« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月の5件の記事

2010-08-29

バンコク:フアランポーン駅 1989年

当時、バンコクの国際空港といえば、首都の北方20キロほどのところにあるドンムアン空港であった。
前日の真夜中に成田から到着した私は、空港そばのホテルを奮発。翌日の昼前にタイ航空機でスリランカのコロンボに向けて出発するはずだった。

ところが、チェックインをしてみたら出発は4時間遅れという。
そんなに時間があるならと、バンコクの市内まで行って帰ってこようと思い立ったのであった。

日本製のディーゼルカー

空港とホテルを結ぶ通路の下に線路が走っていて、小さなホームがあることは朝のうちに目にしていた。
「常識で考えればバンコクの都心に通じているはずだ」
都心までバスで行けることは知っていたが、それじゃおもしろくない。
やはり列車に乗っていきたいものである。

だが、書かれているのはタイ語の文字ばかり。
とほうにくれていると、タイ文字の山のなかに、「BANGKOK」という一語が矢印とともに目に入った。
「よし」とばかりに、出札口で「バンコク」と言って切符を買い、矢印に沿ってホームに出た。

客車

10分ほど待ったところで、いかにも日本製という端正なデザインのステンレス製ディーゼルカーがやってきた。
案の定、車内で確認すると、やはり「日立製作所」と記されていた。1枚目の写真の車両である。
それはいいのだが、春とはいえ、ほぼ満員の車内でエアコンなしはきつい。

それでも、退屈そうな地元のタイ人乗客のなかで、私はただ一人、好奇心丸出しで車窓を眺めていた。
田舎の風景から町のそれに変わり、ごちゃごちゃした市場らしきところを越えると、約30分で終点の立派な駅に到着した。
当時のバンコクの中央駅が、フアランポーンだかホアラムポーンだかと発音することを知ったのは、帰ってきてからのことである。
駅の周辺もぶらぶら歩いているはずなのだが、写真を撮っていない。覚えているのは、道がほこりっぽくて、ガソリン臭かったことだけである。
やはり飛行機の出発時間が気になっていたのだろう。帰りの列車の時刻は、着いてすぐに調べたはずだが。

フアランポーン駅

結局、このとき撮ったのは駅構内の写真が5枚だけ。ここに挙げたのがそのうちの3枚である。
ドームに覆われた姿はミラノ中央駅のようでもあり、泥臭い雰囲気は昔の上野駅のようでもあった。

もちろん、バンコクの町には新交通システムが走っておらず、高層ビルも建っていなかったころの話である。
ちなみに電車賃は片道5バーツ。ガイドブックによると、空港からの直行バスは約50バーツ、タクシーは約500バーツだったらしい。

2010-08-21

長野で小田急ロマンスカー、日比谷線電車と再会

黒姫高原からの帰り道、同伴者が「小布施にも行ってみたい」と言い出した。
長野駅からは運よく、1時間に1本ほどの長野電鉄の特急電車に間にあった。
それが、つい最近まで東京の小田急電鉄で活躍していたロマンスカーHiSE車である。
下の写真の左側の車両。小田急のときより、ちょっと短いけどね。

長野電鉄の特急車両

特急料金は100円。残念ながら須坂止まりで、そこからは長野電鉄オリジナル2000形の特急に乗り換えなくてはならなかった。
もっとも、こちらは旧・成田エクスプレス車両の導入にともなって廃車が予想されるので、お名残乗車という意味では大きな意味がある。
しかも、上の写真のように旧塗装になっていたとは知らなかった。

村上橋

3時ごろの中途半端な時間を走るロマンスカーはがらがらだったので、先頭部に乗車。
りんご畑やぶどう畑の眺めを堪能した。

途中、架け替えられたばかりの村上橋梁も通過。
2枚目の写真である。
以前よりずっとモダンになったが、それでも鉄道と道路が一体化した橋が維持されたのはうれしい。

旧・日比谷線車両とのすれ違い

そして、次の写真は、旧・地下鉄日比谷線の車両とのすれ違い。
東京では別々の路線で活躍していた電車が、長野で同じ線路の上を走るのもおもしろいものである。

そして、最後にもう1枚。小布施駅のホームにあった表示板だ。

小布施駅の表示板

信州中野の「州」が、俗字なのか別字なのか、浅学なもので、はじめて目にした字である。

ところで、小布施にはじめて足を運んだのは、今から20年以上も前のこと。
古い町並みと北斎の絵があるというので、何かのついでに立ち寄ったのだった。

その後、町おこしが盛んになって、すっかり町は見違えるようになった。
なにしろ観光バスで乗り付けるようになったのだから、以前のさびれた町を知っている身としては驚きである。

2010-08-19

黒姫高原散策

野尻湖の花火を見た翌日は、同じ長野県信濃町に属する黒姫高原を散策した。
ここには、癒しの森といって、野尻湖畔や黒姫高原の森を歩くコースがいくつか設定されている。
町には森林カウンセラーやアロマセラビストの資格を持った人も多く、都会生活に疲れた人間が心を癒しにくるための施設が整っている……というわけで前回は取材の仕事でやってきたわけだ。

黒姫高原のバス停

この写真は、黒姫高原を走る路線バスのバス停。
バスは、1時間に1本くらいやってくる。乗りたかったけど、宿の人に送り迎えをしてもらったので、乗る機会がなかった。

春にきたときは、野尻湖畔のコースを地元の人に引率されて、数人のグループに分かれてのんびりと歩いたのが印象的だった。
最近では「癒し」ということばが氾濫して食傷気味なのだが、ここの森は本物である。
今回は、ミヒャエル・エンデや松谷みよ子をはじめ、多くの童話作家の貴重な資料を集めた黒姫童話館をスタートして、近くの御鹿池をまわってくる超初級コースを歩いてきた。

