« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月の6件の記事

2006-11-29

バルレッタ、トラーニだらだら歩き

 さあ、翌日はポテンツァに移動だ、と思いつつマテーラのホテルでテレビを見ると、なんとポテンツァは大雨の予報。急遽、行き先を晴の予報が出ているバーリに変更した。
 翌日の昼前、バーリのホテルに荷物を置いて、近郊にある町をのんびり巡ることにした。候補はジョヴィナッツォ、モルフェッタ、ビシェッリェ、トラーニ、バルレッタ、ビトントの6都市である。

 このうち、前の5つはアドリア海に面しており、バーリから順に数キロ~10キロおきに並んでいる、だんご5兄弟(中途半端に古い!)のような町である。イタリア鉄道線が、まるでだんごの串のように貫いているので便がいい。で、ビトントは私鉄が通っている。
 かねてから狙いはつけていたものの、なにかにつけて後回しになっていたエリアである。

 全部は無理だろうが、行けるところまで行こうと、もっとも遠いバルレッタ(Barletta)から順に巡ることにした。

バルレッタのドゥオーモ

 バルレッタに着いたのは昼前。駅近くの新市街は人でごったがえしており、ずいぶん活気がある印象であった。思ったよりも大きな町である。
 プーリアの地方都市というと、バーリ以南のこぢんまりとした町を連想してしまう自分を恥じる。
 それにしても、とある1軒のバールの前に、100人近い学生がたむろしていたのは何なのか。今も不思議である。

 旧市街にあるドゥオーモでは結婚式をやっていた。
 中には入れそうもないので、そのまま城砦をぶらぶら。ところが、ここでも結婚式をやっていて、肝心な場所には入れずに断念。
「まあいいか。どうせついでの旅だし」
 すでに、南イタリアの毒がかなりまわっていた私である。

バルレッタ旧市街で見た通風口?

 次のトラーニ(Trani)に着いたのは、すでに昼休みの真っ最中。バルレッタとは一転して、静まり返った新市街をとぼとぼと、海に面したカッテドラーレまで歩いていった……はずなのだが、10月とは思えない暑さに頭がぼーっとしたためか、道を間違えてしまった。
「まあ、いいか。どうせヒマだし。それにしても、こんな雲一つないカンカン照りなのに、ホントにポテンツァは大雨なのかなあ」
 おかげで、すぐ向こうに見えるカッテドラーレまで、ぐるりと湾を大回りしなくてはならなかった。

 トラーニの湾にはボートがぎっしりと停泊して、あちこちにドイツ人観光客のグループがいる。1週間前に訪れたナポリ沖のプローチダ島のような雰囲気であった。

 カッテドラーレは、なかなかの規模で立派。塔の下が通り抜けになっているのがおもしろい。装飾もほどほどで好感の持てる教会である。
 で、教会の近くにはフェデリコ2世の城砦。幾何学的なカッチリした外観が印象的である。中はすっかり近代的に改装されており、エレベーターまで設置してある。
 それはいいのだが、外に出て眺めを楽しもうと思ったのに、外に出るドアはすべて鍵がかかっていた。あらゆる可能性を探って、ほかに客が一人もない城砦を隅から隅まで巡ったのだが、無駄であった。
 外に出られない城砦なんて、遅れのないイタリアの列車のようなものである。

トラーニのカッテドラーレ

 さて、トラーニの旧市街から駅までは1キロ以上ある。だらだらと歩いていたら、1時間おきに出る列車に乗り遅れてしまった。
 しまった、こんなしょぼい駅で1時間待つのかと落胆して駅前を見ると。バーリ行きと書かれたバスが停まっているではないか。
「おお、天の助けか地の救い。これはもうバーリに帰りなさいという神様と仏様の思し召しに違いない」
 カンカン照りの中を歩き疲れた私は、都合よく解釈して、冷房完備のバスに乗車したのである。

 バスは海沿いの道を快走し、ビシェッリェ、モルフェッタ、ジョヴィナッツォの中心部を通り抜けていった。
「うん、この3つの町も歩きたかったけど、バスの中から見られたからいいや。町はずれを通る列車じゃなくて、バスに乗ったからこそ、町の中心部が見られたんだな、やっぱり」
 きょうもまた負け惜しみで終わる小旅行であった。

