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2006年10月の16件の記事

2006-10-31

マルタで見たイギリスの名残

 マルタ滞在2日目の午前中は、ゆっくり起きて、ヴァッレッタの旧市街を散歩。一国の首都の中心部ではあるが、あっと言うまに一周してしまう。
 あとは、教会、美術館、博物館をめぐって、カフェテラスでパニーノにビールで昼食。いい気分になったところでホテルに戻って昼寝である。

 夕方からは、適当に土産物を見つくろった後、バスに乗ってきのうのスリーマとは反対側の町に行く。入江の反対側に見えるのだが、道路は深く切れ込んだ入江を回っているので、意外に時間ががかった。
 まあこんなわけで、ゴゾ島にも行かず、結局ヴァッレッタの周辺をうろうろするだけで、マルタ滞在は終わってしまったのである。

ヴァッレッタの坂道

 そして晩になった。前日の雪辱とばかりに、ホテルそばの地下にある穴蔵風ピッツェリーアに突入である。初日に空港から送ってくれた知日派の老人によれば、その店は安くてウマいという話だったからだ。

 ピッツェリーアではあるのだが、せっかくだから地元の魚料理を食べようと思い、海の幸の盛り合わせ、そして海の幸のスパゲッティを注文した。

 10分ほどして出てきた前菜を見て、まさか昨日のようなことはあるまいと思いつつ、海の幸を1つ2つと口に運ぶ。
 ところがである。
 やはり、味がない。かすかに海の香りがするものの、魚介類特有のコクというかアクが決定的に欠けているのだ。前日のスリーマのレストランと同じである。
「はて、いったいこれはどういうことなのか」
 このとき、知り合いの日本人女性から10年以上も前に聞いた話が、突如よみがえってきた。

「イギリスでホームステイをしたのよね、湖水地方のあたりなんだけど。で、いつだったか、そこの奥さんが夕食にサケを煮ているわけ。へえー、久しぶりの魚料理だなと思って楽しみに見ていたんだけどさ、ゆでたお湯をそのままジャバーって捨てちゃったのよ。
 そばにいたイタリア人の女の子と顔を見合せちゃったわ。どうするのかと思っていたら、残った身にクリームだかなんだかのソースをかけて出すのよ。それじゃ、サケの味なんかするわけないじゃない。あの人たちは、魚の味なんて生臭いだけだと思ってるんでしょうね」

 それだ、と私は思った。目の前にある海の幸は、じっくりとゆでこぼされてコクもアクも取り去った状態なのに違いない。
 そしてもう一つ、私は思い出した。マルタという国は、1964年に独立するまでイギリスの支配下にあったのだ。

「そうか、そうか。それじゃしかたがない」と私は納得した。
 だが同時に、こうも思わざるをえなかった。
「もし、イタリアの植民地になっていたら、もっとメシもうまかっただろうに」

入江を望む坂道

 マルタの名誉のために付け加えておくが、私が行った2つの店が、たまたまウマくなかったのかもしれない。
 実際、エアー・マルタの機内誌には、ヴァッレッタで評判のレストランが紹介され、シェフの対談まで掲載されていたのだから、しっかり探せばおいしい店も見つかったであろう。すべては、行き当たりばったりで決めた私が悪いのである。

 まあ、そうしてマルタの最後の夜は更けていくのであった。
 翌日は、朝6時45分発の飛行機でレッジョ・カラーブリアに向かうことになっている。
 ホテルのフロントに相談すると、「国際線だから2時間半前には行っていないとね。じゃあ、タクシーを4時に呼んでおこう。目覚ましは3時半にする?」と言う。

 いくらなんでも、すぐそばの国だし、飛行機だって小さいはずだ。そんな朝早くから空港も込んでいないだろうから、5時半ごろに着いていれば十分だと私は思っていた。
 だが、現地の人、それもホテルのフロントが言うのだから、しかたがない。
 ささやかな抵抗として、目覚ましは4時、タクシーには4時15分に来てもらうということにしてもらった。はたして、マルタ出国にはそんなに時間がかかるのか。

2006-10-29

マルタのスープはウマかったが

 たとえマルタの歴史を知らなくても、町の中を歩いているマルタ人を見ていれば、さまざまな民族が入り交じっていることが実感できるだろう。
 いかにもアラブ人という顔をした兄さんもいれば、ナポリあたりで夕涼みしてもまったく違和感のないおじさんもいる。かと思うと、ゲルマン系と思われるお姉さんもいる。さらには、アフリカ系、アジア系の人たちも見かけた。
 そうした人たちがアラビアンリズムのマルタ語で仲良く語り合っている情景を見ると、どこかほのぼのとした雰囲気になってくる。

マルタの親父軍団

 実質2日間しか滞在していないので偉そうなことはいえないが、マルタのよさというのは、観光化されていながら、そういうおっとりとした雰囲気を残しているところにあるのではないかと思う。
 まあ、旅に刺激を求めようとする向きには、ちょっと物足りないかもしれないが。
 これはどこかで経験した雰囲気だなと思って懸命に考えたところ、かつて訪れた南太平洋のニューカレドニア島に似ていることに気づいた。

 ところで、初日の夕方の散歩は、ヴァッレッタの北東、バスで10分ほどの距離にあるスリーマ(Sliema)という町に行くことにした。ここがマルタでは「おしゃれな町」なのだそうだ。それなら、ウマい店もあるかもしれないと思ったわけだ。

 私の乗ったバスは、夕方の帰宅ラッシュにあって、20分かかってようやくスリーマに到着。深く切れ込んだ入り江の向こう側には、ヴァッレッタの町並みが手にとるように見え、眺めはなかなかである。
 入り江沿いには遊歩道があり、その背後には近代的なビルやホテルが並んでいる。ただ、人がいう「おしゃれ」というほどでもない。
 もっとも、おしゃれ過ぎてはこちらが気後れしてしまうので、ほどほどのおしゃれさと田舎っぽさがミックスしているのは、ちょうどよかったかもしれない。

 入り江に沿って走る道路に面して、テラス席のあるレストランが何軒か並んでいる。そのなかから、私の長年のカンを働かせて、ウマそうな店を選んで入った。
 マルタでは、イタリアと違って、前菜、パスタ、メインの別を気にせずに、好き勝手に食べていいという情報は仕入れていた。
 そこで私が注文したのは、海の幸の入ったマルタ名物のスープ、海の幸のスパゲッティ、なんだか忘れたがサラダの一種である。イタリアでは美食三昧だったので、この日くらいは控えめにしておこうというもくろみである。

スリーマから見た夕暮れのヴァッレッタ(と月)

 スープは素朴な味でなかなかよろしかった。これは期待が持てると、我が勘に自己満足をしつつ、スパゲッティを待つ。
 スパゲティは塩味のシンプルなもの。うきうきしながら、口に運んだ。
 ところがである。やけに柔らかいのだ。
「アルデンテじゃなくてもいい。ここはイタリアじゃないから。でも、これじゃうどんだよな。しかも、駅の立ち食いの……」
 それだけならまだいい。量がばかに多いのだ。馬が食べるほどの大盛である。
 いや、それだけではない。海の幸は入っているのだが、さっぱりその味がしない。
「これは不思議だ。どうやったら、こんな味がなく作れるのか……」
 その秘密は、翌日の晩に思い当たることになるのだが、この時点ではまだわからない。
 そして極めつけは、超大盛の麺の底のほう。まるで冷し中華の麺とたれの関係のように、スパゲッティがオリーブオイルにどっぷりとひたっているのである。

「こりゃ参った」
 私のことを少しでも知っている人ならば、私がそのスパゲッティを3分の1ほど残してしまったといえば驚くことだろう。

「いや、1回の夕食でマルタのレストラン事情を判断してはいけない。明日こそは、ウマそうな店を選んで晩飯を食べよう」
 そう決心してヴァッレッタ行きのバスに乗り込んだ私であった。

