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2006年12月の5件の記事

2006-12-20

秋葉原デパート閉館

 秋葉原で買い物をするついでに秋葉原デパートに立ち寄って驚いた。
 今年いっぱいで閉館するのだという。

JRの秋葉原デパート口

 なんとも寂しい感じ。
 2年ほど前に館内をリニューアルしたから、まだ当分は残るのかと思っていた。
 どこのデパートも、改装するたびに敷居が高くなるなか、秋葉原デパートだけは気軽に立ち寄れる数少ない存在であった。

秋葉原デパート正面

 デパートがなくなると、その正面でやっていた立ち売りはどうなるんだろう。
 それよりも、デパート自体はどうなるのか。人ごとながら、心配である。
 現在のおじさん中心の客層を切り捨てて、またここも若い子を対象にした店にしてしまうのだろうか。
 おしゃれで手頃だけど、あまりウマくないレストランとか、化粧品売り場ばかりの店になってしまうのかもしれない。

秋葉原駅前

 でも、それじゃ、よその店とたいして変わりないよね。
 なにも、無理して世の中の先端を走ろうとすることはないんじゃないかと思う。何も世の中から遅れろとは言わないが、前回のリニューアルでユニクロが入ったような、「世の中の動きに遅れてついていく」くらいのスタンスがいいのではないか。まあ、利害関係のない無責任な感想だけど。
 一周遅れでついていけば、いつのまにかトップに立っているように見えるものだ。そもそも、秋葉原がそういう町なのではないだろうか。

2006-12-17

初めてのトラステーベレ

 ラークイラからローマまでは、高速バスが1日に12便も運転されている。所要は1時間45分。バスターミナル13時発の便を待っていると、やってきたのは、なんと2階建てバスであった。
 ラークイラ市内のあちこちの停留所で客を拾い、半分以上の席が埋まったバスは、町外れで高速道路に入ると、あとはローマまでノンストップである。ローマ・ティブルティーナ駅そばのバスターミナルには、ほぼ定刻に到着した。

橋の上の落書き

 さて、イタリア滞在の最終日となったこの日は、夕方までローマのトラステーベレを徘徊しようと考えていたわけ。トラステーベレとは、ローマの中心部から見ると、テーベレ川の対岸に当たる地区のことだ。
 恥ずかしながら、ローマに何回も行っておきながら、昔のローマの面影を残すと言われているトラステーベレに、一度も足を踏み入れたことのなかった私である。

 荷物をティブルティーナ駅に預けて、オスティエンセ駅まで電車に乗り、そこから、ひたすら歩いて北上し、橋を渡ってトラステーベレ地区に入った。

 で、その橋の上で見かけた落書きが上の写真。
「IL CUORE DI RENATO BATTE NELLA CITTA」と書かれている。「レナートの心臓は、町の中で打つ(高鳴る)」といった意味か? レナートとは、もしかして、ローマを代表する歌手で、私が気に入っているレナート・ゼロのことかな、なんて思ってシャッターを押したのであった。

トラステーベレにて

 さて、肝心のトラステーベレであるが、その雰囲気は、これまで巡ってきた地方都市そのもの。東京でたとえれば、浅草まではいかないけれど、上野あたりといった感じか。なかなか気に入った。
 広い通りには個人商店が建ち並んでおり、中心部の路地には小さなレストランが軒を連ねている。こんどローマで泊まることがあったら、トラステーベレのホテルにしよう。大通りには、新型の路面電車も走っていたしね。
 それにしても、トラステーベレの路地の奥にまで、ドイツ人が団体で次から次へとやってきているのには驚いた。

 結局、バールにも入らず、ただひたすら歩きまわり、そのままローマの中心部に突入。前日の山歩きに続く、この日の町歩きで、私はひたすら幸福感にひたっていたのであった。

【2006年9、10月イタリア・マルタ旅行記・完】

2006-12-12

優雅な山岳都市サント・ステーファノ・ディ・セッサーニオ

 三菱製の四輪駆動車のドアが開き、50代なかばと思しきイタリア紳士が顔を出した。
「大丈夫か? 乗っていくか? どこまで行くんだい?」
 みっともない尻餅を見られた私は、恥じらいに顔を赤めながらも、しっかりと隣町の名前を告げた。
「ありがとう! すいません! カラッショ(Calascio)まで! ありがとう!」

