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著書

  • 『ひたすら眺めていたシベリア鉄道』(私家版)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)

2018-12-12

アルファマの路地をゆく路面電車

鉄道好きにとって、リスボンと聞けばすぐに路面電車(トラム)を思い浮かべるほど、この町の電車は世界中に知られている。

とくに、町の東側にあるアルファマ地区と西側にあるバイロ・アルト地区を結ぶ28系統は、昔ながらの小型の車両が走っていて大人気。アルファマでは、中心部のやや北側を通っているのだが、こんな狭い裏通り──というよりも路地によく線路を敷いたものだと感心する。

アルファマの路面電車

1981年にリスボンに来たときも、路面電車のことは知っていたから、このあたりをぶらぶらするついでに写真を撮っていた。そこで、これもまた今回、定点比較写真をしようと思ったのである。

下の写真は、複線の線路がカーブする地点だが、曲がり角で道幅が狭いために、一方の線路が他方に割り込んでいるのがわかる。専門用語で「ガントレット」と呼ばれる方式で、もちろんここで両側から同時に電車がやってきたら正面衝突してしまう。

それを避けるために、当時は1日じゅう係員が立っていて、衝突しないように電車に向かって手で信号を出していた。
左側の写真の左端あたり。木の下に2人立っているのだが、その人が手信号を出している。
棒の先につけている丸い板は、片面が赤、もう片面が緑になっていて、そのどちらかを運転士に向かって見せるわけだ。

さすがに、今回行ってみたら自動信号に変わっていた。

ガントレット区間の1981年と2018年

しかも、信号は500mほど先のもう1つの信号と連動していて、その間の区間が交互通行になっているのだ。
つまり、電車だけでなく自動車もまた、何分かおきかに一方通行になるのであった。

下の写真は、ガントレットを撮った場所から180度振り向いて撮ったもの。
線路はいったん複線に戻っているが、さらにその先で単線になっている。
運悪くここで両側から電車が出くわしても、ここですれ違うことができそうだ。

それにしても、周囲の情景がほとんど変わっていないのに驚く。

アルファマの路面電車1981年
アルファマの路面電車2018年

さらに進んでいくと、本当に建物すれすれのところを電車が通っていく場所がある。
それが下の写真の区間である。
左が1981年の写真だが、このときは電車が通過するときに、建物にぴったりと張りついてやり過ごした記憶がある。写真に写っている女性も同様だった。
ファドの歌詞に出てきそうな趣のある女性で、今回もそんな人が歩いてこないかなと待っていたのが、残念ながらそううまくはいかなかった。

アルファマの路面電車1981年と2018年

不思議なことに、今回は電車が通過してもスペースに余裕があった。
「不思議だな。昔の記憶はいいかげんだったのか」

そう思ったのだが、家に帰って写真をくらべてみてわかった。
左側の建物は建て替えられていたのである。何十センチかセットバックしたおかげで、歩道に余裕ができたことがわかった。

アルファマの路面電車

最後の写真は、交互通行の反対側の信号機がある地点である。電車と自動車が青信号を待っているところだ。
電車は次から次へとやってくるので、このあたりはいくらいても飽きない。

そして、乗客の半数以上は観光客のようである。
地元の人にとっては迷惑かもしれないが、やはり乗っていても楽しい。
もちろん、この区間だけでなく、丘を昇り降りする区間ではカーブと坂の連続。次に来るときは、じっくり時間をとって、この28系統を制覇しなくては。

2018-12-09

隠れ家ファドハウスで37年の願いがかなう

リスボン滞在2日目の夜に目指したのは、前日に町の食堂で教えてもらったファドハウス。
アルファマの中心部にある宿からは、歩いて5分ほどのところにある。

昼間のうちに場所を確かめておいたが、注意していなくては見過ごしてしまいそうな場所だった。
狭いとはいえ表通りには面しているが、昼にはシャッターを下ろしていたためか、2度ほど店の前を行ったり来たりしてようやく見つけることができた。

アルファマの夜

それにしても、営業日が木曜~日曜日というだけで興味をそそる。
前夜にレストランで教えてくれた人も、「ああ、あの店は休みか……。いや、明日行くなら木曜日だからやってるぞ!」とうれしそうであった。

ライブは夜9時からはじまるというので、宿でひと休みしてから、しばらくはアルファマの町をうろうろ。
立ち飲みのバーがあったので、リスボン名物というサクランボのリキュール「ジンジャ」を注文した。

立ち飲みのバー

スーパーに行けば瓶で売っているのだが、こんな店で1杯引っかけるのがいい。
これで1ユーロだった。

ジンジャはどこでも飲めるようで、道端でおばさんが瓶とグラス1つで商売しているのも、昔のアルファマを思い出させてくれる。

ジンジャ

9時を少しまわったころにたどりついたその店「Tasca do Chico Alfama」では、すでにライブがはじまっているようで、店主らしい太った親父さんに、1曲目が終わるまで外で待つようにいわれた。

