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2004年10月の24件の記事

2004-10-31

フィレンツェ・アルノ川のボート練習

 イタリア旅行のポジフィルムができあがってきた。それに、デジカメ写真も大量にあるので、せっかくだから、現地からのブログに載せられなかった、どうでもいいエピソードを中心にして、写真をまじえてもう一度アップしてみようと思い立った。
 いわば、「2004年10月イタリア旅行外伝」というところ。メインイベントのカラーブリアは後回しにして、立ち寄った順に、フィレンツェからはじめようと思う。
フィレンツェのホテル

 フィレンツェに着いたのは、1日の夜遅く。活動を開始したのは、翌2日になってからだった。
 ホテルは、ミケランジェロ広場の下にある「Hotel David」 (ホテル・ダーヴィデ)。これで、3回目の利用である。写真のような素敵な3つ星のホテルで、本当はあまり人に教えたくない。難点は中心部から遠いこと。でも、朝の散歩にはちょうどいい距離だ。

 さて、2日の朝、妻と二人でアルノ川沿いを歩いていると、下流からボートがやってくるではないか。かなりのスピードである。
 よく見ると、ボートを漕いでいるのは、みな40過ぎとおぼしき中年男たち。かなり腹が出ているのもいる。そして、驚いたのは、舳先で声をかけているのが、うら若き女性だったことである。しかも、遠目であるが、なかなかの美人。
アルノ川のボート

 ボートに向かって手を振ったら、女性はなぜか照れている様子。もちろん、おじさんたちはボートを漕ぐのに懸命で、私たちのことは目に入らなかったに違いない。
 やがて、ボートは私たちのいる橋の手前までくると、そこでUターンをしていった。

「やっぱり、指導者が若い女性だと、おじさんたちは張り切るのかなあ」
 妻はうれしそうに言った。
 なるほどね。イタリアには、そんなカルチャーセンターかスポーツセンターがあるのかもしれない。日本でも探してみるか……。
 それにしても、必死のおじさんたちと若い女性というコントラストには、思わず頬がゆるんでしまった。

2004-10-30

自家焙煎の小さな珈琲店

 締め切り地獄に追われて、散歩もままならない。
 昼と夜との波長にも、合ったり合わなかったり。
 29日は、丑三つ時に起き出し、夕方に仮眠のつもりが熟睡してしまった。
 それでも、久しぶりに太陽が出ているときに活動をしていたので、クリーニング屋に行ったり、郵便局に行ったりと、身の回りのことをちょっぴり済ませてきた。
 そして、コーヒー豆も購入。よく買いに行くのが、田端銀座近くの川村珈琲店。田端といっても、最寄り駅は山手線の駒込である。
 いまではそれほど珍しくないが、狭い店内でコーヒーを自家焙煎している。マスターは無口で職人肌だが、けっして愛想が悪いというわけではない。ただ誠実なのである。
川村珈琲店

 店にはカウンターが数席あるが、まだ座って飲んだことはない。一人で行くと、本でも読んでいないと持て余しそうだ。それにしても、いまどきコーヒー一杯が300~350円ほどというのは魅力。

 先日、行きつけの飯田橋の喫茶店「カフェ・ラグタイム」で、たまたま別のお客さんから、この店の話が出た。
「ええ、コーヒー豆の自家焙煎では有名な店ですよ」
 ふーん、こんな小さな店がねえ……。こんどこそ、ゆっくり座って飲むことにしよう。

2004-10-24

神田神保町・ミロンガのある路地

 いいかげんイタリアぼけも解消して、たまった仕事に集中しなければならなくなってきた。
 なんとか土曜日(23日)は昼夜逆転を解消。かといって、家に閉じこもって仕事をする気分でもないので、出来上がった旅行のポジフィルムを新宿で受け取ったのち、神田神保町に足を向けた。かばんの中には、最低限、仕事に必要な書類が詰め込まれている。

 書店で、自分が関わった本の扱いを確認したのち、タンゴ喫茶ミロンガに入店。ミロンガのある路地は書泉グランデのすぐ裏手にあり、靖国通りから一本入っただけなのだが、昔ながらの情緒をよく残している。
 ミロンガは10年近く前に、ほんの少し内装が改められるとともに、東側に別室がつくられ、定員はほぼ2倍ほどになった。それと同時に、メニューには世界のビールが加えられた。
タンゴ喫茶ミロンガのある路地

 だが、朝から晩まで、バックに適当な音量でアルゼンチンタンゴが流れているのは変わらない。書店街で本を買ったあと、ここでコーヒーを飲みながら、のんびりするのは最高の贅沢である。
 平日の日中はたいてい空いているのだが、この日は土曜日ということもあってか、ほぼすべてのテーブルが埋まるといった盛況ぶり。みんな、そろそろドトールやスターバックスには飽きてきたのかなあ。

 ベルギーのホワイトビールを注文。カルロス・ガルデルの歌を聞きながら、書類にマーカーなんぞを引き、ちょっと仕事をした気分になった。

 帰りは、御茶の水駅まで歩き、自宅のある駒込行きのバスを待つ。午後6時ごろ、停留所で待っていると、立ちくらみがした……ような気がした。大地がゆらゆらと揺れたのである。
 根をつめて仕事をしたからかなあ--などと思っていると、停留所の柱や周囲の電柱も、音を立てて揺れているではないか。
 地震だ!
 こんなとき、赤の他人どうしで、急に親しげに会話がはじまるのは、くすぐったいけれどもいい気分である。
 それにしても、船に乗ったようにゆらりゆらりと長く揺れるのは、どこか遠くで大きな地震があったに違いない。しかも、バスに乗る前にもう一度大きく揺れた。そもそも、屋外で地震を感じるなんて、めったにないことである。
 新潟で大きな被害があったことを知ったのは、それから30分後、家に着いてからである。

2004-10-20

変わらないイタリア

 もちろん、イタリアのすべてが変わったわけではない。変わらぬイタリアもあちこちで目にした。
 笑ってしまうのが、飛行機から降りるときや、列車が終着駅に近づいたとき。このときばかりは、イタリア人はどの国の人よりもせっかちになる。まだ飛行機のドアが開いていないというのに我先に荷物をまとめて通路で行列をつくるし、列車の終着駅に着く数分も前からデッキに殺到する。
 それはまるで、「早く降りないと危険だ」という意識が、民族の記憶に刷り込まれているかのようである。その行動を見ている限り、日本人のほうがよほど余裕たっぷりだ。
 そういえば、かつてイタリア名物と言われていた、飛行機が無事着陸したときの「拍手」は、さすがになくなった。
 個人的な思い出としては、23年前にローマから日本に帰ったときのことが忘れられない。雪に埋もれた真夜中のモスクワ空港に、ローマ発のアエロフロート機が無事着陸したときの「拍手」である。そばにいたイタリア人も日本人もパキスタン人も、みなうれしそうに、顔を見合わせて心の底から拍手したものだった。
リキュールグラス

 さて、イタリア人に対する誤解の一つで、イタリア人は怠け者だという話があるが、そんなことはない。今回の旅で、私も妻もそれを確信した。イタリア人は大変な働き者である。バール一つとってみても、店のおじさんやおにいさんは、朝から晩まで働いているのを目にするだろう。
 もっとも、南部に行くと、いまでもたっぷりと昼休みをとっているのは確かだ。
 カタンザーロに行ったときのこと。昼の2時ごろを過ぎて、商店の一斉に店を閉めはじめたのには驚かなかったが、近郊に向かう中距離バスがパタリとなくなってしまうのには驚いた。
 それまで多くの人で賑わっていて、次々にバスが発車していったバスターミナルが、あっとう間に、しーんとしてしまったのだ。時刻表をみると、どの路線も2時から5時までは便がないではないか。さすがに、ここまで徹底しているのはあまり見たことがない。
 とはいえ、昼休みが長ければ、その分だけ、どの店も夜遅くまで営業していることを忘れてはならない。

