
私は、けっして「あまちゃん」は好きではないのだが……というよりどちらかというと苦手なのだが、妻が毎朝テレビをつけてしまう。だから、いやでも耳に入ってきたもので、概要とあらすじはほぼ知っている。

堀内駅の車窓


生来のへそ曲りの性格なので、そのまま車内にとどまってもよかったのだが、せっかくの乗客サービスである。
夕暮のホームに降りて、バーチバチ写真を撮ったのであった。
上の写真は、ちょっと気取って「車窓風景」らしくしてみた。

鉄橋の上から


堀内駅を出るとまもなく、「当線で一番高い橋です」との放送があって、今度は橋の上で30秒ほど停車。
海側の景色もよかったが、山側の景色もまた上等であった。窓をちょっと開けて撮ったのがこの写真である。

久慈には16時40分着。8分の待ち合わせでJR八戸線に乗り換え。この日最後の乗り換えである。そこからまた1時間40分ほどかけて、八戸市の中心部近くにある本八戸駅へ。
結局、この日は釜石から本八戸まで乗り換え5回、待ち合わせ時間を含めて約7時間50分の旅であった。

2013-12-28

三陸縦断の旅9: 宮古~小本 北リアス線の車窓

三陸鉄道北リアス線の宮古駅は、JR宮古駅に隣り合って建っている。
もちろん、JR宮古線だった当時は同じ駅から発着していたのだが、第三セクター化されたことで駅舎も別になったわけだ。線路は駅構内でつながっている。

三陸鉄道宮古駅

駅舎の中は、まるでおもちゃ箱のようにいろいろなものが置かれていた。
社員の女性が一人忙しそうに接客しているのだが、これは駅舎内で売っているパンやお土産の販売のため。切符は自動販売機で買うことになっている。
昼飯を食べる時間もなく移動してきたため、ここで菓子パンとお茶を買って乗り込んだ。

三陸鉄道宮古駅

じつは、切符を買う段になって気がついたのだが、大人の休日倶楽部切符は三陸鉄道も自由に乗れるのであった。それを知らずに、南リアス線では盛~吉浜の切符を購入していた。
損した! と一瞬思ったが、すぐ思いなおした。
「そうか、だからあのときの運転士さんは、わざわざ乗車証明書なんてくれたのかも」
そして、不通区間の開通に向けて奮闘している三陸鉄道に少しでも寄与できたと考えれば安いものである。
もっとも、だからといって北リアス線の切符も別途購入したかというと、そこまで太っ腹ではない残念な私であった。

一の渡(いちのわたり)駅

宮古を発車してトンネルを抜けるとすぐに山口団地駅。このあたりまでは市街地なのだが、まもなく車窓は人家もまれな林に入る。
上の写真は、一の渡(いちのわたり)駅。駅のそばに家が一軒あるのは見えたが、周囲はそれだけという秘境駅っぽい駅である。思わず降りたくなる衝動にかられたが、それでは八戸に着くのが真夜中になってしまうので自重。

摂待駅付近の車窓

運転席の真後ろに立って外を眺めるのも楽しいが、最後尾(といっても1両だけの列車)の窓から外を眺めるのもおもしろい。ワンマン列車だから車掌が不在で気兼ねがいらない。
そうして何枚か車窓の写真を撮った。上の写真は、たぶん田老(田老)~摂待(せったい)間だと思う。田老~普代は1984年に三陸鉄道となってからの開通区間なので、レールも線路敷もこんな感じでしっかりしている。

あの3月11日、大津波のニュースを聞いたとき、すぐに私が思ったのは、「あの万里の長城と呼ばれた田老の防潮堤は役に立ったのか?」ということだった。以前の田老町長が、周囲の非難や嘲笑にもめげず、定期的に襲われる津波から町民を守るために、かなりの予算を使って立派な堤防をつくったというエピソードは有名である。

北リアス線の車内

だが、残念なことに防潮堤を越えるほどの、想定をはるかに越える津波がやってきた。
それでも、津波が町内を襲う時間稼ぎにはなったかもしれないという意見がある一方で、防潮堤があることで安心してしまって逃げ遅れた人が増えたという証言もあるとのこと。
かくのごとくに災害対策というのは難しいものである。ハードの整備はもちろん必要であるが、それだけではどうにもならないことがわかる。

