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著書

  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『ひたすら眺めていたシベリア鉄道』(私家版)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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2021-09-20

祭りの夜のニコジーア

ちょうど、ニコジーアではお祭りの日だったようで、前回の動画に出てくる音だけの花火も、その一環だったようだ。
宿でひと休みしていたら、前の通りから賑やかな太鼓の音が聞こえてきた。
顔を出して眺めたのが下の写真である。

行列の先頭は太鼓を鳴らす少年3人。複数の太鼓をまるで無節操と思われるタイミングでドンドンジャカジャカと鳴らすのは、シチリアの民俗音楽のCDで聴いたことがある。
CDに録音されていたのは別の町だったが、あちこちに残っているのだろう。
「あれは、この町のオリジナルだよ」と、翌日バールで知り合った男性に教えてもらった。

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行列には地元の人たちが参加しており、最後尾は聖職者たちとマリア像である。
左上にある看板は、B&Bのもの。星3つというのは盛りすぎで、せいぜい2つの設備だなあ。

食事に出かけて、町の中心部でもこの行列に出会った。全部で3分というちょっと長い動画だが、下に貼っておこう。
長い長い行列のあと、ちょうど2:00あたりで、ようやく小型トラックに載せられたマリア像が登場する。

 

そして、晩飯のレストランへアポなし突入。ホテルもない町なので、レストランの数もそう多くない。
一番の人気という店は、なんと休業期間中。しかたがないので、もう一軒の評判がいい店を訪ねた。
味は十分に満足。店にテレビがあるのもイタリア仕様。ヒマなときにそれを店主が見ているのもイタリアあるあるである。

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食事をとる先は限られているのか、この店でB&Bの女性に遭遇。
知り合いの女性と夕食に訪れたようである。

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食後に、もう一度遠景の夜景を拝みに町外れへ。
レストランがあったのは、画面左端の中央あたり。B&Bは、そこから撮影地点との中間あたりである。

2021-09-17

古きよきイタリアを思い出すニコジーア

2017年のシチリアの旅の続き。
カターニアからバスでやってきたのは内陸のにあるエンナ県のニコジーアという町である。
エンナには2000年に行ったことがあるが、ここは初めての訪問だ。日本語のネットではなかなか町の情報が得られず、nocosiaで検索するとキプロスの首都ばかりがヒットする。
それでも、丘の上に広がる町の遠景の写真が気に入って、そのあとに行く予定のガンジへの途上に位置することもあって、ここに宿泊することに決めたのだった。

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ニコジーアはそこそこ大きな町なのにもかかわらず、宿泊施設がわずかしかない。しかも、ホテルがなく、B&Bが3、4軒あるだけで、しかもこのときに営業したのは2軒だけだった。
あまり見どころのない町なのかと思ったのだが、近隣のスペルリンガにも行きたかったので新市街にあるB&Bを2泊予約したした。

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B&Bで待っていたのは30代後半くらいのカップルである。
──いや、行ったときには不在だったから、入口に書いてあった携帯の番号に電話をして、鍵の暗証番号を聞いて私たちが先に建物に入って待っていたのである。
男性はパラグアイ出身だそうだが、南米人によく見られるいい加減さはなく、バランスのとれたイタリア人そのものだった。女性は、なかなか知的で愛想もいい美人である。

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男性は、日本文化に強い興味があるようで、簡単な漢字も知っていた。私としては、日が沈む前に旧市街の全景を見たかったのだが、なかなか解放してくれない。最後には、イタリア語で忍者の由来まで説明しなくてはならなかった。

とてもほのぼのとした30分以上を4人で過ごしたのち、私と妻は夕日が旧市街に当たるところを見ることができた。それが下の動画である。犬の鳴き声、教会の鐘の音、花火の音が入っている。
画面に見える2つの丘のうち、左側の丘の頂上にある教会まで登って撮ったのが、最初の2枚の写真である。

その後、旧市街の中心部に突入。そのときに通るのが、下の2枚の写真の道だが、これが国道なのだ。
イタリアの国道というと、広い道を車がすっ飛ばしていく様子を思い浮かべるが、ここはこんなに狭い。しかも、バイパスでなく、町の中心を貫いているのが興味深かった。

