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2010年10月の5件の記事

2010-10-30

シンガポールの中華街 1989年

寒くなってくると思い出すのが暑い国を旅行したときのこと。
行ってみると、「もう暑いのは嫌だ」と思うのだが。

シンガポールの中華街

1989年3月、タイ、スリランカ、インド、ネパールを経てシンガポールにやってきた。
前もって聞いていたとおり、よくも悪くもきれいな町だったが、そんななかで心ひかれたのが昔ながらの中華街。上の写真のように、どこか絵のなかの世界のように見えた。

シンガポールの中華街

夕方になると人通りも多くなり、勤め帰りの人が次々と食堂に吸い込まれていく。
レストランというのではなく、まさしく食堂である。
広い間口はすべてドアが開け放され、通りから丸見えだ。店内には、まさに大衆食堂でよく見かける安っぽい4人用のテーブルが数えきれないほど不揃いに並び、そのテーブルの両側では満員の客がみないっしんに箸やスプーンを動かしている。

もちろん、私もぶらぶらと夕方の散歩をしたのち、客が少なくなったころを見計らって、その店で晩飯を食べた。
いわゆるチリソースの炒め物が、実にクリアで刺激的な味だったことを覚えている。

だが、時間がとまったような中華街も、まもなく姿を消すことは予備知識のない旅行者にも容易に想像できた。
周囲には近代的なビルが迫り、そうした新しい町との境界あたりでは活発に建築工事が行われている。
最後の写真にあるような、古い町並みには不似合いな歩道橋も建設中だった。

その後の情報によれば、古い中華街が取り壊されたのち、客寄せのために外見を真似た観光施設やショッピングセンターが建設されたという。
だが、地元の人にはあまり評判がよくないそうだ。まあ、そりゃそうだろうと思う。

2010-10-23

スティーブ・ジョブズ『2005年スタンフォード大学卒業式祝辞』

2005年、日経BP社の仕事で、アップルの創業者スティーブ・ジョブズのスピーチを翻訳したことがありました。内容は、同年のスタンフォード大学卒業式の祝辞です。
翻訳したものは『スティーブ・ジョブス氏に学ぶ「仕事の意義・人生の意味」』と題して、日経BP社が運営する「SAFETY JAPAN 2005」のページに掲載されました。
現在では、残念ながら同ページを見ることはできなくなってしまっています。そこで、ぜひまた見たいというご要望を受け、私が当時翻訳した原文のまま、ここに掲載をいたします(ただし、見やすいように、小見出しを今回加えました)。

もとのページでは「抄訳」とされていますが、これは権利関係をクリアにするために必要な措置であったとかで、実際にはほとんどの内容を訳出しています。
ただ、抄訳ということを逆手にとって、日本人の読者が読んでもわかりやすいように、いわゆる意訳をしたり、一部を省略している部分があります。
また、なるべく自然な会話調にすることを心がけましたが、アメリカの知識人による大学卒業式でのスピーチであることを考えて、俗っぽい表現は極力避けました。
……というわけで、前置きが長くなりましたが、スティーブ・ジョブズの優れたスピーチを味わっていただければ幸いです。

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 本日は、世界でも指折りの大学の卒業式に同席できて大変に光栄です。私は大学を卒業したことがないものですから、正直なところ、今回がこれまでで卒業にもっとも近い体験なんです。

 きょうは、みなさんに、私の人生から得た3つのお話をします。

生みの親と育ての親、そしてリード大学入学と中退

 最初の話は、点と点を結ぶということです。

 私は、リード大学をたった半年で中退しています。もっとも、正式に退学するまで、その後1年半も授業を受けていましたけどね。
 まずは、その中退のいきさつから話したいのですが、それには私が誕生する前のエピソードからはじめなくてはなりません。

 私の生みの親は、未婚の大学院生でした。生まれたらすぐに私を養子に出すこと、そしてその相手は大卒の夫婦と決めていたそうです。
 現に、弁護士夫婦が私を引き取ることになっていたのですが、出産直前になって、女の子が欲しいと言い出したのだとか。
 そこで、キャンセル待ちリストに載っていた別の夫婦に、真夜中に電話がかかってきたというわけです。これが私の今の両親です。
 ところが、母親は大学を出ていないし、父親に至っては高校も卒業していませんでした。生みの母親は、あとでそれを知り、養子縁組の書類にサインを拒否してしまいます。
 結局、2、3ヵ月ほどして、育ての親が、将来私を大学に行かせると約束。やっと生みの母親も折れたのだそうです。

