2018年10月
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著書

  • 『ひたすら眺めていたシベリア鉄道』(私家版)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)

2018-10-17

セビーリャの賑わいと素顔

マドリードから、アンダルシア州の州都セビーリャ(セビリア)までは約2時間半。
しかも、エアコン完備でリクライニングシートという快適な旅である。ちなみに、車内販売では缶ビールを売っていた。
最近のヨーロッパでは、車内でアルコール類を飲んではいけない国が多いが、スペインはよいようだ。
これがなくちゃ、暑い国ではやっていられない。

メトロボール・バラソル

どうしても、昔の旅と比較してしまうのだが、37年前はこの区間を古いコンパートメント式の客車に乗って移動した。
スピードは今とは比較にならず、行けども行けども乾いた大地が続いていた印象が残っている。
私が乗ったコンパートメントには、中年のご婦人が2人乗り合わせていたっけ。

メトロボール・バラソルの上からの眺め

宿は、セビャーリャの旧市街にとっておいた。狭い路地に面した昔ながらの邸宅を改造したようなクラシックな宿で、こぢんまりとした中庭やそれを囲むアーチ状の柱が、アラブの影響を思わせた。

昔のセビャーリャのことは、ほとんど記憶のかなただが、「住みやすそうだ」という印象を抱いたのは覚えている。
町は大きすぎず小さすぎず、冬だったからかもしれないが、落ち着いた雰囲気なのが気に入った。
イタリアのフィレンツェで学校に通ったあとだったので、「セビーリャにもしばらく滞在して、スペイン語を習ってみるか」と本気で考えた。

結局、お金が底を尽きそうだったので断念したが、無理をすれば1カ月はいられただろう。そうしたら、私の人生は少し変わっていたかもしれない。

旧市街の路地

では、現在のセビャーリャはどうかというと、記憶のなかの町よりもずっとモダンになっていて、人も多くて賑わっていた。
スペインに詳しい知人によれば、「1992年に万博があってから、すっかり変わりましたよ」とのことだったので、町の雰囲気の変化にはそれほど驚かなかったが、観光客が多いことにはびっくり。

月曜日朝のセビャーリャ

宿を出て、まず向かったのは、万博を記念して建てられた「メトロボール・バラソル」。
5分ほど歩いたところで、行く手に大きな建造物が見えてきた。パラソルというよりキノコというのが第一印象。トップの写真である。
キノコの笠の上に登れるようになっていて、まずは町を見渡した。新しい町を訪れたら、まず高いところに登るという私のモットーが実現できてなによりである。

もっとも、遮るものがないから暑いのなんのって。入場券(登頂券?)が飲物の割引券を兼ねているので、それで飲んだモヒートが全身に沁みた。

月曜日朝のセビャーリャ

その日は、宿に着いたのが4時ごろだったので、当日はあまり町を見られないと思っていたが、さにあらず。
たででさえ西ヨーロッパ時間帯の西端にあって日の入りが遅いうえに、まだ夏時間であった。
4時過ぎでも太陽が中天高くいたものだから、その日のうちに中心部の主な場所は巡ってしまった。

1~3枚目の写真が、観光スポットの集中する旧市街である。

月曜日朝のセビャーリャ

そして、4~6枚目は翌朝に撮った宿の近くの写真。
宿の前にある路地を50mほど歩くと、何の変哲もない、しかし庶民的な界隈に出る。

スペインに到着してから、土曜、日曜と、観光客や地元の若者が夜遅くまで騒々しくしていたのに疲れていたものだから、月曜日になり、朝日を浴びて人びとが働きだした様子が新鮮に感じられた。

2018-10-13

33年ぶりのスペイン、37年ぶりのマドリード

このところ、秋はイタリア旅行が定例化していたのだが、今年はスペイン、ポルトガルを目的地にした。
とはいっても、スペインは行き帰りに立ち寄るだけで、メインはポルトガル。

スペインは1981年と85年、ポルトガルは81年に行ったきりだから、それぞれ33年ぶり、37年ぶりの訪問である。
イタリアのすぐ近くにあるのだが、イタリア国内をめぐるのに心を奪われて、なかなか足を延ばすことができなかったのだ。

