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2009年4月の10件の記事

2009-04-24

約20年前の平福と「因幡の白うさぎ」と「戦友」

 前回の記事でせっかく平福について触れたのだから、20年前に撮った町の写真を見ていただくことにしよう。
 平福は、山陰山陽を結ぶ因幡街道最大の宿場町だったという。

1988年の平福の川端

 私がここを訪れたのは、今から21年前の1988年のこと。
 1970年代後半、木曽路の妻籠宿や馬籠宿の宿場町再現によって町並み家並みに対する関心が高まり、それが全国に根づきはじめたころのことである。

 かつては隆盛を極めた平福だが、鉄道が近くを通らなかったために不便な場所になってしまっていた。
 もっとも、そのおかげで、昔の商家や土蔵などが残されたわけでもある。とくに、トップの写真にある川端に土蔵が並ぶ光景は圧巻だ。
 最近ではずいぶん有名になって、時代劇のロケも行われるという。

平福の川端の裏

 平福のことは、平福駅を通過する特急「スーパーはくと」の車内でも、文字情報だけだが電光掲示板で紹介されていた。

 ところで、「スーパーはくと」の車内放送のBGMは「因幡の白うさぎ」である。「蒲(がま)の穂綿にくるまれば~、うさぎはも~との白うさぎ~」というやつだ。調べてみると、本当の題名は「大黒さま」なんだとか。スーパーはくとの快走ぶりと、あの短調の哀切あふれるメロディがミスマッチでおもしろい。
 はたして、今の子どもたちは、「因幡の白うさぎ」の話を知っているのだろうか。
 また、この話には、歴史的にずいぶんウラがあるのではないかとも思う。

平福宿

 ところで、「大きな袋を 肩にかけ~ 大黒様が 来かかると~」という部分がBGMになっているのだが、そこでふと気がついた。「ここはお国を何百里、離れて遠き満州に~」という歌とメロディーがどこか似ている。
 祖父が生きているとき、ちょっと酒が入ると、よく口ずさんでいた歌である。われわれの世代までは、よく耳にしていたものだった。
 題名を忘れていたが、調べてみたら「戦友」という名前だった。歌詞をよくよく見ると、ちっとも戦意を高揚するための戦歌ではなく、これまた哀切極まる鎮魂歌である。

 日露戦争当時にできた歌とのことで、太平洋戦争も知らない私には、もちろん同時代の歌として聞いたことはないのだが、このメロディーを聞くたびに、祖父がちゃぶ台の前でうなるようにして歌っている光景と、そして宮本輝原作小栗康平監督の映画「泥の河」で、きっちゃんという子が直立不動で歌っていた光景が、まぶたの裏に浮かんでくるのである。

2009-04-23

特急「スーパーはくと」で鳥取から上郡へ

 次の目的地に行かなければならなかったので、鳥取でゆっくりしてもいられず、午前中の特急「スーパーはくと」で山陰から山陽に向けて、中国山地を縦断することにした。

「スーパーはくと」の運転席

 上の写真は、3年前に撮ったものだが、運転席のすぐ後ろはこうした視界が広がっている。伊豆急の「リゾート21」と、ちょっと似た感じ。

 もっとヒマならば、中国山地を縦横に走るローカル線の姫新線、因美線、津山線、芸備線、伯備線、木次線、三江線なんかを、のんびりと乗っていきたいところだが、そうなると時間がいくらあっても足りないところである。
 とはいっても、木次線、三江線あたりは、廃止されないうちに乗りにいかなくちゃ。

上郡駅を発車する「スーパーはくと」

 智頭急行は、新線だけあってさすがに速い。鳥取-上郡の88キロを、1時間ちょっとで走破する。それでいて、中国山地の街道沿いに点在する町や村を見ることができるし、車内の電光掲示板で通過している町や村の紹介が表示されるので、それなりに楽しい時間であった。

 特急は通過してしまうが、途中駅の平福は思い出深い町の一つである。
 20年前ごろに全国の古い町並み巡礼をしていたころ、川沿いに並ぶ土蔵を見に立ち寄ったことがある。
 あのときは、姫路から姫新線で佐用まで行って、そこからバスに乗って行ったと思うが、かなり時間がかかる不便な町だったという印象だった。

 次回は、鳥取の岩がきがうまい季節にやってきて、智頭急行で途中下車してみたい。

上郡駅

 ところで、その日の目的地は岡山だったのだが、上郡で乗り換えようと電車を降りて失敗したことに気づいた。
 岡山行きの普通列車まで40分近くの待ち時間があることはわかっていたが、よく考えたら、相生か姫路まで乗って行って新幹線で岡山に行けば早く着いたのである。
 もっとも、前夜、鳥取市内でうまいものを食って散財したのが心に引っかかって、鳥取駅の券売機前で少しでも安い運賃を選んだ結果だからしかたがない。

