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2012年7月の7件の記事

2012-07-25

アブルッツォの山中で廃線跡歩き

ペットラーノでは、廃線跡歩きをしてしまった。
今回、スルモーナからペットラーノへはバスを利用したのだが、ここには昨年12月まで鉄道が走っていたのである。
といっても、廃止直前には1日2往復の超ローカル線。しかも、ペットラーノから山越えをしてモリーゼ州に向かうものだから、ペットラーノを取り巻くように山肌をぐるりとS字を描いて高度をあげていく。だから、かなり時間がかかったようだ。

ペットラーノ駅

それに加えて、ペットラーノ駅が町からとんでもなく離れた場所にある。
丘上の町から、いったん国道が走る谷に降り、今度は反対側の丘に登ると、その中腹に駅があるのだ。
どんなに急いでも徒歩で30分ほど。これじゃ、利用する人がいなくなるのもやむを得ない。
事実、路線が廃止となる何年か前に、この駅は廃駅となっていた。あとで知ったんだけどね。

ペットラーノ駅

炎天下、ひと気のない山道を登っていくと、ようやく駅にたどり着いた。
間違いなく廃駅なのだが、線路がやけにきれいである。
半年も使っていなければ、レールが錆びついて、雑草もぼうぼうに生えてくるだろうに。
「日本ほど雨が降らないから、雑草も生えないのかな?」
そう思ったが、レールの下に敷きつめられた砂利もなぜか真っ白だった。

廃線跡

さて、一通り写真を撮って戻ろうかと思ったが、まだバスがやってくるまで1時間ほどある。
せっかくだから、廃線跡をしばらく歩いていこうと思い立った。

それにしても、周囲には家もなければ人もいない。
「こんなところで、クマやマムシに襲われたらどうしよう」なんて思いつつも、学生時代に北海道や九州の蒸気機関車を追っていたころを思い出しながら、線路の上を歩いていったのである。

あのカーブの先が見えたら引き返そう、いや次のカーブだと思っているうちに、1kmほど歩いただろうか。
前方に橋らしきものが見え、下のほうから自動車の行き交う音が聞こえてきた。

廃線跡

それは、国道をまたぐ陸橋であった。
「しめしめ、国道に降りれば、線路を後戻りしなくて済むぞ」
来た道を戻りたくない性格の私にとって、これは天恵であった。

線路脇のけもの道のようなところに出て、とげのある灌木をくぐり抜け、最後は1mほどの側壁から国道に飛び降りた。

だが、すぐに後悔した。
「歩道がない!」
70~80kmでビュンビュン飛ばしていく車を横目に見て、路肩にへばりつきながら15分ほど歩き、ようやくペットラーノのふもとまで戻った私であった。

そうそう、廃線跡のはずのレールがやけにきれいだった理由は、翌日、次の町に向かう途中で判明する。

2012-07-18

イタリア人の赤ん坊と東洋人との出会い: ペットラーノ

スルモーナをベースキャンプにした山岳都市・丘上都市めぐりの最終日。
行先は、スルモーナから10kmほど南にあるペットラーノ・スル・ジーツィオ(Pettorano sul Gizio)である。「ジーツィオ(川)の上にあるペットラーノ」といった意味で、周辺ではもちろんペットラーノだけで通じる。

3日連続で、スルモーナのバス乗り場で切符を購入。
「あら、毎日バスで町めぐりなのね! ペットラーノは近いのよ」なんて、切符売り場のお姉さんとも顔見知りになってしまった。

ペットラーノ遠景

1日に8往復のバスがあるのだが、8時の次が11時半というのはちょっと不便だ。11時半のにすると、暑いさなかを田舎町で過ごすハメになるので、朝のバスにした。

着いてみると、確かに丘上都市ではあるが、それほど高度は高くない。
三方を山に囲まれて、一見、谷間の村のようでもある。
とはいえ、やはり上まで登ると眺めがいい。

ペットラーノから見た風景

丘の中腹には役所があり、その正面には小さな小さな広場があった。
下の写真で、正面の建物が役所である。立派に噴水があって、建物の壁面には日時計らしきものが描かれている。
左側に見えるバールに立ち寄り、腹ごしらえをしてから町歩きをはじめたのであった。