2006-11-14

グラヴィーナに行ってはみたけれど

 本当ならば、帰国までの数日間、クロトーネ近辺のカラーブリア州北部に居座って、丘上都市めぐりをするつもりだった。
 だが、天気予報によれば、寒冷前線が南部に迫り、2、3日は悪天候が続きそうな模様。チロ、ロッサーノ、コリリャーノといった町は、次回への宿題にするほかなかった。

 そして、行き先をあれこれ検討した結果、アドリア海沿いに一気に北上して、以前からの宿題となっていたグラヴィーナ(Gravina)に向かうことに決定した。
 メタポントで急行列車を下車。1日3往復のバスでマテーラに向かい、宿に荷物を置いて、昼すぎから私鉄(アップロ・ルカーネ鉄道)でグラヴィーナへ。さらに翌日は、ポテンツァに向かうという完璧な計画であった。

グラヴィーナの旧市街にて

 さて、グラヴィーナという名前は、峡谷、陥没地を意味しており、旧市街の対岸には、マテーラで見るような古い洞窟住居の跡がある。
 もっとも、洞窟のある対岸に渡る橋は1本のみ。旧市街をぶらぶらしているうちに道を間違えてしまい、気がついたときには町の端まで歩いていた。
--まあ、いいか。ここからでも洞窟は遠目に見えるし。旧市街も立派な教会がたくさんあって見応えがあるからね。
 と心のなかで一人負け惜しみを言う私。
 グラヴィーナの旧市街は、あちこちで袋小路になっていて、アルタムーラにちょっと似た雰囲気であった。

 だが、いま一つ町自体の印象が残っていないのは、単に昼休みの時間帯前後に滞在していたというだけではない。マテーラへの帰途に、我が身にふりかかった「事件」のせいなのである。

 旧市街から町はずれにある駅まで歩くこと20分。小さな駅舎の中で、あらかじめ買ってあった切符を改札機にガチャンと通したときである。
「あ、ダメだ、ダメ」
 と窓口の向こうから声がした。
「えっ、なんで?」
「今日はストなんだよ。ほら、これ」と、年配の駅員が改札に貼られた紙を指さす。
「だって、さっきはこの列車でここまで来たんだよ」
「ああ」と駅員は困ったような顔をした。「あれは、ストがあっても運行を保証されている列車なんだ」

 そういえば、そんなのもあるのだった。
 イタリアではしょっちゅうストがある代わりに、通勤通学用や長距離列車など、一部の列車やバスは、ストの日でも動くことになっている。
 全国規模のバスのストがあるという話は耳にしていたが、マテーラの町でもバスが動いていたので、もう中止になったとばかり思っていた。
 しかも、ここはバスじゃなくて鉄道である。私鉄だけど。

旧市街で見かけた不思議なネコ

「じゃあ、マテーラに行く列車はないの?」
「きょうは、もうない」
「ほかに交通機関は?」
「ない」
「どうすりゃいいの?」ととまどう私。
「うーん」と駅員も一緒に困ってしまった。

 それにしても、どうせストをやるなら全部止めてほしいものである。ストって、こんな生ぬるいんじゃなくて、もっと必死にやるべきもんじゃないの……と心のなかでつぶやく私であった。

「じゃあ、タクシーで帰るしかないか?」
「そうだねえ。でも、この町にはタクシーがないんだ」と駅員。

 もうやけくそで、この町に泊まろうかと思ったとき、奥にいた若い駅員がこちらにやってきた。
「オレが送ってきてやろうか」と年配の駅員に話しかける。
「そうだな」と年配の駅員。
 彼は改めて私に向かって、「自家用車があるから、マテーラまで送っていこう。でも、ガソリン代の分なんかを、ちょっと払ってくれないか」
 こうして話はつき、私は無事にマテーラにたどり着くことができたのである。

「マテーラはね。イタリアの県庁所在地のなかで、ただ一つ国鉄が走っていない町なんだ。だから、アップロ・ルカーネ鉄道が止まるとどうしようもない。バスも同じ会社だからね」と、彼は運転しながら人ごとのように言う。
「ホント、しょっちゅうストがあるんだよ。日本はどうなんだい?」
「3、40年前はよくストがあったけどねえ」と、私は小学生のころを思い出しながら答えた。