マドリード・アトーチャ駅

飛行機はイベリア航空でマドリード直行。そこから、セビーリャ(セビリア)を経由して、南から国境を越えてポルトガルに入る予定である。
実は、これは1981年のコースと同じ。当時は、イタリア・フィレンツェでの3カ月近い語学学校を終え、下宿先のおばちゃんに無理をいって荷物を置いてもらい、1週間ほどのスペイン、ポルトガル旅行に出たのであった。
つまり、同じコースをたどって、37年前と同じ場所を見てみようと思ったわけである。定点比較写真も公開していくのでお楽しみに!。

そんなセンチメンタルジャーニーだから一人で行こうかと思ったのだが、妻が付き合いたいというので、今回も二人旅となった。

1981年のアトーチャ駅

1981年のスペインというと、独裁者フランコが死んでまだ7年。「ピレネー山脈の南側は、半ばアフリカ」とまで言われたほどで、旅行者も今ほど多くなかった。

もちろん高速列車などなく、バルセロナ~マドリード、マドリード~グラナダは夜行列車を利用したっけ。
日中にはまあまあ速い特急列車があったが、本数が少なくて当日になって指定券を買おうとしても満員のことが多く、のんびりとしたローカル列車で移動を強いられたのもいい思い出である。

改装された旧ホーム跡

トップの写真は、マドリードの中心にあるアトーチャ駅。ここから、高速列車AVEが各地に走っている。
2枚目は、1981年のアトーチャ駅である。青い車体は近郊に向かう電車だ。このドームの一部は、待合室を兼ねた飲食店街になっていた。3枚目の写真である。

9月15日、アトーチャ駅近くのホテルに到着したのは午後8時過ぎ。
スペインのメシ屋は夜遅くまでやっていることはわかっているので、少し休憩をして9時をまわってから都心まで歩いていった。

真夜中のプエルタ・デル・ソル

まず向かったのは、中心の広場であるプエルタ・デル・ソル。
直訳すると「太陽の門」だ。だから、最初にここに来たときは、近くにいたおじさんを捕まえて、「門(プエルタ)はどこですか?」とウブな質問をしたものだった。
周囲の人たちは、「はて?  この東洋人の若造は何を言っているんだろう?」と微笑みを返してくれたことを覚えている。

上の写真は、プエルタ・デル・ソルのシンボル(?)である「ティオ・ペペ」の広告である。

生ハムがぶらさがる店内

土曜日ということもあってか、真夜中になっても都心はすさまじい人出。
まずは、何か食べようということで、「ムセオ・ディ・ハモン」(ハム博物館)というユーモラスな名前の店に突入。

満員の客をかきわけて、カウンターに場所を確保して、生ハムとビールを注文した。
それにしても、なぜスペイン人はあんな大きな声で会話をするのか。イタリア人の比ではないと感じた。
この疑問は、結局、旅の最後までつきまとっていたのであった。

真夜中のマドリード都心

もう一つ驚いたのは、どの店でも、そしてホテルの朝食でも野菜が出てこないこと。
スペイン人は野菜を食べなくても平気なのか、あるいは平気じゃないのか。それとも、家で野菜をたっぷり食べているのか、これまた大きな疑問となって私を当惑させた、33年ぶりのスペイン、37年ぶりのマドリードであった。

アトーチャ駅のAVE

翌日は、午前中にプラード美術館、そしてソフィア王妃美術館のゲルニカを見てから、午後1時発のセビャーリャ行き高速列車(AVE)の客となったのである。

2018-10-10

中国山地ローカル線乗り歩き 姫新線(2) 津山~姫路

だらだらと書いてきたこの旅の記録も、これが最終回。
姫新線を津山から姫路まで乗ったときの話である。

姫新線は、前にも書いたが姫路と新見を結ぶ路線のこと。ただし、現在は直通列車がない。
いや、ないどころか、何回も乗り換えなくてはならない。
このときも、前日に新見~津山を乗ってから、津山~佐用、佐用~播磨新宮、播磨新宮~姫路と4列車を乗り継いだ。

津山まなびの鉄道館

津山では午前中に「津山まなびの鉄道館」を見学。
不覚にも、現地に行くまでは、こんな立派な扇形庫が残っていて、それが公開されているとは知らなかった。
「学ぶ」のはもうたくさんという気持ちはあるが、楽しく見ることができた。

