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2004年12月の10件の記事

2004-12-30

スリランカの心

「日本の国鉄はJRになったんですよね。ジャヤワルダナに感謝して、JRという名前にしたんじゃないかという笑い話があるんですよ」
 スリランカ・コロンボ郊外の土産物店で、若い男性が達者な日本語で言った。
 1989年だから、JR発足2年後のことである。
「ジャヤワルダナの名前がJRですからね。ハッハッハ」
 まわりにいた店の男性も、うなずきながら笑っていた。私もつられて顔では笑ったが、ちょっとドキリとした。
 ----いまの日本人で、どれだけジャヤワルダナのことを知っているんだろうか。

 1951年のサンフランシスコ講和条約締結の際に、当時のセイロンの代表として出席した財務大臣のJ.R.ジャヤワルダナ(のちの大統領)は、釈迦の言葉をこう引用して、対日賠償権を放棄した。
「憎しみは憎しみによって止まない。憎しみは愛によって止む」
 そして、日本の戦後の独立のために、大きな影響を与える演説をしたのである。

1989年のコロンボ市内
 15年も前に1回行っただけで決めつけるのはなんだが、親日家として知られたジャヤワルダナに限らず、スリランカの人びとが日本に対してもっている感情は非常にいい。

 さらにいえば、これまで私が旅行した国の中で、日本人のような「はにかみ」「遠慮」を持っているのは、この国が 随一である。

 そのスリランカが、今回の大津波で大きな被害を受けてしまった。
 インドやタイ、インドネシアあたりは、まだ自力でかなり救援や復興ができるかもしれないが、スリランカは貧しく、つい最近まで内戦のあった国である。
 いまこそ、ジャヤワルダナの気持ちに報いるときではないかと思うのだ。
 その点、日本の救援隊がまっさきにスリランカに出発したのは、実にいいタイミングであった。

 そして私も、15年前の貧乏旅行者だった私を助けてくれたスリランカの人の役に立ちたいと思っている。
 といっても、いまでも金はないし、救援に行く行動力もないので、せめて自分でできることとして、このブログを書いたというわけである。

コロンボ南部の海岸をゆく鉄道
 それから、もう一つ。列車が津波に飲み込まれて、1000人もの死者が出たという。
 日本では、状況が詳しく報道されていないので、資料画像として15年前の写真を貼り付けておく。
 コロンボから南に伸びる線は、海岸線に沿って走り、線路の海側には不法占拠(らしい)の粗末な家が建ち並んでいる。
 おそらく、こうした家も流されてしまったに違いない。

 また、コロンボの北にあるニゴンボで、夕立のひどい雨と暗闇で途方に暮れていた私を、ホテルまで送り届けてくれた青年・クリスチャンとその家族の身も心配である。
 漁村の小さな家には10人以上の大家族。低カーストだから、キリスト教徒に改宗したという一帯である。
 いかにも貧しい生活だが、60歳を越えたくらいのお父さんは、賢人と呼ぶにふさわしい風格だった。

 最後に、お父さんは「ホテルまで、クリスチャンのバイクに乗せてもらうといい」と言った。
 へえ、オートバイなんかがあるのか……と思ったら、古い自転車だった。
 後部に乗せてもらい、夜の海岸の道をホテルまで15分ほど走ったっけ。
 まっくらな空で、しょっちゅう雲の中を稲妻が走り、あたりを照らす。
「怖くないの? 雷?」なんて、間抜けな質問をしながら、こんな美しい光景は二度と見ないだろうなあと思った。
 最後に、ホテルの入口で彼としっかりと握手をして別れた。
 その後、何度か手紙を交わしたが、ひとえに私のずぼらのために、それっきりになってしまったのが残念である。

2004-12-29

借景・六義園の初雪

 けさ起きてびっくり……じゃなくて、昼すぎに起きてびっくり!
 仕事部屋から望む六義園(ただし、ほとんど雑木林)も、緑の葉にうっすらと雪がかかっていい雰囲気。

雪の六義園

 津波のあったタイ・ブーケットから、あすの夜に帰ってくる妻は、大の寒がり。
 しかも、現地では、ほとんど潜らずに終わってしまったはず。
 ストレス解消できずに帰って、さらにこの寒さでは、どうなることやら。
 とばっちりがふりかからないことを祈るのみである。

2004-12-28

東京タワーを眺めつつ、津波と石垣りんを思う

 26日夕方、家に戻ると留守番電話が入っていた。
「ご心配でしょうが、奥さまは問題ありませんでしたので、ご安心ください」
 スマトラで地震があったのは小耳にはさんでいたが、妻とその友人がダイビングに行った先が、震源地のすぐそばであることとは結びついていなかった。
 おかげで、心配する時間がなくて済んだのは、幸いだったかもしれない。大昔の神経質な私だったらば、すぐに思い当たって、ずっと気を揉んでいたことだろう。
東京タワー