 どうも、イタリア人が怠け者だという定評は、アメリカ経由の偏った情報ではないかと私はにらんでいる。
 そもそも、イタリアは日本と同様に職人気質を大事にするお国柄である。イタリアの優れた革のバッグにしても、素敵なスーツにしても、そんな働き者の職人技から生まれたものだ。
 そして、その職人技こそが、いまのイタリアの経済復興を支えたのだと私は勝手に思い込んでいる。だから日本も……などと短絡的に語るつもりはないが、ちょっと頭の隅に入れておいていい事実ではないかと思うのだ。

 そして私は、徐々に変わりゆくイタリアを横目に見ながら、いつまでも変わらないイタリアを楽しむために、また金をためて彼の地に足を運ぶことになるだろう。

2004-10-19

"普通の国"になった(?)イタリア

 2週間という短い旅であったが、後半はカラーブリア一周というかなり刺激的な旅だったこともあって、まだイタリアぼけが治りきっていない。
 昨夜などは、自宅でちょっとうたたねして、ふと目が覚めたところ、「あれ、いまはどこの町にいるんだっけ?」と、しばし茫然としてしまった。旅の途中の気分でいるのか、周囲を見回しても、数秒間は、いまどこにいるのか見当がつかなかった。かなりの重症である。
ティレニア海沿岸をゆく列車の車窓


 さて、そんな気分が冷めないうちに、今回感じたイタリアの印象をまとめてみようかと思う。今回は、昔とくらべて感じたことを中心に。

 もっとも変わったと感じたのが、鉄道のサービスである。以前は、ガイドブックに「イタリアの鉄道は車内放送がないので、降りる駅に注意」といった記述が必ずあったものだった。
 しかし、特急エウロスター(ユーロスター)では、駅に着く前に必ず車内放送がある。しかも、「Trenitalia(トレーニタリア--旧・国鉄の愛称)をご利用いただきありがとうございます」なんてことばが入るものだから、以前のサービスを知っている人にとっては驚きである。エウロスター以外にも、列車によっては車内放送を聞くことができた。
 さらには、ローカル線の無人駅でも、「まもなく、○○発××行き△△列車が到着します」というなる放送がテープで流れて、これまたビックリである。
 新しい車両は、座席のそばに電源の差し込み口(コンセント)がついている。これはパソコンの利用に重宝した。ぜひとも、日本の鉄道にも広がってほしいものである。

 町中で感じたのは、どこの町でもワインバーが増えたこと。以前のイタリアは、もっぱら「ワインは食事とともに飲むもの」という発想だったように思えたが、いまはそうとは限らないようだ。もしかすると、高級なワインを味わいながら飲むというのは、フランス、アメリカ、日本あたりに影響されたのかもしれない。
 コンプレート(コース料理)にこだわらない人が増えているのも関係しているのかもしれない。もっとも、そんな店でも、セコンド(メイン)の肉まで食っているイタリア人は多かった。
 私はといえば、その昔、イタリア語の先生に、「パスタだけ食べて帰るのは、赤だしの味噌汁を飲んで帰るようなもんだぞ」と"薫陶"を受けたために、いまだにメインを食べないと後ろめたい気分に襲われてしまうのである。
 ところで、パスタで帰ってしまう観光客が増えたためか、パスタの価格が上がって、メインの価格が相対的に下がったのが目立つ。以前のメニューでは、パスタの価格を低く見せて、メインで稼いでいたわけだ。
アマンテーア駅


 また、服の店でも靴の店でも、気軽に店内に入れるようになったのは大きな変化と思う。昔は、ショーウィンドウで品定めをして、本当に買う気があるときだけ店に入るというのが原則であった。
 自由に入れる店は、わざわざ「INGRESSO LIBERO」(自由に入れます)と書いてあったほどである。20年前は、本屋でさえ自由に本棚の中を歩ける店は少なかったものだ。
 もっとも、ショーウィンドウの実用度は下がってしまった。店の中に入らないと、品揃えも価格もわからないというのは、かえって不便なこともある。

 最後に、これは10年前ごろからだろうか、美術館での写真撮影が全面的に禁止になってしまった。以前は、フィレンツェのウッフィッツィ美術館でさえ、ストロボや三脚を使わなければ撮影してもよかったものだった(ストロボは紫外線が出るので、絵に悪影響を与えるという話である)。
 もっとも、これだけ人が集まって、みんなが写真を撮っていたら収拾がつかないだろう。ストロボが自動発光するカメラが増えたことも一因かもしれない。

 こんなことを見ていくと、よくも悪くもイタリアは"普通の国"になりつつあるのかなと思えてくる。便利なのはいいけれど、ちょっと寂しい気もするなあ。

2004-10-17

成田でギネス

 10月16日、11時間のフライトを経て、午後4時ごろ成田空港に到着した。
 空港から京成の電車に乗って、いつものように成田駅で下車。成田市内でギネスビールを飲む。
 海外から帰ってくると、必ず成田の市内をうろつくことにしている。海外旅行の気分をちょっと冷ましてから、大都会の日常生活に戻ろうという魂胆である。まあ、いってみれば、成田という町を緩衝役にしているわけだ。
成田山の参道で飲むギネス1パイント


 なかでも、成田山の参道にあるこの店は、店の一部が道に面したオープンカフェになっていて(屋根もついている)、なかなか気分がいい。ただでさえ無国籍な雰囲気のところに加えて、目の前の道には航空関係者と思われる外国人が行き来して、独特な雰囲気をかもしだしている。

 それにしても、今回の旅行は、これまで以上にイタリアに染まり切ったという印象が強い。これで、プログでも書かなかったら、頭の隅から隅までイタリア化されていたに違いない。
 現に、ビールを飲みながらぼんやりとしていると、目の前を歩いていく高校生を見て、思わず心の中で叫んでしまう。
「あ、東洋人だ!」「日本語を話しているぞ、日本人じゃないか!」
 こんなことを思うのは、20年以上も前に、半年ほど日本を留守にしたとき以来である。
「こりゃ、ちょっとリハビリが必要かも」とは思うものの、そんなヒマはない。目の前には仕事が山のように待っているのだ。そもそも、仕事をしないことには旅行の支払もおぼつかない。
 そんなことを思うと気が重くなってきたので、ビールをもう一杯飲むことにした。
 ……

 とまあ、こんなわけで2週間のイタリア旅行は幕を閉じました。ご愛読ありがとうございます。
 今回のイタリア旅行をきっかけにはじめたブログですが、「いつも旅ごころ」というタイトルのとおり、本当に旅をしていなくても続けていく予定です。もちろん、国内旅行や近所の散歩の話も、随時アップしていくつもりです。
 とりあえずは、あと2回ほど、今回のイタリア旅行のまとめでもしてみようかと思っています。
 それでは、今後ともよろしくお願いします。

2004-10-16

混沌としたローマ

 特急エウロスター(Eurostar--英仏トンネルを通る列車とは同名の別列車)は、ローマ・テルミニ駅にほぼ定刻に到着。最近のイタリアの鉄道は、シチリア直通列車を除けばかなり正確である。
 さて、飛行機まではまだ5時間ほどある。荷物を預けて、ローマ市内に買い物に出かけることにした。
 買い物といってもCDと本である。行き先はコルソ通り。地下鉄B線に乗って、ポーポロ広場近くのフラミニオ(Flaminio)駅に向かう。

ローマの路面電車


 ポーポロ広場近くにはトラム(路面電車)の始発駅がある。時間があれば乗りたいのだが、今回は写真をとるだけで我慢。

 それにしても、テルミニ駅前もフラミニオ駅も人でごったがえしていた。イタリア人はもちろん、アフリカ人、フィリピン人、中国人、ドイツ人、アメリカ人、アラブ人などなど。まさに混沌としたローマである。
 昔は北東アジアの顔をした人間は日本人ばかりだったが、いまは中国人が圧倒的である。しかも中国人は、金持ちそうな旅行者もいれば、地元に居ついて道端でモノを売っている人までいる。
 かと思えば、帰りの地下鉄では、戦争直後のイタリア映画に出てきそうな、昔ながらの純朴そうな顔をしたイタリアのおじさんも2、3人見かけた。南部出身の人なのかも。

