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2005年11月の14件の記事

2005-11-30

正統派の丘上都市・ティリオーロ

 カタンザーロの北東10キロほどの山に位置するティリオーロ(Tiriolo)は、イタリアのガイドブックでも扱いの小さな町である。
 なぜ、そんな町に行こうと思ったかといえば、去年カタンザーロで私鉄カラーブリア鉄道に乗っていたときに、乗務員から勧められたからだ。
「なに、丘上都市が好きだって? じゃあ、この近くならティリオーロがいいよ」
 客席にいた3人の乗務員が口を揃えていうので、ぜひ訪ねてみようと思ったわけである。

ティリオーロの遠景

 さて、昼12時すぎのカタンザーロの中心にある広場は、何百人という中高生で大変な騒ぎとなっていた。学校が終わり、近郊の町や村に向かう列車やバスが出発するまで、友だちとおしゃべりに時間をつぶすのだ。
 そして、出発時間が近づくと、そんな生徒たちの半数以上がバスターミナルにやってくるのだから大変である。

 カラーブリア鉄道の駅前にあるバスターミナル--というよりは単なるバス置き場といっていい空間に、何十台かのバスがぎっしりと駐車している。
 それが12時から14時のあいだに次々と発車していく眺めは壮観である。そして、14時を過ぎると、うそのように静かになってターミナルが空っぽになってしまうのだ。

 さて、私の乗ったバスも、私以外はほとんどが中学生か高校生であった。私が列に並んだら、「ブォンジョルノ」とあいさつをしてくれる殊勝なやつもいた。
 バスに乗ると、最後部の席のあたりでは、歌を歌ったり叫んだりと、大騒ぎである。
 このあたりの事情は、日本と大違いである。イタリアでは、子どものうちは、バスでも電車でもやりたい放題。よほどでない限り、それをとがめる大人はいない。
 まあ、どちらがいいのかは、なんとも言えないところである。

 カタンザーロの郊外でバスが高速道路から降りると、あたりは一気に田舎の山の風景となる。だんだんと車内に空席が目立ちはじめ、14時をまわったころ、車窓にティリオーロの威容が飛び込んできた。
 確かに、地元の乗務員が勧めるわけである。それは、昨年訪れたモラーノ・カラブロの印象に近く、円錐上の山にびっしりと家が立て込んでいる--あえて言えば「正統派」の丘上都市であった。

ティリオーロの中腹あたり

「帰りのバスは何時?」
 終点に着くと、私は運転手に尋ねた。
「3時だよ」
「えっ? 3時!?」

 夕方にやってくる最終バスの折り返しがあるものとばかり思っていたから、これにはあせった。
 となると、与えられた時間は45分。その時間内で、この町の全景を撮り、頂上まで登って降りて来なくてはならない--「ならない」わけではないのだが、どうもそうしないと気が済まない。
 それともう1つ、イタリアでも日本でも、町訪問における私の決め事がある。それは訪れた町に、少しでも金を落とすこと。それができない場合は、トイレに入ってくることである。まあ、何か形を残しておこうというわけだ。

 というわけで、まずバス停前のバールに突入。
 昼時とあって、店内も店外もおじさんたちで賑わっていた。いきなり入ってきた東洋人に注目が集まるなか、コーヒー1つを頼んでから店の人に尋ねた。

「カタンザーロ行きのバスは何時に出るの?」
 私はものごとを慎重に進めるタイプなのである(ウソ)。15時以降にもどこかに行くバスがないか知りたかった。
 その辺にいた、人のよさそうな2、3人が「確か3時だよな」と言い合う。
「それが最後?」
「そう、最後」

 これではしかたがない。礼を言って早々にコーヒーを飲んで店を出た。
 まずは、500メートルほど歩いて、東側から遠景を撮影。道を歩くおばあさんが、「写真かい。きれいな町でしょ」と言って通りすぎていく。

 あとは、頂上まで汗だくになって登り、城砦跡を踏み分けて、丘上都市特有の急坂と階段を、ひざをがくがくさせながら必死に降りてきた。
 そして、こんどは西側から遠景を撮影しなければならない--もちろん「ならない」わけではないが。
 さっきのバールの前を、必死の形相をして早足で通過していく姿を見て、みんなはなんと思っただろうか。

ティリオーロの上から、下の町を見下ろす

 あとから西側に向かったのは、帰りのバスが通る道だからである。
 案の定、始発の場所に3時までにたどり着くことはできなかったが、やってきたバスに向かって手を挙げて止め、乗り込むことができた。これが、田舎のバスのいいところである。

 実は、この町は、トップの写真でもわかるように、東側にもう1つの山がある。ガイドブックによれば、ここの頂上には20分で登ることができ、眺めがいいという。だが、それも時間がなくて、泣く泣くあきらめなくてはならなかった。残念。

 とはいえ、この日も天気に恵まれたことを神と仏に感謝しなければならない。イタリア中部や北部は寒波と大雪で大変だというが、私はこうしてまた平和な1日を過ごすことができたのである。

 さて、翌日はカラーブリア州の北部にあるカストロヴィッラリを目指すか、それとも南部のメーリト・ポルト・サルヴォを目指すか、宿に戻ったらテレビの天気予報との相談が待っている。

カタンザーロの「本トンスオラヤ」

 なぜカタンザーロ(カタンツァーロ)に泊まろうと思ったか--結果的にソヴェラートに泊まることになったのだが--カタンザーロの北10キロほどの山の上にある丘上都市ティリオーロ(Tiriolo)に行こうとしたからだ。

 ティリオーロへのバスは、カタンザーロのバスターミナルから1日4便出ていることは知っていた。早朝1便、昼間2便、夕方1便である。だが、正確な時間がわからない。
 以前は、運行するカラーブリア鉄道のホームページに全路線の時刻表が出ていたのだが、ダイヤ改正となった以後は更新されずにアクセスできない状態なのである。

丘上の大都会カタンザーロ

 というわけで、何時に出るかわからないので、早めにソヴェラートを出てカタンザーロに向かうことにした。ソヴェラートの宿には2泊するので、もちろん大荷物は置いたままである。

 バスターミナルに着いたのは、午前10時半ごろ。時刻表を見ると、午後の第1便が13時30分とわかり、切符を買ってから町をぶらぶらすることにした。
 カタンザーロの町歩きは前回(去年)もたっぷりやったので、今回の最大の目標は前回乗り損ねたケーブルカーに乗ることである。町の観光地図を穴のあくほど見つめて、乗り場を捜し当てることができた。