 カステル・デル・モンテから目的地のサント・ステーファノ・ディ・セッサーニオ(S.Stefano di Sessanio)までは約8キロ。カラッショはその中間にある小さな町であった。
 実は、私が尻餅をついた地点からカラッショまでは、ゆるやかな上り坂になっていた。風景も茫漠としていて変化がない。行きのバスの車窓から見て、「ここを歩くのは嫌だなあ」と思っていた区間なのである。
 そこを乗せてくれるというのだから、ラッキーというほかはない。揚げ餅は食うもの、尻餅はつくものである。

サント・ステーファノ・ディ・セッサーニオの遠景

「サント・ステーファノまで歩いてバスに乗るんだって? そうか、僕はカラッショから別の道を行くからちょうどよかった」
 彼は、車関係の仕事で、週に2、3回ほど、カステル・デル・モンテにやってくるのだという。

「この車は日本製なんですね。三菱の」
 抜け目のない私は、さりげなく話題を振る。
「おお、あんたは日本人か。……ほらこれ」
 彼は、ポケットの中から携帯電話を取り出した。
「ソニー製だ。日本人はいい仕事をするよね。うちのカメラももちろん日本製だよ」

「あ、ちょっと停まって。ここからカステル・デル・モンテの町の写真を撮りたいから」
 乗せてもらっていながら、図々しい私である。だが、このチャンスを逃したら、二度と撮れないかもしれない。重ねてお礼のことばを述べつつシャッターを押す。

「このあたりはね」と、彼は広々とした野原を指さす。「昔、サラセンとの戦いがあった場所なんだ。だから、みんなはそれを避けて、あんな山の上に住むようになったんだよ」
「へえー、こんなところまでねえ」
 言われてみると、ひと気のない背後の丘の入口に「戦いの丘」と書かれた道標が建てられ、丘の上には小さなベンチが見えた。

海抜1000メートルを越えるサント・ステーファノで暮らすネコ

 カラッショの町の入口にある分かれ道で、私は車を降りた。
「サント・ステーファノは、この町中をずっと突っ切って行けばいいから。じゃあね」

 カラッショは、山の斜面にへばりついたような小さな村である。昼過ぎということもあってか人通りはなく、空き地にたむろしているネコだけが不審そうな顔で迎えてくれた。
 実は、カラッショの背後にある山の頂き付近には、ロッカ・カラッショと呼ばれる廃墟があり、古い城砦と十数軒(?)ほどの民家が残っている。
 町の中からも首が痛くなるほど見上げれば、その様子がちらりと見える。車道が通じているので、歩いて行こうと思えば行けないことはないのだが、なにしろ高低差がかなりあるので、行って帰るだけで40分ほどはかかりそうだ。
 帰りのバスの時刻が心配なので、泣く泣く登頂を断念した。次回への宿題がまた増えた。

 カラッショからサント・ステーファノ・ディ・セッサーニオまでは、山腹につけられたゆるやかな下り坂を降りていくだけ。空にはほとんど雲がなく、高原の涼やかな風が吹き抜ける。実にいいハイキング日和であった。
 サント・ステーファノの町が見えてきたところで、私を追い越していった車が、10メートルほど先で停まった。
「乗っていく?」
 こんどの車には50歳前後の夫婦が乗っていた。
「ありがとうございます。でも、あそこに行くもんで」
 と私は行く手に見える山岳都市を指さす。
「ああ、もうほとんど着いているんだね。じゃあ」
 いやいや、どこまでも親切な人たちである。アブルッツォがますます好きになってしまった単純な私であった。

塔の上からの眺め。左の山の中腹に見える道を歩いてきた

 サント・ステーファノ・ディ・セッサーニオは人口128人という小さな村で、その中心にはチェスの駒にあるような、絵に描いたような円筒形の塔がそびえている。
 どうも、ここは典型的な城砦の町として、ごく一部では有名らしい。なんと、ドイツ人のグループが路線バスでやってきていた。カステル・デル・モンテで折り返して、私が乗っていくはずのバスである。

 今回も最後の最後で心ゆくまで歩いた。まあ、ラークイラの周辺にはたくさん宿題を残してしまったが、またそのうちに来るとするか。ユーロがもう少し安くなったらね--城のてっぺんでしみじみと今回の旅を思い出す私であった。
「さあ、明日はいよいよローマだ」