「レストランでジョゼ・バティスタさんに紹介されたんですよ」と一応言ってみると、「ああ、おじさんだよ」と店主はにこりともせずに答えてくれた。
(ちなみに、Jose Batistaで検索したら、YouTubeに動画が1本アップされており、まさにあの人であった)

ファドハウスの店内

店内は6人がけのテーブルが8つほどあっただろうか。
幸い、歌手に一番近いテーブルの片方に空きがあり、そこに案内された。

とくに舞台があるわけでもなく、狭い店の中央に、ギターの伴奏3人を従えて歌手が歌っている。
1回のステージは20分くらいと短かったが、夜中1時のラストまで、休憩をはさんで7、8ステージを楽しんだ。

最初のステージで歌っていたのは20代後半に見える若い女性だった。
なかなか迫力があって、これぞファドという感じ。
でも、最初のステージに出てくるのだから、前座かと思っていた。

ファドハウス
買ったCD

その次のステージに登場したのは、上の写真の太っちょのおじさん。
どこにでもいそうな風貌のおじさんが歌っているのも、なかなかいい感じ。
特別に上手というわけではないが、雰囲気があって十分によく聞かせる。

隠れ家ファドハウスとはいえ、やはり客の大半は観光客のようである。私たち以外は欧米系であった。
伴奏がはじまってもしゃべっていて、「シー」と繰り返し叱られている。
もちろん、私は37年にわたる念願がかなうひとときである。食い入るように集中して、見て聴いていたのは言うまでもない。

このおじさんのステージが終わると、CDを売りにまわるのだが、どの客も買おうとしないので寂しそうである。
結局、15ユーロ也をはたいて買ったのは私たちだけだった。サインもしてもらった。
ジャケットの写真が今よりずっと若い。「ジョアン・カルロス」というよくありそうな名前のこのおじさんは、YouTubeにも動画が出ていた。

家に帰ってCDを聴いたが、陰影に欠けていて今一つという感じ。
ライブで聴いたほうがずっとよかった。

伴奏のポルトガルギターとギター

ファドというと、あまりにもアマリア・ロドリゲスが世界的に有名になっているが、彼女のファドはちょっと暗い。
確かに素晴らしいのだが、何曲も聴いていると正直なところ、ちょっと飽きるのである。

ほかにもいい歌手が数多くいて、いい曲もあるのに……と思っていたところ、この店で聴いたファドはまさに望んでいたものにぴったりであった。
しっとりとした情緒や哀感をたたえる歌が多いのはもちろんだが、ときに明るく躍りたくなるような曲も交じって、心から楽しむことができた。

そして、なんといってもファドといえば、伴奏のポルトガルギターを抜きにして語るわけにはいかない。上の写真の左2つがそれである。
ファドの伴奏は、ベースを受け持つギターのほかに、メロディを奏でる2台のポルトガルギターが付くのだが、これがほんとうに哀愁漂う音を出してくれるのだ。

ファドハウス

最終ステージで歌ったのは、当初前座ではないかと失礼ながら誤解したこの女性。
3回登場したのだが、やはり回が進むにつれて乗ってきた。オーソドックスなファドが素敵だった。
写真の右側で耳をそばだてているのは、その前の回で歌った男性歌手である。この人は2曲しか歌わなかったが、声も表現力も素晴らしく圧倒的にうまかった。

そして、夜1時にお開き。最初から最後まで粘ったのは、我々だけだったかもしれない。
さぞかし熱心な東洋人だと思われたことだろう。
幸福感にひたりつつ、石だたみの道につまずきながら宿に戻る私であった。

もう2カ月以上たったいまも、ポルトガルギターの哀愁ただよう音色と、歌手たちの情感あふれる歌声が頭から離れない。次は、リスボンに1週間くらい滞在して、さまざまな店をめぐってみたい。

2018-12-05

リスボン散歩1日目、そして楽しく不思議な出会い

アルファマ地区はリスボンの下町とも呼ばれている古い市街地である。
下町とはいうが、低い丘の上に広がっている。

リスボンは、1755年に起きた大地震で壊滅的な被害を受けたが、そんななかでアルファマ地区だけは比較的被害が軽かったのだそうだ。
だから、昔ながらの入り組んだ路地がつづき、味わい深い町並みを形づくっている。

アルファマの路地

37年前は、ガイドブックでは治安がよくない地域と書かれていたが、そんな感じはなかった。
建物が古びていて道が狭いので、観光客にはそう見えたかもしれないが、よくよく見れば私が育った昔の東京の下町と変わりない。
人びとの様子は垢抜けなかったが、町は活気にあふれていた。