2006-10-28

マルタ語の響きを味わう

 空港からヴァッレッタ(バレッタ/Valletta)の中心部に向かう道を走っていく途中、ある小さな坂を登りきったところで、行く手の視界が開けた。思わず、「おおっ」と声が出る。
 前方に見えてきたのは、見渡す限り、びっしりと白っぽい建物で埋められた町であった。

「兄さんは南イタリアに詳しいんだって? じゃあ、シチリアの町に似ているだろう。でも、マルタのほうが木が多いんだ。冬になるとだいぶ雨が降るからね」

 たまたま、空港から都心まで送ってくれることになった、ある公的な仕事をしている知日派の老人は言う。

「マルタ人は英語が話せるし、イタリア語もほとんどが話せるから大丈夫だよ」
 彼は、早口だが単調なイタリア語でこう言ってくれた。

ヴァッレッタ市内

 町の周囲は、まさに城砦都市というにふさわしいたたずまいだった。堅固な砦の様子は、海岸や川岸から町を見るとよくわかる。
 そうか、昔の敵は海から来たんだよな、と気づく私。となると、導入からマルタらしさを味わうには、海からの入国がよかったに違いない。

 マルタでは何をしようという予定はまったく立てていなかったが、それでも以前から興味を持っていたことがあった。それはマルタ語である。
 マルタの公用語はマルタ語と英語の2つとされているが、マルタ人同士が話しているのは、まずマルタ語のようである。
 マルタ語はラテン文字で表記されているが、その基底はアラビア語だという。そう言われてみると、確かにアラビア語に近いリズムと発音が感じられる。実際に、数字はアラビア語そのものだとのことだ。
 でも、そんななかに、しばしばイタリア語や英語の語彙が聞き取れるのがおもしろい。

 ホテルの前に着いたとき、私は老人に尋ねた。
「『ありがとう』は何て言うの?」
「グラッツィだよ。イタリア語のグラッツィエから『エ』を取りゃあいいんだ。簡単だろ」
「じゃあね、グラッツィ!」
 結局、マルタ語はこの一言しか覚えなかったが、あちこちで乱発してきた。この一言だけでも、多少ウケは違ったように思える。

クラシックなバスもいるバスターミナル

 さて、都心に着いたときは昼休みの最中。そんなところを散歩してもしかたがないので、日が傾く前にバスでちょっと遠出をしようと考えた。遠出といっても、1時間半もあれば島の端まで着いてしまうようなところであるが……。

 結局、バスで30分ほどの丘の上にある町ムディーナ(イムディーナ/Mdina)に行くことにした。まさしく、アラビア語で「町・都市」(マディーナ/メディナ)という意味である。

 ムディーナは、城壁に囲まれた静かな静かな町であった。ちょっとプーリアの町を思わせる雰囲気である。狭い道で出会うのは、ドイツ人やアメリカ人の団体ばかりだった。
 日なたは恐ろしいほどの日射し。
 ヴァッレッタの町を見下ろす展望台でぼんやりしていると、暑さのためか、一瞬自分がどこで何をしているのかわからなくなってしまった。

2006-10-23

突然マルタ行き

 10月2日の朝、前日に続いてナポリ空港に向かった。
 こんどは自分が飛行機に乗るためである。目的地はマルタ。ご存じのように、地中海に浮かぶ小国である。
 ナポリからエア・マルタの飛行機が週一便飛んでおり、それがうまい具合に毎週月曜日だったのだ。これは何かの縁である、と私は考えた。
 そして、マルタに3日間滞在して、レッジョ・カラーブリア行きの飛行機でイタリア本土南端に戻ろうという魂胆である。
 そもそもナポリから本土南端まで行こうにも、飛行機の設定はないし、特急列車には一昨年乗った。そこで、マルタを経由しようというわけだ。ちょっと遠回りだけどね。そして、ちょっと出費がかさむけどね。

 ホテル(B&B)から重い荷物を持ってメルジェッリーナ駅に向かっていると、思いがけない人物と出会った。2日前、B&Bのフロントにいた、朝青龍似のキルギス人である。
「おや、どこに行くの?」
「いま、仕事が終わって家に帰るところ。実は、あのフロントの仕事は臨時で1日だけだったんだ。ふだんは、もっぱら掃除の仕事をしているんだよ」

ナポリのB&Bのしゃれたフロント

 彼によれば、故国に妻と3人の子どもを残して、3年前にナポリに出稼ぎにやってきたとのこと。去年からは妻がミラノで仕事をしているという。
「子どものうち、一人は日本語を習っているんだよ」とにこやかに語る。
 お互いに年格好が近いこともあって、おとといもフロントでいろいろ話が弾み、この日もまた道々いろいろと話をした。

 ソ連時代は大学でホメーロスの「オデュッセイア」を研究していたという。そんなインテリが、イタリアで掃除のアルバイトをしなくてはならないのは、なんともやりきれないが、彼の笑顔は屈託がなかった。
 家は中央駅近くのアパートだという。でも、「家に帰っても寝るだけだから」といって、わざわざ空港まで送ってくれた。
 空港で記念写真を撮り、メールアドレスの交換。そして、イタリアか日本かキルギスタンでの再会を約して別れた。

 10時25分ナポリ発のエアー・マルタは、所要時間2時間25分。やけに時間がかかると思ったら、パレルモ経由だった。
 パレルモで乗り込んできたのは、地元の中学生の団体。私の並びには、かわいい女の子が2人やってくる。楽しそうな雰囲気に包まれ、思わず話しかける私。
「マルタには学校の旅行?」
「そう、全部で18日間なの。おじさんは何日間いるの?」
「あー、うー、3日間だけ……。でも、南イタリアを合わせるとちょうど18日間だよ」
「パレルモには来ないの?」
「4年前に来たんだ(ホントは、キミたちが生まれるずっと前にも来たことあるけどね)。トラーパニやエリチェ、エンナ、カターニャなんかにも行ったっけ」

城砦都市という名がぴったりのヴァッレッタ

 さすがに飛行機とあって、通学バスほどの大騒ぎにならないように、先生が手綱を締めていたが、それでも離陸のときは、かなりの賑やかさであった。
「コワい、コワいー」と身をすくめるしぐさも初々しい。
「はじめて飛行機乗るの?」
「うん。それにこんな小さな飛行機、ちゃんと飛ぶのかしら?」
 なんて会話を重ねているうちに、あっと言う間にマルタ国際空港に到着した。もちろん、着陸のときにも大騒ぎだったことは言うまでもない。

 こうして、12時50分にマルタ国際空港のあるヴァッレッタ(Valletta)に降り立った私である。
 空は雲一つない快晴。日射しは南イタリアよりも格段に強く、肌が痛い。

2006-10-22

プローチダ島で昼飲み

 10月1日午前11時少し前、ナポリ空港にて、とうとうツアコンお役御免の時が来た。
「うれしそうな顔をしているよ」と妻に冷やかされて、はじめて頬がゆるんでいるのがわかった。

 ともかくも重責を果たし、あと1週間あまりは自由気ままな一人旅である。
 ふらふらと道を横切り、店のショーウィンドウを覗き込むのも自由。バスの車窓から興味深いものを見つけて、いきなり下車するのも自由。
 でも、これまで8日間のツアコン根性が身についてしまったので、そのたびに「あれ、こんなことをしていていいんだっけ」と自問自答して、なんだか落ち着かない。
--そうか、何十年も勤めた会社を定年退職したサラリーマンが、毎日落ち着かない気分で過ごすというのは、こういう気持ちなんだろうな。
 と、くだらないことを思いながらナポリの町を歩く私なのであった。

