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2013年3月の4件の記事

2013-03-24

福岡・博多の町をぶらぶら歩き

午後に乗る予定の列車には時間があったので、博多の町をぶらぶらと歩くことにした。
西新から地下鉄ではなく、あえてバスに乗って中州までやってきた。
町を知るには、ただひたすら歩いてめぐるか、せめてバスで周囲を眺めながら移動するのが個人的な原則である。

真昼の中州

那珂川を越えると、そこは博多区中州。夜に賑わう町ではあるが、白昼堂々歩いてみるのもオツなものだ。路地に入ってみると、まるで夜に備えて休養をとっているかのような静けさであった。

真昼の中州

さて、中州というぐらいだから、橋を2回渡ると対岸に出る。
ホテルでもらった地図をたまに開きつつも、あてもなくぶらぶらと歩いていると冷泉町というところに出た。
「れいぜいまち」かと思ったら、「れいせんまち」と呼ぶらしい。確かにこちらのほうが順当な読みである。

そこで見かけた不思議な店がこれ。

冷泉町のクリーニング店

店の前には、「クリーニング」と染め抜かれた幟が立ち、日除けにも「だるまクリーニング」と書かれている。だが、日除けをさらによく見ると、「青果 食品/美しさ・大切に まかせて、あんしん/だるまクリーニング/○○食料品店」とある。
はたして、クリーニング屋なのか食料品店なのか、それとも両方を兼ねているのか、じつに不思議である。店に入って確かめてもよかったのだが、なかが暗いのでやめた。

櫛田神社

さて、そこからすぐのところに博多の氏神である櫛田神社があるらしいので、足を運んでみた。
かの有名な博多祇園山笠の祭事を行う神社であり、山笠の出発点ということで境内には飾り山が置かれていた。

櫛田神社

それはそれで見事で、境内の雰囲気もいいのだが、何よりも気に入ったのは神社の南側にある狭い道の雰囲気である。歩行者専用の50mほどの短い道で、参道というほど立派ではなく、しかし土産物屋や食べ物屋が雑然と並んでいる。

櫛田神社参

親子なのか、単なる近所のおじさんと小学生という関係なのかはわからない。
私は、この中年男性が少年に近づいていく途中からマーク。椅子に座る前にパチパチと2枚。座ってからも背後から近づきつつさらに2枚。そして、図々しく前にまわってさらに2枚、そうして、この偽ヒューマニステックな写真が仕上がったのであった。

2013-03-22

福岡・西新あたり、40年のへだたり

3月8日、仕事で突然福岡に行くことになった。
東京を朝に出ると日帰りができてしまうものだから、交通費は日帰り分の航空券しか出ない。
でも、せっかく福岡まで行くのだし、当日は金曜日だったものだから、自腹でもう1泊、いや2泊してきた。そのときの話である。
空気中には花粉が漂い、さらに大陸から黄砂やらPM2.5やらが飛んでくるというなか、翌9日には福岡市内散歩を敢行した。

西新三叉路1973年

西新三叉路2013年

ホテルから地下鉄で向かったのは西新である。これまで、「にししん」と読むのかとばかり思っていたら、「にしじん」であった。
なぜわざわざ西新に行ったかといえば、上の2枚の写真を見ればおわかりになるだろう。40年前に撮影した写真の場所に行ってみようと思ったわけだ。

上の写真が1973年7月に西新の三叉路で撮影したもの。まだ西鉄の福岡市内線が走っていた。電車の停まっている道が、福岡を東西に貫く明治通りである。
下の写真が今回撮影したもの。道路が拡幅されているので、同じ場所で撮影することは不可能であった。
驚いたのは、正面に写っている佐賀銀行である。なんと、40年前と同じ姿のままであった。さぞかし頑丈につくられたのだろう。

西新商店街

さて、せっかくだから付近を散歩しようと思ってふらふらしているうちに行き当たったのが、明治通りと並行して南側に走る商店街。あとで調べたところによると、ここが旧唐津街道なのだそうで、確かに味わい深い通りであった。