前回は急ぎ足の貧乏旅行だったので、今回はアルファマ地区に宿をとって、リスボン市内をじっくりと歩き、夜は地元の人が通うようなライブハウスで本物のファドを聞きたいと思っていたのである。

現在のアルファマは、観光客であふれ返る町となっていた。

1981年のアルファマ
2018年のアルファマ

上の写真は、アルファマの中央部あたりの定点比較写真。
今回の宿は、たまたまこのすぐそばのアパートであった。

ところで、リスボンをじっくり歩くといっても、2泊3日なのが少し寂しい。
本来ならば3泊はしたかったのだが、妻の仕事の都合上、いたしかたなかった。

1981年と2018年のアルファマ

もちろん、昔写真を撮ったのはアルファマ地区だけではない。
丘の下にある都心でも撮っていた。

下の写真もその1枚。よく見ると看板に果物屋(FRUTARIA)と書いてあるのだが、なぜか店先に鶏肉がぶら下がっていた。
クリスマスだったから、たまたまなのだろうか。
こんな風景には慣れていなかったので、ビックリして少し離れたところから写した記憶がある。

この果物屋という看板、番地の数字、そして前後の写真の撮影場所を頼りとして、出発前にGoogleマップでここを探し当てるまでには何日もかかった。
それでも、なんと奇跡的に同じ場所で、同じ名前の果物屋が残っているではないか。
都心の繁華街の北側にある一角だ。

現地に足を運んでみると、店頭に親父さんがいたので、iPadミニでこの写真を見せた。

1981年の都心部の風景
2018年の都心部の風景

親父さんは、写真を見てすぐにわかってくれたようだ。
英語はあまり通じないようで、例によってイタリア語まじりのインチキポルトガル語風スペイン語と、わかりやすい英語で会話。

店の奥から出てきた奥さんともども大喜びしてくれて、ぜひ送ってほしいという。
もちろん快諾して、ここでも定点写真を撮影。上の写真で緑のポロシャツを着ているのが旦那である。

その夜、Google先生の翻訳サイトを活用して、日本語からポルトガル語に翻訳。
さっそくメールに写真を添付して送った。
すると、翌朝に長い感謝のメールが届いたのであった。それによると、彼にとってはまさに当時は古きよき時代だったようだ。

はたして、あんな観光客だらけの都心で、いつまで果物屋を続けられるのだろうか、人ごとながらちょっと心配になるのであった。

庶民的なレストラン

その夜、晩飯に選んだのは、ポルトガルに詳しい妻の友人がメールで教えくれた店である。
鶏の丸焼きがうまいというそのレストランは、例の果物屋のすぐそばだった。

けっして高級店というわけではないが、きちんとした仕事をする町の食堂といった風情で、店で働くのは地元の人らしき中年のおじさんたちばかり。その愛想のよさが、店の印象をアップさせてくれる。
(上の写真は、翌日の昼間に撮ったもの)

その庶民的な接客にも満足して、37年前に撮った市内の写真を見せたところ、じっくり見入って喜んでくれた。

私はさらに気をよくして、翌日の夜にファドのライブを聴きたいんだけどと打ち明けてみた。

「おお、うちに元ファド歌手がいるよ。彼はイタリア語が話せるよ。呼んでこよう!」

なんという不思議な巡り合わせだろうか。奥から出てきたその人は、苦み走った雰囲気で、年は私より少し上。若いころはスイスで仕事をしていたことがあるという。イタリア語はそこで身につけたのだろうか。
たちまちのうちに意気投合してしまった。

そして、彼が教えてくれたのは、アルファマ地区にある観光客向けではないディープな穴場の店であった。

2018-11-21

37年ぶりに訪れたリスボンで感じたサウダーデ

ファロ発の急行の終着駅は、リスボン・オリエンテ駅。ホーム屋根の装飾がなかなか派手な駅である。
1998年に開催されたリスボン万博に合わせて開業した駅だそうで、長距離列車のほとんどがこの駅を発着するか経由している。

リスボン市内には、ほかにもロシオ駅やサンタ・アボローニャ駅のような行き止まり式のターミナル駅があるが、現在はこのオリエンテ駅が中心駅となっているようだ。

リスボン・オリエンテ駅

1981年に南部からリスボンに入ったときは、テージョ川の南側に終着駅があって、そこから船に乗って都心に向かった覚えがある。

ホームを出て出口に向かうと、「荷物を持つよ、荷物を持つよ」と大きな声で客を迎える若い男性が何人もいて、アジアの国を訪れたような印象を持ったものである。

今では、テージョ川に鉄道と道路の併用橋ができて、都心に直接乗り入れるようになった。

テージョ川の眺め

37年前、リスボンに滞在したのはわずか1泊2日だったが、そのときの印象は鮮鋭に残っている。
到着したのは、ちょうどクリスマス・イブだった。人で賑わっているはいるが、どんよりとした曇り空のもと、なんとも垢抜けない町の様子は、私が小さな子どもだったころの東京を思い出させた。