ペットラーノの人口は約1200人。
ほんとうに小さな町(村)なので、あっという間に1周できてしまう。
12時に出る帰りのバスまで、さてどうしようかと思いつつ、広場に戻ってきた。

中心の広場

町はずれの城砦が11時に開くと書いてあったので、それまで待っていたが、いっこうにその気配がない。
まあ、そんなことがあろうが、ここはイタリアだから腹も立たない。
イタリアを旅行するようになって、間違いなく私は気が長くなった。

ペットラーノには、中心の広場のほかに、町の入口にあたる場所に、もう一つ広場がある。
そこには小さな公園とベンチがあり、木陰でゆっくり休める。しかも、広場の近くに猫を何匹も飼っている家があって、ひっきりなしに猫が出入りしている。そんな猫とたわむれながら私は時間をつぶすのであった。

と、そこに通りかかったおじいさんと孫らしき二人連れ。
私とおじいさんは「ブォン・ジョルノ」とあいさつをしてすれちがったのだが、孫の反応がおかしかった。
私を凝視したまま、文字通り固まってしまったのだ。

ペットラーノの広場にて

おじいさんが名前を呼んでも、動こうとしない。それどころか後ずさりさえはじめる始末。
そんな様子をこっそりノーファインダーで撮ったのが上の写真である。
私もおじいさんも笑うしかなかった。

それまでの短い人生のうちで、おそらくはじめて東洋人を見たに違いない。
こんな赤ん坊が、普段見慣れている人間と、どこでどう区別しているのだろうか。
人間の能力というのは不思議なものである。
また一つ、旅で学んだ私であった。

バス車内

じつは、帰りのバスまで、まだまだ時間を持て余した私は、このあと、付近を走る鉄道の廃線めぐりをしてしまった。それについての詳細は後日。

いずれにしても、またしても炎天下を歩きまわった私にとって、12時にやってきたバスは、エアコンもしっかり効いて、天国のようであった。
座席のグレーに対して、カーテンと把手の黄色が目に鮮やか。
このあたりの色彩感覚は、やはりイタリアである。

2012-07-14

もう羊の顔も見たくない: スルモーナ

スルモーナで特筆すべきは、メシが安くてウマかったことである。
行った店に共通するのは、最上級にウマいというわけではないのだが、コストパフォーマンスに優れているという点だ。
では、スルモーナの町で私がどんな夕食をとったのか、誰も期待はしていないだろうが、ざっとお目にかけることにしよう。

Cesidioの外観

もっともコストパフォーマンスがいいと評判なのが、旧市街の路地を入った小さな広場にある、この「Cesidio」(チェジーディオ)。写真でわかるように、古い邸宅の1階をレストランにしたもので、家族経営でやっているようだ。
私が来店した9時ごろには、小さな庭で7、8組の客が食事をしていた。
私は店内を選択。店の中もなかなかの雰囲気である。

Cesidioの店内

では料理はどうかというと、できのいい家庭料理という感じ。メニューも平凡なものが並んでいた。
ただ、40代後半に見えるマダムの、ごく自然でありながら色っぽい笑顔と、値段が驚くほど安いのが魅力である。前菜、パスタ、肉と食べてワインを飲んでデザート、コーヒーまでとって30ユーロ台であった。
なるほど、TCIのガイドブックの評価にしては珍しく、「コストパフォーマンスがいい」と書かれるわけである。

ワインバーの食事

食べすぎたので、翌日はオウィディウス通りをはさんで、Cesidioとは反対側に見つけた古めかしいワインバーに行ってみた。「La Cantina di Biffi」(ラ・カンティーナ・ディ・ビッフィ)という店で、ワインの小売りもしているらしい。1953年創業というプレートが光っている。

