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2008年12月の8件の記事

2008-12-28

チンクエチェントのカラーバリエーション

 今回の旅において、チンクエチェントはまずまずの豊作であったといえよう。
 ちなみに、チンクエチェントとは、フィアット社の500(イタリア語でチンクエチェント)という小さな車の名前である。
 全般的に車体の色は白が多いのだが、今回はさまざまな色のチンクエチェントを写すことができたのは、この上ない喜びである。

 最初の写真は、旅先からのブログでも紹介したサッサリの旧市街。鮮やかな青のチンクエチェントは、たぶん青いバラほどではないが、かなり珍しいと思う。

サッサリの青いチンクエチェント

 写真を撮っていたら、やってきたのがこの男性。この家の住人であり、かつまたこの車の持ち主のようである。
 自分の車を撮っているおかしな東洋人がいるぞ、と思ったに違いない。なにしろ、このときは妻も義母もいた。
 私は不審者に間違えられないように(とっくに不審者だが)、とっさに叫んだ。
「きれいなチンクエチェントですね!」
 すると、かの男性はこちらを見て、にっこり笑って手を挙げてくれた。

 さて次は、アグローポリの新市街で見た、渋い赤のチンクエチェント2台である。

アグローポリの赤いチンクエチェント、その1

アグローポリの赤いチンクエチェント、その2

 じつは、この2台、10数メートルをへだてて狭い通りの同じ側に駐車していた。
 残念ながら、あいだにほかの車が停まっていたので、同じフレームに入れて撮ることができなかった。
 正面のバンパーがちょっと違うが、色も同じこの2台。どんないわれがあるのか、はたまたないのか。興味深いところである……?

 次のチンクエチェントは、サッサリの新市街で見たチャコールグレーの1台。
 これほど濃いグレーというのもあまり見ない色である。写真にするとなかなか再現が難しい。

サッサリのグレーのチンクエチェント

 これもまた、わざわざ通りの中央分離帯から撮っていたら、正面の店から出てきたおじさんに見つかった。
「この車が好きなのかい?」
 ありゃ、また所有者に鉢合わせしたか……と思って、「ええ、チンクエチェントが大好きで」と答えた私。
 だが、その人は車に乗り込むのでもなく、そのまま去っていってしまった。
 単なるおせっかいな通行人だった。

 最後は、レッチェで見た赤いチンクエチェント。アグローポリのものよりも、かなり鮮やかな赤である。
 正面からも撮ったが、この後ろからのアングルもまたよろしい。

レッチェの赤いチンクエチェント

 というわけで、今回は走行写真を撮ることはできなかったが、それなりに収穫はあった。
 別に、チンクエチェントを撮るのが目的ではないので、これで十分であろう。

 ところで、あちこちのブログを拝見すると、この「チンクエチェント」のことを「チンクエ」あるいは「チンクェ」と略している方が少なくない。
 まあ、他人がなんと呼ぼうが構わないが、チンクエチェントだから500なのであって、チンクエでは5になってしまう。スバル360のことをスバル3と呼ばないように、チンクエだけではどうも寂しいのである。

2008-12-21

ミラノ空港大追跡(下) --大団円

 午後8時20分、すでにサンパウロ行きの搭乗時刻を20分も過ぎたころ、ゲートの向こうに大柄な男の影が見えた。
--さーあ、来たぞ! 手には? 手には、何か持っているか?

アルゲーロの教会にて

 彼はこちらを見て右手を上げた。その手には黒い小さなものがあった。それが目に入ったとたん、ふーっとため息が出て、全身の緊張が抜けた私である。

「あったぞ!」と誇らしげに彼は言った。「……でも、バッテリーがないよな。あいつのかばんの中か?」

 彼が持ってきた黒いソフトケースの中身は、パソコンの本体だけだった。まあバッテリーがなくても、本体さえあれば一安心である。
 じつは私の超小型パソコンは、バッテリーをセットしたままだと、電源を切っていてもなぜか消耗してしまうのである。だから、使うとき以外ははずすようにしているのだ。
 それがケースからすべり落ちてしまったのだろう。そして、LANケーブルやUSBメモリーを入れておいた小さなケースもなかった。

