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2005年12月の9件の記事

2005-12-12

美しい南部の都会・コゼンツァの憂鬱

 3日の夜にコゼンツァ(Cosenza--コセンツァと発音する人も多い)に泊まるにはわけがあった。
 1週間ほど前から、この旅の日程上の重大な欠陥に気づいていたからだ--というほどおおげさなもんじゃないが……。
 それは、帰りの飛行機が日曜日発だということ。

 カラーブリア州のバスは、大手私鉄・カラーブリア鉄道のバス路線をはじめ、ほとんどが運休になってしまう(カラーブリア鉄道の鉄道線も休み)。
 イタリア国鉄(FS)の通っていないカストロヴィッラリでは、休日に出るローカルバスは2本だけである。近郊の病院行きのバスと、西海岸の鉄道駅であるSapri(サープリ)行きのみ。
 サープリ行きは朝6時40分発。いざとなれば、かなり大回りではあるが、そのバスと鉄道を乗り継いでラメーツィア・テルメ空港に昼過ぎまでに行き着くことはできる。でも、寝坊したらそれまでだ。

コゼンツァの旧市街にて

 というわけで、土曜日じゅうにカストロヴィッラリを"脱出"しようと決断したわけである。
 しかも、先日のハプニングのおかげで、幸か不幸かコゼンツァに立ち寄ることができた。そのバスターミナルで見たものは、空港行きの直通バス。
--空港行きのバスならば、いくらなんでも運行しているだろう。

 これが正解か不正解か、それは行ってみないとわからないのだが、まあなんとかなるだろう。いざとなれば、町はずれにはイタリア鉄道の駅もあるし。

 と、またもや前置きが長くなったが、カストロヴィッラリから高速道経由のバスで1時間あまり。コゼンツァはじつにしゃれた町である。
 北側に市街地が広がっているようで、そのあたりには現代的なデザインのビルが建ち並んでいる。店の飾りつけも今風で、とても南部の町とは思えない。
 まるで、ミラノかトリーノにいるような錯覚を覚える(……って、トリーノには行ったことがないけど)。
 やがて、規模も都市機能も、州都カタンザーロを越える日が来るのではないだろうか。

 町のある盆地の両側には、なだらかな山の上に無数の丘上都市。日が暮れてくると、その灯が星のようにきらめく。

 そんなシックで美しいコゼンツァなのだが、1つ懸念があった。このところ例の中国洋品店の増加が著しく、問題になりかけているというのである。
 もちろん、一般の中国人には罪はないのだが、彼らがここに定着し、仕事を得るにあたって、彼らを利用している中国マフィアが存在し、裏社会で暗躍しているのは周知の事実という。
 詳しくは別の機会に譲るが、中国マフィアに関連したトラブルもよくあるというので、地元の人は眉をひそめているらしい。

コゼンツァ旧市街のネコ

 驚くのはバスターミナルである。数十台がひっきりなしに行き来しているバスターミナルの周囲には、長方形のターミナルを取り囲むようにビルが建っている。
 そして、その1階はみな商店となっているのだが、全部で数十件はあろうという店のうち、4分の1ほどは中国洋品店なのである。

 中華料理店でも、中国茶専門店でもなく、カンフー道場でもなく、徹底して似たような洋品店が並んでいる。軒先に赤い提灯がいくつも下がり、看板には中国語とイタリア語の表示があるというのもそっくり。
 正直言って、これにはかなりの違和感がある。バスのイタリア人乗客も何やら話のタネにしていたようだった。

 そんな先入観があったからか、私に対するコゼンツァの人の視線が、どことなくほかの町と違うように感じられたのは否めない。
 小心者の私は、肩にかけたカメラをことさら目立つ位置に出し、日本人観光客であることを強調したのであった。

 とはいえ、バスターミナルのインフォメーションにいた、現役のバス会社の社員と見えるおじさんは限りなく愛想がよく親切だった。
「あしたの空港行き? あるよ。お昼ごろならば、12時40分、その前は9時40分。いつも40分に出るんだ。覚えやすいだろう。ワッハッハ」
 そう言って、時刻を紙に書いてくれた。
「発車するのは、すぐここ。1番ホームだよ」
 もっとも、バスターミナルのどこにも、時刻表どころか行き先案内板すら1枚もないほうが問題である。これでインフォメーションが親切でなかったら浮かばれない。
 とはいえ、愛想がよくて悪いことはない。私は彼の親切に甘えて、お勧めのホテルまで教えてもらった。

 夜の散歩に出ると、土曜日とあって中心部はとんでもない人出。歩行者天国となっている広々とした道を2往復ぐらいして、安いトラットリーアで食事をした私である。

日曜日の旧市街

 翌朝は、12時40分のバスの出発まで、しつこく町歩きをした。
 町の南方にある旧市街は、教会や劇場などの風格ある立派な建物と、いかにも南部らしい古くさい住まいが、狭い路地の両側に密集した地域であった。
 日の当たらない場所は、かなり湿っぽく、住環境はお世辞にもいいとはいえない。新市街との格差はかなりある。

--イタリア人と中国人、新市街の住民と旧市街の住民の軋轢は、いつか表面化しないだろうか。こんな美しい都市が、そうした闘争の場となってほしくはない。
 がらにもなく、そんな感想を抱いた私であった。

 12時20分ごろにバスターミナルに着くと、きのうの喧騒がうそのような静けさだった。
 だだっ広い構内に停まっているのは、空港行きの1台のみ。あとは、市内バスが1台やってきただけである。これなら、乗り間違えようがない。

 コーヒーを飲みたかったが、構内のバールは閉まっているし、周辺のバールも軒並み休み。
 開いているのは10軒ほどある中国洋品店だけだった。人通りもないので客もいない。そんななかで、熱心にガラス戸を磨いている中国人店員の姿が印象的だった。

 バスの運転手は車内を清掃中である。私はぼんやりとベンチに座り、三々五々集まってくるイタリア人を観察するぐらいしか、やることがなかった。
 見上げると、きょうも真っ青な空。たまに通りすぎる雲を見ているうちに、これで旅が終わるんだなあという実感がようやくこみあげてきた。