駅から構内を横切ればすぐだが、さすがにそうはいかず、ぐるりと大回りして歩いて15分。帰りは市内を巡回しているミニバスを利用した。

津山駅

そして、津山駅を12時16分に発車する佐用行きに乗車。またしてもキハ120である。
まあしかたない。だんだんと、この乗り心地の悪さにも慣れてきた。
佐用までの車窓は、まさに里を行くローカル線といったのどかな風情である。

美作大崎駅

ここで気がついたのだが、昨日の木次線からずっと同じ列車に乗っている40代くらいの男性がいる。
木次線で私は、運転席近くに行って前面の車窓を撮ったり最後尾に行ったりと、落ち着きなくうろうろして、あたり構わず写真を撮っていたのだが、彼はじっと席に座っていた。
長時間停車になるとコンパクトカメラを手にして、何枚か写真を撮ると車内に戻っていく様子を覚えている。
彼も津山か新見で泊まったのだろう。

佐用駅前

それはさておき、佐用には13時12分着。
姫新線は、佐用で智頭急行に接続している。その接続を重視しているのか、姫新線内の津山~佐用と佐用~姫路の接続はきわめて悪い。
佐用では1時間半近い待ち合わせ時間があったので、これを昼休みの時間だとプラスにとらえて、町をぶらぶらして昼飯をとることにした。
駅自体はコンクリートがむき出しの殺風景なものだが、駅前の建物が興味深かった。
昭和40年ごろに建てられただろう建物は、けっして骨董的な価値があるわけではないだろうが、個性的な外観でおもしろい。

そして、昼飯は駅近くの「和楽路」へ。これがなかなかいい店だった。若い夫婦が営んでいる店だろうか、シンプルに見える料理も手の込んだ自然の味わいが感じられ、また客あしらいもいい感じ。客には子ども連れもいて、地元の人で込み合っているのも、むべなるかなと感じた。

佐用駅

佐用から乗ったのは、14時36分発の播磨新宮行き。この列車にも、例の彼が乗っていた。
どこかでメシを食べてきたのだろうかと、人ごとながら心配になる。

なにはともあれ、ようやくキハ120の呪縛から逃れることができた。キハ127系のふかふかのクロスシートに座ったとたん、これまでたまった疲労と、うまいものを食べた満足感とで、うとうとしてしまった。

播磨新宮駅

播磨新宮では、ホームの対面に停車している姫路行きに乗り換え。
姫路が近づくにつれ、徐々に乗客が増えていく。
そして、15時37分ににめでたく姫路駅着。今回の中国山地ローカル線乗り歩きは完結である。

前回来たとき、姫路駅は工事中で、姫新線のホームは柵に囲まれた地平にあったが、今では高架に移っていた。
高架ホームからは姫路城が額縁に収まっているかのように、正面に見えた。これは見事な演出である。

姫路駅

乗ってきた車両の写真を撮っていると、「彼」は少し後ろで私の撮影が終わるのを待っていた。
結局、会話を交わすどころか、まともに視線も交わすこともなかった。
だが、長い時間を共有した仲間ではある。もう二度と会うことはないだろうと思うと、少ししんみりしたのであった。

2018-10-07

歴史を感じさせる津山の街並み

中国地方ローカル線の旅の記録が終わらないうちに次の旅に出てしまい、また間隔が空いてしまいました。
前回のつづきです。

5月29日は、津山で宿泊。
前日にネットで宿を探したのだが、平日なのになぜかどこも満員。
もともとホテルが少ないということもあるのだろうが、どこかで学会か研修会でもあったのだろうか。

小性町(小姓町ではない)にある木造3階建て

結局、泊まることができたのは町の西側にある割烹旅館である。
といっても食事は供されない。素泊まりである。
私にとって、久しぶりの純日本風の部屋での宿泊であった。風呂はもちろん、トイレも共用。
値段は安くてよかったのだが、駅から遠いうえに雨が降ってきたので、タクシーを利用。
翌朝も雨でまたタクシーを使ったので、合わせるといい値段になってしまった。

180901b

ところで、前回津山を訪れたのは1988年だから、ちょうど30年ぶりの訪問である。
前回も町並みを見てまわったのだが、メインが鉄道乗り歩きだったので(今回もそうなのだが)、見どころもなんにもわからず、ただ闇雲に歩き回っただけであった。