バーコリ(たぶん)の岬を回り込むフェリー

 さて、ナポリにはもう一泊する予定。そこで午後からは、ナポリの西にあるポッツオーリ(Pozzuoli)に向かい、沖合に浮かぶプローチダ(Procida)島に渡ることにした。
 カプリ島にもイスキア島にも行ったことがないのに、プローチダ島というのがヘソ曲がりだと言われそうだ。でも、日帰り(しかも午後から)では、カプリやイスキアはちょっと難しいところである。

 イタリア鉄道のポッツオーリ駅を降り、かんかん照りの中を20分ほど歩くと港に着いた。港は、カプリやイスキアに向かう大型船に乗るのだろう、ドイツ人やアメリカ人の団体であふれていた。
 幸いにもプローチダ島行きのフェリーは30分後に出るとのこと。切符売り場のお姉さんは、「あそこに止まっている一番小さい船よ」と教えてくれる。見るとそれは、瀬戸内海の小島に向かうフェリーを思い出させた。
--おお、こうじゃなくっちゃ。
 ヘソ曲がり趣味にはぴったりの乗り物である。

 プローチダというと、私は数年前に観た映画を思い出す。
 というと、誰もが「Il Postino(イル・ポスティーノ)」だろうと思うだろうが、そうではない。もっとも、これはけっしてヘソ曲がりが理由だからではなく、なぜか見る機会がないまま今日に至っているのである。

 私が思い出すのは、2002年のイタリア映画祭で観た「Non è giusto(ノネ・ジュスト)」(邦題:そんなのヘン)である。
 大人の世界を見つめる子どもの目というのがテーマの映画で、その舞台となったのがナポリの市内とプローチダ島なのである。
 港近くに建ち並ぶ、カラフルだけどちょっと薄汚れた建物、こぢんまりとした海水浴場などなど、私の目にはしみじみとして親しみやすそうな島に映った。
 しかし、それまでまだ南イタリアに行ったことのなかった妻は一言。
「汚い島ねえ」
 ナポリの中心部にくらべればずっとましだよ、と私は反論しようと思ったが、賢明にもそれを口に出すことはしなかった。

 その映画で、主人公の子どもたちが乗ってくるのが、たしかこの小型のフェリーだったと記憶している。

 実際に観たプローチダの港、マリーナ・グランデ(Marina Grande)に面した家々は、大半がレストランやバールとなっており、建物はやっぱり薄汚れてはいたが、映画よりもずっときれいだった。
 港付近は団体客で賑わっていたが、みな港の近くをうろうろしているだけで帰っていくのを見ると、どうやらカプリやイスキアの帰りに立ち寄っただけに違いない。

コッリチェッラ地区の港

 脇道を入り、島の中心部に向かう坂道を登っていくと、もう人影はまばら。
 地図も持って来ない、いいかげんな訪問だったが、とりあえず丘の頂上にあるという修道院を目指す私。あまりの暑さに、歩きはじめたことを後悔しかけたころ、上の写真のような風景が目に入ってきた。やはり、苦労はするものである。

 こちら側はCorricella(コッリチェッラ)地区というらしく、この港に面した場所にも、レストランが建ち並んでいた。例の「イル・ポスティーノ」は、こちら側を舞台にして撮影されたらしい。
 レストランの客層は、いかにも海遊び、船遊びをしていますというイタリア人が中心のようであった。こんなところで、ショルダーバッグを持って散歩する東洋人はどうも居心地が悪く、ちょっと写真を撮っただけで引き返すことにした。
 マリーナ・グランデ(Marina Grande)のテラスでちょっと早めの夕食。飲み物付きで12ユーロのMenu turistico(メヌー・トゥーリスティコ=ツーリストメニュー、つまり定食)は、海の幸たっぷりで十分なウマさだった。
 中ジョッキのビールを飲んだあと、気分がよくなって、ワインをおかわりした私。

「デザートか食後酒はいかが?」
 中学生とおぼしき手伝いのお姉ちゃんが尋ねる。
「じゃ、アマーロをお願い」
 彼女はキャッと笑いながら、店に戻っていく。
 そんなに変だったかなあ。
 昼間っからよく飲む東洋人だとあきれたのかもしれない。

2006-10-18

「ナポリを見てようやく死ねる」

 10月1日、ナポリ・メルジェッリーナの宿。妻、義母、妻の友人S嬢という女性3人を引き連れてのツアコン最後の朝である。

 昨夜の失敗を糧にして、きょうは朝のうちにタクシーで展望のいい場所をまわってもらうことに決めた。
 3人の乗る飛行機の時刻を考えると、宿を10時には出なくてはならない。実質1時間半で、はたして何が見られるか。

 呼んでもらったタクシーの運転手は、年のころは50前後といったところ。ナポリの元伊達男といった感じで、縦縞のおしゃれなシャツを着ていた。
「ポジッリポあたりで市内がよく見えるところ。それから卵城に寄って、空港に行って」
 そう言って、私たちはタクシーに乗り込んだ。

マレキアーロの港

 ポジッリポの丘からの展望は、義母やS嬢もかなり気に入ったようだった。最初は見えなかったヴェズービオ山も、だんだんと姿を現してきた。
「やっぱり、ナポリはこれを見なくちゃ、死ねないわ」
 ごみごみした中心部から離れて、こぎれいな建物が並んでいたのもプラス評価だったらしい。
 1週間かかって義母の好みがなんとかわかってきたような気がするが、もうツアコンの最終日である。

 みんなが写真を撮っている間、純粋ナポリっ子らしい運転手に、私は探りを入れる。これもツアコンの勤めである、たぶん。
「20年前に『マッケローニ(日本題マカロニ)』っていう映画があったよね。大好きな映画なんだけど、ラストシーンでこのあたりから撮った場面があったっけ」
「おう。マルチェッロ・マストロヤンニとジャック・レモンが出たやつだな」
「そうそう」

 こちらが喜んでいるのを見て、彼は次々に眺めのいい場所に案内してくれる。
 さらに丘を登り、湾の向こうに島影の見える場所に車を止めた。
「あそこに、鉄鋼工場の跡が見えるだろう。再開発の計画があって、5年もすればホテルやレジャー施設が建ち並んでいるはずだ。いま撮った写真は貴重な記録になるよ。
 それから、こっちの海側がマレキアーロ地区。ナポリの昔の姿が残っている場所だ」

再開発予定のガイオーリ(?)地区

 マレキアーロというと、古いカンツォーネ好きならば、タイトルを知らなくても一度は聴いたことがあるに違いない。
「へえ、マレキアーロって地名だったんだ」と、私がピンボケの合いの手を入れると、彼は「よし」とばかりに車に向かった。
「行ってみよう」

 こうして私たちは、彼のおかげで、ごみごみしたナポリとは別の姿を見ることができたのである。
「マレキアーロ」に歌われている「小窓(Finestrella)」のそばには、家の壁に大きく楽譜が描かれている。
 そして、狭くて急な坂道を降りると、小さな港があって、これまた小さな観光ボートが停泊していた。ここは、イタリア人向けの観光地なのだろう。
 それにしても、100年か200年前のナポリは、どこもこんな感じだったのだろうか。そんな姿を思い浮かべるだけでも、ここに来たかいがあったというものだ。

「運転手さん、その歌を歌ってちょ」
 義母が名古屋弁で頼むと、「車に戻ってからね」と、ちょっと照れながら言う彼。

 車に乗ったら、自分で歌うのではなく、カーステレオをかけてくれた。
 彼は、歌に出てくるナポリ弁を、いちいちイタリア標準語に直してくれる。それをまた、わかるところだけ適当に日本語にしてみんなに伝える私。
 雲一つない青空のもと、こうして車はナポリ空港まで快走したのである。
「ナポリを見て、ようやく死ねるわ。きのうまでのナポリだったら、死ねないもんね」と、義母のご機嫌も上々だった。