 その17年後、確かに私は大学に入学できました。
 ところが、世間知らずなものだから、選んだリード大学というのはスタンフォード並みに学費が高い。労働者階級である親の貯えは、みるみるうちに学費に消えていきました。
 私はといえば、半年も過ぎると、大学にいる意義を感じなくなっていました。人生で何がやりたいのかもわからず、大学がどう役に立つのかもわからない。ただ、親がこれまで貯めてきた金を浪費するだけ。
 それで中退を決めたんです。すべてがうまく行くと信じて。
 もちろん、そのときは不安でした。でも、いま思うと、人生で最良の決断でしたね。なにしろ、興味のない科目はもう受ける必要がないし、おもしろそうな科目だけ聞くことができるのですから。

 もっとも、「ロマン」とはほど遠い生活でした。寮に自分の部屋がないから、寝るのは友人の部屋の床。返却したコーラの瓶代5セントを食費にあてたり、毎週日曜の夜に10kmも離れたハレクリシュナ寺院まで歩いて、やっとウマい食事にありついたりといった日々が続きました。
 とはいえ、このころ好奇心と直感にしたがって行動したことは、金銭に代えられないほど貴重な経験となって、のちに生きてきます。

点と点が結ばれていることを信じれば、人生に失望することはない

 実例を1つあげてみましょう。

 当時、リード大学のカリグラフィ(書道)教育は、国内最高水準のものでした。キャンパスを見ても、ポスターから引き出しのラベルまで、美しい手書きの飾り文字で飾られていたんです。
 そこで、試しにカリグラフィの授業をとってみようと思い立ちました。どうせ私は退学したんですから、通常のクラスに出る必要はないですし。
 私は、さまざまな書体を学び、文字の違いによって間隔を調整する方法を学び、活字を美しく表現する方法を学びました。まさにそれは、科学ではとらえることのできない芸術の世界。すっかり私は魅せられてしまいました。

 確かに、こんなことは、生きる上で役立ちそうもないように思うでしょう。でも、その10年後、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計するときになって、すべてがよみがえってきたのです。
 私は、かつて学んだカリグラフィを応用して、美しい書体を備えた世界初のコンピュータ、マックを完成させたのです。
 もし、私が大学であのコースに出なかったら、マックには複数のフォントもプロポーショナルフォントも入っていなかったでしょう。ウィンドウズがマックの真似であることを考えると、おそらくいまだにそんな機能を持つパソコンは1台も現れなかったに違いありません。

 中退しなければ、カリグラフィの授業には出なかった。そして、カリグラフィの授業に出なければ、美しい書体のパソコンはできなかった。

 もちろん当時の私には、未来に先回りして、そうした点と点を結ぶことなど、できるわけがありません。でも、10年たってから過去を振り返ってみると、点と点のつながりは明らかです。
 みなさんも、未来を先取りして点と点を結ぶことはできないでしょう。でも、過去を振り返って点と点を結ぶことはできるはずです。
 ですから、いまはつながりがないことがらであっても、将来は結ぶことができるかもしれない──それを信じてほしいんです。
 勇気、運命、人生、宿命……何でもいい。とにかく信じることです。点と点が結ばれていくことを信じれば、人生に失望することなんかありません。それどころか、人生がまるで見違えるものになることでしょう。

自分で創業したアップル社から追い出されてしまう

 さて、2番目の話は、愛と喪失についてです。
 私が幸運だったのは、人生の早い段階で、自分が打ち込める仕事を見つけたことでしょう。実家のガレージで、ウォズ(スティーブ・ウォズニアック)といっしょにアップルをはじめたのは、20歳のときでした。
 そして懸命に働いた結果、10年後には従業員4000人以上、売上高20億ドルの企業に成長。最高の作品であるマッキントッシュを発表することになります。しかし、そのたった1年後、30歳になったとたんに、私は会社をクビになってしまいました。

 自分が設立した会社をクビになるなんて、おかしな話でしょう。
 実は、こういうことなんです。アップル社の拡大にともなって、私は会社を任せられる有能な人間を雇いました。確かに、最初の1年ほどはうまくいったのですが、じきに将来のビジョンについて意見が分かれてしまいました。
 結局、取締役会も彼に味方し、私は30歳で会社を追い出され、社会的にも落ちこぼれてしまったわけです。社会人としての人生すべてを賭けたものが、まるでなくなったのですから、それはひどく打ちのめされました。

