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2012年6月の6件の記事

2012-06-26

元祖桃源郷: スカンノ

プログの更新も進まずに、旅の日程がどんどんと進む毎日であった。
なにしろ、日が長くて日没が9時ごろだから、夜遅くまでぶらぶら歩いてしまう。
その後に食事をすると、あとは寝るだけという日々の連続。

そろそろ旅も終わりに近づいているのだが、せめてアンヴェルサのあとに行ったスカンノ(Scanno)くらいは、イタリアで書いておこうと思う。

スカンノ遠景

アンヴェルサから、山肌にへばりつくような狭い崖の道を30分、やってきたスカンノは、かつて桃源郷というのがふさわしい町だった。
マリオ・ジャコメッリ(マーリオとしてほしい)やアンリ・カルチエ=ブレッソン(最近はカルティエとよく書かれるが、やはりパリ方言のカルチエとしてほしい)の写真でも世界に知られた町(村)である。

どうも、そのイメージが強いようで、スカンノを訪れる人はすぐに詩人になってしまう傾向がある。
だが、最近はローマから直通バスも出ているくらいで、夏は保養地として、冬はスキーにと観光に力をいれている。

スカンノ旧市街

案の定、周辺にはホテルやコンドミニアムができていて、旧市街を一望するような写真を撮るのに苦労した。
旧市街の展望をじゃまするような建物は建ててほしくないなあ。

その後、帰りのバスまでの3時間、私はひと気のない旧市街を登ったり降りたり、階段路地で猫とたわむれたり、教会の前のベンチで居眠りをしたり。

夕刻のスカンノ

夜6時近くになると、あんな静かだった路地に、信じられないほどの人があふれてきた。
なかには、黒づくめの伝統衣装に身を包んだおばさんもちらほら。

鷲鼻でしわしわのおばあさんが一人、その黒い衣装を着て、家の前に置かれた椅子に座り、はるかかなたを凝視している姿を見た。
確かに絵になったのだが、気の小さな私は、写真を撮らせてくれということができなかった。
この観光地で、彼女はもう何度も素人写真のモデルになったことだろう。

町の中心の広場にくると、ここにも黒い衣装のご婦人たちが何人かいらっしゃった。
眼鏡をかけてドラえもんのようにころころとした中高年のご婦人が、黒ずくめの伝統衣装に身を包み、おしゃべりに夢中な姿は、なんとなくリアリズムを感じて私には微笑ましかったのである。

2012-06-22

アブルッツォの美しい山岳都市: アンヴェルサ・デッリ・アブルッツィ

前回までフランス国境のヴァッレ・アオスタ州にいたのだが、その後、トリノ、ミラノを通過して、はるばる中南部のアブルッツォ州までやってきた。

宿泊地はスルモーナ(Sulmona)。ここをベースキャンプにして、周辺の小さな山岳都市(というより山の村)を、路線バスでまわろうという魂胆である。

ところが、スルモーナに来てビックリ。そこそこの規模の町で、周辺の町への中・長距離バスが発着しているはずなのだが、バスターミナルがない!
橋の下の小さなスペースが、あらゆるバスの停車する停留所だとわかり、バスの時刻表を手に入れることができたのは翌日になってからのことだった。

アンヴェルサ遠景

それにしても、このあたりには、なんと魅力的な山岳都市が多いことか。

迷った末に、翌朝選んだのは、アンヴェルサ(Anversa)とスカンノ(Scanno)である。

スルモーナとスカンノのちょうど中間にアンヴェルサがあることを知って、これは一石二鳥だと、貧乏根性を発揮して一気にこの2つをめぐることにしたわけだ。ちなみに、アンヴェルサの正式な名称は、「アブルッツォ州のアンヴェルサ」という意味でアンヴェルサ・デッリ・アブルッツィというが、この周辺ではもちろんアンヴェルサだけで通じる。

アンヴェルサ旧市街

スルモーナからアンヴェルサまでは約30分。
山の中にある町なので、降り間違えるわけがないのだが、危うく失敗するところだった。

詳しくは、そのうちにホームページ本館の「イタリア町めぐり」にでも書くが、「オレはアンヴェルサだ」と誇らしげに語るじいさまの話を聞いて、当然、アンヴェルサで降りるものだと勘違いした私が悪いのである。
単にアンヴェルサ出身だということだったらしい。