小本駅


などと思いを巡らしているうちに、列車は13時53分に小本着。ここから先、田野畑まではまだ不通なので列車はここまで。この区間は岩手県北バスの振替輸送になっている。
小本駅のホームから先を見やると、トンネルの手前に車両が停まっているのが見えた。

小本駅


バスは小本駅前の広場から発車。この日、3回目の乗り換えである。
田野畑に向かうのは奥に停まっている大型バス。手前の中型バスは、龍泉洞や岩泉駅に向かう岩泉町民バスである。

2013-12-25

三陸縦断の旅8: 釜石~宮古 山田線振替バス

釜石市内を散歩したのち、この日はまずバスで宮古に向かう。三陸沿岸を走るJR山田線の代替バスである。約50kmを乗り換え1回、2時間で結んでいる。
10時50分釜石駅前発の岩手県交通バス「道の駅やまだ」行きに、釜石の中心部で乗車。
しばらく走ると、津波でやはり壊滅的な被害を受けた釜石市北東部の鵜住居(うのすまい)や大槌町に達する。
このあたりは、道路の両側が更地になっており、まるで荒野の一本道を走るような光景が広がる。

大槌町あたりの車窓

陸前高田の場合は、以前に町を散歩して写真を撮っていたので、昔の光景と対照できた。大槌には残念ながら下車したことがなかったために、昔の様子が想像できないのだが、この更地にもぎっしりと家が建っていたのかと思うと心が重くなる。
もっとも、そんななかにも、プレハブ住宅を利用した飲食店や各種の店舗がぽつぽつと建っている。時間があればバスを降りて、親子丼でも食べていきたいのだが、次のバスは2時間後。それでは当日中に八戸に着かないので:残念ながら車窓から見ているしかなかった。

吉里吉里

これは、大槌町東部にある吉里吉里(きりきり)。JR山田線にある同名の駅は、この道路よりも山側に位置しており、津波の被害は免れたものの、その後、老朽化を理由に取り壊されたそうだ。
吉里吉里はそのユニークな名前で、時刻表を見はじめた中学生のころから気になる駅だったが、それが井上ひさしの小説『吉里吉里人』で一躍全国区の名称になった。厚い本だったが、おもしろくて一気に読んだ覚えがある。

岩手船越駅前

バスは大槌町から山田町へ入り、釜石から50分ほどで船越駅前に到着。ここで岩手県交通から岩手県北バスの宮古駅前行きに乗り換える。船越駅前といっても、もちろん山田線は動いていない。
写真の左奥にぽつんと建っている小さな建物が、岩手船越駅の駅舎である。

岩手船越駅前

穏やかな日射しのなか、何の変哲もない小さな町の駅前で、ぼんやりバスを待っているのもいいものである。
幸い、天気もよく風もなかった。意外と、こんな瞬間がいつまでも旅の印象として残るものだ。
待つこと10分ほど、宮古行きのバスがやってきた。

船越から宮古駅前までは約1時間。途中には、やはり津波の爪跡も痛々しい山田町の中心部も通過。海に向かって市街地が広がっていたここも、津波と火災によって跡形もなくなっていた。
その昔、船の上からウミネコに餌付けをするといううたい文句の遊覧船に乗った覚えがあるのだが、はたしてどこの港から乗ったのか。町の中心部からは、かなり離れていた記憶があるが。

宮古市内


山田町の市街地はプレハブの店舗が数多く建ち並んでおり、ほかの被災地にくらべて、ずいぶん活気があるように感じられたのは少しほっとするところである。
バスには、学校の見学なのだろうか、付近の小学生が大量に乗り込んできたので、車窓の写真を撮る余裕がなくなってしまった。
上の写真は宮古市内。