 マテーラまでは30分ほど。だが、車がマテーラの町に入ったとたん、彼は道がわからなくなった。
「いやあ、ほとんど来たことがないんだよね」
「こんなに近いのに」
「ああ」
 なるほど、これがイタリア式なのである。こうして彼も、めったにほかの町に行くことなく、やがてはグラヴィーナの親父軍団の一員となって、昼や夕方になるとバールや広場に繰り出して、毎日同じ仲間ととりとめのないことをしゃべるようになるのだろう。
 そんなことを知っただけでも、ガソリン代を払って乗せてもらった意味があったというものだ……って、また負け惜しみ。

2006-11-10

カラーブリアの桃源郷・クロトーネ

 観光を期待してクロトーネに来た人のほとんどは、たぶんがっかりして帰るに違いない。
 旧市街はとくに古めかしいわけではなく、教会はけっして立派でもない。城砦からの眺めもたいしたことはなく、港は素朴でも派手でもない。

 でも、町の目ぼしい場所をめぐって、中心部にあるピタゴラス広場に戻ってきて驚いた。
 広場は大きな道路が何本も交差して、自家用車やバスが行き来している場所にあるのだが、その周囲におびただしい数の親父たちが繰り出しているのだ。
 それだけなら、ほかのイタリアの町でも見かけるのだが、ここの親父軍団は商店街を散歩するでもなく、大きな声で議論するでもなく、夕日に赤く染まった広場のあちこちで、少人数のグループを作って静かにたたずんでいるのである。
 なかには、バールのベンチに座っている親父たちもいるのだが、そのテーブルの上には当然のように何も乗っていない。

夕暮れのピタゴラス広場にて

 そんななかで、まるで異分子であるに違いない私であるが、誰もさして関心を示すわけでもない。まるで緊張感がなく、ikeさんの言う「ゆるい雰囲気」そのものであった。
 私は、歩道に寝そべる犬をまねて、その場に寝ころがりたくなったほどである。

 何の変哲もない、新しそうなバールに入り、スプレムータ・ディ・アランチャ(生オレンジジュース)を注文すると、「クロトーネはいいオレンジがとれないんだよ」と若い店主がすまなそうな顔で言う。代わりに勧めてくれた瓶入りのブルーベリージュースもなかなかウマく、その酸味が果物不足の体にしみわたった。
「何かクロトーネについて質問がない? 何でも答えるよ」
「うーん、じゃあローマ行きの飛行機の時刻を教えてくれる?」
「飛行機ねえ……、おお、こういうときこそインターネットだ」と彼。店の隅にあったパソコンで、日に2本の出発時刻を調べてくれた。

 次に、地図を買おうと本屋に入って驚いた。店を入ってすぐにカウンターがあり、3、4人ほどの店員が客の応対をしている。
 そう、ここは閉架式の書店なのである。欲しい本を客が言うと、店員が奥の棚から探して持ってきてくれるという古典的なシステムだ。20年前のイタリアの本屋は、ほとんどがこうだったっけと思い出した。
「地図は隣の店舗で扱っている」と言われ、そちらに行って注文をして待っていたところ、さっきの店員が客の応対の間をぬって、「大丈夫?」とわざわざ確かめに来てくれた。

 夕食は、ホテルの親父が推選してくれたレストラン、その名も「Nel Mio Ristorante(ネル・ミーオ・リストランテ)」でとることにした。「私のレストランで」という、ふざけた名前だ。
 行ってみると、レストランとは名ばかりで、テラスらしきスペースはあるのだが、どちらかというと、シーズンオフの海の家といった風情である。しかも、かなり狭い。
「いいか、クロトーネはイタリアで魚が一番ウマい町なんだ!」とホテルの親父が言ったので、前菜はムール貝、パスタの具は海の幸、メインはなんだか忘れたけど魚と魚介づくし。
 肝心の味であるが、店はボロかったが、味は実によろしかった。しかも値段は、店がボロいだけあって安かった。
 前日のシッラと合わせて、これでマルタの晩飯2日分の借りを返したことになる。

