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2008年7月の14件の記事

2008-07-28

ヴェネツィアのデジャ・ヴュ

 北東イタリアをまわっていると、そこかしこの町にヴェネツィアの香りがすることに気づいた。
 ヴェネツィア風のポルティコ(アーケード・柱廊)、ヴェネツィア風の路地、ヴェネツィア風の宮殿などなど、現地からのブログにも書いたが、ヴェネツィアに一度でも行ったことのある人なら、「どこかで見たような」というデジャ・ヴュ(既視感)に襲われるだろう。

 とくに鐘楼となると、サンマルコ広場にあるやつに似たものを、あちこちで目にした。
 なかでも驚いたのがこれ。
 ウーディネの南東数キロのところにあるブットゥリオ(Buttrio)という町にある鐘楼だ。

ブットゥリオの鐘楼

 ゴリツィアからウーディネに向かう列車の車窓からこれを初めて見たときは、驚きのあまり座席からずり落ちた……というのはウソだが、かなりビックリした。
 日本に帰ってきてから写真でくらべてみると、細部がだいぶ違っているが、どうにも全体の印象がそっくりなのである。

ブットゥリオの鐘楼

 幸いにもウーディネには2泊したので、空いている時間を見つくろって、となり駅のブットゥリオまで行って写してきたというわけだ。

 ブットゥリオは観光地としては無名のようだが、町のなかにある観光案内の看板を見ると、郊外にワインセラーがいくつもあるようだ。付属のレストランの案内も記されていた。

 鐘楼に隣接する教会は、まるで機能一点張りというあっさりしたもの。
 この点はヴェネツィアのそれとはだいぶ違っていた。

 芸術に造詣の深い人ならば、このあたりの町を巡って、ヴェネツィア派の作品がどうのと言えるのだろうが、まあ私が気づいたのは、そんな程度である。

 鐘楼は、ウーディネに向かう右側の車窓に見える。近くの国道を走るバスの車窓からも見えた。
 そうそう、バスでウーディネに向かう途中、ブットゥリオの手前にあるマンツァーノ(Manzano)という町のはずれを通過したときに、こんな巨大な椅子が目に飛び込んできた。

 巨大な椅子

 こんなおかしなものが見えてくるから、うかつに寝ていられない。
 日本に帰ってから調べてみると、どうやらこのマンツァーノは椅子や机の製造で有名な町のようである。

2008-07-26

生きているフリウリ語

 今回旅行をした地域で、イタリア北東端にあたるのがフリウリ-ヴェネツィア・ジューリア州。
 このあたりでは、フリウリ語という独特のことばが話されている。
 といっても、レト・ロマンス語の一種というから、イタリア語とはそれほど遠くない。
 観光案内の看板や町の表記などには、イタリア語とフリウリ語が併記されていた。よく見ると、イタリア語には使われないアクセント記号があったりして、なかなか興味深い。

フリウリ語とイタリア語の観光案内

 町なかでも一般に話されているようで、チヴィダーレからウーディネに戻る私鉄の車内では、隣のボックスのおばさんの会話をじっくりと拝聴することができた。
 基本的な語彙は共通しているようだが、イタリア語の特徴の一つである語尾の母音が省かれることが多いようだ。そして、代名詞や冠詞らしきことばが、単音節のものが多いように聞こえた。

 だから、イタリア語のなめらかなリズムとは違って、よく言えば歯切れがよく、悪く言えばブツブツと切れる感じに聞こえる。
「あ、知っている単語だ」と思って聞いていると、突然、耳慣れない発音の連続になったりするわけ。
 総じて、何について話しているかは見当がついたが、内容はほとんど理解できなかった。

ポッファブロのイタリア語・フリウリ語表示

 あくまでも素人の感想であるが、これまで聞いたことのあるなかでは、スペインのバルセロナを中心に話されているカタルーニャ語(カタラン語)に似ていた。ちなみに、標準スペイン語(カスティーリャ語)は、のどの奥から出てくる「j」の音(ハ、ホなど)があるから、また印象が違う。
 そういえば、トップの写真では、「門」を表す「Porta」が、フリウリ語では「Puarte」になっている。なんかスペイン語の「Puerta」そっくりである。

 2番目の写真は、ポッファブロの村の入口。上がイタリア語で、下がフリウリ語。フリウリ語では、ポファブリというのかな。文字通り読むと。
 下の写真は、フリザンコのある家にかかっていた看板(?)。「CJASA」は「CASA」(家)なんだろうなあ。「カーザ」じなくて「キャーザ」なのか?

フリザンコで見た看板

 ウーディネの小さな食堂で働く、愛想のよい若い女の子に聞いてみた。
「若い人たちもフリウリ語を話しているの?」
「私はここ出身じゃないからわからないんだけど、地元の子たちは『道の上のことば』でよく使っているわ」
 どうやら、俗っぽいことばや隠語で生き残っているようである。
 東京の人間が、「いいじゃん」「そろそろ行くべえ」なんて、微妙に関東方言を使っているような感じ?