街角で売られている臓物の煮込み入りパンの香りにつられて、ポルトガル語もわからないのに思わず列に並んだことがあった。うまかった。

アルファマの路地に分け入ると、そこはまさしく生まれ育った下町の路地そのものだった。
ひまそうなおじさんたちがうろうろしているかと思うと、物売りのおばちゃんが道端で大声を出していたっけ。

(以下は、どれも同じ場所を撮った1981年と2018年の定点比較写真です)

1981年のロシオ広場
2018年のロシオ広場

夜になると近所のバルに入り、ワインを飲みながらカウンターに並んでいる料理を物色して、「これ」「あれ」と指さして注文していた。

当時撮ったリスボンの写真を見ると、そのときの町の雑踏や匂いがよみがえってくる。
そして、そのたびに、なんでもっと滞在しなかったんだろう、早く再訪して町をゆっくり歩きまわり、アルファマの路地の店で真夜中までファドを聴いていたいと思うのだった。

1981年のカモンイス広場
2018年のカモンイス広場

だから、リスボンに到着すると同時に、37年間延ばしに延ばしていた宿題を、ようやく提出するときが来たという気持ちになったものだった。

もちろん、そこにあったのは昔のリスボンではなかったが、昔撮った写真の場所をめぐっていくうちに、まだ20代半ばだった当時の気持ちが少しずつ思い出されてきた。
大学を卒業して就職もせず、シベリア鉄道に乗ってモスクワ経由でイタリアへ、さらにユーラシア大陸の西の果てのリスボンまでやってきて、さあこれからの人生はどうなるんだろうと、まるで人ごとのように考えていたっけ。

1981年のコンメルシオ広場をゆくトラム
2018年のコンメルシオ広場をゆくトラム

そして、ふと思ったのだ。ポルトガル人のいうサウダーデ(サウダージ)は、こんな気持ちなのかもしれないと。

サウダーデとは、単なる哀愁ともセンチメンタルな気持ちとも違って、過ぎ去ったものに対する懐かしさ、もう戻らないことを哀しむ気持ちを含む複雑な心境なのだと聞く。
もうそうだとしたら、そもそも私が写真を撮る行為がサウダーデなのかもしれない。

まあ、柄にもなく、そんなことを考えさせられるのも、サウダーデの本場であるリスボンの魔力なのだろう。

2018-11-19

アルガルヴェ地方の穏やかな観光地 ファロ

ポルトガルでの1泊目は南部アルガルヴェ(Algarve)地方の中心都市ファロ(Faro)。

セビーリャからの直行バスならば1時間半で到着してしまうのだが、1981年の旅のコースをたどったために、8時間も費やしてしまった。
ご苦労さんなことだが、おかげでつらくも楽しい体験がいろいろできた。

ファロのマリーナ

37年前の旅ではヴィラ・サント・アントニオから直接リスボンに向かったので、もちろんファロは初めての訪問である。
わずか1泊の滞在だが、町の中心部はこぢんまりとしているので、まあ十分といえば十分である。

旧市街にある大聖堂から撮ったこの動画を見ればわかるように、ファロは海に面した町である。
(ガタガタいっているのは、風の音)
しかも、遠浅の海がラグーン(潟)を形作っていて、イタリアのヴェネツィアのミニチュア版のようでもある。
このラグーンのおかげで、リスボン大地震にともなう津波の被害を免れたという。

長期滞在する保養者は、船やヨットに乗ってラグーンをめぐったり、沖のほうにある細長い島(ヴェネツィア・リドのような形)で食事をしたりするようだ。

ファロの大聖堂

ポルトガルにおいてはイスラム教徒が最後まで残った町というが、1492年のグラナダ陥落までイスラム支配が続いたスペインと違って、ここでは13世紀後半にレコンキスタが完了しており、1泊しただけの観光客にはそれほどイスラムの影響が残っているようには見えない。

マリーナに近いミゼリコルディア通り

この町で必見なのは、新市街にあるカルモ教会の礼拝堂だ。
なんの変哲もない教会の建物を抜けて礼拝堂に入ると、壁面には頭蓋骨を含む修道士の骨がびっしりとはめこまれているのが見える。

遠くから見ればどうということはないが、近寄ってみてそれが人骨であるとわかると、印象が一変する。
それはミイラ好きの妻にもびっくりの光景。写真も撮ったが、ちょっとここには掲載しないでおく。
30代か40代くらいのヨーロッパ男性2人の先客と顔を見合わせ、思わず苦笑いを交わすしかなかった。