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夕食前で人の行き来が一番多い時間帯なのだが、なんだかやけにおっとりしている。
私が1981年に初めてイタリアに来たときに感じたような雰囲気であった。

使い古された表現ではあるが、まるで時間が泊まったかのような町だ。もっと小さな村ならばそんなところもあったが、これだけの規模の町で21世紀のイタリアでこんな素朴さを残している町は初めてのような気がする。

「大き過ぎず、小さい過ぎず、ちょうどいい規模の町だね!」
翌日、B&Bの男性に言うと、「そうだろう、そうだろう」と納得してくれた。

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そして、道の先で突き当たるのが下の写真の広場である。ここが町の中心だ。道はこの手前で急カーブし、この広場をかすめて遠ざかっていく。
ほどほどの広さの広場の周囲には、そこそこ立派な建物が建っているのが、やはりイタリアである。
そして広場には、南イタリア名物の親爺軍団が集っていた。テーブルの上にはビールが載っていたり、何も載っていなかったり。

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こんな町に東洋人の夫婦が旅行で訪れるなんて、さぞかし珍しいことだろう。
そんな私たちに対して、特別な好奇心を見せることはないが、しかし興味を示している感じ。妻がカメラを向けると、おじさんたちが揃って立ち上がったり手を振ってくれたりする。

到着して2時間も経っていなかったが、一気にこの町が好きになってしまった。
バックに見える岩山には翌日に登ることにして、宿で疲れをしばし癒したのち、晩飯に出かけることにした。

2021-08-30

カターニアから路線バスでシチリア内陸へ

カターニア空港から帰国の途につく友人夫妻と別れて、われわれはカターニアのバスターミナルから内陸へ。目指すはニコジーア(Nicosia)という町である。
カターニアは地元の黒っぽい石でできた建物が多いため、全体に暗い印象の町だったのだが、来るたびに垢抜けてくる感じである。

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昔来たときは、道路からバスがひっきりなしに発着していたが、今では一応バスターミナルができていた。
とはいえ、単に更地を塀で囲って、その一辺に屋根を付けだけという感じ。
切符売場は外にあって、建物がバス会社別になっているものだから、旅行者にはわかりにくい。乗るときは、行き先だけでなくバス会社もしっかりとメモしておくことをお勧めする。
もっとも、この旅をした2017年は、ニコジーアまでSais Trasporto社が1日3往復運行していたはずだが、今調べてみるとInterbus社が運行しているようで、しかも2往復に減ってしまったようだ。まあ、イタリアではよくあることだ。

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ニコジーアまでは2時間の道のりである。
ごみごみしたカターニアの市街を抜けると、ほどなくシチリアの茫漠とした丘陵が車窓に広がる。
やがて、左手のはるかかなたに、見覚えのある丘が現れた。左がエンナ(Enna)、右がカラシベッタ(Calascibetta)だ。
「あそこに行ったのは、2000年だったっけ。あっという間の年月だなあ……」としみじみ。

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ニコジーアに到着する20分くらい前に通過したのが、このレオンフォルテ(Leonforte)の町。車窓から見ただけで気に入ってしまった。
あとで知ったのだ、かつてはここまでイタリア国鉄の路線が走っていたそうだ。こんなところに何のために……と思ったら、シチリアでは硫黄を運ぶためのローカル線があちこちにあったとのこと。そんな時代に訪れてみたかった。

 

2021-08-28

絶壁の町カステルモーラから徒歩で下山

タオルミーナのギリシャ劇場から海を背にして町を望むと、背後の断崖絶壁の上に町が見える。それがカステルモーラ(Castelmola)だ。前回のタオルミーナ訪問では行きそびれたので、2017年の旅では真っ先に向かうことにした。

メッシーナ門近くから30分おきにバスが発車していた。まさに断崖につけられた道を、右に左にカーブしながら20分ほどで到着。

町の展望台サンタントニオ広場

絶壁の上にはちょっとした広場があって、すがすがしい眺めである。険しい狭い山道を登り、よくぞこの広場までバスが乗り入れてくるものである。
観光バスで訪れる人が多いようだが、絶景を眺める以外にはあまりやることがない。土産物屋もそれほど多くなく、レストランに入るのでなければ長居をすることもないのだろう。観光バスの到着直後は広場が人でいっぱいになるが、バスがいなくなるとこのように静かになる。