180901d

今回は、少しだけ前の日の車内で予習をしておいた。それによると、古い街並みが残っている地区として知られているのは町の東側、津山城から川を隔てた場所にある中之町、勝間田町を中心とする旧町人町である。
ただ、実際に行ってみると、町の西側にある宮脇町あたりの道路沿いにも、味わい深い街並みがあって撮影意欲をいたく刺激された。

今回の写真のうち、トップの写真は町の中央部にある小性町(小姓町ではない)にある木造3階建て。
2枚目が宮脇町にある葉茶屋。3~5枚目が、中之町あたりの街並みである。

180901e

中之町あたりは、道の両側に驚くほど昔ながらの街並みが残っている。しかも、いかにも保存していますという、よくありがちな風景ではないところがいい。
そこには普段の生活があり、家々はほどほどにメンテナンスがなされ、電柱も電線もある(まあ、電柱や電線はなくていいのだが)。

180901f

この狭い道を、ミニバスが30分おきに走っているのは重宝した。
ミニバスはどの系統も駅前を発着しており、こんな雨の日に町めぐりをするには便利である。
もっとも、2回乗ったバスには、昼前という中途半端な時間だったこともあってか、地元の人も観光客の姿もなく、私の貸し切りであった。

2018-08-29

中国山地ローカル線乗り歩き 姫新線(1) 新見~津山

まだまだ続く、だらだらと続く今年5月末の中国山地ローカル線横断の旅。

備後落合から新見までの芸備線は、前日通った路線である。
この旅で芸備線と木次線全線を乗るために、結局ここを二度通らざるをえなかった。

新見駅

前の日は新見から特急「やくも」に乗り、伯備線で松江に抜けたのだが、この日は新見から姫新線で津山に向かうことにした。
新見か中国勝山(真庭)で泊まることも考えたが、新見で泊まってしまうと、翌日東京に帰るのが大急ぎになってしまう。中国勝山駅近くには宿がなかった。

新見駅前

新見駅には16時ちょうど着。津山行きの発車まで1時間近くあったので、町をぶらぶら散歩することにした。
といっても、古い家が建ち並んでいるらしい場所は、駅から歩いて15分ほどのようである。

荷物がなければ、さっさと行って、さっさと帰ってくるところだが、そうもいかない。
荷物を預けて行くという手もあったが、その前のベトナム旅行からの疲れがたまっていたので、駅前を歩くだけで我慢することにした。

新見駅前

駅舎は、ご覧のとおり、国鉄時代を思われセルいい雰囲気。
駅前には木造の商家が建ち、目の前を川が流れている。
この川も、先日の水害のときには大変だったのだろうか。

新見駅

ひと通り駅前を徘徊したあとは、待合室でぼんやり。
そして、発車の15分ほど前にホームに向かった。

刑部駅

待っていたのは、またもやキハ120である。
これで、津山まで約1時間半の旅だ。

姫新線は、線名でわかるように姫路と新見を結ぶ路線だが、直通の列車はない。
何十年か前に乗ったはずだが、まったく記憶がないので、新鮮な気分で車窓を眺めていた。

津山駅

ここまでくると、備後落合付近の「深山幽谷を走る」というのとは違って、「里の集落を結ぶ」という雰囲気である。
そして、16時53分、雨に煙る津山に到着した。
約30年ぶりの訪問だ。

2018-08-11

中国山地ローカル線乗り歩き 木次線(4) 出雲坂根~備後落合

無人駅の出雲坂根駅での20分停車の間は、さすがに持て余した。
後ろから前から、そして右から左から列車と駅の写真を撮ったら、構内に引き込んである「延命水」をたっぷりと飲
んで、あとは構内にあるスイッチバックのジオラマを眺めるくらくいである。

出雲坂根駅

1988年にここを訪れたときは、すれ違い列車との交換があったが、現在のダイヤではなくなってしまったようだ。
下の写真は、当時の交換風景。
このときも、たっぷりある時間を利用して、延命水を飲みながら待っていた記憶がある。

手前が乗車していた急行「ちどり」。向こうからやってきたのは、スイッチバックを降りてきた普通列車である。

1988年の出雲坂根駅

さて,13時50分に出雲坂根駅を発車して、2段目のスイッチバックに入る。
駅からずっと動画で撮ろうと思ったら、意外と長い。
途中でスマホが過熱して停止してしまったので、中央が切れているけれど、まずは車両の最後部から撮った1分44秒の動画。