 2、3ヵ月間は、どうしたらよいのか本当にわかりませんでした。自分のために、前世代の起業家の業績をおとしめてしまった──手渡されたリレーのバトンを落としたように感じたのです。
 ひどいヘマをやらかしたお詫びをしようと、デイヴィッド・パッカード(HPの共同創業者の1人)とボブ・ノイス(インテルの共同創業者の1人)にも会いました。シリコンヴァレーから逃げ出そうとも考えたほどです。
 でも、そんななかに、少しずつ明かりが射してきました。私は、自分が打ち込んできた仕事を、まだまだ愛していることに気づいたのです。
 アップルでの出来事があっても、その気持ちは少しも変わりませんでした。つれなくされても、やっぱり愛しているんです。そこで、もう一度やり直すことに決めました。

アップルをクビになったことで私が得たもの

 そのときは気がつきませんでしたが、のちになって、アップルをクビになったことは、人生で最良の出来事だとわかってきました。
 成功者としての重圧は消え、再び初心者の気軽さが戻ってきました。
 おかげで、私の人生でも、このうえなく創造的な時代を迎えることができたのです。

 その後の5年間に、ネクスト(NeXT)という会社を立ち上げ、続いてピクサー(Pixer)という会社を設立し、素晴らしい女性にめぐりあいました。それが、今の妻なんですけどね。
 のちにピクサーは、世界初のコンピュータ・アニメ映画「トイ・ストーリー」を制作。世界最高のアニメーション・スタジオになりました。

 その後、事は意外な方向に進み、ネクストはアップルに買収され、私はアップルに戻ることになりました。そして、私たちがネクストで培った技術は、アップル再生の中心的な役割を果たしています。一方、妻ロレーヌと私は、素晴らしい家庭を築いてきたというわけです。

 それにしても確かなのは、アップルをクビになっていなければ、こうした出来事は1つとして起きなかったということです。口に苦い薬でしたが、病人には必要だったんでしょう。
 人生には、時にレンガで頭をガツンとやられることがあるものです。でも、信念を失ってはいけません。私がここまで続けられたのは、自分のやっていることが好きだったからにほかなりません。
 みなさんも、自分が打ち込めるもの──愛するものを見つけ出してほしいのです。これは、仕事でも恋愛でも同じこと。
 みなさんの人生において、仕事は大きな割合を占めることになるでしょう。そこで本当に満足感を味わいたければ、素晴らしいと信じる仕事をする以外にありません。
 そして、素晴らしい仕事をするには、自分の仕事を愛することにつきるのです。

 まだ、そんな仕事は見つかっていないというならば、探し続けてください。妥協は禁物です。見つかればピンとくるはずですよ。
 そして、愛する仕事というのは、素晴らしい人間関係と同じで、年を経るごとに自分を高めてくれるのです。
 ですから、探し続けてください。妥協してはいけません。

すい臓がんが見つかって余命半年を宣告されたこと

3番目の話は、死についてです。

 17歳のとき、こんな言葉を本で読みました。
「毎日を、人生最後の日だと思って生きなさい。そうすれば、いつか必ずその通りになる日が来るでしょう」
 これには強烈な印象を受けました。それ以来33年間、毎朝私は鏡に向かって自問自答してきました。
「もし今日が人生最後の日だとしたら、本当に今日のスケジュールでいいのか?」
 「ノー」と答える日が長く続くと、私は「何かを変えなくてはならない」と考えはじめます。

 死を目前にした自分を想像することは、人生の大きな選択をする際に、ずいぶんと役に立ちました。
 というのも、他人からの期待、自分のプライド、失敗への恐れなんて、死に直面したらバッと消え去ってしまいます。残るのは、本当に重要なことだけ。
 また、自分もいつかは死ぬんだと想像すれば、「自分には失いたくないものがある」なんていう思い違いをしなくて済みます。
 みなさんには、失うべきものは何もないのです。心のおもむくままに生きて、何も悪いことはありません。

 1年ほど前、私の体にガンが見つかりました。検査の結果、すい臓にはっきりと腫瘍が映っていたんです。それまでは、すい臓が何であるかも知らなかったのに。
 医者の言うには、これは治療ができないガンにほぼ間違いない。余命は3ヵ月から、よくて半年。
 そして、家に帰ってやるべきことを済ませなさいとアドバイスしてくれました。
 つまり、死に支度をしろというわけです。ということは、今後10年間かけて子どもたちに伝えようとしたことを、たったの2、3ヵ月で言えということです。
 家族が心安らかに暮らせるよう、引き継ぎをしろということです。要するに、別れを告げてこいということです。