2008-07-24

トリエステのスロベニア語

 トリエステのオーベルダン広場から、ヴィッラ・オピチーナまでは路面電車の線路で約5キロ。バスでもせいぜい20分くらいで着くだろうと思っていた。

 乗り込んだバスは丘のへりを右に左に大きくカーブしていくのだが、なかなか丘の上までたどりつかない。それどころか、途中から遠ざかっていく気配。
 30分くらいしてから、バスがかなり遠回りしていることにやっと気がついた。

 それでも、ようやく台地の頂上あたりに出たところで、家がたてこんでいるところに着き、しばらくそこで停車した。ふと外を見ると、下の写真のような、なかなかいい感じの小さな町。
--もうそろそろ着くころだし、ここから歩いてもたいしたことないだろう。

 後先を考えず、発作的にバスから降りた私である。

トリエステ郊外の町

 ふらふらと数枚写真撮って戻ると、当然のことながらもうバスの姿はなかったが、せいぜい2、30分も歩けば着くだろうと思って安心しきっていた私は、バス停の時刻表を見てビックリ。
 ヴィッラ・オピチーナまで、バスであと20分近くかかるではないか。とても、炎天下を歩いていける距離ではないことがわかった。

 救いだったのは、次のバスが50分後に来ることか。日曜日じゃなくてよかった。

 まあ、ヒマを持て余したので停留所を3つほど歩いた私であるが、気がついたのは町名の看板が、イタリア語とスロベニア語の2か国表示になっていること。
--へえ、国境に近いからか。親切なんだな。

イタリア語とスロベニア語の併記

 単純にそう思ったのだが、それは浅はかであった。
 よく考えたら、このあたりは第一次世界大戦までオーストリア・ハンガリー帝国の領土だったのだ。なにしろ、このあたりの国境が確定したのは、1954年のことである。

 そして、トリエステの背後にある丘には、スロベニア人が住む集落が多いということを知った。だから、町にもスロベニア語名があるのも当然のわけだ。

 まあ、住民にとっては、昔から住んでいるのに、勝手に国境線があっちにいったりこっちに来たりしただけなのかもしれないが。

イタリア語とスロベニア語の併記

 50分後にやってきたバスでヴィッラ・オピチーナに向かうと、そこにもスロベニア語の標識があった。それが上の写真である。

2008-07-20

トリエステの路面電車兼ケーブルカー

 トリエステには、鉄道ファン必見の不思議な乗り物がある。それは、市の中心部オーベルダン広場と、背後の丘の上にあるヴィッラ・オピチーナ(Villa Opicina)を結ぶ路面電車だ。
「路面電車なんてちっとも珍しくない」という声がありそうだが、早まってはいけない。途中の一部区間で、その路面電車がケーブルカーに早変わりするのである。
 次の2枚の写真は、1985年に撮ったものだ。

トリエステの路面電車
1. オーベルダン広場から路面電車がやってきた。左で待機するのは後押し用の車両。

  ↓
急坂を登る車両
2. 後ろに後押しの車両を連結して、ケーブルカー区間を登る!

 前回は写真を撮っただけで、電車に乗る時間がなかった。今回はその23年ぶりのリベンジということで、5キロあまりの全線をしっかりと乗るつもりで、オーベルダン広場にやってきたのである。
 始発となる停留所には、乗客のものらしい自転車を前面に積み込んだ(据えつけた)電車が待っていた。

自転車を積んだ路面電車

 車内は、地元の人たちだけでなく、英語を話す観光客も乗り込んでおり、ほぼ座席は満員となっていた。ヴィッラ・オピチーナに高級ホテルがあることもあって、この路面電車は観光客に人気が高いのだそうだ。電車は20分おきに運転されている。

 さて、オーベルダン広場を発車して約2分。いよいよケーブルカー区間にやってきた。
 そこでビックリ。
 そこに待っていたのは、23年前に見たクラシックな黄色い車両ではなく、下の写真のような面妖な機械(?)であった。

後押し用(?)の車両

 まあ、それでも働きは同じようなのだろう。電車がスイッチバックしてその「機械」と連結。いよいよケーブルカー区間だ! と思ったら、事態は意外な方向に展開した。

 運転手はどこか指令所と連絡をとっているのだが、いつまでたっても発車しない。
 それどころか、10分ほどたったら、「オーベルダン広場に戻ります」と言って、反対側の運転台に向かっていってしまった。
 近くにいた地元の人にわけを聞いたのだが、よくわからなかった。故障なのか……。