 せっかくだから上郡駅で途中下車して、町のなかを散歩することにした。だが、駅前は最近になって区画整理されたらしく、すっきりしているのはいいが、まったく陰影がなくてのっぺりとした印象。
 まるで初夏のような陽気のなか、20分ほど町の中を歩いたら、汗が吹き出してきた。

2009-04-22

山陰本線・浜坂駅の情景

 行きは京都から餘部までワゴン車で3時間半の移動。用件が済んだのち、また同じコースで帰るのもつらいので、わがままを言って、一人鳥取に向かうことにした。
 今、関西から鳥取に鉄道で行くには、山陽本線から智頭急行経由で行く「スーパーはくと」がメインルートになったため、このあたりの山陰本線はすっかり裏街道となってしまった。

浜坂駅

 城崎温泉-鳥取は本数も少なく、特急列車も数えるほど。とくに、城崎温泉-浜坂は1~2時間に一本の普通列車と日に2往復の特急が走るのみである。
 そして、餘部から鳥取に行こうとすると、普通列車はすべて浜坂乗り換え。これというのも、餘部鉄橋が強風で不通になったときの車両運用を考えての措置なのだろうか。

浜坂駅

 さて、その乗換駅の浜坂である。前回に立ち寄ったときにも感じたのだが、この駅がなんとも風情がある。
 二昔前くらいまでは、何の変哲もない駅だったかもしれないけれど、今となっては貴重な存在である。
 どことなくゆとりがあって、陰影が感じられるのだ。
 構内の端には蒸気機関車時代から残っていると思われる煉瓦づくりの給水塔。そしてホームには、今では珍しいパタパタ式の行き先表示が備えつけてあった。

浜坂駅

 こんな駅ならば、乗り換え時間が30分近くあっても飽きない。といっても、沿線の利用客にとってみれば、そんなに乗り換え時間がたっぷりとってあるのは、迷惑このうえないだろうが。
 もっとも、夕方にもかかわらず、ここで乗り換えた乗客は私を除いて一人のみであった。

浜坂駅の給水塔

 普通列車に乗って鳥取まで1時間。暗くなる前に鳥取駅に着くことができた。
 それにしても、びっくりしたのは鳥取の1つ前の駅まで、車窓の風景がまるで山の中であったこと。これで、本当に次が県庁所在地なのかと心配したが、やがて建物が立て込んできて、ビルやホテルも見えてきた。

2009-04-21

餘部鉄橋の今

 先週は、ひょんなことで餘部(あまるべ)に行くことになった。
 兵庫県の但馬地方、山陰本線の餘部鉄橋で有名なところである。
 すでに新しいコンクリート橋の工事がはじまっており、観光客や鉄道ファンが押し寄せていた時期とはうって変わって、昔の静かな村に戻っていた。

餘部鉄橋

 写真で見るとわかるように、新しい橋は橋脚の数が圧倒的に少なく、当然のことながら桁のスパンが長くなっている。
 なるべく線路の移動を少なくしようとしているのだろう。新しい橋は、古い鉄橋にぴったりと寄り添うように建設されている。

餘部駅から見た餘部鉄橋

 すでにこれまでの餘部鉄橋は使われていないと思い込んでいる人がいるようだが、新しい橋ができる再来年までは使われている。
 日本海と橋を同時に眺めることもできるし、鉄橋を渡るゴトンゴトンという大きな音も健在である。
 それでも、いわゆるお立ち台と呼ばれる、有名撮影場所が線路移設のために立ち入れなくなったのが大きいのだろう、鉄道ファンの姿もない。

餘部駅

 魅力ある鉄橋だけに、架け替えを残念がる人も多いが、強風が吹くたびに不通になってしまうのでは地元の人にも使いにくい。山陰本線のネックが解消できれば、京都、大阪、神戸からの直通列車が増えて、少しは便利になるかもしれない。

2009-04-14

地震でサント・ステーファノ・ディ・セッサーニョの塔が倒壊

 おととい夜のNHK「海外ネットワーク」で、イタリア中部大地震のレポートが放映された。
 アブルッツォ州ではかなりの数の家屋は居住不能になり、まだまだ余震が続くなかで、テントで生活する人も多いようだ。安心して暮らせる状況にはほど遠いようである。
 もちろん、現地のニュースではいまだにトップ扱いである。

サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョ遠景

 ところで、住民350人のうち、1割以上にあたる40人が犠牲になったオンナ村は、どこの山奥にあるのかと思い、グーグルマップで調べてみた。
 すると、山奥どころかラークイラの東、数キロしか離れていない郊外ではないか。