三陸鉄道宮古駅


こうして、宮古駅前には、ほぼ定刻の13時10分前ごろに到着。
20分ほど市内をうろついたのち、三陸鉄道北リアス線に乗車する。

2013-12-24

三陸縦断の旅7: 釜石市内

1日目は釜石市内中心部にある「サンルート釜石」に宿泊。
このホテルも復興事業関係者の宿泊が多いようで、夜遅くになっても作業着を着た男性たちが飛び込みでチェックインをしていたのを見た。

この写真は、私の泊まった最上階から駅の方面を見たところ。
道路の行く手に遠く見える緑色の屋根が、新日鐵釜石製鉄所。その左に見える赤錆色の鉄橋は、不通となっている三陸鉄道南リアス線のものである。

釜石市内

この写真を見る限り、津波の爪跡はうかがえないが、町中を歩くとあちこちにその痕跡が残されていた。
市街地の南東側にある港は、この写真の左手前側にあたる。そちらに近いほど被害が大きかったわけだ。
ホテルは通りのすぐ北側にあるのだが、フロントの男性の話によると、そこでも2mほどの津波が襲ってきたという。
「ほら、外側の壁に少し跡が残っているんですよ」
と指さしてくれた先には、泥のような黒い線状のものがこびりついていた。

甲子(かっし)川

ホテルに荷物を置いて、食後の散歩は駅方面へ。甲子(かっし)川を渡る大渡橋からは、すがすがしい景色を目にすることができた。河口のすぐそばにあるこのあたりでは、津波で川の生態が大きく変わったそうだが、今では川を遡上する鮎も戻ってきたという。

釜石駅前

そして、ホテルのある中心部から約10分で釜石駅へ。
本来は、釜石線、山田線、三陸鉄道南リアス線のジャンクションなのだが、現在は1日に10本あまりの釜石線の列車が発着するのみ。山田線と南リアス線は岩手県交通バスへの振替輸送となっている。

じつは、この駅を訪れるのは27年ぶりである。
前回は、例によってあわただしい貧乏旅行だったので、駅周辺を歩いただけに終わってしまって記憶があまり残っていないのだが、駅前の写真を1枚撮っていた。

1986年釜石駅前

それがこの写真である。
バックの山並みは変わらないが、駅舎も駅前広場もすっかり変わってしまった。
ずいぶんきれいになって、駅の奥にあるビルにはユニクロまで入居している。
ただ、駅前の賑わいは昔のほうがあったように記憶している。

駅からは大通りの港側を歩いて戻ることにした。
大通りから50m海側に入っただけで、津波の爪跡は大きく残っていた。更地が広がっているだけでなく、おそらく2年半まえからそのままであろうこんな建物も残っていた。

釜石市内


もちろん、津波の被害が甚大であることは頭ではわかっていたが、こうしてところどころではあるが三陸海岸を自分の目で見ていくと、津波の被害はとんでもない広さに及んでいることが改めて実感させられる。

ちなみに、この写真のあたりは、もとはバーやスナックが建ち並ぶ飲食店街だったという。今では、ほんのごく一部の建物が残り、そこでわずかに営業が行われていた。

では、旅の2日目、釜石から列車とバスを乗り継いで、八戸まで7時間以上をかけての移動のはじまりである。

2013-12-20

三陸縦断の旅6: 盛から南リアス線で吉浜へ

陸前高田を15時2分に出たBRT(バス高速輸送システム)は、約40分で終点の盛(さかり)に到着。
途中から線路敷を走っていたバスは、そのまま盛駅の大船渡線ホームに入る。
当然のことながら、駅構内の線路もアスファルトで埋められていた。
バスの駐車場は、ちょうど駅構内の跨線橋の陰に隠れてしまったが、そのときには3台のバスが停まっていた。

盛駅の大船渡線ホーム

三陸鉄道南リアス線の発車まで40分あったので、駅付近を一周してきた。
次は、上の写真と同じ跨線橋(自由通路)の上から撮った三陸鉄道の車両基地。
右奥にちらりと見えるピンク色の車両が、大津波の際にトンネル内で停車して難を逃れた「奇跡の車両」こと36-105号である。

