過去の記憶をとどめるボローニャ駅の待合室
すでに旅から帰って2か月近く。そろそろ終わりにしないと収拾がつかないところである。今回の話はボローニャの待合室のことだ。
実は、この待合室には28年前の1981年にも行ったことがあり、その顛末を本館の「イタリア無駄話 改め イタリア貧遊記 第22話」でも紹介したことがある。
いったい、そこに何があるのかということだが、その前に、左の写真を見てどう思われるだろうか。
待合室のホームに面している部分である。
壁の一部がくりぬかれて、不思議な形のガラスがはめこまれている。ちょっと見ると、イタリアならではの芸術的な雰囲気を感じるかもしれない。
実は、30年近く前に起きたテロの跡なのである。
当時のイタリアは、極左、極右のテロが横行していた。モーロ元首相が誘拐されて殺害されるという事件も起きた物騒な国だったのだ。
だからこそ、私がイタリアに語学の勉強に行くといったとき、友人たちは「何をしに行くんだ? ストライキとテロの国じゃないのか?」と心配したわけだ。いまでいえば、イラクとはいわないが、イエメンかパキスタンに行くというくらいのインパクトがあったんだと思う。
事件があったのは、私がイタリアに行くちょうど1年前の1980年8月のことである。
右翼テロ集団によって、ボローニャ駅爆破テロ事件が起きた。日本でも新聞の1面トップに写真入りで載るほどの大規模なテロだった。
さすがの私もちょっと不安になったが、当時は東京にだって三菱重工爆破テロをはじめとして、物騒な事件があった時代である。「これも運と不運しかない」と、すでに決めたイタリア行きを変えることはなかった。
むしろ親が反対するんじゃないかと心配したが、この子にしてあの親あり、というぐらいだから自由にさせてくれた。内心じゃ心配していただろうが、そんなことはおくびにも出さず、私もまた、心配しているんじゃないかと心配していることを悟られないように、出発までの1年間を平然と過ごしたのである。

だが、なんといってもショックだったのは、死亡者85名のうちの1人が日本人の若者だったことだ。
確か、早稲田大学の学生だったと記憶している。お気の毒としかいいようがない。一人旅をしていたのだろうか。似たような年齢だったので、人ごととは思えなかった。
その後、私が出発する前に、たまたま日本のニュースで、「テロの悲劇を語り継ぐために、待合室の一部を被害にあったままに保存している」という報道を見た。
そこで、現地滞在中、語学学校のあったフィレンツェから近いこともあり、休日を利用してボローニャの待合室を訪ねたのである。
ところが、カメラは持っていたものの、その写真を撮るのを忘れていた。というよりも、とても写真を撮る気分ではなかったというのが正直なところかもしれない。
今回の旅行では、もう一度ボローニャで下車して、改めて写真に記録してこようと考えたわけだ。

待合室はすぐにわかった。記憶にあった場所とはちょっと違っていたが、事件の跡もきちんと保存されていた。めり込んだ床にはロウソクが2本立てられており(3枚目の写真)、壁には事件で亡くなった人全員の名前と年齢が刻まれていた(2枚目の写真)。
日本人の名前を探していくと……あった。SEKIGUCHI IWAOと刻まれている。年齢は20歳。私よりも4歳ほど年下だったことを初めて知った。そうか~、一年浪人して一年留年したもんな……と昔のことを思い出す私であった。彼も生きていれば、もうすぐ50歳。幸せな家庭をもって、家族にイタリア旅行の話をしていたかもしれない。
この場所には、私以外にも、代わる代わる人がやってきては、このテロの跡に見入っていた。一人は小さな男の子連れ。こうして、歴史を語り継いでいくのだろう。
それにしても、断固としてこうした事件や事故の跡を残していくという態度に、たとえ普段はちゃらんぽらんであっても、イタリアの底力があるように感じられてならないのである。
それにしても、私が初めてここを訪ねたのは、事件からわずか1年しか経っていなかったのだ。今から思うと、ちょっと不思議な気がする。
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