2015-05-28

瓦もいろいろ、シーサーもいろいろ

屋根の上に鎮座しているシーサーは、田舎に行けば行くほど、手づくり感あふれるユニークなものが多い。
では、今回の旅で見つけた楽しいシーサーをいくつか。
よろしければ、どのシーサーがお好みか、ご遠慮なくコメントを!

浜比嘉島・比嘉

まずは、浜比嘉島の比嘉集落で見たもの。
真っ青な空に真っ白く塗ったコンクリート屋根、そこに真っ赤なシーサーが映える。
尻尾がくるりんとなっているのがかわいい。

宮城島

これは宮城島。
顔の周囲が白く塗られているのは、よだれかけみたい。
口のまわりが黒いのは、マンガに出てくる古典的なドロボーのようにも見えなくもない。
ヘタウマな顔が味を出している。

宮城島

これも宮城島のシーサー。
獅子というよりも、沖縄の森に住んでいるという精霊・キジムナーのような顔をしている。
い、いやキジムナーを見たことがあるわけじゃないんですが。
技術的にはなかなか細かいところまでよくできている。

宮城島

これもまた宮城島。
ウマいんだか、ヘタなんだか、評価が分かれるところかもしれない。
伝統的な赤瓦の家に乗っているだけあって、貫祿があるようにも見える。

国頭村・奥


ここから3つは、国頭村奥集落のシーサー。
これは確か、民宿の屋根に乗っていたもの。間延びしてユーモラスな表情がかわいい。

国頭村・奥


そして、これがビックリの巨大シーサー。私が今まで見たなかで最大のものである。
さすがに屋根の斜面に乗せることはできなかったようで、玄関上の平らな面に乗っている。ちょっぴり野卑で野性的なところがおもしろい。
台風が来たときなんか、これで大丈夫なのだろうかと、よけいな心配をしてしまう。
22年前に訪れたときの写真を見たら、このシーサーも写っていた、ということは大丈夫だったんだろう。

国頭村・奥


最後は、表情もきりりと締まったハンサムなシーサー。
緑多い奥の集落に、赤と黄の色が鮮やかだった。
ちなみに、赤と黄色といえば、沖縄の箸を思い出す。

改修工事はじまる那覇バスターミナル、そして壺川の機関車

那覇バスターミナルは、ゆいレール旭橋駅のすぐそばにある。
ここを起点として、沖縄本島各地に路線バスが出発し、構内には各社の事務室や休憩所などが設けられていたのだが、改修工事にともなって閉鎖となっていた。

那覇バスターミナル

戦前は沖縄県営鉄道の起点である那覇駅がここにあったという。
レール幅の狭い軽便規格の鉄道だが、北は嘉手納、東は与那原、南は糸満まで走っていた。
それが1945年の地上戦で破壊されてしまい、それ以来ゆいレールの開通まで沖縄には鉄道が存在しなかったのである。
(ゆいレール=モノレールが鉄道であるかどうかは議論が分かれるだろうが)

葉っぱの形をした構内には、つねにバスがぎっしりと待機して、ひっきりなしに発車していったのも、今は思い出である。
こんなことなら、もっとターミナルの写真をとっておけばよかった……というのは、いつもの後悔だ。

かろうじて、2007年に3枚ほど撮ったものの1枚が下の写真。

2007年の那覇バスターミナル

工事が終わって、どんな形になって現れるのか、楽しみではある。

最近、沖縄では「わった~バス党」(私たちバス党)という路線バス乗車促進のキャンペーンを開始した。
交通渋滞や環境問題を考えて、みんなもっとバスに乗ろうということである。あちこちでポスターも目にした。
私も微力ながら貢献したつもりでいる。
また、私が帰った直後の4月27日から、ICカード「オキカ」が各社のバスでも使用できるようになった。
今回の旅でも、運賃支払いのために、バスの所要時間がかかってしまった例を何度も目にしたが、これで少しは解決するかもしれない。旅行者にとっても多少は利用しやすくなるのではないかと思う。