三陸鉄道・盛車両基地

盛駅の裏口に出ると、懐かしい岩手開発鉄道の盛駅ホームが残っていた。
1992年に旅客営業を廃止する直前に訪れたっけ。現在は石灰石輸送の貨物専用鉄道となっている。
貨物列車でも通りかからないかなと思いつつ、踏切を表口側に渡ったとたんに、踏切の警報機が鳴り出した。
比較的ひんぱんに運行しているとはいえ時刻表もなく、しかも走行写真撮影にはぎりぎりの夕暮のなか、運よく撮影することができた。

岩手開発鉄道

ぶらぶらしていたら、発車間際になってしまい、最後は早足で駅に戻るのはいつものことである。
盛駅の写真の右側がJRの駅舎、左側は三陸鉄道の駅舎である。

盛駅

やってきたのは、新しい36-700形の車両。震災復興援助としてクウェート政府から寄贈された3両のうちの1両である。車体には、アラビア語、英語、日本語で感謝のことばが記されていた。
昔習ったアラビア語の乏しい知識によれば、ナカッダラ(私たちは感謝します) カシーラン(大変) ダアマン(支援に) ダウラ(国) ル・クワイト(クウェート<冠詞付き>)という感じかな。「感謝する」という意味に動詞「カダラ」の2形「カッダラ」を使うとは知らなかった。

クウェートへの感謝の言葉


南リアス線は盛~吉浜の21.6kmが今年4月に運転再開され、1日7往復が運転されている。吉浜~釜石は岩手県交通のバスが1日4往復、振替運転をしている。。
吉浜到着は16時47分。あたりはすでに真っ暗となっていた。
結局、盛駅で乗ったのは3人。途中の綾里で数人乗ってきたが、途中で全員降りてしまって、終点の吉浜で降りたのは私一人だった。

吉浜駅


釜石までのバスが来るまでには1時間もある。とはいえ散歩するにも周囲は真っ暗。
大船渡市の出張所・集会所を兼ねた駅舎で、壁に張られた震災から現在までの写真をぼんやりと見ていたら、三陸鉄道の運転士さんがやってきて、カラー印刷された記念の乗車証明書というものをくれた。

釜石までは海岸沿いの真っ暗な道を、50分かけて旧型のバスが走り抜けた。

2013-12-18

三陸縦断の旅5: BRTの車窓から 陸前高田~大船渡

結局、陸前高田には13時ごろから2時間ほど滞在した。
市街地のあったところには、今はほとんど人が住んでいないので交通機関が入らない。
市役所の仮庁舎のあるバス停まで、重い荷物を背負い、上り坂を20分ほどをかけてひいはあ言いながら戻ってきた。まさか、BRTの小さなプレハブのバス待合室に、コインロッカーがあるなどとは思いもよらなかった。

大船渡線BRT

この写真は、市役所前のバス停。BRTだけではなくて、岩手県交通などの停留所もここにある。
気仙沼に戻るBRTの後方に、小山を崩して宅地を造成しているのがちらりと見える。
東京に住む陸前高田出身の人にあとで聞いたところによれば、震災前の丘上の土地は値段がつかないほどだったのに、震災後にはずいぶん値上がりしたとのことである。

大船渡線BRT

気仙沼から一般道を走ってきたBRTは、脇の沢~小友でいよいよ専用道に入る。大船渡線の線路敷をアスファルトで舗装した道路である。
JR東日本は一時的な措置のように言っているが、線路がアスファルトに埋められたことによって、鉄道による復旧の可能性が薄れるとして、地元の人たちの心中は複雑なものがあるそうだ。

大船渡線BRT小友駅

これが小友駅。BRT化することで、専用道上にある駅はすべて新しくきれいになった。
バスのボディと合わせて、赤がイメージカラーになっているのだろう。なかなかしゃれている。

大船渡線BRT小友駅

この写真はバスの後部座席から撮影した小友駅。雰囲気は鉄道のままだ。
単線の線路敷では大型バスはすれ違うことができず、駅ですれ違えるようになっていることがわかる。
また、駅間でもすれ違いの場所があちこちにあって、それぞれの場所には信号も取り付けられている。
そんな場所で、バスは当然左側に行き、律儀に一旦停止をする。ちなみに、BRTのダイヤは1時間に1~2本程度である。

