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2014-10-28

飯とワインのピエモンテ早足三都めぐり

トリノ・リンゴット駅では、運よく1時間に1本のジェノバ行き快速列車に間に合い……と思ったら、当の列車が15分遅れてやってきた。
それにしても、隣駅のトリノ・ポルタ・ヌオーヴァ駅始発の列車である。どうやったら、15分遅れるのか、実に不思議である。

アスティ

まあ、とにもかくにも、アスティ(Asti)までノンストップで30分。午後1時に到着した。自動車博物館で時間を食ってしまったので、大急ぎの小旅行になりそうなのだが、腹が減ってはどうにもならないので、まずはアスティ市内のトラットリーアで昼飯である。

ここで本日初のワイン。2人で500ccのカラフェである。ここまで来たのだから、バルベーラ・ダスティ。日本で飲むとどこか酸味が強い印象があったが、やはり本場で飲むのはコクがあってうまいものである。

パスタが不思議な食感で、悪く言えばぼそぼそしているが、よく言えば良質な冷し中華の麺に近い、なんか懐かしい感じ。
これが、Tajarin(タヤリン)という卵黄入りのパスタだということを知ったのは、この次に行ったアルバ(Alba)の町でのことである。

アスティ

アスティからアルバまでは、かつては鉄道の路線があったが、現在は1時間に1本のバスが走っている。
例によって、のんびり町めぐりをしていたものだから、最後は走ってバスターミナルへ。
ところが、どこを見てもアルバ行きのバスは見当たらない。時刻表を見てもそんなバスはない。その辺で待っているイタリア人に聞いてもわからない。

懸命に探した結果、アルバ行きのバスはバスターミナルの中ではなくて、なぜかその入口にあるバールの前から出るのであった。
気がついたときには、すでにバスは出たあと。やむなく、もう一度、町の中心地に戻ってワインを飲むしかなかった。

アスティ

下の写真は、アルバへ行くバスの車窓から。廃線となった線路である。
奥にニエーヴェ(Nieve)駅跡が見えるが、この町が「イタリアの美しい町」の1つ。
郊外には一面にぶどう畑が広がり、丘上にはこぢんまりとした上品な町並みが見える。
「次にトリノに来たときはここも訪れなくては」と、また宿題を増やしてしまった。

線路跡

アルバへは所要1時間弱。
アルバは、アスティよりも一回り小さな町だが、夕方近くなって人が町に繰り出して、ちょうどいい感じの賑わいである。
食料品店の前には、上の写真のような黒トリュフが売られていた。
私たちが珍しそうに見ていると、そばにいたおじさんが話しかけてくる。
「黒トリュフはアルバ産じゃないんだ。アルバは白トリュフ。出てくるのは10月になってからだよ」

こういうおせっかいなおじさんがいるから、イタリアは楽しいのである。
おかげで、また一つウンチクを仕入れたので、日本に帰ってイタリアレストランに行ったら、知ったかぶりをして話してやろうと心に決めた。

アルバ

町めぐりの時間は1時間しかなかったが、小さなアルバの旧市街はなんとか歩きまわることができた。
そして、ここまで来たら飲まないわけにはいかないということで、ドルチェット・ダルバとバルベーラ・ダルバをそれぞれグラスで飲む私たち。
おかげで、また駅まで走るハメになってしまったのである。

アルバ

アルバからは列車でブラ(Bra)へ。所要は25分ほど。着いたときには、もう初秋の日は暮れかかっていた。
ブラは、スローフード発祥の地ということで世界的にも知られるようになったが、アルバよりもさらに一回り小さな町である。

「トリノ行きの終電まであと1時間。これを逃したら今日は帰れないぞ」
妻に念を押して、旧市街まで早足で歩く。
なぜか、料理学校の先生と学生らしい日本人15人ほどの団体と出会ったものの、このままあっさりと駅に戻ってこの日の小旅行が終わるはずであった。あの人たちと会わなければ。

アルバ

町の中心部の小さな交差点には、大勢の人が店の外で食事をしていた。
そんな様子を写真で何枚も撮っている妻を見て、「そろそろいい加減にしたら……」と思っていると、なにやらこちらを見る視線がある。
東洋人の女性が2人。目が合ってからのうなずき方で、日本人とわかった。

