本駒込の寒猫
まだまだ風の寒いきょうこのごろ、本駒込のグリーンコートに買い物に行くと、寒さに耐えているネコに出会った。
丸々とした寒雀を詠んだ俳句はあるが、寒猫もなかなかの後ろ姿である。
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まだまだ風の寒いきょうこのごろ、本駒込のグリーンコートに買い物に行くと、寒さに耐えているネコに出会った。
丸々とした寒雀を詠んだ俳句はあるが、寒猫もなかなかの後ろ姿である。
仕事先でタクシーを呼んでもらい、「白河の駅まで」といったら、運転手は当然、新幹線の新白河まで行くものだと思っていたらしい。
よそから来て、在来線の白河駅まで行く人などいないのだろう。
私は、仕事先で「白河に来たら、ぜひ麺を食べていってください」と言われ、「麺マップ」なるものまでもらっていた。
昼にそばを食べたので、それならと、おやつ代わりにラーメンでも食べようと思い立ったのである。
白河は麺で町起こしをしているようだが、いかんせん列車は1時間に1本だし、クルマで来る人が多いようにも思えない。
たまに来るのは、私のような酔狂な人間だけなのだろう。
城下町だった市街地には、新しい家が建ち並んでいるが、それでも中心地には昔の栄華を偲ばせる建物が数軒ほど残り、食後の散歩を楽しむことができた。
連子格子の美しい木造の町屋、伊豆あたりでよく見かけるようなナマコ壁の土蔵のほか、ちょっとモダンな建物も見かけた。
いかにも静かで寂しげな町であるが、ちょうど小学生や中学生が下校する時刻になったらしく、子どもたちの歓声で町がちょっぴり賑わったのは救いである。
「町の南側にJR東日本の研修施設ができてね、中には本物の電車まで走っているそうですよ」とは、タクシーの運転手の話。
「東京からも青森からも、研修の人たちが大勢集まって、夕方の新白河駅はピッカピカの新人さんたちで大賑わいですよ」
「へえ、さぞかし町もうるおっているんでしょうね」
「いやいや、食事も施設の中にあるし、研修が終わるとJRのバスでまっすぐ駅に横付けするからね。まあ、たまに長期研修のベテランが金曜日の夜に飲みに出るくらいかな」
「ふうん」
数十分の散歩を終え、私は在来線で新白河駅に向かった。新幹線との待ち合わせの時間を利用して駅前に出たのだが、寒さとあまりの殺風景さに、散歩しようという気は起きなかった。
そして、たしかにJRのバスが次々にやってきた。ちょっと見ただけでも何百人もいただろうか。真っ黒なスーツの上に真っ黒なコートを着込んだ研修中の若者たちは、そのまま駅に吸い込まれていくのであった。
東北本線、上越線の列車に乗っていると、新幹線が停まる駅とそうでない駅とで、これほどまでに違うのかという現実を見せつけられる。
とくに、この白河駅のように、かつての賑わいを形にとどめている駅は、なおさらその感を強くする。
ここには昔ながらの立派な駅舎、上野から青森に向かう長距離列車が停まったであろう長いホーム、そして木で組んだホームの柱が残り、駅前には機関区跡だというだたっぴろい空き地が広がっている。
だが、新幹線が停車するのは、隣の新白河駅。町の中心に近いこの駅には、上下ともほぼ1時間に1本のローカル列車が停まるのみである。
やけに広い待合室の中央には大きな石油ストープが置かれ、夕方だったためか、学校帰りの女生徒が数人ほど列車を待っていた。
ホームに出ると、ここにも待合室があり、60代半ばと思われる女性が、周囲にいる同年代の男女数人を相手にして話をしていた。
「昔しゃあ、この駅前にもお菓子屋さんやパン屋さんがあって賑わっていたんだ。でも、みーんななくなっちまったんだよ」
「へー、新白河に行っちゃったの?」
旅人らしい男性が尋ねた。
「さー、どうなんだか。新幹線が停まんないとどうにもなんないな」
その話を別の女性が継ぐ。
「昔は、いろんな列車が走っていたよ。ここにも急行が停まったんで、よくそれに乗って郡山や福島さ行ったもんだ」
駅前には高い建物もなく、夕日はそのままホーム上の待合室に射し込み、おばさんたちの顔を照らしていた。
やがて、古めかしいホームには、轟音をたてて、銀色に光るステンレス製の電車が入ってきた。
仕事で、愛知万博の現場に行ってきた。
現地は、まさに工事真っ盛りという状態。天気はよかったが、吹きっさらしのためか、風がひどく冷たかったのが印象的だった。
会場内の写真を公開するのは、さすがにマズいので、敷地の外で撮った写真をば。
地下鉄東山線の終点・藤が丘駅と会場とを結ぶのは、リニアモーター採用の「リニモ」。
すでに、盛んに試運転をしているようで、車両がひっきりなしに行き来しているのが見えた。
ただし、時間がなくて、残念ながらリニモの写真は撮影できず。
藤が丘駅は地下に作られており、町のはずれから外に出るようになっていた。
リニモが開業するまで、関係者は藤が丘駅から西ゲートまで、20分おきに走る名鉄の専用シャトルバスで通う。
左手奥に、かすかにリニモの駅が見える。
もう1週間前になるが、西伊豆の石部(いしぶ)温泉に泊まってきた。
宿は民宿ばかりが十数軒あるだけ。小さな入り江にはこれまた小さな漁港があり、その背後の狭い平地に家々が建ち並んでいる。
連休だから民宿は満員かと思いきや、ほとんどがらがらであった。海水浴の季節にちょっと込むだけらしい。
松崎から1時間に1本の路線バスに乗ると、岬を丁寧に1つ1つまわりこんで行く。