大船渡線BRT細浦駅付近

これもバスの車窓越しに撮った細浦駅付近の様子。
湾が細く切れ込んでおり、細浦という地名の由来が一目瞭然である。
また、この写真でもわかるように、水に面したところはすべて津波の爪跡が残っており、至る所で重機が忙しそうに働いている。
こうした復興工事のため、現場には全国から数多くの人がやってきており、沿岸の宿は常に満員の盛況のようだ。おかげで、大船渡市内か陸前高田市内で宿をとろうと思ったがどこも満員。ようやく釜石市内のホテルで空室を見つけることができた。

大船渡線BRT大船渡駅付近


大船渡市内に入ると、道路の両側が冠水している場所が目につくようになってきた。
地盤沈下してそのまま海水が残ってしまったのだろう。そんなニュースを見たことがある。

大船渡線BRT大船渡駅付近


バスは大船渡の中心部に入る。これが復興なった大船渡の魚市場。
前述のように、この日は釜石まで行かねばならず、残念ながら新鮮な魚介類も、大船渡名物になったサンマラーメンも食べることができなかった。

バスはまもなく終点の盛に到着。すでに時刻は午後4時に近く、もう空は薄暗くなってきたが、釜石までまだ先は長い。

2013-12-17

三陸縦断の旅4: 陸前高田市街地の20年前と今

陸前高田の市街地があったところにやってくると、そこは見渡す限りの更地であった。
20年前の1993年にやってきたときは、ここに都市があって家々がぎっしりと並んでいたのである。
それが、大津波で跡形もなく消えてしまっていた。訪問当日はちょうど震災から1000日目。さすがに瓦礫は片づけられていたが、復興工事はまだまだ進んでいなかった。
知ってはいたけれども、その変化を目の当たりにして胸がいっそう重苦しくなってきた。

前回、市内で撮影した写真は十数枚。デジタル時代の今だったらもっと撮っていたのだろうが、当時は旅行かばんに入れるフィルムの数にも限界があったから、そうそう闇雲に写真を撮ることはできなかったのである。

まずは、大船渡線 陸前高田駅駅前通りの20年前と今。

1993年・陸前高田駅の駅前通り

2013年・陸前高田駅の駅前通り

アーケードのある商店街が姿を消して、正面の山がやけに近くに見える。
道路に描かれた白線が昔のままであるのが、かえって痛々しく感じる。

次の写真は、市街地の北部にあった荒町商店街の20年前と今。

1993年・荒町商店街

2013年・荒町商店街

このあたりには、古い家並みが続いていた。もしかすると、震災の前までにすでに建て替えられていた建物も多かったかもしれないが、残念ながら調べる術がない。ご存じの方がいらっしゃればコメントしていただければ幸いである。

これを含めた十数組の対比写真については、来年初めにもiPhone/iPad用無料アプリ「TimeTours」に収録の予定である。アプリだけでなく、写真ライブラリも無料で公開の予定なので、しばしお待ちを。

市神社跡

この写真は、トップの写真にある駅前通りを直進し、突き当たりの丁字路にあった「市神社」の跡。市神社は、陸前高田の人びとに親しまれた神社、というより祠であった。
この大きな石はその御神体だったのだろうか、流されずにぽつんと残っていた。その石の上には縄が張られ、神社や神棚で見られる紙垂(しで)が下げられている。

陸前高田市街地

そして、更地となった土地のあちこちに、こうした花が供えられていた。
道路にはどこからどこに行くのか、1分に1台くらいの割合で自家用車が通っていった。そして、そんな車に交じって、復興工事のためのトラックが轟音をあげて通り過ぎるのだった。

2013-12-14

三陸縦断の旅3: 陸前高田に到着

13時2分、陸前高田着。20年ぶりの訪問だったが、心は重かった。
6時10分に上野駅を出てから約7時間。もっとも、一関(駅名は一ノ関)で1時間10分の待ち合わせ、陸中松川で1時間ほどぶらぶらしていたから、移動時間は実質5時間である。