それが、アルバに住む書道家のHさんと、自動車のデザイナーをしていたイタリア人の旦那、そしてたまたまその日にお二人とばったり会ったというWさんであった。
あいさつをして一瞬で意気投合。「時間がないんです」と言いつつ、楽しそうな雰囲気に抗うことができず、ワインをまたしても飲んだ私たちであった。

わずかな時間だったけど、私たちはブラとピエモンテのよさとイタリアに住む面倒くささを知り、3人は我々のこれまでのタフなイタリア旅行の様子に驚いた。
わずか15分ほどだったが、この日の小旅行の終わりにふさわしい楽しいひとときだった。

後ろ髪を引かれつつ、再会を約して、その場をあとにした。
そして最後は、やはり小走りで駅まで戻ることになったのである。

「ピエモンテもいいね。このあたりにはまた来たい」と妻。
「どこがよかったの?」
「そうねえ、来たい順番は、ブラ、アルバ、アスティかな」
「滞在時間が短い順じゃないか!」

2014-10-25

トリノの自動車博物館とリンゴット駅のJAZZ

前日の時間切れで、やむなく9月10日は朝10時の開館に合わせて、自動車博物館を再訪することにした。
場所は、地下鉄の終点リンゴットから徒歩で7、8分。ポー川に面したところにある。

トリノの自動車博物館

最近になって改装したとのことで、人を寄せつけない(と私には前日の経験からそう見えた)無機質な外観は、戦前のファシズム建築につながるものを感じたが、それを補って余りあるのが、展示されている車の数々。
自動車黎明期のまるで馬車のようなワゴンから、歴史を彩った欧米のさまざまな車、そしてレーシングカーまで、収蔵されている自動車の量と質は見事なものだった。

しかも、写真は撮り放題。山のように写真を撮ったのをここに並べると、大変なことになるので、そのうちから3枚だけ。

ロールスロイス 40/50HP

141025c

141025d

一番上は、「1941年 ロールスロイス 40/50HP」と記されていた。
真ん中は、左が1936年に登場したフィアットの初代500(チンクェチェント)「トポリーノ(小ネズミ)」。右は、 1932年の「フィアット508」。
下の写真は、「マニアの部屋」という展示で、トイレも洗面所もバスタブも、みんな自動車というのが笑える。写真には写っていないけれど、テーブルも机もみんな車にちなんだものになっていた。

フィアット前本社

そしてこれが、地下鉄リンゴット駅そばにあるフィアットの前本社。威圧するような外観は、まさにファシズム建築の流れを汲んでいるような気がする。

さて、昼からは国鉄(トレニタリア)でアスティの町に行くのだが、また地下鉄で都心のトリノ・ポルタ・ヌオーヴァ駅に戻るのは芸がない。そこで、トリノ・リンゴット駅から乗ることにした。
同じリンゴットという名前が付いているのだから、せいぜい歩いて10分くらいで着くだろうと思ったわけだ。

リンゴット駅の操車場

フィアット工場跡にできたショッピングモールを抜ければすぐかと思ったら、そこには国鉄の大きな操車場があった。ここに何百メートルという長い跨線橋があるのは知っていたので、まあ最悪、それを渡ればすぐ向こう側に駅があるだろうと誰しもが考えるところである。

でも、念のため、跨線橋の向こうから来た中年のご婦人に駅の場所を尋ねた。
すると、その方はにっこりと微笑んだかと思うと、はるかかなたを指さした。
「あそこに黄色い建物が見えるでしょう。あそこがリンゴット駅よ」

それは、跨線橋をわたってさらに数百メートルはあろうかという場所であった。
まだまだ夏の名残の太陽が、真上からじりじりと照らしていたときの話である。
もうすぐ着くと思ったところで、先が長いと知らされることほど、疲れが出ることはない。

リンゴット駅のJAZZ

まあ、それでもひいこらリンゴット駅にたどり着いた。
すると、反対側のホームに、今年運行をはじめたばかりのローカル線用の電車ETR425、愛称「JAZZ」がやってきた。なかなか派手な塗装である。
10年前ころから投入されて、イタリアのローカル線近代化に貢献してきた愛称「ミヌエット」と同様、フランスのアルストム社製の車両である。
「舞曲のミヌエット(メヌエット)の次は、ジャズと来たか。その次はなんだろうか」
15分遅れの列車を待つ間に、あれこれと思いをめぐらせる私であった。