城壁の中に作られた(?)住居

 ところで、たまたま私が会った人たちがそうだったのかもしれないが、クロトーネの人たちは話し方から立ち居振る舞いまで、すべてが穏やかである。東洋人の旅行者なんて珍しいだろうが、露骨な好奇心も示されることない。実に居心地がよい町であった。
 こんな町ならば、長居をしてもいいなあと思う私。事情が許せば、1週間くらいはとどまっていたかもしれない。もし、帰国の日が迫っていなければ、そしてカラーブリア州に寒冷前線が迫っていなければ……。

 翌朝は、雨の中、早朝に出る列車で北に向かった。
 列車は市街地を出ると、しばらく人家のない原野を走る。町の南側も原野なら北側も原野なのだ。そんななかにぽつんとあるクロトーネは、まるで周囲から取り残されたような町のように感じられた。

「こんな原野の向こうに、時間の止まったような町があるなんて……」と、雨に濡れる車窓を見ながら感傷にふける私。
 クロトーネは、まるでイタリアの桃源郷である。
 いや、イタリアの桃源郷なんていうと、「あそこだって、ここだってそうだ」と文句をつけられそうだから、せいぜい「カラーブリアの桃源郷」くらいにしておこう。

2006-11-09

クロトーネの偶然

 アドリア海に沿って、カラーブリア州を北上する列車の車窓は、カタンザーロ・リド駅を境にして大きく変わる。
 それまで見えていた険しい山々が姿を消し、なだらかな平原が広がるようになる。その一方で、人家はまるで見えなくなり、茫漠とした荒れ野を列車は進んでいくのである。
 そんな車窓が何十分も続き、こんな先に町があるのかと心配になったころ、列車はクロトーネ(Crotone)の駅に到着した。

 クロトーネの駅から中心地までは、かなり離れていることは知っていた。でも、県庁所在地なんだから、駅前にホテルの1軒くらいあるだろうと甘く見ていたのが大間違い。重い荷物を抱えて途方に暮れてしまった。
 まだ時間が早ければ、市内バスを待つところだが、すでに午後4時。日は傾きはじめていた。明るいうちに夕方の散歩をしておきたかった。
 そこで、1台だけ止まっていたタクシーに乗り込み、「どこかいいホテルに連れていって」と頼む。
「3つ星と5つ星があるけど、どっちがいい」と運転手。
 間髪を入れず、「3つ星」と私は答えた。

クロトーネの旧市街にて

 実は、クロトーネには先達がいた。南イタリア道楽仲間であるその御方は、この町をいたく気に入ったようであることが、ブログ記事 からもうかがえる。「ぬるい感じの古きよきイタリア」なのだという。
「でも、車は頻繁に通っているし、建物もごく普通だしなあ。本当におもしろい町なのだろうか」
 そんな私がクロトーネの本当の魔力に気がつくには、あと2時間ほど必要であった。

「さあ着いたよ、ここだ」と運転手が言う。
 見上げると、「Hotel Concordia」という表示。どこかで聞いたことがあるような……と思いながらフロントのある2階に上がると、ホテルのフロントよりも、バールのテーブルでポーカーをしているほうが似合いそうな親父が出てきた。
 大きな黒ぶち眼鏡に哲学者然とした風貌。それに加えて下着姿としか思えないいでたちが、何やら不可思議な風情をかもしだしていた。

 話がついてここに泊まることに決めると、彼は何やらファイルを取り出す。
 そこには、このホテルについた書かれた古い雑誌のコピーがあった。
「ほら、このホテルの昔の写真だ。……も泊まったと書いてあるだろう」。
「……」に当たるイタリア語の発音を何度も聞き直した末、それがイギリスの作家ギッシングであることが判明した。
 そう、たまたまタクシーの運転手に連れてこられたこのホテルこそ、「南イタリア周遊記」の著者であるギッシングが泊まり、そして南イタリア道楽のikeさんが泊まった記念すべきホテルだったのだ。