 ヴィッラ・オピチーナにはバス便もあるというのだが、なにしろこれを目的にやってきたのである。このままで引き下がるわけにはいかない。

--うーん、ひとまずバスに乗っていくとするか。現地で昼飯を食べ終えたころには動いているだろう。
 例によって楽天的思考で、オーベルダン広場に掲げられていたバス乗り場案内図を便りに、ヴィッラ・オピチーナという行き先を掲げたバスに乗車した私である。
「片道くらいはバスでもいいか。違う車窓が楽しめるし」と負け惜しみで思ったのだが、それが大きな間違いの第一歩であった。
 確かに行き先はヴィッラ・オピチーナであったが、私が乗った系統は、信じられないほど大回りをしていく路線だったのだ。

ヴィッラ・オピチーナを走る路面電車

 まあ、その話は次回にするとして、なんとか曲がりなりにもヴィッラ・オピチーナに到着し、めでたく復路はこの電車に乗って帰ってくることができた。
 ケーブルカー区間の最大勾配は260パーミル(1000m走って260m上がる勾配)で、一般の路面電車の車両がそこを走るのだから、乗客はつんのめりそうになる。ケーブルカーでない自力走行区間でも最大80パーミルだから、箱根登山鉄道並みである。
 そして、路面電車が走るとは思えない林のなかを、右に左にカーブしながら下りていくのがまた、不思議な体験であった。

 まあ、乗ることができたのはいいのだが、バスで大回りしている間に時間を費やしてしまい、途中区間(とくにケーブルカー区間)の走行写真が、ほとんど撮れなかったのは不覚である。また宿題ができてしまった。次にここにやってくるのは何年先のことだろうか。

2008-07-14

雌ネコ通り

 ネコで思い出したのだが、フリウリ ヴェネツィア・ジューリア州の山麓にある村、フリザンコに行ったとき、こんな名前の通りが目に入った。

雌ネコ通り

 Via della gatta(ヴィーア・デッラ・ガッタ)、つまり雌ネコ通りである。これまで、イタリアでこの名前の通りは聞いたことがなかったが、ほかにもあるのだろうか。
 そもそも、一般的にネコを指すgattoとせずに、あえてgattaと雌ネコを強調したことに、何かいわれでもあるのかもしれない。

 この雌ネコ通りであるが、小さな村の本当に狭い路地である。確かに、ネコがたわむれていてもおかしくないのだが、それにはあまりにも暑すぎる日中であった。
 結局、この村ではネコを見ることはかなわなかった。冬は寒くなるだろうから、ネコがいたとしたら飼いネコだろう。

金魚のいる池

 フリザンコでもう一つおもしろかったのが、この貯水槽というか池というか水たまりである。
 貯水槽自体は、小さな広場のまんなかにあって、静かな村:ポッファブロとフリザンコ のブログ記事で一番下に写真を入れてある。

 この広場を撮っているときに、ちょうど村のおばあさんが通りかかった。
 私は例によって、不審人物と思われないように、「きれいな村ですね!」とお愛想をいうと、おばあさんは「きれいだろ」と笑顔になって、「魚がいるよ」と教えてくれた。
 こんな山の中で急に「魚(ペーシェ)」という単語を聞いて、一瞬何がなんだかわからなかったが、そのときにおばあさんの視線が貯水槽を向いていることを、私は敏感にも察知したのである。

 そこを見やると、水たまりのなかを確かに小さなものが動いているではないか。
 それは、金魚というには大きいが、鯉というには小さな魚であった。
 山の中の小さな村で、水たまりを金魚(らしきもの)が泳いでいるのは、どこかユーモラスな光景であった。

 もし、雌ネコ通りに本当にネコがいたら、いい食事になっているかもしれない。

2008-07-12

北東イタリアのネコ

 さて、今回の北東イタリア旅行で出会ったネコの写真である。
 驚くことに、10日間の滞在で目にしたのは、たったの4匹であった。内訳はフリウリ-ヴェネツィア・ジューリア州3匹(うちトリエステ2匹)、ヴェネト州1匹、トレンティーノ-アルト・アーディジェ州ゼロである。
 1日じゅう、あちこちの町をめぐっていたのに、この結果であった。

トリエステ駅のネコ

 理由はわからないが、あまりにも暑かったので日中にネコが出てくることはなかったのだろう。
 トリエステ駅では、上の写真のように、エアコンの入った駅舎で堂々と涼んでいた要領のいいネコもいたが。

 アルト・アーディジェでネコを見なかったのは、冬が寒いのでノラネコが生きていくにはつらい環境だからかもしれない。

 もちろん、ネコの天国ヴェネツィア(ヴェネト州)に行けば、おネコ様に会えたであろう。かなり心は動かされたが、それよりも知らない町を訪ねることを優先した私である。

ポッファブロのネコ

 さて、4匹のネコに出会ったと書いたが、そのうちで歩いている姿を見たのは、このポッファブロのネコ1匹のみである。
 目の前を横切っていったのでカメラを構えると、階段の陰に隠れてしまった。どうするのかと様子を見ていたのだが、ずっとこの体勢であった。日陰で涼んでいるつもりなのだろうか。