 ケーブルカーは、山の下にあるイタリア鉄道(旧イタリア国鉄)のカタンザーロ駅から、山の上にある都心を結ぶためのものだ。
 真新しい設備のケーブルカーは、これまでのケーブルカーの常識をくつがえすものであった。2両の車両が中間地点ですれ違うところは、日本のほとんどのケーブルカーと同じなのだが、日本ならば上り下りとも仲良く横にずれてすれ違うところ。ここでは、片方の線路が直線で、もう片方が曲線という不思議なすれ違いかたをしていた。

 また、拙著『全国フシギ乗り物ツアー』で、「ケーブルカーで途中駅を作るときは、中間点から上下対称に作られなければならないと書いた。そうしないと、片方が駅に停まっているときに、もう片方が駅でもないところで待っていなければならないからだ。
 だが、まさにカタンザーロではそうなっていた。つまり、上りの車両が中間駅に停まっている間、下りの車両は中途半端なところで待たされるのである。

 とまあ、こうした趣味的な話はさておいて……。
 このケーブルカーで、もっと大きな発見があった。
 ガラガラのケーブルカーで、私の前で発車を待っていた青年である。サングラスをかけて、イマ風を気取った感じ。ジャンパーには、日の丸にJAPANの文字、そしてなぜかオリンピックの五輪が縫いつけられている。
 そこまではいいのだが、何よりも不思議なのが、背中に書かれた文字である。写真でわかるように、左から読むと「本トンスオラヤ」、右から読んでも「ヤラオスント本」……どう考えても意味がわからない。

「本トンスオラヤ」

 本当ならば、「おお、あたしゃ日本人なんだよ。いいジャンパーを着ているね」とでも声をかけたいところなのだが……。
 「これはどういう意味?」と聞かれたら困るよなあ。絶対に聞かれるに違いない。そのときにどう答えるべきか。「意味がない」「むちゃくちゃ」なんて言って、純情な青少年の心を傷つけてもいけないし。
 「これを着ている人はハンサムです」っていう意味だよってウソ言って、あとでバレてもいけないし。

 なんか、彼ももじもじしていて、私を気にしているようだったが、中国人か日本人かもわからないので、話しかけることができなかったのだろう。
 向かい合わせのケーブルカーの席で、なんとも気まずいひとときを過ごしたのであった。

 ちなみに、これはポーズをとってもらったような写真だが、そうではない。発車待ちでぶらぶらしているときに隠し撮ったものなのである。

2005-11-27

突然ソヴェラート泊

 セッラ・サン・ブルーノはさすが観光地である。ヴィーボ・ヴァレンティアなんかとは違って、私をきちんと観光客として扱ってくれた。これは、やっぱりうれしい。
 
 これまでの旅では、「吾輩を観光客扱いするなんて」と、まぎれもない観光客のくせに、偉そうに文句をいっていたのだが、今回はちょっと考えを変えさせられた。
 ちなみに、セッラ・サン・ブルーノでは団体のお参りでもあったのか、シーズンオフにしてはかなりの宿泊客があったことを付け加えておこう。

ソヴェラートの海岸

 さて、25日はゼネストのニュースを横目に見て、バスでカタンザーロ(カタンツァーロ/Catanzaro)に向かうはずだったが、またしても急遽予定を変更。その途上にあるイオニア海に面した町、ソヴェラート(Soverato)に宿泊することになった。

 そのいきさつを書きはじめると長くなるのだが、簡単にいうとこんなことである。
 セッラ・サン・ブルーノのホテルの甥と称する人間が、小切手の換金にカタンザーロに行くので、車に便乗しないかと言ってきたのである。
 まあ、バスは時間がかかるし、午前6時の次は午後1時半まで便がない。彼は友人の車を借りて行くということで、私もある程度の金(もちろんタクシーよりはずっと安い)を払うことで話がついたのである。
 だが、いざ途中まで乗ってみると、ガソリン代も出してほしいだの、車の調子が悪いから小切手を金に換えるまで整備代を建て替えてほしいだのと言い出す。私の頭には、15年ほど前に経験したタフなインド旅行がよみがえってきた。

 車が山道を抜けイオニア海沿いのソヴェラートの町に入ったとき、時間は午後1時半になっていた。
 車の調子が悪いので彼が整備屋に行き、私がレストランで昼食をとるということになった。だが、午後3時に迎えにくるという約束をすっぽかして、私はそばにいた女性警官に道を尋ね、15分ほど歩いて鉄道の駅に向かったのである。
「ガソリン代は、いまはダメ、あとで出す」と言ったきり。

 駅にたどりつくと、列車は出たばかり。バスの発車までも1時間以上あった。そこで、ふと思いなおして、「そうだ、この町で泊まろう」と思いついたのである。
 うさんくさい彼も、「カタンザーロじゃなくて、ソヴェラートのほうが泊まるのにずっといいのに」と言っていたし……。
 カタンザーロに泊まろうとしたのは、あくまでも近郊の町に行くためのベースキャンプとしてである。
 だが、あとで考えてみれば、大都会カタンザーロ(しかも、去年の経験から、かなりうっとうしい印象のある町)に泊まらずに、そこから列車で20~30分ほどのところにあるソヴェラートに泊まったのは正解であった。

ソヴェラート・スーペリオーレの教会

 そうと決まったら、まずは腹ごしらえである。駅のそばにあるバールに入り、テーブルに着席。
 そこは、年配のおじさんとおばさん、都合3人が元気よく立ち働いている店であった。食べ物も、パニーノだけでなく、うまいリゾットが用意されていた。
 で、例によって例の質問。
「この辺に、いいホテルはありますか?」

 店の客を巻き込んで、ああだこうだと議論の上、とりあえず中心の広場に行けばホテルがあるということになった。
 うまいリゾットを食べてコーヒーを飲んで帰ろうとすると、さっきから愛想よくしてくれる60代半ばと見えるおばちゃんが、小さな声で何か言う。
「え?」
「気をつけなよ。あそこにいる金髪の女には!」
「う、うん。わかった」
「それから、この店は日曜日も休みなしでやっているからね。これからもおいで」
「は、はい」と私。

 金を払って店を出ると、さっきから常連の1人のように会話に加わっていたその女--年は30代後半であろうか--もいっしょに店を出ようとする。
「行くところは決まった?」
 一見したところ、ごく普通の主婦に見えるのだが、私はおばちゃんの言いつけを守った。
 にっこり「ブォンジョルノ!」と言って、急ぎ足で歩きだしたのである。