 フロントの親父は、ロビーにあった真新しいパソコンにDVDをセットして言う。
「これはRai(イタリア国営テレビ)の番組を録画したものだ。全国ネットの放送だよ。ローカル番組じゃないぞ。これを見ればクロトーネのことがよくわかる。このホテルも登場するぞよ」
--いや、おじさん。それよりも、日が暮れないうちに実際の町を見に行きたいんだけど。
 と言いたかったが、それが許されるような雰囲気ではなかった。結局、20分近くもパソコンの前に座らされて、DVDを見るハメになったのである。

2006-11-05

マルタの仇をイタリア・シッラで

 ボーヴァからの帰り道、さて今晩ははどこに泊まろうかと考えた。
 荷物はレッジョ・カラーブリア中央駅に置いてあるので、いったん荷物を取りに戻るとなると、そう遠くへは行けない。

 私の旅の方針からすれば、なるべく知らない町に泊まるべき……となるところだが、その日はそんな冒険的な気分にはなれなかった。
 なぜなら、マルタにおける連夜の晩飯のハズレがあったからである。
「きょうこそは、確実にウマいメシを食いたい。できれば、海の幸」
 考えた末に出た結論は、去年も泊まった(そしておととしも訪問した)シッラ(Scilla)であった。
 江戸の仇を長崎で、ではないが、マルタの仇をシッラでとろうというわけである。

シッラのキアナレーア地区

 シッラについては、去年の ブログ記事 でも書いたが、レッジョ・カラーブリアから列車で約30分。海岸の急斜面に建ち並んだ家が見事で、しかも海の幸がウマい町である。

 ホテルにチェックインしたときに、すでに日は暮れかかっていた。急ぎ足で急坂を昇り降りし、地元の人たちにまじって展望台で海を眺め、さらに港からキアナレーア地区の町並みを眺める。
 何度も見た景色だから、無理する必要はないのだが、やっぱりシッラに来たからには、これを見なくては収まりがつかない。
 それに、夕食は去年行って気に入った店は、港のすぐそばにあったのだ。
 しかし、ここで私は「ちょっと待てよ」と考え込む。
「去年行った店は、お兄さんの愛想もよくて味もよかったけど、まったく同じ店というのも芸がないなあ。この町はどこも食事がうまいと聞いているので、今年は別の店にしてみようかなっと」

 そんなことを考えながら、珍しくデジカメのムービー機能を使って、キアナレーア地区の景色をパノラマ撮影していたときのことである。
 約180度のカメラ移動が終わりかけたとき、ファインダーの片隅に、こちらに向かって歩いてくる若い男性2人が映り込んだ。
 一人は、こちらをじっと見ている。

「あれ、どこかで見たことがあるような」と思ってカメラから目を離すと、彼は微笑んで握手を求めてくるではないか。
「やあ、久しぶり」
 去年行ったレストランのお兄さんであった。

オデュッセイアに登場する怪物スキュラにちなんだ鉄柵

 やはり、悪いたくらみは天からお見通しであった。いや、別に悪いことじゃないけどね。
 それにしても、よく覚えているもんである。
「いやあ、ちょうどこれから行こうと思っていたんだ」などと、聞かれもしないのに答える私。
 結局、去年と同じ店に行き、同じようなメニューを注文。2度目ともなると、さすがに感動は多少薄れるが、やはりウマい。
 とくに、海の幸の前菜は、白魚、太刀魚、エビ、タコ、イカなどが、フライ、酢漬け、煮物など、さまざまな調理で盛り合わせられていて、味も繊細だ。
 イタリアの魚料理でありがちな生臭さもなく、日本のちょっといい店で食べる魚料理にまったくひけをとらないものであった。
「ああ、やっぱりこの店に来てよかった」と、しみじみ思う勝手な私であった。

 20人も入れば満員になりそうな、こじんまりとした店に流れるBGMは、去年はルーチョ・バッティスティ(Lucio Battisti)だったが、この日はクラウディオ・バリョーニ(Claudio Baglioni)。どこまでも私好みのニクい店である。まあ、単に親父さんが懐メロ好きなだけかもしれないが。

宣伝:シッラについて、詳しくは イタリア町めぐり -シッラ- をどうぞ。

2006-11-02

イタリアの中のギリシャ--ボーヴァ

 マルタ国際空港には朝4時20分ごろ着。案の定、閑散としていた。確かに、まもなく搭乗手続がはじまったが、あと1時間遅く来ても、まったく問題がなかったようである。もっと寝ていたかった。
 6時45分発のローマ行きは、レッジョ・カラーブリアまで約50分。一緒に降りたのは、わずか数人であった。