壺川東公園

さて、鉄道ファンにとって、那覇で忘れてはいけない巡礼の地が、ゆいレール壺川駅から徒歩5分ほどのところにある壺川東公園である。ここは、前述した沖縄県営鉄道の那覇駅と壺川駅の中間にあたるそうで、加藤製作所製の小さなディーゼル機関車が保存されている。
じつは、この機関車は沖縄県営鉄道のものではなく、南大東島でサトウキビ運搬のために働いていたディーゼル機関車なのだ。

すでに南大東島の軌道は廃止されてしまったが、私が大学生のころはまだ走っていた。
撮影に行きたかったが、さすがに遠く、時間もカネもかかる。
それでも、サトウキビの収穫時期にはアルバイトを募集しており、島までの交通費も支給されると聞いて、本気で行こうかと考えたこともあった。
「でも、アルバイトに忙しくて写真を撮る時間はあるだろうか」なんていう悩みもあった。
今思うと、行っておけばよかったかな。

ゆいレール2005年

ところで、ゆいレールの車内放送は、各駅ごとに「安里家ユンタ」や「てぃんさぐの花」などの沖縄の歌や民謡のBGMが流れて楽しいのだが、この壺川駅は「唐船(とうしん)どぅーい」なのだ。
カチャーシーのときに必ず流れるアップテンポの民謡で、車内で「チャンチャ、チャチャチャチャ……」と鳴り出すと、どうしても体や足が動きそうになる。

ましてや、沖縄の人が耳にしたら、動かないではいられないと思って、ここを通過するたびに、地元の人らしき乗客を探してこっそり観察している。
だが、残念ながら、まだこの曲で体を動かしている人を見たことがない。ましてや、車内で踊りだす人もいない。

──やっぱり、電子音じゃなくて三線じゃないといけないのかな。
そう思うのだが、本当に踊りだす人が出たらいけないから、あえて電子音なのかもしれない。
もしかすると、開通直後は、思わず体を動かす人が続出したのではないかと、私は密かに思っているのである。
(ゆいレールの写真は2005年に撮影したもの)

2015-05-26

海洋博公園内を素通りして渡久地へ

汗をかきながら備瀬から10分ほど歩くと、右手に大きな駐車場が見えてきた。海洋博公園だ。
ここまでの歩道ではほとんど人影がなかったのだが、公園内を覗くと人でごった返しているではないか。
その対比が、どうにも不可思議で非現実的に思えたのであった。

渡久地港

私の目的地は道をさらに直進して、本部(もとぶ)町の中心地である。だが、そこまではまだ5kmあまり残っているから、歩いて1時間。一方、ここで次のバスまで待っても、やはり1時間以上ある。
さて、どうしようかと公園の中央ゲートを見ると、「本日は入場無料(美ら海水族館を除く)」という看板が出ているではないか。
時間は13時少し前だったか。「せっかくだから、バスが来るまで園内で涼んでいくか」と思って、門をくぐることにした。

渡久地港

門の中は、まったくの別世界であった。
通勤時間帯の新宿駅とはいわないが、少なくとも駒込駅よりは多い人びとが、あっちへ行ったりこっちへ来たり。
イベント広場周辺ではエイサーをアレンジしたような太鼓と踊りの音楽が響き、そばでは甲高い声で中国語を話す団体が大喜びで写真を撮っていた。

そんな様子を見ているうちに、素晴らしいアイデアがひらめいた。
──そうだ、ここには安くていい移動手段があるじゃないか!
地図を見ると、海洋博公園の敷地はとてつもなく広いのだが、園内を巡回する電気バスに乗れば、2kmほど離れた南ゲートまで100円で行けるのだ。
そして、南ゲートまで行けば、目的地までの半分近くまで達したことになる。

渡久地

私は、お祭り広場のイベントを横目に見て、美ら海水族館前の混雑を尻目に、家族連れにまじって小さな巡回バスの客になり、植物園もやり過ごして南ゲートから徒歩で出場したのであった。

このときの時刻は14時近く。結局、南ゲート近くの食堂で沖縄そばを食べることにしたので、残りの3kmは歩かずにバスを待つことにしたのだが、久しぶりの見事な頭の回転に自画自賛、自己満足にひたることができた。