ソヴェラートの教会

--いやあ、やっぱり大都市に近づいたら気をつけなくちゃね。それにしても、こんな年になって、なんでこんな冒険旅行(というほどたいした冒険じゃないけど)をしているんだろう……。

 一瞬、我と我が哲学を疑いそうになった私であった。
 中心部の広場まで歩いて約5分。ほどなく3つ星のホテルを探し当てた。1泊40ユーロ。カタンザーロの代わりのベースキャンプとして2泊することにした。

 海をちらりと望んだあと、山側に2キロほど歩いたところにあるソヴェラート・スーペリオーレ(上ソヴェラート)を往復したら、初冬の短い日はとっぷりと暮れていた。

「南のアッシージ」セッラ・サン・ブルーノ

 アドリア海とも当分お別れである。
 24日は、ヴィーボ・ヴァレンティアから1日に2本(帰りは1本)しかないバスで山の中にあるセッラ・サン・ブルーノ(Serra San Bruno)に向かうことにした。朝6時の始発はさすがにきついので、昼12時の"終バス"で行くことに決めた。

新市街の教会

 今回はハプニングはない……はずであった。だが、バスを待っているときに、マイクで広報活動をしている車が通りかかり、事態は一変した。
 前の日に見かけたときは、どこかの店の宣伝かと思って、内容を聞こうとはしなかった。だが、このときはバス待ちでヒマだから、聞き取りの練習をしてみたのである。すると……。
「あす25日は、政府の予算案に反対してゼネストを行います。みなさん、協力と支持をお願いします」

 ガーン!
 ただのストライキではなくゼネスト(ゼネラルストライキ)である。全ストは嫌いではないが、ゼネストとなると公共交通機関利用の旅行者にとって大問題である。
 思わず、近くでバスを待っていた中年と老年の女性に尋ねてしまった。

「すんません。あすはストライキがあるって本当ですか」
「そうよ。ゼネストなの」
「このバスも止まるんでございましょうか?」
「たぶんねえ。状況にもよると思うけど……」

教会が連続する空間

 絶望的な回答を受け、私は数秒ほど考えた。
 しかし、乗りかかった船、いや乗りかかったバスである。このチャンスを逃しては、いつ行けるかわからない町だ。ダメなら2泊すればいいだけのこと。イチかバチか挑戦してみることにした。

 と、前置きが長くなったが、セッラ・サン・ブルーノまでは所要約2時間。途中からは牛が草を食むのどかな田舎を通るかと思うと、目がくらむほどの山道をたどってバスは快走した。
 小さな町をていねいにまわっているうちに、乗客はだんだんと減っていく。終点が近づくと、運転手が私を含めて3人ほど残った乗客に尋ねた。

「終点から別のバスに乗り換える人はいますか?」
 みんな「ノー」と言ってから、私のほうを見る。20代前半と見える若い男が私に向かって行った。
「どこまで行くンすか?」
「セッラ・サン・ブルーノ」
「着いたらどうすンの? 仕事で来たの?」
「いや、旅行なんだ。まずホテルを探さなくちゃ」

 運転手を含めて、みんなキザったらしい格好をしているけど、純朴で親切なやつばかりである。日本人だというと、びっくりしていた。

旧市街の小さな広場

 学校帰りの何十人というガキが集結している小さな小さなバスターミナルに到着すると、運転手は翌日のカタンツァーロ行きのバスの時刻を教えてくれた。
「この会社はストはやらないよ」と笑いながら。

 そして、さっきの青年がホテルの場所を丁寧に教えてくれたおかげで、無事に私はセッラ・サン・ブルーノの、できたばかりのこぎれいなホテルに泊まることができたのである。

 この町の名前はもともとセッラだけだったらしい。サン・ブルーノは、町はずれにある修道院(Certosa/チェルトーザ)を建てたケルン生まれの聖ブルーノにちなんで付けられたという。彼は、のちに教皇ウルバーノ(ウルバン)2世となる。
 そして、小さな町には、いやというほど教会がある。こんなにあったら、教会間の競争が激しいのではないかと心配になるほどだ。

 そして、修道院は徒歩で20分ほどのところにあった。もちろん中は見られないが、付属の博物館を見学すると、中の様子を想像することができる。
 町のキャッチコピーを付けるとしたら、「南のアッシージ」かな。山に囲まれた静かな雰囲気は、もの静かな性格の私にぴったりである。

親父たちの晩餐

 夜になると冷たい雨が降ってきた。そんななか、夜8時過ぎの町を一周した結果、町のなかで営業しているレストランは、泊まったホテルに付属しているところだけということがわかった。晩飯はここで食べるしかない。
 レストランには、あちこちから親父だけの団体が三々五々集まってくる。ほかの町ではあまり見たことのない光景であった。
 遅くなってから、女性を含む若者のグループがやってきて、やっと華やいだ。

 そして、私はここで、メインとしてフンギ・ポルチーニのフライというものを食したのである。それはそれは、舌の上でとろけるような味であった。
 たらふく食って機嫌がよくなり、隣席の女性2人組をまねて、地元の伝統的なアマーロだという食後酒まで飲んだ私である。

 実は、宿代を聞くのを忘れていたので、翌朝の請求にはちょっぴりびくびくしていたが、広々とした新しい部屋の宿泊代プラスフルコースのウマい食事で45ユーロぽっきり! シーズン・オフとはいえビックリだ。ホテル・チェルトーザである。

2005-11-26

それでも行った丘上都市ニコーテラ

 で、いろいろとハプニングがあったものの、ピッツォからローカル線に乗って、当初の予定であったニコーテラ(Nicotera)まで行くことができた。
 せっかくだから、その画像もアップすることにしよう。

列車から見たニコーテラ

 それにしても、この写真を見てほしい。この町の姿を見ては、丘上都市ファンとしては行かずにいられまい。

 さて、ニコーテラにはピッツォから南に約1時間。トロペーアを越えて、午後3時半ごろ到着。
 標高は200メートル強とはいえ、恐ろしいほどの坂道を登って町の中心地に着いた。

 概して丘上都市というものは、昨年訪れたモラーノカラブロのような完璧な円錐状の町は別として、裏側は意外に平らになっている。
 そして、不思議なほどに普通の町が広がっているのである。

 まあ、ここもそんな町の1つであった。海側はなかなか見事な家が並んでいるのだが、山側は意外に平凡な町並みであった。
 とはいえ、それでもアドリア海に沈む美しい夕日を堪能することができたのは幸いである。

ニコーテラのジジたち

 帰りは、ここからどこかの大きな町にバスがあるかと思い、コーヒーを飲みつつバールで尋ねてみた。すると……
「バスがあるのは午前中だけだよ。ヴィーボ・ヴァレンティアに戻るなら、鉄道を使うしかないなあ」
 こう言って、パソコンで調べてくれるではないか。
 あなどり難しニコーテラ。バールの親父がパソコンを駆使しているのは、イタリアで初めて見た。

 もっとも、列車の時間は迫っていた。感激するヒマもなく、またもや恐ろしいほどの坂道を下り、約30分かけて駅に行かねばならなかったのである。
 これを書いているのは、その2日後なのであるが、まだ足の筋肉は痛いのであった。

海辺の崖上に広がるピッツォの町

 23日は、昼前からバスと列車を乗り継いで、トロペーアの南にあるニコーテラ(Nicotera)という丘上都市を訪ねる予定であった。
 が……ここで大小のハプニングが連続する。

 駅前に行くはずの市内バスがいつまでたっても来ず、駅から離れた(徒歩で約数分)停留所 にしか停まらないピッツォ(Pizzo)行きのバスに乗らざるを得なくなったのは許そう。イタリアではよくあることだから。
 停留所にいたおばさんに、「前もって切符を買っておいたほうがいい」と言われて買った切符が、実は別のバス会社のものだったので、車内で買い直さなくてはならなくなったのも許そう。おばさんも親切心で言ったのだし、せいぜい150円くらいだから。

ピッツォの町の遠景

 しかしである。「駅に近い停留所に来たら知らせる」と言っていた運転手が、それを忘れていたのを普通の人は許せるだろうか……。

 いやにバスは軽快に走っていたが、途中からどうも行き過ぎているような気がしていた。
 やがて、運転手が頭を抱えたのを見て、私はいやな予感がした。
 ややあって、広い道のところでバスが停車。運転手は私を呼んでこう言った。
「反対側に来る次のバスに乗れば駅前に行く」

 まあ、怒る気にもなれなかった。どうもハプニング慣れをしてしまって、「またか」と思っただけである。
 さすがにマズいと思ったのか、私が場所を間違えないように「道を渡って、そうそこだよ」と指示をする運転手。ちゃんと私が反対側のバス停に着いたのを確かめると、バスを発車させた。
 そのバスは目の前で広い道を左折し、狭い急坂を海に向かって降りて行った。
 道端には、その先にピッツォ(Pizzo)の町があることを示す標識が立っている。

ピッツォの広場

 その場所で5分ほど待ったがバスは来ない。まあ、どうせ時間はたっぷりある。夜までにヴィーボ・ヴァレンティアの宿に着けばいいのである。
 そこで、せっかくだからピッツォの町に行ってみようと思い立った。

 そして、バスが降りて行った道をたどり、急坂を数分降りたところで、突然、目の前に素晴らしい光景が飛び込んできたのである。
 真っ青な海に張り出した町の姿は、20年ほど前に訪ねたことのあるユーゴスラヴィア(現クロアチア)のドブロブニクをちょっと地味にした感じ。

 狭い車道を避けて階段を降りていくと、その両側にはこぎれいな家が並んでいるかと思うと、いきなり目の前に小さな教会が見えてくる。
 坂を降りきったところには長方形に近い広場があり、周囲にはバールや教会が建ち並んでいる。

,ピッツォの小さな漁港

 さらに降りるとこんどは旧市街が広がる。そこを降りきると小さな港。途中の道にはネコ。そして港から見上げると崖の上に広がる家並みが見える。
 こんなにフォトジェニックで素晴らしい町が、手持ちのイタリアのガイドブックでも意外なほど小さな扱いであった。

 観光客は、自転車でやってきたイタリア人らしきカップル。そして、切り売りのピッツァを同じ店で食べたドイツ人夫婦だけであった。たぶんトロペーアに泊まっていて、足を伸ばしてやってきたのだろう。
 確かに、のんびりするならトロペーアにいたほうがいいかもしれないが、多少の刺激を求めるならばピッツォに来たほうがいいだろう。

 ピッツォの南西側の海岸には砂浜があり、夏場はそれなりに人で賑わっているようだ。イタリア鉄道のローカル線(トロペーアのある路線)ピッツォ駅は、その南端にあった。

2005-11-25

ごく普通の変な町ヴィーボ・ヴァレンティア

 ラメーツィア・テルメ(Lamezia Terme)の空港は新しく、こぢんまりとしいるが、土産物屋もそれなりに充実していた。
 同じカラーブリアでも、田舎のバスターミナルのようなレッジョ・カラーブリアの空港とは大違いだ。どうりで、ミラノから飛行機で来たというと、誰もが「ラメーツィア・テルメから来たのか」と聞くわけである。

 

ヴィーボ・バレンティア

 

 日本に帰る妻を見送って、まずインフォメーションに行く。
 10分前まではカタンツァーロ(カタンザーロ)に行くつもりだったが、急に「せっかく時間があるのだから、ふだん行きにくいところから訪ねよう」と思いたったからである。
 急遽、山の上にある県庁所在地、ヴィーボ・ヴァレンティア(Vibo Valentia)に行き先を変えた私であった。ちなみに、綴りをそのまま読めばヴィーボ・ヴァレンティアだが、慣例的にヴィーボ・ヴァレンツィアと読むらしい。

 

「ヴィーボ・ヴァレンティアには直行のバスはないわね。列車でヴィーボ=ピッツォ駅まで行って、バスに乗り換えるといいわ」
 若く美しく、しかも愛想のいいインフォメーションの女性はそう言ってキーボードをたたき、すぐさま時刻を調べてくれた。
「特急があるけど、タクシーでラメーツィア・テルメ駅に行かなくちゃ間に合わないわ。でも、次の急行のほうがいいわね。ちょうど市内バスが14時40分に来るから、そこで切符を買って乗り場に向かって」

 

 いやあ、てきぱきとして実に気持ちがいい。
 帰りもタクシーで10ユーロを覚悟していたが、この若くて美して愛想のいい女性(しつこい)のおかげで、わずか0.77ユーロで駅までたどり着くことができたのである。
 これだけで、私の中でのラメーツィア・テルメの印象が大きなプラスになったのであった。

 

城砦から町を望む

 