 私がそう説明すると、
「よし、もう一度行ってくる」と、彼。
 本体さえあれば、あとは多少の金を払えば買い直すことができるが、ここまで来たら乗りかかった船、じゃなくて止めかかった飛行機である。お言葉に甘えて全部取り返しに行ってもらうことにした。

--まあ、20分遅れるのも30分遅れるのもいっしょだよね。もう、あのブラジル人オタクの座席の場所もわかっただろうから、今度は手間もかからないだろうし。

夕暮れのナポリ

 今度は5分ほどで戻ってきてくれた。これで完璧である。
 最後に二人でがっちりと握手。私もたぶん満面の笑みだったろうが、空港職員の彼も得意気だった。
 一仕事終えて、セキュリティチェックの現場にすぐ戻るのかと思ったら、航空会社の女性と何やら話し込んでいる。

「終わったの?」と別の女性に聞かれたので、私は「ペルフェット(完璧)!」と晴れやかに答えた。すでに、サンパウロ行きは予定時刻を30分過ぎていた。

 それにしても、あまりに緊張と興奮が続いたためか、帰りの機内ではなかなか寝つけなかった私である。

2008-12-20

ミラノ空港大追跡(中) --サンパウロ行きの離陸を止める

 時刻は午後8時近く。9時過ぎに出発する東京行きに乗るために、日本人もぼちぼち集まりはじめていた。
 そんななか、私とイタリア人空港職員は通路を全速力で駆け、ゲートに向かっていった。
 私は身長180cm、体重80kgをやや超えている。職員のお兄さんは私よりも5cmほど背が高く、体重は間違いなく100kgを上まわっているだろう。そんな二人が血相を変えて走っているのだから、周囲の注目をかなり浴びていたようだ。

「間違いないよな。パソコンはないんだよな」と彼は言う。確かにセキュリティチェックの場所にはないのだが、あのブラジル人が間違えて持って行ったという確証もない。
 その点がちょっと心配な私であった。もしかしたら、そのひとつ前にいた東南アジア系老年夫婦が間違えて持って行ったという可能性もゼロではない。
 でも、何もしないでいたらパソコンが手元に戻ってこないので、とりあえずあのブラジル人のオタクに「期待」をするしかない。

レッジョ・カラーブリア空港にて

 やがてパスポートチェックの場所に到着。すでに日本人数人が並んでいたが、職員のお兄さんはかまわず直行する。「すいません、緊急事態なもんで」と頭を下げ、卑屈な笑みを浮かべながらあとについていく私。
 職員がチェックの女性に早口のイタリア語でわけを話すと、彼女は苦笑いしながら1秒で出国スタンプを押してくれた。

 サン・パウロ行きの乗り場は、東京行きのすぐ近く。やっとそのゲートについたと思ったところで、へなへなと崩れ落ちそうになった。
--誰もいない!
 そう、もう乗客全員が乗り込んだあとだったのだ。
 はずんだ息の間から、「ケ・ペッカート」という職員の声が聞こえた。「なんたること」「あんまりだ」という意味である。

 この瞬間、私はパソコンが戻ってこなかったときの対応を考えた。
--イタリアでやった仕事は全部取引先に送信してあるから問題ないし、それ以外のファイルは日本のパソコンと同じ。受信したメールはなくなっちゃうけど、まあ致命的なものはないし、いざとなったら再送してもらえばいいか。
 住所録の個人データが問題だけど、一応パソコンにパスワードを設けてあるし。悪意で盗んだのじゃなければ、ブラジルで利用する価値はあんまりないか……。いや、悪意でないことを願うしかない。