中心部の商店街

大聖堂のある旧市街は鉄道駅やバスターミナルの南にあり、歩くと10分ほど。
夕方になって観光客の姿も減ってくると、穏やかな雰囲気に包まれる。

いくつもあるレストランのテラスに灯がともると、心の底から旅愁が湧いてくるとともに、食事への期待も高まってくる。
迷ったあげく、たまたま見つけたミシュランの星付きレストラン「レストランテ・ファズ・ゴストス・ファロ(Restaurante Faz Gostos Faro)」に思い切って突入した。

値段も含めてお高い感じがなく、新鮮な海の幸を中心として素材の味が伝わる料理は日本人にぴったりだ。笑顔が素敵な年配のホールスタッフにも癒された。

旧市街の夕暮れ

宿に戻る途中で「コーヒーでも飲むか」と入った店は、なんとクラフトビールの専門店。
ポルトガルでもクラフトビールがブームなんだと教えてくれたのは、ブラジル出身という20代後半くらいの聡明そうな店主。
せっかくだからと、2人で地元産のビールを合わせて4本味見した私たちである。

旧市街の夕暮れ

翌日は、昼過ぎまでまたのんびりと散歩をし、旧市街でランチをとってから、ファロ駅13時54分発のリスボン行き急行に乗車。

リスボンまでの所要時間は約3時間半だ。

ファロ駅

ポルトガルの優等列車は全車指定席である。乗ってみると座席は満員。日本にいるときに、ポルトガル鉄道のサイトでeチケットを買っておいてよかった。

2018-11-15

ポルトガルのヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオで1時間もうけた話

スペイン側のアヤモンテから、グアディアナ川を渡って20分、対岸のヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ(Vila Real
de Santo Antonio)の港に着いた。

港といっても、小さな船着場とローカル鉄道駅のような待合室があるだけ。
振り返ると、アヤモンテの白い町並みが対岸に見えていた。

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオからスペインのアヤモンテを望む

1981年に訪れたときは、確かヴィラ・サント・アントニオ(Vila Santo Antonio)という地名だったと記憶している。
いつのまにか、「レアル・デ」が付いていた。「王の村たる聖アントニオ村」といった意味だろうか。
ポルトガル語でも長くなるので、駅や道路の標識では、しばしば「VRSA」と表記されていた。

37年前は、この船着場のそばにある鉄道駅から、リスボン行きの夜行列車に乗ったのだった。
今では駅は町はずれに移転しているが、元の駅舎もホームもはっきりと残されていた。
古い写真に写っている2両編成の客車は、ディーゼル機関車が牽引するローカル列車である。

1981年のヴィラ・サント・アントニオ駅
2018年の旧駅跡

かつては静かな田舎町という印象だったが、ここもまた賑やかな観光地と化していた。
中心部の道路は歩行者専用になっており、カフェテラスが続いている。
おもしろかったのは、この町でくつろいでいる旅行者が、なぜか中高年ばかりであること。

「おじおば向けののんびりした保養地なんだよ」
妻は、そう断言した。そんな静かな町で、大きなスーツケースをごろごろ言わせながら早足で歩いている私たちは、まったく異質の存在で、みんなの注目を引いてしまった。

「まあ、ここまで来たら一安心、ビールを飲んで休憩しよう」と私は提案した。
旅の必須単語であるビールは、スペイン語ではセルベッサだったが、今日からはセルヴェージャである。

問題なのは2つ注文するとき。スペイン語ならば常にDos(ドス)といえばいいが、ポルトガル語だと、形容する名詞が男性形か女性形かで違ってくる。男性形ならばDois(ドイシュ)、女性形ならばDuas(ドゥアシュ)なのである。
……と偉そうに書いているが、当初はそれを知らずに、「Dois cervejas!」と注文していたのが恥ずかしい。まあ、見たまんま外国人だからいいだろう。

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオの中心部

37年前は、わずかな列車の待ち時間を利用して、町をほんの少しだけうろついた。
真っ白なスペイン南部の町並みとは打って変わって、カラフルな家々が印象的だった。

1枚だけ写真が残っていたのだが、日本にいるときにグーグルストリートビューでこの場所を特定するには時間がかかった。
撮影した日は曇っていたようで、日陰の向きで方角の検討をつけることができない。
奥のビルや周囲の家々の形をヒントに、何日もかけて町じゅうをチェックしてようやく特定できた場所は、賑やかになった通りのすぐそばだった。

1981年のヴィラ・サント・アントニオ住宅街
2018年のヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ住宅街

ところで、船で港に到着したのが15時20分。列車は16時27分発である。
1kmほど離れた駅へは、港近くに2、3台ほど並んでいたタクシーで行けば十分間に合うと思っていたのだが、ビールを飲んだり、写真を撮ったりしているうちに、スマホをふと見るとすでに「20分」という表示。