 それ以後、旅行中はもちろん、日本に帰って1週間がたった今になるまで、車内で聴いた3曲のカンツォーネのメロディーが、頭にこびりついて離れないのである。

2006-10-16

ナポリに函館山はなかった

 すっかり暗くなってしまったナポリの下町をうろつく我々。ナポリ大学の近くでチョコレートを買って、もう用事は済んだはずだ……と私は思うことにした。
「じゃあ、いったんホテルに戻りますか。お腹すいたら、また出直すとして……」
 だが、そんな私の誘導に乗ってくる義母ではない。
「いや、夜景が見たい」
 足が痛いと言いながら、いったいどこからこのエネルギーが湧いてくるのか。まあ、明日が帰国なのだから、多少のわがままは聞かなくてはならないところである。

 とはいえ、ナポリの夜景なんてどこから見たらいいのか。
 眺めがいいというポジッリポの丘まで行くには、かなり遠い。それに、夜ではヴェズーヴィオ(ヴェスビィアス)山も見えない。
 まずは、町の中心にあるガッレリーア・ウンベルト(しゃれたアーケード街)のバールで生オレンジジュースを飲みながら、妻の持つ「地球の歩き方」で作戦を練ることにした。

ポジッリポからの展望

「じゃあ、このサン・マルティーノ修道院というところに行きましょう。ほら、この本に展望の写真がありますよ。すぐそこからケーブルカーも出ているし……」
 私は提案した。だが、この選択が大きな誤りであった。
 もっとも、どのみち正しい選択なんてなかっただろう。いや、「地球の歩き方」が悪いわけじゃない。ナポリで夜景を見ようということ自体が間違っていたのだ。財布をすられたり、転んでけがをしたりしなかっただけ幸運だったと思おう。
 まあ、ともかくケーブルカーを乗るあたりまでは、まだみんなうきうきしていたことは確かである。

 ケーブルカーを降りると、お祭りということもあるのか、駅前にはかなりの人が集まっていた。そして、その大半の人びとは同じ方向に歩いていく。
 近くのおじさんにサン・マルティーノへの道を尋ねると、「みんなのあとについていけばいい」と教えてくれた。
 こんなにたくさんの人が行くんだから、さぞかし眺めがいいに違いない--そんな期待に、だらだら坂を登る約20分の道のりを、私たちは耐えることができたのである。

 そして、疲労困憊の末、ようやくサン・マルティーノ修道院前に到着。そこには、おそらく千人以上は人がいたであろう。行き止まりの広場では、ロックコンサートが始まっていた。
 そして、問題の市内展望である。
 眼下には、オレンジ色の街灯がちょびちょび見える。でも、少なくとも夜景を楽しむという感じじゃないなあ……とツアコンの私はおそるおそるみんなの顔を見る。
 すると、義母はこう言った。
「なに、これ。函館山のほうがずっとええわ」
 反論しようにも、あまりにも表現が適切すぎて、何も言えなかった。

「よっぽどナポリの人は楽しみがないのかなあ」
 そこに集まった群集に、妻もあきれ気味である。
「タクシーはないのかね」と義母は言うが、こんな祭りの夜にタクシーが来るわけはない。
 私たちは疲れ切った足をひきずり、無言のまま、ケーブルカーと地下鉄を乗り継いで、メルジェッリーナにある宿に戻ってきた。

 ああ、明日の昼には、みなさまはナポリ空港から帰国の途につく。明日の午前中で、きょうの失敗を取り戻せるのだろうか。
 そんな心配を数秒ほどした後、疲れて寝入った私であった。

2006-10-15

ナポリの下町で興奮

 翌日に利用したタクシーの運転手が言っていたのだが、ナポリは食べるところに苦労しないという。
 これは、単にウマいという意味だけでなく、たとえ中途半端な時間でも、必ずどこかのピッツェリーアやトラットリーアが開いているということだそうだ。

 南部の田舎町だと、レストランは午後8時半にならないと開かないところも多いが、確かにナポリはそんなことはなかった。2年前に行った目当ての店こそ閉まっていたが、下町のピッツェリーアに午後4時に入ることができた。
 ピッツァとビールでほろ酔い気分になり、ナポリの下町を散歩しようというのだから、恐いものなしである。
 心配した店のお兄さんが、「ほら、歩くときは、ショルダーバッグは体の前に置かなくちゃ」とアドバイスしてくれた。

ナポリの下町

 中心部の路地は人でごったがえしている。田舎町を歩き回ってきた我々は、まるでおのぼりさん気分である。
 そして、お目当てのオレンジ入りのチョコレートを買おうと、路地を歩いていたときである。同行者の女性3人の目が、小さなお菓子屋に集中して歩みが止まってしまった。
「ほらっ、早く行かないと日が暮れちゃうよ」とせかしても、こればかりは無駄であった。

 すると、その店で買ったミッレフォッリェ(ミルフィーユ)をパクついている20代半ばとおぼしき知的な雰囲気の女性と目が合った。
「コレ、イチバン!」と彼女。
「は?」
 これが話のきっかけであった。彼女は日本語を勉強していて、つい最近まで、神奈川県の元住吉に3か月ほど住んでいたという。

 連れの男性はと見ると、真っ赤なTシャツにリュックをしょって、ニコンの新しいデジカメを不用心にぶらさげている格好は、いかにも秋葉原あたりにいそうな雰囲気である。
 彼の日本に対する関心--いやオタク度は大変なものであった。その会話をすべてここに記していたらキリがないほどである。
 とにかく自分も日本に行って、寿司と天ぷらと牛丼と豆腐料理となんとかとかんとかを食いたいと、興奮気味に語る。マンガもアニメももちろん買い込んできたいらしい。
 私たちが東京の駒込に住んでいると言うと、ぜひ新宿と渋谷と池袋と浅草と上野と秋葉原と恵比寿に行きたいと、目をひんむいてまくしたてる。

 こう書くと、まるで危険人物のようだが、実に心優しき楽しいやつではあった。
 義母が、「私は名古屋に住んどるのよ」と言うと、「名古屋も大阪も行きたい。広島もね。でもシンカンセンは高いからホンセンで。東北地方も行きたいなあ。そうそう富士山にも登らなくちゃ」と彼。「そんなんじゃ、1年あっても足りないね」と私たちは笑った。
 まあ、こんな調子で、ナポリの下町の狭い道で、30分間も興奮して語り合ってしまった我々である。
 しまいにその兄ちゃんは、道を歩いている人をつかまえて、「オレたちの写真を撮ってくれ」と言って、ニコンの新品デジカメで記念撮影までしてしまった。
 メールアドレスと住所を交換して別れたときには、すっかり日は暮れていた。

2006-10-13

ナポリ到着

 9月30日、同行者たちにとって最後の宿泊地ナポリ(Napoli)に到着した。ここに1泊し、妻と義母とS嬢の3人はローマ経由で日本に帰っていく。
 そして、私は晴れてお役御免となり、一人旅を始めるという予定である。

 さて、このナポリ、個人的には好きな町なのだが、ツアコンとして訪れるには緊張と疲労を伴う町でもある。
 薄暗い地下駅、雑踏のなかで、ひったくりやスリの心配は絶えず、タクシーではぼったくりに注意が必要である……とされている。

 宿はメルジェッリーナ地区にとったのだが、ナポリ・メルジェッリーナ駅からは400メートルほどの距離がある。重い荷物を持ち運ぶには面倒な距離だし、せっかくならば移動中にナポリ中心部を同行者にも見せておきたい。
 そこで、あえてリスクをとり、ナポリ中央駅地下にあるポルタ・ガリバルディ駅で下車。タクシーに乗ることにした。

 薄暗い地下駅から中央駅正面のタクシー乗り場に、はたして妙齢の女性3人を連れて、無事にたどり着けるのだろうか。しつこい白タクの客引きはないのか……。なんて思っていたら、拍子抜けするほどあっさりとタクシー乗り場に到着。