レッチェにて

 万事、都合のよい方向に考える私である。幸か不幸か、そのときは、旅行中に撮影したデジカメ画像がすべてパソコンのハードディスクに移行してあることに思い至らなかった。

 私がそんなことを考えている間、職員の彼はゲートにいた航空会社の女性に交渉していた。どうやら、一緒に飛行機まで乗り込んで探そうということになったらしい。

 さて、その後の約15分間。ゲートの入口で一人残された私は気が気でなかった。
 ゲートの向こう側から人が来るたびに、彼がパソコンを掲げてうれしそうに戻ってきたのではないかと目を凝らすのだが、たまに姿を見せるのは別人ばかり。
--大きな飛行機だからな。それにあのブラジル人の大きな荷物の中身を探すだけでも時間がかかるんだろう。

 サンパウロ行きの飛行機は離陸時間をとうに過ぎていた。自分が悪いんじゃないけれど、飛行機を遅らせてちょっとばかり心配になってきた私である。

 と、そのとき、褐色の肌をしたスマートな女性が、のんびりとゲートにやってきた。切符を見せているところからして、この飛行機の乗客らしい。
--あんた、もうとっくに離陸の時間が過ぎてるよ。

 私は心の中でそう言ってあげたのだった。さすがに、ブラジル人はあなどりがたい。飛行機の離陸が遅れていても、航空会社の女性は悠然としているし……。

(まだ続く)

2008-12-13

ミラノ空港大追跡(上) --血の気が引いた瞬間

 ミラノ・マルペンサ空港というと思い出すのは、いまを去ること8年前、シチリアのパレルモ行きのキャンセル待ちをしたときの体験だ。荷物を預けてゲートまで行ったものの、「定員に達した」というのでとぼとぼ戻ってきたのはいいが、荷物が行方不明になった。
 まさか荷物だけがパレルモに飛んでいったとは知らず、真っ青になって職員に談判して、空港の端から端まで、逆行禁止の標識も無視して探しまわったものである。

 まさか、同じ空港で同じような体験をするとは思わなかった。いやいや、今回の「事件」は、緊迫度からいえば、あのときの比ではなかった。

ミラノ空港でみた日本観光のポスター

 それは、イタリアを発つ12月1日、夜7時半ごろのことであった。無事に国際線のチェックインも済み、私は少しほっとした気分で、「日本に帰ったら、まずラーメンでも食うか」なんて考えながら、セキュリティ・チェックの場所までやってきた。
 X線検査装置を前にして、いつものように、小型のノートパソコンをソフトケースに入れたままプラスチック製のトレイの上に置いた。次に、コートを脱いでこれまた別のプラスチックのトレイに置き、最後にパッグをラインの上に置いた。
 人が詰まっていたので多少は待たされたが、まもなく金属探知機を無事に通過。やれやれとコートを着たところで、一瞬気が遠くなった。
--パソコンがない!

「血の気が引く」とは、よく言ったものである。まさに、そんな気分だった。
 すぐに、「パソコンがない!」と、そばにいた空港職員にイタリア語で訴えると、大柄で小太りの彼は「オレは隠していないよ」とジャケットの前をはだける。
 茫然としている私を見て、さすがに「途中で詰まっていないか、確かめてみたら」と言ってくれた。すでに、その時点で私は見当がついていたが、一応確かめてみた。やっぱりない。

 意を決して、「誰かが持って行ったんだよ!」というと、さっきまでおどけていた職員の表情が変わった。
「あ! あいつか!?」
 彼と目が合って、私はうなずいた。なんか心が通じたみたいでうれしかったが、喜んでいる場合ではない。

機内から見えた富士山

「あいつ」というのは、私の前の割り込んできた30代なかばくらいの、小太りのちょっとオタクっぽい白人男性である。もっとも、割り込んできたといっても合意の上であって、そもそもは空港の態勢に問題があった。
 セキュリティ・チェック待ちの人が増えてきているのに、職員の勤務時間が過ぎたからであろうか、ラインを一挙に5か所から2か所に減らしたものだから、人があふれてしまったのである。

