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2005年3月の5件の記事

2005-03-10

与勝半島で思う

 短いながらも、どっぷり沖縄につかったこの旅行も、いよいよ最終日。
 夜8時10分発の飛行機まで、精力的に動き回る……はずだった。
 だが、未明までの酒がたたって、ひどい二日酔い。
 11時のチェックアウトぎりぎりまで寝て、バスで与勝半島(与那城町、勝連町)に出かけることにした。

 それにしても、前日朝までは何十年に一度という寒さだったというのに、この暑さはなんだ。
 晴れたとたんに気温が上がってきた。乗ったバスにエアコン(もちろん冷房)が入っていたのには驚いた。

与那城町の中心部

 那覇からコザを通って与那城町の屋慶名(やげな)バスターミナルに達するバスは、経由地は何種類かあるものの、すべて合わせると5~10分おきに出ている。
 もっとも、日中のバスにはせいぜい数人しか乗っておらず、今回も最後の20分ほどは私が唯一の乗客であった。
 会社の経営状態がちょっと心配である。

 さて、与勝半島の北側にあたる与那城(よなしろ)町の中心部では、この写真のような狭い道を大型バスがすれ違っていく。
 古い家も道沿いに少し残っており、なかなかいい雰囲気だ。

 とはいえ、ここでも開いている店はなく、ひっそりとしているのが寂しい。
 営業しているのは、郵便局と銀行くらいだった。

 また、この町の北側には、珊瑚礁の上に“海中道路”と呼ばれる橋がかかり、平安座(へんざ)島、宮城島、伊計(いけ)島、浜比嘉島に通じている。
 橋のたもとまで出かけてみると、なかなか豪快な眺めである。
 全部の島を渡ってみたいが、車で行ってもかなりの距離になる。

 まあ、それでもミニバスが日に数本走っているというので、今度来たときに乗ってみよう。前日の夜は深酒をしないようにして……。

勝連城からの眺め

 与勝半島の南側は勝連(かつれん)町。
 ここにある勝連城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、首里城(石垣)や中城城、座喜味城などとともに世界遺産に登録されている。
 バス停の西原から徒歩5分。入場料は無料。
 高台に築かれた石垣を、下の道から見上げると、まるでスペインかフランスの城砦のようであった。

 ここまで来る観光客は少ないが、晴れていれば眺めは最高。
 北は遠くやんばるの山から、海中道路の先に並ぶ島々、南は泡瀬干潟、遠く中城城まで一望できる。
 一人で来てよし、二人で来てもまたよしの、お勧めスポットだ。

 ところで、一人満足感にひたりつつ町中に下りてきた私の目に、「勝連町役場閉庁式典」という文字が飛び込んできた。
 そう、具志川市、石川市、勝連町、与那城町は4月1日に合併。「うるま市」となるのである。

 それにしても、この市名は……。
 「うるま」とは、沖縄言葉で「珊瑚の島」といった意味ではないか。沖縄全体の雅名といってもいいだろう。
 それを使ってしまうとは、なんと大胆な。もっと、地域に密着した名前にしてほしかったなあ。
 それに、「うるま」を独占してしまったら、ほかの市や町の立場はどうなるんだろう。八重山諸島や宮古島の立場もね。

 と、そんなことを考えつつ、コザに戻るバスに乗り込んだ私である。
 そして、座席に座ったとたん、4日間のハードスケジュールの疲れがいっぺんに襲ってきた。
 エアコンが入っていない暖かい車内で、あっというまに居眠りをはじめてしまったらしい。

【2005年3月 沖縄本島路線バスと民謡酒場の旅・完】

2005-03-09

沖縄民謡ファン巡礼の地・コザ

 7日は名護からコザに移動。
 名護東線の路線バスの車窓から、ぼんやりと宜野座(ぎのざ)や金武(きん)の東海岸の景色を眺める。
 この日の町歩きは、途中に位置する石川、それからコザの南に位置する普天間。
 まず観光客が行かない場所である。行くとしたらせいぜい普天間宮くらいか。

 どちらも、町としてはさしたる特徴がなく、町歩きに興味のない人にとっては、なんともおもしろくないに違いない。
 だが、どんな町だって世の中に1つしかない。ぶらぶら歩いていれば、必ずそこにしかない何かを発見して、そこにしかない雰囲気が味わえるものだ。
 そして、それだけで幸福な気持ちになれるのだから、安上がりな趣味である。