ナポリ中心部とヴォメロの丘を結ぶケーブルカー

 若くて気のよさそうな運転手は、「きょうは『ノッテピアンカ(Notte Bianca)』だよ」と教えてくれる。そういえば、そんなポスターが貼ってあったっけ。
「お祭りなの?」
「そう。賑やかになるよ」
 ノッテピアンカといえば、日本語にすれば「白夜」か。どんな祭りなのか見当はつかないが、アルベロベッロといいナポリといい、よくよくお祭りに縁がある我々だった。

 運転手は宿に着くまで、「これが王宮、これがカステル・ヌオーボ」などと丁寧に説明してくれた。
 料金はもちろんメーターに基づいて、15ユーロという妥当なもの。
「荷物が多いから割増料金なんで……」と、すまなそうに言うところがかわいい。
 個人的な感想だが、イタリアのタクシー運転手は若い人ほど誠実である。オヤジ度が増すほど、かつてのイタリアのうさんくさいタクシーの残り香を感じさせてくれる。

 さて、ナポリの宿は、古い建物の一部を宿泊用に改造したB&Bを予約していた。なにしろ、ユーロ高のいま、大都会でちょっとした四つ星ホテルに泊まろうとすると、すぐに日本円で一人2万円以上になってしまうからだ。
 リラが通貨だった時代には、窓からエトナ山とナポリ湾が見渡せるホテルに泊まったことがあるのだが、とてもではないが、いまはそんな贅沢はできない。

 宿は古い建物の4階。見るからに後づけの、小さくて古典的なエレベーター……というよりも「上下する鉄製の籠」で昇っていく。
 私たちを出迎えてくれたのは、横綱朝青龍に似た顔をしたフロントのお兄さんであった。キルギスタン出身で、3年前にナポリにやってきて故郷にいる3人の子どもに仕送りをしているという。
 この人物については、この翌々日に不思議な縁で再会をすることになるので、詳しくはまた改めて記すとことにしよう。

 さて、部屋に入って一休み……といかないのがツアコンのつらいところ。すぐに市内に繰り出して、下町の中心部あたりでピッツァを食べ、スパッカナポリ近くでオレンジ入りのチョコレートを買い、市内を展望できる場所に行く。そして少し腹が減っていたら、レストランで魚のスープを頼むという、妻が考えたすさまじい計画が待ち構えているのである。
 すでに時計は16時をまわっていた。はたして、そんな無茶な計画が通用するのか。なにしろ、ここはナポリである。

2006-10-10

マラテーアでのんびり

 カストロヴィッラリから14時20分発のサープリ(Sapri)行きバスに乗車。
 時間が昼をかなりまわっていたため、騒がしい学生たちは乗っておらず、アダルトな雰囲気の中を、ティレニア海(西海岸)に向けてバスは快走した。

 目的地のマラテーア(Maratea)へは、サープリから鉄道ですぐなのだが、鉄道駅と町の中心部がかなり離れているとのことで、日本にいたときから頭をひねって別ルートを見つけた。
 途中のラーゴネグロ(Lagonegro)で、始発のマラテーア行きに乗り換えるというワザである。2つの会社のバスを乗り継ぐというルートに、我ながら大満足。ツアコンの腕のみせどころである。
 しかも、ラーゴネグロからマラテーアへの道は、地図でみるとかなりの山道。海辺近くでどっと視界が広がって、夕日に染まる海が見えるという寸法であった。

マラテーアのホテルからの眺め

 そして、確かにほぼその通りに進んだ。
 ただ一つ計算外だったのは、心地よいカーブの連続に旅の疲れが出たのか、同行者たちがご熟睡になってしまったことである。

 さて、マラテーアの町は、まさに保養地ということばがびったりのところ。山が海岸線近くまで迫っていて、何よりも景色がいい。そして、船遊びなら海岸近く、のんびりする向きには町の中心部や高台に泊まるといい。
 私たちの泊まったホテルは、高台も高台。眺めはいいが、たどり着くまでが一苦労であった。

「あら、イタリア語が話せるの。よかったわあ」とフロントのおばさん。
 一人しかいない英語を話せる人が、新婚旅行で不在なのだとか。

 マラテーアは旅程の都合上で立ち寄っただけなので1泊のみ。1泊で帰る客なんて少ないんだろうなあ。朝食のときに会ったスコットランド人は、1週間ほど滞在して、周囲の山にトレッキングするそうだ。

 翌日は、昼の12時半ごろに、座席指定特急エウロスター(Eurostar)でナポリに向けて出発の予定である。特急の止まるサープリ駅までは、タクシーに乗らなくてはならない。

山頂から見たマラテーアの港

 というわけで、タクシーで運んでもらうついでに、マラテーア観光もしてもらうことにした。目のくらむような高さの山頂と、港の2か所で40分ほどのんびりした私たちである。
 天気は快晴。日射しが肌に痛いほど。
 港の近くの教会では、結婚式があるらしく、ちょっとおしゃれをした人たちが集まっていた。
 そんな風景を見ながら、カストロヴィッラリからナポリに直行して2泊というコースをとらずに、マラテーアに1泊したのは正解だったなと思うツアコンである。
 思うに、天候不順と言われているイタリアに来て、天気にも恵まれて、アルベロベッロからマテーラへの移動時に大雨が降った以外は、ほとんど晴れていたというのも、ふだんの行いのよさが関係しているに違いない。
 さあ、ツアコン最終日。ナポリに向けて出発である。

カラブリアのチヴィタ再訪、マッシモ再会

 カストロヴィッラリには1泊のみ。翌日の午後14時20分のバスで、ティレニア海沿岸(イタリア西海岸)の保養地マラテーア(Maratea)に行くという旅程である。
 出発までの午前中、どうしようかと考えたが、結局タクシーを利用して、チヴィタ(Civita)を訪問することにした。

 チヴィタには2年前に妻と訪れていて勝手はわかっており、町自体もこぢんまりしているのでツアコンにはうってつけである。
 2年前のブログ記事に書いたとおり、南イタリアにはオスマントルコの支配から逃れてきたアルバニア人の末裔が数百万人も住んでおり、各地で町や村をつくっている。そして、いまも広くアルバニア語が話され、独自の文化が守られているのだ。
 チヴィタは、そんなアルバニア文化の中心地の一つであり、年に一度の祭りの日には、各地から町や村の代表がやってくるという。
 ……なーんていうウンチクは、前回入りそびれたアルバニア文化博物館で仕入れたのであった。博物館といっても、民家の一部を改造したような小さなもので、地元のおじさんが2人でやっていた。

チヴィタの町

 チヴィタに来てびっくりしたのは、2年前にくらべて微妙に観光地化が進んだこと。標識や散歩道が整備され、B&Bもできていた。高い山と深い谷に囲まれた立地も、観光におおいにプラスになっているのだろう。
 そして、ドイツ人の団体が観光バスに乗ってやってきたのにも驚かされた。
 前回は、人びとの我々を見る目が好奇心に満ちていたが、今回はずいぶん観光客慣れして穏やかに感じられたのもそんなところから来ているのかもしれない。
 まあ、アルバニア文化で町おこしといった感じである。

 変わらないのは、昼間になるとおやじがバールに集まってくること。前回入ったバールでは、ドイツ帰りの元気なおばさんが健在。再訪を歓迎してくれた。

 昼前に迎えのタクシーに乗り、ロカンダ・ディ・アリーアに戻って、お大尽ランチ。さんざん記念写真を撮ったのちに、再びタクシーでバスターミナルに向かった。

「ターミナルのバールに行っても、マッシモはいないのよねえ」と妻が言う。
 マッシモというのは、2年前の旅で世話になった若きバールの主人である。超ハンサムで背筋がピンとして、明るくて優しくて元気で思いやりがある、信じられないほどいい青年である。年は30代前半あたりか。

 去年私がプレゼントを持ってこのバールを訪れると、そこにいたのは弟だった。マッシモは隣町で店をやっているという。
 この弟は、顔はなんとなく似ているのだが、どうも覇気がなく、だらけている。そのためか、店の中も、客層もどこかよどんだように感じられた。