 さて、買ったCD。1枚目はサレルノで聴いて気に入っていたビアージョ・アントナッチの新盤(聴いたことのあるような歌が入っているし、10.9ユーロと値段が安いので完全な新譜ではないのかも)。
 もう1枚はナポリの大御所ロベルト・ムーロロの『Napletana』。ナポリ民謡3セットの第3巻で、前回買い損なったものだ。前2巻はそれぞれ2枚組だったが、なんとこれは3枚組。38.5ユーロと予想外の出費となってしまった。でも、詳しい解説とともに、ナポリ弁の歌詞とイタリア標準語訳があるのでうれしい。
 ナポリ民謡(民謡といわれていても比較的新しい歌も多いのだ)は、彼やセルジョ・ブルーニのような歌手が、正確なナポリ弁でしみじみと歌うのがいいと思っている。クラシックの歌手がベルカント唱法で声を張り上げて、しかも標準語ともナポリ弁ともつかないことばで歌うのは、正直いって違和感があるなあ。
ローマ・テルミニ駅


 本屋で入手したのは、イタリアポップス100選。ギターのコードとともに、歌詞がついている。それから、カラーブリアの地図。行ってきたところをこれで再確認するとともに、次回(もっとユーロが安くなってから)への計画づくりに活用する予定。

 そして、もう1冊は、ASローマのサッカー選手フランチェスコ・トッティの笑い話。日本でも1巻目が翻訳されて発売されている。いってみれば、ガッツ石松の『最驚ガッツ伝説』のイタリア版というところか。いや、待てよ。あれは、トッティの本をヒントにしてつくったのかも……。
 意味がわかるかどうか心配だったが、まあ半分くらいはわかった。思わず吹き出したものもあるし……。ローマ訛りをネタにしたものも多く、サッカーの話もある程度知らないとおもしろくないかも。これを日本語に翻訳したというのは、かなりの難儀だったに違いない。

 それにしても、ローマ弁では定冠詞が「il」ではなくて「er」と発音するらしい。「L」と「R」の区別がネタになっているものもあって、「なんだ、イタリア人だってLとRを混同するんじゃないか」と思ったしだいである(サルデーニャ方言でも、標準語とは「L」と「R」が入れ替わる場合があるそうだし)。

 帰りの飛行機はJALとの共同運行便。頭上の天気はまずまずなのだが、近くで稲妻がピカピカ光っているのを見ながらの離陸はちょっぴり不安であった。

2004-10-15

駅から徒歩5分の丘上都市・アマンテーア

 列車がアマンテーア(Amantea)に近づくと、こんもりした山が見え、城壁に囲まれた立派な町が見えてくる。この町ほど、駅に近い丘上都市はないだろう。もっとも、徒歩5分で行けるのは丘のふもとまでである。旧市街をめぐるには、そこから急な坂を登らなくてはならない。
駅のホームから見たアマンテーアの旧市街


 写真は、駅のホームから写したものだ。厳密にいうと「丘上」とはいえないかもしれないが、貫祿は十分である。

 さて、13日の晩、到着するのがまだ午後7時だと思って安心していたら、厚い雲が垂れ込めていたものだから、アマンテーアの駅に着いたときには周囲は真っ暗。水平線上にわずかに夕焼けの赤い色が見えるだけだった。
 しかも、駅前にはタクシーどころか店もない。しかたなく重いリッュクを背負って歩きはじめたが、交差点を左に曲がったのが悪かった。さんざんうろついたあげく、結局、右に曲がったところに1軒だけ、ホテル・メディテラネーオという看板が目についた(あとで知ったことだが、海岸のほうに行けば海水浴客相手の宿があったようだ)。
 それにしても、その名も「地中海ホテル」である。しかも、玄関を入ると立派な庭まであって、こぎれいなレストランまで付いている。
 最後の晩に多額の出費を覚悟したが、値段を尋ねるとなんとレッジョの3分の1。ツインの1人使用と違い、シングル専用室だから安いのだとはいえ、部屋も広いしバスルームも充実している。やはり、泊まるならば田舎、それもシーズンオフに限る。

 翌14日はやはり晴れ。朝っぱらとはいえ、急な坂道を登ると汗が吹き出してくる。
 だが、不思議ほどこの旧市街は静まり返っている。細い路地をうろうろしていても、たまに年寄りとネコを目にする程度である。
 さて、頂上の城砦近くまで登るにはどの道を行ったらいいかと戸惑っていると、上から声がした。
「カステッロに行くのか?」
 見上げると、3階の窓から70近いと思われるおじいさんがこちらを見下ろしている。「そうだ」と答えると、
「それならこの道をずっと右にぐるぐるまわっていけばいい。デストラだデストラ。別れ道があった常に右に行け。そうライト、ライト」
 右手をくるくるまわしているので、らせん状に登っていけと言っているようだ。それにしても、こんな田舎で英語の単語を使うおじいさんは誇らしげであった。
アマンテーアの旧市街


 10メートルほど歩いたかと思ったら、また頭の上から「デストラだ、デストラ」とおじいさんの声。「スィ、スィ」と返事をしながら歩いて行った。

 道はだんだんと険しくなり廃屋が増えていく。サボテンの実が落ちて腐った臭いに、ネコの小便の臭いがまじって、鼻をついてくる。
 そして、踏みわけ道の先に、ようやく教会の跡が見えた。城砦はさらに上である。このあたりで引き返したかったが、さっきのおじいさんに見つかると、うるさそうなのでがんばった。
 確かに上からの眺めはよかったが、朝の運動としてはちと厳しかった。まあ、10時55分発の列車に間に合えばいいのである。
 あとは、ローマの空港に向かうだけだ。もちろん、多少の時間の余裕はとってあるので、定刻にローマにつけば、1時間半ほどは市内の散歩ができるはずだ。

2004-10-14

重荷を背負うて歩いたカタンザーロ

 旅の終わりが近づくと、何となく落ち着かない。14日の夜までにローマの空港まで余裕をもってたどりつくには、どこまで行っていなければならないか、逆算しながら行動しなくてはならないからだ。
 13日はスティーロを朝8時45分のバスで発ち、モナステラーチェで鉄道に乗り換え、まずは州都カタンザーロ(Catanzaro)を目指した(州都の機能の一部はレッジョにあるらしいが)。

 幸いにも朝のバスに学生はおらず、乗客は町へ出るじいさま、ばあさまが中心。おかげで、私は堂々と後方に陣取り、バスの窓を開けてスティーロの全景を写真に収めることができた。
カタンザーロの旧市街


 鉄道のストはローカル線にはあまり影響がないとのことで、各駅停車の列車は定刻どおりにやってきた。そして、カタンザーロまでの約2時間を、右手に海岸線、左手に山岳都市を眺めながら、のんびりと過ごしたのである。

 カタンザーロは、バジリカータ州の州都ポテンツァにそっくりの丘上都市である。どちらもの町も、丘の下から見た威容は神々しいほどだ。国鉄線の駅と市の中心部とを、私鉄列車が急勾配の区間をはさんで結んでいるのも共通している。
 そして、どちらの町も、駅に荷物預かり所がないところまで共通していた。これは困りものである。おかげで、私は十数キロのリュックを背負ったまま、町をうろつくハメとなったのである。

 しかたがないので、町をざっと歩いたあとは、約30分おきに出ている私鉄に乗って、町を下ったり上ったりしていた。最初に乗った午後1時ごろは、学校帰りの生徒で超満員だったが、それ以降の便は比較的空いていた。
 新しく買ったコンパクトデジカメを丸出しにして乗り込むと、乗務員に目ざとく見つけられた。
「それはいくらするんだ?」「あんたは日本人か? トーキョーは、ホッカイドーにあるのかキューシューにあるのか?」「フジサンは、何メートルあるのか」と、矢継ぎ早に質問が浴びせかけられる。

