銀座ゲレンデ
先日、新潟県の石打にスキーに行ってきました。
ここ、銀座ゲレンデの上にある商店街(?)は、いまも健在。
山頂からスキーですべってきて、まだまだ山の上のほうだというのに、こんな店が並んでいるのは壮観です。
ちょっと異次元の世界にやってきた感じ。
そもそも「銀座ゲレンデ」という名前の響きがいいなあ。
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先日、新潟県の石打にスキーに行ってきました。
ここ、銀座ゲレンデの上にある商店街(?)は、いまも健在。
山頂からスキーですべってきて、まだまだ山の上のほうだというのに、こんな店が並んでいるのは壮観です。
ちょっと異次元の世界にやってきた感じ。
そもそも「銀座ゲレンデ」という名前の響きがいいなあ。
帰りの航空券は、28日にとれた。
30日の朝にプーケットを出て、夜に成田に到着する便。当初の帰国予定は31日だったから、1日早まったことになる。
妻とM嬢は、旅行会社のツアーという形で申し込んでいたので、航空券の変更は任せきりで済んだ。
だが、個人で参加している人は、航空券の変更をすべて自力でやらなくてはならず、かなりの手間がかかったらしい。
さて、二人はダイビングができないので、まるまる2日間をプーケット市内でぶらぶら過ごすほかなかった。
そのためか、帰国後に会社の人たちから、「プーケットに2日間もいたなら、ボランティアでもしてくればよかったのに」と冷やかされたそうだ。
だが本人によれば、「手伝おうにも、現地ではほとんど情報が入らないので、何がなんだかわからない状態だった」とのこと。
騒動のただなかというのは、そんなものなのだろう。
ホテルの中庭では、スタッフが後片付けに余念がなかった
もっとも、市内をあちこち歩いたおかげで、地元の人ともいろいろな話ができたようだ。
レストランに入って「カオラックから戻ってきた」というと、店の人はみんな目を丸くして驚いたという。「よく生きて戻ってきたねえ」と言われて、おまけまでしてくれたのだとか。
それにしても驚くのは、津波から2日しかたっていないというのに、欧米人(ほとんどはヨーロッパ人)が浜辺に出て甲羅乾しをしているという情景。まだ、近くにはがれきが積み上げられている状態なのに……。
日本人ならば、「余震が起きて、また津波がくるかもしれない」と思うところだが、彼らは何を考えているのだろうか。
100年に一度の災害が起きたから、もう100年間は起きないと思っているのか。
さすがの妻も、これには違和感を覚えたそうだ。
書き忘れたが、27日の夜に、妻は自宅に無事を伝える電話をかけている。
だが、その夫(つまり、これを書いている私)は、すでに旅行会社から「無事」との情報を得て、安心しきって忘年会に出席していたのであった。
そんなわけで、津波後の妻の第一声は、留守番電話で聞いた私である。
29日の夜は、運命のクルーズ船に乗り合わせた日本人が集まり、プーケット中心部のレストランで食事会が行われた。
まずは、グラスにシンハービールを注いで「命に乾杯!」。
そして、誰からともなく、来年もぜひタイに来ようという話題が持ち上がった。
目的は2つ。1つは、今回潜れなかったリベンジ。そして、もう1つは、現地の復興のために自分たちが率先してお金を落とすということだそうだ。
(うーん、家族としてはうまく言いくるめられた感がなきにしもあらず)
会の名前は、あっさりと、「津波の会」に決まったのであった。
(完)
翌28日の朝、ダイビングショップの女性ガイドが、妻の泊まっているゲストハウスにやってきて、パスポート、現金などの貴重品を手渡してくれた。
なんと、朝5時に家を出発。出勤前の時間を利用してカオラックまで取りにいってくれたのだという。
寝ていたフロントの人を無理やり起こして、停電の暗いなかを懐中電灯で照らしながら、セーフティーボックスを開けてもらったそうだ。