 前日、バスターミナルに着いたときに、気になってちらりと見たのだが、カウンターの中には女性が一人いるだけだった。
 それでも、一縷の望みを抱いて、またバールの中を覗き込んでみた。
 すると、……いた!
「マッシモ!」
 すると彼はびっくりしたような顔をして、「おお、アミーコ?」と言う。

マッシモの一部と彼の自作SL、そしてピオ10世

「マッシモがいたぞ」と妻に伝えると、彼女はあわてて走ってきた。
 どうやら、2年前に私たちが送った写真も届いていたし、去年、彼の弟に託した蒸気機関車の写真集も受け取ったとのこと。これなら、忘れられるわけないね。
 前回は製作中だった手作りの蒸気機関車の模型は、2年半かけてとうとう完成したそうで、バールの棚に飾られていた。

 きのう見かけた女性がきょうもいたのだが、なんと彼女が結婚したばかりの奥さんだという。けっして美人ではないが、しっかり者みたいで気立てもよさそうなので、マッシモにはぴったりだろう。
「もう一度住所を書いてくれ。オレは学がないから手紙の書き方もわからないけど、妻が書いてくれるから」と笑う。

 彼はスプマンテ(スパークリングワイン)を空けてくれた。そして、全員で再会と彼らの結婚を祝って乾杯したのである。
 マッシモの新婚旅行は地中海クルーズだったという。ナポリ、チュニジア、ギリシャあたりをまわったとのことで、どうやら、義母が昨年利用したのと同じ会社のようである。
「マッシモったら、贅沢じゃん」と妻が言うが、よく考えると、イタリア人にとっての地中海クルーズというのは、東京の人間が瀬戸内海の島めぐりをするのと、そう変わらないかもしれない。

 バスの発車が迫っていた。
「じゃあ、これを持って行ってくれ。カラーブリアのワインだ。コセンツァの近くでつくられたワインだよ」
「ありがとう、マッシモ!(でも、まだ旅が続くから、ちょっと重いんだけど……せっかくだからもらうね。ホテルで飲んでもいいしね)」
 最後にマッシモは私に抱擁とほおずり。
「男と男はこれでいい」
 そう言って、あとの女性3人とは握手だけ。イタリア人とは思えないほど硬いところがまた気に入ってしまった。
「奥さんが見ているから?」と聞いたら、「そんなわけじゃない」と答える彼。

 こうして、田舎町のバスターミナルにあるバールにおいて、興奮の15分が過ぎていったのである。義母もS嬢も、このハプニングに大喜びであった。

 さて、マッシモにもらったコセンツァのロゼワインの運命なのだが……ああ、その3日後、ナポリ空港の入口で、地面に落ちて割れてしまうのである。マッシモ、ごめん。

2006-10-09

カストロヴィッラリお大尽旅行

 マテーラで2泊したのち、次の目的地は、カラーブリア州北部の盆地、ポッリーノ国立公園の観光拠点であるカストロヴィッラリ(Castrovillari)である。
 ここは鉄道が通ってないため、マテーラからアドリア海沿岸のメタポント(Metaponto)まではタクシー、そこから海沿いにトレビサッチェ(Trebisacce)までが鉄道、そしてカストロヴィッラリまでがバスという苦肉の旅程となった。

トレビサッチェの旧市街を仰ぎ見る

 マテーラからメタポントへはバス路線もあるのだが、時間の調整がうまくいかず、タクシー料金120ユーロという大枚をはたくことになった。まあ、4人だからできる芸当である。

 カストロヴィッラリへは、シーバリ(Sibari)からのバス便も、昼間のいい時間帯に一便あるが、車窓のよさを優先。3時間近い待ち時間を昼飯にあてることで、トレビサッチェ乗り換えに決めた。
 このあたりもツアコンの腕の見せ所である。

 鉄道駅に隣接するトレビサッチェのバス乗り場は、昼過ぎになると学生でごったがえす。乗り場に行き先や番号があるわけでもなく、運転手や学生に尋ねながら、なんとか目的のバスを探し当てるしかない。

 やっとたどり着いたバスは中学生で満員。我々が乗り込むと、好奇心を隠さずに大声を上げていたのは例によってである。
 まあ、「カストロヴィッラリに行くの? あそこはいいところだよ」なんて生意気なことを言うやつもいて、一人一人はかわいいんだけどね。

レストランの壁の絵が楽しい

 大騒ぎも最初の20分ほど。チヴィタ(Civita)に向かう峠の手前、一軒の豪農らしき邸宅の前で、おとなしそうな少年が降りると車内は我々だけになった。
 40代とおぼしき運転手がラジオの音楽を消すと、車内に静寂がやってきた。どうやら運転手は、生徒たちの騒々しさを、音楽でまぎらわしていたようだ。

 さて、カストロヴィラリではかなりのお大尽旅行をした。そもそも訪問の目的は、ロカンダ・ディ・アリーア(La Locanda di Alia)での宿泊と食事なのである。町外れにあるコテージ風のホテルで食事も抜群。親族経営によるサービスも行き届いていて、立派な設備とは対照的に、気取ったところがなく、家族的な雰囲気がいい。
 妻と私はここに2年前にやってきて、すっかり気に入ってしまった。去年は、私一人で、2日連続で食べにくるという無茶なこともした(もっとも、去年の宿はバスターミナル近くにとっていたが)
 ワインを飲んで食事をして、食後酒まで飲むと日本円で1万円ほど。でも、同じレベルの食事を日本でやったら目の玉だけでなく、脳味噌が飛び出る値段になるはずだ。

素敵なリキュールは5品の飲み比べができる

 タクシーでホテルに乗り付けると、経営者であるアリーア三兄弟の一人のおじさんが、やあやあと出迎えてくれた。
「ちゃんと覚えていてくれたね」と妻に言う私。
「そりゃそうでしょ。去年も2日連続で、一人で食べにきたんだから」
 妻は、自分が去年来られなかったことの悔しさを、巧妙に言外に匂わせた。

 三兄弟の誰の息子だかわからないが、いつも愛想いいカメリエーレも健在だった。
 S嬢はもちろんのこと、連日の坂道・階段地獄にお疲れ気味の義母も、喜んでくれたようだ。
 ツアコンとしては鼻高々である。
 でも、1か月先のクレジットカードの請求が恐い。

2006-10-08

マテーラで警察に行く

 アルタムーラのパン屋をあとにして、P師範の推薦するもう一軒の高級食材店に行ったときに、事件は起こった。
 いや、正確にいうと、「このチョコレートには何が入っているのか」だの「ナッツ入りはないのか」だのと大騒ぎの後に、ようやく買うものを決め、支払いをする段になって、すでに起きていた事件が発覚したといったほうがいいだろう。

マテーラのりりしい飼い猫(本文とは直接関係はありません)

 たんまり買ったチョコレートの代金を、クレジットカードで払おうとしていた妻が叫んだ。
「カードがない!」
 財布はちゃんとあるのだが、メインで使っているカードが1枚だけ見つからないというのだ。
「1枚だけ落としたのかなあ……あ、きのうマテーラで服を買ったときに返してもらわなかったのかも!……でも、レシートはあるから返してもらったのかなあ……ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう」

 とりあえず、その場は現金で支払いをすませ、大急ぎで駅に向かった。
 ただでさえ、買い物に夢中で、予定していた電車にぎりぎり。これを逃すと、マテーラへの帰りは8時半になるという瀬戸際で、かろうじて全員が電車に乗り込むことができた。

「どうしよう、どうしよう」と車内でもうるさい妻。
「いくらここで心配したってさあ、しょうがないでしょ。きのうの店にあるかもしれないし、カードを止めるにも今は電話ができないし」と無責任な私。
 と、自分で言って気がついた。アルベロベッロのN夫妻に調達してもらった携帯電話があるではないか。レシートに書かれた番号に電話すればいいのである。