 おかげで、出発時刻が間近に迫った人たちが、先にチェックをやらせてくれと、入れ代わり立ち代わり職員に嘆願しにくる。そのたびに職員ははねつけるのだが、いっこうに列が進まないものだから、繰り返し繰り返し、そんな人がやってきた。なかでも、あせりがありありと見えたのがその彼であった。
 3回もやってきて、とうとう私の2つ前に割り込むことができたというわけである。

 まあ、それはいいのだが、彼は金属探知機で何度もはねつけられる。そのたびにポケットをまさぐって、小銭を出したり、携帯電話を出したりするのだ。
「いっぺんに出せ」と職員は怒鳴るのだが、彼はあせりで頭がまわっていない様子である。そのたびに探知機がピーピー鳴っては私の前に戻ってきて、プラスチックのトレイに金属のものを放り込んでいく。
 あとになって考えてみると、そのときに彼の荷物と、私や私の1つ前の人の荷物の順序がごちゃごちゃに入れ違ってしまったわけである。

 彼は、金属探知機の前後を3、4回往復しただろうか。私はまだ出発時間まで余裕があったので、「しょうがないやつがいるな」と思いつつも、余裕を見せてゆったりと金属探知機を通過。そうしたら、そこにはパソコンがなかったというわけだ。
 好意的に考えれば、ソフトケースに入っていたし,横20cmくらいの大きさだから、パソコンとはわからないのも無理はない。彼は、いくつかのトレイに分けられてしまった荷物を、中身も確認しないで一気にバッグに入れてしまったのだろう。

「追いかけよう!」と大柄の職員は言った。「大丈夫だ、心配するな。あいつはサンパウロ行きだ!」
 こうして、夜のミラノ・マルペンサ空港構内を2人の大追跡がはじまる。だが、行く手にはまだまだ難関が待ち構えていたのであった。

(長くなったので、次回につづく)

2008-12-03

もう一つのナポリ:ヴォメロ

 サレルノに2泊した後、ナポリに2泊。出発前にひいた風邪はすでに治っていたのだが、疲れたりアルコールをのどに流し込んだりすると、まだ咳が出る。
 そんなわけで、遠出は控えて、ポジッリポの丘の上にある眺めのいいホテルを起点にして、ケーブルカー、地下鉄、バスを使ってぶらぶらと町歩きに徹することにした。

 今回、印象に残ったのは、丘の上にあるヴォメロ(Vomero)の町。ヴォメロというと、「ヴォメロの洗濯女」という古い古い歌(確か、13世紀ぐらいのナポリターナ)くらいしか基礎知識はなかったが、前回のナポリ訪問でその一部をかすめて歩いたことはあった。

ヴォメロ
 今では地下鉄1号線が通っているので、手軽に行ける。ちなみに国鉄が運営している2号線とは、Museo(ムゼーオ)駅て接続。ただし、2号線のPiazza Cavour(ピアッツァ・カヴール)駅との間は、東京の大手町並みの長い連絡通路を歩かなくはならない。

 ヴォメロは、地図で見るからに区画整理されていて、いかにも新市街という様子である。もしかしたら、冬物バーゲンでいい買い物ができるかもしれないと思っていたわけだ。

 ところがである。地下鉄のMedaglie d'oro(メダッリェ・ドーロ)駅(「金メダル駅」という不思議な名前)で降りて少し歩くと、ナポリの下町を思わせる一角が目に入った。

ヴォメロ

 思わず、ふらりとさまよい込むと、店先に野菜や果物が山積みになっており、ひっきりなしに客が出入りしている。まさに、ここだけが昔のナポリという雰囲気。例によって、小さなカメラで、堂々と、しかしこっそりと写真を撮った。

 こういう濃い生活空間場所にあまり長居をしてもいけないので、5分ほどで撤退。バスの通る道に戻ったが、そこは並木道となっており、絶妙なカーブがナポリとは思えない気持ちよさである。
 さらに進むと、細かい石畳の歩行者専用道と交差。歩行者専用道にしてはかなり道幅の広いそのアレッサンドロ・スカルラッティ通りには、有名ブランド店から地元の小さな店までが並んでいた。
 ナポリ観光に飽きたら、こんな場所に来るのもいいかもしれない。