「いくつかのセーフティーボックスは、こじあけられた跡があったんですよ。ちょっと治安が悪くなっているみたいですね。ホテルによっては、部屋に残された旅行者の荷物も、盗難がはじまっているそうです」
クダビーチ近くの道。前日までの突貫工事で通行可能になった
実は、まだ妻やM嬢の荷物は、すべてが戻ってきたわけではなかった。部屋の机の引き出しにしまっておいたフィルムやカメラ用品などが未回収だったのだ。
自分たちでそれを取りにいきたいと言うと、ガイドの女性は答えた。
「いや、電気もガスも通っていないし、まだあちこちに遺体が残っている状態なんです。いくのは自由ですが、お勧めしませんねえ」
こういわれて、さすがの妻とM嬢もあきらめた。
同じグループでも、パスポートや現金をなくした人たちは、午前中にプーケットの日本領事館に出向いていった。
再発行された仮パスポートは、日本帰国までしか使えないもの。
実は、当初50部しか用意してなかったそうで、その人たちが行ったときには、すでに40部が発行済だったという。領事館では、大慌てでバンコクから取り寄せることにしたとのこと。
当初は、これほどの大惨事になっているとは、思っていなかったのだろう。
また、当面必要な現金として、1人当たり1万5000バーツ(約4万5000円)を貸してくれた。ただし、返済は電信振込でというから、手数料がかなりかかるはずである。
領事館内では、タイ在住の日本人がボランティアで集まり、おにぎりと味噌汁の焚き出しをしてくれたそうだ。
一方、パスポートが戻ってきた妻とM嬢は手持ち無沙汰。
「プーケットのセントラルにある『フェスティバル』というデパートに行けば、1日つぶせますよ」
ダイビングショップの人にアドバイスされて、それに従うことにした。
帰りの予定は、当初31日だったが、なるべく早い飛行機を旅行代理店が探してくれていた。
大津波遭遇記は1回お休みして……。
きのうは、寒くて空気が澄んでいたせいか、東京の空もくっきとした青色をしていたのが印象的だった。
そして、飯田橋駅西口にあたる牛込見附橋(神楽坂下)からの夕暮れの空も、微妙な色に染まって、思わずデジカメを取り出して撮影。
しばし橋の欄干にもたれて見入っていた。
でも、道ゆく人は、早足で通りすぎる人ばかりで、こんな美しい光景に目もくれようとしない。
ずいぶんもったいないような気がした。
プーケットに到着したのは27日の夕方。
宿が見つかるまでの間、日本人グループの13人は、ダイビングショップでバナナやケーキを食べながら待機することになった。
このとき、妻やM嬢をはじめ、大半の人は現金も着替えもない状態。一方、クルーズ船で何日も過ごした人は荷物をもって移動している。
そこで、みんなで助け合いがはじまり、持っている人と持っていない人の間で、着替えのTシャツや現金を貸しあった。
プーケットの海岸沿いは、大きな被害を受けていた
カオラックと違い、プーケットはかなり大きな町である。そのために、地域によって被害の程度に大きな差があったのが印象的だったという。
海岸沿いはカオラックと同様に、建物の残骸で埋まっていた。とくに、パトンビーチの被害がひどい。入り組んだ湾になっているために、津波が高くなったのだろうか。
また、ビーチを歩いていて漂ってくるのが、なんとも表現のできない悪臭。妻は、「ここにとどまっていたら伝染病にかかってしまう」と心配になってきたそうだ。
ところが、町の中心部である内陸部に行くと、どこにも災害の跡がない。
それどころか、店は通常通りに営業し、道にはたくさんの人が行き交っている。
津波に襲われたのは、いったいどこの国の出来事だったのかと、一瞬とまどうほどだったという。
宿は夜になって見つかった。カタビーチのゲストハウスである。
見慣れたスーツケースも届いていた。ダイビングショップのスタッフがカオラックのホテルに戻って、取ってきたくれたらしい。
だが、肝心の貴重品が届いていない。パスポート、現金、帰りの航空券、携帯電話は、まとめてフロントのセーフティーボックスに預けてあったからだ。
これがあるとないとでは、これからの手間が大きく違ってくる。
本来ならば、セーフティーボックスは本人でないと開けられないのだが、一般客がカオラックに戻るのは不可能に近い。
そこで、ダイビングショップの日本人女性ガイドに鍵を渡し、貴重品を取ってきてもらうように頼むことにしたのである。
カオラックにもどると、前日(26日)、状況確認にもどった日本人女性ガイドが待っていた。
「プーケットのほうがここより安全なので、とにかく移動します。宿泊はゲストハウスかアパートメントしか空いていませんが、いま探しているところです」
だが、心配なのは、カオラックのホテルに置いたままの荷物やパスポートである。
客が思い思いの場所で機材をまとめていると、そのガイドが個々の事情を伝えにまわってきた。
「○○さん、××ホテルですね。ホテルは流されてしまいました。荷物はあきらめてください」
「△△さん、□□ホテルは壊滅的という情報が入っています。荷物はあきらめてください」
彼女は、妻とM嬢の前に来たところで、やや考えこんだ。
「うーん、いま確認しているから、ちょっと待ってください」
もし、荷物が残っていれば、あとで取りにきてくれるとのことであった。
入港禁止が解除され、一斉にカオラック港に戻る船
前々日、妻とM嬢が泊まったカオラックのホテルには、鉄筋3階建ての建物と、木造のコテージの両方があった。
そのうち、二人が案内された部屋は、鉄筋の建物の3階。これには、少々不満だったという。
「マンションのような建物じゃなくて、コテージがよかったのに……」
だが、そのおかげで、のちに荷物がそのまま戻ってくることになるのだから、世の中わからないものである。
結局、カオラックにとどまったのは15分ほど。
着替えもなく、水着の上にTシャツと短パンを着けたまま、文字通り、着の身着のままでカオラックを出ることになった。
港にいたタイ人スタッフは、「Phuket is safer than here」と言って送り出してくれたという。
ダイビングショップでチャーターしたバスが止めてあるというので、重い機材を持ち、足元の悪いなかを歩くこと数分。
用意されていたのは、ニモの絵が描かれた大型バス3台だった。
そこからプーケットまで約2時間。途中の道に、とくに問題はなかったようだ。
だが、カオラックの町外れの公園を通りかかったとき、白いシートに覆われた、おびただしい数の遺体が置かれているのが見えたという。
津波のあった翌日の27日昼前、やっと入港禁止が解かれたとの連絡が入り、船はカオラック港に向かうことになった。
ところが、船は途中から針路を変え、近くの島影で停船。見ると、近くにも何隻かの船が止まっている。
どうしたのかと思っていると、「津波警報が発令されたために、停船しています」とのこと。
はたして、この警報にどの程度の信憑性があったのかは不明だが、これもやがて解除され、船は再び港に向かって進みはじめた。
木造の建物は大破。後方の鉄筋の建物はそのまま残った
港に近づくにつれ、ごみや材木などが水面に浮かんでいるのが目立ってくる。
そして、午後2時ごろにカオラックに入港。
妻によれば、ひと目見て、想像以上の被害の大きさにショックを受けたという。海岸近くに建っていたコテージは跡形もなく、見える限りの建物はほとんどすべてが破壊されていた。
もとのまま残っていたのは、公的な機関のものらしい鉄筋の建物だけ。
自動車も、あちこちで木に衝突していたり、家の中に突っ込んだりしていた。
周囲の人の話を総合すると、海岸にいた人を含めて、町に残っていた人は大半が亡くなってしまったという。
無傷で生き残ったのは、妻やM嬢のように船で沖に出ていた人と、「象のトレッキングツアー」に参加して山に行った人たちだけ。
もっとも、のちの報道によれば、「象のトレッキングツアー」では、象がいち早く異変に気づいて、客を乗せたまま山に逃げ込んだために助かったとのこと。
そのツアーに同行した日本人添乗員に、妻が話を聞いていた。