白と赤の地元のワインをグラスで飲みたい。食べるものもある? と尋ねたら、「ワンプレートに盛りつけましょう」といって、写真のようなものを持ってきてくれた。
この量なら満腹の翌日の夕食にもぴったりである!
店で働く4人の若い男性は、みな気がいいやつらで、「日本は地震と津波が大変だったよね」といろいろと心配してくれていた。
結局、ワインは3杯飲んだ。

さて、問題の3日目の夜。
前日に書いたブログをチェックしていたら、日本の知人ジョバさんから書き込みがあった。
「名物の羊は食べましたか?」
危うく食べ損なうところであった。アブルッツォとくれば羊肉は欠かせない。地元の人にとってはヒツジ品である。
しかも、羊肉嫌いな妻と食事をすると、なかなか羊にありつけない。一人旅の今がチャンスだと思ったわけだ。そこで、さっそくその晩は、やはり安くてウマいと評判の「Clemente」(クレメンテ)へ向かった。

Clementeの店内

店内は想像以上にリッチな雰囲気。
「メインで羊が食べたいんだけど、ほかは何がいい?」
太った店主に尋ねると、「当店の自慢の盛り合わせがお勧め! それと羊でいいですね?」
そこで、OKと言えばよかったのだが、ここまでパスタをほとんど食べていないことを思い出した。
「アブルッツォ名物のキタッラも食べたい! でも、量が多すぎるかな?」
「じゃあ、それは半分にしましょう」
こうして、晩餐がはじまった。

Clementeの前菜

これがご自慢の前菜。簀の子のような、鮨を載せる台のようなものに、盛りつけられているところが興味深い。
「これで12ユーロだと、ちょっと高いかな。でも、腹にたまらないから羊の前にはいいかも」
その見通しは甘かった。このあとに野菜やらキコノやらの温かい前菜が、どっと2皿も運ばれてきてびっくり。
だが、それはこれから起こる悲劇の序章でしかなかった。

ちょうどそのとき、斜向かいに座っていたイギリス人だかドイツ人だかの夫婦に、羊の皿が運ばれてきた。
横目で観察するに、その量の多さに旦那が驚いているようである。私はパスタを追加したことを悔やみはじめた。

結局、前菜は平らげたものの、半分にしたはずのパスタはちょっと残した。
「羊に備えなくちゃならないから」と店主に言ったら、斜向かいの旦那にウケてしまった。
旦那は、羊をかなり残したようである。「肉をしゃぶるとウマいのに」と店主にいわれていたが、もうこれ以上食えないというジェスチャーをしていた。

羊肉のグリル

そして、これが私のところにやってきた羊肉のグリルである。もう、このときすでに私は腹8分目を越えて、満腹中枢が電気信号を送りはじめていた。
私としては、日本でよく見るような、骨にかわいく肉がついたものが、多くて5切れほど載ってくるのかと想像していたが、まったく違っていた。
写真だと小さな皿に見えるが、実物はかなり大きい。そして、厚く切られた羊肉には脂分がたっぷりのっており、はたして全部で何切れあるのか、数える気力もない。しかも、付け合わせがフライドポテトである。

しかし、ここは日本男児である。最後の力を振り絞って、8割方は食べた。
半分ほどまでは、店主のアドバイスに従って骨もしゃぶった。だが、それが限界であった。フライドポテトもだいぶ残した。
もう動くこともできない。息を吸うのもつらかった。

「羊さん、ごめんなさい。私が悪かったよ。もう食べたいなんて言いません。しばらくは……」
デザートは断ったが、食後酒は頼んでみた。
食後酒はイタリア語でディジェスティーヴォ。消化薬という意味もあるからだ。
私のせめてもの抵抗であったが、そう簡単にあの大量の羊肉が消化されるはずはなかった。

