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大阪滞在の2日目、午後の余った時間を散歩に使う。今回は初めて、聖徳太子が建立したという四天王寺に足を向けてみた。
寺の周囲は、なんとなく門前町風で古い家並みが残っている。
寺を入ると、ビルの谷間に広々とした空間が広がり、かつてのなにわの都のにぎわいがうかがえる……かな。
もっとも、この寺は何度も焼失の憂き目にあっており、とどめは大阪大空襲。かろうじて、六時堂や五智光院、元三大師堂など、いくつかの建物が焼け残っただけという。
そう言われて、戦後再建された五重の塔や金堂をよくよく眺めると、いかにもコンクリート造りという安っぽさが見えてくる。
せっかく苦労して再現したのだろうから、あまり文句をつけると気の毒だが……。
いまだったら、もう少しうまく再建したのではないかと思う。
それに比べて、焼け残った建物(すべて重文指定)は、やはり風格があるもんだと納得した私であった。
わけあって上方にやってきた。大阪の中心部に宿泊。
真新しいホテルには立派なレストランがあるから、そこで夕食をとってもいいのだが、わざわざ天王寺と鶴橋を徘徊。京橋駅近くのカウンターで串カツを食べる私。
けっして有名な店ではないのだか、なぜか落ち着くので大阪に来るたびに寄ってしまう。
それにしても、駅前の店で9時半ラストオーダーは早くないか?
だが、不思議なことに、どの店もやけに閉店が早い。大阪の人間はそんなに健康的だったっけ?
串カツばかり食べて脂っこくなったので、賑わっているスタンドうどん屋で、うどんを一杯食ったのであった。満腹。
「美濃市に蔵開きに行った」なんて言うと、「そんなことを言って、お前のホントの目的は、名鉄の旧・美濃駅なんじゃないか」と疑う人がいる。
正直言って、すっかり忘れていた。
そう、ここには、1999年に新関~美濃が部分廃止されるまで、名鉄の美濃町線の終着駅があったのだった。
そして、残る岐阜駅前~新関も2005年に廃止されてしまった。
残った旧美濃駅の駅舎は、有志の手によって保存されているとは聞いていたが、現地に来るまですっかり忘れていた。タダ酒に心を奪われていたからである。
ところが、長良川鉄道の美濃市駅から、目的地である酒蔵のある中心部に行く途中で、目に入ってきたのが、かつての車両。
これは見逃してはならじというわけで、電車好きの4歳の甥をけしかけて、無理やり一同を寄り道させたのだった。
帰り道は、この近くで昼食。電車好きの甥が、「また見たい」とうるさいので(ということにして)、またもや立ち寄ることになった。
やはり、ただ車両が置かれているだけでなく、現役時代の駅とセットで保存されているのがいいなあ。いまにも動き出しそうな雰囲気である。
名古屋行きの高速バスを待つまでのひととき、保存に尽力している人たちと話をしたり、酒をつがれたりして、楽しく過ごしたのであった。
ところが……。
つがれるままに酒を飲んでいい気持ちになっていると、乗るはずのバスが目の前を通り過ぎていった。これを逃すと、次のバスは2時間後だ。
「車で先回りして送っていきましょう」と、保存会のI氏のことばに甘えて、一族郎党5人が車に乗せてもらったのだった。
バスは町をひとめぐりしてから、町外れの病院にやってくる。その病院前で待ち伏せするというわけだ。
Iさんありがとう。
「お義兄さんたちの旅行って、いつもこんなハプニングばっかりでおもしろいですね。ブログでよく見ていますよ」
義理の妹のこの一言は、最大級のほめことばとして受けておこう。
3月24日、25日には、イベントがあるそうだから、興味のある方はぜひ出かけよう。
名古屋から岐阜県美濃市にある小坂酒造に向かった。
美濃市の中心部には古い町並みが残り、立派な「うだつ」がかつての繁栄をしのばせる。
そのなかにあって、小坂家は国指定重要文化財になっている造り酒屋である。
実は、その造り酒屋に、私の妻の同級生が「嫁入り」しているのだ。そして、当日は蔵開きということで名古屋の一族郎党とともに出かけたのであった。
蔵開きだから、しぼりたての酒の飲み比べは自由。酵母が生きている濁り酒は、酒蔵ならではの新鮮な味でございました。
観光バスでやってきた客もまじえて、酒蔵のなかはほろ酔い加減の客で満員。
タダ酒だと思うと、こうも人間は卑しくなるものかと、私は自省を込めて笑うしかなかった。
もちろん、タダで飲んだだけではない。私たちは自宅用に4合ビンを都合4本買い、名古屋の義弟と義母の家では計7本を買い込んでいた。
接客で忙しい合間を縫って、ご主人と奥さんにはいろいろと案内してもらい、楽しいひとときを過ごすことができた。
先週末、妻の実家から出頭命令……じゃなくて、お招きがあり、1泊で名古屋に行ってきた。
初日は午後から一人で近所を散歩。
妻の実家近くを走る飯田街道は、その名の通り、長野県の飯田に通じる街道なんだとか。
数年前に初めて来たときに比べて、だいぶ沿道にはマンションが立ち並んだが、まだまだ古い立派な家も残る。
名古屋というと、どこもかしこも近代化されて、散歩の魅力に欠けるという印象もあるが、探せばずいぶん興味深い町も残っている。
この日は、足の向くまま、川名町から圦中(いりなか)を通り、八事まで、地下鉄2駅プラスアルファ分ほどを歩いた。20度を越える、春先とは思えない暖かさで、手に持ったコートの重さが身に沁みた。
散歩のシメは、名古屋では知らない人のいないコメダ喫茶店。コーヒーにミニ・シロノワールで疲れをいやした私であった。
久しぶりに有楽町駅で降りて驚いた。
南東側の一角が工事で更地になったところまでは知っていたが、いつのまにやら大きな建物が姿を見せていた。
数寄屋橋は取り壊され(これは物心ついていないころだが)、日劇と朝日新聞社はマリオンになり(古い!)、最後まで戦後の香りを残していた一角も大きく姿を変えつつあるというわけだ。
いやはや、なんともである。
かろうじて、細い道をはさんだ西側には、中華料理屋やドラッグストア、パチンコ屋が残り、最後の砦となっている。
「君の名は」の真知子と春樹もさぞや驚いているだろう……と、新聞のコラムならば文章をしめるところである。
だが、それは避けたいなあ。
数寄屋橋で辻説法をしていた赤尾敏も、草葉の陰で文句を垂れているだろう……というのもイマイチか。
そういえば「有楽町で逢いましょう」を歌ったフランク永井は、どうしているんだろう。自殺未遂の後、まだどこかで健在のようである。
フランク永井の低音と、かつて有楽町で待ち合わせをした女の子(たち)のことが、ふとよみがえる早春の夜であった。
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