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2009-08-28

過去の記憶をとどめるボローニャ駅の待合室

待合室の外

 すでに旅から帰って2か月近く。そろそろ終わりにしないと収拾がつかないところである。今回の話はボローニャの待合室のことだ。

 実は、この待合室には28年前の1981年にも行ったことがあり、その顛末を本館の「イタリア無駄話 改め イタリア貧遊記 第22話」でも紹介したことがある。

 いったい、そこに何があるのかということだが、その前に、左の写真を見てどう思われるだろうか。
 待合室のホームに面している部分である。

 壁の一部がくりぬかれて、不思議な形のガラスがはめこまれている。ちょっと見ると、イタリアならではの芸術的な雰囲気を感じるかもしれない。

 実は、30年近く前に起きたテロの跡なのである。
 当時のイタリアは、極左、極右のテロが横行していた。モーロ元首相が誘拐されて殺害されるという事件も起きた物騒な国だったのだ。

 だからこそ、私がイタリアに語学の勉強に行くといったとき、友人たちは「何をしに行くんだ? ストライキとテロの国じゃないのか?」と心配したわけだ。いまでいえば、イラクとはいわないが、イエメンかパキスタンに行くというくらいのインパクトがあったんだと思う。

 

待合室の内側

 事件があったのは、私がイタリアに行くちょうど1年前の1980年8月のことである。
 右翼テロ集団によって、ボローニャ駅爆破テロ事件が起きた。日本でも新聞の1面トップに写真入りで載るほどの大規模なテロだった。

 さすがの私もちょっと不安になったが、当時は東京にだって三菱重工爆破テロをはじめとして、物騒な事件があった時代である。「これも運と不運しかない」と、すでに決めたイタリア行きを変えることはなかった。

 むしろ親が反対するんじゃないかと心配したが、この子にしてあの親あり、というぐらいだから自由にさせてくれた。内心じゃ心配していただろうが、そんなことはおくびにも出さず、私もまた、心配しているんじゃないかと心配していることを悟られないように、出発までの1年間を平然と過ごしたのである。

床に残る爆発の跡

 だが、なんといってもショックだったのは、死亡者85名のうちの1人が日本人の若者だったことだ。
 確か、早稲田大学の学生だったと記憶している。お気の毒としかいいようがない。一人旅をしていたのだろうか。似たような年齢だったので、人ごととは思えなかった。

 その後、私が出発する前に、たまたま日本のニュースで、「テロの悲劇を語り継ぐために、待合室の一部を被害にあったままに保存している」という報道を見た。
 そこで、現地滞在中、語学学校のあったフィレンツェから近いこともあり、休日を利用してボローニャの待合室を訪ねたのである。

 ところが、カメラは持っていたものの、その写真を撮るのを忘れていた。というよりも、とても写真を撮る気分ではなかったというのが正直なところかもしれない。
 今回の旅行では、もう一度ボローニャで下車して、改めて写真に記録してこようと考えたわけだ。

昔の駅(上)と事件直後(下)の写真

 待合室はすぐにわかった。記憶にあった場所とはちょっと違っていたが、事件の跡もきちんと保存されていた。めり込んだ床にはロウソクが2本立てられており(3枚目の写真)、壁には事件で亡くなった人全員の名前と年齢が刻まれていた(2枚目の写真)。

 日本人の名前を探していくと……あった。SEKIGUCHI IWAOと刻まれている。年齢は20歳。私よりも4歳ほど年下だったことを初めて知った。そうか~、一年浪人して一年留年したもんな……と昔のことを思い出す私であった。彼も生きていれば、もうすぐ50歳。幸せな家庭をもって、家族にイタリア旅行の話をしていたかもしれない。
 
 この場所には、私以外にも、代わる代わる人がやってきては、このテロの跡に見入っていた。一人は小さな男の子連れ。こうして、歴史を語り継いでいくのだろう。
 それにしても、断固としてこうした事件や事故の跡を残していくという態度に、たとえ普段はちゃらんぽらんであっても、イタリアの底力があるように感じられてならないのである。

 それにしても、私が初めてここを訪ねたのは、事件からわずか1年しか経っていなかったのだ。今から思うと、ちょっと不思議な気がする。

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コメント

そうですね。どんな小さな町でも、第一次大戦や第二次大戦の戦死者の名前を刻んだ碑がでかでかと建っていますね。

>それがヨーロッパというものなのでしょうね。

御意。
去年の夏、北イタリアのアーゾロで会ったイギリス人老夫妻に、「あんたはしょっちゅうイタリアに来るというが、まだ日本人はヨーロッパに学ぶことはあるのか?」なんて聞かれました。新自由主義が生きていた1年前のことです。
「オフ・コース」と答えたら、にっこりしていました。もっと説明したかったのですが、私の貧弱な英語の語彙ではなんとも。

「赤い旅団」は極左のほうなので、ボローニャ駅爆破の極右とは違うかと思います。
大学時代のイタリア語の研究室で、「赤い旅団」と聞いて「イタリア語でViaggiatori rossiっていうの?」と言って笑われました。
それじゃ、「赤い旅人」ですよね。
「Brigate Rosse」でした。こういう間違いをすると、一度で覚えるもんです。

「赤い旅団」という言葉が記憶に残っています。
その記録が駅に残っているとは・・・、貴重な情報ありがとうございます。

どんな街でも、その中心部にある広場に行ってみると、大理石とかでできたパネルに、戦没者の記録や大虐殺事件の記録が記されている。教会に行くと、何百年も前に起きた悲劇の犠牲者の記録があり、その頭蓋骨が並べられている。

そういう途方もない執念があるかと思えば、その一方でテロリストを釈放しちゃう。私の理解できる範囲をはるかに超えていますが、それがヨーロッパというものなのでしょうね。

松本サリン事件の記録を、物理的にどうやって残したらよいものかと、思いました。

アマレットさん、そうそう、その待合室です。
隣にバールがあるところ。あのバールって、ホームに垂直に細長くて、なんか変ですよね。
まあ、ポローニャ駅の構内自体が複雑なこと自体は、鉄道ファンの一人として楽しいのですが。

爆破テロの犯人が釈放されましたか。死刑にすればいいってもんじゃないけれど、85人が死んだことを考えると複雑です。

なんと、ボローニャには仕事で毎年行ってるくせに、駅の待合室にこんなのがあったとは初めて知りました。この待合室って、ホームから入れるようになってる広い待合室ですよね?隣のバール(入口がホームからじゃないと見つけにくくて、不便だなーといつも思う)でパニーノとか買って、電車を待ちながら食べたりしてるんで、つい気持ちがパニーノのほうに向いてるせいかもしれません。この爆破テロ事件については、つい最近、実行犯が釈放されたというのをニュースで見ました。85人も無差別に亡くなっているのに、こんなに早く釈放されるもんですかね?犠牲者の中に日本人がいたということも知りませんでした。次回行くときにはしっかり見てきます。

歴史に対するヨーロッパ人の執念はすごいと感じますよね。

日本では、町も建物もスクラップ・アンド・ビルドでどんどん新しくなるし、地名まで変えていってしまうものだから、土地の記憶というのが薄れていくのが残念です。

日本にいた頃は、歴史というものは別世界の事という感じでしたが、
ヨーロッパに来ると、歴史と現在がつながっているのを、よく実感します。

この記事で、私の知らないイタリアの一面を教えて頂きました。

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  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
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  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
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