気仙沼からのBRT(バス高速輸送システム)の車窓は、一見するとのどかで美しい風景なのだが、海が見える場所に出るたびに、津波の爪跡であろう更地が広がる。

BRT陸前高田駅

BRTの陸前高田駅は、大船渡線陸前高田駅から北へ約1.5km。台地の上にある。
BRTであるが、この区間はずっと一般道を走るので駅といってもバス停となんら変わりない。
鉄道も見当たらない丘の上に、JR東日本のマークの付いたプレハブの「駅」があるだけで、尋常ではないものを感じざるをえない。

陸前高田市役所仮庁舎

その背後には、やはりプレハブの大きな建物があった。
陸前高田市役所の仮庁舎である。市役所の仮庁舎の前に駅(バス停)がつくられたいったほうがいいかもしれない。仮庁舎の前には、金融機関のATMがずらりと並び、その脇には飲料の自動販売機が何台か並んでいる。

津波で大きな被害を受けた市街地は、この丘を南に降りたところから大船渡線の駅のあたりにかけて広がっていた。有名になった「奇跡の一本松」は、大船渡線の駅からさらに1kmほど南にある。

陸前高田の丘から南を望む

20年前に陸前高田を訪れたときは、その町並みが気に入って、時間をかけて市街地を歩き回り、写真を撮っていた。その後、気仙川の対岸にある今泉地区に古い町並みがあることを知り、次回はぜひそこを見ようと心に決めていたのである。

ところが、3月11日の大津波によって、陸前高田市の市街地は壊滅状態となってしまったのはご承知の通りである。死者・行方不明者を合わせて1800人という多くの犠牲者が出てしまった。

陸前高田の市街地跡


すぐにも陸前高田に足を運びたいとは思っていたが、たいして手助けになるようなことはできそうにない。しかも、あまりの被害の大きさに二の足を踏んでいたのである。

それでも意を決して、多忙の合間にぽつんと空いた時間を利用して再訪することにした。当時の町並みの印象が強かったために、この目で現状を見なくてはどうもすっきりしなかったのだ。

陸前高田の市街地跡


あの賑わいのあった市街地が、すべて更地になっていることは、グーグル・ストリートビューでもわかっていた。それでも、丘を降りるに従って、徐々に目に入ってくる光景には、やはり慄然とするしかなかった。

2013-12-11

三陸縦断の旅2: 気仙沼から陸前高田へ

陸中松川から再び大船渡線に乗り、現在の終点となっている気仙沼へ。
本来の大船渡線は、さらに三陸海岸に沿って北上し、大船渡市の盛(さかり)まで通じているのだが、津波の被害のために、バスの代行運転となっている。

気仙沼駅

気仙沼駅前から発車するバスはBRT(Bus Rapid Transit)と呼ばれるもので、日本語では「バス高速輸送システム」と訳されている。
だが、少なくとも気仙沼から陸前高田までは、一般道を走るので普通の路線バスとちっとも変わらない。
乗るときに整理券を取って、降りるときに料金表を見て料金を払うのも同じ。
ただ、バスも停留所のポールも新品で、停留所名には鉄道と同じ扱いのために「駅」と記されていたのが違う点である。

気仙沼

と、能書きはこのくらいにして、まずは約20分の乗り換え時間を利用して、気仙沼駅付近の町並みをめでた。
気仙沼は20年ぶりの来訪である。そのときは、港から船に乗って沖にある大島に向かったのだが、そのついでに撮った市街地の写真が1枚だけあった。

気仙沼

その写真にあったのが、上の写真に写っている木造3階建ての立派な「松屋旅館」である。
残念ながら現在は営業をやめているようだが、20年前と同じようにそこにあった。

気仙沼

まだまだ気仙沼の市街地には魅力的な建物が多くあったのだが、バス発車の時間が近づいてきた。
例によって、無計画にぶらぶらしていたら時間がなくなってしまい、帰り道の遠さにあせってくる。駅までの距離の2乗に反比例するように徐々にスピードを増し、最後は駆け足で駅前に戻ってきた。