 その日の夕方、生体検査を受けました。喉から内視鏡を入れ、胃から腸に通し、すい臓に針を刺して腫瘍の細胞をとってきたのです。
 あとで妻から聞いた話によれば、医師が顕微鏡で細胞を覗いたとたん、叫び声を上げたのだとか。というのも、すい臓ガンにしてはごく珍しく、手術で治せるタイプのものだとわかったからなんです。
 こうして私は手術を受け、いまでは元気になりました。

 これまでの生涯のなかで、私がもっとも死に近づいた瞬間といっていいでしょうね。できれば、あと何十年かは、これ以上近づきたくないものです。
 こんな経験をしたもので、以前よりもちょっと自信をもって言えるんですが、死というのは有用でかつ純粋に知的な概念なんです。
 わかりやすく説明しましょう。

 誰も死にたいと思っている人はいません。天国に行きたいと願っている人はいますが、そのために死のうとは思っていないでしょう。
 でも、それでいて、死というのは私たち誰もが向かう終着点でもあります。死を免れた人なんていません。
 それにはわけがあります。「死」というのは、「生」による唯一で最高の発明だからです。死によって、古いものが消え去り、新しいもののために道が開けるのです。
 いまの時点で、新しいものとは、みなさんのことです。でも、遠からず、みなさんもだんだんと古くなり、消え去っていくでしょう。
 ちょっと重苦しい話ですみません。でも、本当のことなんですよ。

みずからの心と直感に従って行動してほしい

 みなさんの時間には限りがあります。自分らしくない人生を過ごして、ムダにする暇なんかありません。
 決まりきった教義なんかにとらわれてはいけません。それは、ほかの人が考えた結果を生きていくに過ぎないことだからです。他人の意見という騒音に、みなさんの心の声がかき消されないようにしてください。
 もっとも大切なのは、みずからの心や直感に従い、勇気を持って行動することです。心や直感というものは、みなさんが本当に望んでいる姿を、すでに知っているのです。

 私が若かったころ、「The Whole Earth Catalog」(全地球カタログ)という、それはそれはスゴい本がありました。私たちの世代では、バイブルのような扱いでした。
 ステュアート・ブランドという人が、ここから遠くないメンローパークで制作したもので、独特の詩的なタッチで、いきいきとした誌面が展開されていました。
 1960年代の終わりですから、パソコンもDTPもありません。タイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作られていたんです。
 いってみれば、グーグルのペーパーバック版という感じでしょうか。理想に燃えた誌面からは、素敵なツールと高邁な信念があふれていました。

 ステュアートとそのチームは、「The Whole Earth Catalog」の版を数回重ね、一通りのことをやってしまったところで、最終版を発行しました。
 1970年代の半ば。私が、みなさんの年ごろだったときです。
 最終版の裏表紙は、朝早い田舎道の写真。ヒッチハイクの経験がある人ならば、一度は目にしたことのあるような風景です。
 写真の下には、こんな言葉が書かれていました。
「ハングリーであれ、愚かであれ」
 それが、彼らの別れのメッセージだったのです。
 ハングリーであれ、愚かであれ──それ以来、私はいつもそうありたいと願ってきました。そしていま、卒業を迎えて新しい人生に向かうみなさんに、私は望みたい。

ハングリーであれ、愚かであれ!
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翻訳:二邑亭駄菓子こと、二村高史(FUTAMURA Takashi)

2010-10-19

東京スカイツリーとボンネットバス

週末に押上から業平橋あたりを歩いたのだが、町が工事中のスカイツリーを見にくる人であふれているのに驚いた。
しかも、道行く人の半分くらいが首を上に向けている。
そして、ちょっと見通しのいいところでは、デジカメや携帯カメラを出して記念撮影している。
今からこうだから、完成したらいったいどんな騒動になるのだろうか。

ボンネットバス

私は別の目的で、このあたりをうろうろしていたのだが、そんなときにやってきたのがこれ。
ボンネットバスである。
曳舟川通りで信号を待っていたら、横に止まった。
あわててカメラを出して、バスの前にまわり、ようやく撮ったのがこの1枚目。