 あとの2匹は、近づいてもカメラを構えても動じることなく、横になったまま。
 トリエステの町中にある小さな遺跡で見たネコ(下の写真)は、めんどくさそうに目を開けたが、すぐにまた眠ってしまった。

トリエステの眠りネコ

 そして、ヴェネト州のアーゾロのネコもまた、草むらで横になったまま。
 これじゃ、どこで写したかわらない。そのへんの雑木林で撮ったんじゃないかと言われそうである。

アーゾロのネコ

 というわけで、記録的な猛暑はネコの生態も大きく変えた……のかもしれない。
 素晴らしいネコ写真を期待していた方々には、まことに心苦しい結果になってしまった。
 しかし、こんなダラけたネコ写真ばかりでは申し訳ないので、次回は以前ヴェネツィアで撮った、とっておきのネコ写真を紹介しようと思う。

2008-07-08

ワイン街道をゆく:カルダーロ

 6月30日未明、ボルツァーノは激しい雷雨に見舞われた。そのためかどうか知らないが、無線LANは使えなくなり、なぜかそれまで使えていた電話線経由のメール送受信もできなくなってしまった。

 締切りを迎えた仕事を日本に送信できず、ヒジョーにあせった私である。やむなく、翌朝早くに都心の高級ホテルに出向いて、30分間2ユーロの定価(たぶん)で宿泊者向けの無線LANを使わせてもらった。

カルダーロにて

 そんな「事件」があって精神的に疲れたので、最終日はのんびりとミラノの空港に向かおうかとも思ったのだが、仕事を無事に送信し終えたら、急に元気が出てきた。天気も急速に回復してきたし。

 ボルツァーノ駅を午後3時発の列車に乗れば、ミラノ発の飛行機に十分間にあう。そこで、ボルツァーノ南西に広がる通称ワイン街道を訪ねることにした。
 行き先は、ワイン街道沿いにあるカルダーロ(Caldaro)という町。ボルツァーノからバスで40分ほどのところにある。

カルダーロの中心の広場

 途中から、バスの車窓には一面のぶどう畑が広がり、若葉が目にまぶしい。
 カルダーロは、まるでぶどう畑に囲まれような場所にある町だ。山から続く斜面には、点々と集落があり、教会の尖塔が見える。
 イタリアではもっぱら町なかをうろつき回るのを旨としている私ではあるが、こんな風景にはさすがに心洗われる思いがする。

 そして、こんな町にもドイツ人団体観光客が何グループもやってきていて、ワイナリーのなかに吸い込まれていった。
 私はどうかといえば、立派なワイナリーに気押されてしまって、入口を見ただけでやめてしまった。そもそも、気に入ったワインがあっても、液体を機内に持ち込めないものだから、ここで買って帰るわけにもいかない。せめてワイン博物館というのを見ようかと思ったが閉まっていた。

カルダーロ周辺の小さなワイナリー入口

 そうなると、あとは帰りのバスの時間まで周辺の集落をぶらぶらと歩くだけ。こちらのほうには観光客の姿もなく、マイペースで巡ることができた。
 そして、今回のイタリア旅行をしめくくるにふさわしく、厳しい日射しは痛いほど肌に降り注ぐのであった。

【2008年北イタリア旅行記「現地編」・完】
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というわけで、帰国後1週間あまりにして、ようやく「現地編」を終えることができました。お付き合いくださり、ありがとうございます。
なにしろ、1日に平均2つの町をまわったので、それを記録するだけで大変でした。実は、まだほかにも行った町があるのですが、それはネコ写真や旅の感想を含めて、気が向いたら「総集編」で紹介します。

2008-07-07

国境目前の賑わい:ヴィピテーノ

 メラーノからボルツァーノに戻ってきたのが午後4時ごろ。冬場の旅行ならば、ここで商店街をぶらぶらと散歩して、お土産に乾燥ポルチーニでも買うところであるが、高緯度の上に夏時間だから昼が長い。午後4時でも太陽が中天高く輝いているのである。

賑わう「新市街通り」と「市の塔」

 そこで、この29日も二毛作を実施--つまり、1日で2つ目の町めぐりに出かけることにした。
 行き先は、オーストリア国境から数キロほど手前にあるヴィピテーノ(Vipiteno)、ドイツ語名Sterzing(全然違う!)という小さな町。ミュンヘンに向かう本線上にある。
 人口5000人あまりの町だが古い歴史を持ち、かのフッガー家がこの近くで15世紀に鉱山を発見したという話である。

 ボルツァーノから片道1時間、見物時間が1時間という行程だが、小さな町なので十分だろう。イタリアの北の端の小さな町で、しみじみと今回の旅を振り返りりつつ、ビールでも飲もうというもくろみであった。

自転車でやってきた人

 ところがである。日曜日だったのだ。7日前に訪問したチヴィダーレと同じことになった。小さな町の目抜き通りであるチッタ・ヌオーバ通り(新市街通り)には市が立って、所狭しと骨董品やリサイクル品を売る屋台が出ている。
 数少ないカフェ・テラスは、おそらく周辺の町からやってきたであろう人びとでぎっしり。やけに賑やかであっけらかんとした雰囲気であった。