2012-07-13

高原に咲いた一輪の花: スルモーナ

アブルッツォの町めぐりでベースキャンプにしたのが、スルモーナ(Sulmona)の町である。
人口は約2万5000人の高原の町である。

ローマと緯度がほぼ同じ。直線距離で100km程度だが、途中に山脈が横たわっているので、まったく別の国といった感じののんびりした雰囲気。
キザにいえば、高原に咲いた一輪の小さな花のような町である。

この町には当初2泊で予約したのだが、結局4泊してしまった。
山岳都市めぐりにそれだけ時間を費やしたということでもあるが、こののんびりとした雰囲気も気に入った。

ガリバルディ広場

旧市街は1km×500mほどの楕円形をしていて、中心部には特別に許された車しか入れないようだ。
で、町の中心からちょっと外れたところに駐車場を兼ねたガリバルディ広場があるのだが、これがトップの写真のように雄大にできている。
広場の入口には、ローマ時代の水道橋がそこの部分だけ残されているから、そのアーチをくぐって広場に入るようになっている。

広場の中央には噴水。背景には教会をはじめとする古い建物。そして、その背後には山並みが借景のように控えているという見事な光景である。
「サンマは目黒に限るが、やっぱり広場はイタリアに限る」と納得した私であった。

旧市街の目抜き通り

さて、町の中心を地味に貫くのが、次の写真のコルソ・オヴィディーオ。つまり、オウィディウス通りである。オウィディウスは古代ローマの詩人で、ここスルモーナの生まれ。
とまあ偉そうなことを書いたが、文学部出身の私もオウィディウスは読んだことがない。

この町の人はみな読んでいるのかどうか知らないが、あちこちにオウィディウスゆかりのものがある。
何よりも町の中心にある広場には、下の写真のようにオウィディウス像が立っているくらいだ。
もっとも、ここも昼休みの前や夕刻には、ほかのイタリアの田舎町と同様、親爺連中のたまり場と化すのであった。

オウィディウス像と親爺連

じつは、この広場にはしゃれたバールがある。写真の奥に見える店だ。
3日目の昼下がり、あまりの暑さに一息入れようとテーブル席に座ったら、給仕にやってきたのが東洋人の女性であった。

年は30歳を少し過ぎたくらいだろうか。ふっくらとした顔が日本人のようでもあるし、中国人のようでもある。流暢なイタリア語だから、長く住んでいるのだろう。
注文のときはお互いイタリア語で済ましたが、ビールをおかわりしたときに聞いてみた。
すると、上海の近くが出身だという。あちらも私がどこの国の人間か気になっていたそうで、お互いに笑ってしまった。

なんだかんだといって、西洋の国にいると、東洋人同士はどこか相通じるところがあるものだ。
「日本のコイン持っていたら見せてくれる?」というから、ちょうど持っていた100円、50円、10円、5円、1円をプレゼントしたら喜んでくれた。
幸か不幸か500円玉は持っていなかった。

2012-07-09

炎天下、おまけの2km: カステル・ディ・イエーリ

カステルヴェッキオ・ズベークオは山の中にありながら、近づいてみると意外と近代的な町(村)であった。
この写真は、その中心部にある広場。
イタリア版ウィキペディアによると、人口は1200人ほどという。
少ないといえば少ないが、セチナーロの500人弱にくらべれば多い。

カステルヴェッキオ・ズベークオの広場

まあ、いずれにしても、実際の人口にくらべて町の規模が大きく感じられるのは、イタリアの不思議なところである。日本で人口500人、1000人というと寒村というイメージがあるが、こちらでは、少なくとも表面的にはそんな感じがしない。
コンパクトに町がまとまっているからなのか、それとも人口が多かったころの建物が、そのまま残っているからなのか。

さて、この町にももちろん旧市街があって、カステルヴェッキオというくらいだから古い城砦があって、教会がある。じっくりと見学すればそれなりに見どころがあるらしいのだが、暑くてそれどころではなかった。

そこで、まず広場に面したバールで一休み。

カステルヴェッキオ・ズベークオのバール

どんな小さな村でも1軒はバールがあり、しかもこのアブルッツォでは昼休みの時間でも必ず開いているのがうれしい。
南部に行くと、バールも昼休みには閉めてしまうところがあり、私のような旅行者は途方に暮れるしかないのだ。