 カラーブリア州南部にやってきたのは、これで3年連続である。おととし、去年と、かなり濃密な旅行をして、目ぼしい観光地はおおかたまわったのだが、どうしても行っておきたい町が1つ残っていた。
 それは、Bova(ボーヴァ)という町だ。
 カラーブリア州南部のアドリア海沿岸には、ギリシャ人を祖先とする人たちが住む町が点在しているのだが、ボーヴァはその中でも「ギリシャ地域の首都」とも言われている町なのである。

ボーヴァ遠景

 しかも、その町というのが、標高800メートルあまりの山の頂上付近に作られている。去年、列車の車窓からちらりと町の姿が見えたのだが、その完璧な山岳都市ぶりに、私はいたく衝撃を受けたものだった。
 ボーヴァへは、海岸の鉄道駅Bova Marina(ボーヴァ・マリーナ)から、フェデリーコ交通のマイクロバスが日に3往復出ていることは調べていた。距離は15キロほど。

 そこで、まずは空港からタクシーでレッジョ・カラーブリア中央駅に移動。そこで荷物を預けて、列車でボーヴァ・マリーナ駅に向かうことにした。
 だが、空港で入国スタンプをもらうまでに時間を食い(EU以外の人間が降りてくる用意をしていなかったようだ)、街中では朝の通勤ラッシュに遭遇したことが影響して、結局ボーヴァ・マリーナに到着したのは昼近くになっていた。

 最初の予定では、ここからバスでボーヴァに向かい、帰りはハイキング気分で夕方までに山を降りてくるというものだった。ちょうど、30分ほどすればバスがやってくるし。
 ところがである。ハイキングをするには、信じられないほどの暑さだった。しかも、とんでもない早起きをしたものだから、頭がクラクラしている。
 こんなときの解決策は1つ、タクシーしかない。幸いにも、駅前にタクシーの電話番号が書かれていた。ちょっとぜいたくだけど、日射病で倒れるよりはマシである。

「きょうは暑いね。30度を越えるんじゃないか」と運転手は言う。「ちょうど家に帰ろうとしていたところだったんだ。よかったよ」
 タクシーは、これでもかというほど山道を登っていき、20分ほどするとようやく眼前にボーヴァの威容が見えてきた。

ボーヴァの哲人?

 ボーヴァは、「ギリシャ地域の首都」という割には、こぢんまりとした町だった。中心部にある小さな広場にはバールが1軒。その前で地元の男性が数人、椅子に座って出迎えてくれた。
 なかに、長い髭をたくわえた老人が一人。これまでイタリアで見たことのないタイプの男性である。
 やっぱり、ギリシャ系なんだろうね、なんて勝手に想像する私。
 帰りもタクシーに迎えに来てもらうことにした。もし本当に歩いて下っていたら、いまごろカラーブリアの土になっていたかもしれない。

 さて、バールはもうすぐ閉まるというので、水を買うことにする。
「このあたりは、まだギリシャ語が話されているって本当?」
「ああ、そうだよ」とバールの若主人は言う。
「カリメーラとか、カリメロスとか?」
「ああ」
 その答えだけで、もううれしくなってしまった。

ギリシャ語のある標識

 町なかの標識は、ギリシャ語、ギリシャ語のラテン文字表記、イタリア語の3つが記されているのが、これまた興味深い。

 それにしても、いつもいつも山岳都市に来るたびに思うのだが、よくこんなところに町を作ろうと思ったものである。あらゆる道という道が急坂なのだ。
 頂上の城砦も、すぐそこに見えるのだが、なかなかたどりつかない。しかも、とんでもない暑さである。
「山の上だから涼しいかも」と思って持参したジャケットが、日除けとして役立ったのは望外の喜びであった。

 途中の日陰で休み休みしながら、やっとたどりついた城砦からは、カラーブリア南部の荒々しい土地が360度見渡せた。
 とうとうやってきた、という気分である。これなら、タクシー代片道20ユーロも惜しくないような気がした。

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »