カテゴリー「2005年南イタリア(カラーブリア州)の旅」の記事

2006-03-14

南イタリアで廃線探訪

 何も、好きでカラーブリアで鉄道廃線跡を探訪したわけではなかった。
 モラーノ・カラブロのバス停が1年前と変わっていたために、カストロヴィッラリに戻るバスに乗り遅れ、次のバスまで1時間つぶさなければならなかったからだ。
 まあ、それを幸いに、前年に見損なった廃線、廃駅跡がどうなっているか、訪ねてみることにしたというわけである。

駅と給水塔の跡


 場所は、モラーノの山のふもとにあるバス停から、駅前通りという名前とはうらはらの、何もない寂しげな道を下ること10分。
 かつて、蒸気機関車が使っていたであろう給水塔が見えてきた。左側にはホームの塀が見える。

 正面に見える建物は駅舎だろうか。このほかに、事務所らしき建物も近くに残っていた。

鉄道橋の跡


 道端に放牧(?)されている山羊に、不審な目を向けられつつ、さらに線路跡をたどると、未舗装の狭い道路を越える小さな橋が残っていた。

 この鉄道は、サレルノとポテンツァ、メタポントを結ぶ国鉄線から、シチニャーノで南に分かれ、ラーゴネグロ、モラーノを経由してカストロヴィッラリに至る支線であった。
 ラーゴネグロ以南はかなり前(30~40年前?)に廃止され、ラーゴネグロ以北も鉄道時刻表には載っているものの、全列車にバス代行マークがついている。

モラーノの山裾を通る廃線跡


 廃線跡は、モラーノの山裾を通ってラーゴネグロに向かう。反対側(写真の右側)はずっと開けた盆地が続き、その向こうに雪をかぶった山々が見える。
 列車からの眺めはさぞかし絶景だったことだろう。

 カストロヴィッラリのバスターミナルの片隅には、当時使われていた蒸気機関車が保存されている。
 機会があったら見てほしい……なーんて、そこまで行くヒマ人がどれだけいるかわからないが。

廃線跡とネコ


 モラーノの駅舎(あるいは事務所)跡らしき建物には、人が住んでいるようだった。
 そして、飼い猫だろうか、数匹が日向ぼっこしていた。

【2005年11、12月カラーブリア旅行記総集編・完】

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2006-03-08

イタリア鉄道の新車

 昔のイタリア国鉄の「サービス」を知っている人にとって、ここ数年の変化は驚くべきものだろう。
 車内の丁寧な放送、無人駅の到着案内など、日本では当たり前のことでも、イタリアでは画期的なサービス向上である。

ミヌエットがロザルノ駅に到着

 それというのも、イタリア国鉄の組織改編が大きく関係しているようだ。

 現地からのブログでは混乱してしまったが、「鉄道ジャーナル」2月号によれば、上部組織としてのFS(Ferrovie dello Stato--国鉄)は存在しているものの、その下部はいくつもの組織に分けられているようだ。

 で、実際の運行はTrenitalia(トレーニターリア)が、そして施設や路線はRFI(Rete Ferroviaria Italiana--イタリア鉄道網)が管理している……らしい。

 まあ、そんな能書きはどうでもいいのだが、オンボロの車両が幅を利かせていたローカル線にも、新しい車両が走っていた。
 それが、この「ミヌエット」である。ミヌエット(Minuetto)とは、音楽の時間によく出てきた舞曲「メヌエット」のイタリア語読み。同じスタイルで、電車とディーゼルカーの両方があるそうだ。

おしゃれなミヌエットの車内

 RFIのサイトの説明によれば、デザインはジュージアーロ、製造はドイツのアルストム社とのこと。
 これまでのフィアット社製のオンボロディーゼルカーとは、段違いの性能と乗り心地であった。

 もちろん、ドアは低床となっていて、ホームからほぼ段差なしで乗り込める。
 これで、イタリアの鉄道のイメージも少しはよくなるかもしれない。

 そして、下の写真は、幹線を走る新しい客車の車内である。
 以前、中距離以上を走るイタリアの客車というと、6人掛けのコンパートメント(個室)方式のものがほとんどだった。
 見ず知らずの人が、同じコンパートメントに乗り合わせて、政治談義やふるさと自慢に花を咲かせているのを見て、さすがおしゃべりのイタリア人だと感心して見ていたものである。

新しい客車の車内

 私が少々イタリア語を解するとわかると、それこそ機関銃のように会話が浴びせ掛けられる。もちろん、楽しいときもあったが、疲れているときには多少の苦しみも味わったものであった。

 そんなイタリア人気質も徐々に変わってきているのか、コンパートメント方式の客車が急速に減っていることを感じる。

 それで、この写真の車両であるが、開放式になっているものの、通路を中央にもってこないで、端にしてあるのはおもしろい。コンパートメント方式の名残だろうか。
 座り心地もよく、クッションもふかふか。同じ3人掛けでも、新幹線のあれとは大違いである。
 よく考えると、新幹線の普通車は、1列に5人だものなあ……。

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2006-02-21

カラーブリアのネコ

 イタリアの旧市街では、どこもネコが元気である。
 とくに、車の入れない路地は、野良ネコの天国だ。

 同じ南イタリアでも、シチリアではやせ細ったネコばかり見たが、カラーブリアでははずいぶん元気そうなネコが多かったのが印象的である。
 ネコに対する住民の意識が違うのか、それとも単なる偶然なのかは、いまだ不明である。

ニコーテラのネコ


 1枚目は、トロペーアの南にある山岳都市・ニコーテラで見たペルシャ猫らしきネコ。
 さすがにこれは飼い猫だろう。
 目の色と後ろの扉の色が同じことに注目!

サン・ソスティのネコ


 次は、私がバスに乗り損なった町、サン・ソスティのネコ。
 私が呼び止めると、面倒くさそうに振り返った。

トロペーアのネコ


 観光地トロペーアのネコは、客がテーブルに座っていると、近くに寄ってくる。
 おこぼれを待っているのだが、何もあげなかったら、プイとどこかに行ってしまった。

シッラのネコ


 シッラの港の前にいたネコは、私と妻がカメラを構えている間、ずっとポーズをとってくれた。

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2006-02-18

チンクエチェントよ永遠に

 イタリア語で「チンクエチェント」といえば、数字の500のこと。
 でも、普通名詞として(ま、ホントは固有名詞だけど)、「あ、チンクエチェントだ!」とか「チンクエチェントがいるぞ」などというときは、フィアット社製の排気量500ccのかわいい車を指すことになっている……はず……だと思う。

セッラ・サンブルーノを走るチンクエチェント

 すでに製造中止になっているが、その人気は抜群で、まだまだイタリア全土でその姿を見ることができる。
 一時は、ずいぶん数が減ったという印象があったのだが、南部をうろうろ旅行していると、よく目にすることができる。

 私自身は車にはさほど興味はないのだが、自分で買って乗るとしたら、フェラーリか昔のアルファロメオのジュリエッタ(あっという間に見なくなった)か、チンクエチェントかな。

シッラの町なかで見たチンクエチェント

 個人的には、その昔、語学学校のうら若き女の先生が乗っていたチンクエチェントが印象的である。
 目が青く、背も高い、北方ヨーロッパ系と見える先生が、授業が終わると、さっそうと……いや、クッと背をかがめて小さな車に乗り込み、エンジンの音は軽やかでなく、バタバタという音を残して去っていく姿はユーモラスだった。

 日本でも、ごくたまに目にすることがあるが、さぞかしメンテナンスは大変だろう。

サン・ソスティのチンクエチェント

 聞くところによると、イタリアではチンクエチェントを「保護」する法律ができたとのこと。
 もちろん、表面上はそんなはっきりと記されているわけではないようだが、誰がどう見てもチンクエチェントの持ち主を優遇するものらしい。
 旧市街の狭い道をちょこまかと走っている姿が、まだまだ見られそうである。