 さて、前置きが長くなったが、日が傾いたころにたどり着いたヴィーボ・ヴァレンティアの町は海抜476メートル。
 日光のいろは坂のようなカーブをいやというほど登った末に、「よくこんなところに」というほどの大きな町が見えてきた。なんとも不思議な感じである。

 

 観光でこの町にやってくる人は、ほとんどいない。まず日本人は来ないだろう。
 観光客がいないからか、町の人も店の人もあまり愛想がない。
 仕事でやってきた中国人と思われているのだろう。そういえば、最近南イタリアで増殖中の中国人洋品店は、町中で何軒も見かけた。

 

 驚いたのは、これほどの規模の町なのに、トラットリーアもレストランもほとんどないことである。ほとんどバールばかり。ピッツェリーアさえ、死ぬほど探してようやく見つけたのであった。
 ピッツェリーアにいた派手なメークのおねえさんは、私に向かって「どの店で働いているの」と尋ねる。私が日本人で、旅行で来たといったら驚いていた。

 

 まあ、たまにはこんなごく普通の町を見るのもいい経験である。
 居心地がいいとは言えないところだが、周囲の町へのベースキャンプとするために、2泊せざるをえない。

 

雨雲が近づく

 

 こんな町ではあるが、それでもいいところ2つあった。
 1つは、町の一番高いところにある城砦から見る眺め。周囲の町はもちろん、海の向こうのストロンボリ島まで視界に入る。
 だが、ここにも観光客はほとんどいない。城跡は博物館になっているのだが、当日の入場者の記録を見ると、訪問者は私を含めて4人。そのうち2人は無料の入場者であった。

 

 さて、もう1つのいい点は、町なかのインフォメーションである。やはり、若くて美しくて愛想のいい女性がいて、バスの時刻を親切に教えてくれた。
 まあ、町の地図がモノクロのコピーしかなかったのは残念だったが……。
 教訓。
 町の印象なんて、インフォメーションの対応一つでがらりと変わるのである。

トロペーアの玉ねぎ

 22日は、トロペーアからラメーツィア・テルメ(Lamezia Terme)に向かう。
 テルメに行くといっても、温泉に入りに行くわけではない。ラメーツィア・テルメの空港から妻が日本に帰るのである。
 妻が先に帰るからといって、私を非難する人がいるが(たとえば私の母)、それは誤りである。ふだんからダイビングのために休暇をたっぷりと取っている妻が悪いのである。

旧市街の突き当たり

 さて、それはさておき、トロペーア駅発は昼12時過ぎ。ホテルに荷物を預けて、午前中の散歩をすることにした。
 ストロンボリが見える展望台には、朝10時前というのに、近所のおやじたちが三々五々集まってきて、なにやら議論をしている。
 きょうはドイツ人がいないなと思ったら、昼前になってミニバスでどっと展望台に乗り付けてきた。

 狭い旧市街を、ぶらぶらと歩いていると、土産物屋の店先にある玉ねぎ(Cipolla/チポッラ)が目に入った。
 トロペーア産の紫色をした玉ねぎといえばイタリアでも有名らしいが、私たちにとっては、きのうの食事が初体験。はじめて口にして、その甘みに驚いたばかりである。
 もっとも、ミックスサラダに入っていた玉ねぎは、妻に大半を奪われてしまったが……。

 そんないわくつきの玉ねぎだが、その店にあったのは小玉ねぎ(Cipollina/チポッリーナ)で、ニンニクのような形をしているのが珍しかった。
 私たちが写真を撮っていると、近くでおしゃべりをしていた歯っ欠けの70代半ばと思われる親父さんがやってきて、店先のオレンジをちぎって「食べろ」と勧めてくれる。
 まあ、客寄せのパターンなのだが、旅の最終日にあたる妻にとっては、土産物を買うにはいいきっかけであった。

 すでに前日の夕方には、カラーブリア版「養命酒」である「リクイリーツィア(Liquirizia)」と地元のグラッパ、ジャム、乾燥ポルチーニ、乾燥トマト、唐辛子のたっぷり入った調味料を買い込んでいた。
 そして、結局この店では、チーズその他(あまり詳しく書くと、税関の手前、問題がありそうなので省略---ただし、さすがに野菜や果物、生ものは買っていない)。

 狭い店のなかで、親父といっしょに応対してくれたのは、25歳くらいのハンサムな男。愛想もよくて、日本に来たらモテそうである。
「どこから来たの? へえー、日本か。大きい国だよね」
「は?」
 もしかして、「グランデ」という形容詞を、「大きい」ではなく「偉大な」という意味で使ったのかとも思い、私はどう答えていいか、一瞬躊躇してしまった。
--でも、「偉大な国だよね」とは言わないだろうなあ。

 と思っていたら、歯っ欠けの親父さんが助け船を出してくれた。
「大きいのは中国(チーナ)だ」

トロペーア産の小玉ねぎ
 
 ハンサムな彼は、単に中国と日本の区別がつかなかったのである。もっとも、それだけなら、よくある話だが……。
「日本はいま夏なのかい、冬なのかい」と尋ねる。
「もうすぐ冬だよ。日本の北は北イタリアと同じくらい寒いし、日本の南は南イタリアの気温と同じくらいだよ」
 彼は、日本とイタリアが同じ北半球にあるのを、初めて知ったのであろう。

 あとは、「ジャッポーネ、ジャッポーネ(日本、日本)」と節をつけて、つぶやいている。でも、そこから歌が進まないところを見ると、日本についての情報がそれ以上ないに違いないと私はにらんだ。

「かなり勉強をサポっていたね、あいつは」
「愛想だけはいいのにねえ」
「ハンサムだけど、観光客相手の商売は大丈夫かなあ」
「息子がそんなじゃ、まだまだ親父さんは店を任せられないわねえ」

 土産物を抱えて、私たちは小さな土産物屋の行く末を、勝手に心配していたのであった。

2005-11-23

「隠れたリゾート」トロペーア

 21日は朝食前に再びシッラの町を散歩することにした。旅先でも朝寝が好きな私たち2人にしては、異例のことである。
 一応観光地ではあるのだが、シーズンオフでもあり、東洋人も珍しいのだろう。すれ違う人はみなこちらを物珍しげに見る。
 でも、目が合ったときに「ブォン・ジョルノ」というと、いかつい顔をしたおじさんも、瞬く間に笑顔に変わって「ブォン・ジョルノ」と返してくれるのがうれしい。