 しまいには、「運転席から写真を撮れ」としつこく勧める。運転士のじゃまをしないように写そうとしたが、運転士もいっしょになって会話に加わっていたのが恐ろしい。
 丘上都市を巡るのが好きなんだといったら、イタリアのガイドブックにノーマークの町まで教えてくれた。次に来たときに行かなくっちゃ……。
カラーブリア鉄道のディーゼルカー


 それにしてもこんな急勾配をどうやって登るのかと思ったら、途中でアプト式(厳密にいうとちょっと違うのだが)になっているのである。これは収穫であった。運転席に招かれなかったら気がつかなかった。

 列車で町の上まで登ってから、もう一度ぶらぶらと散歩しながら町を降りていった。途中で、アプト式の線路が見渡せる場所があったので、ここで列車の写真を撮ろうと待った。
 やがて、車体全面にひどい落書きがほどこされたディーゼルカーがやってきた。私のことに気づいたのだろう、運転席にいた2人がこちらに向かって手を振ってくれた。

 ところで、きょう13日はイタリア中で大雨に見舞われたらしい。だが、私は相変わらず悪運強くちょっと降られただけですんだ。定食屋に入ったとたんに土砂降りになって、出て行くときにはやんでしまったのである。

 こんなカタンザーロを午後5時に出発し、ラメーツィア・テルメ(Lamezia Terme)行きに乗車。ここで、イオニア海側からティレニア海側に転じる。さらに列車で20分ほど北上して最後の宿泊地となるアマンテーア(Amantea)に向かう。
 例によってホテルの予約もしていないし、到着は7時過ぎになるが、なんとかなるだろう。

2004-10-13

岩山の中腹に広がる町・スティーロ

 12日のレッジョは、朝からぽつりぽつりと雨もよう。悪運もついに尽きたかと思いながら、駅に向かった。高級ホテルから駅に行くにはタクシーが常道というものだが、すぐ近くに市内バスの路線があることを昨日のうちから調べておき、切符も買っておいた。
スティーロの中心部に向かう道


 さて、きょうの行き先は、レッジョから直線距離で約100キロほど北東にあるスティーロ。昼過ぎには直通のバスもあるが、それまではカタンザーロ(Catanzaro)方面に行くローカル線(長靴の爪先の裏あたりを走る)に乗り約2時間45分。モナステラーチェ(Monasterace)という駅で路線バスに乗り換え、約30分でスティーロに着く。
 ここでもバス停には時刻表はおろか標識もなく、バールのにいさんやそのへんのおばさんに尋ねて、なんとかたどりつく。インターネットで、あらかじめ時刻表を調べていたからいいようなものの、さもなくば大変なことになっていた。

 というのも、スティーロ行きのフェデリーコ交通のバスは夕方まで数本は出ているのだが、戻りのバス便は朝の8時45分発でおしまい(*のちに昼便もあることがわかった……)! 大半は朝5時から6時台に発車してしまうという純粋な通勤通学バスなのである。ということは、どうしてもスティーロに1泊しなくてはならないことを意味する。
 さもなくば、ヒッチハイクか14キロの道のりを歩いてもどるしかない。タクシーは影も形もなかった。
 熟考した上で、スティーロに1泊する覚悟を決め、下校の高校生たちをお供にしてバスの客となったのである。

 市街地を抜けて周囲が開けると、スティーロの威容が目の前に広がる。屏風のような高い岩山の中腹に、家がびっしりと建ち並んでいるのが見える。神々しいまでの風景に圧倒され、ただ茫然と眺めるだけであった。どんな写真を撮っても、このスケールは表現できないと思ったしだいである。
 もっとも、車内の高校生はそんなことにも構わず騒いでいたが……。

 ホテルは予約していなかったが、問題なくとれた。新しいホテルのようで、値段はレッジョの半額以下。それでいて設備はほとんど変わりがなかった。
カットーリカ


 スティーロにも旧市街(Centro Storico)と新市街があり、旧市街の上方には「Cattolica(カットーリカ)」と呼ばれる10世紀に建てられたビザンチン様式の小さな教会がある。イタリアでもかなり珍しい建築として、雑誌や観光ポスターなどでよく目にするものだ。

 さて、問題の天気なのだが、私がスティーロに着くころには雨はやみ、太陽が姿を現した。たぶん、普段の行いがいいからなのだろう。まあ、ひどく暑くなったのは困ったが、傘をさして歩くよりはマシである。
 町を一周してみて、やはり1泊してよかったと思う。少なくとも、建築や丘上都市に興味のある人ならば、それだけの価値がある町だ。
 内陸に数キロ入っているのだが、高度が400メートルあるので、町からは海が見える。

 ただ、遠景を撮るには町から山を下り、何キロか歩かなければならない。あす朝の帰りのバスの窓から、必死で撮ることにしよう。いくら学生に笑われても……。
 スティーロは、カラーブリアでも有数の美しい町である。メシを食うところさえ充実させれば、観光地としてやっていけると思うなあ。

 あすは、鉄道のストがあるという。しかも、天気は荒れ気味とのこと。さて、どうなることか。

2004-10-12

シッラの海岸を散歩する

 レッジョの町は、どことなくナポリやパレルモを思わせる。もちろんナポリほど混沌とはしていないが、雑然としてとりとめのないところが似ているのだ。
 どこかの本で、ナポリの猥雑で楽天的な気質は、町を開いたギリシャ人の気質を受け継いでいるのだという記述を読んだことがある。となると、やはりギリシャ人が開いたパレルモやレッジョも、それに似ていても不思議ではない。
シッラの海岸に建ち並ぶ家々


 と、能書きはともかくとして、レッジョのホテルに着いて、まず驚いたのは水。なにしろ、口に含むとしょっぱいのだ。ホテルが気を利かせて塩味を付けているのではないとしたら、これはかなり水が悪い。町のどこでも清冽な水が飲めた先週の旅がなつかしい。
 ちなみに、このホテルは駅から徒歩15分ほど。駅に着いたのが夜遅かったので、イタリアのガイドブックで3つ星であるのを確認して、公衆電話から予約しておいた。
 ところがである。現物を見てビックリ。なんとゴージャスなホテルなことか。星も4つである。かといって、いまさらやめるともいえず、身分不相応なホテルに2泊もすることになった。
 やはり4年前のガイドブックでは限界があったか。改装によって、ホテルの星の数が変わるのは以前にも経験したことがある。立派な客室に入ってまずやったことが洗濯というのが情けない。

 さて、そんな大都市レッジョから、北方向に列車で約30分乗ると、海に面したシッラ(Scilla)の町がある。ペンテダッティロからの帰路は、奇跡的にバスと列車にすぐ乗れたので、まだ日が高いうちにシッラに着くことができた。

 駅は山と海にはさまれたわずかな隙間にあり、少し歩くとすぐに砂浜に出る。海水浴客も多く、のんびりした光景だなあと思ってジェラートでも食べて帰ると、それはシッラの一面しか見ないことになる……と偉そうにいっているが、私も危うくそれで終わりそうになった。
 砂浜の北側の岬を回り込むと、風景は一変。写真のように、山から家々がこぼれ落ちるかのように建ち並んでいるのが見えるのだ。海岸あたりの家は、家から船で直接海で出られるようになっており、福井県の若狭湾あたりの漁村を思わせる。
展望台に集うおじさんたち


 散歩するには海に近いほうの町並みがいい。狭い路地や階段が連なっており、たまにウマそうなレストランが目に入る。

 もちろん、展望を求めるならば階段を使って上の町に行かなくてはならない。空気が澄んでいれば、リーパリやストロンボリなどのエオリア諸島が見えるそうだ。
 広い展望台にはベンチが多数用意されており、日暮れどきになると、例によって近所のおじさん、おばさんたちがどこからら集まってきて、おしゃべりをしたり海を見たりしていた。
 また、ここはカジキマグロ漁の基地だったらしく、展望台の中央には、デカいカジキマグロを抱え込んでいる漁師の銅像が建っていた。