ボンネットバスとスカイツリー

側面に「三重交通」とあったので、「なぜ三重交通のバスがここまで?」と思ったが、正面上の表示でわかった。

NPOバス保存会の所有車なのだ。

とはいえ、なぜここを走っていたのかという疑問が解消したわけじゃないが、まあそんなことはどうでもいいのだ。

当然、旧型のボンネットバスとはいえ、歩行者よりは早い。
だから、これでもう写真は撮れないと思っていたら、なんと次の大通りに出る信号にまた引っかかっていた。

それを見て、重いバッグを持ちながら全速力で駆けだす私。
信号が長いのを幸い先回りして、道の反対側で待ち構えた。
そこまで行けば、スカイツリーがフレームに入るというところまでは計算通りだった。

ボンネットバスとスカイツリー

だが、スカイツリーはやっぱりデカかった。
なにしろ、そろそろ500mに届こうという建造物である。
間近でフレームに収めるのは、28mm程度の広角レンズではとうてい不可能。
というわけで、下のほうがちょっと入った写真か撮れただけである。

それにしても、周囲にはあんなにスカイツリーの見物客がいたのに、ボンネットバスにカメラを向けていた人が皆無だったのは解せない。
それどころか、興味を示していた人も見当たらなかったのは不思議である。
私のようなモノ好きは別として、古いもの好きと新しいもの好きは、別のタイプの人間なのかもしれない。

週末の午後、ボンネットバスとの一瞬の出会いであった。


ところで、過去に現役のボンネットバスの写真を1枚だけ撮ったことがある。
それが、下の写真だ。

九州産交のボンネットバス

1973年7月、阿蘇の南側で見た九州産交バスのボンネットバスである。
国鉄高森線(現・南阿蘇鉄道)の阿蘇下田駅と垂玉温泉を結んでいた。
高校生だった私は、友人たちと蒸気機関車を撮りに来て、このバスに乗って垂玉温泉の国民宿舎に1泊したのであった。

当時、すでにボンネットバスは珍しく、まさかこんなところで出会うとは思わなかった。
温泉に行く道はカーブの連続で、大型バスが入れなかったのだろう。
確か、道も途中から舗装されていなかった。
左右に揺れるのはもちろん、天井に頭を打ちそうになるくらい上下に激しく揺れたことを覚えている。

2010-10-06

22世紀まであと90年

私たちの世代が少年少女のころ、「21世紀」ということばは未来の象徴だった。
それは、つねに未来であって、永遠に訪れないものだと思っていた。
「2001年になったら45歳だよ~」なんて会話はしていたけれど。

小学校の図画の時間には、21世紀なんていうタイトルの絵をグループごとに描かされた覚えがあるが、たぶんどのグループの絵のようにもなっていないに違いない。
なにしろ、今でも生まれ育った東京の下町には木造家屋が密集して、道端には雑草が生えているのだ。
そして、新幹線は網走や高知に伸びることもなく、リニアモーターカーが東海道を走ってもいない。
目に見えるところは、少なくとも思ったほど変わらなかった。

東大病院にて

そんなことを思い出したのも、東大病院でこの表示を見たからだ。
「22世紀医療センター」
一瞬ぎょっとしたが、考えてみれば不思議ではない。もはや21世紀は現実そのものなんだから、未来といったら22世紀だろう。
でも、21世紀になったことさえ、いまだに実感がわかないのだから、22世紀が来るなんて思ってもみなかった。
このネーミングを考えた人は、よほど想像力がたくましいのか、それとも単に21の次だから22にしたのか。

いずれにしても、22世紀はあとたったの90年でやってくるのだ。
私自身は22世紀を見ることはないだろうが、今年生まれてきた子どもたちならば十分に見る可能性がある。

2010-10-03

「国鉄」は生きている----新橋駅近くにて

国鉄が分割民営化され、JRが発足して23年。
いまだに、「国鉄」と記された看板を発見した。
しかも、1日に乗客が数えるほどというローカル線ではなく、東京都心の新橋駅前である。

「国鉄」表記のある看板

場所は、新橋駅の汐留口を出て東側に進んだところにある地下道入口。
おそらく、JRの管轄外なのだろう。
別に意味が通じれば問題ないので、せっかくだからこのまま残してほしいものである。
もっとも、そのうち「国鉄って何?」という若者が過半数を占めるかもしれないけどね。

もちろん、営団地下鉄というのもそのまま。
東京メトロと都営地下鉄が統合されれば、この看板も変わるときが来るのだろうか。

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