ドゥオーモ前広場

とはいえ、そのまま帰るのではおもしろくない。しばし、小さな小さな町を散策したのち、タオルミーナまで徒歩で下っていくことにした。もちろん、私が密かに考えていたアイデアである。

大回りしていく車道とは違って、人の通る道はハイキングコースのようになっていて短距離で降りていける。住宅街を抜けると、目の前に海が広がり、眼下にはタオルミーナの全景が出現する。

歩きはじめたときは曇っていたが、この動画を撮る直前に夕日が顔を出していい感じになった。最後はエトナ山が見えるはずなのだが、薄雲と逆光で霞んでしまった。 

サン・ビアージョ教会

ハイキングコースには、こんなかわいい教会もあった。車道ができる前は、人びとはこの道を歩いて上下していたのだろうか。

カステルモーラを見上げる

バックの丘というか絶壁の上に建物が見えるが、あそこから降りてきたのである。
タオルミーナに戻ると、まさに下界に降りてきたという感じ。夕景を見ようとすごい人出であった。

B&Bの女主人に「カステルモーラから歩いて降りてきたよ」といったら、ちょっと驚いたようだったが、にっこりと微笑んでくれた。
その晩は、彼女が勧めてくれた宿近くのトラットリーアで、1人25ユーロの海の幸コースを堪能した私たちであった

2021-08-26

タオルミーナで順光のギリシャ劇場を見る

何度目かの緊急事態宣言が発出中で、海外はおろか日本国内も気ままに旅ができない今日この頃。
ブログに書いてこなかったここ数年のイタリア旅を、ざっと振り返ってみたい。
まずは、2017年9月のシチリア旅行から。

目的は友人夫妻の結婚記念写真を撮りに、シチリア南西部のシラクーサ、ラグーザ、モディカなどをめぐるところからはじまった。
その目的もはたして、当の新婚夫婦と私の妻と4人でやってきたのがタオルミーナ。

タオルミーナ・ジャルディーニ駅

地中海に面したクラシックな駅は40年前に初めて訪れたときのままで、行き交う車両だけが新しくなっている。
タオルミーナは丘の上にあるので、ここからタクシーで向かった。

メッシーナ門近く

旧市街の東の入口にあたるメッシーナ門近く。ここは門の外なので、バスや一般車両も走っている。
1泊の宿は、門を入ってすぐのこぎれいなB&Bだ。

4月9日広場

さすがに、イタリアでも有数の観光地である。夕方になると、狭い通りは人でぎっしり。
地中海の夕景を見ようと、4月9日広場にはたくさんの観光客が集まっていた。
週末とはいえ、9月に入ってもこれなのだから、7月や8月はさぞかし賑わっていたのだろうと想像する。

ギリシャ劇場

わざわざタオルミーナに泊まったのは、友人夫妻がカターニア空港から帰るのに便利なこともあったが、ギリシャ劇場を順光で写真に撮りたいという理由もあった。
前回、日帰りで立ち寄った悟ったのだが、エトナ山をバックにすると午後はもろに逆光になってしまうのだ。方角を考えると、順光で撮るのは朝一番で訪れるしかない。

というわけで撮ったのがこの写真なのだが、よく見るとわかるように客席がしつらえてある。この夜、イタリアのベテラン歌手レナート・ゼロのコンサートがあると知ったのは、前夜Facebookでタオルミーナにいることを書いたときに、イタリア人の知人から受け取ったコメントであった。
1980年代からレナート・ゼロは好きな歌手なのだが、切符を買っていないからコンサートが見られるわけではない。それよりも、観光写真としてストックするには、余計なものが入ってしまったのが複雑な気持ちである。

丘の上の町と海岸を結ぶロープウェイ

そして、これは丘の上の町と海岸を結ぶロープウェイ。
日本のロープウェイは等間隔でひっきりなしに発車するのが一般的だが、ヨーロッパではこのように複数の搬器が連なって進むものが多いようだ。