廃墟の町・ペンテダッティロ

 ここペンテダッティロ(Pentedattilo)を訪れるのは最初から難行が予想されていた。なにしろ、最寄りの駅メーリト・ポルト・サルヴォ(Melito Porto Salvo)から約8キロ。バス路線はないことがわかっている。それでも、なるべく近くまで行くバスがないかとレッジョ・ディ・カラーブリア(Reggio di Calabria)中央駅のインフォメーションを訪ねたのは11日の朝10時のことである。
ペンテダッティロの遠景


 すると、現地から約5キロに停留所があるらしいことがわかった。しかも、レッジョの駅前からそのバスが出ているという。あとは、バスの乗り場で聞いてくれとのこと。
 たまたまインフォメーションにいた自転車旅行の青年の助けを借りて、バス待ちのおじさん、おばさんを巻き込んで大騒ぎの末、ようやく「Bivio di Pentedattilo」で降りて歩けばいいことがわかった。
 カラーブリアのバスに乗ると、やたらに「Bivio」という名で始まる停留所があるが、これは「……口(入口)」「……下」といったところである。

 停留所がわかったからといって、案内放送があるわけでもなし。前もって運転手に因果を含めておくしかない。
 そして、レッジョの中央駅から約30分、目的の停留所に到着した。同じところで降りたのは、なぜかインド人3人。顔色や言葉から、どうやら私と相性のいいインド南部の人らしいので声をかけてみた。
 すると、そのうちの一人は3か月前に仕事で土浦に行ったとのこと。下手くそな日本語でなんとか会話が成立した。イタリアには仕事で来ているという。

 停留所のそばの、彼らの顔なじみらしいバールで、ビールをごちそうになってしまった。昨晩も、近くのピッツェリーアで店主に酒をごちそうになっている。どうも、旅先では人に情けをかけられるタイプらしい。

 さて、またもや前置きが長くなったが、問題のペンテダッティロは写真の通りのすさまじい町であった。「あった」というのは、いまはほとんど廃墟で人が住んでいないのである。
 どうやら、2、3軒の家と教会とは手入れされているようだが、それ以外は屋根や壁が壊れている家も多い。
ペンテダッティロの廃墟


 ペンテダッティロのことは、竹内裕二『イタリアの路地と広場 上』(彰国社)にもとりあげられているので、知っている人もいることだろう。
 ギリシャ語で、ペンテは5、ダッティロは「指」という意味とのこと。イタリア語のディータ、英語のディジットと同じ語源に違いない。バックの岩を、巨人の指にたとえて付けた名前である。
 それにしても、なぜここに家をつくろうと思ったのだろうか。実に不思議である。

 竹内氏の本によれば、18世紀の地震で放棄されたというが、もう少しあとまで使われていたのではないかという気もしないでもない。
 ここの少し下には、まるで公務員宿舎のような家が整列しているが、これはこの町に住んでいた人たちのためのものなのだろうか。

 結局、バス停からここまで強い日射しの中を歩いて1時間近くかかった。レッジョのバスターミナルで話を聞いたおばさんも、バス停のバールのおじさんも、「30分くらい歩けば着く」なんて言っていたがとんでもない。たぶん自分の足で歩いたことなどないのだろう。途中で水分が不足して、危うく遭難するところであった。

ローマ・テルミニ駅での決断

 10日朝、サレルノから特急に乗ってローマ・テルミニ駅へ。長いホームをはるばる歩いて空港直通列車に乗る。
 特急列車が遅れたので乗り換えはギリギリ。最後は、ドイツかオランダ人かのうら若い女性の助けを得て、閉まりかけた扉を押さえ、無事に妻を列車に乗り込ませた(よい子は真似をしないように)。
 空席を探して座ると、たまたま正面が日本人。いや、華僑の5代目という黄さんであった。年格好も近いので話も盛り上がり、数十分の乗車時間はあっという間に過ぎてしまった。

 さて、妻を見送ったら、あとはマルケ、アブルッツォあたりのシブい都市を巡るつもりだった。というのも、カストロヴィッラリからディアマンテまでのバスで、もうカラーブリアに満腹したように感じたからだ。

 だが、しかし! ローマのどんよりした空で決心は揺らいだ。さらに、空港の高くてマズいパニーノを食べて心はさらに動いた。
「あの日射しをまた浴びたい! ウマくて安いメシを食いたい!」

 そこで、妻を見送ったあとで、いったん国内線の乗り場まで向かった。しかし、予算の関係で飛行機の利用はあきらめた。決心がつきかねていたことも理由の一つである。
 最終決断は、ローマ・テルミニ駅にもどる列車の中で下すことにした。意外に優柔不断なところもある私なのである。
ローマ・テルミニ駅の広告


 ローマ・テルミニ駅にもどると、なんと雨が降ってきたではないか。これで決定!
 ちょっと高いけど、全車1等のレッジョ・ディ・カラーブリア行きの特急が40分後に出るので、これを予約した。
 列車を待っているときに、ふと後ろを見ると、カラーブリア観光の看板が! まるで私の再出発(?)を祝っているかのようであった。

 列車が終点のレッジョ・ディ・カラーブリア中央駅に着くのは夜8時過ぎ。時間はかかったが、沿線の車窓を見ながら、このあとに訪問をするべき都市の目星がつけられるという点では、飛行機にまさった(負け惜しみ)。

サレルノで乾杯

 妻が休暇の関係で先に帰ることになっているので、ローマまで送らなくてはならない。
 昼すぎの便なのだが、そのためにいまさらローマに泊まるのもおもしろくない。かといって、ディアマンテにもう一泊すると間に合わない。

 というわけで、9日の夜は、その中間にあるサレルノに一泊することにした。ここなら、朝7時前の特急に乗ればいい。ナポリにくらべれば、こぢんまりとしている点と、駅前に常宿があることで、サレルノは使い勝手がいい。
 しかも、なかなかここは散歩にいい町なのである。海岸通りもさることながら、駅前から長々と続くビットリーオ・エマヌエレ2世通りの賑わいも楽しい。かなりの広さがあるのだが、歩行者専用なので、気兼ねなくあちこちの店に立ち寄ることができる。

 それにしても、なんという人の数か。土曜日ということもあるのだろうが、夜8時を過ぎると通りも店も人でいっぱいである。
サレルノの旧市街の奥


 ただ一つ気になったのは、来るたびに店がこぎれいになっていくこと。以前は通りの奥まで行くと、惣菜屋や乾物屋のようなものがごちゃごちゃと存在していたのだが、いまでは多くが若者の服を売る店に姿を変えてしまっていた。
 庶民向けの百貨店であるUPIM(ウーピム)やCOIN(コイン)も、しゃれた服や日用品でいっぱいだ。COINの手前には、服の店ばかりが集まったショッピングモールになっている。
 とにかく町全体が垢抜けしてしまった。たった2年でこんなにも変わるものなのか。

 まあ、そんな店を眺めながら、2年前に行ったワインバーを訪ねた。サレルノ初のワインバーらしく、そのときは開店から2週間たったばかりだった。いいワインが手頃に飲めるので、3日続けて通ってしまったほどである。
 オーナーが代わったことはメールで知っていたが、店の雰囲気がそのままだったのはうれしかった。
 驚いたのは、すぐそばに2軒もワインバーが開店していたこと。2年前は、周囲に建ち並ぶトラットリーアやバールから浮いていたように見えたが、いまは周囲が変わってしまった。
 客を見ると、前は地元の人が多く和気あいあいという印象だったが、今回はちょっと気取った客が多かった。評判を呼んで、あちこちから客が集まるようになったからだろうか。
 ただ、そんな堅苦しい印象も従業員の笑顔で救われた。スペイン人風の女の子は、どうやら気取った客が苦手なようで、私たちのところによく来ては愛想を振りまいていた。

