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2011年12月の4件の記事

2011-12-28

夏の思い出・山形県長井(下)

年末のあわただしいなか、夏の思い出を書くという倒錯した記事も、今回が最終回である。
最上川東岸の山裾を1.5kmほど走ったのち、下流(町の北側)にかかる橋を渡って再び市街地に戻ってきた。

まずは、そば屋で腹ごしらえをしたのだが、その写真を撮るのを忘れた。
町はずれにある広い店に、たまたま入ったのだが、昼時とあって近郊の人でかなり込んでいた。
さすがに、自転車でやってきたのはわれわれだけのようだ。

長井市街

食後は再び町めぐり。今度は、比較的商店の多い道を走る。
かつては賑やかな商店街だったに違いないが、近ごろはどの町に行ってもシャッターを閉じた店ばかりとなってしまった。

そんななかにあって、板壁も見事な商家である岩城屋。

岩城屋

中庭には立派な桜の木があって、春には見事な眺めだそうである。

そして、順番が前後してしまったが、最初に通った南部の「あら町」で見かけた町家。
屋根の上に突き出した飾り(?)が、神社建築を思わせる

長井の民家

ここで紹介した民家、商家は、長井に残る古い家々のほんの一部である。
ぜひ一度、現地で見ていただきたい。
昼飯はそばがおすすめかな。

山形鉄道

そして、午後3時ごろの列車で赤湯に戻る。
赤湯温泉で立ち寄り湯に入るのだが、駅からは約1.5km。
駅前にはタクシーも待っていたのだが、結局歩いていくことにした。

山形鉄道車内

その後、最初の予定では山形市内まで行って晩飯を食べるつもりだったのだが、軟弱なわれわれはそれも断念。赤湯の町なかで、シーズン最後のさくらんぼを買って、満員の上り山形新幹線の客となったのであった。

2011-12-26

夏の思い出・山形県長井(中) & 長井の桜1980年

夏に行った長井の町のつづき。
これもまた立派な民家である。かつては何か商売をしていたのか。
それにしても、この家が建てられたときには、自家用車というものはあったのか。あまりにもちょうどいい幅である。

長井の民家

そして、われわれの自転車は市街地を離れて、最上川を渡る。
照りつける陽の光のもと、さえぎるものもないところを走るのは反対だったのだが、暑さ好きの妻に押し切られてしまった。

最上川沿い

と、そこで最上川の風景を見たとたん、暑さで沸騰した脳内にある光景がよみがえってきた。
「ここに来たことがある!」

そのとき、私はまだ大学生だった。
国鉄の周遊券を最大限に活用して、あちこちの路線を乗っていたのだった。
山形鉄道が長井線だった当時も、終点の荒砥まで乗っている。

長井の桜 1980年5月


そこまでは覚えていたのだが、長井で途中下車して桜を撮ったことは、ずっと記憶のかなたにうずもれていた。

というわけで、2回で終わる長井の話だったが、急遽予定を変更。

1980年5月4日に撮影した最上川沿いの満開の桜である。

長井の桜 1980年5月

暖かな春の日、堤防沿いに延々と桜並木がつづき、地元の人びとが桜を愛でて歩いていた。
バックに見える山は……どこでしょう?

そして、下の写真は最上川。
五月雨を集めて速かった。
ま、ホントの五月雨は、旧暦五月の雨だけどね。

長井の桜 1980年5月

それにしても、当時は写真が上手だったなあ。
体力があったからかな。

2011-12-25

夏の思い出・山形県長井(上)

寒くなると思い出すのが、夏の心地よい暑さのこと。
けっして心地よかったわけじゃないが、今の寒さから逃れたい。

今年も押し詰まったところで、夏に書き損なった山形への日帰り小旅行の話である。
7月18日、その日も35度近い暑い日であった。
妻とともに、JR東日本が発行した「東北応援パス」だったかを買って、まず向かったのは長井である。
いわゆる山形新幹線に乗って、赤湯で下車。山形鉄道に乗り換える。

右は奥羽本線のローカル電車。
写真の左が山形鉄道のディーゼルカー。かつての国鉄長井線である。

赤湯駅

赤湯から20分ほど、沿線でもっとも大きな町である長井で降りた。
さて、真夏のさなか、どこに行こうかと考えていると、妻が駅の隣に貸自転車があるのを発見した。
こんな暑いときに自転車に乗るのは自殺行為だと思ったのだが、彼女は乗るといって聞かない。

やむなく、もらった観光地図を片手に、市街地を隅から隅まで走ることになるのであった。

兜づくりの民家

まず目についたのが、中心部にあったこの茅葺きの民家。兜づくりである。
これを大きくしたような家が田麦俣という山の中の村にあって有名なのだが、こんな町なかにあるとは思わなかった。
田麦俣にもぜひ行ってみたいなあ。