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さらに、折り返して37秒の動画。
もちろん、スイッチバックしたから、今度は車両の先頭になる。

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周囲はまるで森林鉄道の路線のよう。
廃止になったら、5年もしないうちに自然に戻ってしまうことだろう。

出雲坂根~三井野原

スイッチバックを越えても、かなりの上り勾配がしばらく続く。
右手に、国道314号線の「おろちループ」の立派な橋が見えるが、木次線の質素な線路とは対照的である。
この国道が木次線に並行して開通したことが、木次線の乗客が激減した大きな原因の一つなのだろう。

出雲坂根~三井野原

そして、これまたまるで森林鉄道のようなトンネルをくぐる。
知らない人が初めて乗ったら、いったいどこに連れて行かれるのだろうと不安になるに違いないころ、再び国道が並行してくる。
周囲に何軒かの建物が見えてくると゛三井野原(みいのはら)駅である。

三井野原駅

車内放送によると、この駅はJR西日本の最高地点にあるのだとか。
標高は727m。だから冬には雪も降り、駅のすぐ近くにはスキー場がある。

備後落合駅到着

そして、14時33分の定刻に備後落合駅に到着。
木次線を全線乗ったという喜びよりも、座り心地が悪いキハ120での3時間以上の乗車に疲れたという感想が先に出てくる。

それにしても、いくら雰囲気がいいとはいえ、2日連続でこの山中の駅に降り立つというのも、われながら酔狂なものである。でも、芸備線と木次線の両方を1回の旅行で全線乗ろうとすると、そうするしかほかない。
そしてまた、前日と同様、ここから新見に向かうのである。

2018-08-08

中国山地ローカル線乗り歩き 木次線(3) 出雲横田~出雲坂根

先月(2018年7月)はじめに西日本を襲った大水害によって、この木次線では出雲横田~備後落合が不通となっていたが、8月8日、つまり今日から運行が再開された。
災害を受けて、そのまま廃線になる例も少なくないため、木次線もどうなるかと心配されたが、まずはめでたい限りである。

出雲横田駅

さて、これは5月29日のこと。
出雲横田駅には12時51分着。この駅では、上下の列車が交換できるだけでなく、車両を留置しておく側線もある。このときは、写真のように赤い車体のキハ120がとまっていた。

右側のクリーム色のキハ120が、宍道から乗ってきた列車である。
この駅では18分も停車するので、車両を降りて駅をくまなく徘徊……じゃなくて見学。
新しいトイレも利用した。

出雲横田駅の駅舎

駅舎は出雲大社をイメージしているのか、寺社つくりを思わせる立派な建物である。
駅舎の入口には注連縄が張られていた。

駅前には奥出雲交通と記されたミニバスがとまっていて、列車を降りた老婦人が乗り込むと、まもなく発車していった。
こんなバスを見ると発作的に乗りたくなるのだが、そんなことをすると晩に泊まるところがなくなるので自粛した。

出雲横田で後ろの1両を切り離し。
その1両は、折り返しの宍道行きとなって、先に発車していった。

八川駅

出雲横田から備後落合方面はぐっと本数が減って、平日3往復になる。
ちなみに、宍道方面は平日10本が設定されているのだが、そのうち3本は途中の木次駅止まりなのが珍しい。
つまり、山陰本線の接続駅である宍道駅まで行かず、ローカル線の途中駅発途中駅着というわけなのだ。

出雲横田を発車すると、列車はやや開けた盆地を走っていき、数分で次の八川駅へ。
Wikipediaによると、この駅の1日平均利用客数は2004年度以降2人以下。2014年度以降はゼロである。
1日平均がゼロということは、通学客もいないということだろう。
1994年度は34人、1984年度は42人だったとのことで、その変化が寂しい。

八川~出雲坂根

と、センチメンタルな気分にひたっているうちに列車は森を縫って走り、やがて左手に別の線路が寄り添ってきた。

これはほかの路線ではなく、出雲坂根でスイッチバックする線路である。
これが本日のメイン・イベントなのだ。

出雲坂根駅に到着

出雲坂根でも20分の停車をするので、列車から降りて無人の駅を端から端まで徘徊。
すでにこのとき、列車の客は私を含めて3人になっていた。

出雲坂根駅

ほかの2人は、年のころは40~50代か。地元の人ではなくて、列車に乗るために来たようである。
とくにあいさつをするわけでもなく、でもお互いになんとなく気を使いながら、あっちへ行ったり、こっちへ来たりとうろうろしながら、コンパクトカメラで写真を撮っていたのである。

