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2010年5月の3件の記事

2010-05-29

明朝の香り、黄檗山萬福寺

宇治で平等院を見たあとは、京阪電車で2つ目、同じ宇治市内にある黄檗(おうばく)山萬福寺に向かった。
数年前、宇治に一人でやってきたときに、平等院をおいて訪れた場所である。

カイパン

ここは明の時代に大陸から渡ってきた隠元禅師が建てた寺である。
隠元禅師といえば、隠元豆を伝えた人としては聞き及んでいたが、そのほかにも蓮根、スイカ、けんちん汁などもこの人が伝えたということを、今回の旅ではじめて知った。
そして、活字の明朝体もまた、隠元禅師が伝えたものなのだそうだ。

トップの写真は、この寺のシンボルのような開梛。カイパンと読むそうだ。木魚の原型である。
玉をくわえた表情がとってもユーモラス。

萬福寺境内

禅宗というと、鎌倉時代に伝わった曹洞宗と臨済宗が知られているが、黄檗宗もそうした禅宗の一派。
日本に伝わったのは江戸時代の初期である。
だから、日本化の度合いがほかの宗派よりも低く、明の時代の雰囲気を色濃く残している。

黄檗山萬福寺

寺に入って一周してみれば、そこかしこに、日本の寺にはない異国の雰囲気が感じ取れる。
まあ、前回来てそれがおもしろかったから、今回は同行者を連れてやってきたわけである。

なんといっても一番よかったのは、回廊にしっかりと屋根がついていたことか。
大雨注意報が発令されるなか、おかげで傘をささずに境内を一周できた。

ラーメン丼の…

この写真の模様も、どこかラーメン丼のあの模様を思い起こさせる。縁起がいい模様なのだろうか。

ところで、この寺のことを知ったのは、今から30年ほど前、司馬遼太郎のエッセイをたまたま読んだときのことである。
司馬遼太郎の小説はいまだに読んだことがないが、エッセイについては、ちょっと機会があって読まざるをえないことがあったのだ。
なんて書いてあったのか詳しいことは忘れたが、彼はこの寺の中国風の雰囲気にいたく興味を抱いたようだった。
私としては、法要で坊さんが椅子に座って経を読むというくだりが興味深かった。

木魚

この写真の木魚は、魚から木魚に進化する途中のものに違いない。かなり魚っぽい。

前回訪れたときは、禅宗の寺らしく静謐な空気が流れていたが、今回はちょっと違っていた。
全国煎茶道連盟の集まりがあったそうで、和服の女性も数多く、禅宗の寺とは思えない華やかな様子であった。
この寺は、煎茶道にもゆかりが深いんだという。

黄檗山萬福寺

寺の中や周辺では、普茶料理と呼ばれる精進料理が食べられるとのことで、楽しみにしていたのだが、その前に宇治駅近くにある十割そば屋で、たんまりと食事とアルコールを取り入れてしまった私たちであった。
.満腹でやってきた萬福寺
普茶料理もまた次回への宿題となってしまった。

萬福寺土産

最後の写真は、萬福寺の土産売り場にあった小坊主(?)の人形。
あまりに私の理想とする生活態度にピッタリだったので、思わず買ってきてしまった。
仕事部屋に飾って、仕事をしすぎないための戒めとしている。

2010-05-26

雨の宇治、鳳凰堂はフェニックス・ホールだった

週末から京都に行ってきた。
ようやく仕事のけりがつき、友人たちと計7人が京都で待ち合わせての会食にようやく間にあった。
友人たちとは食い意地だけでつながっている仲である。
メシを食ったらさようなら。だから、よけいな気を使わないでいい。昼間は別行動である。
ま、翌日の夜もメシを一緒に食った人はいるが。

宇治川

で、日曜日はちょっと足を伸ばして宇治へ。
雨は降りどおしだったが、おかげで新緑が美しく映えて、撮影意欲にあふれてきた。

まず立ち寄ったのが、源氏物語ミュージアムという博物館。
ハコモノ行政の典型のような立派なつくりで、CGをふんだんに使った映像はかなりカネがかかっているばずだ。
とはいえ、それなりに楽しめたし、人もずいぶんはいっているからまあいいんだろう。

婚礼の列

学生時代、授業にもあまり出ないヒマな文学部生だった私は、源氏物語を原文で読み通したはずなのだが、やっぱりよく覚えていない。
ましてや、宇治十帖のあたりになると、もう記憶のかけらもほとんど残っていなかったから、それなりに新鮮な体験であった。

2枚目の写真は、そこから宇治川に向かう途中で出会った、婚礼の参加者の列。
先頭に新郎新婦がいるのがかすかに見えたが、さすがに前にまわりこんで写すほどの図々しさはなかった私である。

宇治上神社

次の写真は、順番が前後するが、宇治上(うじがみ)神社。
ささやかで由緒ありげな神社である。川に近い宇治神社とは別に木々のなかに埋もれるようにしてあった。

さきほどの源氏物語ミュージアムでは、この神社が宇治十帖で重要な舞台となっているようだ。
でも、宇治十帖って、どうにもやるせないんだよね。

平等院鳳凰堂

そしてやってきたのが平等院。
数年前は、宇治までやってきたのに平等院を見ずに帰ったという私である。
10円玉の図柄としては、子どものときから見慣れていたのだが、現物をはじめて目にした。
だが、鳳凰堂の内部の見学は1時間待ちというので、残念に思いつつもあっさりあきらめた。

まあ、鳳翔館(宝物を飾ってある建物)が見られたからいいか。鳳凰堂の内部は次回の宿題である。
この日の一番の発見は、なんといっても鳳凰堂の英語訳が、「フェニックス・ホール」だったことである。
確かに、それで間違いない。

2010-05-02

歌舞伎座閉場

4月30日、たまたま有楽町に出向く用事があった。
そのあとで、ふと思い出したのが歌舞伎座の千秋楽、そして閉場式である。

歌舞伎座前はごったがえしているだろうが、思い出した以上は、最後の姿を見ないわけにはいかない。
晴海通りを歩いて木挽町までやってきた。

歌舞伎座

予想通り、かなりの人出ではあったが、混乱というほどではなかった。

とても歌舞伎ファンだなんて言えないが、ひところはよく一幕見に来たものだった。
狭くて急な階段を3階席まで登り、ほんの30分か40分の間でも舞台を見るのは、若かった当時の私にとって、なにものにも代えがたい体験だった。

歌舞伎座

思い出すのは、市川猿之助が1人7役だか10役だかをやったときのこと。
早変わりをするたびに観客が沸くのだが、近くで見ていた西洋人の女性グループとその子どもたちは、ただぽかんとして見ているだけ。
まさか、同じ人物が演じているとは思ってもいないのだろう。

歌舞伎座

「あれは一人の人がいくつもの役を演じているんですよ」と教えたかったが、とうとう最後まで言えなかった。
せめて隣に座っていたら、引っ込み思案だった私でも、そのくらいのことは言えたのに。

子どもはつまらなそうにしていたが、最後の場面で、舞台にハリボテの大蝦蟇が出てきたときには、さすがに食い入るように見つめていたっけ。
スペイン語を話すグループだった。

新しい歌舞伎座にも一幕見は残るという。
いくら仕事が忙しくても、それを見に行くくらいの余裕はなくっちゃね。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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