葉茶屋

さらにそこから地図を見ながら、通りを南下。
これは、葉茶屋である。こんな家がところどころに残っているのだから、以前はかなり賑わった町なのだろう。
町を貫く最上川の海運で栄えたに違いない。

山一醤油

これは、その並びにあった山一醤油。
店の手前に並んでいるのは、もちろん砲弾ではない。
素焼きの瓶を逆さまにして置いてあるのだった。

当日は店が閉まっていたのが残念だった。
そこで、ちょっと店の横を拝見。
山一醤油の看板

なかなか素敵なホーローの看板である。
さらに大胆になって、奥を覗き込むわれわれ。
醸造所や酒造所というのは、どこも味わいの深い建物が多い。

山一醤油

まだまだ、旅ははじまったばかりであった。
(つづく)


2011-12-01

『万葉集』下巻 万葉のファンキー歌人・長忌寸意吉麻呂

『万葉集』が好きである。
「過去の歴史のどこでもいいから、タイムマシンで1つだけ行かせてやる」
そういわれたら、迷わず万葉の時代を選ぶ。
まだ、大陸の堅苦しい文化がそれほど入ってこなかった時代、人びとはどんなことばを使って、どんなことを考えていたのか、この目で見てみたい。

歌に使われていることばを見ても、漢語はほとんどなく、いわゆる大和言葉がほとんど。その原始的で呪術的とさえ思える力強さを感じることができるのだ。

『万葉集 下巻』(角川文庫)

と、能書きはこれくらいにして、手元にある角川文庫版の『万葉集』から、なぜ上巻でなく下巻を選んだのか。

それは、ひとえに、この歌人を紹介したいからである。その名は、長忌寸意吉麻呂(ながのいみき・おきまろ)。

「長」が氏(うじ)で、「忌寸」は姓(かばね)、渡来人の家系のようである。

巻1、2、3、9にも取り上げられているが、なんといっても本領を発揮しているのが、巻16(角川文庫では下巻に収録されている)の8首。

・さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来む 狐に浴(あ)むさむ (3824)

(現代語訳)みんな、鍋(柄のついた鍋)に、お湯を沸かせ。櫟津(地名)の檜橋(ヒノキの橋?)から来る狐に浴びせようぜ。

詞書き(ことばがき)には、こうある。
右の一首は、傳へて云ふ。一時(ひととき)衆集ひて宴飲(うたげ)しき。時に夜漏三更、狐の声聞こゆ。ここに衆諸(もろびと)、意吉麻呂を誘(いざな)ひて曰く、この饌具(せんぐ)の雑器、狐の声、河、橋等の物に關(か)けて、ただに歌を作れといひき。すなはち、声に応へてこの歌を作りき。

つまり、みんなが「ここにある道具と狐の声と川と橋などを使って、歌をつくれ」というのに応えて、即興でつくった歌のようだ。「来む」(=来るだろう)が、狐の鳴き声の「コン」に掛けている。

彼は、こういう「折り込み」が得意だったようで、ほかにもこんなのがある。

  香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠める歌
・香塗れる塔にな依(よ)りそ 川隅(かはくま)の屎鮒(くそぶな)喫(は)める痛き女奴(めやっこ) (3828)

(現代語訳)香を塗った塔に近寄るな、川の隅(の厠)に住む屎鮒を食べた汚い女奴は

なにも、厠だの屎だのを、わざわざ歌に詠まなくてもいいと思うのだが……。
それをあえて詠むやつも詠むやつだが、それを『万葉集』に載せて後世に残そうとしたやつも偉い。こんな歌が高校の古文の教科書に出てきたら、もう少し生徒の興味を引くに違いない。

そして、何よりも私が驚嘆したのはこれである。

  双六(すごろく)の頭(さえ)を詠める歌
・一二の目のみにあらず 五六三四さへありけり双六の頭 (3827)

現代語訳を書くまでもないだろう。「1、2の目だけじゃなくて、5、6、3、4まであるじゃないか双六のサイは」というわけだ。
このサイが現代のサイコロと同じなのかどうかわからないが、それにしてもファンキーな歌である。
「ありけり」の「けり」は、過去を表しているのはなくて、感嘆の気持ちを表しているんだろう。

「当たり前だ」と言ってはおしまいである。今から1000年以上前の歌である。当時にあって、これをクソまじめに詠もうと思ったことが素晴らしい。
どうやら、人間の目とサイの目を対比して「2つだけじゃないよ」と言っているらしいのだが、そうであっても感動は薄れない。

さきほどは「ファンキー」と書いたが、はっきり言って「ダダイズム」であり「シュルレアリスム」である。
山上憶良も悪くはないが、長忌寸意吉麻呂のこの現代性は、もっと多くの人に知ってほしいと思うのだ。

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