2018-07-27

中国山地ローカル線乗り歩き 木次線(2) 木次~出雲横田

木次駅を出ると、乗客は10人以下に減っていた。
車窓はといえば、次の日登(ひのぼり)駅を発車すると、一転して山の中の風景に変わっていく。
私は、空いた先頭の座席に移って、子どものように前方を眺めていたのである。

日登~下久野

トンネルを抜けたと思うとまたトンネル、そして橋、またトンネルの連続。
とうとう我慢できなくて、気に入った風景が前方に出現すると、恥をしのんで立ち上がって前方のガラスにかぶりつき、写真を撮ることにしたのである。

日登~下久野

こんなとき、キハ120のようなワンマン仕様の車両は都合がいい。
運転台が片隅にあるので、運転台のない側に立てば、運転の邪魔になることなく前方の景色が、まるまる見えるのである。

下久野駅

上の写真は下久野駅。
ここから次の出雲八代までは、沿線に家屋もなく、並行する道路もなく、まさに深山幽谷を突っ切っていく。
見渡す限りの緑色の世界であった。

出雲三成駅

そして、そろそろ山の中の風景に飽きてきた12時31分、出雲三成(いずもみなり)駅に到着した。
ここは、上下の列車がすれ違いできる駅で、久しぶりに町らしき町を目にしたという印象である。

1988年の出雲三成駅

出雲三成駅で1988年に列車の窓から撮ったのが、この写真。ほぼ同じアングルのはずである。
上下の急行「ちどり」が交換する場面で、乗っていた広島行きが停車しているところに、松江方面行きの列車が入ってきたところ。向こう側のホームには、タブレットを持った駅長か助役が立っている。

いかにも味わいのある国鉄駅だったが、現在ではその上の写真のようにホームも短くなり、やけにさっぱりしてしまった印象である。

亀嵩駅

出雲三成駅の次が、この亀嵩(かめだけ)駅。
松本清張の小説『砂の器』では、重要な舞台となる駅だ。
私は、丹波哲郎、加藤剛、緒方拳、森田健作らが出演した映画を見ただけだが、やはり亀嵩駅は深く印象に残っている。

亀嵩駅では、ベレー帽をかぶった中年の男性が下車していった。
地元の人なのか、それとも『砂の器』の聖地めぐりをしている人なのか。
さきほどの日登駅では、60代くらいの夫婦が、地元の知り合いらしき人に出迎えられて降りている。
残りは5人ほどになった。

亀嵩~出雲横田

いったん人里に降りてきたと思われた線路だが、亀嵩駅を出ると再び深山幽谷となった。
しかも、線路の正面に山が立ちふさがり、その下をトンネルで抜けるという風景が何回か続いた。

そして、不思議なことに、トンネルの入口付近には、この写真のように白い煙のようなものが充満しているのである。
温かい水でも湧いているのか、あるいは木々のフィトンチッドが低い場所にたまっているのか。
いずれにしても、トンネルの入口だけに充満しているのが不思議だった。
周囲の景色もおどろおどろしく、妖怪の仕業のようにも思えてきた。

出雲横田駅

そして、12時51分に出雲横田駅に到着。
ここはかなり規模の大きな町であり、駅も立派である。

2018-07-23

中国山地ローカル線乗り歩き 木次線(1) 宍道~木次

前日は芸備線を全線乗車して松江で1泊。旧友とも再会して、翌5月29日は木次線全線乗車である。

10時40分松江発の特急「やくも」に乗り、木次線の始発駅である宍道駅に到着。
新幹線も在来線特急も乗れるJR西日本の「おとなびパス」だから、近距離でも特急を使わねばもったいないという貧乏性である。

宍道駅

さて、宍道駅のホームは木の柱に山型の屋根という、昔ながらの趣のあるホームを持つ駅だった。
木次線自体は、ちょうど30年前の1988年に乗ったのだが、松江発の直通急行だったので、宍道駅をじっくり見るのははじめてである。
11時18分発の備後落合行きの発車まで20分ほど、なめるように駅の撮影をした。