「まずい! 間に合わない!」
その次の列車は1時間半後。ファロに着くころには夜になってしまう。
冷や汗が出た直後、よくスマホを見ると「15:20」と表示されているではないか。
船で到着した時刻である。

「あれ? スマホの時計が壊れた?」

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ中心部

2、3秒ほど脳味噌がフル回転したのち、「もしや……」と思って、隣の席にいたポルトガル人のおじさん、おばさんグループに声をかけた。
とくにそのうちで、一番近くに座っていたおばさんは、さっきから私たちのほうをちらちら見て、好奇心を隠しきれないようだったのである。

ところが、英語が通じないし、イタリア語まじりのインチキスペイン語も通じない。
しかたがないので、おばさんの腕時計を指し、川のかなたを指しながら、「ポルトガル、エスパーニャ、1時間?」と英語とスペイン語でいうと、奥にいたおじさんが理解してくれたようだった。
ポルトガル語で説明してくれたみたいなので、詳細はわからないが、要するに時差があるということだけは飲み込めた。

移転したヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ新駅

賢いことに、スマホは国境を越えたところで時刻を自動修正してくれていたのである。
発車まで残り7分かと思っていたら、残り1時間7分に増量。
「1時間もうけた!」
そして、もうけた1時間は、もう1杯ビールを飲むことに費やすのであった。

タクシーで乗り付けた新駅からは、ファロ行きの普通列車が1時間半から2時間おきくらいに運転されている。
「この鉄道はよく運休するから、何かあったらここに電話して」
タクシーの運転手は笑いなからそういって名刺をくれたが、幸いなことに、すでにディーゼルカーはホームに到着しており、ポルトガル時間の16時27分の定刻通りにファロに向けて無事発車したのであった。

ちなみに、無人駅で券売機もなかったが、切符は乗車後に車掌から買うことで問題なかった。

2018-11-14

国境の町アヤモンテの今昔比較写真

前回予告したポルトガルとの国境の町アヤモンテ(Ayamonte)の定点対照写真である。

アヤモンテなんてどこにあるか知っている人は少ないだろうし、興味がないという人も多いだろう。
だが逆にいえば、1981年にここで国境を越えて、しかも町の写真を撮っていた人はほとんどいないだろうから、地元の人にとっても、そこそこ貴重な記録かもしれないと勝手に思っている。

まずはアヤモンテ駅である。
現在、鉄道はウエルバで行き止まりになっているが、かつてはそこからアヤモンテまで線路が続いていた。

旧アヤモンテ駅は、そのままバスターミナルに変身。町外れに位置しているため、今でも背後には何もない。

1981年のバスターミナル
2018年のバスターミナル

次の写真は、駅から中心部に向かう途中の脇道を入ったところ。
白い壁の家々が続いて、南スペインに来たなという印象だった。

今では、家が増改築されて2階建ての家が増え、壁の色もさまざま。
左端の家の看板に「TAL」と見えるのは、「HOSTAL」のこと。安宿である。

1981年のアヤモンテの住宅街
2018年のアヤモンテの住宅街

500mほど歩くとアヤモンテの中心部あたりに達する。
当時は、地元の人で賑わっており、少なくともここには観光客の姿は見えない。

現在も建物自体はほとんど変わっていないが、おしゃれな感じに整備されて、壁の色がここでもカラフルになっていた。

1981年のアヤモンテ中心部
2018年のアヤモンテ中心部

そして、川辺の様子がこれ。
ここから川沿いに真っ直ぐいくと、ポルトガルに向かうフェリーの乗り場になる。
フォークリフトだろうか、重機に二人乗りしているおじさんたちがかわいい。

川の中に立っているコンクリートの構造物が、今でも同じ場所に残っていた。

1981年のアヤモンテのフェリー乗り場近く
2018年のアヤモンテのフェリー乗り場近く

下の写真の正面左側が、フェリー乗り場になる。
1981年はEU統合前(シェンゲン条約前)なので、国境を越えるときにはパスポートチェックがあって、ちょっと緊張する場所だった。もっとも、貧乏学生には税関の検査はなかった。

今では、切符(1.75ユーロ)を買うだけで、気軽に行き来できる。

1981年のアヤモンテのフェリー乗り場近く
2018年のアヤモンテのフェリー乗り場近く

残念だったのは、当時の船の写真を撮っていなかったこと。
国境だからと、ちょっと緊張してカメラを出さなかったからかもしれない。

2018-11-12

川に面した国境の町アヤモンテ

ウエルバを13時に発車したバスは、人家もまばらな乾いたアンダルシアの野を走り、14時15分に終点のアヤモンテ(Ayamonte)に到着した。
この町の西側を流れるグアディアナ川は、ポルトガルとの国境でもある。
1981年の旅と同じく、船に乗って向こう岸のポルトガルに渡ろうという計画である。