 それだけでなはい。3年前のブログで書いた「寝坊が縁の山岳都市参り」で書いたなかにある、路線バスの経路上にあった。つまり、そこを通ったのだ。

 そのあたりの風景はよく覚えている。晴れ渡った空の下、左手に雪をかぶった山を見ながら、のどかな風景のなかを行くバス。停留所に停まるたびに、2、3人ずつ降りる人たち。
 そのときも地図を見ながら乗っていたので覚えている。街道の分岐点の少し手前にあったのがオンナ村だったのだ。あのときの人たちは無事だったのだろうかと思わざるをえない。

サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョの村の中

 そこで、もう少し調べようと思った。そのときの目的地であり、自分の足で歩いた、カステル・デル・モンテ(Castel del Monte)、カラッショ(Calascio)、サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョ(Santo Stefano di Sessanio)とはどうなっているかと。
 それぞれの名前をネットで検索してみてわかった。3つのうちではオンナ村にもっとも近く、「優雅な山岳都市サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョ」のブログで書いたように、非常に私の気に入っていたサント・ステーファノ・ディ・セッサーニョの村が、壊滅的な打撃を受けたようなのだ。

 幸いなことに200人足らずの村民に死者はなかったようだが、村の象徴である塔が崩壊してしまっていた。トップの写真で、中央にそびえている18メートルのきれいな円筒形の塔で、イタリアでもっとも美しい塔とも言われていたものである。
 いつリンクが切れるかわからないが、You Tubeの画像をリンクしておくことにする。

美しい村・サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョの崩壊
サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョ

 上は、イタリアのニュース、イタリア語だが画像で雰囲気がおわかりだろうか。途中でインタビューを受けている女性が村長である。下は、現地の生の映像。冒頭に出てくるのが崩壊した塔である。

塔が見える

 3年前の旅では、あまりゆっくりしている時間がなく、そのうちもう一度行ってみたいと思っていた場所である。
 さすがにちょっと落ち込んだ。せめては、そのときの写真をアップして、広く見てもらうことにしようと思いたったのである。
 下の写真は、その塔の上から見た風景だ。

サント・ステーファノ・ディ・セッサーニョの塔の上から

 NHKニュースでは、精神科医が不足してPTSDに見舞われている子が多いとのこと。「海外ネットワーク」では、車中に寝泊まりしている人もいたから、そのうちに日本の地震でも問題になったエコノミー症候群に襲われる人も出てくることだろう。
 日本のノウハウが伝えられていないのが残念である。もっとも、イタリアのベルルスコーニ首相が、外国からの援助を不要として拒絶しているのではどうしようもない。
 近々、イタリアでも政変が起きるような気がする。

2009-04-11

イタリア中部地震の義援金

 イタリア大使館では、イタリア中部地震への義援金を受け付けています。
 大使館が指定する義援金振込先は以下の通りです。
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振込先銀行名: 三菱東京UFJ銀行 本店
口座番号:当座0143319
名義:インテーザ サンパオロ エッセ ピー ア トウキョウシテン
(*振込みに際して、送金者の氏名の後に、「3001 100」という7桁の番号(募金目的番号)を付け加えてほしいとのことです)
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ラークイラ中心部

 今回の地震では、州都ラークイラの被害も甚大ですが、震源に近い近郊のオンナ村では、村人の1割以上にあたる40人が亡くなったそうです。

ラークイラ

 何年か前のアッシージの地震の際には、日本人観光客がよく行く町であるため、その後も続々と日本で最新ニュースが報道されましたが、今回はどうも遠い国の出来事という感じのようです。

 アブルッツォやラークイラ(ラクイラ)を旅行した人はもちろん、イタリアに旅行して現地でいろいろと世話になった方、旅行はしていないけれどイタリアに興味のある方、モンテプルチャーノ・ダブルッツォのワインを飲んでいる方など、義援金は少額でも構いません。ここは財団法人日伊協会の関係者として、よろしくお願いいたします。

ラークイラ駅

イタリア中部地震について

 3月6日、イタリア中東部、アブルッツォ州ラークイラ(ラクイラ)付近を震源にした地震が発生しました。
 日本でも報道されましたが、テポドン騒動にかき消されて、私の知人にも知らなかった人がいるほど。
 現在では、新聞やテレビを見ても、すでに過去の出来事として忘れ去られているようです。

ラークイラ中心部のドゥオーモ広場

 でも、イタリアの新聞では、もちろん連日トップ扱い。死者は300人近くに達し、家をなくした人も数多く、まだ収まらない余震におびえているとのことです。
 以下、イタリア語版ではありますが、新聞のニュースサイトをリンクしておきます。