2014-10-23

トリノの丘上で大嵐の洗礼

トリノのヴィットリオ・ヴェネト広場で遅い昼食を食べたら、その日の予定は町の南部にある自動車博物館に行くだけだった。
でも、自動車博物館は19時閉館。まだまだ余裕があると思った私は、市内が一望できる場所に行こうと考えたのである。

パルコ・エウローパ

前回一人で来たときは、ポー川対岸のすぐのところにあるサンタ・マリア・デルモンテ教会前から、ガイドブックによく出てくる景色を見た。そこで、今回は別のところがいいかなと思って、タクシーの運転手のアドバイスを受け入れて、パルコ・エウローパ(ヨーロッパ公園)というところに行くことにした。
「トリノが一望できますよ。頂上にはおいしいジェラートが食べられる店もあるし」
丘の上に着いたのは午後3時少し前。
上の写真は、丘上にぽつんとあったそのカフェである。

パルコ・エウローパからの眺め

ジェラートはそんなに食指が動かなかったが、メニューにあった「サングリア」に興味を引かれた。イタリアでは初めて見るものだし、わざわざ1ページを使って紹介してあったからだ。
「これはね、うちでつくっているんだよ」
注文すると、店の主人は相好を崩した。

トリノの丘上地区

肝心の眺めなのだが、確かにトリノを一望できたけれども、標高が高すぎるために、正直言っていま一つ面白くなかった。目の前に、ざーっと町全体が見えるたげで、建物の一つひとつが小さくてわからないのである。
まあ、自然公園になっているようなので、のどかで空気はいいし、小一時間過ごすにはいい場所だった。

トリノの丘上地区

ところがである。
大きなグラスに注がれたサングリアを、いままさに飲み干そうとしたそのとき、あたり一帯に雷鳴がとどろき、まもなくすさまじい勢いで大粒の雨が降ってきた。
私たちを含めて展望席に座っていた数人の客は、屋根のある席に移り、雨のやむのを待つしかなかった。
1時間たっても雨はやまず、2時間を過ぎたところで、ようやく小降りになった。

トリノの丘上地区

雨が完全にやんだのはもう5時すぎ。帰りのバス停の場所と、自動車博物館への道を店の主人に聞いて、ようやく店を辞したのは午後5時をまわっていた。
バスに乗ったのは5時20分ごろ。
「まあ、博物館は7時までやっているからね。6時半には間に合うだろう」

バスを降りて、ちょっと道を大回りしてしまったけれど、博物館には6時に着いた。
外観の写真を撮って、さあいよいよ入場である。
「切符2枚!」
「今日はもう終わり」
「えっ、7時までやっているんでしょ?」
「入場は6時まで!」
「まだ4分過ぎたばかりじゃない」
「新しいシステムになって、6時を過ぎると入場券が出せないんです」
そのあとのやりとりは省略。ナポリ人のように大げさに嘆いてみせたが、アルバイトらしき大学生たちには通用しなかった。本当にダメなものはダメらしい。
融通が利くようで利かないのがイタリアなのである。

トリノ市内の無印良品

「かくなる上は、明日の近郊小旅行の前に訪れるしかない。明日は早起きをするぞ!」
やり場のない腹立ちを抱えて、再び小雨が降ってきた町に出る私たちであった。
最後の写真はおまけ。トリノ中心部で見つけた「無印良品」の店舗である。

2014-10-17

トリノ市内ぶらぶら歩き

しばらくブログの更新をごぶさたしてしまいました。
その間、9月上旬から10月上旬まで、25日間イタリアに行ってきました。
その前後は、たまった仕事に追われて更新する余裕もなく、2カ月ぶり。
イタリアの現地では、仕事や家庭サービスに追われてブログを更新できず。
というわけで、ちょっと時間がずれてしまいましたが、ぼちぼちと旅のご報告などをしていきます。
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旅の最初の目的地トリノ(トリーノ)に着いたのは、9月8日の夜。
その間、未明のドバイで5時間半も待ち時間があってうんざりしたり、ミラノ・マルペンサ空港でトリノ行きのバスの乗り場を間違えたり、トリノの小さな宿では門が閉まっていてしばらくあせったりとか、いろいろな難関はあったものの、なんとか晩飯にもありついて、熟睡することができた。