海岸のイーゾラベッラ

 シッラを出発したのは、午前11時少し前。この日の目的地は、列車で1時間ほど北上したところにある西海岸のトロペーア(Tropea)。一部では隠れたリゾートとして知られている町である。
 日本からホテルを予約しようとしたのだが、出発直前になってシーズンオフで休みだという返事が来ていた。
「まあ、1軒ぐらいは開いているだろう。なにしろリゾートだもんね」

 途中からローカル線に乗り換えるのだが、この線は珍しく休日も平日も本数があまり変わらない。急行を含めて日に10本ほどが走る。

 駅を降りたとたんに、ちょっぴり拍子抜けした。「隠れたリゾート」にしては、あまりにも小さなローカル線の駅なのである。駅に売店があるが、駅前は1本道があるだけで、店はない。「TAXI」という標識はあるが、1台も止まっていなかった。
「いやいや、中心部に行けば、さぞかしエレガントな町が広がっているだろう」と私たちは励ましあい、重い荷物を抱えて「Centro(中心地)」という標識に従って歩いて行った。

 そして歩くこと約数分、ようやく家並みが見えてきた。さらに数分歩くと、旧市街らしき町並みに入った。だが、「隠れたリゾート」にしては、いかにも田舎臭い。
 メインストリートらしき狭い道を進んでも、目に入るのは安っぽい土産物屋とバールばかり。とうとう、荷物を抱えたまま町の端まで(といっても300メートルくらいだが)に達してしまった。

崖上にある旧市街

 しかし、そこは特等の展望台。切り立った崖の上にあるトロペーアの旧市街からは、アドリア海に浮かぶエオリア諸島が一望できる。
 実は、この町の西側には旧市街だけでも3か所の展望台があり、なかでも一番南のものには、地元のおじさんたちが入れ替わり立ち替わりやってきて、とりとめのない(と思われる)おしゃべりに時間をつぶしているという、人間観察には格好の場所である。

 結局、ホテルは旧市街のすぐ外に、こじんまりとしたものがやっと1軒見つかった。宿泊者はわれわれだけ。
 旧市街は、どこにでもありそうな南部の町である。これで崖下に広がる砂浜がなかったら、平凡な南部の町で終わっていたことだろう。
 あとでわかったことだが、「隠れたリゾート」を満喫するには、崖の下の海岸に面したところにある10軒あまりのホテル。あるいは、何キロか南にあるカーポ・ヴァティカーノにある豪華ホテル群(らしい)に泊まらなくてはならないことがわかった。
 もっとも崖下のホテルは、ほとんどが閉まっていたようだが……。

夕焼け

 旧市街は300×400メートル程度の小さな範囲で、1時間もあればすべて見ることができる。私たちも、1泊2日の滞在ですべての路地を歩いたほどだ。
 そして、ここの町のもう1つの特徴は、やたらにドイツが人が多いということ。
 レストランのメニューは、イタリア語とドイツ語の2か国語が書かれていた。日本語やフランス語はもちろん、英語も書かれていなかったのである!

 駅の売店で切符も売る美人のおねえさんは、私が切符を買うと「ダンケ・シェーン」と言う。
 一瞬おいて、私が「ビッテ」と言うと、笑いながら「ドイツ人が多いから混乱しちゃったわ」とイタリア語で言っていた。

2005-11-22

突然シッラ泊

 20日は、前日とうって変わっていい天気となり、レッジョ・カラーブリアのルンゴマーレ(海岸通り)から見えるシチリアも美しい。
 きょうは、30分ほど列車に乗ってシッラ(Scilla)の町に行ってから、レッジョに戻り国立博物館を見学。次の宿泊地トロペーアに向かう……はずであった。

 ところがである。日曜日は列車の本数が減ることは知っていたが、こんなに少なくなるとは予想していなかった。さすがに南部である。
 しかも、である。数少ない運転列車である11時30分発ローマ行き急行が運休になってしまった。途中までバス代行ということで乗客は大混乱である。

シッラの南側の町

 こうして、シッラから戻ってトロペーアに行くのは不可能とわかり--それどころか、まっすぐトロペーアに行っても夕方になってしまうこともわかり、突然宿泊地をシッラに変更することにしたのであった。

 シッラのホテルの情報はわからないが、去年も日帰りで訪れたので、ある程度勝手は知っている。まあ、この町なら妻も気に入るのではないかと思ったわけだ。

 シッラには砂浜もあり、夏は海水浴客で大賑わいするそうだが、11月ともあって人影もまばらである。駅から荷物を抱えて(妻はゴロゴロと転がして)海岸まで出たが、ホテルが見つからない。
 そこで、いつもの手を使った。現地の人らしき家族連れとすれ違ったときに、「この近くにいいホテルはありますか?」

 教えてもらったホテルは、2人で110ユーロと高めだったが、実に広々として清潔。しかも、風呂はジャクジー付きであった。

 シッラはこぢんまりとしたいい町である。そして、去年のブログにも書いたが、岬を境にして2つの顔を持っている。
 とくに岬の向こう側の町は、山の斜面にびっしりと家が建っており、海岸沿いの家は船でそのまま海に出られるようになっている。
 町には、細い道と階段が連続し、ヴェネツィアと山岳都市と尾道がいっしょになったようなところだ。
 その中心部には、細い道に面した小さなレストランがいくつも建ち並んでいる。

シッラの北側の町

 さて、我々が夕方の散歩中、町並みと海とネコの写真を撮るのに夢中になっていたときである。
 小さなバールから20歳くらいの男が顔を出して、英語であいさつをするではないか。話をすると、同年代の仲間とよくここに来るのだという。
 おもしろそうなので「入っていいか」と聞くと、「もちろん」という。
 小さな店のなかでは、若い男が3、4人コーヒーをのんでおしゃべりをしていた。店主も同世代の仲間らしい。

 我々が、マルティーニ・ロッソを注文して飲んでいる短い時間にも、若い男が入れ替わり立ち代わりやってくる。しかも、みんな、革のコートを着込んだり、ちょっとだけヘアースタイルが変わっていたり、難しそうな顔をしたりしている。
「ここは、この町のワルのたまり場なのね!」と妻がうれしそうに言う。
 確かに本人たちはちょっとワルぶっているのかもしれないが、大都会のそれとは違って、どことなく愛想があってみんなかわいい。
「日本人かい。オレは日本に行ったことはないけど、香港なら行ったよ」と賢そうな顔をしたやつが言う。
「へえー、君は中国語が話せるの?」と私が言ったら、店の中は大爆笑になってしまった。まじめに聞いたつもりなのに……。