アヤモンテのバスターミナル

ところが、バスターミナルは昔の駅の跡をそのまま使っているようで、市街地の東の外れにある。
タクシーも停まっていないので、石畳の上を、重い荷物をごろごろと20分ぐらい転がして歩かなくてはならなかった。

アヤモンテの中心部

37年前に来たときは、垢抜けない田舎町だという印象であったが、今回見ると、いつのまにか立派な保養地になっているようだ。
旅行のハイシーズンは過ぎていたが、地元スペイン人のほか、ヨーロッパの観光客が来ていた。

国境の川が見えるアヤモンテの町

昔との定点対照写真を撮りつつ、西へ西へと歩いていくと、行く手に川が見えてきた。
これが国境のグアディアナ川だ。

国境の川が見えるアヤモンテの町

ここの観光客のほとんどは、自家用車でやってくるのだろう。
そんななかで、大きな荷物をごろごろ転がしながら歩いている東洋人の夫婦は、かなり異彩を放っていたと思う。

9月半ばまでのハイシーズンなら、日中30分おきにフェリーが運航されているのだが、このときはすでに1時間おきになっていた。次の出発時間は15時である。

国境のフェリー

ちょうど、対岸からフェリーがやってくるところが見えた。
「あんな小さい船のどこに車が乗せられるんだ?」
そう思ってよく見ると、なんと甲板に3台の車が見えた。なるほど、確かにフェリーには違いない。

国境のフェリー

同じ船に乗る乗客は、60~70人はいただろうか。どう見ても観光客ばかり。しかも、全員が全員、手ぶらまたは小さなショルダーバッグを下げている程度。
どうやら、両岸の町のどちらかに泊まっていて、時間つぶしに船で往復しているのだろう。
ここを旅の通過地点としているのは、私たちだけであった。

フェリーの船上

川の上流を見ると、大きな吊り橋が見える。あれができたことで、この船を利用する人は激減したのだろう。
でも、小さな船で川の国境を越えるなんて、とってもロマンチックではないか。

アヤモンテの定点比較写真は次回に。

2018-11-10

セビーリャからウエルバへの鉄路今昔

いよいよ、旅のメインイベントの1つ、スペインからポルトガルへのちょっと変わった国境越えである。
この日の目的地は、ボルトガル南部にあるファロ(Faro)の町。

現在は、セビーリャからの直行バスが、日に何本か所要2時間半で走っているのだが、それじゃおもしろくない。
1981年に利用したコースをたどっていくことにした。

セビーリャ・サンタフスタ駅

まずは、セビーリャ・サンタ・フスタ駅を10時に発車するウエルバ(Huelva)行きに乗車。
ウエルバまでは1時間半の旅である。

この区間は1日に3本しか走っていないので(ほかにマドリード発ウエルバ行きが2本あるようだ)、満員になったら大変と、日本にいるうちからネットで予約しておいた。

アンダルシアの車窓

だが、乗ってみたら車内はがらがら。6両ほどの編成の各車両に2、3人ずつが乗っているだけだった。
また、AVE(高速列車)と違って、乗車前の荷物検査もない。
気抜けして、車窓のアンダルシアの風景をぼんやり見つめる私であった。

もちろん、下の写真は、1981年に乗ったときのものである。

1981年の車内

1981年当時は、おんぼろなレールバスのような車両で、2倍くらいの時間がかかったように思う。
列車は速くなったしエアコンが効いて快適ではあるのだが、あの、行けども行けども続く乾いた大地を眺めながら、暑苦しい車内で過ごしたけだるい時間が懐かしい。

ウエルバ新駅

実は、終点のウエルバ駅は、つい最近になって新装オープンしたばかり。
500mほどセビーリャ寄りに移転して開業したことを、日本出発直前に知った。1日に5本くらいしか発着しないのに、ずいぶんな投資である。

しかも、町の中心から離れてしまったので、列車を降りた乗客の何人かは、がらんとしたタクシー乗り場で茫然とする始末。
バスターミナルへは歩いて30分近くかかるので、重い荷物を抱えた私たちはひたすら待つしかなかった。

1981年のウエルバ駅

上の写真が、1981年当時のウエルバ駅。
手前のホームに停まっているのは、スペインが誇る高速客車「タルゴ」。
マドリード方面からやってきたのだろう。自動で軌間変換する機能がついている車両なので、もしかするとさらにフランスに乗り入れていたのかもしれない。

当時はずいぶんな利用客がいたんだなあと感慨深い。

そのときは、ここからさらに西にあるポルトガル国境のアヤモンテまで、ローカル線に乗り換えて向かった。
だが、その路線はすでに廃止されている。
だから、ここでバスに乗り換えなくてはならないのである。