 町の中心には15世紀にできたという「トッレ・ディ・チッタ」(市の塔)が建っており、その塔の下をチッタ・ヌオーバ通りがくぐっている。トップの写真がそれである。
 そして、塔の向こう側が旧市街になるということなのだが、町並みはあまり新市街と変わりばえがしない。ただ、骨董市は新市街だけなので、旧市街に入ったとたん、周囲はひっそりと静まり返ってしまった。

鉱山博物館と教会の尖塔

 もうここまで来れば、ほぼ全員がドイツ系住民……かと思っていたら、教会の前でおしゃべりに夢中だった4人のおばさんの話していたことばは、間違いなくイタリア語であった。

2008-07-06

保養地の賑わい:メラーノ

 最後の宿泊地ボルツァーノには2泊するので、ちょっとゆったり気分である。
 ホテルも町はずれにあって、窓からは斜面のぶどう畑やオーストリア国境に向かう列車が見える。
 29日は日曜日ということもあって、ゆっくり起きて行き先を考えた。

 行き先は3か所ほど考えていたのだが、日曜日だからバスも列車も本数が少ない。そのなかで、一番便利そうなところということで、10時35分にボルツァーノを出る列車でメラーノ(Merano)を目指すことにした。

パッシリオ川沿いの広い歩道

 正直な話、メラーノはあまりにも有名な観光地であるがゆえ、いま一つ食指が動かなかったのだが、この際しかたがない。

 メラーノまでは約40分の行程である。途中、ぼんやりと車窓を眺めていると、「次はポスタル」というイタリア語の車内放送があった。
「何か郵便局の施設でもあるのかな」と思っていると、続いてドイツ語で「ブルクシュタル」と放送があった。そして、着いた駅名票には「Postal/Burgstall」と記されているではないか。
 ドイツ語の名前を、聞いたままイタリア語のそれらしき単語に置き換えたのだろう。北海道のアイヌ語地名を日本語の漢字に当てたようなものか、なんて思ったのであった。

パッシリオ川

 さて、肝心のメラーノであるが、さすがに5つ星のホテルがある大保養地である。町は、完全にドイツ系じじばば観光客に占領されていた。
 下流でアーディジェ川と合流するパッシリオ川が町の中央部を貫いているが、その川岸の広い遊歩道はかなりの人出であった。
--このじじばばたちは、こんな日射しの中を歩いていて大丈夫なのか?
 そんな心配をよそに、みんな元気でアイスクリームなんかを頬張っている。私のほうが先にダウンしそうであった。

メラーノ全景

 暑さにくらくらしてきたので、そのまま小さな旧市街を歩いて帰ろうと思ったときである。道端の観光地図を見て、町を一望できる丘の上の散歩道があることを知った。

 暑くてたまらないが、高いところがあると登らなくては気が済まない性分である。汗びっしょりになりながら裏山を登っていった。そのとき撮ったのが、この最後の写真である。

 この一見、雑然とした賑わいの町も、ウインタースポーツの季節には近くのスキー場の一大ベースキャンプとなるのだろう。冬に訪れれば印象もまったく変わっているに違いない。

2008-07-05

イタリアのドイツ:ボルツァーノ

 28日の午後は、トレントから列車で北上。最後の宿泊地であるボルツァーノ(Bolzano)へ向かった。同じトレンティーノ アルト・アーディジェ州であるが、トレントを中心とするトレンティーノ地域がどちらかといえばイタリア語圏であるのに対して、ボルツァーノを中心とするアルト・アーディジェ地域は完全にドイツ語圏である。

 アルト・アーディジェはアーディジェ川の上流ということで、「上アーディジェ」という意味。ドイツ名では南チロルとして知られている地域である。
 ボルツァーノ(車内のイタリア語アナウンスは「ボルザーノ」に近かった)駅ではドロミティの山々(だと思う)が出迎えてくれた。

ボルツァーノ駅から見える山々

 北イタリアでは背が高く青い目の人が多いが、アルト・アーディジェでは印象として9割がそんな人である。イタリア国内でありながら、そんな人たちがドイツ語をしゃべっているのがおもしろい。

 アルト・アーディジェに入ったとたん、駅名もバスの行き先も、下の写真のごとくイタリア語とドイツ語の併記になる。
 ポルツァーノは、ドイツ語でBozenと記されている。ボーツェンと発音されるのだろうが、実際には「ボーツ」としか聞こえない。

2カ国語の駅の表示  バスの行き先表示も2カ国語

 こうした事情の背景には、トレンティーノ アルト・アーディジェ州の歴史がある。第一次世界大戦後にイタリアがオーストリアから取ってきたものだから、そんなことになるわけだ。
 かつてのイタリア政府がドイツ語禁止・イタリア化を強制したことで、一時は不穏な時期もあったようだが、現在は自治州となりドイツ語も公用語の1つとされて平穏な町となっている(と思う)。