2004-10-11

ダイヤモンドという名の町

 ディアマンテ(Diamante)とは、イタリア語でダイヤモンドのことである。なぜそんな名前なんだろうと思ったが、マルケ州生まれというホテルの奥さんは「知らない」という。
「でも、ここはいいところよ。夏の海水浴シーズン以外はのんびりしていて」と、いかにも聡明そうな彼女は、たばこをくゆらせながら語った。
 8日は金曜日ということもあって、夜が更けるにしたがって散歩をする人が増えてくる。海岸に面した道は格好の散歩道である。
 魚屋の店先では、カジキの頭が立てかけてあり、その場で身の切り売りをしていた。
「おお日本人か。写真? もちろんOKだよ」と、お客さんのおじさんといっしょにポーズをとってくれた。「テレビのロケみたいだな」と笑っている。
唐辛子を干す家


 晩飯の場所はその店主に尋ねることにした。
「値段が高くなくて、魚がウマくて、カラーブリアの辛い料理が食える店? そりゃあ、すぐそこのピッツェリーアだな。もちろん、パスタも前菜もとれるよ」

 食事前に、土産物屋で唐辛子のオイルやら頼まれもののベルガモットのマーマレードを購入。辛い料理で知られるカラーブリア州のなかでも、ディアマンテは唐辛子で“町おこし”をしているようで、陶製の唐辛子の土産物から、唐辛子入りのグラッパまで売っているのには驚く。激辛唐辛子のスパイスに「カラーブリア・バイアグラ」という愛称がついていたのは大笑いであった。

 それにしても、10月というのに海水浴客がいたのは驚きである。
「ノルディックやドイツ人は泳ぐのよね。暖かいらしくて。7月と8月のハイシーズンに来るのはイタリア人ばかりだけど」とホテルの奥さん。
壁画のあるアパート


 そういわれてみると、ちょっぴり垢抜けない町の雰囲気は、いかにも国内客向けの観光地らしかった。しかし、ちょっとガイドブックにでも載れば日本人もやってくるに違いない。シーズンを外せば、のんびりできること請け合いである
 そうそう。唐辛子と並んで、この町のもう一つの“町おこし”のネタは旧市街の家の壁に描かれた数々の壁画である。
 まあ、落書きと変わらないじゃないかという意見もありそうだが、せっかくなのでいろいろと眺めてみた。

・きょうのひと言
「アメリカは1回行ったことがあるわ。でも、アメリカはもうたくさん!」
 ホテルの奥さんと娘さんをまじえて、コーヒーをごちそうになりながら、午後の世間話をした。ミラノから東京まで12時間と聞いて彼女は驚き、「アメリカなら6時間で行けるんだけどねえ」といったあとに続けたことば。

山道をバスはゆく

 内陸のカストロヴィッラリから西海岸のディアマンテまでは、地図で見ると直線距離で40キロ足らず。ところが、道路に書かれた標識には90数キロという数字が書かれていた。しかも、そこを3時間かけて1日2往復のバスは走るのである。
「ふつうは、いったんコセンツァにバスで南下してから、鉄道でパオラに出て北上するけどなあ」と、周囲の人たちもあきれ顔である。

 さて、そのバスであるが、発車直後こそ、学校帰りの高校生で超満員だったが、最初の大きな町サラチェーナを過ぎると、座席はガラガラになった。
 あとは、くねくねとした山道を下ったり登ったり。フィルモ、ルングロ、アックァフォルモーザと、次々に丘上都市を通過していく。そのたびに、私は右の席、左の席と移動しながら、開けた窓からカメラを構えるのである。
 最後の1時間は、2000メートル近い山の峠を越えるために、一気に気温が下がる。そして、いいかげん飽きたころに、視界が開け、はるか遠くに夕日の光る海が見えるのだ。海抜が高いので、水平線がずいぶん高いところにあるのが印象的だった。
「ここは、アペニン山脈がもっとも海に近くまでせりだしているところなんですよ。海岸線から3キロの地点に、1700メートルの山があるんです」
 あとで出会うことになるディアマンテのホテルの主人は、こう教えてくれた。
 結局、ディアマンテまで乗り通したのは、われわれ2人のほかには、60歳くらいの女性と運転手だけであった。
のどかなディアマンテの海岸


 さて、到着したはいいが、ホテルの予約はしていない。バスターミナルの周囲にはタクシーもいなければ電話もない。中心地とおぼしきところを目指して歩きはじめたが、疲れ切った妻は「もう歩きたくない」という。
 しかたがないので、荷物と妻を道端に置いて、ホテルを探すことになった。

 早足で5分ほど歩くと町はだんだんとにぎやかになり、海岸線に沿って広々とした散歩道が見えた。すると、反対方向から実に上品そうな初老の夫婦が歩いてくる。すがる気持ちで私は尋ねた。
「すいません、この近くにいいホテルはありますか」
 すると、奥さんは自信たっぷりに教えてくれた。
「ええ。その坂を降りたところにある『ホテル・リビエラ』が最高よ!」

 超高級ホテルでもなさそうなので即断。フロントで、妻を迎えるためのタクシーを頼もうとしたら、主人みずから自家用車で向かってくれるという。
 まもなく、小さなバールのそばの歩道にへたりこんでいる妻を拾ってホテルにもどることができた。

 写真は、ディアマンテの町である。バスは、この後ろに見える山を越えて、はるばるやってきたのだ。

・きょうのひと言
「20年前はもっとよかった!」
 ホテルで昼食をとっていると、出張とおぼしきイタリア人のビジネスマンと隣り合った。こちらが「南イタリアはが好きなんですよ」と言うと、彼はこう答えたのだった。どう見ても30代なかばの男なんだけど……。
イタリアでも懐かしものブームか。

2004-10-10

山と谷に囲まれた町・チヴィタ

 10月8日、カストロヴィッラリを発つのは午後2時10分に決定。それまでに、近郊の町を尋ねることにした。行き先は、ホテルの人の意見をもとにして、車で約20分の距離にあるチヴィタ(Civita)に決めた。
「モラーノとアルトモンテに行ったのならば、それに匹敵するのはチヴィタだ」という。
 ほかにも、サラチェーナやルングロという選択肢もあったが、「サラチェーナは単なる山に町があるだけ(まあ、それだけでも十分に行く価値はあるのだが)だけど、チヴィタは町と自然の調和が素晴らしい」というのである。
チヴィタの町の全景


 チヴィタにはバス路線もあるようだが、午後の長距離便に乗りそこねても行けないので、奮発してきょうもタクシーで往復することにした。
 やってきたのは、すでに顔なじみになったタクシー会社の社長。年格好は50代後半で、バスターミナルのそばに小さな事務所を置いている。配車がとどこおると、社長じきじきに自家用車らしきいい車を運転するわけである。

 さて、そのチヴィタである。イタリアじゅうに同じ名の町は多く、チヴィタ・ディ・バーニョレージョのように、「どこそこのチヴィタ」と呼ばれるのだが、ここは徹底して「チヴィタ」だけなのである。
 前置きはこのくらいにして、そのチヴィタは期待以上の素敵な町であった。高い山と深い谷に囲まれて、わずかに平らな土地を中心に町ができているという印象である。

 また、ほかのカラーブリアの山の町と同じく、アルバニア人を先祖とする人が多く住んでおり、町にはアルバニア語の標識があちこちに建っていた。アルバニア人は、南部のイタリアに100万人の単位で住んでいるのだ。そんな町の中心の広場には、よくアルバニアの伝説的な英雄スカンデルベックの胸像が建っている。もっとも、こんな銅像をわざわざ建てたのは歴代のイタリア政府によるアルバニア人懐柔策という話を聞いたことがある。
イタリア語とアルバニア語が併記された標識


 東洋人にはなれていないらしく、すれ違うじいさんばあさんにジロジロとにらまれるが、「ブォン・ジョルノ」というと、すぐに和やかな顔になって返事を返してくれるのは気持ちがいい。
 調子に乗って、「美しい町ですね」なんて付け加えると、これまた効果絶大。「あそこに行くと見晴らしがいい」とか「どこそこで出来立てパンを売っている」という貴重な情報を教えてくれる。