 本当は、イタリア人にイタリア語で電話するというのは、極力避けたいのが本心である。ホテルの予約やタクシーの手配なら決まり文句だけで済むが、今回のは事情が込み入っている。
 とはいえ、ツアコンとしてはしかたがない。清水の舞台、いやマテーラのサッシから飛び下りる気分で、携帯電話の番号を押した。最初のせりふだけは決めておいて。

 電話の向こうから、「プロント(もしもし)」というダミ声の女性の声がした。きのうの店にいたねえちゃんに間違いない。
「あー、うー。きのうの夜、日本製のクレジットカードが1枚置き忘れられていませんでしたでございましょうか?」
 すると、ダミ声のトーンが一段高くなった。
「あったわ、あったわ、あったわ、あっーたわ!」

 ほっとした私に、彼女は早口でまくしたてる。すべてが聞き取れたわけではないが、どうやら、こんなような趣旨であった。
「次の目的地に出発するだろうから、この店にカードを取りに戻ることはないだろうと思って警察に届けたわ」「警察ならばどのホテルに泊まっているか、わかるからね」「ホテル・サンタンジェロってわかったから、ホテルにも連絡がいっているはずよ」

「ははあ、ありがとうごぜえます。で、私はどうすればいいんでしょうか」
 彼女のボルテージはさらに高まる。
「○※▲警察! ▽×■ホテル!、☆@&!!、わかった、わかった、わかったー?」
「ははあ、わかりました!(ほんとはよくわからないけど……)、ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
 とにかく、その店に行くのではなく、ホテルに戻るのが一番のようである。警察に行くにしても、場所がわからないし。

サッシ内にあるサン・ピエトロ・カヴェオーゾ教会

 ホテルにたどり着いたときには、とっぷりと日は暮れていた。
「ニュースがあるわよ!」とフロントの人に笑顔で出迎えられる。聞くと、カードは警察にあるとのことで、警察にも連絡をとってもらった。
 幸いにも、すぐに出頭すればすぐに返してもらえるという。翌日は9時に出発の予定で、長距離のタクシーも手配していたので、ツアコンとしては一安心。
 警察までは歩けない距離ではなかったが、親切にもホテルの従業員の一人が車で送ってくれた。

 警察には、ツアコンとして私も同伴。これで、イタリアの警察に厄介になるのは、1985年以来3度目である。(第1回目と第2回目について、知りたいという奇特な方は、駄菓子のイタリア無駄話第1話をご覧いただきたい)

 無事にカードを取り戻したところで、洋服屋のねえさんにも一言お礼を言いに行こうということなった。
「いやあ、お手数をかけました」
 ねえさんは、派手な造作の顔をほころばせて、「私は大丈夫よ。でも、すぐに戻ってきてよかったわね」と言う。
 きのうは、ちょっと気取った印象があったが、再び会って話してみると、気のいい姉御という感じであった。早口のだみ声もべらんめえ調に聞こえる。
「じゃ、楽しい旅をしてちょうだい!」

 2年前に来たときもそうだったが、マテーラで出会った人たちはみんな親切で、思いやりにあふれている。
 マテーラで味わった親切はほかにもあるのだが、それは帰国後の総集編にとっておこう。

2006-10-07

アルタムーラでパンを買うまで

「あの、パンがおいしい、なんとかいう“村”はどこだっけ」
「アルタムーラ(Altamura)ですよ、お義母さん。村じゃなくてムーラ」
 この会話を、旅行中に少なくとも5回はしたと思う。
 アルタムーラはマテーラの北にある町で、電車で所要30分弱。まだ私が行ったことのない町なので、マテーラで2泊している間に訪問しようと企んだわけである。
 でも、行ってみて、「地味でおもしろくない町だ」と言われるといけないので、「パンがおいしい町」というキャッチフレーズでツアー参加者……じゃなくて、同行者の興味を引きつけようとしたわけである。

アルタムーラの旧市街入口

 実際、アルタムーラには古くからのパン屋があり、そのあたりの情報は、日本を出る前にプーリア事情に詳しく、人三倍くらい食いしん坊のP師範から仕入れていた。
 だが、その作戦が効きすぎたか、同行者たちは異様にパンに執着するようになってしまったのであった……。

 アルタムーラに到着したのは午後3時過ぎ。もちろん、旧市街の中にはほとんど人がいない。
 私としては、町を囲む高い城壁を見て、なるほど「アルタムーラ=高い城壁」だと感心し、入り組んだ路地を歩いて満足していた。

 しかし、同行者たちがそれで済むわけがない。
「ここまで来たら、やっぱりアルタムーラのパンを買って帰らなくては」
 「帰るまで4日もあるのに」とか「かさばって重いのに」といった説得は、この人たちには通用しない。パンのことを強調しすぎたかと反省しつつ、15世紀にできたという、路地裏のこぢんまりとしたパン工場の前で私たちは午後の開店を待つことにした。

 たまたま、工場から出てきた白衣を来た婦人に尋ねると、1時間か1時間半には「到着する」ので、パンが買えるという。そのことばを信じて、私たちは交代で町の散歩をしながら待つことにした。
 周辺には、これまでかいだことのない、パンのいい香りがたちこめ、食欲をそそる。

旧市街の中心にある「カッテドラーレ」

 北イタリアから来た、品のいい数人の中年男女の旅行者も小さな広場で、いまかいまかと「到着」を待っていた。
 工場の人は、待っている私たちのために、焼きたてのビスケットを持ってきてくれたり、義母のために椅子を用意してくれたりと、実に親切である。

「それにしても、『到着する』というからには、どこか別のところで焼いているのかなあ?」と話し合う私と妻。ここが工場のはずなのに……と不思議に思ったが、その真相はまもなく明らかになった。

 工場の人が入れ代わり、立ち代わり出てきては、「もう出たらしい」「すぐに到着するはずだ」という情報に、私たちは一喜一憂。最初の予定よりも、1時間以上が過ぎていた。
「そば屋の出前じゃあるまいし」と、いいかげん、うんざりしてきたころである。
 とうとうその瞬間がやってきた。
「ほら、来た!」
 工場の男性の声がすると同時に、路地にある小さな広場に車が止まり、なかから30代とおぼしき男性が降りてきた。
 荷台から大きなパンを下ろすのかと思いきや、彼は工場横にあるドアの前に直行し、鍵を開けた。そこは、パン屋の売店であった。
 店の中を覗くと、すでに各種のパンやピッツァなど、さまざまな商品が並んでいるではないか。
「はて? これはどういうことか?」
 待ちくたびれた日本人と北イタリア人は、ややあってから事情を飲み込むことができた。

 そう、我々がずっと「到着」を待っていたのは、売店のあんちゃんだったのである。店の鍵を持っている彼が来ない限り、午後の営業が始まらないということらしい。
 焼き上がりに手間がかかっているのかと思いきや、このあんちゃんが、普通のイタリア人以上に長い昼休みをとっていただけの話なのであった。
 工場の人たちの笑顔には、「やっぱり、今日も遅くなったか」と書かれていた。

 まあ、なんにしても、その日の朝焼いたというパンを無事に買うことができて喜んだ私たちである。

2006-10-04

豪雨の中をマテーラ参り

 アルベロベッロからマテーラ(Matera)へは、豪雨の中の移動となった。
 前夜からぽつぽつと雨粒が落ちていたのだが、夜中には雷とともに激しく雨が降り始めたのだ。

 アルベロベッロの駅は、町の一番低いところに面しているために、駅に向かう道はほぼ川と化していた。
「毎年、お祭りには必ず雨が降るけれど、今年は特別ね」
 あまりの雨に同情して、駅まで送ってくれたホテルのお姉さんは言っていた。
 もっとも、1時間に20ミリ程度といった感じで、日本ならばさほど驚くべき雨量ではない。長時間雨が続いていたとはいえ、雨に対する備えが日本ほどなされていないのだろう。
 それでも、場所によってはかなりひどかったようで、車窓から見える畑地の一部は、まるで湖のようになっていた。

