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2010年4月の11件の記事

2010-04-27

バハレイヤのシャンゼリゼと砂漠の冷凍魚 2001年

2001年エジプトの旅
カイロから路線バスで砂漠を4時間あまり、オアシスの町バハレイヤにやってきた。

町の中心地がこの写真である。
殺風景な通りに見えるが、商店が建ち並んでいる。
暑い日射しを避けるため、ちょっと引っ込んだつくりになっているのだ。

バハレイヤのシャンゼリゼ

もちろん、食堂もあれば果物屋も喫茶店も薬屋もある。
ここが、このオアシス随一の、いや唯一の繁華街なのだ。
町外れにある「ホットスプリングホテル」のオーナーであるドイツ人のペーターは、笑いながら「ここは、バハレイヤのシャンゼリゼなんだ」と教えてくれた。
ちなみに、彼の奥さんは日本人である。

町の人気者の彼がここを歩くと、10メートル進むごとに人に呼び止められ、そのたびに話好きのエジプト人に10分以上つかまってしまう。

商店街

バハレイヤのシャンゼリゼには、昔ながらの商店もあれば、この写真のように最近になってつくられたような店もある。
画面中央、赤い文字で書かれた看板がかかっている店は、大衆的な食堂である。

町にやってきてすぐ、このあたりをぶらぶらしていたら、中年の男性に1枚の紙を手渡された。
ざら紙に何やらアラビア語が書かれたチラシのようなもので、魚の絵が描いてある。

招かれるまま薄暗い小さな店に入ると、がらんとした店内に大きな箱が1つ置いてある。
彼がそのふたを開けた。

冷凍魚

見ると、冷凍された魚がぎっしりと詰まっているではないか。
新装開店の魚屋だったのだ。

「砂漠のまんまんなかで魚屋かあ!」

最初は驚いたが、よく考えてみれば、いい商売になるかもしれない。
ちょっとしたベンチャービジネスなんだろう。

砂漠の魚屋

翌日、車で町めぐりをしてくれるというペーターにそのことを話すと、彼は非常な興味を示す。
結局、行きがけに店に立ち寄ることになった。

で、その店の近くに車を停めたのだが、それからが大変だった。
店までは30メートルほどしかないのだが、例によって次々にエジプト人につかまる。

店に着くまで30分ほどもかかっただろうか。時速60メートルである。
さすがの私もただ茫然とするばかりだったが、奥さんは「いつもこうなのよ」と平然としていた。

契約は、どうやら即決であったらしい。
「ホテルのメニューに魚が加わるぞ」とペーターは喜んでいた。
もちろん、決まってからも、彼らが長々と世間話をしていたのは言うまでもない。

2010-04-24

ソ連で兵士を撮影したら 1981年

1981年ソ連、ハバロフスク。
ロシアじゃなくてソ連である。まだブレジネフ書記長が生きていた。
はじめての外国がソ連。これは、かなり珍しい体験かもしれない。
横浜から航路2泊3日、ナホトカから列車で夜行1泊、ハバロフスク市内で1泊したのち列車で6泊7日。
まるで、『魏志倭人伝』みたいだが、モスクワまでの行程である。現在は、ハバロフスクからモスクワまで5泊6日で行けるらしい。

ハバロフスク市街

ハバロフスクでは、ツアー参加者はホテルで食事をとっていた。だが、私は単独で旅行を手配していたので、せっかくだから町に出て見物がてらメシを食ってみたいと思い立った。

すると、スウェーデン在住という40代後半と見られる日本人が、私のあとについてくる。
「キミ、ロシア語が話せるんだって? 一緒に連れていってよ」
「い、いや。文字を見て発音できるだけで、意味はわからないんです……」
つまり、レストランといった外来語や、レーニンといった人名くらいはわかる程度なのである。
「ま、いいから、いいから、ハッハッハ」

ソ連は恐い国という印象があったから、最初は町の写真をおっかなびっくり撮っていたが、だんだんと大胆になってくる。
「お、兵隊がいるぞ。珍しいな。撮ろうじゃないか」
本当に大丈夫かと思ったが、こちらは初めての海外旅行の24歳。相手は海外在住の人生のベテランである。
そそのかされるまま、一緒に撮ったのが最初の写真である。