 やがて、彼が店を出ようとしたとき、ちょっと思いついて質問してみた。
「この近くにおいしいレストランはある?」
「レストランならばいくらでもあるよ……あ、そうだ、友だちの家の店がいいよ」

 店の外に出た彼のあとを追うと、細い道には「ワル」が10数人も集まっているではないか。彼は、そのうちの1人を引っ張ってきた。
「こいつの店は洞窟になっているんだ。店は小さいけれど、海産物は最高だよ!」
 連れてこられたのは、濃いグレーのキザなロングコートを着込んだ愛想のない若者である。彼は「港の真ん前の店です」と静かにいいながら、店の名刺を手渡してくれた。

船を引き上げる

 その3時間後、我々が行ったそのレストランは内装も実に品がよく、それだけで料理に対する期待がふくらんだ。店先でにこやかに迎えてくれたのは、Tシャツを着た若い男。さっきの「ワル」にちょっと似ていたような気がした。

 テーブルにつくと私はカードを示し、「さっき、あなたの兄弟らしき人が紹介してくれたんですよ」と言った。
 すると、彼はさらに笑顔となり「ボクですよ!」

 妻はわかっていたらしい。「やっぱりワル仲間の間では、愛想のある笑顔なんてしていたらいけないのね」と新しい発見でもしたように喜んでいた。

 料理はすべて、シッラの港であがった海産物。
 前菜は、イワシ、太刀魚、シラス、ムール貝、小エビ、タコなどをさまざまに料理した盛り合わせ。プリーモは、ウニスパゲッティにエビのフジッリ。セコンドは、油が全然しつこくなくて素材が新鮮なミックスフライ。エビを頭から食べられたなんて、イタリアでは驚きである。

 それにしても、店のBGMがずっとルーチョ・バッティスティというのも、大変なこだわりようであると思われた。
 こうして、大満足のうちにシッラの夜は更けていったのである。

2005-11-21

突然シチリア行き

 18日は、定刻通り、23時10分にレッジョ・カラーブリア空港に到着。
 翌19日はぶらぶらとレッジョの市内を散歩して、あとは近くの町をまわるつもりであった。
 だが、夜中にタクシーでホテルに向かう途中で、私も妻も気が変わった。メッシーナ海峡のすぐ向こうに見えるシチリアの町の灯を見たとたん、日帰りでシチリアに行くことに決めたのである。
 妻はメッシーナに行って戻るくらいのつもりで提案したらしいが、「せっかくなら、タオルミーナにでも行ってこよう」と私が無茶なことを考えた。

メッシーナ港で釣りをする人びと

 というわけで、19日の9時半にレッジョの港から高速船で出発。35分でメッシーナに着いたのはいいが、船を降りてしばらくすると、その日の苦労を暗示するように、雨が本格的になり、一気に気温が下がってきた。
 レッジョでダウンジャケットを着込んだ人を見て、「寒がりだなあ」と笑っていたバチが当たったようである。

 さて、メッシーナでは、新しくできたトラム(路面電車)を目にして気分が高揚し、無理やり市内見物をしたのがいけなかった。
 乗るつもりだった列車に遅れてしまい、駅前から出るバスを使ったのだが、これが大失敗。メッシーナ市内での渋滞に巻き込まれて、タオルミーナに着いたのはもう午後2時半であった。

タオルミーナの虹

 実は、タオルミーナには25年前に来たことがあった。
 いや正確には、タオルミーナの「ふもと」まで列車で来たことがあった。だが、貧乏旅行で栄養が不足していたためか、頭がぼんやりしていた私は、山の上にある町に行かずに帰ってきてしまったのである。
「山の上にはきれいな町があるらしいけど、この海岸も十分にきれいだからいいか」なんて思ったのだ。
 その後、日本のガイドブックにタオルミーナの名前が取り上げられるようになる。私はその美しさを写真で見て、逃がしたチャンスの大きさに、ほぞとへそを噛むしかなかった。

 そんないきさつがあるためか、タオルミーナの町はいっそう美く見えた。でも、賑わいを見せる町を見るにつけ、「25年前に来ていたらどうだっただろうか」とも思わざるをえなかった。
 いつのまにか、私たちを待っていたかのように雨はやみ、円形劇場から見るエトナ山という、ガイドブックに必ず登場するお決まりの風景も満喫することができた。

 こうして、本来ならば、「予定が大幅にずれこんだものの、楽しい1日だった」と、この文を終えることができたはずだった。

タオルミーナの町

 ところがである。実は19日にはもう一か所、行こうとしていた場所があった。
 それは、レッジョの北、列車で約40分のところにあるバニャーラ・カラブラという町。この町にある小さなレストランが目的であった。
 夕食に間に合わせるために、タオルミーナを駆け足でまわり、急行列車に乗車。メッシーナ海峡を走って越え、冷たい雨のなか、かろうじて午後7時にバニャーラ・カラブラに着いたのである。

 小さな駅に着いたころはもう真っ暗。しかも、レストランの名前は知っているが、住所も何もわからない。
 しかたがないので、町の中心地らしき方向に向かう。その途中で、たまたま店先に出てきた50代なかばと思われるおじさんに遭遇。
「すんません。○○というレストランはご存じでしょうか」
 おじさんは、ふっと笑って答えてくれた。
「すぐそこだよ、2番目の道を右に曲がってすぐ」

 おお、さすがに食い物屋への執着の勝利か! と狂喜して、私たちは店の前に立った。
 ……しかし、店は休みだった。

2005-11-15

金沢・湯涌温泉

 立山カルデラを見学した夜は、金沢まで足を伸ばして宿泊。
 夕食は、妻を連れて、すでになじみになった野町の居酒屋、いや小料理屋のA。
 ママさんの笑顔が素晴らしい店である。
 だから、たとえビールがスーパードライでも許せてしまう。

湯涌温泉

 さて、明日はどうしようかと二人で話していると、いきなり妻がママさんに「近くにいい温泉はありますか」と質問する。
 ママさんは「すぐ近くだったら、湯涌(ゆわく)温泉がいいかしら。金沢の奥座敷って言われているわよ」とのお答え。これで、翌日のスケジュールが決まってしまった。

 翌22日は、上空に寒気が入り込んだとのことで、午前中から嵐の様相であった。1日前だったら、確実に立山カルデラ見学は中止になっていたであろう。
 しかたがないので、午前中は喫茶店に入りびたり、小降りになったところで骨董屋めぐり。
 午後になって、1時間に1本のバスで湯涌温泉に向かうことにした。