 この町も、昼前には中心に広場に、親父・爺さま軍団がたむろしはじめる。ただしゃべっている人もいれば、カード遊びに興じている人もいる。
 そんなバールの1つに足を踏み入れビールを頼むと、案の定、いろいろと話しかけられた。
「なんだ、きょう帰るのか。あしたからお祭りなのに」「日本人か、オレは歌の仕事をやっているけれど、昔サンレモ音楽祭に出た岸洋子と会ったことがある」などと、人の話を聞かずに、もっぱら自分のことを話す一方である。

 ふだんからそんな客しかいなくて、言いたいことが溜まっていたのか、客がいなくなると、今度は気のよさそうな太った女店主が、自分のことを私たちに話しはじめた。
「結婚してドイツに20年以上住んでいたのよ。でも、生まれ故郷のここがいいわね。ドイツにいたらイタリア語をだんだんと忘れていったけど、イタリアにいたら今度はドイツ語を忘れてしまったわ、ハッハッハ」

 それにしても、きょうもまた暑かった。イタリアに来て、これまで晴れ続きである。町はずれまでやってきて、止まらない汗をぬぐいながら、町の全景を撮っていると、見慣れた車がやってきて、タクシー会社の社長が窓から顔を出した。

・きょうのひと言
 ナポリで生まれで38年間カストロヴィッラリに住んでいるタクシー会社の社長に、「ナポリとこことどっちがいい」と質問した答え
「こっちだなあ。なんといっても静かだし。ナポリに行くと落ち着かないよ」

2004-10-08

辛ーブリア州は刺激的

 カラーブリアは、辛いもの好きにはうれしい町である。どちらかというと刺激の少ないイタリア料理にあって、ここの郷土料理は唐辛子をたっぷり使ってあるのが特徴だ。民家の軒先に、大きな唐辛子が干してあるのも目につく。
アルトモンテで食べた唐辛子のから揚げ


パスタはもちろん、肉料理もピリ辛のものが必ず置いてある。これは、高級なレストランでも同じようだ。
 親しくなったバスターミナルのバールのにいちゃんから、ドイツのプリッツェル風のお菓子をもらったが、それもまたピリ辛だった。

 写真は、7日に訪れた丘上都市アルトモンテ(Altomonte)で食べた昼食の一皿である。地元でとれた材料をふんだんに使った前菜が提供されたなかのもの。甘い唐辛子のから揚げ、なすをペースト状にしたものから揚げ、ポテトコロッケである。
 昼は定食になっているのだろう、このほかにも、フンギ・ポルチーニをはじめとする各種のキノコ料理、生ハム、チーズなどが次々に出された。昼から地元産の赤ワインがうまい。

 おかげで、とうとうパスタまで達することができずに満腹になってしまった! 日本人の腹が小さいのかとも思ったが、隣のテーブルのドイツ人夫妻も同じところでギブアップしていた。
カストロヴィッラリの旧市街


 それでも、イタリア人の男2人連れは鶏肉まで食っていたのだから恐ろしいものである。

 交通は不便だが、こんな田舎にと思う場所に、ぽつりぽつりとウマそうなレストランが建っているのが不思議であり、魅力でもある。
「自然の材料をふんだんに使った料理は抜群だ」と、バス停で会った、出稼ぎ先のドイツから里帰りしているというおじさんが教えてくれた。

・きょうのひと言
「いやあ、楽な仕事だから! 日曜は休みだし」
 朝5時から夜9時までバスターミナルのバールで働いているマッシモ氏(男・推定年齢30歳)に、「働き者だなあ」と言ったところ--

2004-10-07

憧れのモラーノ・カラブロ

 10月6日の朝5時。まだ暗いなか、夜行バスはカラーブリア州のカストロヴィッラリ(Castrovillari)に到着した。山に囲まれたこの都市を拠点にして、周辺の町を巡ろうという算段である。
 宿泊予定のホテルは、市内にありながら庭を広くとってコテージ風にした斬新な設計。しかも、料理はカラーブリアで唯一ミシュランの星つきという「鄙には稀な」ホテルなのである。だが、そこにたどりつくまでが大変であった。
 まずは、荷物をホテルに預けて町めぐりをしようと思ったが、タクシーもなくバスの待合室も閉まっている。バスを降りた客は、ほとんどが別の便に乗り換えて、一人も残っていない。さらに、バスの冷房で本格的な風邪引きの予感はするし、同じく風邪気味で疲労気味の妻の機嫌が悪いという最悪の状態を迎えてしまった。
モラーノ・カラブロの遠景


 それでも、ホテルに電話をしたり、ぼつぼつ開きだしたバールのにいちゃんの助けを借りたりして、ホテルから迎えにきてもらえた。幸いにも部屋が使えるというので、すぐさま仮眠に入り、昼ごろまで寝ていたのであった。

 さて、前置きが長くなったが、昼過ぎにやってきたのが20年越しの望みであったモラーノ・カラブロ(Morano Calabro)という町。写真でもわかるように、1つの山にべったりと家が張りついて旧市街を形作っている。約20年前にイタリアの観光雑誌「Bell'Italia」で見て以来、憧れだった町である。

 宿泊地のカストロヴィッラリから約8キロ。行きはタクシーで、頂上にある「ノルマンの城砦」に運んでもらい、そこから"下界"まで歩いて降りていくことにした。

 それにしても、ここは丘上都市好きの人間にとってこたえられない町である。バイクや車が通れるのは、ごく限られた道だけ。入り組んだ細い路地には、30年ほど前までロバが活躍していたという。
 まあ、この町も、近々ホームページの「イタリア町めぐり」で紹介することになるだろう。
モラーノ・カラブロの頂上付近


 この日も、またもや昼飯難民になってしまったが、なんとか3時から開くバールで白ワインとパニーノを取り、5時発のバスで帰ってきた。
「カラーブリアは観光客向けのサービスが悪いでしょう。看板はイタリア語ばかりだし、バス停には時刻表もないし……」
 バールの若くて美しい女性はそう言った。確かにそうである。バスに乗るには、まず切符の販売所と時刻を、近くのイタリア人に尋ねなくてはならない。もっとも、老若男女、町の誰もがバスの発車時刻を知っているのは驚きであった。
 タクシーだって、電話で呼び出さなくてはならないから大変である。英語ができる人はほとんどいないので、イタリア語ができなくてはどうにもならない土地なのだ。
 もっとも、イタリア人と会話をしなければならない状況に追い込まれるために、イタリア語学習者にとってはいい環境かもしれない。
 すでに、バスターミナルのバールのにいちゃん(これがまたハンサム)とも仲良くなった。1週間も滞在すれば、町じゅうに知人ができてしまうことだろう。

ジローラモによろしく

 イタリア南部方面行きの長距離バスが発着するのは、ローマ・ティブルティーナ駅そばのバスターミナルである。
 ローマの国鉄の駅といえば、テルミニ駅が有名だ。あとは観光客が利用するとすれば、せいぜいローマ・オスティエンセ駅かローマ・トラステーベレ駅。ティブルティーナ駅の利用は私も初めてで、しかも出発は夜の11時半というので、ちょっぴり不安であった。

 アッシージからの列車が到着したのは8時過ぎ。市バスの運転手に聞いて、なんとか長距離バスターミナルを探し当てて切符を購入したが、荷物預かり所もバールもない。
 しかたなく、2人で大きな荷物を持ってうろうろする。ほかには、東洋人の観光客どころか、アメリカ人もドイツ人もいそうにない。それでも、腹の減りようには抗えず、懸命な探索の上にようやく見つけたのが、駅の斜向かいにある「ピッツァ・ナポリ」という看板を出した小さな軽食屋であった。
 いわゆるターボラ・カルダという、出来合いのパスタや前菜を食べさせる店なので、味は期待していなかったが、意外とうまい。ワインが進むにつれて、50歳前後の店主との会話も弾んできた。
「ピッツァ・ナポリ」の店主夫妻