黒姫童話館前からの眺め

高低差も少なく、誰でも歩けるのがいいところ。
35度にも達する東京や長野市内とは別天地で、フィトンチットに触れてきた。
これでまた、2、3カ月分ほどの仕事を片づける気力が湧いてきた……ような気がした。

昼すぎに宿の人に駅まで送ってもらい、そこで春の仕事で世話になった役場の人と再会。
信濃町役場の若きエースである。
今度は、彼の車でおすすめのそば屋へ。

黒姫山をバックにした御鹿池

地元産のキノコの天ぷらやわかさぎ(もちろん冷凍ものだがウマかった)のフライをおつまみに、高原で味わう地ビールとそばはなかなかだった。
食べるのに夢中で、写真を撮るのを忘れた……。
そして、店内にある即売所でトマトやらキノコやらを、しこたま買い込んだ我々であった。

2010-08-14

野尻湖の花火大会

花火の写真というのは、撮っているそのときは楽しいのだが、あとになってほとんど見返すことがない。
ましてや、他人の撮った花火の写真を見せられることほど、つまらないものはない。
……ということを重々承知のうえで、7月31日に野尻湖で見た花火を紹介したい。

夕刻の野尻湖

野尻湖は、いまさら説明するまでもなく、長野県の北端近く位置する湖である。
行政区域でいうと長野県信濃町。以前、ブログでも書いたように、この春に仕事で訪れた町である。
「また、ぜひ来てくださいね。花火のときもそんなに混まないし、湖面に映るのがきれいですよ」
正直者だから、そう言われて素直に従ったというわけだ。

琵琶島の弁天堂

花火の開始は19時半。宿から中心部まで車で送ってもらい、ナウマン象博物館を見終わったのが17時前。
暇そうなご老人たちが、三々五々湖畔に集まりはじめていたので、我々もベンチに腰掛けて待つことにした。
もちろん、ビールとおつまみを買って……。

野尻湖の花火

見物人の数が東京とは比較にならないから、湖岸はいたってのんびりしたものだ。
開始直前に来ても、どこかに場所はある。

とはいえ、湖面に花火が映る様子をじっくり見るには、やはり岸壁に近い場所がベストである。
というわけで、いい加減に尻が痛くなったところで花火がはじまった。

なかなか気をつかっているなと感じたのは、湖のあちこちに打ち上げ場所が設けられていた点である。
これならば、湖岸のどこで見ていても満足できる。

野尻湖の花火

全部で3000発。
けっして派手ではないが、ゆったりと楽しめる花火大会であった。
宿では、21時すぎからの夕食を用意してくれていた。

2010-08-08

『ラッキー』よ永遠に--ある宮古島料理店のこと

(その後、ラッキーは元の場所で復活して営業しています!)

東京・亀戸にある宮古島料理『ラッキー』が7月いっぱいで閉店となった。
最近は半年に1、2回しか足を運ばなくなってしまったので、偉そうなことはいえないが、かなりショックである。
人生の1ページ……というと大げさだが、間違いなくある部分を過ごした場所だったからだ。

ラッキー店内

きっかけは、1994年の宮古島旅行だった。
4連泊した「先嶋旅館」では、2泊目以降は私一人。
「夕食は隣の食堂で食べなさい。1000円以上になったら別に払ってくれればいいから」
オーナーのトミおばあは、隣接する「ラッキー食堂」のオーナーでもあったのだ。

せっかくだから変わったものを食べようと、連日、ヤギ汁、イラブー(ウミヘビ)の燻製の汁、カメの刺身といったものを注文して、しこたま酒を飲んでいたもんだから、毎日1000円をかなりオーバーして支払っていた私であった。

宮古そば

そのおばあの娘さん夫婦が、東京の江東区で店をはじめたということで、亀戸を訪ねたのがはじまりである。
独身のころは比較的近くに住んでいたので、ちょくちょく出かけたものだった。
結婚してからも、妻や友人をつれてたまには顔をだしていた。

それにしても、この店は東京の異空間であった。
とくに、2006年ごろだったかに50メートルほど移転する前の店舗は、まるで宮古島がそのまま引っ越してきたような雰囲気(下の2枚の写真)。
宮古島の店を一時引き払っておばあが東京にやってくると、さらに空間は濃くなっていった。
(実は、おばあの生まれ故郷は宮古島のそばにある多良間島である)

この店で開かれた三線教室に通ったのもいい思い出である。
店のママが亀戸カメリアホール使用のくじびきを当ててしまったものだから、素人軍団十数人で、大胆にも400名収容のホールで演奏したっけ。

旧店舗

底抜けに楽しいこともあったし、つまらないいさかいもあった。
どちらにしても、なぜかここに来ると気分が高揚するのである。
そんなラッキーももう閉店だ。
もう、おばあ特製の中身汁(豚の内臓のすまし汁)は食べられない。
そして、日々の塵労にだらけた精神を刺激する、あの濃い空間にひたることもできない。

旧店舗

かすかな期待は、「また店をやるよ」という店の人のことばである。
ぜひ、またいつかどこかで店を再開してほしい。
「ラッキーよ、永遠に!」

(後半の2枚の写真は旧店舗での撮影。ピースサインをしているのが、数年前、NHKの昼休みの番組に1週間連続出演して沖縄料理、宮古料理を紹介したトミおばあ)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

フォト
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

広告