岬の先端に近づくたびに、道は高度を増し、美しい海岸線が眼下に広がる。
そして何よりも、海の向こうに霞んで見える富士山は、このあたりからしか見られない絶景である。
ここは湯量が豊富で、7割の家が自宅に温泉をひいているという。
小さな浴室で、ちょっとしょっぱい湯につかったあとは、豪華な刺身。
地元でとれた小ぶりの伊勢海老の刺身に、アワビの焼き物が絶品だった。
先週行った人世横丁近くに、たまたま夜に訪れる機会があった。
おもしろいから、同じアングルから撮ってみることにした。
まだ、宵の口だったので、勤め帰りの人も多かった。
でも、やっぱりこのあたりは夜になると生き生きしてくる。
そんななかで、カメラを構えているのは妙なものである。
もっとも、最近では、気軽にデジカメで撮ることが日常化してきたので、道行く人も気にとめない。少なくとも挙動不審者とは見えないのは幸いである。
コンパクトなデジカメでも、夜景がきちんと撮れるのはいい。フィルムカメラだとかなり苦労する状況だ。
画質は相当悪いけど。
サンシャイン南側の再開発が本格化して、また一つ、池袋らしい雑然とした雰囲気の町が消えてしまった。
そんななか、池袋の東口近くでかろうじて昔ながらの雰囲気を残しているのが、東急ハンズとグリーン大通りにはさまれたこの一角。
人世横丁という名前が、また泣かせる。
平日の夕方になると、勤め帰りのおじさんやお兄さんで、賑わう一帯である。
それはもう、ほんの数十メートルほど離れた東急ハンズ前の通りとは別世界。
あの通りを歩く若者は、ほとんどここに入ってこないのが不思議である。
はたして、こんな一角も、いつまで今の姿でいられるのだろうか。
これまでは「幸ちゃん寿司」くらいしか入ったことがなかったが、ほかの店を探検するなら今のうちだなと思った今日この頃である。
神楽坂から脇道を少し入ったところに、自転車好きのマスターがやっているバーがある。
入口はちょっと入りづらくて、出てくるマスターもちょっと見るとその筋の人かと見紛うばかり。
はじめて入った人は、誰もがどきどきする。
でも、素顔のマスターは話好きでユーモアたっぷり。
注文も、「こんな感じでこんな酒」とリクエストすると、懸命に考えて出してくれる。
この写真をデジカメに撮って見せたら、「おおっ、六本木のバーみたいじゃん」とご満悦だった。
客層は、若い人から年配の人までさまざま。
たまにしか行かないけれど、なくてはならない宝石箱のような店なのだ。
妻の大津波遭遇記は終わったのですが、「終わり方がそっけなさすぎる」「まだ何か書け」というリクエストが相次いだため、蛇足としてもう1回書くことにしました--
さて、この下手くそな写真は、妻がカオラックにあるレストランで12月25日の夜に撮ったうちの1枚。
つまり、大津波がやってくる約10時間前の写真である。
ほかの写真には料理しか写っていないのだが、この1枚だけは料理の向こう側に、西洋人の客の姿が見える。
はたして、この人たちは翌日の朝、どういう運命を迎えたのだろう。そして、この料理を運んできたタイ人たちはどうなったのだろう。
そんなことを思うと、どうということのないこの写真が、突然意味ありげに見えてくるから不思議である。
←クリスマスの夜の“最後の晩餐”
さて、妻とM嬢は、12月30日の夜に成田空港に戻ってきた。
機内では、「空港でインタビューを受けたらどうしよう」とドキドキしていたという。なにしろ、日に焼けて、いかにも南の島から帰ってきましたという様子をしていたからである。
ところが、税関を過ぎてゲートを出ても、誰も声をかけてくれない。マスコミ関係者らしき人間が何人も目につくのに……である。
どうやら、彼らは体に傷を負った人を探して、インタビューをしていたらしい。二人はほっとして、しかしちょっぴりがっかりして荷物を押していった。
だが、その直後に、いきなり男性に声をかけられた。
「すみません、NHKの者ですが、ちょっとお聞きしてよろしいでしょうか」
さすが天下のNHK。彼女らが持っていた、プーケットのデパートの袋を見逃さなかったのだ。
「プーケットあたりからお帰りになったのではないですか」
妻はドキドキしながら答えた。
「ええ、カオラックにいたんですよ……」
カオラックはプーケットよりも被害が大きかったので、ここで大きな反応が返ってくると期待した彼女である。ところが、相手の男の表情は変化しない。
実は、この段階で日本に入ってきたニュースは、プーケットの被害ばかりであった。スリランカ、アチェの被災はもちろん、この時点ではカオラックという名前すらも、ほとんど話題にのぼっていなかったのだ。
「ちょうど津波があったときは、たまたま沖に出ていて助かったんです。船の上では、津波があったことも気がつかなかったんですよー」
正直に彼女が答えると、そのNHKの男性は無表情に言った。
「ああ、そうですか。ありがとうございました」
そして、すたすたと去っていったのだった。
うまく聞き出せば、このブログに収録したくらいのネタは仕入れることができただろうに。
もっとも、短時間になるべく“悲惨”な話を効率よく聞き出すには、妻とM嬢は不適当だったに違いない。
こうして、ニュースになるかもしれなかった大津波体験記は、その夫の手によって世の中に公開されたというわけである。
(こんどこそ完)
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