左から2番目の人がこちらを向いているのがわかる。
彼は、ゆっくりと私たちのところに近づいてくるではないか。
あせったが、ここで逃げるわけにもいかない。

ハバロフスク市街

30代とおぼしきその兵士は、私たちの顔を見てにっこりと笑い、わかりやすい英語でこう言った。
「私たちの写真は撮らないでくださいね。お願いします」
実に、紳士的で丁寧な態度であった。
フィルムでも抜かれたら大変だと思ったが、それは杞憂に終わった。

結局、その後もソ連のあちこちで、遠慮しながらも大胆に写真を撮ってきたが、声をかけられたのはこのときだけだった。
そして、例のスウェーデン在住の男性だが、結局その半日は彼に振り回されることになる。

2010-04-23

春まだ浅い長野県信濃町

仕事で長野県の北端、新潟県との県境にある信濃町へ。
長野市内は桜が満開だったが、まだこちらはつぼみも固かった。

黒姫山と妙高連山

柴津(しばつ)地区では、素敵な日本の農村風景と人びとの暖かい心を味わうことができた。
あまり詳しく書くと、仕事内容に差し障るので以下省略。
なにしろ、仕事に手をつけずにブログなんて書いているもんだから。

つくし

北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)が同時に望める景観に、締め切りに追われる都会生活をちょっと忘れることのできた私であった。
ふきのとうは、もうすでに大きくなってしまっていたが、かわいいつくしが顔を出していた。
たらの芽はこれからのようである。

くねくねの農道

最後の写真は、なんの変哲もない農村風景に見えるかもしれないが、このくねくね道がいい。
最近は、どこに行っても農道はまっすぐになっていて、こうした道も少なくなってしまった。

農道も人生もくねくねしているから味があるのだ。
この景観が末永く残ることを祈りたい。

2010-04-16

地元インド人用観光バスに便乗した話 1989年

1989年インド、オリッサ州
マドラス(チェンナイ)から夜行列車でやってきたインド東部オリッサ州のプリー。
海辺の宿に荷物を置いて、さて町歩きをしようか、それとも有名な太陽神寺院のあるコナーラクに行ってこようか迷っていると、なぜかそばに停まっていた観光バスから男が降りてきた。
「コナーラクに行くのか? 安くしておくよ。○○ルピーでどう?」

おう、その程度の金額ならば、バスターミナルまで行ってバスを待つ手間を考えれば安いもの。
即座にOKして乗り込んでみると、乗客の視線がひととき私に集中する。
どうやらお上りさんインド人観光客のためのバスだったようだ。
車掌にすれば、タバコ代くらいの小遣い稼ぎにはなったに違いない。

オリッサの海岸にて

言われるままに最前列に座ると、隣の席のおばあさんが、うさんくさげに私をちらちら見る。
しまいには、知人らしい近くの男性と席を代わってしまった。
男女席を同じうせずという教育で育ったのかもしれない。

バスはまもなく発車。コナーラクまでは約1時間の道のりなのだが、途中の海岸で20分ほどの休憩があった。
乗客はバスから降りて、海を見つめたり、ジュースを飲んだり。
私も、バラックのような売店で、少年が揚げているサモサを頬張った。

オリッサの海岸にて

そのとき撮ったのが、今回の2枚のエセ芸術風写真である。
カメラ2台を持参して、ミノルタの一眼レフにはカラーポジ、フジカGS645にはモノクロのブローニーフィルム。
今くらべてみると、やはりモノクロのほうが味わい深い。
それにしても、3月の暑い南インドで重いカメラを2台も持って(しかも交換レンズまで)歩き回っていたのだから、いやはや元気だった。

2010-04-15

北京の青空市場 1985年

このブログで「海外旅行」というとイタリアばかり取り上げているので、「こいつはなんとかの一つ覚えでイタリアしか行ったことがないのか」と思われている方も多いだろう。
それもちょっとシャクなので、ネガ箱、ポジ箱に眠っている写真を掘り起こして、「蔵出し旅写真(海外編)」のコーナーを設けることにした。

ホームページ本館の「とりあえず写真館 」と合わせて楽しんでいただければ幸いである。
写真は順不同。思いついた順に出していきます。
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記念すべき第一回は、1985年の中国、北京。
改革・開放政策が軌道に乗りはじめたころである。

北京市内1985年

泊まったのは町外れにある「華都飯店」という立派なホテル。
そこから、天安門広場まで、ぶらぶらと歩いて行ったときに撮った写真である。
道端に積み上げられているのはキャベツ。
この付近が、小さな青空青果市場となっていた。

北京市内1985年

天安門広場からさして遠くない場所と記憶している。
たしか、西に向かって歩いて30分くらいのところではないか。
今じゃ、道の両側に高層ビルが建ち並んでいるに違いない。

2010-04-14

『鉄道を撮る』創刊

創刊号表紙

宣伝です!