ヴォメロ

 下界のナポリに戻ると、道路は昼過ぎの大混雑。市営バスのストライキが予告されていたために、自動車通勤にした人も多いのだろう(ストは午前中に中止になったらしい)。
 けたたましいクラクションと排気ガスの臭いにくらくらしながら、ナポリに来た実感にひたっていた私である。

 こうして今回の旅も終わり、これを書いているのが帰りの機内。12月2日夕刻に成田着の予定である。
 ナポリからミラノ・マルペンサ空港までの飛行機も予定通りに飛び、何事もなく平和な旅の締めくくりであった……と書きたいところだが、そうは問屋が卸さなかった(ちょっと懐かしいフレーズ)。

 夜8時過ぎのミラノ・マルペンサ空港構内。搭乗時刻まで30分以上もあるのに、なぜか空港係員と2人で走っている私。出国のパスポートチェックに割り込み、動く歩道を全速力で駆け抜ける。
 それはそれは、とんでもないハプニングが最後に待ち受けていたのである。


 というわけで、今回の旅の「現地編」は、これにておしまい。大ハプニングの顛末は、ネコ写真、チンクェチェント写真とともに「総集編」にて。

2008-12-02

アグローポリをギリシャ語で言うと……

 ターラントに1泊してから、一気にサレルノ、ナポリに向かうことにした。ポテンツァ周辺の山の中を巡ることも考えたが、雪が降るというし、かなり疲れもたまっていたので、町に出ようと思ったわけである。
 ホテルでパソコンに向かって、ちょっとばかり仕事もしなくちゃならなかったし。

旧市街入口

 とはいえ、仕事と天気の合間をみて、町めぐりは外せない。
 サレルノのホテルをゆっくりと出て、行き当たりばったりに乗ったバスで1時間あまり南下。アグローポリ(Agropoli)に向かった。

 この町については、名前は知っていたが、前もってまったく情報を仕入れていなかった。バスの車内でイタリアのガイドブックを見ると、ここもナポリと同じくギリシャ時代にできた町だという。
 町の名前は、ギリシャ語の「Citta' alta」、つまり「上の町」「高いところにある町」に由来していると書かれている。
 この記述を読んだ瞬間、私の明晰な頭脳はすべてを把握した。
--なんだあ、「アクロポリス」じゃん!

アグローポリ旧市街

 すでに乗客が私一人になっていたバスが、小さいけれども賑やかな広場で止まると、年配の運転手は、「旧市街はここを右にずっと行くといい」と教えてくれた。

 やがて、行く手に急坂とも階段ともつかない道が見えてくる。トップの写真である。
--雪の日には、すべって転ぶ人が続出かな。
 なんて思いながら、ひいはあ言いながら登っていくと、古めかしい小さな門が見えてきた。なんと、旧市街はそのなかにあったのだ。

 先日のカステルサルドと同じである。海に突き出した丘の上の、さらに狭い城壁に囲まれたところにある旧市街。
 新市街の近代化された町からは想像のつかないような古典的な町が、まるで息をひそめているかように存在していたのである。

アグローポリ旧市街

 時間と体力があれば、岬をまわりこんだ先にあるカステッラバーテ(Castellabate)の町も訪問するつもりだったが、それは次回の宿題にしておこう。晴れた日のね。
 アグローポリの町は、たいして期待していなかった分だけ、喜びもひとしおであった。
 そうそう、行き帰りのバスの車窓から、パエストゥム(Paestum)の遺跡が塀越しに望めたのも、望外の喜びであった。

2008-12-01

イタリアで一番ワイルドな旧市街:ターラント

 27日夕方、レッチェから北上してターラントに移動。ホテルは新市街にあるために、駅からタクシーを利用した。
 30代後半と見える女性運転手の車に乗ったとたん、流れてきたのは1960年代に日本でも流行したミーナの歌。ラジオから流れているのかなと思って、恐る恐る「古い歌ですよね」というと、待ってましたとばかりに、「そう! 私の車の音楽はみんなミーナよ! それも、古いものが好き」とおっしゃる。