2006-12-07

寝坊が縁の山岳都市参り

 ラークイラに2泊することは決めたものの、どこを見てまわるか、朝になっても決まっていなかった。
 そこで、朝食後にベッドの上に資料を広げて、頭をひねる。
 まず、昨夜本屋で調達したアブルッツォの名所写真集を開き、めぼしい場所をチェック。手持ちのイタリア語のガイドブックで場所を確認する。
 そして、候補を5か所ほどに絞り込んだ上で、さらに列車時刻表とバス時刻表をにらむこと30分。最終的に3コースに絞ることができた。

 ちなみにバス時刻表というのは、バスターミナルに掲示してあった発車時刻と到着時刻の一覧を、デジカメで撮影してきたものである。
 市外に出るすべてのバスが、主要な通過地と乗り場を含めて、始発から終バスまで一目でわかるから便利である。

カステル・デル・モンテ遠景

「そういえば、去年行ったカラーブリア州 コゼンツァのバスターミナルじゃ、だだっ広い構内に、行き先表示も乗り場番号もなくて唖然としたっけ。ラークイラの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだ」
 一人うなずく私であった。

 さて、時計を見ると9時半。
「うむ、いますぐに出れば、この遠い町にも行けそうだ。でも、この山岳都市にも行ってみたいし……迷うところだなあ」
 なんて思いつつ、ふと携帯電話の画面を見てびっくり。なんと、そこには「10:40」と表示されていたのである。
 買って10数年たった旅行用目覚まし時計は、1時間以上も遅れていたのだ。前日までは正確な時刻を指していたのに。
 もっとも、この旅に出る直前あたりから、秒針が文字盤の6を過ぎると、まるで息切れしたかのように一進一退を繰り返すという現象は起きていたのだが。

「どうりで、朝食のレストランが閑散としていたわけだ」
 私は納得した。

 バスや列車の時間からして、いやおうなく行き先は1つに絞られることなった。ラークイラの北方にあり、標高1000メートルほどのところにある町、カステル・デル・モンテ(Castel del Monte)という山岳都市である。
 ここなら、11時30分発のバスがある。バスの便は1日5往復ほどあり、夕方に帰ってくることができる。

 カステル・デル・モンテというと、世界遺産のあるプーリア州の同名の町を思い出す人も多いかもしれない。でも、そもそもが「山の城」といった意味だから、イタリアのあちこちに同じ名前の町があるのだ。

 バスの乗客は、ラークイラを出た時点で30人ほどいたが、ぽつりぽつりと途中の町で下車。終点のカステル・デル・モンテまで乗り通したのは、私を含めて3人であった。
 天気はほぼ快晴、後半はがけ上を走るスリル満点の山道を楽しむことができた。

 カステル・デル・モンテは、国立公園グラン・サッソ山脈の山ふところに位置しており、ウィンタースポーツの拠点にもなっているそうな。南側から見た旧市街は実に見事な山岳都市だが、町の北側には、小さいけれども「こんな山の中に!?」と驚くほどの、ごくありふれた新市街が広がっていた。

 例によって山岳都市の山頂を目指していると、「お兄さん、この道は行き止まりだよ。教会に行くのかい? それならそこの道を上っていくといいよ」とおばあさんが教えてくれる。
 こんな狭い旧市街で道に迷えるのも、ちょっとした幸福である。

山の上の町に住む犬

 そういえば、新市街のバールに入ったときにも感じたのだが、もしここがカラーブリア州で、同じような山の中の小さな町だったら、突然やってきた東洋人に対して、よくも悪くも人びとは好奇心いっぱいの目を向けるところである。
 だが、この町ではそんなことがないのだ。このあたりも、一応観光地だからなんだろう。

 午後1時に出る折り返しのバスを見送ると、その次は午後3時過ぎである。
 そこで予定どおり、バス道路をラークイラ方面に約8キロ戻り、途中にある山岳都市を2つ巡ることにする。
 道はほぼ下り。道路は舗装されているので、少々急ぎ足で歩けば、十分にたどりつける計算である。

 カステル・デル・モンテの町を出ると、すぐに急な下り坂になっており、そこを車道は何度かヘアピンカーブをきって下っている。
「時間がないんだから、そんな、まだるっこしい歩き方はしていられないぞ」
 気の短い江戸っ子である私は、ヘアピンカーブをショートカットすることに決定。砂利だらけで灌木の生えている斜面を、勢いよく下っていったのである。

 何度もバランスを崩しかけ、ショルダーバッグで来たことを恨みながら、ようやく最後のヘアピンカーブの頂点にたどりつく、その直前であった。
 たいした斜面でもなかったのだが、砂利に足をとられてずるずるとすべり、とうとう尻もちをついてしまった。
 めったに車が通らない道だというのに、ちょうどそこに1台の四輪駆動車がやってきた。もっと斜面が急だったら、そのまま勢いよく車道に飛び出して、この車に跳ねられていたかもしれない。