石川市で見た店

 普天間宮は新しいピカピカの社殿ができていてびっくりした。
 そして普天間の町には、那覇以外の沖縄ではもう珍しくなってきた“商店街”がかろうじて健在である。
 どの町も、郊外型の店に客をとられて、中心部の商店街は人通りさえ少ない。シャッターが閉まったままの商店街は、実に寂しい限りだ。
 同じ現象は日本各地で進んでいるが、この沖縄でとくに顕著である。
 徹底したクルマ中心の社会ができているからだろう。いったい、この先どうなるのだろうか。

 もっとも普天間の場合、郊外型の店舗をつくろうにも、米軍基地に土地を召し上げられているために、思うようにいかないのかもしれない。
 普天間のある宜野湾市の地図を見れば、誰もがうなってしまうだろう。
 なにしろ、市の中央部を普天間飛行場がドンと占め、日本人の住む土地はそのへりにへばりついているかのようなのである。

 さて、普天間の町を歩いた後は、時間があまったので中城(なかぐすく)にも足を伸ばし、未訪問だった世界遺産・中城城と国指定重要文化財・中村家を訪問。
 上層農家だったという中村家の静謐な雰囲気には、いたく感動した。

コザの民謡酒場「姫」

 夜中には、コザ(どうも"沖縄市"と呼び名はしっくりこない)の民謡酒場に初挑戦。
 あえてコザに泊まったのも、これが目的なのである。沖縄民謡ファンにとって、コザは巡礼の地なのだ。

 なかでも著名な、「なんた浜」と「姫」をハシゴしようとしたところ、その安直な考えを天に見抜かれたか、「なんた浜」は定休日。
 結局、沖縄民謡界随一の美女と誉れの高い、我如古(がねこ)より子さんのいる「姫」に、0時から閉店の2時(沖縄の民謡酒場にしては早い!)まで居座ることとなった。

 入店したのは、ちょうど第1ステージが終わり、客の多くが帰還したところ。残ったのは、私を含めて4人。おかげで、私は店の人と濃い時間をもつこととなった。
 久志さんという男性歌手のおだてと、酒の勢いのままにステージに上がらされ、3曲も歌うハメになった。
 まあ、そうなってみれば、客が少なかったのが寂しいなあ。

 閉店後はその久志さんに誘われて、隣の居酒屋で飲み直し。
 ホテルに戻ったのは、もう3時半をまわったころであった。

2005-03-07

沖縄本島・北東部を路線バスでゆく

  名護には2泊するので、丸1日を有効に使って、簡単には行けない場所を巡ろうと決めた。
 金さえ出せばタクシーでどこにでも行けるが、それでは味気ない。
 やはり、路線バスの旅である。地元の雰囲気に触れられるのはもちろん、一般車より視点が高いので町並みや景色をよく見ることができる。
 だが、西海岸はそれなりに本数が出ているが、東海岸となると激減してしまう。
 それでも、この機会を逃すといつまた来られるかわからないので、チャレンジしてみることにした。

辺野古・フクギのある路地

 午前中に向かったのは、いまでは全国区の地名となってしまった辺野古(へのこ)である。
 ここ数日の動きによれば、沖合の米軍基地建設の可能性はやや減ったようだ。
 とはいえ、普天間飛行場の移転はまったなし。どうなることか。

 さて、辺野古の集落はというと、コンクリート製の新しい家にまじって昔ながらの平屋の家が点在するという、沖縄本島の田舎としては、ごくごく平凡なところであった。

 帰りのバスには時間があったので、豊原、久志と約3キロを散歩。
 久志も静かな集落であるのだが、歴史を感じさせる遺跡や建物が並んでいた。
 この道は、名護と那覇を結ぶバスの一部が経由するため、40~60分おきと、沿線の町の規模にしては、意外に頻繁に出ている。

 午後は、1日3本しかない東村(ひがしそん)に通じる路線(川田線)にチャレンジ。
 このバスは西海岸を塩屋まで北上し、そこから半島のくびれた部分を横切って、東海岸に向かう。
 直通バスにはまだ間があったので、まずは西海岸の辺土名行きに乗って塩屋入口で下車。
 ぶらぶらと塩屋を歩き回る。
 ここは、湾がぐっと入り込んだところに位置する、実に趣の深い集落である。

塩屋の集落

 さて、ここでバスに乗車したのが午後2時半ごろ。1本目のバスが朝6時台で、最終バスは夕方5時台なのである。

 休日ということもあり、予想通り乗客は私一人であった。
 つい最近まで、終点は魚泊だったが、いまでは高江というところまで延長されているとのこと。
 結局、終点まで乗って折り返すことにした。
「平日はねえ、定期客は2人。あとは、たまにおじいとおばあが乗るだけ」
 梅宮達夫を悪役にしたような運転手さんは、こう言って笑った。
 この数時間後、彼と私は、夜の名護に繰り出し、スナックでカラオケの沖縄民謡を歌うことになる。