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2006-02-11

ストロンボリ

 「ストロンボリ」という名前を聞いて、「ああ、あの映画か」とピンとくる人は、かなりの映画好きかもしれない。
 私は、とくに映画好きというわけではないが、「無防備都市」や「戦火のかなた」で有名なイタリアのロベルト・ロッセリーニが監督をして、かの有名なイングリッド・バーグマンが主演した映画というので、どこかの名画座だったか、イタリア映画の鑑賞会だったかに見にいったことがある。

夕焼けのストロンボリ

 なにしろ、バーグマンがロッセリーニ監督の映画を見て、いっぺんに惚れ込み、夫と子を捨ててロッセリーニのもとに走ったというエピソードを聞くと、見ねばなるまいと思ったわけだ。

 あらすじはといえば、戦争難民となってイタリアの収容所に入れられたリトアニア出身の女性(バーグマン)が、収容所を脱け出すためにストロンボリ島出身の男と結婚。
 彼の出身地である島にいってみたら、古い因習と、活火山をかかえる過酷な自然に直面して苦労したという話である。
(この説明じゃ、身も蓋もないか)

 どうも、バーグマンと結婚してからのロッセリーニの映画は評判がよくないが、この映画も当時の批評はさんざんだったと聞く。
 確かに、それまでのロッセリーニの映画とくらべると、タイプはまったく違うのだが、そこまでひどい駄作とも思えない。
 まあ、いずれにしも、バーグマンの存在感はさすがで、また、それとともに画面に映し出された野性的なストロンボリの姿は魅力的であった。

 もっとも、避難民のわりには、一寸の隙もなく化粧をしているバーグマンを見て、ちょっと違和感をもったが、まあ許そう。
 なんといっても、あの「カサブランカ」の主演女優バーグマンだから。

トロペーアから見たストロンボリ

 まあ、そんな記憶を頭の隅において、カラーブリアの西海岸から見たストロンボリの姿は格別であった。
 よーく見ると、山の上から噴煙が出ているのも見える。
 西海岸を走る列車の窓から、ずっとストロンボリを眺めていても飽きなかった。

 そういえば、ラメーツィア・テルメからローマに向かう帰りの飛行機の窓からは、シチリアのエトナ山とストロンボリとが、ともに頂上から噴煙を出している姿が眺められたっけ。
 実に見事な光景だったが、もうカメラは収納棚の中にしまってあったので、写真に撮ることができなかったのは残念である。

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2006-02-09

芸術的洗濯物

 イタリアに行くと、どうしても写真の数が予定をオーバーしてしまう。
 今回は、フィルムカメラ(ポジフィルム)とデジカメの2台を持って行ったが、フィルムは途中で使い切ってしまい、最後の数日はデジカメ1本になってしまった。

セッラ・サン・ブルーノ旧市街の洗濯物

 出来ばえを考えると、まだまだまだまだデジカメはポジフィルムにかなわないのだが、なにしろいまやフィルムを売っている店が少ないのだから、しかたがない。

 さて、フィルム消費の大きな原因は、言うまでもなく、どこを撮っても絵になってしまうこと。
 こんな、町なかの洗濯物でさえ、サマになってしまうのがニクい。

セッラ・サン・ブルーノ新市街の洗濯物

 もっとも、今回の旅では、洗濯物アートというほどのものは発見できなかったのは残念だ。
 イタリアのネコ写真とともに、洗濯物写真もライフワークにするか……でも現地の人には嫌がられそうだなあ。

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2006-02-06

カラーブリアの大教会

 カラーブリアの教会といっても、日本ではほとんど知られていない。
 日本のガイドブックでは、せいぜい、このレッジョ・ディ・カラーブリア(Reggio di Calabria)のドゥオーモが小さく紹介されている程度である。

レッジョ・ディ・カラーブリアのドゥオーモ

 イタリア人の間でも、たいして知られていないに違いない。
 そんななかでも、まあまあ有名らしいのが、11世紀から建築がはじまったとというロマネスク・ビザンチン様式のジェラーチェ(Gerace)のカッテドラーレ。
 中部イタリアのオルヴィエートでも感じたが、よくもまあ山岳都市の上に、こんな大きな教会を建てたものである。

ジェラーチェのカッテドラーレ

 それにしても、ジェラーチェの教会は、周囲が幅数メートルの狭い道ばかりなので、写真で全貌を写しとるのがほとんど不可能である。興味のある方は、実際に行って見ていただきたい。
 正面入口前の広場は、坂道になっている上に、扇形をしているので、上の写真のように、不思議な感覚である。
 地面に描かれた模様は、狭い広場を少しでも広く見せるための工夫だろう。

 もう1つ紹介するのは、ジェラーチェのふもとの海岸沿いにある町・ロークリ(Locri)。
 この町には、いくつもの教会があるのだが、中心部近くにあって威風堂々としていたのがこれ。
 名前をメモしてくるのを忘れたが、このゴテゴテぶりはなかなかのものである。

ロークリの教会

 カラーブリアの宗教建築といえば、これを忘れてやいませんかと怒られそうなのが、スティーロ(Stilo)のカットーリカ。
 これは、2004年に行っているので、 ここ をご覧いただきたい。

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2006-02-05

南イタリアの小さな教会

 イタリアの教会というと、誰もがフィレンツェやローマ、ミラノにある立派なものを思い浮かべるだろう。
 そんな意識があると、なんとも南イタリア--とくにカラーブリアの教会は物足りなく感じるかもしれない。
 外側がごてごてして、いかにも風格のある北・中イタリアの教会にくらべ、南の教会はやけにさっぱりしていて、異教徒の旅行者の目から見ると、正直なところ、あまりありがたみのないものが多いのだ。

セッラ・サン・ブルーノの聖ロッコ教会

 とはいえ、なかには心に残った教会もいくつかある。
 そんななかから、今回は「小さな教会」を2か所。

 上の写真は、旅先からのブログでは、「南のアッシージ」と私が勝手に呼んだ内陸の町、セッラ・サン・ブルーノ(Serra San Bruno)にある教会だ。
 町中には、立派な教会がいくつもあるが、私が気に入ったのは、町の北のはずれにある「聖ロッコ教会」(Chiesa di San Rocco)。 
 古い礼拝堂の跡に、19世紀末に建てられたものだそうだが、こぢんまりして素朴な感じの教会だ。
 周囲には木が生い茂り、横の道路を走る車が、たまに静寂を破っていく。

ニコーテラの教会

 下の写真は、ニコーテラ(Nicotera)の急坂の途中で見かけた教会。
 新しい無名の教会なのだが、このデザインがなんともかわいい。
 色使いがおしゃれだし、なんといっても、正面が人の顔に見えるのがおもしろい。

 バックの海はアドリア海。教会で隠れているが、海の向こうにはエオリア諸島やストロンボリ島も一望できる。

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2006-02-03

イタリア本土とシチリアを結ぶ船

 イタリア本土の「爪先」に位置するレッジョ・ディ・カラーブリア(Reggio di Calabria)からは、シチリア島が目と鼻の先に見える。
 この間に横たわるメッシーナ海峡に橋を架けることが、最近になって決定したそうだが、イタリアのことだから、はたして完成はいつになることやら。

 いまは、イタリア鉄道(旧国鉄)の高速船が35分で結んでおり、今回はそれに乗る機会があった。
 ほかにも、私営の高速船やフェリーの便もあるようだ。

レッジョからメッシーナに向かう高速船

 だが、この航路とは別に、レッジョの北にあるヴィッラ・サン・ジョバンニ(Villa San Giovanni)からメッシーナ(Messina)まで、イタリア鉄道の連絡船が就航しているのは、旅行者にはよく知られている。

 というのも、この連絡船には列車ごと載せてしまうからだ。
 だから、北イタリアからシチリアまで乗り換えなしでたどりつくことが可能である。
 ちなみに、日本でも以前は客車を船に載せていた時期があるが、台風で青函連絡船の洞爺丸が沈没してからは、やらなくなったと記憶している。

 いまから25年前、私もシチリア行きの長距離列車に乗ったことがある。
 いやはや、その作業の面倒なこと。
 列車の編成は長いものだから、何両かずつに分割して船に載せることになる。

 このとき、何度も機関車が入れ換えをするものだから、時間がかかってしょうがない。
 しかも、船から降ろすときは、また客車を引き出して連結して……と逆の作業をする。
 シチリア発着の列車は、たいていここで20分くらいの遅れを出すことになっていたものだった。

連絡船

 その列車に乗っていると、客車ごと船倉に入っているために車内は暗く、ずっとトンネルの中にいるようで落ち着かない。
 かといって、荷物を置いて甲板に出たら不用心だし……などと思っていたが、二度目には度胸が据わった。
 どこにも逃げられない船の上で、クソ重い荷物を盗むやつもいないだろうと思い、貴重品だけを持って甲板に出たのである。

 そこで見た空と海の青さ、そして風の爽快さは忘れられない。
 そして、「アランチーノ」なる食べ物を初めて見たのも、その船の甲板のバールであった。

 そんな経験から四半世紀、再び、その連絡船に乗ることができた。
 とはいえ、メッシーナからヴィッラ・サン・ジョバンニの所要時間を見たら1時間半以上。
 実際に海の上にいるのは20分程度だから、あとは積み込み、積み出しの時間である。

--こりゃ付き合いきれん。

 どうにかならないものかと、妻と列車を降り、徒歩で船の乗り場に行ったところ……。

 なんと、20分おきにフェリーが出航しているではないか。
 おかげで、乗ってきた列車が、まだ積み込みの用意も終わっていないうちに、めでたく本土に戻ることができたのであった。
 ちなみに、この航路のフェリーは、どれも列車の積み込みが可能のようで、写真のように船倉にレールが取り付けられていた。

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2006-02-01

山岳都市の階段路地

 山岳都市のなかを通る道は、坂道だけではない。公道が階段となっていることも多いのだ。

ティリオーロの階段道路

 日本でも、青森の龍飛岬には階段の国道もあるし、尾道の市内は階段だらけではある。
 まあ、あんな階段の道が、そこらじゅうにあると思っていただきたい。

 最初のうちは、うっとうしいと思っていた階段路地(階段道路)だったが、階段になっていない急坂を走って昇り降りして理解できた。
 あまりの急坂になると、ひざががくがくしてたまらない。
 むしろ、階段になっていたほうが楽なことに気がついたのだ。
 そんな目で見ると、狭くて急な階段路地も、味わいがあるように見えてくる。

サン・ドナート・ディ・ニネーアの階段路地

 こんな町にいると、バリアフリーもユニバーサルデザインもあったものではない。
 むしろ、毎日こういう道を歩いていたら、足腰が鍛えられて丈夫になるかも。
 でも、体が本当に動かなくなったら、さすがに困るだろうなあ。

 そして、山岳都市の町中で写真を撮ると、どうしても縦位置になってしまうのであった。

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2006-01-30

山岳都市を走る車

 イタリアの山岳都市を巡っていて驚くのは、人がようやくすれ違うような狭い道--しかも歩いているだけで息が切れるような急坂を、車がずんずんと走っていくことである。

ニコーテラにて

 狭い道を通る技術といえば、日本のドライバーの技術もなかなかだと思うが、イタリアの旧市街に住む人も大変なものである。
 そんな様子を写真に撮ろうとしたのだが、実際に写っているのを見ると、まだまだ道幅に余裕のあるものばかり。
 そりゃそうだ。ほんとうに道幅ぎりぎりのときは、こちらもよけるのに精一杯で、写真を撮るどころではないからだ。

ティリオーロにて

 一番驚いたのは、今回の旅ではないが、数年前にマテーラに行ったときのこと。
 夜中に旧市街を歩いていたら、狭い道を、後ろからクラクションを鳴らしながら私たちを抜いていく車がある。

「ああ、さっきのレストランにいた人たちだ。それにしても、この道の先には階段しかないはずだけど……」
 同じ方向に歩いていったが、どこにも車の姿は見えない。
 まさか、車が階段を上って行ったのか!
 それとも、忽然と神隠しにあったのか!

 で、階段をよーく見ると……左右のタイヤが乗る幅だけ、コンクリートを盛って斜面になっているではないか。
 彼らはこうして、何十メートルも続く階段を、毎日器用に登っていくらしい。

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2006-01-28

時刻表が売り切れ!?

 レッジョ・カラーブリアに到着したのが11月18日深夜。
 翌日、さっそく鉄道の時刻表を買おうと、妻とともに駅の売店に向かった。
 ちなみにイタリアでは、時刻表は本屋には置かれていない。
 駅や街角にある雑誌売場か売店(キオスコ)でないと買えないのである。

メーリト・ポルト・サルヴォ駅

「時刻表ちょうだいな!」
「売り切れだよ!」
「え? なんで」
「12月11日にダイヤ改正があるから、そのときに新しいのが出るよ」

 出るよって、それまでに使う時刻表がほしいのに……。駅の案内所に行っても「12月11日まで待て」という。
 町中の売店で聞いても、「ダイヤ改正までない」という。
 私は一気に腰の力が抜けてしまった。

 気まぐれな旅がモットーの私である。時刻表がなくて、どうやって旅行をすればいいのか。
 鉄道にはあまり興味のない妻も、「ダイヤ改正まで、みんなどうするのかしらねえ」と不思議がっている。

 もっとも、これまで何度もイタリアには来たが、いまだかつて時刻表を持って旅行しているイタリア人は見たことがない。
 その代わり、大きな駅の案内所には、目的地までの列車と時刻を尋ねる人で、いつも行列ができているのだ。
 つまり、イタリア人は自分の目的地にまっすぐ着けば十分なのだろう。
 時刻表がないために、私がどれだけ心細い思いをしているのか、彼らには想像がつかないに違いない。

 さて、前にも書いたように、その日は思い立ってシチリアに渡り、タオルミーナに行った日である。
 念のため、シチリアの玄関口メッシーナの売店で尋ねたが、やはり同じ答えが返ってくるだけ。
 時刻表が手元にないもんだから、列車にも乗り遅れ、バスでタオルミーナに着いたのは午後のかなり遅くなってからであった。

タオルミーナ=ジャルディーニ駅

--こりゃ、先が思いやられるなあ、と思いながら、丘の上にあるタオルミーナの円形劇場を眺め、メインストリートを歩いていたときである。
 1軒のこぎれいな雑誌屋を見つけた。私の脳味噌は、一瞬のうちに次のことを考えた。
--この店ならば、古い時刻表が売れ残っているかもしれない。なぜならば、丘の下には駅があるため、時刻表の需要もあり、ほどほどの数を仕入れているからだ。かつ、この観光地では鉄道の利用者はそれほど多くないから、売れ行きはよくないはずである。

 案の定、2冊売れ残っていた。
「12月10日までの古いやつだけどいいのかい」
「はい、はい、はい」
 私は、胸のつかえと肩の荷が、同時に降りたような気がした。

「この店にはあると直感したんだよね」
 自慢げに私は妻に言った。
「よかったね。何軒も当たってみるもんだね」と彼女。
 喜んではくれたが、どうも私の直感の素晴らしさは認めてくれなかったようであった。

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2006-01-27

バールは最良の情報源

 イタリアに行くと、いつも1日に数回はバールに行くことになる。
 コーヒー(もちろんエスプレッソ)が飲みたいときはもちろん、トイレに入りたいとき、水を買いたいとき、バールはなくてはならない存在である。
 それに加えて、今回はホテル情報を仕入れるのに役立った。

レッジョ・カラーブリアのバール

 イタリアのガイドブックにすら載っていない町で泊まるには、やはり地元の情報は役に立つものである。
 周囲の人たちが、ああじゃない、こうじゃないと考えてくれるのは、なんともうれしいものだ。

 ところで、コーヒー(もちろんエスプレッソ)の値段は、やはり南のほうが安かった。
 去年、フィレンツェの市内では、1杯1ユーロなんていう店があった。
 席について飲むと倍以上になるので、へたをすると日本の喫茶店より高くなってしまう。

 だが、南はだいたいが60チェンテージミ(0.6ユーロ)。日本円で80円くらいか。
 これならば、情報提供料も含めて妥当な線……いやかなり割安か。

 それにしても、イタリアに行くと、どんな小さな町にも必ずバールがあるのには、いつもながら感心する。
 毎日毎日、来る日も来る日も、同じような顔ぶれの親父たちが、同じような時間に顔を合わせて、同じような話をしている(たぶん)んだろうなあ。

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2006-01-25

南イタリアの路線バス

 南イタリアのディープな旅を終えて、すでに1か月半。
 さすがにイタリアぼけも治ってきたところで、写真を中心にしてもう一度振り返ってみたい。

 メッシーナ市内

 路線バスの旅のいいところは、バスが市街の中心に分け入っていくということ。
 丘上都市が多い南イタリアでは、鉄道の駅はふもとに置かれていることが多く、列車の旅ではなかなか町の雰囲気を味わうことができないのだ。
 また、観光バスだと、途中の都市ではバイパスを通ることが多いために、旧市街に入ることがない……らしい。乗ったことがないからわからないけど。

 その点、路線バスは律儀に旧市街をめぐっていくので、それだけでも旅心が刺激されるというわけだ。
 気に入った町に目星をつけて、後日訪問するということもできる。
 一般車より視点が高いというのも大きなポイントだ。

 上の写真は、メッシーナからタオルミーナに向かったときの写真。
 メッシーナ市内の渋滞には辟易したが、ピエトロ・ジェルミ監督(「鉄道員」の監督・主演)に似た運転手の冷静な運転が心に残った。

 総じて南イタリアの路線バスの運転手は、味わいのある人が多い。
 なかには、終始、客や同僚としゃべりまくっていたり、対向車に悪態をついたり、あるいは急に歌を歌いだしたりという人も少なくない。

行く手にタオルミーナの山が見えてきた

 まあ、客と話すのはいいけど(「運転手に話しかけないで」というプレートが張ってはあるが……)、運転中に話相手の顔を見るのだけはやめてほしい。
 なるべく前方を見ながら話す努力はしているようだが、どうしてもたまには相手の顔を見ないと気が済まないらしい。
 山道でそれをやられると、最前列に座っている私は、ちょっぴりヒヤリとする。

 下の写真も同じバス。
 マルテンポ(天候不順)のため、激しい雨が降ったりやんだりしたが、最前列の大きな窓から見た風景は、それはそれでまた格別であった。

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2005-12-12

美しい南部の都会・コゼンツァの憂鬱

 3日の夜にコゼンツァ(Cosenza--コセンツァと発音する人も多い)に泊まるにはわけがあった。
 1週間ほど前から、この旅の日程上の重大な欠陥に気づいていたからだ--というほどおおげさなもんじゃないが……。
 それは、帰りの飛行機が日曜日発だということ。

 カラーブリア州のバスは、大手私鉄・カラーブリア鉄道のバス路線をはじめ、ほとんどが運休になってしまう(カラーブリア鉄道の鉄道線も休み)。
 イタリア国鉄(FS)の通っていないカストロヴィッラリでは、休日に出るローカルバスは2本だけである。近郊の病院行きのバスと、西海岸の鉄道駅であるSapri(サープリ)行きのみ。
 サープリ行きは朝6時40分発。いざとなれば、かなり大回りではあるが、そのバスと鉄道を乗り継いでラメーツィア・テルメ空港に昼過ぎまでに行き着くことはできる。でも、寝坊したらそれまでだ。

コゼンツァの旧市街にて

 というわけで、土曜日じゅうにカストロヴィッラリを"脱出"しようと決断したわけである。
 しかも、先日のハプニングのおかげで、幸か不幸かコゼンツァに立ち寄ることができた。そのバスターミナルで見たものは、空港行きの直通バス。
--空港行きのバスならば、いくらなんでも運行しているだろう。

 これが正解か不正解か、それは行ってみないとわからないのだが、まあなんとかなるだろう。いざとなれば、町はずれにはイタリア鉄道の駅もあるし。

 と、またもや前置きが長くなったが、カストロヴィッラリから高速道経由のバスで1時間あまり。コゼンツァはじつにしゃれた町である。
 北側に市街地が広がっているようで、そのあたりには現代的なデザインのビルが建ち並んでいる。店の飾りつけも今風で、とても南部の町とは思えない。
 まるで、ミラノかトリーノにいるような錯覚を覚える(……って、トリーノには行ったことがないけど)。
 やがて、規模も都市機能も、州都カタンザーロを越える日が来るのではないだろうか。

 町のある盆地の両側には、なだらかな山の上に無数の丘上都市。日が暮れてくると、その灯が星のようにきらめく。

 そんなシックで美しいコゼンツァなのだが、1つ懸念があった。このところ例の中国洋品店の増加が著しく、問題になりかけているというのである。
 もちろん、一般の中国人には罪はないのだが、彼らがここに定着し、仕事を得るにあたって、彼らを利用している中国マフィアが存在し、裏社会で暗躍しているのは周知の事実という。
 詳しくは別の機会に譲るが、中国マフィアに関連したトラブルもよくあるというので、地元の人は眉をひそめているらしい。

コゼンツァ旧市街のネコ

 驚くのはバスターミナルである。数十台がひっきりなしに行き来しているバスターミナルの周囲には、長方形のターミナルを取り囲むようにビルが建っている。
 そして、その1階はみな商店となっているのだが、全部で数十件はあろうという店のうち、4分の1ほどは中国洋品店なのである。

 中華料理店でも、中国茶専門店でもなく、カンフー道場でもなく、徹底して似たような洋品店が並んでいる。軒先に赤い提灯がいくつも下がり、看板には中国語とイタリア語の表示があるというのもそっくり。
 正直言って、これにはかなりの違和感がある。バスのイタリア人乗客も何やら話のタネにしていたようだった。

 そんな先入観があったからか、私に対するコゼンツァの人の視線が、どことなくほかの町と違うように感じられたのは否めない。
 小心者の私は、肩にかけたカメラをことさら目立つ位置に出し、日本人観光客であることを強調したのであった。

 とはいえ、バスターミナルのインフォメーションにいた、現役のバス会社の社員と見えるおじさんは限りなく愛想がよく親切だった。
「あしたの空港行き? あるよ。お昼ごろならば、12時40分、その前は9時40分。いつも40分に出るんだ。覚えやすいだろう。ワッハッハ」
 そう言って、時刻を紙に書いてくれた。
「発車するのは、すぐここ。1番ホームだよ」
 もっとも、バスターミナルのどこにも、時刻表どころか行き先案内板すら1枚もないほうが問題である。これでインフォメーションが親切でなかったら浮かばれない。
 とはいえ、愛想がよくて悪いことはない。私は彼の親切に甘えて、お勧めのホテルまで教えてもらった。

 夜の散歩に出ると、土曜日とあって中心部はとんでもない人出。歩行者天国となっている広々とした道を2往復ぐらいして、安いトラットリーアで食事をした私である。

日曜日の旧市街

 翌朝は、12時40分のバスの出発まで、しつこく町歩きをした。
 町の南方にある旧市街は、教会や劇場などの風格ある立派な建物と、いかにも南部らしい古くさい住まいが、狭い路地の両側に密集した地域であった。
 日の当たらない場所は、かなり湿っぽく、住環境はお世辞にもいいとはいえない。新市街との格差はかなりある。

--イタリア人と中国人、新市街の住民と旧市街の住民の軋轢は、いつか表面化しないだろうか。こんな美しい都市が、そうした闘争の場となってほしくはない。
 がらにもなく、そんな感想を抱いた私であった。

 12時20分ごろにバスターミナルに着くと、きのうの喧騒がうそのような静けさだった。
 だだっ広い構内に停まっているのは、空港行きの1台のみ。あとは、市内バスが1台やってきただけである。これなら、乗り間違えようがない。

 コーヒーを飲みたかったが、構内のバールは閉まっているし、周辺のバールも軒並み休み。
 開いているのは10軒ほどある中国洋品店だけだった。人通りもないので客もいない。そんななかで、熱心にガラス戸を磨いている中国人店員の姿が印象的だった。

 バスの運転手は車内を清掃中である。私はぼんやりとベンチに座り、三々五々集まってくるイタリア人を観察するぐらいしか、やることがなかった。
 見上げると、きょうも真っ青な空。たまに通りすぎる雲を見ているうちに、これで旅が終わるんだなあという実感がようやくこみあげてきた。

【2005年11~12月南イタリア・カラーブリア州の旅(現地編)完】

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2005-12-10

モラーノ、サラチェーナ急ぎ足

 残された日数が残り少なくなると、心配をしなくてはならないのが空港にたどりつくまでの道のりである。
 ラメーツィア・テルメ空港の出発は4日の午後2時50分である。
 そこで、3日の夜は、空港からほど近い大都市であるコセンツァに泊まることに決定。夕方に出る最終の高速バスの時間まで、カストロヴィッラリ周辺の町をめぐることにした。

ホテルから見た青空

 候補はいくつかあったのだが、ホテルの窓に広がる真っ青な空を目にして、モラーノ・カラブロ(Morano calabro/以下モラーノ)再訪を決める。バスで十数分の距離である。
 昨年は妻と行った町なのだが、なにしろ初めてだったので(当たり前だが)勝手がわからず、いま一つ町全体のいい写真が撮れなかったのである。

 つまり、写真を撮るためだけに再訪をするというわけで、これはいささか私の旅哲学に反するのだが、まあ誰も文句を言う人はいないだろう--と思っていたら、その安易な姿勢を天に見透かされ、帰りのバスの停留所を間違えるという大失態をやらかしてしまった。
 まあ、1時間後に次のバスが来るので、大事に至らなかったのは幸いである。
 その分、ゆっくりコーヒーを飲んだり、モラーノの鉄道廃線跡などを探ったりできたので、これでよかったのである。

モラーノ・カラブロ遠景

 モラーノからカストロヴィッラリに戻ったのは午後1時過ぎ。貧乏性の私は、まだ別の町を探訪する時間があると判断した。
 そして、バスターミナルの時刻表とにらめっこすること数分。サラチェーナ(Saracena)を訪ねることにした。
 こちらは、カストロヴィッラリから約20分。前の日に訪ねたサン・ドナートへ行く途中にある町だ。

 ここも典型的な丘上都市だが、スケールはモラーノよりもかなり大きい。町の中央をバスが通る道がくねくねと横断し、その両側には4階建て、5階建てという高い建物が建ち並んでいる。
 そのため、道路にはあまり日が当たらず、家の壁の色が濃いこともあって、どこか暗い感じのする町である。

 旧市街は町の西側に位置しており、細い道が迷路のように連なっている。
 道は、あるときは急坂となり、あるときは家の下をトンネルで抜けて、網の目のように形作られている。

サラチェーナの旧市街

 詳しくはまだ調べていないのだが、イタリア語で「サラチェーナ」といえば「サラセン」の意味。つまり、この町の原形を作ったのは、かつてこのあたりを支配したアラブ人なのだろうか。
 それならば、このカスバのような町のつくりがよく理解できる。

 それにしても、こんな狭い地域に、モラーノのようにサラセンを撃退した町があるかと思うと、アラブ風のサラチェーナがあり、さらに昨年訪れたチヴィタ(Civita)やフラシネート(Frascineto)のようなアルバニア色の強い町もある。
 知れば知るほど興味深い地域だ。もっと、ゆっくり滞在して調べていくと、おもしろい話も聞けるに違いない。

 最後には、サラチェーナの町はずれまで下り、夕日を浴びる町の全景を撮った。バスがいつやって来てもいいように万全の注意を払いながら……。
 なにしろ、このバスを乗り過ごすと、今晩中にコセンツァにたどりつけないのだ。

 案の定、バスは定刻よりも5分以上早くやってきた。私は必死に手を振って運転手に合図をする。
 バス停ではない場所なのだが、田舎のバスだからどこでも停まってくれるのである。

サラチェーナ遠景

 バスの座席について、やっと一息。
--いやあ、今回の旅もこれでほぼ終わりだ。実にハードであった。いや、満足、満足。まだ、行きたい町はいくつもあるけどね。そろそろ寿司も食べたくなってきた。

 あとは、17時40分のバスでコセンツァに向かい、現地であすの空港行きの時刻を聞くだけである。
 あ、ホテルも探さなくちゃいけなかった。

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2005-12-09

ポリカストレッロからサン・ソスティへの道、そしてネコの受難

 サン・ドナート・ディ・ニネーアのふもとを通る帰りのバスまでは5時間もある。だが、町にはレストランなどなく、バールでさえ1軒見つけただけであった。
 これでは、時間をつぶせないというわけで、結局、山を下り、ポリカストレッロ(Policastrello)を経由して、サン・ソスティ(San Sosti)まで、バスの通る道15キロを歩くことに決めたのである。

ポリカストレッロの礼拝所

 先日のログーディ以来、歩くのが快感になり、いくらでも歩き続けられるような気分になってきた。マラソンのランナーズ・ハイというのも、こんなものであろうか。
 もっとも、この道は、ほとんどが下り坂だということがわかっていた。

 車は、たまに通るだけなので、それほど危険ではない。人には、まったくすれ違うことがなかった。もしかすると、夏のシーズンならば、物好きなイタリア人かドイツ人が歩いているかもしれないが。

 ポリカストレッロは、サン・ドナートから数キロの地点にある町。町のてっぺんにはノルマンの城砦が残されている。

 この町の名前は、周囲のフィルモ、ルングロ、アックァフォルモーザなどと同じくアルバニア語に由来しているらしく、アルバニア系の文化が色濃く残っている……らしい。

 そんな目で見ると、町はずれの礼拝堂の外観も不思議であった。
 また、その前に3本の十字架が立っているのだが、中央の十字架には藁人形のキリストらしきものがかかっていた。ちょっと珍しい光景である。

 さて、事件が起きたのは、ポリカストレッロの町をあとにして、遠くにサン・ソスティの町が見えてきたころである。歩きはじめてから4時間ほどたっていた。

 私が眼下に広がる雄大な景色を楽しみながら歩いていると、視野の端に何か道を横切るものがあった。
 そして、その直後、「ボン」という音が耳に入ったのである。
 見ると、私がやってきた方向に、小さな赤いフィアットの車が猛スピードで走り去っていく。そして、音がしたあたりで、1匹のネコが道路上をのたうちまわっていた。

 外傷はないようだったが、やがて動きは小さくなっていった。見た目にもう助からないことがわかった。

--どうしよう。

ポリカストレッロの遠景

 そのまま放っておこうとも思ったが、道の真ん中でそのままにおいたら、次々と車に轢かれてしまうことだろう。それでは、いくらなんでもかわいそうだ。
 意を決して、ほとんど動かなくなったネコを拾い上げた。白にグレーの交じった色で、毛並みがいいので飼い猫かもしれない。当たり前だが、まだ温かかった。
 そこではじめてわかったのだが、道端には農家が1軒ある。そして、その家の前庭にはネコが3匹ほど、ちょこんと座ってこちらを眺めているのだ。

 このネコも、この家の飼い猫なのだろう。そっと敷地の入口近くに置いて、そのままサン・ソスティに向かって歩きだした私である。
 だが、どうもすっきりしない。20メートルほど歩いて引き返した。

 金属製の家のドアを叩いて、「ブォン・ジョルノ!」。これを2回繰り返したら、家の中から声がしてドアが開いた。
 出てきたのは、20歳前後と思われる、きゃしゃな感じで利発そうな女性であった。

「あ、あの、いま私の目の前で、お宅のネコちゃんが、道を横切ろうとして、ええと、ええと、そこ車がヒューと来てドンと……ええと」
 車に跳ねられるという単語を知らない私である。ジェスチャーを交えて必死に語った。
「ネコちゃんは死んでしまいました」

「あら!」
 びっくりした様子で言って、彼女は周囲を見回した。
「あ、ここにいるわ。この子がうちのネコなの」
 さっき、前庭にちょこんと座っていたうちの1匹であった。なぜか、ほかの2匹は、このときどこかにいなくなっていた。
「はあ、そうですか。お宅のネコちゃんだと思って」
 ほっとしたような、しかし割り切れないような気分ではある。

サン・ソスティへの道

「水を1杯いかが」
 よほど暑苦しそうにしていたのか、彼女はにっこり笑って水を勧めてくれた。
「いただきます」
 間髪を入れず、私は答えた。
 水を飲みながら、「いやあ、サン・ドナートからずっと歩いてきちゃって」などと、聞かれもしないことをしゃべり、「サン・ソスティの中心部まではどのくらいですか」と質問をする私。

「10分くらいでいけるわよ。もう1杯いかが」
「いえいえ、もう結構。ありがとうございます。それでは」
 まだ、ほかにも何かくれそうなことを言っていたが、よく聞き取れなかったので断った私である。

 ……これが、私の目の前で起きた「ひき逃げ事件」の一部始終である。

 家の前に置かれたネコの遺骸はそのままである。野良仕事から帰った家族は、さぞかしびっくりしたであろう。
 私としては、そのあたりに穴を掘って埋めてやり、念仏の1つでも唱えてやりたかったが、なにしろここは異教の地である。ここの人のやり方にまかせるしかない。

 さて、まもなくたどり着いたサン・ソスティは、レストランもあり、バールも何軒かあり、旧市街と新市街とがある比較的大きな町だった。
 そして、帰りのバスに乗り込み、私は「ほおっ」とため息をついて、一路カストロヴィッラリに向かう……はずであった。

 だが、神と仏は、私にさらに試練を与えたもうたのである。
「ネコちゃんにいいことをした」と浮かれている私に対する、大きな戒めであったに違いない。

 さまざまないきさつがあり、帰りのバスには乗りはぐれてしまったのだ。
 山間の小さな町で凍える私にもたらされたのは、南方数十キロにある大都市コセンツァに行くバスの便があるという情報。
--コセンツァに出れば、カストロヴィッラリ行きの都市間高速バスが夜まであるだろう。

 こうして、直線距離で30キロほどの帰り道を、わざわざ100キロ以上かけて帰って来たのである。
 この爆笑冒険旅行の顛末は、またいずれ機会があったらお伝えしたい。

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2005-12-07

異形の山岳都市・サン・ドナート・ディ・ニネーア

 ログーディに続く今回の旅のメインイベント第2弾は、ポッリーノ山地の南側にあるサン・ドナート・ディ・ニネーア(San Donato di Ninea/以下、サン・ドナート)である。

 写真を見てわかるように、丘上都市(山岳都市)のなかでも、かなり異形である。町自体が2段に分かれていて、上段の町(実はこちらが旧市街)は突き出した岩の上にあり、その先端にアッスンタ教会(Chiesa dell'Assunta)がある。

サン・ドナート・ディ・ニネーアの遠景

 この町には、ベースキャンプとしたカストロヴィッラリからは直通のバスが2本出ているが、どちらも朝サン・ドナートを出て夕方に帰るもの。これでは使えない。
 あと2本は、サン・ドナートのふもとを通るもので、カストロヴィッラリとアドリア海沿いのベルベデーレやディアマンテを結ぶバスだ。これは、昨年利用した路線である。
 実は昨年、その車内からこの町を見て、「次回はぜひここを訪れたい」と思ったわけだ。その異形さには、同乗していた妻も目を奪われていたほどである。

 この路線なら、カストロヴィッラリ発が朝1本と昼1本、帰りは朝着の便のほかに夕方に戻ってくる便がある。これならばOK……のはずなのだが、難点が3つあった。

 1つ目は、発車がなんと朝5時40分ということ。
 2つ目は、サン・ドナートの町に入らず、ふもとしか通らないということ。サン・ドナート・ディ・ニネーア入口(Bivio Sandonato di ninea)という停留所から、3キロ強の急坂(といっても車道ではあるが)を登らなくてはならないのだ。
 そして3つ目は、帰りのバスが夕方の3時ごろなので、どこかでたっぷりと時間をつぶさなくてはならないということだ。

 だが、当日(12月2日)の明け方の空を見て心は決まった。前日の雨もやみ、きれいな星空が見えたのである。

 まだ真っ暗なバスターミナルから乗車した客は、私を含めて3人、そのうち1人は防寒具をすっぽり全身にまとった男性、もう1人はバス会社の社員であった。
 バスは静まり返った町中を通り、町はずれで山道を登っていく。周囲の静寂のなかをバスは黙々と走っていく……と言いたいところだが、運転手と社員とがのべつ幕なしにしゃべっているのである。

サン・ドナート・ディ・ニネーアの町の路地

 このバスに限らず、本当にイタリアのバスの運転手はよくしゃべる。それはいいのだが、たまに会話相手の顔を見るのだけはやめてほしい。カーブの多い山道で脇見運転をされると、はらはらする。

 まあ、それはそれとして、同乗の社員は私に耳寄りの情報を教えてくれた。
「サン・ドナートに行くのか。あそこは美人が多いんで有名なんだぞ。フッフッフ」
 ふうん、異形の町と美女かあ--ますますサン・ドナートへの好奇心が高まる私であった。

 やがて夜が明けてきたが、その光景はこれまでに見たことのないものだった。薄暗い車窓には、青く沈んだカストロヴィッラリの盆地が広がり、街の明かりが点々と白い星のように輝いている。遠くには朝焼けの空をバックにしてなだらかな山並みが見える。
 その上には、まるで万葉雲のような雲が幾重にも広がり、上半分は青、下半分は朝焼けの日を受けて朱色に輝いているのだ。
 私はもう、車窓の光景から一瞬たりとも目を離すことができなかった。
 だが、もう1人の乗客は、防寒具をすっぽりかぶったまま、寒さに耐えているようであり、バス会社の社員と運転手は相変わらずおしゃべりに夢中だったようだ。

 バスは、フィルモ、ルングロ、アックワフォルモーザといったアルバニア系住民の多い町を過ぎ、7時過ぎにサン・ドナート・ディ・ニネーア入口にたどりついた。
 しかし、私にとっては、ここからが本番である。
 町の海抜は800メートル。このバス停から距離3.5キロ、標高差300メートル以上のくねくねした山道(ただし片側1車線の車道)を歩いて登らないと、町にたどりつけないのである。

 もうすっかり夜が明けて、通勤や野良仕事に向かうと思われる人の車、そして町に食料や牛乳を運搬する車、さらには森林警備隊(ここは国立公園内なのだ)などが、たまに行き来する。
 ただでさえ人が通りそうもない道に、こんな朝っぱらから、変な東洋人が歩いているんだから、当然のことながら車内の人間の注目の的になる。
 じっと見つめるだけの人、手を振って微笑んでくれる人はいいのだが、ときどきクラクションを鳴らすのがいる。ムッとして運転席を見ると、笑って手を振ってくるものだから、力が抜ける……。

アッスンタ教会

 こうして坂を登ること数十分、やっとのことでたどりついたサン・ドナートの町は、期待にたがわぬものだった。
 人口は2000人強だというが、山の斜面にはびっしりと多くの家が立て込んでいた。
 しかも、これまで見てきたどの丘上都市にも負けず、町のなかの道は斜面だらけ。イタリアの町には必ずある広場も、ここでは実に数が少なく、しかも狭い。
 逆にいえば、そんな町であっても、狭いとはいえ平らな広場を作ってしまうのだから、その執念たるや大変なものである。

 だが、広場が少ないというのは、なんだか落ち着かない。バールもほとんどないし、どこに行くかもわからない狭い道や階段だけが続いているのだ。
 とにかく、上を目指して歩くことにした。

「どこに行くの?」
 途中で二度も聞かれた。
 そう、観光地でもないところゆえ、カメラを持った東洋人なんて、どこから見ても不審者である。
「あ、あの、上にある教会に」
 こんなときはどう答えるべきか。私は、すでに対処を覚えていた。
「教会を見たいんでーす」「写真を撮っているんでーす」--この2つが模範解答である。そして、写真を撮る対象は、けっして汚い町並みではなくて、周囲の美しい風景であることを暗示しなくてはならない。

 こうして、私は幾多の艱難辛苦を乗り越え、ようやく岩の先端にあるアッスンタ教会にたどりついた。そこからの眺めといったら、これまでの苦労を一気に吹き飛ばすものであったと言っていいだろう。
 しばし、私はここで幸福感にひたっていた。だが、それも長くは続かない。

--さて、これからどうしよう?