大船渡線BRT

やってきたのは、なかなか派手でおしゃれな車体色をしたこのバス。
盛行きのこのバスに乗って、まずは陸前高田に向かう。

ちなみに、恥ずかしながら今の今まで気仙沼は岩手県だとばかり思っていたが、じつは宮城県であることを初めて知った。一関も大船渡も岩手県なのでそう思っていたのだが、大船渡線は気仙沼付近だけ宮城県の北端を通るのであった。

気仙沼の海岸付近


気仙沼の市街地を出て港付近まで出ると、あちこちに津波の爪跡が見えてくる。
やがて、車窓には更地が広がり、トラックや重機が忙しく立ち働いている様子も見えてきた。

2013-12-10

三陸縦断の旅1: 陸中松川で途中下車

12月の第一週は2泊3日で三陸海岸を南から北へと縦断した。大人の休日倶楽部パスの利用である。
東北新幹線を一ノ関で降り、大船渡線で気仙沼に向かう途中、陸中松川で下車した。

大船渡線陸中松川駅

ここは、かつてセメント輸送の拠点として貨物専用線が三菱マテリアルの工場まで伸びていたり、さらに以前は松川石灰という会社のナローゲージ専用線がのろのろと走っていたりしたところである。
次の列車までの1時間、その名残を求めつつ、今泉街道に面した古い家並みをめでようという予定であった。
ところが、新幹線内で終わるはずだった急ぎの仕事に追われ、最初の30分以上を小さな駅舎に釘付けになってしまった。

陸中松川駅

しかたがないので、残った時間で駅の付近をぶらぶら。
ここは今泉街道から外れた場所で、駅前といっても民家がぽつりぽつりと続くだけで、店もなにもないところである。

そんな道を進んでいくと、突然目の前に不思議なものが現れた。

石と賢治のミュージアム

ひと気のない道を歩いていて、道の脇にこんなものが見えたら、誰だってビクッとするに違いない。
現地に行くまで知らなかったのだが、ここは亡くなる少し前まで宮沢賢治が技師として勤務していた石灰工場なのだとか。それを記念して工場の跡に「石と賢治のミュージアム」という建物がつくられた。
この人形とトロッコはその屋外展示の一つだったのだ。
後列右から4番目が宮沢賢治だそうである。

石と賢治のミュージアム


これとは別に、大船渡線の線路沿いには手押しトロッコとレールが保存されていた。
博物館を見たいとも思ったが、すでに次の列車まで20分。
最近はめっきり少なくなった後ろ髪を引かれる思いで、駅にそのまま戻ることにした。

石と賢治のミュージアム


訂正。めっきり少なくなったのは後ろ髪ではなくて前髪でした。
これが陸中松川駅。
駅前がやけに広々としてさっぱりしている。
駅舎は正面右の小さいほう。左の堂々とした建築物は公衆便所である。
こんなひっそりした駅に、今どきのきれいなトイレが備えられているのには感心した。
まもなくやってきた気仙沼行きに乗り込んだのは、私一人だった。

2013-12-01

猫が静かに歓迎してくれた亀戸の天祖神社

押上駅を出て、訳あって東京スカイツリーとは反対方向に歩く。
浅草通りを歩いても殺風景なので、その南側の路地に入ったところで木々が目に入った。

亀戸の天祖神社

以前も通りかかったことはあったが、境内に入るのは今回が初めてかもしれない。
天祖神社という名前は、おそらく明治以降に付いたものだろう。
昔は村の小さな鎮守さまという感じだったのだと思う。

亀戸の天祖神社

住所は江東区の亀戸だが、江東区の北の端にあるので、ずっとこのあたりは墨田区だとばかり思っていた。
JRの亀戸駅よりも、押上駅のほうがずっと近い。

密集した家々に囲まれて、この狭い境内だけが木がうっそうと繁り、しんと静まり返っているのも不思議な感じである。

天祖神社の猫

その静かな境内で、まるでつくりもののようにじっとしていたのがこの猫。
近くに寄っても警戒する気配もなく、三つ指ついて(?)迎えてくれた。

亀戸三丁目

お賽銭を大枚50円はずんで、私はこのひそやかな空間がいつまでも残ることを祈るのであった。

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