「山の上から、大きな津波が襲ってくるのが見えたんですよ。椰子の木よりも高かったから、十数メートルの高さがあったのでは……。一瞬のうちに町が津波に飲み込まれてしまったんです」
ヨーロッパ人に被害が多かったのは、津波の知識が少なかったことに加えて、砂浜でぼんやりと甲羅乾しをしている人が多かったためのようである。
じっとしていることの苦手な日本人は、ツアーに出かけていた人が多かったので、比較的遭難者が少なくて済んだのかもしれない。
とはいえ、海岸にとどまった日本人も多かったはずで、妻によれば、その大半は個人旅行でやってきたバックパッカーだという。
現地では宿帳もなく、パスポートもチェックされなかったというから、個人旅行での犠牲者の身元確認は困難を極めているだろう。
日本人の犠牲者で確認されているのは、1月8日現在で20人あまり。
しかし、あくまでも妻の推測であるが、カオラックとプーケット(*)だけでも100人以上の日本人が亡くなった可能性があるという。
*当初、「カオラックだけでも100人以上」と書きましたが、「カオラックとプーケットだけでも100人以上」に訂正いたします。すみません。
二人は高速艇から母船のクルーズ船に乗り移り、いつものように誓約書にサイン。さあ、これからダイビングというときになって、日本人の女性ガイドにこんなことを言われたという。
「長い間、この仕事をやってきて、こんなことは初めてなんですが、ダイビング禁止の命令が国立公園当局からありました。スマトラ沖で史上何番目かという大きな地震があって、流されたダイバーもいるとのことです。ちょっとそのままで待ってくださいますか」
ちなみに、クルーズ船には40人ほどが乗船しており、ダイバーたちは毎日少しずつ入れ替わりながら、一定の日数だけダイビングを楽しむというしくみだ。
妻と友人のM嬢は日帰りの予定で、日程を組んでいた。
津波翌日の洋上。向こうに見える海岸では大惨事が起きていた
しかし、周囲の海はべたなぎ。
なぜ潜れないのか、不満と諦めが交錯する夕方ごろ、今度はこんな話があった。
「カオラックの港に津波が押し寄せて、大きな被害が出ているようです。港の設備が壊れてしまったので、きょうは帰れません。また、津波がいつ来るかもしれないので、ダイビングはしないで沖で待機してくれという指令が出ています」
こうして、二人は一度もダイビングをすることなく、水着のままクルーズ船で一晩を過ごしたわけである。
もっとも、食料も水もビールも豊富にあったというし、まさかカオラックがあそこまで壊滅状態になっているとは想像もつかなかったというから、いたってのんきだったらしい。
別の船では、禁止令を破ってダイビングしていたところもあるという。客の要望があっとはいえ、余震の津波が来たらどういうことになっていたのか。
実は、すでに日本で無事を知らされていた私も、これが心配だった。
妻によれば、ほかの船は単一のダイビングショップが企画しているものがほとんどなので、ショップの責任で客を潜らせたのだろうということ。
それと同時に、それまで自分たちが開拓してきたダイビングポイントが、津波によってどうなってしまったのか見ておきたかったらしい。
その点、妻が乗った船は、さまざまなショップを通じて参加している人が多かったことも、禁止令を守る理由になっていたのだろう。
日本人ガイドの行動は、きわめてきびきびしていたという。二人いたガイドのうちの一人は、状況を把握するために、すぐさま高速艇でカオラックに戻っていった。
翌日、妻たちがカオラックに戻ってから、すぐにバスの迎えが来たことも、100キロほど離れたプーケットのホテルに泊まることができたのも、そして日本にいる家族にいち早く無事の連絡がきたのも、彼女たちの活躍があったからこそだろう。
26日の朝、7時45分にホテルに車が迎えに来る予定だった。だが、実際に現れたのは1時間以上過ぎてから。
そのため、妻とM嬢が高速艇(スピードボート)でカオラックを出港したのは10時近くになってしまった。スマトラで地震が起きてから、すでに2時間ほどたっていたことになる。