【2005年11~12月南イタリア・カラーブリア州の旅(現地編)完】

2005-12-10

モラーノ、サラチェーナ急ぎ足

 残された日数が残り少なくなると、心配をしなくてはならないのが空港にたどりつくまでの道のりである。
 ラメーツィア・テルメ空港の出発は4日の午後2時50分である。
 そこで、3日の夜は、空港からほど近い大都市であるコセンツァに泊まることに決定。夕方に出る最終の高速バスの時間まで、カストロヴィッラリ周辺の町をめぐることにした。

ホテルから見た青空

 候補はいくつかあったのだが、ホテルの窓に広がる真っ青な空を目にして、モラーノ・カラブロ(Morano calabro/以下モラーノ)再訪を決める。バスで十数分の距離である。
 昨年は妻と行った町なのだが、なにしろ初めてだったので(当たり前だが)勝手がわからず、いま一つ町全体のいい写真が撮れなかったのである。

 つまり、写真を撮るためだけに再訪をするというわけで、これはいささか私の旅哲学に反するのだが、まあ誰も文句を言う人はいないだろう--と思っていたら、その安易な姿勢を天に見透かされ、帰りのバスの停留所を間違えるという大失態をやらかしてしまった。
 まあ、1時間後に次のバスが来るので、大事に至らなかったのは幸いである。
 その分、ゆっくりコーヒーを飲んだり、モラーノの鉄道廃線跡などを探ったりできたので、これでよかったのである。

モラーノ・カラブロ遠景

 モラーノからカストロヴィッラリに戻ったのは午後1時過ぎ。貧乏性の私は、まだ別の町を探訪する時間があると判断した。
 そして、バスターミナルの時刻表とにらめっこすること数分。サラチェーナ(Saracena)を訪ねることにした。
 こちらは、カストロヴィッラリから約20分。前の日に訪ねたサン・ドナートへ行く途中にある町だ。

 ここも典型的な丘上都市だが、スケールはモラーノよりもかなり大きい。町の中央をバスが通る道がくねくねと横断し、その両側には4階建て、5階建てという高い建物が建ち並んでいる。
 そのため、道路にはあまり日が当たらず、家の壁の色が濃いこともあって、どこか暗い感じのする町である。

 旧市街は町の西側に位置しており、細い道が迷路のように連なっている。
 道は、あるときは急坂となり、あるときは家の下をトンネルで抜けて、網の目のように形作られている。

サラチェーナの旧市街

 詳しくはまだ調べていないのだが、イタリア語で「サラチェーナ」といえば「サラセン」の意味。つまり、この町の原形を作ったのは、かつてこのあたりを支配したアラブ人なのだろうか。
 それならば、このカスバのような町のつくりがよく理解できる。

 それにしても、こんな狭い地域に、モラーノのようにサラセンを撃退した町があるかと思うと、アラブ風のサラチェーナがあり、さらに昨年訪れたチヴィタ(Civita)やフラシネート(Frascineto)のようなアルバニア色の強い町もある。
 知れば知るほど興味深い地域だ。もっと、ゆっくり滞在して調べていくと、おもしろい話も聞けるに違いない。

 最後には、サラチェーナの町はずれまで下り、夕日を浴びる町の全景を撮った。バスがいつやって来てもいいように万全の注意を払いながら……。
 なにしろ、このバスを乗り過ごすと、今晩中にコセンツァにたどりつけないのだ。

 案の定、バスは定刻よりも5分以上早くやってきた。私は必死に手を振って運転手に合図をする。
 バス停ではない場所なのだが、田舎のバスだからどこでも停まってくれるのである。

サラチェーナ遠景

 バスの座席について、やっと一息。
--いやあ、今回の旅もこれでほぼ終わりだ。実にハードであった。いや、満足、満足。まだ、行きたい町はいくつもあるけどね。そろそろ寿司も食べたくなってきた。

 あとは、17時40分のバスでコセンツァに向かい、現地であすの空港行きの時刻を聞くだけである。
 あ、ホテルも探さなくちゃいけなかった。

2005-12-09

ポリカストレッロからサン・ソスティへの道、そしてネコの受難

 サン・ドナート・ディ・ニネーアのふもとを通る帰りのバスまでは5時間もある。だが、町にはレストランなどなく、バールでさえ1軒見つけただけであった。
 これでは、時間をつぶせないというわけで、結局、山を下り、ポリカストレッロ(Policastrello)を経由して、サン・ソスティ(San Sosti)まで、バスの通る道15キロを歩くことに決めたのである。

ポリカストレッロの礼拝所

 先日のログーディ以来、歩くのが快感になり、いくらでも歩き続けられるような気分になってきた。マラソンのランナーズ・ハイというのも、こんなものであろうか。
 もっとも、この道は、ほとんどが下り坂だということがわかっていた。

 車は、たまに通るだけなので、それほど危険ではない。人には、まったくすれ違うことがなかった。もしかすると、夏のシーズンならば、物好きなイタリア人かドイツ人が歩いているかもしれないが。

 ポリカストレッロは、サン・ドナートから数キロの地点にある町。町のてっぺんにはノルマンの城砦が残されている。

 この町の名前は、周囲のフィルモ、ルングロ、アックァフォルモーザなどと同じくアルバニア語に由来しているらしく、アルバニア系の文化が色濃く残っている……らしい。

 そんな目で見ると、町はずれの礼拝堂の外観も不思議であった。
 また、その前に3本の十字架が立っているのだが、中央の十字架には藁人形のキリストらしきものがかかっていた。ちょっと珍しい光景である。

 さて、事件が起きたのは、ポリカストレッロの町をあとにして、遠くにサン・ソスティの町が見えてきたころである。歩きはじめてから4時間ほどたっていた。

 私が眼下に広がる雄大な景色を楽しみながら歩いていると、視野の端に何か道を横切るものがあった。
 そして、その直後、「ボン」という音が耳に入ったのである。
 見ると、私がやってきた方向に、小さな赤いフィアットの車が猛スピードで走り去っていく。そして、音がしたあたりで、1匹のネコが道路上をのたうちまわっていた。

 外傷はないようだったが、やがて動きは小さくなっていった。見た目にもう助からないことがわかった。

--どうしよう。

ポリカストレッロの遠景

 そのまま放っておこうとも思ったが、道の真ん中でそのままにおいたら、次々と車に轢かれてしまうことだろう。それでは、いくらなんでもかわいそうだ。
 意を決して、ほとんど動かなくなったネコを拾い上げた。白にグレーの交じった色で、毛並みがいいので飼い猫かもしれない。当たり前だが、まだ温かかった。
 そこではじめてわかったのだが、道端には農家が1軒ある。そして、その家の前庭にはネコが3匹ほど、ちょこんと座ってこちらを眺めているのだ。

 このネコも、この家の飼い猫なのだろう。そっと敷地の入口近くに置いて、そのままサン・ソスティに向かって歩きだした私である。
 だが、どうもすっきりしない。20メートルほど歩いて引き返した。

 金属製の家のドアを叩いて、「ブォン・ジョルノ!」。これを2回繰り返したら、家の中から声がしてドアが開いた。
 出てきたのは、20歳前後と思われる、きゃしゃな感じで利発そうな女性であった。

「あ、あの、いま私の目の前で、お宅のネコちゃんが、道を横切ろうとして、ええと、ええと、そこ車がヒューと来てドンと……ええと」
 車に跳ねられるという単語を知らない私である。ジェスチャーを交えて必死に語った。
「ネコちゃんは死んでしまいました」

「あら!」
 びっくりした様子で言って、彼女は周囲を見回した。
「あ、ここにいるわ。この子がうちのネコなの」
 さっき、前庭にちょこんと座っていたうちの1匹であった。なぜか、ほかの2匹は、このときどこかにいなくなっていた。
「はあ、そうですか。お宅のネコちゃんだと思って」
 ほっとしたような、しかし割り切れないような気分ではある。

サン・ソスティへの道

「水を1杯いかが」
 よほど暑苦しそうにしていたのか、彼女はにっこり笑って水を勧めてくれた。
「いただきます」
 間髪を入れず、私は答えた。
 水を飲みながら、「いやあ、サン・ドナートからずっと歩いてきちゃって」などと、聞かれもしないことをしゃべり、「サン・ソスティの中心部まではどのくらいですか」と質問をする私。

「10分くらいでいけるわよ。もう1杯いかが」
「いえいえ、もう結構。ありがとうございます。それでは」
 まだ、ほかにも何かくれそうなことを言っていたが、よく聞き取れなかったので断った私である。

 ……これが、私の目の前で起きた「ひき逃げ事件」の一部始終である。

 家の前に置かれたネコの遺骸はそのままである。野良仕事から帰った家族は、さぞかしびっくりしたであろう。
 私としては、そのあたりに穴を掘って埋めてやり、念仏の1つでも唱えてやりたかったが、なにしろここは異教の地である。ここの人のやり方にまかせるしかない。

 さて、まもなくたどり着いたサン・ソスティは、レストランもあり、バールも何軒かあり、旧市街と新市街とがある比較的大きな町だった。
 そして、帰りのバスに乗り込み、私は「ほおっ」とため息をついて、一路カストロヴィッラリに向かう……はずであった。

 だが、神と仏は、私にさらに試練を与えたもうたのである。
「ネコちゃんにいいことをした」と浮かれている私に対する、大きな戒めであったに違いない。

 さまざまないきさつがあり、帰りのバスには乗りはぐれてしまったのだ。
 山間の小さな町で凍える私にもたらされたのは、南方数十キロにある大都市コセンツァに行くバスの便があるという情報。
--コセンツァに出れば、カストロヴィッラリ行きの都市間高速バスが夜まであるだろう。

 こうして、直線距離で30キロほどの帰り道を、わざわざ100キロ以上かけて帰って来たのである。
 この爆笑冒険旅行の顛末は、またいずれ機会があったらお伝えしたい。

2005-12-07

異形の山岳都市・サン・ドナート・ディ・ニネーア

 ログーディに続く今回の旅のメインイベント第2弾は、ポッリーノ山地の南側にあるサン・ドナート・ディ・ニネーア(San Donato di Ninea/以下、サン・ドナート)である。

 写真を見てわかるように、丘上都市(山岳都市)のなかでも、かなり異形である。町自体が2段に分かれていて、上段の町(実はこちらが旧市街)は突き出した岩の上にあり、その先端にアッスンタ教会(Chiesa dell'Assunta)がある。

サン・ドナート・ディ・ニネーアの遠景

 この町には、ベースキャンプとしたカストロヴィッラリからは直通のバスが2本出ているが、どちらも朝サン・ドナートを出て夕方に帰るもの。これでは使えない。
 あと2本は、サン・ドナートのふもとを通るもので、カストロヴィッラリとアドリア海沿いのベルベデーレやディアマンテを結ぶバスだ。これは、昨年利用した路線である。
 実は昨年、その車内からこの町を見て、「次回はぜひここを訪れたい」と思ったわけだ。その異形さには、同乗していた妻も目を奪われていたほどである。

 この路線なら、カストロヴィッラリ発が朝1本と昼1本、帰りは朝着の便のほかに夕方に戻ってくる便がある。これならばOK……のはずなのだが、難点が3つあった。

 1つ目は、発車がなんと朝5時40分ということ。
 2つ目は、サン・ドナートの町に入らず、ふもとしか通らないということ。サン・ドナート・ディ・ニネーア入口(Bivio Sandonato di ninea)という停留所から、3キロ強の急坂(といっても車道ではあるが)を登らなくてはならないのだ。
 そして3つ目は、帰りのバスが夕方の3時ごろなので、どこかでたっぷりと時間をつぶさなくてはならないということだ。

 だが、当日(12月2日)の明け方の空を見て心は決まった。前日の雨もやみ、きれいな星空が見えたのである。

 まだ真っ暗なバスターミナルから乗車した客は、私を含めて3人、そのうち1人は防寒具をすっぽり全身にまとった男性、もう1人はバス会社の社員であった。
 バスは静まり返った町中を通り、町はずれで山道を登っていく。周囲の静寂のなかをバスは黙々と走っていく……と言いたいところだが、運転手と社員とがのべつ幕なしにしゃべっているのである。

サン・ドナート・ディ・ニネーアの町の路地

 このバスに限らず、本当にイタリアのバスの運転手はよくしゃべる。それはいいのだが、たまに会話相手の顔を見るのだけはやめてほしい。カーブの多い山道で脇見運転をされると、はらはらする。

 まあ、それはそれとして、同乗の社員は私に耳寄りの情報を教えてくれた。
「サン・ドナートに行くのか。あそこは美人が多いんで有名なんだぞ。フッフッフ」
 ふうん、異形の町と美女かあ--ますますサン・ドナートへの好奇心が高まる私であった。

 やがて夜が明けてきたが、その光景はこれまでに見たことのないものだった。薄暗い車窓には、青く沈んだカストロヴィッラリの盆地が広がり、街の明かりが点々と白い星のように輝いている。遠くには朝焼けの空をバックにしてなだらかな山並みが見える。
 その上には、まるで万葉雲のような雲が幾重にも広がり、上半分は青、下半分は朝焼けの日を受けて朱色に輝いているのだ。
 私はもう、車窓の光景から一瞬たりとも目を離すことができなかった。
 だが、もう1人の乗客は、防寒具をすっぽりかぶったまま、寒さに耐えているようであり、バス会社の社員と運転手は相変わらずおしゃべりに夢中だったようだ。

 バスは、フィルモ、ルングロ、アックワフォルモーザといったアルバニア系住民の多い町を過ぎ、7時過ぎにサン・ドナート・ディ・ニネーア入口にたどりついた。
 しかし、私にとっては、ここからが本番である。
 町の海抜は800メートル。このバス停から距離3.5キロ、標高差300メートル以上のくねくねした山道(ただし片側1車線の車道)を歩いて登らないと、町にたどりつけないのである。

 もうすっかり夜が明けて、通勤や野良仕事に向かうと思われる人の車、そして町に食料や牛乳を運搬する車、さらには森林警備隊(ここは国立公園内なのだ)などが、たまに行き来する。
 ただでさえ人が通りそうもない道に、こんな朝っぱらから、変な東洋人が歩いているんだから、当然のことながら車内の人間の注目の的になる。
 じっと見つめるだけの人、手を振って微笑んでくれる人はいいのだが、ときどきクラクションを鳴らすのがいる。ムッとして運転席を見ると、笑って手を振ってくるものだから、力が抜ける……。

アッスンタ教会

 こうして坂を登ること数十分、やっとのことでたどりついたサン・ドナートの町は、期待にたがわぬものだった。
 人口は2000人強だというが、山の斜面にはびっしりと多くの家が立て込んでいた。
 しかも、これまで見てきたどの丘上都市にも負けず、町のなかの道は斜面だらけ。イタリアの町には必ずある広場も、ここでは実に数が少なく、しかも狭い。
 逆にいえば、そんな町であっても、狭いとはいえ平らな広場を作ってしまうのだから、その執念たるや大変なものである。

 だが、広場が少ないというのは、なんだか落ち着かない。バールもほとんどないし、どこに行くかもわからない狭い道や階段だけが続いているのだ。
 とにかく、上を目指して歩くことにした。

「どこに行くの?」
 途中で二度も聞かれた。
 そう、観光地でもないところゆえ、カメラを持った東洋人なんて、どこから見ても不審者である。
「あ、あの、上にある教会に」
 こんなときはどう答えるべきか。私は、すでに対処を覚えていた。
「教会を見たいんでーす」「写真を撮っているんでーす」--この2つが模範解答である。そして、写真を撮る対象は、けっして汚い町並みではなくて、周囲の美しい風景であることを暗示しなくてはならない。

 こうして、私は幾多の艱難辛苦を乗り越え、ようやく岩の先端にあるアッスンタ教会にたどりついた。そこからの眺めといったら、これまでの苦労を一気に吹き飛ばすものであったと言っていいだろう。
 しばし、私はここで幸福感にひたっていた。だが、それも長くは続かない。

--さて、これからどうしよう?

 帰りのバスがやってくるまでは5時間以上あった。
 このあとに、大きな試練が立て続けにやってくるとは、教会の前でのんびりと日向ぼっこをしている私には思いもよらなかったのである。

(つづく)

2005-12-05

雨のジェラーチェで出会った人びと

 30日は朝から雨。
 この日は、町めぐりよりも、2人(3人?)のイタリア人との素敵な出会いのほうが印象に残った日であった。

 一人は、ロークリのタクシーの運転手。
 年は70ちょっと前といったところ。学校の先生のような風貌で、ハンチング帽は必ずしも似合っていないが、いい男。外国人である私に、わかりやすく、しかもきれいな発音のイタリア語で話してくれた。
 彼のお世話になったのは、ロークリ17時30分発、ジェラーチェ行きの最終バスに乗り遅れたからである。

ロッチェッラ・イオーニカの町

 この日は、朝から濃い雲が垂れ込め、これまでのような「晴れ時々雨」「雨時々晴れ」といった陽性の雨とは違っていた。
 こんな日にジェラーチェに籠もっているのもつまらないと思い、昼前にバスで山を降り、ロークリのすぐ北にあるRoccella ionica(ロッチェッラ・イオーニカ)、Gioiosa ionica(ジョイオーザ・イオーニカ)を訪ねたのである。

 この地域の海岸沿いは、比較的大きな町が続いているために、列車もバスも朝夕はそれぞれ20分おきくらいに頻繁に運転している。だから、1本早い列車で帰っていればよかった。
 しかし、バスの発車の6分前にロークリに到着する列車に乗ったところ、なんと10分遅れ。いくらなんでも、接続待ちをしているだろうと期待していたら、暗くなった駅前には見慣れたマイクロバスの姿はなかったのである。
 このときの心細さをなんとたとえよう。

 茫然として、私は駅前のバールによろめき飛び込んだ。
「あ、あの、タクシーはどうやって呼べばよいのでございますか。ジェラーチェに行くバスに乗り遅れちゃって」
 バールのおねえさんが、すべてを察したように、メモを探して紙に電話番号を書き出そうとした、そのとき。
「あら、ここに運転手がいるわ」

 さっきから、店の中で親父軍団約10人がおしゃべりに余念がなかったが、その中の一人がさきほどの教育者風の運転手だったというわけだ。

「そうか、バスが待ってくれなかったのか。遅れるのはいい。でも、早く出るのはいけない」
 実に、含蓄のあるお言葉である。
「ほら、ジェラーチェの灯がきれいだろう。……オレはもう50年もタクシーの運転手をやっているんだよ」
「ここ、ロークリで?」
「そう」
「じゃあ、ずいぶんこの町も変わったでしょう」
 一呼吸置いて、「ああ、まるで変わった」と彼は答えた。

ジョイオーザ・イオーニカのネコ

 ジェラーチェまでの道はカーブが多く、夜だったためかずいぶん遠く感じられた。ヴィーボ・ヴァレンティアで乗ったタクシーが、下の駅から20ユーロだったので、それと同じくらいは請求されると覚悟していた。
 車のフロントドアにはタクシーの許可証らしきものが張ってあったが、田舎のタクシーのつねとしてメーターがついていないのである。

「いくら」
 すると、彼は両手を広げたあとで、指を1本立てた。
「は?」
「11ユーロだ。本当は12ユーロだけど、友だち価格だから。わかる?」
 道中、いかにカラーブリアの町巡りをしたのか、熱っぽく語ったのがよかったらしい。10ユーロそこそこなら、こんど大荷物を持って来たときは、彼の世話になろうと思った私であった。次に来たときも、まだまだタクシーの運転手をやっていてほしい。

 さて、印象に残ったもう1人は、ジェラーチェの頂上付近でパブをやっている若いお兄さん。
 上品で、親切、物静かで、ちょっとシャイなところは、日本でベルギービール屋の店主をやっている知人を思い出させた。
 そして、店自体も、イタリア南部にはまれな、ウィスキーや各国のビールを飲ませる、小さいけれどしゃれたパブなのである。

 実は、前日の昼にもここに来て、私は生ビールを飲んで軽食をとっていた。
 ここで飲んだ生ビールはイタリアで最高であった。同じ酸味でも、これまでの生ビールは酸化しきったひどい味だったが、ここの生ビールは、ビールそのもののほのかな酸味を感じさせてくれた。

パブの展望コーナー

 しかも、居心地がいい。レトロな木の内装で、日本人に受けそうな感じである。
 午前1時ごろまでやっていると前日に聞き及んでいたので、午後10時に来店。まずベルギービールのレフのキュベを注文。
 屋根裏部屋もどきの2階のテーブルに行くと、場違いな60ほどの恰幅のいい親父が鎮座してサッカーを見ていた。
「ここは気に入ったかい」
「ええ、とっても雰囲気がいいし、彼は親切だし……」

 すると、おじさんはうれしそうに言った。
「オレの息子なんだよ」
 さらにもう一言。
「あんた、きのう大きな荷物を抱えて、ホテルに行く道をオレに尋ねただろう」

 そう、田舎町に行くと日本人は目立つから、イタリア人は私のことをよく覚えている。だが、こちらにしては、あいさつされても、さっき会った人なのか、いま初めて会ったのかわらなくて、しばしば困るのだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。あとは、テレビのインテルミラノ-パルマ戦を見ながら、いろいろと話した。

 シーズン中はオープンしているという地下の小さなレストランも見せてくれた。
 ぜひ、ジェラーチェに行ったら、頂上の城砦前にあるパブに立ち寄っていただきたい。昼間も休まずにやっている。

 山の頂上の夜は、もう静まり返っていた。晩飯に赤ワインを500cc飲んでいた私は、さらに8%のベルギービールを飲んだ上、アイリッシュウィスキーを注文。
 クリスマスの飾りつけが濡れた道を照らすなか、千鳥足で4つ星ホテルに戻っていったのである。
 もちろん、当日も宿泊者は私一人であった。

2005-12-04

山上の別世界・ジェラーチェ

 2泊した貸部屋に別れを告げ、29日はジェラーチェ(Gerace)を目指した。
 ジェラーチェは、イタリアでもかなり有名な観光地なので、行くべきかどうか悩んだが、ティリオーロを勧めてくれた昨年のカラーブリア鉄道の乗務員も、「ジェラーチェはいいぞ」と言っていたので、この意見に従うことにした。
 それに、有名な観光地といっても、よく考えれば日本じゃまったく無名な場所である。

ジェラーチェの遠景

 ジェラーチェに行くには、メーリトから列車で1時間のところにあるロークリ(Locri)で下車。そこから内陸に10キロほど行けばいい。
 ここにバス路線があることは、2日前のメーリト行き列車代行バスの車内で聞き及んでいた。我ながら、実に用意周到である。まあ、タクシーでもそれほどの金額は心配ない距離ではある。

 宿は、周辺の町めぐりも考えてロークリでの宿泊を予定していたが、ちょっと心配もあった。というのも、前の週のテレビニュースで、この町の「暴力反対デモ」を連日報道していたからだ。
 シチリアのマフィア、ナポリのカモッラに相当するカラーブリアの犯罪集団が、このあたりで事件を起こしているらしい。「ン」で始まる名前だったが、いまは失念してしまった。

 まあ、さすがに観光客には問題ないだろうという甘い考えのもと、さっそく駅近くの広々としたバールでコーヒーを注文。レジのおじさんに、いいホテルはないか尋ねた。
 メーリトでは電話回線がなくて失敗をしたので、こんどは「ホテル」の前に「いい」という形容詞をつけるのを忘れなかった。

「うーん、ないね。3キロ南側に行けばあるけど」
「3キロ!?」

 3キロ南というと、ギリシャ時代の遺跡「ロークリ・エピゼフィーリ」があるあたりか。いくらなんでも、公共交通機関利用者には不便である。
 ロークリはかなりの人口がありそうな町だが、観光客はみんなジェラーチェに直行するのだろうか。