昨12日、新しく鉄道雑誌が創刊されました。こんなご時世に……。
その名も『鉄道を撮る』(コスミック出版)。


タイトルでわかるように、鉄道雑誌のなかでも、撮影を中心とした雑誌です。
定価980円(税込)。
隔月刊で、偶数月の12日に発売されます。
(当面は月刊誌『クロスワードプラザ』の増刊という扱い)


この雑誌のなかで、「特別企画 首都圏 vs. 関西圏」というシリーズ16ページを、これまで鉄道本でご一緒した宮田さんと私が受け持っています。

今回のテーマは、「山手線 & 大阪環状線」。


金網と塀に囲まれた都会の路線で、ベストショットを探しました。
ぜひご覧ください。

2010-04-13

総武線の車窓から今だけ見えるニコライ堂

いつも行く飯田橋の喫茶店で、総武線の車窓からニコライ堂が大きく見えると聞いた。
「あんな近くにあったんだよね。びっくりしたよ」
聞くと、手前のビルを取り壊しているので、これまで見えなかったニコライ堂が見えるようになったのだという。

ニコライ堂

それで、先日さっそく確認に出かけた。
確かに、御茶ノ水から秋葉原に向かう途中で、右側の車窓に驚くほど存在感を持って飛び込んでくる。
総武線の電車は、中央線をオーバークロスするので、視点が高いところにあるから見えるのだ。

地上からいい写真が撮れるのではないかと、沿線をうろうろしたが、ビル工事の塀がじゃまだった。
もちろん、ニコライ堂の横の道から写せるのだが、あまりに近すぎて、いいアングルでは撮れない。

というわけで、秋葉原から総武線の最後尾車両に乗って、恥ずかしながらドアのガラス越しにパチリとやったのがこの写真なのである。

2010-04-11

雑司ケ谷:塀の上の猫

都電雑司ケ谷電停付近は、線路の両側に道路を取り付ける工事が進んでいる。
家を縫って走る都電の姿も、すでに過去のものになってしまった。
もうすぐ、怒濤のように自動車が走り抜けることになるだろう。

雑司ケ谷の猫

最後の静寂が残る都電雑司ケ谷電停から、雑司ケ谷霊園の方向に歩いていくと、塀の上を歩く猫の姿が目に入った。
ここの家の飼い猫だろうか。ずいぶん毛並みがいい。

バッグからカメラを取り出す間、ちょっと待ってもらうことにして、そのあとでポーズをとってもらった。
目つきもなかなかいい。

雑司ケ谷の猫

戦災で焼け残った雑司ケ谷の町も、20年前とはだいぶ様相が変わってきた。
猫の平和も、いつまで続くことだろうか。

2010-04-05

喜多方から会津若松へ

短い旅をさんざん引き延ばしてしまったが、4回目の今回で完結。
喜多方から会津若松までの車窓である。

磐越西線の車窓

もう少し会津若松に近くなると磐梯山が見えてくるのだが、これはその手前。
あえて、乗客を入れたところが、この写真のミソである。
もっと若くて見栄えのする女性だったらよかったのに、などというのはよそう。
反対側に座っていたのはこの人だったし、中年男性ならではの味もある。

赤べこマークの719系電車

会津若松で郡山行きの電車に乗り換え。
ここでは、車体に赤べこのステッカーを貼った電車が走っている。
最近では、似たような車両が多くて形式も覚えきれないのだが、調べてみたら719系というんだそうだ。
一瞬213系かと思ったが、よく考えたらここは交流電化区間であった。

馬肉

実は、この電車には乗らずに、会津若松で夕食を予約しておいた。
場所は、中心部にある「てんぐ家」。前回の旅で、たまたま見つけて立ち寄った店である。

何を頼んでもうまいのだが、絶品は馬肉。
生で食べられる新鮮な肉を、富士山の溶岩でつくった石の上で軽くあぶって食べる。
生のままで食べてもこれまたウマい。

磐越西線の車窓

そして、締めはこれまた素晴らしい10割そば。
もう、この2品だけを求めに、会津若松に通ってもいいくらい。
しこたま食べて、新幹線の最終の1本前で東京に戻ってきた。

