『万葉集』が好きである。
「過去の歴史のどこでもいいから、タイムマシンで1つだけ行かせてやる」
そういわれたら、迷わず万葉の時代を選ぶ。
まだ、大陸の堅苦しい文化がそれほど入ってこなかった時代、人びとはどんなことばを使って、どんなことを考えていたのか、この目で見てみたい。
歌に使われていることばを見ても、漢語はほとんどなく、いわゆる大和言葉がほとんど。その原始的で呪術的とさえ思える力強さを感じることができるのだ。

と、能書きはこれくらいにして、手元にある角川文庫版の『万葉集』から、なぜ上巻でなく下巻を選んだのか。
それは、ひとえに、この歌人を紹介したいからである。その名は、長忌寸意吉麻呂(ながのいみき・おきまろ)。
「長」が氏(うじ)で、「忌寸」は姓(かばね)、渡来人の家系のようである。
巻1、2、3、9にも取り上げられているが、なんといっても本領を発揮しているのが、巻16(角川文庫では下巻に収録されている)の8首。
・さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来む 狐に浴(あ)むさむ (3824)
(現代語訳)みんな、鍋(柄のついた鍋)に、お湯を沸かせ。櫟津(地名)の檜橋(ヒノキの橋?)から来る狐に浴びせようぜ。
詞書き(ことばがき)には、こうある。
右の一首は、傳へて云ふ。一時(ひととき)衆集ひて宴飲(うたげ)しき。時に夜漏三更、狐の声聞こゆ。ここに衆諸(もろびと)、意吉麻呂を誘(いざな)ひて曰く、この饌具(せんぐ)の雑器、狐の声、河、橋等の物に關(か)けて、ただに歌を作れといひき。すなはち、声に応へてこの歌を作りき。
つまり、みんなが「ここにある道具と狐の声と川と橋などを使って、歌をつくれ」というのに応えて、即興でつくった歌のようだ。「来む」(=来るだろう)が、狐の鳴き声の「コン」に掛けている。
彼は、こういう「折り込み」が得意だったようで、ほかにもこんなのがある。
香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠める歌
・香塗れる塔にな依(よ)りそ 川隅(かはくま)の屎鮒(くそぶな)喫(は)める痛き女奴(めやっこ) (3828)
(現代語訳)香を塗った塔に近寄るな、川の隅(の厠)に住む屎鮒を食べた汚い女奴は
なにも、厠だの屎だのを、わざわざ歌に詠まなくてもいいと思うのだが……。
それをあえて詠むやつも詠むやつだが、それを『万葉集』に載せて後世に残そうとしたやつも偉い。こんな歌が高校の古文の教科書に出てきたら、もう少し生徒の興味を引くに違いない。
そして、何よりも私が驚嘆したのはこれである。
双六(すごろく)の頭(さえ)を詠める歌
・一二の目のみにあらず 五六三四さへありけり双六の頭 (3827)
現代語訳を書くまでもないだろう。「1、2の目だけじゃなくて、5、6、3、4まであるじゃないか双六のサイは」というわけだ。
このサイが現代のサイコロと同じなのかどうかわからないが、それにしてもファンキーな歌である。
「ありけり」の「けり」は、過去を表しているのはなくて、感嘆の気持ちを表しているんだろう。
「当たり前だ」と言ってはおしまいである。今から1000年以上前の歌である。当時にあって、これをクソまじめに詠もうと思ったことが素晴らしい。
どうやら、人間の目とサイの目を対比して「2つだけじゃないよ」と言っているらしいのだが、そうであっても感動は薄れない。
さきほどは「ファンキー」と書いたが、はっきり言って「ダダイズム」であり「シュルレアリスム」である。
山上憶良も悪くはないが、長忌寸意吉麻呂のこの現代性は、もっと多くの人に知ってほしいと思うのだ。
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