ジェラーチェの入口

 茫然として駅に戻ると、なんとジェラーチェという行き先を記したミニバスが停まっているではないか。聞くと、10分後に発車するという。この悪運は生かすしかない。
 こうして、またもや「突然ジェラーチェ泊」ということになったのである。
 あとで調べたところによると、このバスは1日数往復しかないことがわかった。これも、ジェラーチェに泊まれという神と仏の思し召しであろう。

 ジェラーチェのある大きな丘は、海岸近くを行く列車やバスからも見える。確かに、このあたりには、車窓から丘上都市が次々に現れるのだが、そのなかでもジェラーチェは異彩を放っているのだ。
 まず、丘が白いこと。凝灰岩のたぐいなのだろうか、ほかの丘上都市では、山が緑に覆われているのだが、ここだけは岩肌がそのまま見える。
 しかも、白地に白っぽい家が立て込んでいるから、遠目には単なる岩山にしか見えないのも特徴だ。先日、バスの車内から見たときは、山頂にクレーンがかすかに見えたので、「あそこが例のジェラーチェ」かと、ようやくわかったしだいである。

 近くから見るジェラーチェは軍艦のようにも要塞のようにも見えた。丘上都市に来るたびに考えるのだが、よくこんなとこに町をつくろうと思ったものだ。しかも、いまも何千人という人が住んでいて、教会も商店もレストランもホテルもある大きな町なのである。

ジェラーチェの路地

 ここには4つ星のホテルが2、3軒、あとはB&Bがあるようだ。
 迷わず4つ星のホテルにしてしまった。なにしろ、電話回線がほしい。そして、ここ2日節約した分をぜいたくに使いたい、そしてこのあたりで体をゆっくり休めたいと思ったからだ。

 結局、この日はジェラーチェの町めぐりで終わった。体を休めようと思った割には、ジェラーチェの全景を写そうと、かなり下まで歩いてしまったり、静まり返ったジェラーチェの路地という路地を歩きまわってしまった。
 それにしても、海岸近くのごちゃごちゃした町とは別世界である。

 時間はたっぷりあった。夏は観光客でごったがえしているそうだが、当日のホテルの客は私一人。町中でも、観光客はヨーロッパ人の若いカップルを見かけただけである。
 すがすがしい秋晴れのもと、私は路地でネコとたわむれるのであった。

2005-12-03

悲しい廃墟・ログーディ

 歩きはじめて数分。ロッカフォルテの町はずれにくると、木々の間から、はるか眼下にログーディが見えてくる地点があった。
 その上の方には、ログーディ・コリーア(Roghudi Choria/現地ではゴリーアGhoriaと表記されていた)と呼ばれている町が見える。こちらには、ある程度まとまった人が住んでいるらしい。

対岸から見たログーディ

 直線距離にして1キロもないだろう。だが、急カーブを延々と降り、広々とした川原をΩを逆さまにした形で大きく回り込むので、6.5キロという道のりとなってしまうのである。
 道が大きく回り込んでいる理由は、反対側に出てわかった。岸、いや山肌が大きく削られているのである。この土砂が流れ込んだことが、ログーディの水害の原因の1つだったに違いない。

 行きと帰り合わせて約3時間ちょっと。結局、この区間で車とすれ違うことはなかった。あちこちで道が崩壊しているし、落石もある。晴れていてもぱらぱらと細かい石の落ちる音が聞こえるのだから、雨の日の通行は、車も人もやめたほうがいいかと思う。

 ログーディに通じる道は、もう1つ、ボーヴァ(Bova)を越えてくるものだが、これはかなりの山道らしく、車の運転に自信がある人向けのようだ。

 ログーディはもちろんのこと廃墟であった。だが、近くにある同じ廃墟の町ペンテダッティロ(Pentedattilo)とくらべると、放棄された時期が近いため、崩れた家の壁から見える煉瓦も新しい。なかには、家を作っている最中といっても通じそうなものもあった。
 町なかはどこも道が細く、人がすれ違うのもやっとだっただろう。細い道をたどっていくと、だんだんと高度が下がり、川に向かっていくような印象である。とはいえ、低いところでも水面から100メートルはありそうだ。冬期には増水するらしいが、どれほどの水害がやってきたものか。

 こうして、廃墟の町で一人しみじみと憂愁にひたっていたのだが、どこからともなく動物の臭いがしてきた。マトンの臭いだ。
 なんだろうと思っていたら、犬が3匹吠えかかってきたのでびっくり。よく見ると、空き地で羊が放牧されているいのだ。3匹の犬は、その牧羊犬であった。
 
ログーディへの道

 実は、来る途中、ログーディから200メートルほどの道の上に、小型のフィアットが3台停まっていたのを見た。
 それぞれの車には50代と見える男性が乗っているのだが、水を汲みにいった人以外は、何もない崖の上の道でぼんやりしているだけ。すれ違いざまに、あいさつはしたのだが、気になっていた。

 そして、ログーディから帰り道にも、まだ1台の車が停まっていた。何をしているのか不思議だったが、その男性の周囲にまとわりついている犬を見てわかった。さっき吠えかけた3匹の牧羊犬である。
 そう、彼らは羊飼いなのである。そういえば、あちこちの急斜面で、羊の首についた鈴のなる音がしていたっけ。羊飼いだって、いまどきは車で移動するのだ。
 そう思っていたら、谷に響くような口笛が、はるか斜面の上から聞こえてきた。

 帰りに、思い切って男性に尋ねてみた。
「この町が放棄されたのはいつなんですか」
「69年だよ」
「水害なんですよね」
「うん」
「川の水は、どのくらい高く……えーと、上がったんですか」
「ここは海抜500メートル以上あるんだけど、水面がそれを越えたんだ」
「この町が全部? 水の中に?」
 ただでさえ物静かなその男性は、とくに悲しげな表情をして、憂いを帯びた声で言った。
「そう、全部水につかったんだよ」
 この話には、さすがの私も一瞬声を失った。「マンマミーア」と2回、小さな声で合いの手を入れるしかなかった。
 もっと私のイタリア語の会話力があれば、そして体力が消耗していなければ、興味深い話が聞けたのにと思うと、いまさらながら残念である。