湯涌温泉

 市内中心部から約40分。着いたところは、山裾にあって静かではあるが、どことなく品位がただよう町。
 なるほど「奥座敷」という雰囲気たっぷりの温泉街であった。

 ぶらぶらと歩いていると、高級旅館でも日帰り入浴をやっていることがわかった。入浴料1000円である。
 だが、ここで貧乏根性が出て、300円の共同浴場に入ることにしてしまった。

 最近できたらしい共同浴場は、金沢市内から銭湯代わりにやってくる人が多いようだ。石鹸、シャンプーが備えつけでない(有料)ことを知っているようで、みな持参してくる。

 まあ、それなりに雰囲気はよかったのだが、湯にほんのりと塩素の臭いを感じるのはやむをえないところか。
「ケチらずに、高級旅館の日帰り入浴にすればよかった」
 貴重な教訓を得て、金沢駅に戻るバスに乗りこんだわれわれであった。 

2005-11-14

立山カルデラ砂防体験学習会

 10月21日、立山カルデラ砂防博物館が主催する「立山カルデラ砂防体験学習会」に参加した。
 これは、日本有数の大規模崩壊地である常願寺川上流----いわゆる「立山カルデラ」で、実際に砂防工事をしている現場を見学するというものである。

体験学習会専用列車

 一般の人間が立ち入れない区域に入り、自然の脅威を目の当たりにできるということ、そして工事用の専用軌道に乗れるというのが魅力の体験学習会だ。
 私と妻が抽選に当たり、本当ならば春に行くはずだったのだが、土砂崩れで延期。
 ようやく晩秋になって機会が得られたというわけだ。
 春の黒四ダム見学会に続く、立山黒部秘境めぐりである。

 参加者は約40人。立山駅近くにある博物館に集合して、いろいろな説明を受けたのち、いざ専用軌道に乗って出発進行である。

専用軌道の車窓

 専用軌道は、トロッコファンにとっては「立山砂防軌道」として知られているもの。
 軌間610ミリの工事用トロッコである。どうやら、これがお目当ての客も何人かいるようだ。
 実は、私は30年近く前に乗った経験があるのだが、そんなことはおくびにも出さず、素人っぽく振る舞った。もちろん、カメラはコンパクトサイズである。

 30年前にくらべて、軌道も施設もずいぶん整備されたという印象だ。工事の人のためにはもちろん、体験学習会の一般客が来るので、やはり安全には力を入れているらしい。
 がけっぷちを走っていたと記憶している区間のかなりの部分が、トンネルに変わっていたのもしかたがないか。

 それでも、18段のスイッチバックで、一気に高度を200メートルかせぐ樺平(かんばだいら)の雄大さは健在であった。

立山カルデラの中

 そして、終点水谷からは、いよいよ徒歩とバスとで、立山カルデラの内部に足を踏み入れる。
 予想を越える崩壊ぶりは、かなりの感動である。
 江戸時代の大地震、そして1969年の大水害で大崩壊した個所、さらにはいまでもときどき崩壊しているという個所が、もう至るところにある。

 この写真では、中央に小山が取り残されているが、1969年の崩壊の前は、その左右にもずっと同じ高さで壁のように尾根が続いていたのだとか。
 残った部分が崩壊しないように、土を固め、砂防ダムを作り、木を植えて、土砂が動かないようにしているという。
「これを放っておくと、土石流となって、富山市は壊滅的な被害を受けることになってしまいます」と聞き、自然保護といったことばを超越したその努力に、これまた心を動かされた。
 NHKの「プロジェクトX」は黒四ダムがお好きなようだったが、そのすぐそばに、こんないい題材があったのに。

 見学会は朝9時半から夕方17時ごろまで続き、立山温泉の跡も見ることができた。
 さすがに最後はぐったりしたが、実に有意義な一日であった。

2005-11-13

バリ島同時爆弾テロ、そのとき

 10月1日夜にバリ島で起きた同時爆弾テロ--2か月ぶりに再開するブログで、まずこの話題に触れなくてはならない。
 ブログの更新が止まっていたのは、ひとえに仕事が忙しかったからなのだが、その間にわが身辺ではこんな出来事もあったのだ。

 昨年12月、ダイビング好きの妻は、タイのカオラックであわや大津波に巻き込まれるところであった。その顛末は、ブログでも書いた通り。
 その妻が、こんどはマンボウを見に行ったバリ島で、あわや同時爆発テロに巻き込まれるところであった。

地元の寺院のお祭り

 ニュースでもご存じの通り、爆発は繁華街のクタ地区と海沿いのジンバラン地区でほぼ同時に起きたという。
 何よりも、不幸にも亡くなった日本人男性の方、数多くの現地の方、そして旅行中だった各国の方の冥福をお祈りしたい。

 前回は、私が津波を知る前に、旅行社から無事を知らせる電話があった。
 だが、今回は私が先にニュースでテロを知ることになる。だが、旅行社からはいっこうに連絡が入らない。
 そのうちに、妻の大津波仲間であるM嬢からメールが届いた。
「バリに行くって言ってたけど、いまさらクタになんか泊まっていないよね」と。
 私は、旅程表(今回はちゃんと置いていった)を確認して返事を出した。
「まさに、そのクタに泊まっているようで……」

 その日、私は仕事の締切りが迫っていたので(この2か月ほどは、締切りが迫っていない日はなかったのだが)徹夜仕事を余儀なくされていた。
 さすがの私も、かなり心配になり、原稿入力とネットのニュース巡回を繰り返しながら、夜明けを迎えることになる。
 一時は、日本人の女性が巻き込まれたという情報も入り、少しあせった。

ガムラン音楽の楽団
 
 朝になって床に入った直後、枕元に置いておいた電話の子機が鳴り、本人から無事を知らせる声が届いた。

「ほんとはさー、ダイビングショップのオーナーが、ジンバランにあるレストランに連れていってくれるはずだったんだけどね、『仕事が入ったから明日にしよう』っていうことになったんだ」

 まさしく、そこで爆弾が炸裂したのである。

「で、しょうがないからクタの町を友だちと歩いていてさー、『ああ、ここで何年前かにテロがあったんだよねー』って話をしていたわけ。でも、クタの町は大きいから、テロがあったなんてわからなかったよ。ホテルに帰ってきたら、旅行社の人から電話があって、『大丈夫ですか』って言うから、『何かあったんですか』と尋ねちゃった」

 ああ、天下泰平のわが妻である。
 こんど、いっしょに海外旅行するのが心配になってきた。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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