駅と旧市街を結ぶ橋

 いきなり、昔の流行歌ネタで盛り上がってしまった。自慢じゃないが(って、明らかに自慢だが)、私にとって、このころのイタリアの歌ならば、イントロクイズでもイタリア人に負けない自信がある。
 そして、ホテルに着く直前にかかったのが「Il cielo in una stanza」(邦題:幸せがいっぱい)。実に、センチメンタルでみずみずしくて古びない歌なのである。

 イントロが出たとたんに、「これが一番好きなんですよ! ジーノ・パオーリがつくったんですよね」と叫ぶと、彼女も「私も一番好きなのよ!」とのこと。こうして興奮のるつぼのうち、ホテルの前で感動の握手をして別れたのであった。
 彼女は私のことを変な東洋人だと思ったかもしれない。しかし、彼女だって、あの年代のなかでは古い歌好きの変なイタリア人運転手で通っているに違いない。

 さて、新市街に行く途中に、旧市街の島を通過するが、ここの旧市街は、さすがの私も暗くなってからは足を踏み入れる気にならない。ミーナ好きの女性運転手も「ここは夕方からはダメ。歩くなら午前中」とアドバイスしてくれた。

ターラント旧市街

 翌日午後になってから散歩したのだが、すでに廃屋になっているところもあって、かなり危うい一角もある。以前来たときよりも、廃墟化が進んでいるような気がする。しかもそこに変な人間が居ついているようなのだ。
 単なる酔っぱらいならば、まだ対処のしようはあるが、ヤクをやっている人間だと大変である。

 もちろん、ターラントの名誉のためにいえば、きちんと掃除をして家族でちゃんと住んでいるところのほうが多い。そんなところをコンパクトデジカメでこっそり撮って、足早に去った私であった。

 個人的な感想だが、バーリやパレルモ、ナポリの旧市街がずいぶん明るく安全になってきたなかで、現時点で一番ワイルドなのがターラントではないか。
 訪問するならいまのうちである。

季節外れもまたよいオートラント

 26日は、イタリアのかかと、サレント半島の東海岸にあるオートラント(Otranto)を訪ねた。前日に引き続いてSud-Est(南東鉄道)鉄道の利用である。この分ならば、Sud-Est鉄道の全線乗りつくしも夢ではない。

 前日は、ガッリーポリの帰りに、欲張ってナルド(Nardo')までまわったものだから、レッチェに帰ったらもう真っ暗。そこで、この日の遠出はオートラント1つに絞って、残りの時間はレッチェの町歩きに当てることにした。

旧市街の海岸べり

 朝は、前日と同じ時刻の列車で出たにもかかわらず、終点までそれなりに乗客がいたガッリーポリとは打って変わって、オートラント駅で降りたのは私一人。駅も町外れにあった。

 ここは、漁師町というよりも観光の比重が高そうな町である。ホテルの所在を示す看板も多く、狭い旧市街には土産物屋がひしめいていた。
 とはいえ、その分だけ季節外れ感も強く、営業している店は数えるほど。どこか寂しげな印象ではあった。そんななか、私以外にも、観光にやってきている物好きなドイツ人とイタリア人を数人見かけた。ご苦労なことである。

081128b

 海岸べりは風が強くてたまらないのだが、なかに一歩入ると、起伏に富んだ旧市街の町並みが落ち着いた気分にさせてくれる。
--陽光降り注ぐ夏もいいけれど、季節外れのオートラントもまたいいじゃないか。
 と、自分の行動を合理化する私であった。

 せっかく来たのだからと、ちょっとセンスのよさそうな石細工の店を物色する。近くでとれる白い石(凝灰岩か?)を使っているのだそうだ。石でできたブックスタンドやランプシェードも心をひかれたが、何しろ持って帰るには重そうである。結局、小さなネコの彫り物を1つだけ買うことにした。

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