カステル・ディ・イエーリ

少し元気を取り戻して、旧市街を散策。昼休みだから、ほとんどひと気がないのが不気味なほどである。
その代わり、空き地にいたネコとしばし戯れた。

それにしても気になるのが、さらに2kmほど先にある村。
上の写真がそれで、カステル・ディ・イエーリ(Castel di Ieri)という名前らしい。「昨日の城」あるいは「以前の城」といった意味だろうか。
行きにバスで通りかかったときには、カステルヴェッキオ・ズベークオのほうが魅力的に見えたのだが、こうして遠目に見るとあっちのほうがよく見える。

カステル・ディ・イエーリ

いったんそう思うと、やはり行かなければならない気持ちになってくるのが貧乏性である。
バスの時刻を頭に入れつつ、最後の力を振り絞って、さらに30分ほど歩いた。

近くから見ると、丘の中腹より上が旧市街だとわかる。
味わい深そうではあるのだが、そこまで行って帰ってくるとバスに遅れる恐れがある。
まだ15時半ごろであったが、これが上りの最終バス。
それに乗り遅れるとニッチもサッチもいかなくなるので、涙を飲んであきらめた。
町の入口すぐのところにある広場で、バスを待つ。

カステル・ディ・イエーリ


次回はこの丘の上まで行くぞと思ったが、はたしてそんな日は来るのか。
「ほかにも行きたいところが山ほどあるからなあ」と、日陰のベンチで柄にもなく物思いにふける私。

もう、二度と見ることのない風景かもしれないと思うと、とくに変わったところがあるわけでもない教会の塔も、小さな公園で遊んでいるおじいさんと孫の様子も、ずいぶんといとおしく感じるのだった。

2012-07-07

炎天下、カステルヴェッキオ・ズベークオへの道

セチナーロの遠景を撮ったのはいいが、すでにバスは広場を出た時刻である。
しかも、そのときにいた場所は、バスが通る道ではない。
田舎町だから、手を挙げさえすればバスは停まってくれるのだが、残念なことにバスは尾根道を大回りしていくのだ。

となると、3時間後のバスに向けて、方針は2つに1つ。
急坂を20分ほど登ってセチナーロの広場に戻るか、だらだらと下り坂を歩いて隣町まで行くかである。

去りゆくセチナーロ

答えは一瞬にして出た。
同じ道を戻って、すでに見た町で3時間近く時間をつぶすのはつまらない。未知の道を行こうと、シャレを交えて決断した。
それがたとえ、30度を越える炎天下であっても、そして隣町まで9kmあるにしてもだ。あとに戻るのは、性格的に苦手なのである。

じつは、そんなこともあろうかと、私は日焼け止めクリーム、サングラス、帽子を持参していた。
この1つを欠いても後悔の原因になることは、これまでの経験で身に沁みてわかっていたからだ。
おかげで、日焼けで苦しむこともなく、ただでさえ寂しくなっている髪の毛がぱさぱさに痛むこともなくて済んだ。

振り返ると、上の写真のようにセチナーロが遠くに去っていく。そして、目の前には家一軒ない。という状況が、その後2時間ほど続くことになる。

120704b
私が歩いている道には、たまに思い出したように車が通るだけ。

道端には、こんな看板が立っていた。
この一帯は、シレンテ・ヴェリーノ(Silente Velino)州立自然公園に指定されているのであった。

だが、幸か不幸か、イノシシにもシカにも、そしてクマにも出会うことはなかった。

目的地は、カステルヴェッキオ・ズベークオ(Castelvecchio Sbequo)という町である。
行きにバスで通って、なかなか雰囲気のよい丘上都市だと思っていた。
バスは、前述の通り、そこから遠回りをしてガリアーノ・アテルノ(Gagliano Aterno)という町を経由して、セチナーロに向かうのである。