サン・カルロ広場

翌日は、体を慣らしながらのトリノ中心部散歩。3回目のトリノだが、前2回はどちらも数時間の滞在である。
そして、同行の妻は初めて。そもそも、今回の旅は妻とずっと一緒なのであった。
日本でさえ、平日は起きている時間のうち数時間しか顔を合わせていないのに、四六時中一緒に旅を続けることがはたしてできるのか、内心で不安を持ちながらの旅の序章である。

トリノのカフェ

もっとも、トリノはよくも悪くもイタリアっぽくない町である。
ヨーロッパの大都市ということで、旅の序章とするといい選択だったかとさっそく自画自賛。
トップの写真は中心部のサン・カルロ広場である。背中側に王宮がある。
2番目の写真は市内のあちこちにあるカフェ。
トリノはカフェの町である。ほかのイタリアならバールというが、ここではカフェなんだなあ。

トリノ市内

今から約150年前、イタリア統一の志士たちが、トリノのカフェで集って激しい議論を交わしていたのだとか。
そういえば、イタリア統一の中心となったのがヴィットリオ・エマヌエーレ2世をいただくサルデーニャ王国(前のサヴォイア王国)。
その事実上の首都がトリノだったため、統一イタリアの首都はしばらくトリノにあったというのは、まあここで偉そうにウンチクを垂れるほどのこともない、広く知られた話である。

ヴィットリオ・ヴェネト広場

この日は、カフェでコーヒーを飲み、トリノ名物のナッツ入りチョコレート「ジャンドゥイア」を買って、王宮を見学してからドゥオーモに行き聖骸布(のコピー)を見て、ヴィットリオ・ヴェネト広場で遅い昼食をとるという、100%お上りさんコースをたどった。
まあ、長旅で疲れているし、最初はこんなところでいいだろうという感じである。

ヴィットリオ・ヴェネト広場

しかし、どうしても天は私に波瀾万丈の旅をさせたかったらしい。
午後3時を過ぎたころに小さなハプニングを与えてくれようとは、ヴィットリオ・ヴェネト広場で子豚のステーキを食べていい気分になっていた私には想像もつかなかった。

2014-08-19

小樽の今昔写真(1) 1979年8月、1991年4月

小樽というと、北海道では押しも押されもせぬ観光地。
古い建造物や運河が残っていることでも知られている。
とはいうものの、保存建造物は別として町の姿は行くたびに大きく変わっている。
実は、運河の姿もすっかり変わっているのだ。

これが、1979年当時の小樽運河。運河の上にはしけが並んでいるのがわかる。
その後、札幌と小樽を結ぶ道路をつくるために、この運河を埋め立てるという話が起こり、町をあげて賛成・反対の運動が巻き起こったことは、もう地元の人でもないと覚えていないかもしれない。

1979年の小樽運河
43.197969,141.003008 (緯度,経度)

結局、運河の一部を埋め立てて道路を広げ、残る運河の反対側で倉庫を整備するということになった。
というわけで、運河沿いに並んでいる倉庫はもう消えてしまったかと思ったら、古い写真の左にある薄紅色の倉庫が、道路沿いに残っていた! その両脇の建物も昔のままのようだ。

2011年の小樽運河

たまたまこのストリートビューには映っていないが、このあたりは今では観光客でいっぱいである。
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もう1枚の写真は、それから12年たって訪れたときのもの。
小樽駅前である。
いかにも地方都市という風情が好ましい。バス停でたくさんの人が待っている。

1991年の小樽駅前
43.198047,140.995402 (緯度,経度)

現在では、道路がかなり拡幅されて、昔の面影はまったくない。
道路沿いの家がすべて取り壊されてしまって、すっきりはしたが、どこかきれいすぎるんじゃないかと思うのは、散歩者のわがままな感覚か。