マテーラのサッシ

 途中駅からは線路が水につかったようで、隣のノーチ駅からプティニャーノ駅までの区間はバス代行になってしまった。雨の中を重い荷物を持って乗り換えるのは大変である。ツアコンはつらい。
 たまたま、アルベロベッロ駅で出会った日本人男性は、「前の列車で行くと、途中乗り換えになるから、わざわざ次の直通を選んだのに」とぼやいていた。
 そういうものなのである。イタリア旅行と人生は。

 そして、プティニャーノ駅で再び乗り換えた列車には、途中から下校の中学生が乗り込んできて、二階建て客車の車内は例によって大騒ぎである。
 同じボックスに座ってきた女の子が、私たちに話しかけたのがきっかけで、私たちが日本人のグループとわかると、車両じゅうの生徒が興奮状態に陥ってしまった。
 日本語で「愛してます」は何ていうんだと聞かれたり、わけのわからないプーリアの俗語を教えてくれたり、一緒に写真を撮ったりして、ボルテージは高まる一方であった。
 オタクっぽい男の子は、「インターネットに写真をアップしてね。見るから」といって下車していったが、どうやって検索するのだろう。まあ、いいか。

 さて、こうして列車が遅れたために、わざわざ日本で教えてもらったバーリの食堂へは行けずじまい。駅ナカのバールで昼をすませた。

 バーリからのアップロ・ルカーネ鉄道に乗っているうちに雨は小降りになり、めでたく10分遅れ程度でマテーラ中央駅に到着した。
 目指すは、旧市街・サッシ(Sassi)内で2年前に開業したホテル・サンタンジェロ(Hotel Sant'Angelo)である。
 客室は穴蔵を改造したもので、それぞれが独立している。部屋はちょっと湿っぽかったが、それはエアコンで調節できた。四つ星のため、お値段は安くはないが、なかなかのホテルである。どこか秘めやかな雰囲気はカップルにお勧めかも。

マテーラの洞窟ホテル

 それにしても、マテーラのサッシは、いつ見ても見事というほかない。
 石灰岩質の山に横穴が掘られ、さらに時代が下ると、その上に家が積み上げられていったという。こんな風景は、ほかに2つとないだろう。
 また思うのは、ヨーロッパの町で教会が町の中心にそびえている様子のよさである。マテーラにしても、教会の尖塔がなかったとしたら、もう1つしまりのない姿であるに違いない。

 そして、サッシ内を歩いて不思議に感じるのは、その遠近感である。はるか遠くに見えていた場所に、意外に早くたどり着いてしまう。
 確かに、坂の上り下りは大変なのだが、水平の移動距離は見た目ほどないというのが、この町の特徴だ。
 これは、同行者3名も同じ感想を持っていたので、間違いないだろう。
 晴れたマテーラもよかったが、雨のマテーラもまたいいもんだねえ……と負け惜しみを言う私と妻であった。

 ホテルに着いたら、遅い夕食までは、ツアコン疲れをいやすひととき……と思っていたら、さにあらず。
 食前の腹ごなしという名目のもと、同行者の買い物にお供をしなくてはならないのである。
 マテーラで義母は靴を買い、妻は「思ったより寒いから」と言って高級な長袖のスウェットシャツ(和製英語でいうトレーナー)を買った。
 そのたびに、ちょっときついだの、ほかの色はないかだの、同じサイズで別のデザインはどんなのがあるかだの、私が通訳しなくてはならない。おかげで、イタリア語はかなり上達したように思える。

 そして、欲しいものを買い、ウマいものを食って、それぞれ眠りついた我々である。
 しかし、この日の妻の買い物の因果が、翌日になって報いを呼び、ツアコンの疲労度を著しく上昇させることになろうとは、この時点では、お釈迦様でも、南イタリアで人気のピオ神父(故人)でも知らなかったであろう。

2006-10-03

イトゥリアの谷、神風観光

 今回は、南イタリア初体験の義母とS嬢がいたので、どうしてもアルベロベッロ、マテーラという世界遺産観光は必須であった。
 とはいえ、両方の町ともそれぞれ2泊するため、中間の1日はたっぷり使える。そこで、その日を利用して、まだ私が行ったことのない町を訪ねてしまおうという日程を組んだのである。

ローコロトンドの旧市街

 アルベロベッロのついでといえば、マルティーナ・フランカ(Martina Franca)やオストゥーニ(Ostuni)というのが相場だが、どちらも行ったことがあるので、今回はローコロトンド(Locorotondo)、チェリエ・メッサーピコ(Ceghie Messapico)というシブい町を選択した。

 午前中のアルベロベッロ散歩で、義母が声をかけた宮古島出身の元気な女性も加わって、都合4人の女性との道中である。
 まあ、女3人でかしましいというが、元気な女性が4人も集まったのだから、もう大変である。ただでさえ強烈な義母の名古屋パワーもフル回転である。
 もっとも、宮古島の彼女はカラーブリア州のトロペーアでイタリア語を学習していたとのことで、イタリア語はよくできる。気もいい人なので、義母の話し相手担当大臣に任命しておいた。

 さて、ローコロトンドはアルベロベッロの隣町。私鉄Sud-Est線の隣駅で、8分ほどで着くのだが、なんと列車が定刻を30分も遅れてやってきた。
 機関車が数両の客車をひき、最後尾にディーゼルカーが1両連結されているという不思議な編成だったところを見ると、どこかで故障があったのかもしれない。

 ローコロトンドは、TCI(ツーリングクラブ・イタリアーノ)が選定する「イタリアの美しい城砦都市」の1つに選ばれているだけあって、小さな旧市街に広がる白い家々は魅力的である。
 そして、「丸い場所」という名前のとおり、城壁が周囲を丸く囲んでいるのが珍しい。
 だが、列車の遅れのため、時刻はすでに12時をまわり、このまま町めぐりを続けていると、やがて店が閉まるのは必定。昼飯難民になるのを恐れて食事を優先することにした。
 これが、その後の恐ろしい強行スケジュールにつながるとは、テラスでのんきにパニーニを食べている誰も気がつかなかった。

 結局、ローコロトンド滞在時間の大半を食事に費やした我々は、駅までの帰り道を早足、最後は駆け足で下らなくてはならなくなった。
 次の目的地、チェリエ・メッサーピコもきれいな町だったが、昼下がりとあって、例によって静まり返っている。
 そこで、オストゥーニ行きのバスが出ていることを知った私たちは、無謀にもオストゥーニ訪問を企てる。そして、バスで20分。「白い町」オストゥーニに向かった。
 バスターミナルから旧市街までは遠いのだが、バスターミナルにはタクシーの姿はなく、旧市街のへりまで、30分かけてようやくたどり着いた。

アルベロベッロで泊まったトゥルッリのレジデンス

 さすがに音を上げた義母。広場のテラスで、さあどうやって帰ろうかと私が悩んでいると、
「もう疲れたわ。金は私が出すで、アルベロベッロまでタクシーを呼んでちょ」と生粋の名古屋弁で提案する。
 私はそれを無視するわけにもいかず……というより、渡りに船とばかりに、バールでタクシーを呼んでもらうことにした。

 やってきたのは大きなワゴン車。帰り道にはチステルニーノ(Cisternino)までまわってくれた。
 再びアルベロベッロに戻ってきたときには、とっぷりと日は暮れていた。

 それにしても、アルベロベッロ、ローコロトンド、チェリエ・メッサーピコ、オストゥーニ、チステルニーノと、イトゥリアの谷を中心に、1日に5つもの町をまわってしまったことになる。恐るべし神風観光隊である。
 おっと、オストゥーニは結局、旧市街の中には入らなかったけどね、疲れ果てて。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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