渡久地

さて、前置きが長くなったが、今回の写真は本部町の中心地である渡久地(とぐち)である。
渡久地は小さな湾のようになっていて、漁港もあれば水納島へ行く高速船も出ている。

町はずれの本部港からは鹿児島、奄美大島、那覇、伊江島などに向かう船が出ているが、こちらは渡久地から2kmほど南に位置している。

渡久地

渡久地の湾の奥まったところには、無数の鯉のぼりならぬカツオのぼりが翻っていた。
トップの写真である。
聞けば、5月の連休には「カツオのぼり祭り」というのがあるとのこと。
ちょうど、そのころにカツオの初水揚げなのだそうで、観光客もずいぶんと訪れるらしい。

渡久地

しかし、この日は週末なのに町のなかに観光客らしき人はいなかった。
でも、中心部の飲み屋や商店を見ると、かつてはずいぶん栄えたのだろう。いや、まだそこそこ客がいるから店は営業を続けているに違いない。

そもそもなぜ、私が渡久地にやってきたのかというと、以前、母、弟、妻、義母を引き連れて美ら海水族館を訪れたときに、弟の運転するレンタカーでここを通過したからである。
その渋い町並みに、私はいたく心を動かされた。だが、さすがに「ここで降りて町並みを見学しよう」とは言えなかった。
せめて、表通りでアイスクリームでも売っている店が1軒でもあれば、降りる言い訳ができたかもしれないが。

そのときに、再訪を誓ったのである。
10年近くたって、ずいぶん変わってしまったのではないかと心配していたが、少なくとも雰囲気はまったく変わりがなかった。
もっとも、それが地元の人たちにとって、よいことなのかどうなのかはわからない。

渡久地

町をぶらぶらしているうちに、日はどんどんと傾いていった。
私は、渡久地15時39発のバスに乗り、名護のバスターミナルに戻っていったのである。

これで、3泊4日の沖縄旅行も大団円となるのだが、あと3回ほど、おまけの記事に付き合っていただきたい。

2015-05-24

備瀬のフクギ林でのんびり

今帰仁の仲宗根の雰囲気にひたりすぎ、あまりにものんびりしすぎてしまった。
「そろそろ次のバスの時間かな」と思って、表通りに向かって歩きはじめたとたん、狭い道の向こう、20mほど先をバスが左から右へと通りすぎていくのが見えた。
そこで走り出したけれども、遅すぎた。

備瀬のフクギ林

行き当たりばったりの旅が好きな私だが、さすがにこれにはがっくりした。
なにしろ、この日は旅の最終日だから、ある程度計画的に動かなくてはならなかったのだ。しかも、土曜日だったから、バスの本数が少ない。

それにしても、前のバスから30分しか間がなくて、次のバスまで1時間半も空いているとは、どういうことなのか。不条理というほかない。
とはいえ、文句を言ってもしかたがない。今帰仁村でさらに昼の1時間半ほどのんびりしようかと思ったが、食事をする店も見あたらないし、ましてや喫茶店もなさそうである。

──まずは、スーパーで頭と体を冷やすか。
国頭村とは違って、そこそこ大きなスーパーがあった。そこに入ろうと思ったところで、店の前にあるタクシー会社が目に入った。

備瀬

次の目的地である備瀬までは、10km弱といったところか。
「ちょっと出費が痛いけれどタクシーを使うか。それともやせ我慢をして、ここで1時間半過ごすか?」
30秒ほど迷った末、清水の舞台……いや今帰仁城の城砦から飛び降りたつもりで、タクシーに乗ることにした。

乗ってしまえば楽チンである。
エアコンはついているし、40代半ばから後半と見える運転手のお兄ちゃんと楽しく会話もできて、しかも2000円台で済んだ。東京のイメージで、4000円近くかかるんじゃないかと覚悟していたものだから、これは望外の喜びであった。