分かれ道

この日、平地では38度まで上がったそうだ。
アブルッツォの山の中も、日射しは刺すように痛かったが、高原ということもあって気温は30度程度だっただろうか。
しかも、日本の夏と違って湿度が低い。さわやかな風も吹いていたので、日陰は意外に過ごしやすい。
道のところどころに現れる木々の陰で休み休み、ひたすら歩いたのである。

田園風景

道の両側に、林と麦畑が交互に現れる風景を見ながら、「そういえば、似たような暴挙は、数年前にカラーブリアでやったなあ」と思い出す。

カステルヴェッキオ・ズベークオ遠景

そうして歩くこと2時間近く。
カーブを曲がった先に、ようやく町が見えてきた。カステルヴェッキオ・ズベークオである。
だが、苦行はこれでは終わらなかった。
(つづく)

2012-07-03

知られざる山岳都市: セチナーロ

スルモーナをベースキャンプにしての山岳都市めぐり。
2日目の行先はセチナーロ(Secinaro)に決めた。
スルモーナの北西40kmほどのところにある村(町)で、バスは1日4往復が走っている。

途中からバスはぐんぐんと高度を上げ、目もくらむような崖を抜けて高原に入る。
そこからは、近くの村を一つ一つ丁寧にめぐって、1時間ほどで終点セチナーロに到着。

セチナーロ遠景

帰りのバスは、50分後か3時間半後である。
だが、山岳都市に来たら頂上まで登らないと気が済まない。そして、山岳都市らしい遠景も写真に収めたい。50分は厳しいが、試してみようかと思った。

頂上までの往復に約15分。中心の広場に戻ってきて、村で1軒しかないバールでコーヒーを一杯。
店を出ると、昼メシ前の暇つぶしに集まっているイタリア名物・親爺軍団20人ほどにあいさつをしたところで捕まった。

「まあまあ、座れ」
「どこから来た? 日本か。一人か?」
「日本の映画を見たことがあるけれど、奥さんのいる旦那が、別の女を連れて旅行に出かけるというストーリーなんだ。あれは日本の文化なのか?」
などなど、和気あいあいの雰囲気のなかで、さまざまな難問奇問に答えているうちに、帰りのバスはもう3時間半後にしようと決めていた。

セチナーロ旧市街

ところで、ここセチナーロは、イタリアの一般のガイドブックにもまず載っていない村である。
そんな場所にやってきて、しかも予想よりも素晴らしい姿の山岳都市だったりすると、ちょっとうれしくなる。

なにしろ、最近は「イタリアの小さな村をめぐっている」といっても、昔ほど威張れなくなったからだ。
訪れた町の名を口にしたとたん、「ああ、TCIの『イタリアの美しい村』に選ばれたところですか」とか「BS日テレの『小さな村の物語 イタリア』でやっていたのを見ましたよ」などという反応が返ってくることがある。
世知辛いご時世になったものである。

もっとも、BS日テレの『小さな村の物語 イタリア』のプロデューサーとディレクターとは、ひょんなことで知り合い、意気投合している。けっして不倶戴天の敵ではないことを付け加えておこう。

セチナーロの頂上から見た中心部の広場

では、ここセチナーロをどうして知ったのかといえば、数年前にアブルッツォ州の州都ラクイラで購入した地元出版社の写真入りガイドである。
薄くて小さな本のあちこちに、山岳都市のカラー写真があった。
そのなかの一つがセチナーロだったわけだ。
ちなみに、セチナーロが、まだ『小さな村の物語 イタリア』で取り上げられていないことも前日に確認済である(しつこい)。

とまあ、能書きはこのくらいにしよう。
3時間半後のバスに決めた私は、坂をぐんぐん下り、遠景がうまく撮れる場所を探した。
途中から道路を外れ、刺すような真夏の日射しを浴びながら灌木を抜け、ガレ場を登り、ようやく見つけたのが、トップの写真の場所である。

「さて、これから3時間近くどうしよう」
写真を撮ったのち、しばし考えた。
(つづく)

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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