ボルツァーノ旧市街にて

 ただ、変な東洋人がイタリア語で話しかけたら、ゲルマンパワーで弾劾されるのではないかと、内心ビクビクしていたが、そうでもなさそうなので、まずは安心した。

 当日昼間に電話で予約したホテルは、ボルツァーノ駅からバスで数分のところという。一般的にイタリアで市内バスに乗るのは困難の連続だが、ここボルツァーノはだいぶ事情が違っていた。

 あらゆるバス停に、そこに停まる全系統の時刻表と、簡単な路線図が記されているのだ。たまに時刻よりも2分ほど早く来ることを除けば(もちろん遅れることもある)、実に利用しやすい。
 ここは、もはやイタリアではない……いやこれもイタリアの一つの姿なのだ。

 駅やバスターミナルの窓口を見ていると、ドイツ語で話しかける客、イタリア語で話しかける客、英語で話しかける旅行者らしき客、それに対して、窓口の人はみな流暢に答えるのだから偉いものである。

 バスに乗っていても、客は当然のように自分の母語で運転手に問いかける。運転手はどっちのことばでもきちんと答えるのだ。
 駅前のバス停でバスの時刻表を見ていたら、ドイツ人旅行者らしき大きな荷物を持った女性にドイツ語で話しかけられた。地元で働く中国人とでも思われたのだろう。

旧市街の広場

「イタリア語は?」と私が卑屈に問い返すと、私よりも少しうまいイタリア語で、「このバスは、もう定刻より10分過ぎたけど、まだ来ないの」と私が見ていたのとは別の時刻表を指さす。
 気の毒に、そのバスはたぶん定刻よりも2、3分前に通過したに違いない。しかも、その日は日曜日だったから本数が極端に少なくなるのだ。

 ボルツァーノの人口は10万人たらず。町の中心からも周囲の山々が見えるのが気持ちいい。

2008-07-04

居心地のよさそうな州都:トレント

 27日夕方、ヴェネト州のバッサーノ・デル・グラッパからローカル線で向かった先は、トレンティーノ アルト・アーディジェ州の州都であるトレント。州都といっても人口は10万人程度の都市である。

カステル・デル・ブオン・コンシリオから見た市内

 イタリアの町に来ていつも思うのは、中心部がずいぶん賑わっていても、意外と人口が少ないこと。トレントにしても、駅前から旧市街まで歩いていると、日本なら50万都市くらいのイメージである。

 そのことについて論じると長くなるので、詳しくは別の機会に譲るとして、私の乗った列車がトレントの駅に着いたとたん、土砂降りの雨が降ってきた。

 もっとも、前日の安ホテルでこりたので、トレントでは電話で数時間前にホテルを予約済み。雨の中で途方にくれることにならなったのは幸いである。ただ、当然のことながら、私の名前は正確には聞き取られていなかった。

ドゥオーモ前広場

 雨のおかげで翌日の朝は涼しかったものの、昼間は例によってかんかん照り。そのなかを、まずこの町の最大の見ものであるカステル・デル・ブオン・コンシリオ(コンシーリョ)に向かう。漢字にすると、「良導城」といったところか。

 幸か不幸か、城の一部が催し物の準備のために閉鎖中だった代わりに、残った部分の入場は無料になっていた。
 入ることのできたのが、城の古い部分、そして国宝(だと思う)の「12カ月の壁画」(正式な名前は知らないが)が描かれたトッレ・ディ・アークイラ(鷲の塔)なので、もうけた気分である。

ドゥオーモ前広場

 トッレ・ディ・アークイラには、1時間半ごとにグループをつくって見学する。各自、解説音声の入ったプレーヤーを配られるのだが、選べるのはイタリア語、ドイツ語、英語の3つ。「イングリッシュ?」と問われたが、「イタリアーノ!」と見栄を張って答えた。

 12か月の壁画は、市井の人びとの毎月の生活を、月ごとに塔の内側に描いたもので、ブリューゲルを思わせる素朴な農民画という感じで、非常に好感が持てた。

かなり幅広のポルティコ

 そうそう、このグループ約20人のほとんどが北ヨーロッパ系の顔をしていたなかで、ナップザックを背負った30代とおぼしき東南アジア系の男性がいた。
 ずっとお互いに気になっていたのだが、最後の土産売り場でようやく会話をかわすことができた。
 彼はマレーシア人で、勉強のために2か月ほどトレントにいるらしい。なんの勉強かは聞き逃したが、これまでイタリアを旅行していて少なくともマレーシア人の単独行動の人物と会ったのは初めてである。

 数分ではあったが、土産も買わずに土産物売り場で話し込み、最後にがっちりと握手をして別れた。
 やはり、アジア人どうしはどこか心が通じるところがある。背が高くて青い目ばかりの人間に囲まれていたせいかもしれないが。