 だが、夜になって次々に入ってくる悲惨なニュースを見て、さすがの私も少々心配になってきた。
 友人たちからのメールに、「大丈夫らしい」と返信しながらも、なんとなく不安。
 しかし、次の日に迫った締め切りに間に合わせるために、夜なべの仕事をやらざるをえないのがフリーのつらいところである。

 27日の昼ごろ、旅行社に電話をしたら、津波が起きた時点で、すでに妻と友人はクルーズ船に乗って沖に出ており、ほとんど影響がなかったという説明を受けた。
 なるほどね、悪運の強いやつらである。

 というわけで、安心して27日は忘年会に出席。帰りにほろ酔い気分で東京タワーのそばを通った。
 展望台に灯で描かれた2004という数字は、1日になったとたん2005になるのだろう。
 小学生のころは、2000年が来ることさえ、信じられないほど遠い未来だったのに。

 ふと、ここで、詩人の石垣りんが亡くなったというニュースを思い出した。
 中学生の国語の教材を作る仕事をしていたときに、よく利用させてもらったっけ。中学生でもわかる言葉で、人生の厳しいところをついてくる。まあ、初期の作品はちょっとプロレタリア文学臭いけれど。
 石垣りんの詩の中では、有名どころだが、、「シジミ」が好きだった。
 ほんとうにギリギリの集中力をもって生きていた人なのだろうなあ。

 東京タワーを眺めながら、そんなことを思った元文学青年の私であった。

2004-12-18

たそがれどきの立石

 17日は、仕事の資料集めで葛飾のお花茶屋に。
 駅の東側に流れていた曳舟川は広い車道となって、車が行き交う。駅前のうらぶれた商店街も、だいぶ雰囲気が変わっていた。

 明るくなったのはいいのだが、ファーストフードやいまどきの古本屋が建ち並んでいる風景を目にすると、単なる郊外の町の一つになったという印象だ。
立石仲見世の入口

 帰りはお花茶屋からそのまま電車に乗らず、ところどころに趣のある家を眺めながら、立石(たていし)まで歩くことにした。

 久しぶりの立石は、たそがれどきという時刻もよかったのか、昔と変わらない風情が感じられたことにいたく感動。

 とくに、駅の南側にある立石仲見世は、相変わらずの賑わいぶりである。
 人がやっとすれ違えるほどの道の両側に、魚屋や乾物屋や飲み屋がひしめいている。

 そして、駅の北側にもちょっと路地を入ると、昔ながらの飲み屋街が残っていた。
立石駅北口にある路地

 ところがである。この北側に再開発計画があるという。完成図を見ると、何十階建てのビルが駅前に屹立しているではないか。
 ああ、ここも! 再開発というと、なぜ路地をつぶして大きなビルを建てたがるのだろうか。

 災害への対策も結構だが、ふだんの生活も大切にしてほしい。
 明るくなるのも結構だが、陰影も大事にしてほしい。

 この町でもまた、雑然とした賑わいが消えて、警備員だらけの“近代的な”ビルだけが目立つようになるのだろうか。

2004-12-16

六義園の紅葉

 年末進行の仕事が詰まって、外出もままならない今日このごろ。
 唯一のなぐさめは、ベランダから見える六義園(りくぎえん)の紅葉だ。

六義園の紅葉 マンションの2階のわが家からは、柳沢吉保がつくった天下の名園もまるで雑木林のように見えるのが難点。
 --そう思っていたら、知人に「まるで軽井沢じゃないですか」と言われた。

 なるほど、ものは言いようである。それ以来、東京にいながらしにして軽井沢の気分を味わっている。

 もっとも、単なる雑木林だとしても、東京の中心では贅沢な話である。まあ、だから高い家賃をがまんして払っているわけだ。
 マンション名を漢字で示すと、「ろくぎえんですね」という人がいるが、せめて東京に住んでいるならば、「りくぎえん」と読んでほしいものである。

 ちなみに、年末進行というのは、年末年始に印刷所が休みになってしまうために、出版物の締め切りが早まることをいう。とくに、週刊誌や月刊誌をかかえているライターや編集者はてんてこ舞いの時期となる。
 ほかにも、連休進行(ゴールデンウィーク)、お盆進行というものがあるが、やはり年末進行が一番キツい。