2011年の小樽駅前

バス停は立派になって、以前と同じ場所にあるのがわかる。

2014-08-12

留萌十字街の今昔写真 1979年8月

今回の今昔比較写真は、道北にある日本海に面した留萌。
増毛方面からバスでやってきて、留萌十字街で下車すると、ずいぶん商店街が賑わっていた記憶がある。
当時のメモには、ここから留萌駅まで歩いて列車に乗る40分の間に、ラーメンを食べたとある。
交差点には「本町3」と記されているのが見える。

留萌十字街
43.941498,141.640361 (緯度,経度)

現在の交差点名は本町2丁目のようである。
今回、ストリートビューで見て、あまりの変わりように目を疑った。
道路が拡幅されたのはいいが、商店街がすっかり姿を消している。
ネットを探しまくってかつての賑わいを確認し、さらに旧写真の中央にある「山下商店」が現在の「山下ビル」ではないかと見当をつけて、やはりこの場所だろうと断定した。

留萌十字街

ストリートビューの奥に向かう道が、旧写真の左奥-右手前を走る道。
昨今は、地方都市の商店街が軒並み消えているが、それにしてもここの変化には驚いた。
そもそも、「十字街」という名称は、十字路のある商業地区の中心地である場合が多いのだが、すでにここは場末となってしまっているようだ。

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ついでにもう1枚。留萌十字街から留萌駅に向かう道の途中のスナップだが、場所が特定できない。
仮店舗で「名古屋セトモノ市」というのをやっている。

留萌市内

場所特定のポイントになりそうなのは、左端ニある「キャバレー モンバサ」の看板。
もし、ご存じの方がいらっしゃったらお知らせください。

この写真の中央を拡大するとこんな感じ。

留萌市内

小さな器(皿?)が1枚10円! それ以外も30~100円という値段は、当時にしても安かったと思う。

2014-08-10

首里の街角の今昔写真 1993年3月

多忙でなかなか更新がままならない今日このごろ、
仕事の合間に気分転換でやっている日本各地の新旧対照をブログで公開してみようと思い立ちました。
古い写真は私が撮ったもの、新しい写真はグーグル・ストリートビューの画面をキャプチャーしたものです。
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まずは、沖縄県那覇市首里の街角で撮った写真2枚。
1993年というから、それほど古くはないけれど、こう見るとずいぶん昔のように見えるから不思議。
このときはまだ、モノクロ用とカラー用のカメラ2台持ち。
こうしたスナップ写真はモノクロで撮っていた。

まずは、首里桃原(とうばる)町にあった松山御殿跡。このときは庭園として開放されていた。
この庭園内にあった茶室で飲んだ「ぶくぶく茶」がなつかしい。
詳しい歴史については、ここ のページで。

松山御殿跡
26.223586,127.716925(緯度,経度)

ちなみに、これが庭園入口。バス停「桃原」前。
松山御殿跡

現在は、ライオンズマンション首里桃原が建っている

ライオンズマンション首里桃原

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もう1枚は、上の写真の少し南にある首里池端町の交差点。
角の店は赤瓦もゆかしい首里書房である。

首里池端町交差点
26.22008,127.715941(緯度,経度)

ちなみに、これが首里書房を正面から見たところ。
首里書房

現在、ストリートビューによると、ここは空き地になっていた。

首里池端町交差点

首里書房は、モノレール首里駅近くに移転しているようである。

2014-05-31

向島ぶらぶら歩き

先日は、浅草から隅田川を渡り、向島百花園から東向島あたりをぶらぶらしてきた。
東武線と隅田川にはさまれた地域である。
父母のどちらの実家にも近いのだが、バスで通過したことはあっても、30歳を過ぎるまでめったに降りたことはなかった。

水戸街道にある魚大

この写真は、水戸街道の東向島三丁目交差点にある料理屋の魚大。
もとは魚屋だったそうで、おいしい魚が食べられると店のホームページに書いてあった。
店ができて70年というから、戦争直後に開業したのだろうか。このあたりは、空襲で焼け野原になったはずである。

鳩の町商店街

水戸街道を500mほど南下すると、小さな東向島一丁目交差点から東側に、墨堤通りまで「鳩の町商店街」が続く。かつて、遊里として知られていた一帯である。この付近は、東京大空襲で焼け残ったため、狭い道の両側に戦前からの古い家屋が今でも残っている。