Corriere della sera」 (コッリエーレ・デッラ・セーラ)
La Stampa」 (ラ・スタンパ)

 アブルッツォ州というのは、あまり日本人にはなじみがない土地かもしれませんが、ワイン好きならば、名産の赤ワイン「Montepulciano d'Abruzzo」(モンテプルチャーノ・ダブルッツォ」、白ワイン「Trebbiano d'Abruzzo」(トレッビアーノ・ダブルッツォ)を知っている人も多いでしょう。

ラークイラ市内
ラークイラ市内

 グランサッソ山脈のふもとに位置しており、風光明媚な土地で旅行者も多く、トレッキングにも適しています。土地の人はとても穏やかで親切。私も、3年前の旅行でずいぶんお世話になりました。
 ローマ・ティブルティーナ駅前のバスターミナルから高速バスで約1時間40分。比較的頻繁に出ていますので、地震の被害が一段落したら、復興の一助として旅先に選んでみてはいかがでしょうか。

ラークイラ市内

*写真はすべて2006年に訪れたときのラークイラ(ラクイラ)市内のものです。

2009-04-09

蒲田・呑川の桜

 仕事の合間、京急蒲田駅からJR蒲田駅まで、ぶらぶら歩いていたら、こんな風景に出会った。

蒲田・呑川の桜

 墨堤の桜もいいけれど、上野の桜もいいけれど、こんな桜もまたいい。
 直角にそそり立つコンクリートの堤防に囲まれて、お世辞にもきれいな川とはいえないが、そんな水面にしなだれかかり、淡い桜色を映している。

2009-04-03

猫が迎える自性院・猫地蔵

 前回、象が狛犬(狛象?)を務める寺を紹介したが、そこで猫地蔵のことに触れた以上、やはり行ってこなくてはならない……ということで、急遽目白からバスに乗って落合南長崎駅前で下車。自性院(じしょういん)に向かった。

自性院入口

 自性院の新青梅街道に面した側に、狛犬ならぬ招き猫が鎮座している。狛犬とは違って、1体しかない。
 ここは、猫地蔵が安置されている寺として知られている。ただ、猫地蔵は秘仏らしく、節分の日しか見られないという。

招き猫のアップ

 寺の縁起によれば、太田道灌が自らの戦いを勝利へと導いた黒猫に感謝して、その猫を飼い、死後にそれを葬ったとされているが、どこまで本当だかわからない。

 その後、江戸時代に神楽坂の商人が猫面地蔵を奉納したのが、現在の猫地蔵なんだそうだ。

裏側から見ると

 ここに来たのは約30年ぶり。家からそう遠くはないのだが、このあたりに来る用事がないので、久しぶりの訪問となった。
 前回にくらべて、招き猫に色が塗り直されていた。ちょっと厚化粧の感がぬぐえない。とくにヒゲと目が黒々としているので、人相、いや猫相が変わってしまっている。

1980年の招き猫

おまけ:これが、1980年当時の招き猫の写真。

2009-04-01

象が迎える駒込千駄木町・瑞泰寺

 雨降って いい天気かな ふぇっぷしょん
 超駄作ですみません。花粉症患者の心を詠んだ句です。

 先週、そんな「いい天気」の夕方、仕事の打ち合わせの帰り、文京区の向丘から千駄木に通じる大観音通りを散歩した。途中から団子坂と名前を変える道である。

瑞泰寺の象

 この通りは、とくに見どころが多いというわけではないが、なんともいえない情緒がある。そして、左右にやたらに寺があり、けっして広くはない道を大きな都バスが走り抜けていく光景も心ひかれる。
 そして、バス停の名前に駒込千駄木町という旧町名が、きっちりと残されているのも趣深い。知らない人は、「駒込と千駄木じゃ、全然離れているじゃんか」と言うかもしれないが、これでいいのだ。

 その大観音通りのなかでも気に入っているのが、向丘近くにある瑞泰寺の門にたたずむ象。狛犬のごとく、2頭が向き合っている。
 若い女の子でなくても、「カッワイイ~!」と叫びたいところである。

瑞泰寺

 そもそも仏教はインド伝来のものであり、普賢菩薩は象に乗って現われるというくらい、象は神聖な動物ではあろうが、こんなふうに鎮座しているのはあまり見たことがない。
 目白の自性院・猫地蔵にも匹敵するかわいさである。

 本当ならば、大観音通りの雰囲気を写真に撮りながら散歩したかったが、残念ながら仕事帰りゆえに荷物が多くて歩くだけにした。撮影はまた、花粉が収まったころにでも。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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