 まあ、いずれにしても短い滞在だったが、トレントの印象はなかなかよかったといっておこう。居心地もよさそうである。もう少しスケジュールに余裕があったなら、そしてこんなに暑くなかったら、ゆっくり滞在してみたかった。
 車窓から遠ざかっていく町並みを見るうちに、私の脳裏に一つのフレーズが浮かんだ。
--帰れトレントへ

2008-07-03

日曜でないとダメだった:アーゾロの城砦

 バッサーノ・デル・グラッパにあるエアコンなしのホテル(しつこい)に荷物を置き、27日の朝に向かったのは、丘の上にあるアーゾロ(Asolo)の町である。

プレトリオ宮(女王の城)


 ヴェネツィア貴族の娘であるカテリーナ・コルナーロがキプロス王に嫁いでのち、夫の死後ここに移り住んだということがガイドブックに書いてあった。
 そして、ロバート・ブラウニング、ヘンリー・ジェイムズ、ヘミングウェイといった詩人、文学者たちもこの町を愛したのだとか。

 バッサーノからはバスで約20分でふもとの停留場に到着。そこから旧市街へ行くミニバスに乗り換えるわけだが、そもそものスタートからつまずいた。

 詳しくはまた書くとして、バッサーノで目の前に止まっていたバスに乗り損ない、やむなく遠回りで鉄道・バスを乗り継いで行くことなったわけだ。

 それだけならまだしも、昼すぎにようやくアーゾロに到着したと思ったら、大粒の雨が降ってきたではないか。

 まあ、これも「今のうちに飯を食っておけ」という神と仏の知らせと受け取り、広場に面したテラスで昼食をとることにした。
 店はビッレリーアと書かれているだけあって、ビールのメニューが豊富であった。まずベルギーの生ビールを頼んでから、メニューを店長らしき人に相談する。
 彼は、たぶんナポリあたりの人か。少なくともローマ以南の顔をしていた。

アーゾロでの昼食

「ハムの盛り合わせ? このメニューの品じゃ量が多いので、適当に見つくろいましょう。チーズもつける? それから、インサラトーネ(野菜などの盛り合わせ)もデカ過ぎるので、一人分にしておきますよ。パンもつけましょうね」とひどく愛想がいい。
 そうして出てきたのが上の写真のメニューである。
 グラスで白ワイン、赤ワインも立て続けに注文。値段もほどほどで、気分よく食事ができた。
 食べ終わったころには雨もやんでいて、これでいいのだ。

中心の広場


 食後、まず目指したのは丘の頂上にある城砦である。
 ここからは、町の全景が見渡せるはずで、パンフレットにはよだれの出るような美しい写真が印刷されていた。

 ところがである。

味わい深い路地


 行ってみてから気がついたのだが、城砦を公開するのは日曜日のみというではないか!
 雨のおかげで、じとじとと湿った空気のなか、大汗をかいて骨折り損であった。道の途中からは木が繁りすぎてよく見えないのだ。城砦にのぼらないと意味がないのである。

 ちなみに、なんとかと煙は高いところに昇りたがるというが、なんとかが何を指すのかは、私にはよくわからない。

 まあ、あとはぶらぶらと小さな町のなかを見物するしかなかった。確かに落ち着いた気品のある町であることは確かである。

 そして、ふもとの新市街と合わせても人口が7000人あまりという小さな町なのに、坂道の両側には商店街があってしゃれたものを売っている。

 でも、私はとにかく全体を俯瞰できる場所で写真を撮りたい……なんて思っているうちに、坂道をおりてふもとのバス停まで着いてしまった。

「まあ、いいか。次は日曜日に来よう」

 バスが来るまでの約30分間、交通量の多い国道沿いで、私は強い日射しを避けて日陰にぼんやりと座っているしかなかったのである。

2008-07-02

バッサーノ・デル・グラッパの2つの顔

 ベッルーノの次の宿泊地は、同じヴェネト州のバッサーノ・デル・グラッパ(Bassano del Grappa)である。今回の旅でもっとも知られた観光地だと思う。
 カステル・フランコ・ヴェネトで列車を乗り換えて、約2時間の旅。このカステル・フランコ・ヴェネトもおもしろい町で、図らずも翌日訪れることなってしまうのだが、それについては、またいずれ。

ポンテ・ヴェッキオ"

 26日の18時近くに駅に着き、旧市街でたまたま目に入った3つ星のホテルに宿泊。バールと経営が一体となっているのは、先日のマニアーゴと同じである。
 それにしても、星3つにしては部屋が狭苦しい。旧市街にあるのでしかたがないのかもしれないが、この暑いのにエアコンがないことに気がついてがっくり。
 その晩、ピッツェリーアでたまたま出会った中華系(中国本土、台湾、香港)3人連れに「ホテルにエアコンがない」と言ったら、「インクレディブル!」と驚かれてしまった。