廃止されたウエルバ旧駅

ウエルバ駅から乗ったタクシーの運転手に、「バスターミナルまで。その途中で、ウエルバの旧駅を見たい」と伝えて、昔撮った写真を見せると、「おお、この駅は6カ月前まで使われていたんだよ!」と興味を示してくれた。

1981年は、駅の構内で乗り換えただけなので、こんな立派な駅舎だとは思わなかった。
ただし、もう営業をやめているので、カギがかかって入れない。しかも、周囲は2メートルほどのコンクリートの瓶がめぐらしてある。

ぐるりと駅の横にまわり込むと、足場代わりになりそうな50センチほどの鉄の棒が立てかけてあるのを見つけた。
周囲には人もいないし、これは決行するしかない!
助走をつけてその棒に足を乗せ、その勢いで塀の上に手をかけ、懸命にふんばって塀の上に登ることができた。
そうして撮ったのが、上の写真である。昔の写真とは、高さこそ違うが、近いアングルである。

ウエルバのバスターミナル

「思い出の写真は撮れた?」
駅前で待っていてくれた運転手が、にこやかに迎えてくれた。

アヤモンテ行きのバスは13時発。
しばらく、バスターミナル前の軽食堂で、腹ごしらえをして待つことにした。

2018-11-05

セビーリャ プラサ・デ・アルマス駅跡の日本人尋ね人

セビーリャを出発するまでに、ずいぶん回数がかかってしまったが、いよいよここからがこの旅のメインイベントである。
でも、ちょっとその前に、エピソードを一つ。

セビーリャの鉄道駅として、現在は旧市街の東側にあるサンタ・フスタ(Santa Justa)駅が玄関口となっているが、かつては町の西側にプラサ・デ・アルマス(Plkaza de Armas)という駅があった。下の写真である。
1981年は、この中央に停まっている列車に乗っていった。

1981年のプラサ・デ・アルマス駅

この駅は1990年に廃止され、その跡地がショッピング・モールとなっていたことは出発前に知った。
そこに行って撮ったのが下の写真である。

2階部分がつくられたため、以前とまったく同じ場所からは写真が撮れなくなってしまったが、外側のドームは以前のままであり、中央の時計も昔のまま残っている。

残念ながら、ショッピング・モールだったらしき部分は、ほとんどシャッターが閉まっていた。
そんななか、大勢の人の声が聞こえてくるので近寄って、なんとダンス教室!
下の写真の突き当たりの場所である。

.2018年のプラス・デ・アルマス駅跡

駅跡をぶらぶらしていると、壁に5組7枚の写真か貼られている一角があった。
駅のあった当時の写真である。

たまたまその写真に見入っている50代くらいの男性がいたので、にっこり微笑んでスペイン語であいさつすると、彼はおそらく「ここは昔、駅だったんだよ」ということをスペイン語でいう。
「そうでしょう、そうでしょう」と私は言いながら、トップの写真を見せた。
「学生時代の1981年、ここで撮った写真です」とイタリア語まじりのインチキスペイン語で説明すると、とても懐かしがってくれたようだった。

プラサ・デ・アルマス駅跡にあった写真

自分の写真を喜んでくれた人がいたことにうきうきしながら、改めて7枚の写真をみると、どうも気になる1枚がある。
上の3枚のパネルの一番左である。どうも、日本人としか思えない顔だちなのだ。
撮影されたのは1990年以前だから、中国人や韓国人も少なかっただろう。
帰国後この写真を見た友人は、「履いている靴が、当時は海外で普及していなかったアシックスのようなので、日本人の可能性は高い」というするどい意見を寄せてくれた。

それにしても、なぜここに日本人の顔写真が……。
しかも、7枚ある写真のうち、これだけが人物を真正面から撮っているのだ。

プラサ・デ・アルマス駅跡にあった写真

はたしてどんな人物なのか。
ちょっとみると、アリスにいた歌手の堀内孝雄さんのようにも見えるが、この時代に一人旅をしていたとは思えないし、写真家の柳沢信さんではないかという意見もあったが、私は顔を知らないのでなんともいえない。
医学者の向井万起男さんだろうという声もあったが、はたしてどうなのか。俳優の常田富士男さんにも似ていないこともない。
ま、いずれにしても、こんな感じの人はよくいたものだった。

とはいえ、着ているものも持ち物もオシャレだし、小ぶりのナップザックにポリ袋という持ち物を見て、裕福な駐在員か留学生ではないかという意見もあった。

もし、これは自分だ、あるいは私の知人だという方がいらっしゃれば、ぜひコメントに書き込んでいただきたい。

2018年のプラス・デ・アルマス駅跡

プラサ・デ・アルマス駅跡を外から見ると、こんな感じ。
この背中側には、大きくて明るいスーパーマーケットがあり、買物客で賑わっていた。
ショッピング・モールがシャッター街になってしまったのは、それが原因かもしれない。

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