「この町が全部水につかるなんて……信じられない! えーと、64年でしたっけ」
「69年だよ」
「あ、失礼」

ログーディの近景

 一瞬の間をおいて、私は続けた。
「あの、もう1つ質問があるんですが」
「どうぞ」
「このあたりは、まだギリシャ語が話されているって本当ですか?」
 すると、それまで固かった彼の表情が、ほんの少しやわらいだように見えた。
「そう、古代ギリシャ語だよ。ちょうど、この村で話されているんだ。あんたは何か知ってる?」
「ギリシャ語? いやあ……うん、1つだけ知ってますよ。現代ギリシャ語だけど、『カリメーラ』。ブォン・ジョルノですよね」
「そうそう」
 そのあとで説明があったのだが、ちょっとわからなかった。カリメロスだったか、ちょっと形が違っているようにも聞こえた。

 こうなると、人が住んでいるログーディ・コリーアに行く時間がなかったのが残念である。激しい急斜面をいくら登っても町が見えないので、バスの時間が心配になって、途中で引き返してきたのである。
「ありがとう。ブォン・ジョルノ!」
 彼は、にっこりしてあいさつをかえしてくれた。
「ブォン・ジョルノ!」

 また、宿題ができてしまった。次に来ることがあれば、そのときまで古代ギリシャ語は話されているのだろうか。
 ちなみに、ロッカフォルテではすでにギリシャ語は話されていないとのことだった。

 帰りのバスは、メーリトに着くまでにほぼ満員となった。
 客は、ほとんどが知り合いらしく、客が乗ってくるたびにあいさつが交わされる。ミンモと呼ばれている運転手は、乗客全員にタブレットのガムを配ってくれた。
 途中、停留所も家もない山道で突然停車して、変だなあたと思ったら、小さな女の子がおしっこをするためだった。

2005-12-02

本格的な山岳都市・ロッカフォルテ・デル・グレーコ

 さて、28日は、この旅のメーンイベントといえるログーディ(Roghudi)行きである。
 ログーディの町が興味深い点は2つ。
 1つは、川の合流地点の崖上という特異な場所にあるという点。だが、不幸にも何十年前かの大水害によって、いまでは放棄されたと聞いている。
 もう1つの点は、この地域で古代ギリシャ語がいまでも日常会話で使われている点。何百年か前、オスマントルコの支配から逃れてきたギリシャ人たちが、カラーブリア南東部のこの地域の山の中に住みついたという。

車窓のサン・ロレンツォの町

 ログーディに行くには、レッジョからメーリト経由のバスでロッカフォルテ・デル・グレーコ(Roccaforte del greco--地元では「ロッカフォルテ」で通じる)に行き、地図によれば、そこから徒歩で片道6.5キロ、高低差にして400メートル以上を下っていくことになる。
 一応車道を歩くのではあるが、今回の旅にナップザックを持ってきたのは、ひとえにこのためであった。

 バスは朝7時35分に出るのだが、この時刻は通学のためのバスがひっきりなしに通過するので、どれに乗ればいいのか見分けるのが大変である。
 そこで、近くでバス待ちをしているおじさんおばさんに確認すると、そばにいた80歳近くと思えるおばさんが、「私も途中まで一緒に行くから安心しなさい」と言ってくれた。

「どこから来たの、へえ日本からねえ。ログーディにも行くんでしょう。ところで、どこに泊まっているの。え、バールがやっている貸部屋? 駅前通りの……ああ、あの色っぽい若い女の人がやっているところね」
 こう言ってにやりと笑う。
「でも、あの人は旦那さんがいるのよ」
 私はよくわからないが、人生の達人であるおばさんは、勝手に妄想をふくらませていたのかもしれない。
 もっとも、あの女性にバールの奥に連れていかれたときは、本当にどんな部屋があるのか、ちょっと心配ではあった。

山道から見えたエトナ山

 バスは15分ほど遅れてやってきた。私が運転手の後ろに席をとると、なんとおばさんがわざわざ私の隣に座ってくる。
 同乗の数人の人たちは、運転手を含めてみな知り合いらしく、「この人は、日本から写真を撮りにきたのよ」とかなんとか紹介してくれる。
 しかも、私が丘上都市や小さな町が好きだといったら、車窓に見える町を次々に教えてくれる。

 1時間ほどして、おばあさんの家があるサン・ロレンツォというとんでもない山の上にある町に着くと、「この広場は素敵でしょ。降りて写真を撮っていきなさい」
 こういって、バスの発車を待たせてくれた。

 カラーブリアのおばあさんにしては標準イタリア語の発音がきれいで、私にもかなりよくわかった。もっとも、内輪で話している言葉はまるでわからなかったが……。
 しまいには、握手を求めて降りていったというのは、いくらイタリア人でも、おばあさんとしては珍しい。カラーブリアの片隅にあって、もしかすると若いころから聡明で進歩的な女性だったのかもしれない……なんて思った私であった。

ロッカフォルテの町

 運転手もまた、若くてきざっぽい格好だけど愛想のいい人で、シチリアのエトナ山が見える場所でバスを停めてくれた。山道の真ん中で……。
 こうして1時間40分かけて、標高1000メートル近い山頂に広がるロッカフォルテに到着した。終点まで乗り続けたのは私一人であった。
 ちなみに、ロッカフォルテ・デル・グレーコという名前は、「ギリシャの強固な砦」といった感じか。
 それにしても、この山の上の町は、丘上都市というよりも、もはや山岳都市である。これを見ただけでも、来たかいがあるというものだ。

 感動にひたっていると、町なかの急坂の途中にある小さな別れ道でバスが停まった。
「この道をずっと降りていけば、ログーディに行く。道はガタガタだけど舗装はされているよ。じゃ、帰りのバスは2時45分だからね」

 こうして、私はログーディへの道を踏み出したのであった。
 空は雲一つない快晴である。

2005-12-01

偉大な田舎・メーリト

 天気予報とにらめっこして、結局、27日はイオニア海を南に向かうことにした。そこには、晴れていないと行けないような場所が山の中にあるのである。
 そこがどこかは次の話でわかるとして、目指すベースキャンプの地はメーリト・ポルト・サルヴォ(Melito Porto Salvo/以下メーリト)に決定。イタリア本土のほぼ最南端にあたる町である。