町なかには3つほどの停留場があるのだが、最後の町はずれで降りなかったら、しばらくは断崖絶壁に沿って走る道が続く。
大型車両がすれ違えない道の途中で降ろされたら、命がいくつあっても足りなかったところである。

もっとも、町の最上部で降りることができたために、冒頭の写真が撮れる場所まで、苦労せずにたどりつくことができたから、よしとしよう。
しかも、この町めぐりは、大半を下り坂を歩いただけですんだわけだ。

旧市街は、例によって車も入れない狭い坂道がくねくねと続いている。
それでも、家々がよく手入れされていて、壁も窓もきれいだったが印象的だった。

そして最後の写真は、この町の中心の小さな小さな広場である。

アンヴェルサの中心の広場

次のバスまでは1時間50分。当日は、平地では35度超という暑さだった。
最後の40分ほどを残して、あとはもう歩くのをやめた。
バールの椅子に座り、昼間からビールを注文。
乾燥した喉にアルコールがしみわたった。

2012-06-20

街道沿いにひっそりとたたずむ村・ルヴローニュ(レヴェローニェ)

クールマイヨールとアオスタの間は、谷沿いに1本の街道が走っている。
そこには1時間に1本のバスが走っていて、車窓も楽しい。
また、あまり便利とは言えないが、並行して鉄道も走っている。
この鉄道線の超ローカルぶりについては、改めて総集編で取り上げたい。

ルヴローニュ

さて、当初はアオスタから東側の町をいくつか巡ろうと思っていたのだが、バスの車窓に次々に現われる町を見て、方針を変更した。
東側の町を1つだけ見て、またアオスタの西に戻ってきたのである。

列車を途中下車したり、バスに乗ったり降りたりしながら、いくつかの町(村)を訪れたのだが、一番印象に残ったのが、この村だ。
地名はLeverogne。見るからにフランス語の地名で、そのままフランス語読みをするなら「ルヴローニュ」、イタリア語読みをするなら「レヴェローニェ」になる。
行政区域としては、この辺の中心集落であるアルヴィエ(Arvier)に属しているらしい。

このバスが村に入ったときの様子は、印象的だった。
アオスタに向かって表街道を走っていたバスが、急に直角に右折して、くねくねとした旧街道らしき道に入ったのである。
やがて、車窓に現われたのが上の写真のような様子だったというわけだ。

ルヴローニュ
これを見逃す手はないと、帰路に立ち寄ったわけである。

村に足を踏み入れて驚いたのは、村の中に車が通れないような細い道が続いていること。
そして、かなり古めかしい家がずいぶんと残っていることである。
観光地でもないのだから、よそもの(しかも東洋人)にとっては、ちょっとどきどきするような雰囲気であった。

すでに廃屋になっていたところもあったが、この写真のように丁寧に手入れをしてある家も多かった。

外から見ていい感じであるだけでなく、中に入っても素晴らしい村だったのである。
しかも、バックには高い山々が借景となっている。

ルヴローニュ

日本のガイドブックにはもちろん、イタリアのガイドブックにも乗っていない小さな村である。
BS日テレの「小さな村の物語 イタリア」にも紹介されていなかった(今調べた)。

盛んに車が行き交う国道のすぐそばで、こんな村がひっそりとたたずんでいるのだ。
こんな発見があるから、いつまでたっても町めぐりはやめられない。
そして、列車やバスの中ではおちおち居眠りもできないのである。

2012-06-18

モンブランのふもと: 意外に素朴なクールマイヨール

13日夜に出発するはずの便が半日遅れて翌日の昼になったとか、おかげでディズニーランドそばの東京ベイヒルトンに夜中の2時ごろに連れて行かれたとか、振り替えになった翌日の午前便に危うく乗り遅れそうになったとか、今回の旅行は冒頭からあわただしい展開になったが、それを書いていたらいつまでも始まりそうにない。

クールマイヨールから見たモンブラン

そうした雑事は総集編にまとめるとして、まずは15日夜から17日朝まで滞在していたクールマイヨール(Courmayeur)から。イタリア北西部、アオスタ谷州(Valle d'Aosta)のさらに北西端にあり、名峰モンブラン(イタリア名・モンテビアンコ)をはさんでフランスと国境を接している。

国境の長大なモンブラントンネルを抜けて、シャモニーからクールマイヨールに入ると、そこは思いの外、落ち着いた町であった。国境の反対側にあるシャモニーの俗っぽさと比較すると意外なほど控えめである。