2004-12-14

十条駅

埼京線(正式には赤羽線)の十条駅の上りホームは、入口のすぐそこがホーム。
いまどき、東京都区内のJRでこんな駅は少なくなった。
考えようによっては、これこそバリアフリーに近いのでは……。
このときも、上り列車が停車してから改札を通った女性が、十分に余裕をもって乗り込んでいた。

十条駅上りホーム側

小さな自転車置き場では、腕章をしたおじさんが一人。
「年末になると自転車にいたずらするやつがいるからね」といいながら、自転車を見張っていた。
この写真の手前には、通勤時間帯にはめったに開かなくなる踏切がある。

2004-12-11

ビールはベルギーに限る

10日は久しぶりに神楽坂にて、ベルギービールを飲む。

ベルギービール

この芳醇な香りとコク。
さんまは目黒に限るが、ビールはベルギーに限る。

2004-12-08

新富橋あたり

 7日は新富町で打ち合わせ。
 その帰りに、新富町、明石町あたりを散歩した。
 戦争で焼け残った地域だけあって、銀座からすぐ近くにもかかわらず、古い町並みが残っていた地域だ。

新富橋の東側

 とはいえ、ここ数年で古い家は次々に建て替えられ、大きなビルやマンションが目立つようになってきた。
 それでも、まだところどころに、昔ながらの家を見ることができる。
 新富橋の東側もそんな場所の一つ。橋自体はたかだか30メートルの短いものだが、その東側には板壁の美しい舞踊足袋専門店「大野屋」もあり、かろうじて昔の雰囲気を偲ぶことができる。

2004-12-05

嵐去って

昨夜はひどい風と雨でした。

朝起きてみると、わが家の前の本郷通りが、車道まで落ち葉でびっしり。

イチョウ葉で埋まる本郷通り

周囲に葉っぱの臭いが充満しているのは、車に踏まれているため?
さぞかし大量のイチョウ葉エキスが流れだしていることでしょう。

車のスリップには、重々ご注意のほどを。

2004-12-01

ずどぅるっちょろの町

「カストロヴィッラーリに行くバスはどこですか?」
「ん? ああ、カストロヴィッラリね、あっちだよ」

「ペンテダッティーロに行くにはどうしたらいいの?」
「そうねえ、ペンテダッティッロに直接行くバスはないんだよ」

「このバスって、メリート・ポルト・サルヴォの駅に行く?」
「ああ、行くよ」
 約15分後。
メーリトの駅は、ここで降りて、通りを右にまっすぐ」

 このように、今回の旅行では、イタリア語のアクセントをやたらに間違えた。

カストロヴィッラリの水飲み場
 イタリア語のアクセントは、単語の終わりから2つ目の音節(まあ、2つ目の母音と考えてもよい)に置かれることが多い。
 やや強く発音するだけでなく、ちょっと伸ばすのがミソである(伸ばすかどうかは、後ろにくる子音にもよるが)。

 だから、パニーノとかペペロンチーノなんていうのは、いかにもイタリア語っぽく聞こえるわけだ。
 地名も同様である。ミラノは本当はミラーノだし、アッシジはアッスィーズィなのである。

 そんなわけだから、イタリア語をはじめたころは、「こりゃ、覚えることが少なくて楽チンだ」と思ったのである。
 ところが、だんだんと勉強が進んでいくうちに、この法則には例外の多いことがわかってきた。
 人名のマリオはマリーオじゃなくてマーリオ。地名でも、ナポリはナーポリ、ジェノバはジェーノヴァというふうに、終わりから3番目の音節にアクセントのある「ズドゥルッチョロ(Sdrucciolo)」の単語が意外に多いのだ。
 しかも、イタリアの辺境に行くにつれて、そんな地名が多くなる。シチリアやサルデーニャ島に行ったときもそうだったが、今回は本当にまぎらわしかった。

メーリト・ポルト・サルヴォ駅
 そもそも、カラーブリアという州の名前自体がズドゥルッチョロである。
 しかも、モラーノ・カラブロに行ってまたびっくり。「カラブロ」とはカラーブリアの形容詞の古形だから、「カラーブリア」に習って「カラーブロ」となりそうなもの。
 だが、どうしても、終わりから2番目にアクセントを置きたくないらしい。「カーラブロ」なのである。実に見上げたズドゥルッチョロ根性である。

----ホントにイタリア語の地名は厄介だな。
 と憤慨したところで気がついた。
 日本の地名である。音読みがあったり訓読みがあったり、重箱に湯桶は数知れず。慣例的なおかしな読みが満載である。少なくとも地名や人名の表記に関しては、これほどわかりにくい国はないだろう。
 そういえば、新宿駅のホームで中国人らしき女性に「サンシュー線はどこですか」と聞かれたことがあったっけ。即座にこれが山手線とわかった私は天才(だった)かもしれない。

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