 名護にそのまま戻るのも芸がないので、帰りは東村の中心地である平良(たいら)で降りることにした。
 ここで、これまた1日に3本しかこない別路線(名護東部線)に乗り換えて、東海岸沿いのルートで名護に帰ろうという算段であった。
 待ち合わせは3時間。だが、喫茶店もなく、食堂もすべて休みだった。

 しかも、最低気温が10度を下回るという何十年に1回という寒さ。そして強風。
 とうとう我慢できなくなり、進行方向に向かって慶佐次(げさし)というところまで、約4キロを歩いてしまった私であった。

2005-03-06

素顔の那覇

 那覇も何度目かの訪問となり、見どころは一通りまわっている。
 そこで、今回は一人で来たことでもあるし、ぶらぶらと町歩きをすることにした。

 といっても、行き先は、町なかにもかかわらず、ガイドブックにもまず載っていない、ごくごく普通の住宅地。
 実は、前回と前々回に、バスやタクシーの車窓から目星をつけておいたのだ。
 いわゆる下町風の店が軒を連ねる大通りがあるかと思うと、脇道に入ると古い家がぎっしりと建ち並んでいる地区。それは、那覇の南東部に位置する与儀から開南にかけての一帯である。

壺川の坂道

 さらに手元にある地図を参考にして、いかにも道が入り組んでいそうな壺川、楚辺あたりも加えることに決定。
 雨降りに強風だというのに、我ながらご苦労なことである。

 まずは、モノレールを壺川で降り、沖縄そばで腹ごしらえしてから、坂道をのぼる。
 とくに字壺川地区は古くからの区割りが残っているようで、意外なところに伸びる路地や、家々の間に突然姿を表す沖縄の大きな墓が印象的であった。

 楚辺、樋川から開南本通りにかけての様子は、昭和30年代の東京下町に生まれ育った私にとって、実に懐かしく感じられる風景である。
 さらに、きわめて怪しげな夜の町も現役で生き残っているようだった。

農連市場あたり

 開南交差点近くにある農連市場は、これまた見ものである。
 派手さや一般受けは牧志の公設市場に遠く及ばないが、たたずまいの素朴さとローカル度を考えると、少なくとも散歩の対象としては私はこちらに一票を入れたい。
 まるで台湾の市場に迷い込んだかと、頭が一瞬くらくらとなったほどである。

 こうして、2時間近くかけて歩いてきたら、いつのまにか公設市場に続く商店街に出て、やっと観光客の姿をちらほらと見かけるようになった。
 国際通りではうっとうしく感じる観光客だが(もちろん、自分もその一人なのだが)、このときばかりはなぜかほっとした気持ちになったのは不思議である。
 疲れた体に、ゴーヤの生ジュースが染み渡った。
 

2005-03-05

那覇・民謡酒場

 3月4日は「三線(さんしん)の日」なんだとか。もちろん語呂合わせである。
 ラジオでは1日じゅう民謡が流れていた。
 もっとも、それを知ったのは沖縄に着いてからのこと。
 沖縄にやってきたのは、期限切れになるJALのマイレージがもったいなので、無理やり使おうとしたためだ。

 せっかくだから、たっぷりとリフレッシュしたいけど、パソコンと仕事の資料を持ってこざるをえないのがつらいところである。

上原正吉民謡酒場にて

 直前にわかったのだが、かつて琉球語講座をともに受けていた友人が、たまたま同時期に沖縄に来ているというではないか。そこで、夕食をともにすることを約した。
 まあ、いろいろと都合があって、会えたのは夕食どころか11時すぎ。
 「せっかくだから飲みにでもいきましょう」ということになって、行った先が民謡酒場なのである。
 実は、2年前に妻と母とともに来たことがある店だ。
 大きな声ではいえないが、飛び入りで舞台で歌ってしまったのである。
 もちろん、そのときに撮られた写真は、子々孫々にわたるまで門外不出である。

 ところで、友人は琉球大卒というのに、民謡酒場ははじめてなんだとか。それでも、根っからの沖縄好きなので、その奥深い世界に心から酔いしれていたようだ。
 次回は、もっとディープな店にもチャレンジしなくては。

 ところで、この写真のおじさんは糸満の人で、見てわかるように飛び入りの素人。
 でも、非常な芸達者で、自作の歌まで披露していたほどである。客席は大受けであった。

 今回は、舞台にこそ上がらなかったが、カチャーシーでいっしょに踊った。そのとき、店の人に撮られたへっぴり腰の写真も、当然のことながら禁公開である。
 結局、われわれは夜中の2時半までいた。楽しい時は、経つのが早いものである。

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著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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