 それはそうと、バッサーノ・デル・グラッパといえば、ブレンタ川に架かる屋根付きの橋であまりにも有名になってしまった。トップの写真がそれである。
 観光案内にはポンテ・デイ・アルピーニ(アルプス人の橋)と記されていたが、一般にはポンテ・ヴェッキオ(古い橋)で通っているようだ。

橋からの眺め

 いかにも、ロマンチックな雰囲気で、観光客であふれてかえって騒々しい町なのではないかと思ったら、やはりそうだった。
 あちこちの飲み屋からは、ドイツ語、イタリア語、英語をしゃべる若者の大騒ぎが聞こえてきて、ちょっとげんなり。

 それにしても、あの橋がなければ、普通のイタリアの古い小都市である。橋だけでこれだけの集客力があるというのも、考えようによっては素晴らしいものだ。
 ガイドブックによれば、オリジナルの橋はアンドレーア・パッラーディオの設計によって1569年に架けられたものであり、その後、何度も戦乱や水害で破壊され、そのたびにもとの設計に忠実に再現されたという。最後の破壊は1948年というから、第二次世界大戦のためか。

 そういえば、この町は蒸留酒グラッパ発祥の地という説があるほかに、第一次世界大戦の激戦地としても知られているようで、それにちなんだ碑や看板も目についた。町の本屋のショーウインドウには、当時の写真集や読み物も数多く置かれていた。

中心部の広場

 さて、さきほどはバッサーノ・デル・グラッパの町の悪口を書いてしまったが、翌朝観光客の少ない町を歩いているうちに、そんな印象は大きく変わった。
 いそいそと仕事に向かう人、犬を連れて散歩している人、街角であいさつしている人びとなど、そこにはよきイタリアの小さな町があった。
 町なかで写真を撮っていると、「この坂の上に行けば、橋全体をパノラマで撮れる場所があるよ!」と犬を連れた40歳ほどのお兄さんに声をかけられた。
 どちらかというと、観光客にはクールな対応の多い北部の旅で、こんなふうに声をかけられたのは初めてであった。

 バッサーノ・デル・グラッパに行くならば、ヴェネツィアのついでに立ち寄るのではなく、ぜひこの町で泊まってほしい。そして朝のうちに町めぐりをすべきである。
 そして、夏に泊まるならエアコンのついたホテルにね。

2008-07-01

いつも暑い町(?)フェルトレ

「ああ、フェルトレ(Feltre)ね。あそこはいつも暑いんだよ」
 26日の午後、フェルトレに行ってきたと告げると、ベッルーノのホテルのフロントのお兄さんは淡々とそう答えた。
--なんだよ~。前もって聞いておけばよかったなあ。
 とは思うけれど、アドバイスされたとしてもどうにもならない暑さであった。

フェルトレの旧市街を望む

 フェルトレ駅から徒歩5分足らず、旧市街の入口に着いたまではよかったが、目に入ってきたのは、中心部に続く階段。激しい日射しを遮るものもなく、階段は直射日光に輝いていた。
 こんな暑さの中、60代とおぼしきイタリア人のおばさんグループが、旧市街を見物していたのには感心した。もっとも、やはり日陰を伝って歩いてはいたが。

 中心部の広場に立つと、城砦や教会の鐘楼など、時代を刻んだ建造物が折り重なって目に入ってくるのが見事である。
 もっとも、ミニコンサートでも開かれるのだろうか、無骨な金属のステージがしつらえてあったのは、ちょっと残念であった。

中心の広場

 暑さから少しでも逃れようと、旧市街のはずれにある市立博物館で一息入れよう思い立ったが、そうは問屋が卸してくれない。
 博物館の入口では、40代後半か50代のインテリっぽいおばさんがおしゃべりをしていたのだが、その2人がここの学術員だった。
 館内に人影はなく、私は飛んで火に入る夏の虫である。イタリア語は「ボン・ジョールノ」しか口にしていないはずなのに、2人交代でイタリア語で館内をウーマン・トゥー・マンで丁寧に説明してくれた。゛

 もっとも、とても聞きやすいゆっくりなイタリア語だったので、だいたいは理解できた。
 約20分の「講義内容」を簡単にまとめれば、ここフェルトレはキリスト教伝来以前から栄えた町であり、地中海世界と北ヨーロッパとを結ぶルートの重要な位置を占めていたということである。
 ローマ時代のものはもちろん、エトルリアの遺物も展示されていた。郊外では、先史時代の遺跡も見つかったという。


ポルティコのある道

--当時のフェルトレは暑くなかったのだろうか?
 もとは貴族の家だったというこぢんまりとした館内を一周すれば、あとは館内で時間をつぶすスペースもない。
 再び頭頂部に強い日射しを浴びた私は、そのくらいしか考えつかなかったのであった。

 そういえば、博物館を出るとき、ぜひ訪問帳にサインをしていってくれというのでローマ字と漢字でサインをしたが、よく見ると私の前の人は前日、その前の人はその2日前の訪問であった。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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