同じ墨田区でも、玉ノ井のいろは通り、京島の橘銀座通り(現・キラキラ橘)では、ほとんどの家が建て替えられてしまっているのに対して、この商店街の東側には、まだこうした古い家が何軒も残っている。
この店は米屋。なかには、古い家屋をそのまま生かして、喫茶店にしているところもあった。

鳩の町商店街

鳩の町商店街をさらに東に進んだところにある酒屋(右奥)雨宮商店。
右手前の店(赤松商店)は化粧品店だったのか雑貨店だったのか。看板の「ラモナー化粧品」が興味をそそる。
ネットで調べてみると、大正4年に創業した石田香粧株式会社の商標で、同社は今でも下谷に本社を置き、戸田と蕨の工場で化粧品を製造して、OEMを中心とした事業を展開しているそうだ。

質屋

このあたりの道は、複雑怪奇に交わったり、離れたりで、実に簡単に道に迷う快感にひたれる。
そんななかで、鳩の町商店街から100mほど南、小さな四つ辻にひっそりとたたずんでいたのがこの質屋。
やっぱり、質屋は目立たないところに建っているのが本来の姿かなと思うのである。

昔のごみ箱

そして、古い板壁の家の前に置かれていたのがこれ。
この写真を見て何であるかがわかるのは、少なくとも東京生まれの人間では、50代以上だろう。
かつては、どの家の前にも、こんなごみ箱が置かれていたものだった。
週に2、3回しかごみを出せなくなる前の話である。

もっとも、ごみ出しの日時を限定したことで、今のような清潔な町になったのだと思えば、面倒もいたしかたない。
このごみ箱は、鉢植えの台として第二の(?)人生を送っていた。

向島の原風景

ぶらぶら歩いているうちに、日が傾いてきた。
夕日に照らされる木造の家、わけがわからないほどに込み入った道、雑然として統一のとれていない家並み、軒先の鉢植え……戦後の高度成長期に育った者にとって、まさにこれが東京下町の原風景である。
まあ、向島が下町かどうかについては議論があるかもしれないが、今や柴又や都電荒川線沿線を下町と呼んでいるのだから、向島を下町といっても問題はないだろう。

2014-05-17

浅草: 三社祭を待つ街角

今年も三社祭がはじまった。
たまたま16日の昼すぎに浅草に行ってみると、やけに観光客は多いし、観音様の境内には所狭しと店が出ているし、何事かと思った私である。

小学校時代に浅草に住んでいたにもかかわらず、三社祭を忘れていたなんて、江戸っ子の風上どころか、風下にも置いてもらえそうにない。

浅草東町会の神輿

ぶらぶら歩いていると、町のあちこちで神輿の準備をしているのが目に入る。
せっかくだからと、別の用事で持っていたカメラを取り出してパチパチと撮影。

浅草公園町会の神輿

前にも書いたけれど、小さいころは祭りが好きではなかった。
とくに、浅草に住んでいたころは、周囲の大人たちや同級生があまりに熱狂しているのを見て、どうにも近寄りがたいものを感じ、一人冷めていたものであった。

それは、浅草生まれではないよそ者という意識があったからかもしれない。
でも、父や母の実家がある向島あたりの祭りも、とくに興味を抱いたことはなかった。
要するに、あの熱狂が苦手だったのだ。

浅草公園町会の神輿

祭りで冷めていたのは、父親も似たようなものだったから、それは遺伝か家庭の雰囲気からきているのかもしれない。
とはいえ、三社祭のときには土曜日の授業が2時間で終わるので、それだけは楽しみだった。

そして、祭りが終わった月曜日には、同級生たちが顔をしかめながら、「神輿をかついで肩が痛くなった」と自慢げに話しているのを、「ふうん、そんなもんなのか」と聞くのが毎年の決まり事であった。

それでも、浅草を離れてみると、やはり懐かしい日々である。
大人になると祭りの意義もわきまえてきて、「祭りも悪くはないな」なんて、偉そうに評価するまでになった。

御幣棒を運ぶ人

そして、昨日である。

町を歩いていると、神輿の準備だけでなく、御幣棒を運ぶ人もよく見かけた。
ひさご通りの喫茶店では、町内の人たちで貸切りとなり、法被姿の人たちが打ち合わせらしきことをしていた。