 帰りのバスがやってくるまでは5時間以上あった。
 このあとに、大きな試練が立て続けにやってくるとは、教会の前でのんびりと日向ぼっこをしている私には思いもよらなかったのである。

(つづく)

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2005-12-05

雨のジェラーチェで出会った人びと

 30日は朝から雨。
 この日は、町めぐりよりも、2人(3人?)のイタリア人との素敵な出会いのほうが印象に残った日であった。

 一人は、ロークリのタクシーの運転手。
 年は70ちょっと前といったところ。学校の先生のような風貌で、ハンチング帽は必ずしも似合っていないが、いい男。外国人である私に、わかりやすく、しかもきれいな発音のイタリア語で話してくれた。
 彼のお世話になったのは、ロークリ17時30分発、ジェラーチェ行きの最終バスに乗り遅れたからである。

ロッチェッラ・イオーニカの町

 この日は、朝から濃い雲が垂れ込め、これまでのような「晴れ時々雨」「雨時々晴れ」といった陽性の雨とは違っていた。
 こんな日にジェラーチェに籠もっているのもつまらないと思い、昼前にバスで山を降り、ロークリのすぐ北にあるRoccella ionica(ロッチェッラ・イオーニカ)、Gioiosa ionica(ジョイオーザ・イオーニカ)を訪ねたのである。

 この地域の海岸沿いは、比較的大きな町が続いているために、列車もバスも朝夕はそれぞれ20分おきくらいに頻繁に運転している。だから、1本早い列車で帰っていればよかった。
 しかし、バスの発車の6分前にロークリに到着する列車に乗ったところ、なんと10分遅れ。いくらなんでも、接続待ちをしているだろうと期待していたら、暗くなった駅前には見慣れたマイクロバスの姿はなかったのである。
 このときの心細さをなんとたとえよう。

 茫然として、私は駅前のバールによろめき飛び込んだ。
「あ、あの、タクシーはどうやって呼べばよいのでございますか。ジェラーチェに行くバスに乗り遅れちゃって」
 バールのおねえさんが、すべてを察したように、メモを探して紙に電話番号を書き出そうとした、そのとき。
「あら、ここに運転手がいるわ」

 さっきから、店の中で親父軍団約10人がおしゃべりに余念がなかったが、その中の一人がさきほどの教育者風の運転手だったというわけだ。

「そうか、バスが待ってくれなかったのか。遅れるのはいい。でも、早く出るのはいけない」
 実に、含蓄のあるお言葉である。
「ほら、ジェラーチェの灯がきれいだろう。……オレはもう50年もタクシーの運転手をやっているんだよ」
「ここ、ロークリで?」
「そう」
「じゃあ、ずいぶんこの町も変わったでしょう」
 一呼吸置いて、「ああ、まるで変わった」と彼は答えた。

ジョイオーザ・イオーニカのネコ

 ジェラーチェまでの道はカーブが多く、夜だったためかずいぶん遠く感じられた。ヴィーボ・ヴァレンティアで乗ったタクシーが、下の駅から20ユーロだったので、それと同じくらいは請求されると覚悟していた。
 車のフロントドアにはタクシーの許可証らしきものが張ってあったが、田舎のタクシーのつねとしてメーターがついていないのである。

「いくら」
 すると、彼は両手を広げたあとで、指を1本立てた。
「は?」
「11ユーロだ。本当は12ユーロだけど、友だち価格だから。わかる?」
 道中、いかにカラーブリアの町巡りをしたのか、熱っぽく語ったのがよかったらしい。10ユーロそこそこなら、こんど大荷物を持って来たときは、彼の世話になろうと思った私であった。次に来たときも、まだまだタクシーの運転手をやっていてほしい。

 さて、印象に残ったもう1人は、ジェラーチェの頂上付近でパブをやっている若いお兄さん。
 上品で、親切、物静かで、ちょっとシャイなところは、日本でベルギービール屋の店主をやっている知人を思い出させた。
 そして、店自体も、イタリア南部にはまれな、ウィスキーや各国のビールを飲ませる、小さいけれどしゃれたパブなのである。

 実は、前日の昼にもここに来て、私は生ビールを飲んで軽食をとっていた。
 ここで飲んだ生ビールはイタリアで最高であった。同じ酸味でも、これまでの生ビールは酸化しきったひどい味だったが、ここの生ビールは、ビールそのもののほのかな酸味を感じさせてくれた。

パブの展望コーナー

 しかも、居心地がいい。レトロな木の内装で、日本人に受けそうな感じである。
 午前1時ごろまでやっていると前日に聞き及んでいたので、午後10時に来店。まずベルギービールのレフのキュベを注文。
 屋根裏部屋もどきの2階のテーブルに行くと、場違いな60ほどの恰幅のいい親父が鎮座してサッカーを見ていた。
「ここは気に入ったかい」
「ええ、とっても雰囲気がいいし、彼は親切だし……」

 すると、おじさんはうれしそうに言った。
「オレの息子なんだよ」
 さらにもう一言。
「あんた、きのう大きな荷物を抱えて、ホテルに行く道をオレに尋ねただろう」

 そう、田舎町に行くと日本人は目立つから、イタリア人は私のことをよく覚えている。だが、こちらにしては、あいさつされても、さっき会った人なのか、いま初めて会ったのかわらなくて、しばしば困るのだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。あとは、テレビのインテルミラノ-パルマ戦を見ながら、いろいろと話した。

 シーズン中はオープンしているという地下の小さなレストランも見せてくれた。
 ぜひ、ジェラーチェに行ったら、頂上の城砦前にあるパブに立ち寄っていただきたい。昼間も休まずにやっている。

 山の頂上の夜は、もう静まり返っていた。晩飯に赤ワインを500cc飲んでいた私は、さらに8%のベルギービールを飲んだ上、アイリッシュウィスキーを注文。
 クリスマスの飾りつけが濡れた道を照らすなか、千鳥足で4つ星ホテルに戻っていったのである。
 もちろん、当日も宿泊者は私一人であった。

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2005-12-04

山上の別世界・ジェラーチェ

 2泊した貸部屋に別れを告げ、29日はジェラーチェ(Gerace)を目指した。
 ジェラーチェは、イタリアでもかなり有名な観光地なので、行くべきかどうか悩んだが、ティリオーロを勧めてくれた昨年のカラーブリア鉄道の乗務員も、「ジェラーチェはいいぞ」と言っていたので、この意見に従うことにした。
 それに、有名な観光地といっても、よく考えれば日本じゃまったく無名な場所である。

ジェラーチェの遠景

 ジェラーチェに行くには、メーリトから列車で1時間のところにあるロークリ(Locri)で下車。そこから内陸に10キロほど行けばいい。
 ここにバス路線があることは、2日前のメーリト行き列車代行バスの車内で聞き及んでいた。我ながら、実に用意周到である。まあ、タクシーでもそれほどの金額は心配ない距離ではある。