2021-08-10

オリンピック 五輪色の東京スカイツリー

8月8日、東京オリンピックが閉会となった。
開催前からすったもんだがあったけれど、私はやってほしいと思っていた。
まあ、その辺はいろいろな意見があるだろうから、ここでは深入りしないことにします。

閉会式はちょっと拍子抜けだったけど、選手入場のときに流れた古関裕而の「オリンピックマーチ」が聞こえたときには身震いがした。
最初の一節だけで、1964年のあのころのことが一気によみがえってきた。

十間橋から見た東京スカイツリー

あのころの日本は夢と希望にあふれていたなあ。
まあ、本当は公害やらなんやらで大変な時期ではあったはずだが、好奇心にあふれた小学校2年生だった私には、毎日がおもしろいことでいっぱいだった。
世界にはいろいろな国があって、いろいろな人がいることも知った。

区立の小学校に通っていたのだが、当時にしては珍しく各教室にテレビが備えつけられていた。
先生は、「あと100年は日本でオリンピックはないだろうから、しっかりと見ておきなさい」といって授業中のときどきに見せてもらえたのだった。
マラソンの中継では、まだ何人もが先頭集団をつくっている時点で、先生がアベベを指さして「この人が優勝するわよ」と言ったのが記憶に残っている。

開会式の日は窓から自衛隊のジェット機が描いた五輪も見たし、家の近くを走っていった聖火も見に行った。聖火は鮮やかなオレンジ色をしていたのが印象的だった。

水泳ではショランダーをはじめとしたアメリカ選手の強さが際立っていて、あれでアメリカ国歌のメロディーを覚えてしまったほどだった。
もちろん東洋の魔女も重量挙げの三宅義信も見たし、柔道のヘーシンク対神永も覚えている。100mを10秒00で走ったボブ・ヘイズも、重量挙げのジャボチンスキーも。当時の興奮がよみがえってきたのも、あのオリンピック・マーチが聞こえてきたからだ。
ああ、こんなことを書いていたらきりがない。

今回の写真と動画は、五輪に彩られた東京スカイツリーである。実家から帰る途中に、珍しいカラーリングが目に入ったので、ちょっと遠回りして十間橋の上から眺めてみた。

橋の上には入れ代わり立ち代わり人がやってきては写真を撮っていた。
子ども連れのお父さんやお母さんもいた。
あの子たちは、今回のオリンピックをどのように思い出すのだろうか。

2021-07-16

地下鉄丸ノ内線後楽園駅

丸ノ内線の後楽園駅というと、上下線のホームを覆うドームを思い出すが、残念ながら撮影していない。
中学・高校と毎日通過していたのだが、……いや、通学で使っていたからこそ、撮るチャンスがなかった。
今のようなスマホや高性能コンパクトカメラがあれば別だが、わざわざ学校にカメラを持っていくわけにもいかなかった。

丸ノ内線後楽園駅

後楽園の駅ビル建設とともに、駅は屋根の低い味気ない形になってしまったが、歩道橋のこの角度から見ると意外に愛嬌がある。
ドジョウが水の中からちょっと顔を出したような感じ。

2021-06-27

1960年代のブルーバードに出会う

ワクチン接種を受けるために家の近くを歩いていたら、懐かしい車に出会った。
1960年代のダットサン・ブルーバード!

ダットサン・ブルーバード

目つきの鋭い新車にまじって、昔ながらのデザインはなんだかほっとするなあ。
ナンバーは、「練馬5」という1桁。
オーナーが大切に使い続けているのだろうか。

2021-06-21

京島から押上へ十間橋通りを歩く

キラキラ橘通りを南下して、たから通りを渡って京島二丁目に入ると商店よりも一般の住宅のほうが多くなっている。かつては、このあたりにも沿道に商店が軒を連ねていたものだった。

京島南公園

商店街からちょっと脇にはいったところにあるのが、この通称「マンモス公園」
正式には京島南公園というらしいが、昔からマンモス公園と呼ばれていた。
何がマンモスかといえば、この滑り台である。かなりの迫力で人気があり、私が子どものころには階段に行列をつくって滑るのを待っていたほどである。