町全体から浮足立っている様子がうかがえる。
そんな雰囲気も悪くはない。
あえて例えてみると、それは遠足に行く前の小学生の気分といったところか。

今日からは祭りも本格的になる。
観光客もたくさん出て、浅草は大賑わいになるに違いない。
でも私は、祭りの前の空気を味わうことができただけで、それでもう十分に満足したのであった。

2014-04-10

三陸縦断の旅14・終: 八戸臨海鉄道

ようやく三陸縦断の旅の最終回。
ながながと引き延ばしているうちに、三陸鉄道は南リアス線・北リアス線とも全線開通して、めでたい限りである。
願わくは、釜石と宮古を結ぶJR山田線も早期に復旧して、久慈から盛までつないでほしいものだ。
JR東日本によれば、この区間の復旧時には、三陸鉄道への編入をするとのこと。まだまだ時間がかかりそうだが、復興を遂げつつある山田町を走る列車を見たいものである。

八戸線・長苗代駅

さて、八戸市の東にある湊町をぶらついたあとは、陸奥湊駅から日中1時間に1本のJR八戸線に乗り、八戸の市街地を通り抜け、八戸駅の1つ手前にある長苗代(ながなわしろ)駅にやってきた。
なぜ、こんな田んぼのなかの駅で降りたのかというと、酔狂にも八戸臨港鉄道の貨物列車を撮影するためである。

八戸臨港鉄道

八戸港に近い北浜貨物駅と八戸貨物駅を結ぶ第3セクターの貨物鉄道で、1日5往復の列車が設定されている。
ちょうど帰りの新幹線に間に合う時間に走っているのがあったので、ここで降りて待ち構えたというわけだ。
そうして撮ったのが上の写真。天気が悪かったので、まあこんな出来である。
ヘッドマークには、「おかげさまで 八戸臨海鉄道40周年」と書かれていた。

撮影したのは、長苗代駅から1km以上八戸駅寄りの地点。駅に戻っても、次の列車にはかなり間があったので、八戸駅まで2kmほどを歩いてしまおうと思い立った。
地図によれば、途中で大きな道路があるので、運がよければバスに乗れるだろうという、例によっていい加減なもくろみである。

八戸臨港鉄道

ところが、広い道に達する直前、目の前をバスが通りすぎていったのである!
「がーん。いや、駅に近いことだし、別路線のバスが走っているかもしれないぞ」
気を取り直して、近くに見つけたバス停にたどりついたのだが、そんなうまい話はなく、やっぱり1時間に1本ほどしか走っていない。
やむなく、さらに1km以上を駅まで歩いて行くことにした。

「せっかくだから、線路に沿って歩こう。途中に八戸貨物駅があるようだし」
小雨がぱらつくなか、舗装されていないぬかるんだ道を歩くこと数分。さっきのディーゼル機関車が、貨車の入換をする場面を見ることができた。
こちら側のヘッドマークは、「がんばろう!! 八戸」である。

八戸臨港鉄道本社


まあ、こんなわけで、それなりの満足感にひたりつつ、八戸駅近くまでやってきたときである。
道の左側に、古風な家を見つけた。
「どこかの旧家か、それとも資料館なんだろうか」
そう思いながら、近づいてビックリ!
なんと、この建物が八戸臨海鉄道の本社であった。
鉄道本社なんていうと、たとえ古くてもビルに入っているものだと思っていたから、ちょっとしたカルチャーショックである。すでにバッグにしまってあったカメラを再び取り出して、パチリと撮ったのが上の写真である。

八戸駅前


そして、これが八戸駅前。八戸駅の大きな建造物に対して、周辺の建物は、何軒かのホテルを除けばこうしたごく普通の商家や民家が並んでいた。

ところで、八戸から上野まで、「はやぶさ」でなんと2時間42分。これには改めて驚いた。
学生時代、急行「八甲田」やら「十和田」を使って何度も通った道だが、八戸あたりといったら上野から夜行列車に乗って、もう昼近くだったように記憶している。

«三陸縦断の旅13: 八戸市湊町

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