「どうだい、うまいだろ。オレが生まれたのは、ナポリの郊外にあるパコーリの近くのモンテ・プローチダというところなんだ。いやいや、プローチダ島じゃなくて、山のほう。そこからは、ナポリ湾が一望できるのさ。こんどナポリに行ったら、ぜひ寄ってよ」
「何? 日本で一番有名なイタリア人はジローラモっていうナポレターノだって? うん、その名前をつけるのならば、○○か××か△△の町の出身だなあ」
 10時を過ぎると、彼とその奥さんらしい2人が、客席に入って食事をするのだが、常連らしい客がひっきりなしにやってくる。図々しくも、そんな人たちと写真をとって、盛り上がる私たちであった。
「閉店は12時なんだ。それ以上やっていても、変なやつばっかりやってくるしね。警察の厄介になるのもいやだから」

 お互いにワインが入って他愛ない話を重ねているうちに、11時になった。私たちは勘定を払って店を出た。
「オレはずっとここで店をやっているから、日本に帰ったらハガキをくれよな。これが名刺だ。そうそう、店の外からも写真を撮ってくれよ。ジローラモにもよろしくな。ローマに来たらこの店に寄ってくれって伝えてよ、ハッハッハ……」
 「『よろしく』って言われてもねえ……」などと私と連れ合いは話しながら、狭苦しい夜行バスに乗り込んだのであった。

2004-10-06

聖も俗もあるアッシージ

 聖フランチェスコの町・アーシッジは、前日にあった年に一度のお祭りの余韻が残っていた。道理で、どのホテルも満員だったわけである。結局、中心街からはずれたところにあるこぎれいな2つ星ホテルに宿泊した。
アッシージの旧市街をバックに


 もっとも、設備は3つ星以上といってもいいくらい。1969年には、当時まだ枢機卿だったヨハネ・パウロ2世・現ローマ法王が仲間3人と泊まったというところである。
 それにしても、アッシージといえば、宗教的な雰囲気がただよい、ちょっとばかり堅苦しい町という印象があったが、この喧騒はなんだ。

 町のメインストリートは屋台で埋まり、身動きができないほどである。食べ物屋や道具屋だけでなく、ペットショップまでさまざまな屋台が開いている。

 地震で一部が崩れたフランチェスコ教会は、しっかりと修復されてその傷跡は外側からではわからない。だが、貴重な壁画の一部は無残に変化して、まるで火災後の法隆寺金堂の絵のようであった。
 それにしても、よく歩いた。町全体を写そうと思い、山から徒歩で降りてうろうろしていた。そんなときに出会ったのが、この写真にある農作業のおじさんたちである。

2004-10-05

ペルージャのペルシャ人

 4日の昼にフィレンツェを発ち、午後はペルージャをぶらぶらして、夜7時ごろアッシージのホテルに着いた。
 ペルージャも何度か訪れたことはあるが、こんな明るく感じたのは感じたのは初めて。町の印象なんて、天気で大きく変わるものである。

 さて、興奮気味に古い町並みを撮っていたら、いつのまにか3時すぎ。食べ物屋は店じまいをはじめ、危うく昼飯難民になるところだった。
ペルージャ旧市街の水道橋付近

 いくつかの店で断られ、道すがら気になっていた中東風の音楽の鳴るピッツェリーアに入った。中年のやせこけた哲学者風中東風ヒゲ面男性が切り盛りする、路地の小さな店である。
 客はほかになく、ちょっと心配だったが、ピッツァもサラダもうまく、なんといっても店主の立ち居振る舞いの上品なのが印象的であった。
 まあ、この話は、いずれホームページの「イタリア町めぐり」で詳しく書くことになるだろう。その店主であるペルシャ人(イラン人)は祖父について世界の各国をまわり、最後にはペルージャで医学も学び、結局は気に入った料理の道に入ったということである。
 いろいろな人生があるものだ。この人のまわりでどんな出来事があったのか、想像するだけで思わず抱きしめたくなってしまったが、さすがに握手しただけで店を辞した。

 ところで、ペルージャといえば中心にある「11月4日広場」が有名だが、私としては外国人大学の近くにあるエトルスク門と水道橋(写真にあるようにいまは人道橋になっている)付近の風景、そして、観光客があまり行かない町の東部の町並みが好みである。

 さらに、穴場観光といえば、地元の人が利用するエレベーターとエスカレーターである。山の上にあるこの大都会では、エレベーターとエスカレーターそれ自体が公共交通機関(もちろん無料)となっている。
 なかでも、中心地近くのイタリア広場からバスターミナルを結ぶエスカレーターはお勧めだ。素掘り風の薄暗いトンネルのなかで、ときには遺跡の発掘跡を横に見ながら、何台もエスカレーターを乗り継ぐというのは、ちょっぴり神秘的で不思議な体験である。

2004-10-04

コッレ・ディ・ヴァル・デルサ初訪問

 10月4日はフィレンツェからバスでコッレ・ディ・ヴァル・デルサ(Colle di Val d'elsa)とシエナを訪れた。コッレ・ディ・ヴァル・デルサの町は、エルサ谷のコッレという意味で、地元ではコッレだけで通じる。

 きょうの初物は、そのコッレ訪問と、シエナのカンポ広場に面した「マンジャの塔」の“登頂”であった。以前は、マンジャの塔に登れるのは午後3時ごろという中途半端な時間だったために、いつシエナに行っても登りそこねていた。今では、日曜日でも18時半まで登れるというので、やっと念願がかなったわけだ。
上の町と下の町を結ぶ坂


 まあ、カンポ広場とマンジャの塔はどのガイドブックにも出てくるので、ここでは省略するとして、なんといっても期待以上だったのはコッレの町。
 観光客でいっぱいのサン・ジミニャーノを避けて訪れたのは正解だった。城壁に囲まれた小さなコッレ・アルタ(上コッレ)は、モンテ・プルチャーノを多少小さくしたような典型的なトスカーナの丘上都市である。

 フィレンツェとシエナを結ぶバスが通る、コッレ・バッサ(下コッレ)の広場も広々として、いい感じ。四方をアーチ式のアーケードに囲まれた様子は、23年前にバスの上から居眠りの合間に見ただけであったが、強く印象に残っていた。これもまた、やっと実現した訪問であった。

 10月というのに長袖ではびっしょりと汗をかくほどの陽気のもと、上の町と下の町を結ぶ坂道を、観光客も地元の人も、のんびりと降りて行く。
 と、そんな心洗われる光景を目にした日にも、やはり食い過ぎの夜が待っているのであった。

2004-10-03

8年ぶりのフィレンツェ

 10月1日夜にフィレンツェ到着。8年ぶりの古都訪問である。この8年間の変わりようにちょっとビックリ。1981年の語学学校受講時から前回までの変化よりも、この8年間のほうが大きく変わったような印象がある。
路地から見るドゥオーモ


 朝起きて、ホテルのあたりを歩いていると、ジョギングをしている人、自転車に乗っている人の多いこと。イタリア人も健康指向、エコ指向の流れには逆らえないか。

 そして、10月というのにこの観光客の多さ! ウッフィッツィ美術館だけでなく、ダビデのあるアカデミア美術館の行列はすさまじい。前もってインターネットで予約したからいいものの、そうでなければどれだけ待ったことだろうか。

「きょうはヒマだからウッフィッツィでも見に行くか」
 23年前に、語学学校の仲間とこんな会話をしたことが懐かしい。
 もっとも、すべてが悪くなったといいたいわけではない。要するに、あの、ちょっとすましたとっつきにくい古都は、よくも悪くも、親しみやすい大観光地と化していたのだ。
 
 ワインバーが爆発的に増えたことも印象的だなあ。一方、一時現れたアメリカンタイプのファーストフードの店は定着しなかったようである。まあ、駅にはマクドナルドがあったけどね。

 それにしても、どこの路地を歩いても思い出話が浮かんでくるのは、ある意味で困りものである。フィレンツェ初訪問の妻相手に、まるで横丁の隠居のごとく、さんざん先輩面して昔話をしてしまった。
 そんな私にもはじめての体験が2つ。ドゥオーモに隣接するジョットの鐘楼にのぼったこと。そして、1キロものビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(Tボーンステーキ)を食べたことである。1キロは骨も含む重さだろうが、とにかく2人で平らげた。
 もう1年間はステーキを食いたくない。

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