クールマイヨールの町

まあ、ハイシーズンの冬になると、ここも大賑わいになるのだろう。私は、この町に2泊して、ぶらぶらと近所の町をめぐることにしたのである。
 それにしても、町歩きを第一とする私だが、さすがにここから見えるモンブランには、懲りずに何度もカメラを向けてしまった。同じ町なかからも、ちょっと場所や時間を変えるだけで、いろいろな表情をみせてくれるからである。

ドロンヌ地区

さて、素朴な観光地のクールマイヨールだが、やはりここにも旧市街があった。川の対岸にあるドロンヌ(Dolonne)地区である。

イタリア語ならばドロンネとなるのだろうが、このあたりの地名はフランス語である。ホテルの人は、普段からイタリア語とフランス語とプロバンス語(南仏の言葉)を話しているといっていた。

ほぼ真夏といってよいほどの日射しを浴びながら、川をはさんで上り下り。旧市街の狭い道には犬とネコと、そしてときおり人が通り過ぎていった。

2012-06-07

京都・下京区新釜座町あたり(下)

さて、前回書いたところまでは表通りである四条通から眺めることができた。
でも、その先は行き止まりになっていると思っていた。
しかし今回、意を決して突き当たりまで進んでみると、道は右折して先に続いていたのだった。

新釜座町の路地

路地──京都ではロージというらしいが、そのロージが鉤の手に曲がっていたのである。
そして、右折して30mほど進むと、今度は左折。
左右の家並みのなかには、木版画や布地をひっそりと扱っている店もあった。

仁丹の住居表示

左折すると町名は新釜座町から矢田町へと変わる。
古壁に打ちつけてある、年季もののホーローの住居表示もいい感じ。
仁丹の広告付きである。

綾小路通側から見た路地

そして数十メートルほど進むと、路地は綾小路通に出る。
「小路」と「通」じゃ、重複しているように思えるが、ここは京都である。それなりの立派な理屈があるに違いない。

こうして、約15分ほどの小さな旅は終わった。
急げば2、3分で通り抜けられる路地であるが、ひめやかでしみじみとした風情に満ちている。
祇園のあたりならいざ知らず、この付近では珍しいのではないか。

重要文化財杉本家住宅

そして、綾小路通に出た角にあった立派な家は、京都市の重要文化財である杉本家住宅だと知った。
かつては呉服屋を営んでいたそうで、現在は保存会が公益財団法人となって家屋や庭の保存活動をしているという。

2012-06-02

京都・下京区新釜座町あたり(上)

先日は取材の仕事で関西をふらふら。
仕事の時間は、京都と尼崎でごくわずかなのだが、ついでとばかりに1泊してあちこちを散歩してきた。
まずは、日曜日昼過ぎに到着した京都。

最近は、京都に行っても、ごくごく普通の町歩きが楽しい。
素晴らしい観光名所を横目に見ながら、古めかしい商店街や裏通りの町家、年季の入ったビルなんかに引かれてしまうのだ。

西大路四条交差点

まずは、わけあって阪急の西院駅で下車。地上に出ると、この写真のある西大路四条交差点である。
広い車道があるだけの交差点なのだが、夕刻の赤っぽい光のなかで、低層の駅ビルが味わい深い。
何年も経つと、ここにも何十階建てかの高層ビルができてしまうのか。

新釜座町の路地

そのままバスで定宿に戻って一休みと思ったのだが、その前に、いつも気になっている路地を探検しようと思い立った。
それは、四条西洞院交差点から東に50mほど。商店で賑わう四条通に、昔ながらの町家の残る一角である。

新釜座町の路地

路地の入口右側にある木造の家屋は郭巨山(かっきょやま)町会所とのこと。人は住んでいないようで、家の前に貼られたA4数枚の貼り紙には、その由緒ある町の歴史と祇園祭における山鉾について、詳しく記されていた。

路地の左側は新釜座町となるらしい。この細かな町割が京都らしくて楽しい。
東京もかつては八百八町あったというのに、今では平板な町名ばかりになってしまった。

神田明神

50mほど進むと、右手に「神田明神」と染め抜かれた赤い幟が見えてきた。
「はて、京都に神田明神とは?」と思って中に入ると、そこは平将門の首が晒されたあとに建てられた明神さまだとのこと。小さな祠があるだけで、周囲は新しい整備されている。ここがパワースポットなる場所の一つであることは、東京に帰ってから知った。
お賽銭に大枚、いや大銭100円を投じたのだから、私にはかなりのパワーが宿ったに違いない。

(つづく)

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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