 宿は、周辺の町めぐりも考えてロークリでの宿泊を予定していたが、ちょっと心配もあった。というのも、前の週のテレビニュースで、この町の「暴力反対デモ」を連日報道していたからだ。
 シチリアのマフィア、ナポリのカモッラに相当するカラーブリアの犯罪集団が、このあたりで事件を起こしているらしい。「ン」で始まる名前だったが、いまは失念してしまった。

 まあ、さすがに観光客には問題ないだろうという甘い考えのもと、さっそく駅近くの広々としたバールでコーヒーを注文。レジのおじさんに、いいホテルはないか尋ねた。
 メーリトでは電話回線がなくて失敗をしたので、こんどは「ホテル」の前に「いい」という形容詞をつけるのを忘れなかった。

「うーん、ないね。3キロ南側に行けばあるけど」
「3キロ!?」

 3キロ南というと、ギリシャ時代の遺跡「ロークリ・エピゼフィーリ」があるあたりか。いくらなんでも、公共交通機関利用者には不便である。
 ロークリはかなりの人口がありそうな町だが、観光客はみんなジェラーチェに直行するのだろうか。

ジェラーチェの入口

 茫然として駅に戻ると、なんとジェラーチェという行き先を記したミニバスが停まっているではないか。聞くと、10分後に発車するという。この悪運は生かすしかない。
 こうして、またもや「突然ジェラーチェ泊」ということになったのである。
 あとで調べたところによると、このバスは1日数往復しかないことがわかった。これも、ジェラーチェに泊まれという神と仏の思し召しであろう。

 ジェラーチェのある大きな丘は、海岸近くを行く列車やバスからも見える。確かに、このあたりには、車窓から丘上都市が次々に現れるのだが、そのなかでもジェラーチェは異彩を放っているのだ。
 まず、丘が白いこと。凝灰岩のたぐいなのだろうか、ほかの丘上都市では、山が緑に覆われているのだが、ここだけは岩肌がそのまま見える。
 しかも、白地に白っぽい家が立て込んでいるから、遠目には単なる岩山にしか見えないのも特徴だ。先日、バスの車内から見たときは、山頂にクレーンがかすかに見えたので、「あそこが例のジェラーチェ」かと、ようやくわかったしだいである。

 近くから見るジェラーチェは軍艦のようにも要塞のようにも見えた。丘上都市に来るたびに考えるのだが、よくこんなとこに町をつくろうと思ったものだ。しかも、いまも何千人という人が住んでいて、教会も商店もレストランもホテルもある大きな町なのである。

ジェラーチェの路地

 ここには4つ星のホテルが2、3軒、あとはB&Bがあるようだ。
 迷わず4つ星のホテルにしてしまった。なにしろ、電話回線がほしい。そして、ここ2日節約した分をぜいたくに使いたい、そしてこのあたりで体をゆっくり休めたいと思ったからだ。

 結局、この日はジェラーチェの町めぐりで終わった。体を休めようと思った割には、ジェラーチェの全景を写そうと、かなり下まで歩いてしまったり、静まり返ったジェラーチェの路地という路地を歩きまわってしまった。
 それにしても、海岸近くのごちゃごちゃした町とは別世界である。

 時間はたっぷりあった。夏は観光客でごったがえしているそうだが、当日のホテルの客は私一人。町中でも、観光客はヨーロッパ人の若いカップルを見かけただけである。
 すがすがしい秋晴れのもと、私は路地でネコとたわむれるのであった。

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2005-12-03

悲しい廃墟・ログーディ

 歩きはじめて数分。ロッカフォルテの町はずれにくると、木々の間から、はるか眼下にログーディが見えてくる地点があった。
 その上の方には、ログーディ・コリーア(Roghudi Choria/現地ではゴリーアGhoriaと表記されていた)と呼ばれている町が見える。こちらには、ある程度まとまった人が住んでいるらしい。

対岸から見たログーディ

 直線距離にして1キロもないだろう。だが、急カーブを延々と降り、広々とした川原をΩを逆さまにした形で大きく回り込むので、6.5キロという道のりとなってしまうのである。
 道が大きく回り込んでいる理由は、反対側に出てわかった。岸、いや山肌が大きく削られているのである。この土砂が流れ込んだことが、ログーディの水害の原因の1つだったに違いない。

 行きと帰り合わせて約3時間ちょっと。結局、この区間で車とすれ違うことはなかった。あちこちで道が崩壊しているし、落石もある。晴れていてもぱらぱらと細かい石の落ちる音が聞こえるのだから、雨の日の通行は、車も人もやめたほうがいいかと思う。

 ログーディに通じる道は、もう1つ、ボーヴァ(Bova)を越えてくるものだが、これはかなりの山道らしく、車の運転に自信がある人向けのようだ。

 ログーディはもちろんのこと廃墟であった。だが、近くにある同じ廃墟の町ペンテダッティロ(Pentedattilo)とくらべると、放棄された時期が近いため、崩れた家の壁から見える煉瓦も新しい。なかには、家を作っている最中といっても通じそうなものもあった。
 町なかはどこも道が細く、人がすれ違うのもやっとだっただろう。細い道をたどっていくと、だんだんと高度が下がり、川に向かっていくような印象である。とはいえ、低いところでも水面から100メートルはありそうだ。冬期には増水するらしいが、どれほどの水害がやってきたものか。

 こうして、廃墟の町で一人しみじみと憂愁にひたっていたのだが、どこからともなく動物の臭いがしてきた。マトンの臭いだ。
 なんだろうと思っていたら、犬が3匹吠えかかってきたのでびっくり。よく見ると、空き地で羊が放牧されているいのだ。3匹の犬は、その牧羊犬であった。
 
ログーディへの道

 実は、来る途中、ログーディから200メートルほどの道の上に、小型のフィアットが3台停まっていたのを見た。
 それぞれの車には50代と見える男性が乗っているのだが、水を汲みにいった人以外は、何もない崖の上の道でぼんやりしているだけ。すれ違いざまに、あいさつはしたのだが、気になっていた。

 そして、ログーディから帰り道にも、まだ1台の車が停まっていた。何をしているのか不思議だったが、その男性の周囲にまとわりついている犬を見てわかった。さっき吠えかけた3匹の牧羊犬である。
 そう、彼らは羊飼いなのである。そういえば、あちこちの急斜面で、羊の首についた鈴のなる音がしていたっけ。羊飼いだって、いまどきは車で移動するのだ。
 そう思っていたら、谷に響くような口笛が、はるか斜面の上から聞こえてきた。

 帰りに、思い切って男性に尋ねてみた。
「この町が放棄されたのはいつなんですか」
「69年だよ」
「水害なんですよね」
「うん」
「川の水は、どのくらい高く……えーと、上がったんですか」
「ここは海抜500メートル以上あるんだけど、水面がそれを越えたんだ」
「この町が全部? 水の中に?」
 ただでさえ物静かなその男性は、とくに悲しげな表情をして、憂いを帯びた声で言った。
「そう、全部水につかったんだよ」
 この話には、さすがの私も一瞬声を失った。「マンマミーア」と2回、小さな声で合いの手を入れるしかなかった。
 もっと私のイタリア語の会話力があれば、そして体力が消耗していなければ、興味深い話が聞けたのにと思うと、いまさらながら残念である。

「この町が全部水につかるなんて……信じられない! えーと、64年でしたっけ」
「69年だよ」
「あ、失礼」

ログーディの近景

 一瞬の間をおいて、私は続けた。
「あの、もう1つ質問があるんですが」
「どうぞ」
「このあたりは、まだギリシャ語が話されているって本当ですか?」
 すると、それまで固かった彼の表情が、ほんの少しやわらいだように見えた。
「そう、古代ギリシャ語だよ。ちょうど、この村で話されているんだ。あんたは何か知ってる?」
「ギリシャ語? いやあ……うん、1つだけ知ってますよ。現代ギリシャ語だけど、『カリメーラ』。ブォン・ジョルノですよね」
「そうそう」
 そのあとで説明があったのだが、ちょっとわからなかった。カリメロスだったか、ち