十間橋通り

橘通りは、北の端でこの十間橋通りに合流する。通りに面した家は建て替えられたリフォームされたりしているが、低層住宅が多く、昔の雰囲気は残っている。子どもだった私にとっては、古切手、古銭を扱う店を訪れるのが楽しみだった。

十間橋通り

さらに南下していくと、町名は文花(ぶんか)から押上へと変わる。その道沿いに不思議な建物があった。
間口というか、道に面した部分がやたらに広いのである。
写真を拡大してみると、日本そばも出す喫茶店になっているようだ。

押上

十間橋通りは、その南端に十間橋があり、そこで北十間川を渡る。北十間川は江戸時代に開削された運河で、川幅が10間(約18m)であることから名付けられたそうだ。
もっとも、今ではコンクリート堤防でしっかりと固められていて、実際の川幅はそれよりは狭いような気がする。

そんな十間橋の手前にあったのが、この牛乳販売店。われわれの世代には、「保証牛乳」という名前が懐かしい。
小学生のころには、テレビCMもやっていた。♫ 十字のマーク、ほしょ~ぎゅうにゅ~♫
下町の小賢しい小学生である級友の一人は、さっそく替え歌をつくり「十字架のマーク、保証しない牛乳~」と歌っていたっけ。

東京スカイツリー

ここまでくると、東京スカイツリーはもう目の前。地下鉄半蔵門線が開通して、さらにこれが建ったおかげで、少なくとも東京都区内に住む人の大半には、「押上」という地名を間違いなく読んでもらえるようになった。
十間橋から望むスカイツリーはあまりにも有名すぎるので、ちょっとひねくれて、路地の向こうに見える風景を撮ってみた。

2021-06-16

墨田区京島 キラキラ橘商店街

京島三丁目というと有名なのが、橘通り商店街である。昔ながらの雰囲気が残る商店街として、よくテレビにも紹介される。
最近では「下町人情 キラキラ橘商店街」という、ちょっぴり照れくさい、文字通りキラキラネームがついている。以前は「橘銀座商店街」といわれていたが、そのいわれは、かつてここに橘館という映画館があったからだ。だから、1960年代ころまで、地元の人たちは「橘館通り」と呼んでいた。

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前回の記事でネコとすれ違った路地を出ると、橘通り商店街のここに出る。
正面は「たぬき寿司」、写真の左手前にちらりと写っているのは、この界隈で最古参の店の一つだと祖母がいっていた「さがみ庵」である。以前は、「相模屋」という店名だったと記憶している。

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このあたりは、橘通りの北の端。すぐ向こうに見えているのは明治通りである。昔、地元の人たちは「環状線」と呼んでいた。
この明治通りは昭和になってからできた道で、橘通りは斜めに交差している。明治通りの向こう側にも同じ角度で細い道が続いているのは、昔1本の道だった名残だろう。
上の写真に写っている「バーバー アラキ」は、幼稚園・小学校のころにお世話になった店である。

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このあたりは、関東大震災前は田んぼが広がっていたという。震災後に周辺に数多くの工場ができたために、そこに勤める人たちの住宅が次々にできて、一気に住宅密集地になったのだそうだ。
1960年代前半だったか、週刊誌の記事に「世界第2番目の人口密度の町」として取り上げられたのを覚えている。
母の実家に行ったときに、叔父がその週刊誌を開き、「ほらこんなに有名になってる」「2番目というのがちょっと怪しい」などと笑いながらみんなに紹介していた。

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かつて橘通りは、夕方になると買い物客で大変に賑わったものだった。とくに年末になると、それはそれはすごい人出であった。
現在は、高齢化が進んで商店街はシャッターを閉めたままの店も多い。
とはいえ、ここ数年、若い人が中心になって地域を盛り上げる活動が起きているのは頼もしい。
昔のままに朽ちていく様子が取り柄の町だったが、ここに来て興味深い店や住宅が次々にできている。
私も、この町にもっと足を運び、母のいなくなった実家を拠点にして、できればあちこちの店に少しずつカネを落としつつ、変化を見つめていきたいと思っている。

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