宍道駅

しばらくして入線してきた木次線の列車は、前日に乗った芸備線の閑散区間と同じキハ120。
違う点は、2両編成であったこと。1両でも十分な乗客と思われるのだが、それでも十数人の乗客が降りてきた。
もっとも、地元の利用者はそのうちの2、3人と思われ、それ以外の人は、いかにも「おとなびパス」でやってきたという中高年の単独客やグループである。

2両編成のまま折り返すのだが、2両目は締め切られ、1両目にしか乗せてもらえない。その理由はあとでわかる。
もっとも、全部で十数人の乗客だから、それでもまったく問題はない。

木次線の車内

木次駅を発車してしばらくは狭い道路と並行して走るのだが、驚いたのは10分もすると雑木林というか、まるで森の中を進んでいくことである。

全国有数の山岳路線ということは知っていたが、山陰本線と分かれたとたんに山中に分け入っていくとは思わなかった。
もっとも、それも2つ目の加茂中駅あたりまでで、ここからはしばらく盆地を縫って走るイメージである。

木次駅到着

木次までは沿線に住宅も多く、かつては地元の人たちがよく利用していたのだろうと想像がつく。
今でも、朝夕には中高生の利用はあるのだろう。

木次駅2番線に11時53分に到着。反対側の1番線ホームには宍道行きの列車が待っていた。
この駅で数人の乗客が降りていった。

1988年の木次駅

上の写真は、1988年に乗った急行「ちどり」の窓から撮った木次駅。
駅のホームには「出雲そば」の看板を掲げたスタンドそば屋が見える。

このとき停まったのは、2番線とは島式ホームの反対側にある3番線なのだろう。
写真のホームの右側の乗り場が2番線のはずである。
現在、3番線はすでに使われていないそうなので、同じアングルからの写真は撮れなかった。
もちろん、そば屋はすでにない。

木次駅

さて、興味深いのがこの木次駅の駅名票。「木♡」と書いて「きすき」と読ませている。
閑散線に似合わない遊び心と思ったが、よく考えると週末には観光列車も走っているのだったっけ。
そうそう、現在の木次線は超ローカル線というイメージではあったが、宍道~木次は1日に10往復ほど走っている。

2018-07-17

趣深い松江の街並み

例によって、仕事に追われて5月末の中国地方の旅のアップが進まないうちに、7月6日から9日にかけて、記録的な豪雨とそれにともなう災害「平成30年7月豪雨」が起きてしまいました。
前回まで紹介した芸備線も全線ストップして、復旧まで何カ月もかかりそうとのこと。
1日も早い復旧を望むとともに、相変わらずこの記事も牛歩で進めていきます。

新大橋からの大橋川の眺め

さて、新見からは伯備線の特急「やくも」に乗車。
米子に泊まるか松江に泊まるか迷ったのだが、池袋のベルギービール屋で知り合った知人が故郷の松江に帰っていることを思い出し、その日の午後に松江のホテルを予約しておいた。

昨年故郷に帰った知人は、すでに町の飲み屋で知られた存在になっているようで、郷土料理のおいしい「やまいち」と宍道湖が見渡せる素敵なバー「プエンテ」(カフェ・プエンテ)に連れていってくれた。

東本町の街並み 米田酒造

松江の町は、1979年、1988年に続いて3度めの訪問である。
印象に残ったのは、町のすぐそば……というより、町のまんなかに雄大な宍道湖があること。
湖の水は大橋川となって町の中央を横切っていく。

大橋川沿いの家並み

前回は、あまりゆっくりと町歩きする時間がなかったのだが、今回改めて見てみると、大橋川の北側にある東本町の通りには、実に趣のある家々が並んでいる。

大橋川沿いの家並み

「豊の秋」で知られる造り酒屋の米田酒造のような豪壮で風格ある建物がいいのはもちろんだが、昔の木造家屋を補強して飲み屋にしている雰囲気も悪くない。
そして、川沿いには昭和モダニズムともいえる味わい深い建物も見ることができた。

松江大橋と宍道湖


結局、今回も夕方に着いて翌朝に発つという急ぎ足になってしまったが、次回こそは端から端まで、この町を味わいつくしたい。

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