« 吾妻線----ダム底に沈む川原湯温泉駅あたり | トップページ | 堀内孝雄「時の流れに」PVに写真を提供 »

2011-08-20

『歎異抄』(関西弁訳)

親鸞聖人による「他力」の教えをまとめた『歎異抄』(たんにしょう)を、なんと関西弁で訳したものである。
はたして『歎異抄』を関西弁で訳すことに意味があるのかといえば……頭の固い人にはおもしろくないだろうが、私はあると思う。そもそもこの書物自体、親鸞聖人亡きあと、その教えが師のものと「異」なっていることを、弟子の唯円が「歎」き、師の口述をまとめたものである。
だったら、人びとに教えを広めた口調で訳してちっとも不思議ではないと思う。実際に親鸞聖人が、どんなお国ことばで話していたかは別として。
原文もついているので、古文の勉強にもなるし、関西弁の勉強にもなる、かもしれない。

『歎異抄』(関西弁訳)

かの有名な「悪人正機の教え」の一節の前半は、原文では次のように記されている。
「悪人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを 世のひと つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」

これを、この本はこう訳している。
「善(え)え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なんで善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理屈に合(お)うとるようやけど、それは『ひとまかせ(=他力本願)』ちゅうモットーにはずれとるんや。つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、『お願いします』ちゅう気持ちの欠けている分だけ、アミダはんのいわはる誓いと違(ちご)うとる」

なんとすっきり心に入ってくることだろう。
自力本願がかなわぬゆえ、迷いの尽きない凡夫である我々の目の前に、親鸞聖人がすっくと立ち現れて、優しくせつせつと説教してくれているようにさえ思える。
賛否両論はあろうが、まさしく、目のうろこが落ちる(この表現自体は、異教の聖典である『聖書』という書物にあるそうなのだが)気分である。

思えば、かの大震災以後、いかに数多くの善人が世の中に出現したことか。
でも、新聞やネットで「学級委員の主張」のような「正論」ばかり読んでいると、少し息苦しい。「ちょっと待ってくれよ」と、へそ曲りの虫が騒ぎだすのである。

善人の定義をどうするかは論議があるだろうが、現代語の語義のまま、私は「自分はいいことをしていると思っている人」「自分の言動や行動に、いささかの疑問も抱いていない人」として解釈したい。
もちろん、そうした善人の方々の発言や行動が、「なにか、自分にできることをしなくては」という、ある種の使命感や焦燥感にかられてのことだということは理解できる。

でも、「自分はいいことをしている」と、かすかでも思い込むと厄介である。そう思った瞬間に、世の中を一つの価値観で判断するようになってしまうのだから。それはやがて、「自分はいいことをしているのに、なぜ理解できないのだ」「自分の意見に反するやつは悪だ」という発想につながってくる。
だから「善人」は救われないのだ。

結果的にいいことをしたのなら、それはそれでいい。でも、「自分はいいことをしているぜ」「自分が世の中をよくするんだ」なんて思ったら「善人のはじまり」である。「やりたいからやっているだけ」「気持ちいいから続けているだけ」というスタンスを守っていきたい。

世の中はなるがままにしかならないのだ。
「『自分たのみ(=自力本願)』という心を入れ替えて、まあ『あんじょう頼んます』と願(ねご)うとれば、ホンマもんの極楽行きも間違いなしやで」と親鸞聖人は教えている。

(発行:光文社 古典新訳文庫、著者:唯円、訳者:川村湊、定価:533円+税、初版発行:2009年9月20日、ISBN978-4334751937)

« 吾妻線----ダム底に沈む川原湯温泉駅あたり | トップページ | 堀内孝雄「時の流れに」PVに写真を提供 »

本棚の肥やし」カテゴリの記事

コメント

凡夫である私たちが、ものごとを自力で解決できるなんて考えること自体が、思い上がりなんです……ということだと思います。

他力本願 自力本願で 検索中です。
私の自論からいえば、結局 祈るということは 自力で他力でも あると思う。結論と相違の解釈~
自力といわれたほうが いい時がある
他力といわれた時のが いい時がある
自力とかのが カッコいいかなぁ?
尾崎豊さんの 僕が僕であるために という歌詞が浮かんできました宗教研究会(名前検討中

ikeさん、こんにちは。ikeさんには縁が薄そうな旅行先ですが、仕事か何かでしょうか。私も久しぶりにインドにでもいって、即物的なパワーを身に受けてこなくては。
この本の話、ずいぶん前から予定していたのですが、やっとアップしました。でも、今読み返して見ると、「お前だって偉そうじゃん」と言われそうですね。
きょうの朝刊もまた、何でもかんでも震災に結びつけたがる記事ばかりなので、ちょっと疲労感。

19日から香港・マカオに行き、激しく膨張するカネと建造物の世界に圧倒されて帰ってきたところです。ああいう場所では、善人ぶることが何とも空しく思えたりします。

『歎異抄』のその有名な一節については、私にはどうも難解過ぎて、当時の庶民にとってもチンプンカンプンだったのではないかと訝っておりました。
でも、口語で聞くようにしてみると、確かに易しく優しく聞こえてきますね。

「梁塵秘抄」も同じ訳者なんですね。
今度見てみます。
「地獄への道は善意の石畳でできている」って言葉は、不勉強で知りませんでしたが、よ~くわかります。
善意は断れないだけでなくて、善意の人とは議論もできないんだなあ。
「24時間テレビ」は、テレビ欄を見てもぶち抜きで、何時に何をやっているかわからないので、見たことがありません。

このシリーズ面白いですよね。私も先日、「梁塵秘抄」を読みました。ノリのいい訳で、まさに「今様」。

私には関西弁は分かりにくいのですが、それでええやん、な優しさは伝わります。

震災後の色々については、同意見。「地獄への道は善意の石畳でできている」ってのも、聖書のことばだけれど、善意って断れないから、怖いよね。あの「勇気を与える」っていう言いまわしもどうにかしてほしい。すごく上から目線だよね。

今も24時間テレビをやってます。昔はあんなの大嫌いだったけれど(ギャラが出てるからね)、最近はちょっと違って、ないよりはいいのかな、とも思い始めてる。歳とると、必要悪にも寛大になる時がある。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 吾妻線----ダム底に沈む川原湯温泉駅あたり | トップページ | 堀内孝雄「時の流れに」PVに写真を提供 »