 日曜日ともあって、ソヴェラートからメーリトへの急行列車は、7時台の次が10時54分。しかも、それがバス代行になったため、当然のことながら遅れて到着。
 さらに、各駅前につけるものだから、中心部の狭い道を通るうちに、だんだんと遅れが増していくというしだい。
 運転手は違法(?)駐車に悪態をついたり、客と南北文化の違いについて語り合ったりしながら、午後2時近くにはメーリトに到着した。

メーリトの旧市街の上

 メーリトには、去年もバスと列車の乗り換えで立ち寄った。いかにも田舎臭くてパッとしない町だと思ったが、じっくり見てもやはりそうだった。そのうえ、駅前を歩いていっても、ホテルの看板はおろか広告さえなかった。
 しかたなく、荷物をもって地味な駅前通りを200メートルほど歩いてバールに入る。コーヒーを飲みながら、隣の物知りそうなおじさんに尋ねてみた。

「この近くにホテルはありますか?」
 ふだんなら「いいホテル」と言うのだが、今回は基準をゆるめてみたのである。
 すると、「このねえさんに聞け」と、カウンターの向こうにいる、30がらみの化粧がちょっとハデで、見ようによっては男好きのする女店主らしき人物を指した。
 あえて、女店主を避けておじさんに尋ねたのだが、こうなったらやむを得ない。同じ質問を彼女に繰り返した。すると……

「ここ」
「え? そう、この町で……」
「ここ!」
「そう、ここメーリトでホテルを探しているんですよ……」
「だから、ここがホテルなのよ!」
「へ?」

 まさか、バールの裏側で貸部屋業を営んでいるとは思わなかった。
 ちょっと薄暗いけど、清潔であるし湯もすぐに出てくる。ツイン用なので広さはある。しかも、清潔なトイレとシャワーもついていて、1泊25ユーロというので文句はいえないだろう。私は、ここに2泊することを宣言した。

--なんか、20代の旅行を思い出すなあ。フィレンツェで語学学校に行ったときも、こんな部屋だったっけ。

 だが、その直後、私は大きな失敗に気がついたのだった。

旧市街の壁画

 電話がないのである!
 どこかに電話線がないかと探したが見つからない。電気の差し込み口には、イタリアでは珍しく3股ソケットなんかが差し込んであるのだが、電話線はなかった。

--し、し、しまった。まだ、仕事が終わってなかったのに……。

 そう、イタリアまで持ち込んだ仕事を、月曜日までに終わらせるつもりだったのに、これでは送れない。もちろん、ブログの更新も、メールチェックもできない。

--しかたがない。仕事の締切りは、2日間延ばそう。

 勝手に決めた私であった。
 内心ビクビクであったが、そもそも、この締切りの日も自分で決めたものである。結局、怒られることはなかったから結果オーライ。

 さて、あとはお決まりのコースである。日が暮れる前に、旧市街をぶらぶらして写真を撮り、晩飯を求めて町をうろつくだけであった。
 例のねえさんは、「バールと部屋は独立しているから、鍵は自分で持って出かけてね」という。自分で鍵を持って出かけるのは、変な時間に出入りをしがちな私にとって自由な気分である。
 宿の出入り口は裏通りにあり、確かに「貸部屋」と書いてあった。

 晩飯は近くのピッツェリーアでとることにした。
 だが、どうも、注文を取りに来た女の子の出来がいま一つ不慣れらしく、店主らしいこれまた若い女性があとで確認にくる。
 それでも、食事は順調に進み、ここまで欠食気味だった私は、翌日の山歩きを念頭に入れて、カラーブリア風の前菜に、海の幸のパスタ、そしてステーキまで食べてしまった。

 そして、その直後の出来事である。一通り食事が終わってから、その不慣れな女の子がやってきた。
 そこで私はこう注文した。
「ディジェスティーヴォ(食後酒)をちょうだい」
「はい」と彼女は言って奥に戻っていった。
 食後酒の種類を聞かずに行ったのが、ちょっと妙ではあった。

海辺の教会

 それでも、地元の変わった酒でも出てくるのかと思って期待していると、出てきたものがコップの4分の1ほど入った透明の液体。シュワシュワと炭酸が発生していた。
--水に溶かして飲むイタリアの風邪薬みたいだなあ。

 そう思って試しに飲んでみると、ちょっと甘くてレモンのような味もする。しかし、どう考えても粉ジュースの味である。

「なんだ、これは。東洋人をバカにしているのか」

 私は一人憤慨して、その液体を少し残して店を出ることにした。
 ちなみに、私がものを残すのは、よほどのことである。
 会計のところでは、女店主らしき人が、「アマーロが何種類かあるけど、どれか選んでくださいな」と勧めてくれる。
「おや、ちゃんと食後酒があるじゃないか」と、アマーロの銘柄まではわからない私は、貧乏性を発揮し、瓶の形を見て一番高そうなものを注文したのであった。

 話はこれだけである。
 だが、私の心の底には疑問が残った。あの発泡した透明の液体は何だったのか。

 その夜、歯を磨いて顔を洗ったところで、ふと思いついた。
--あの子は、ディジェスティーヴォという単語を誤解したのではないか。そういえば、食後酒を表すディジェスティーヴォとは、「消化を助けるもの」という意味があるとイタリア語の先生が教えてくれたような記憶がある。
 すると、彼女が持ってきたものは、粉ジュースなんかではなくて、正真正銘の消化薬では……。

 この町に何時間かいるうちに、「メーリトは偉大な田舎だ」ということばが、私の頭をよぎった。大都会レッジョからバス・列車が20分おきに発着して、所要時間が1時間もかからないというのに、ここまで洗練されなさが発揮されているのは稀有である。

 そして、翌朝。たぶん消化薬のおかげで、すっきりと目覚めることができた。山歩きには最高の体調である。
 また教訓も得た。これからは、食後酒がほしいときは「アマーロをくれ」「グラッパがほしい」とはっきり言うべきであると心に決めた私であった。

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