2010-04-02

日中線記念館と昔の熱塩駅

かつて喜多方から熱塩までの10キロあまりを走っていたローカル線が日中線である。
終点の近くには熱塩温泉があり、その奥には日中温泉がある。
すぐ近くにありながら、泉質はまったく違うのだそうだ。

日中温泉の湯元はダムの建設によって消えてしまったが、ダムの堰堤のすぐそばに新しい湯元を見つけて、秘湯の宿「ゆもとや」が営業を再開している。

日中線記念館

終点の熱塩駅の駅舎は、廃止直前には荒れ果てていたそうだが、その後きれいに整備されて、日中線記念館として保存されているのがうれしい。

日中線記念館

駅務室には、さまざまな資料が保存されていて、管理人の男性にいえば無料で見学できる。
この駅の中にいると、陳腐な表現ではあるが、今にも列車がホームに入ってきそうな感じがする。

というわけで、以下の2枚は、本当に列車が入ってきたころの熱塩駅と日中線の写真である。
撮影は1974年4月。蒸気機関車C11にひかれた旧型客車列車が、1日3往復しか走っていなかった。

日中線熱塩駅

その後、機関車がディーゼル化されたとはいえ、1984年4月に廃止になるまで走っていたのは奇跡といえるかもしれない。

日中線の車内から

熱塩駅にはそれ以来の訪問である。
だから、拙著「国鉄風景の30年 」には収録されていないのだ。

まだ高校生だったころの訪問を思い出しながら、駅の周りをぶらぶらしていると、ふきのとうを見つけた。

ふきのとう

よく考えたら、ふきのとうが生えているのを見たのは初めて--少なくとも意識して見たのは、恥ずかしながら半世紀以上も生きてきて、これが最初であった。
居酒屋ではよく見かけるのに……。

朝までは雪が降っていたが、会津にも春がやってきたんだろう。

2010-04-01

喜多方:蔵づくりの商家

喜多方に行っておいて、蔵づくりじゃない商家だけを紹介しておしまいにするわけにもいかないので、今回は蔵づくりの商家を紹介(けっしてシャレではナイ)する。

小原酒造

この写真は、南町にある小原酒造。蔵粋と書いて「クラシック」と読ませる酒をつくっている。
醸造するときにモーツァルトの音楽をかけるということで有名だ。それで味がよくなるのだとか。
「ホントかよ~」と疑う向きもあるが、「酵母だって生きものなんだから騒音に囲まれているよりも、いい音楽のほうが気持ちよく働けるはずだ」と言われると、なるほどそんなもんかなと説得されてしまう。

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小原酒造の周辺は、誰が撮っても素敵な蔵が並んでいるので、あとは省略。
そして、2枚目の写真は、その少し北側にあった「三浦英次商店」。まさに、生きた蔵づくりの見本である。
酒や雑貨などを売っている店だ。写真を拡大してみると、扱っている商品が店先のガラスに張ってあるのがわかる。

「山菜リック」はたぶん「山菜リュック」のことで、採った山菜を詰めるものか。
「そば打ち道具」「ところてんの素」「スパイク地下たび」はなんとかわかるのだが、「アスパラかご」「アスパラ鎌」あたりになると難解になる。アスパラガスを採るためのものか? 「ステン姫鍬」になると、もうよくわからない。ステンレス製の小さな鍬?

甲斐本家店蔵

そして、この堂々たる黒塗りの蔵が、甲斐本家蔵座敷のある店蔵。店内には欅の大木を削ってつくられた螺旋階段があり、店の裏側には素晴らしい甲斐本家蔵座敷があったはずなのだが、歩き疲れて見損なった。
次回への宿題にしよう。

金田洋品店

最後は最古の煉瓦蔵だという金田洋品店。
港の倉庫のようにも見えて、なかなかハイカラである。

こんな店々が、通りに沿ってたくさんあるのだから、おもしろい町歩きである。
しかも、蔵づくりの店が、いかにも保存していますというのではなく、実際に使われていて、そこそこに古びていているのが喜多方のいいところだと思う。

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