商店街は東西に伸びていたが、今回は博多駅方面に、東に向かうことにした。

西新商店街

すると、すぐに目に入ったのがこの立派な商家。宮崎鮮魚店と書かれている。店内では数人の人が忙しそうに立ち働いていた。
角度を変えて何枚も写真を撮っていると、年配の親父さんらしき人と目が合った。

にっこり微笑んで会釈をしたのだが、先方はこちらをじっとにらんでいる。まあ、こんなところをカメラを持って歩いている人間は、そうはいないのだろう。そそくさとその場を立ち去ることにした。

300mも歩くと川に行き当たった。そこが今川橋である。
じつは、その付近でも40年前に路面電車の写真を撮っていた。
再び明治通りに戻って撮影する。

今川橋電停1973年

今川橋バス停付近2013年

同じ40年前の写真でも、さきほどはカラーだったが、これはモノクロ。ご苦労にも2台カメラを持って行ったのである。その理由は、もはや若い人には理解できないだろうから、じっくり説明したいところだが、話が長くなるのでまたこんど。

こちらは、道路の拡幅にともなって昔の面影がまったくなかった。
古い写真で運転士が道を横切っている様子が写っているが、これは手前に電車の車庫があったからである。その車庫のあとがないかと思って、手前の建物を見ると、そこにあるのはお寺と福岡市営地下鉄の変電所。
40年前に車庫があったとしたら、やはり地下鉄の変電所のほうだろう──そう思って、だいたいの位置を想像して合わせてみた。

2013-03-13

久しぶりの浅草松屋屋上は狭かった

浅草にある松屋が改装されて、昔の姿を取り戻した。
それは知っていたのだが、再び屋上に立ち入れることになったのは、現地に行くまで知らなかった。
今からン十年前、私が幼かったころに、よく母親に連れてこられた懐かしの場所である。

というわけで、さっそくエレベーターで屋上へ。

浅草松屋屋上

もとより昔の遊戯施設が残っているとは思わなかったが、それにしてもガランとしている。
しかも、警備員にしっかりと監視されているので、ちょっと背中がこそばゆい。

なぜ、こんな殺風景な屋上を公開したのかといえば、どうやら、スカイツリーが間近に見えることが売りのようだ。売りといっても、もちろん無料で立ち入れる。

浅草松屋屋上

ときは2月14日、世の中はバレンタインデーと称する日だったため、申し訳程度に地味な飾りつけがされていたのが微笑ましい。

それにしても、遊戯施設があったころの松屋屋上は、ずいぶん広く感じられたのだが、こうして見るとやけに狭い。
建物が更地になって狭く見えるのと同じ感覚か、それとも単に私が小さかったからなのか。
ここで、ホームページ本館でも紹介している、1972年当時の浅草松屋の写真を貼り付けておきたい。高校生のときに撮った写真だ。

1972年当時の浅草松屋

注目は屋上に見える遊戯施設の数々である。
ちょっと拡大。

1972年当時の浅草松屋

観覧車をはじめとして、名前は忘れてしまったが、いろいろな乗り物が写っている。
もちろん、ここに見えている以外にも、さまざまな乗り物やアトラクションがあったっけ。
私が神童だった幼年時代の思い出がここに詰まっている。

さて、最後の写真は1986年のもの。外装の老朽化が進んでいたというので、金属の板らしきものが張りつけられた。いかにも応急措置という印象で、風格ある松屋のイメージもなくなってしまい、がっかりした人も多かった。
古いものを下に隠してでも、薄っぺらな新しさが求められた時代だったのである。
「浅草松屋」を「松屋浅草」と呼ぶようにしたのも、このころからだったか。今でもなじめない。
とはいえ、外装をまったく破壊しなかったのがよかったのだろう。それが今回の復元につながったに違いない。

1986年の浅草松屋

モノクロ写真で残念なのだが、手前の都バスは黄色の地に赤帯。
それまでの薄いクリーム色の地に青帯は、美濃部革新都政のイメージが強かったので、代わって登場した鈴木俊一都知事本人か取り巻きかが色を塗り替えさせたというのが定説である。