高速艇に乗り込んだのは、日本人と外国人合わせて約15人ほど。それにガイドの日本人女性2人とタイ人の操縦士である。この船に数十分ほど乗り、沖合にいるクルーズ船に乗り込むという手はずである。二人は、そこで日帰りのダイビングをする予定になっていた。
海岸に打ち上げられたタイ国軍の船
ところが、20分ほどして、高速艇の片方のエンジンが止まってしまった。現場で修理をしたが直らない。そこで、彼は決断を迫られた。港に引き返してほかのボートに乗り換えるか、無線で空いているボートを呼ぶかのどちらかである。
もし、ここで港に戻っていたら、津波にやられてほぼ全員が死んでいたことだろう。だが幸いにも、ほかの会社の高速艇が空いているというので、それを呼ぶことになった。
呼ばれたボートの操縦士も幸運ならば、呼んだほうも幸運だった。妻があとで伝え聞いた話によれば、彼は客が乗り換えたあとも、すぐに港に戻らずに、その場でエンジンの修理をしていたのだという。
「修理をあきらめて、ふと海岸の方向を見上げたんだ。そうしたら、とんでもない大きな波が押し寄せているのが見えた」
報道によれば、この付近の海岸に津波が到達したのは、現地時間で午前10時半ごろとのことだった。
妻が津波に遭遇したのは、船を乗り換えた直後だったはずである。
しかし、沖はほとんど波がなく、“べたなぎ”の状態。誰一人として津波に気がついた人はいなかった。
もっとも、そのときはすでに海全体が何メートルも盛り上がっていたはずである。
そのころ、別の船では、すでにダイビングをしていた人がいた。そのうちの一人から、妻が聞いた話を紹介しよう。
「当日は大潮でもともと流れが速かったけれど、いつのまにか流れが変わってきた。
いきなり水面近くまでもって行かれたかと思うと、30メートルも下に引きずり込まれる。周囲のダイバーも同様で、(深度を管理するために身につけている)コンピューターが、あちこちで(急浮上を警告するため)ピーピー鳴りつづけている。
海底の砂が巻き上げられているらしく、視界が急に悪くなる。砂とともに自分の吐く泡もぐるぐると巻き上げられているので、まるで洗濯機の中にいるようだった。
自分がどのあたりを潜っているのかもわからなくなり、必死に浮上しようとしたところ、水面下2メートルのところまできたら、不思議なことに激流がぴたりとやんだ。水面から2メートルの間は穏やかな海のままだった」
まずは、大津波で亡くなった十数万人の方のご冥福をお祈りします。
そして、現在では20人だけが確認されていますが、数多くの身元確認ができていない日本人の被害者のご冥福を祈るとともに、ご家族にお悔やみを申し上げます。
実は、12月26日当日、タイの海にいた私の妻と知人のM嬢も、危うく被害者のリストに加わるところでした。
二人がダイビングを目的に宿泊していたのは、プーケットから車で2時間ほど北にあるカオラックという町。この町は、今回の大津波でほぼ壊滅してしまいました。
二人が運よく生き残ったのは、津波襲来の数十分ほど前にボートに乗り、沖に出ていたからにほかなりません。さもなくば、十中八九、津波に巻き込まれていたでしょう。
津波襲来翌日(27日)午後2時ごろ(現地時間)のカオラックの港
日本に帰ってきた妻からは、いくつか興味深い話を聞くことができました。
そこで、これから何回かに分けて、妻たちが運よく生きて帰ってこられた顛末と、現地での状況や伝聞を、聞き書きの形で紹介しようと思います。
もっとも、彼女たちは洋上にいたために、津波が海岸に押し寄せた瞬間を見たわけではありません。その点、「大津波遭遇記」というのは、題名に偽りありではなないかと批判を受けるかもしれません。
それでも、洋上で津波らしきものに出会ったときの様子や、その後の現地の雰囲気はお伝えできるかと思います。
それによって、日本での報道との温度差を埋めることができ、今後の災害対策について何らかの参考になることができれば幸いです
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