 車は私の10メートルほど手前で停まった。
「うっ、見られた、恥ずかしい」
 ちらりと車に目をやると、そのフロントパネルには、菱形を3つ組み合わせた見慣れたエンブレムがついていた。

(つづく)

2006-12-01

信州の山の中と見紛うラークイラ

 10月8日朝、バーリから列車で北上。実は、どこに行こうか、最後まで迷っていた。
 10日の夜までにローマ空港に着いていなくてはならないので、なるべくその近くまで行っておきたい。
 だが、8日は日曜日である。走っている列車が少なく、ローカル線に至ってはほとんど運休。時刻表と長時間にらめっこした結果、ペスカーラ(Pescara)で乗り換えれば、ローマ行きの列車に接続することがわかった。

 とはいっても、いきなりローマ入城ではつまらない。どこか途中にいい町はないかと思って選んだのがラークイラ(ラクイラ)(L'Aquila)であった。
 ほとんど踏み入れたことのないアブルッツォ州の州都であり、しかも都市名がなぜか冠詞つきになっているのが、昔から気になっていた町だ。

スルモーナ駅

 ペスカーラで乗り換えたローマ行き列車は、やがてアペニン山脈の山ふところ深く分け入っていく。車窓には、山あり谷ありの見事な風景が展開していった。
「ううむ、時間があって荷物がなければ、この駅で降りるところなんだが……」
 そう思った駅は数知れず。次回の旅行に向けての宿題ができてしまった。

 乗り換えのために下車したスルモーナは、時間が止まったような渋い雰囲気の駅だった。
 ここにきて急速に近代化が進んでいる南部の駅よりも、よほど古めかしい。

 スルモーナからはたった1両のディーゼルカー。30分ほどで着いたラークイラ駅は、州都の中心駅とは思えないほど、こぢんまりとしていてびっくりした。

 さて、駅から中心部までは800メートルほど離れており、しかも急坂になっているのだが、日曜日のためかバスもタクシーも見当たらない。
 列車を降りた数十人は、みな思案投げ首だったが、意を決したように、カナダ国旗をリュックに貼ったカップルが坂道を登りだした。それに私も付和雷同。旅行が終わりに近づいているだけに、ワインやらジャムやらの重さがこたえる。

 幸いにも、この町の標高は700メートルあまりとあって、空気がひんやりとして気持ちがいい。うっそうと生い茂った木々が、ちょっぴり黄色く色づいている様子は、カラーブリアの乾燥した荒々しい風景を見慣れた目には新鮮であった。
 ちょっと信州あたりの高原に来たみたい。

 ホテルは、広場から少し降りたところの4つ星に決定。
 絨毯が敷かれたロビーは広々として天井が高く、さすがに4つ星である。フロントのおじさん(といっても下手をすると私よりも年下かもしれないが)はスーツを着込んで、背筋もピンと伸びている。
 でも、ロビー全体がどこか薄暗くてくたびれているのは、単にシーズンオフだからではあるまい。
 もっとも、これでピカピカしていたら気後れがしてしまうので、これでよいのである。エレベータも旧式で狭苦しいのがなかなかよろしい。

ラークイラのドゥオーモ広場

 さて、部屋に荷物を置いて外に出ると、もうすっかり日が暮れていた。日曜日の夜ということもあってか、中心部の通りはすさまじい人が繰り出して散歩をしている。

 夕食は、ちょっと気分を変えて、ビッレリーア(ビール屋)にした。
 アイリッシュパプ風の店内は、これまた中がだだっ広いが、まだ時間が早いこともあってか、客は私一人であった。
 ギネスを飲み、ピアディーナ(Piadina)を食す。
 恥ずかしながら、ピアディーナという食べ物を初めて知った。かつて南インドでお目にかかったチャパティのような丸くて薄いパン生地に、ハムやらチーズやらをはさみ、折り畳んで食べるものであった。
 パニーノよりも食後感があっさりしていていい。結局、翌日の昼食も翌々日の昼食もピアディーナで済ませた私であった。

 結局、大半を移動に費やした1日であったが、たまにはこんな日もいいものである。
 もっとも、その反動が翌日にやってきて、山中を暴歩(暴走ではない)することになるのだが……。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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