かつての濃いクリームに朱色の帯という配色を再現したつもりかもしれないが、以前よりもかなり色が強かった。
「あまりにも暑苦しい」という都民からのクレームが相次いで、あっという間に消え去ったのであった。

2013-03-04

地下鉄浅草駅に残る超時代的な地下街

東京メトロの地下街というと、表参道のおしゃれなそれや、新宿、渋谷、そして最近拡張された池袋のような賑やかで大規模なものを思い浮かべる人が多いかもしれない。

だが、銀座線浅草駅の地下街はそのどれとも違う。それは、レトロというような安っぽいことばでは表すことのできない、時代を超越した味わい深い空間なのである。

地下街の入口

その地下街の西側の入口は、浅草松屋の前から横断歩道を渡り、新仲見世に入ってすぐのところにある。
入口に理髪店を示すクルクルまわる赤と青のサインポールがあるので、何事かと思うかもしれないが、単に階段を下りるとすぐに理髪店があるだけのことだ。
ここが、超時代的な不思議空間の入口である。

私が子どもだったころは、入口の左側の店に今川焼きを「オートメーション」でつくる機械があって、飽きずに眺めていたっけ。今から思うに、半世紀近くも前に、あんな機械を考案した人がいたというのが驚きである。つい最近まで残っていたように記憶しているが、今回は目に入らなかった。

浅草駅の地下街

地下に潜り、理髪店の横を通ると、整体院に突き当たる。
施術中のおばさん先生と目が合ってしまったが、正面に位置する店に向かって歩くようにできているのだからしかたがない。

その突き当たりが三叉路になっていて、その左右に地下街が広がっている。
右に行くと、10メートルあまりで行き止まりになってしまうので、必然的に左に曲がるしかない。
もちろん、駅は左のほうにある。

浅草駅の地下街

この地下街は全長がせいぜい数十メートルほどだが、密度が実に濃い。
上下の写真を見ればわかるように、寿司屋もあれば、占いもあり、「気導術」という看板を出している店もある。
その向こうには、向かい合ってタイ料理とベトナム料理が仲良く店を出している。

浅草駅の地下街

さらに進むと、居酒屋があり、その向こうには「気功」と書かれた看板の店が。
こんな狭いところに、整体院があって気導術というのがあって気功もある。
まるで東洋医学銀座とでもいうような賑わいである。

過当競争なのか、それとも似た店が固まっていることで相乗効果があるのか。
単なる散歩者の私には想像もつかない世界が存在するに違いない。

浅草駅の地下街

やがて、この短くも味わい深い旅も、いよいよフィナーレが近づいてくる。
左の開放的な店は酒も飲めるラーメン屋のようだが、以前は本格的な飲み屋だったと記憶している。
かつては浅草駅の改札を出たあたりから、その店から漂ってくる異臭を感じたものだった。
しかも、その臭いは何十年もかけて地下街の壁にべっとりとこびりついたような印象を受け、少なくとも食欲をそそることは一度もなかったと記憶している。

そんな年季の入った臭いがしなくなったということは、かなり隅から隅まで掃除をしたのだろうか。
ちなみに、店内の壁に、石原裕次郎のポスターが貼ってある。

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そして、立ち食いそばが横目に見えると、浅草駅の改札口はもうすぐ。
いつからか、最後のカーブの内側では、中古DVDが売られている。
反対側にも何軒か店があったと思うが、今はシャッターが閉まっていた。

20年くらい前までは、地下街には昼間から酔っぱらっているおっさんがたむろしていて、とても写真を撮る気になれなかったものだが、時代は変わったものである。

やはり異臭の漂っていた銀座線上野駅の地下街が消毒されたようにきれいになり、整然とはしていたが古めかしかった神田駅の地下街が姿を消した今、いつまでこの超時代的な浅草の地下街は残ることができるのだろうか。
いずれにしても、この地下街がある限り、私は浅草に来るたびに時のたつ早さと遅さを感じながら、遠回りをしてでもこの通路を通るのである。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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