備瀬

「きょうみたいな暑い日は、備瀬はいいよ。フクギが茂っているから日が当たらないしね」
運転手氏の言ったことは確かだった。

フクギ(福木)というのは、沖縄や台湾でよく見かける葉の厚い木である。
ここ備瀬の集落は、村にフクギを植えてあるというよりも、フクギ林のなかに村があるといったほうが近いだろう。
密生したフクギのおかげで、厳しい日光の直射を避けることができる。しかも、海から吹き寄せる風はよく通る。まさに、この土地ならではの工夫といってよい。
なぜ、ほかの村ではこうしなかったのかと思うほどだ。

備瀬

美ら海水族館のある海洋博公園からも近く、ガイドブックには必ず載っている場所なのだが、観光客でごった返しているというほどではない。
集落は意外と広いので、入口から奥に行くにしたがって人影はまばらになっていく。

落ち葉を掃除している地元の奥さんがいた。
目が合うと、「掃除をするのも大変なのよ~」と笑っていた。
確かに、ずいぶん道がきれいだなと思っていたのだが、その陰にはこんな苦労があるのだ。
集落の入場料があるわけでもないのに、観光客としては頭が下がる思いである。

備瀬から見る伊江島

フクギ林の向こうに海が見えたので、そのまま海岸に向かってみると、タッチュー(城山)に特徴のある伊江島が見えてきた。
でも、日なたは暑いので、すぐにフクギ林に引っ込んでしまう軟弱な私であった。

──さて、そろそろ次のバスが来るころかな。
そう思ってバス停にやってくると、なぜか次のバスは1時間以上も後。
前のバスからは2時間40分もの間隔があった。
──おかしいなあ、今帰仁のバス停の時刻表だと前のバスの1時間半後にやってくるはずなんだが……。

理由はあとでわかったのだが、乗ろうと思ったバスはこの備瀬を経由しないのであった。備瀬や海洋博公園といった岬の端を通らずに、内陸の謝花という集落を通る。

ということは、今帰仁で1時間半待っていたら、そのバスは備瀬に来なかったのである。結果的にタクシーに乗ったのは大正解であった。
もっとも、謝花経由の便に乗ったら乗っていたで、何かおもしろい出来事があったかもしれないけどね。

いずれにしても、さらに1時間以上、今帰仁よりも何もないここで過ごすのはつらそうである。昼過ぎの刺すような日射しを脳天に受けながら、何も考えずに本部方面に向かって歩きだす私であった。

2015-05-22

今帰仁の仲宗根をぶらぶらした理由

3泊4日の沖縄旅行をさんざん引き延ばしてきたが、いよいよ最終日。
この日は、宿泊地の名護をスタートして、本部半島を一周することにした。
幸い、海岸沿いを一周するバスは、右まわりの65系統も左まわりの66系統も1時間に1本は出ている……と思ったが、よく考えると当日は土曜日。平日よりも本数が少なくなっていて難儀してしまった、という話はのちほど。

今帰仁・仲宗根

まず降りたのは、名護バスターミナルから30分ほど乗った今帰仁。
「なぜこれが『なきじん』って読むんだ!」と文句を言う人がいるが、それほど不思議ではない。

当初の地名がどうだったのかは知らないが、「今帰仁」と当てた字をそのまま読めば「いまきじん」だ。
語頭の「い」や「え」などの母音は、よく消えてしまう。とくに、ウチナーグチにはよくあること。
そして、「m」音と「n」音は発声のしかたや場所が近いため、よく入れ替わる。宮古と書いて「ミャーク」と読んだり「ナーク」と読んだりするのもその一例。
というわけで、「いまきじん」→「まきじん」→「なきじん」と変化したのだろう。

今帰仁・仲宗根

ウンチクはこのくらいにして、今帰仁村の謝名で下車したのち、ぶらぶらと仲宗根まで戻ってきた。

「へえ、小さな村を歩くのが好きなんだ? 明日は本部一周? だったら、仲宗根がいいかな」
前夜に行ったバーのマスターが教えたくれたからだ。

バーといっても気軽な雰囲気の店で、ガラス張りなので外から中の様子がわかるようなところ。
東京にはよくあるが、沖縄、しかも名護では珍しいのではないかと思う。

晩飯をとろうとして、最初はホテル近くの居酒屋に入ったのだが、店が賑わっているわりに内容はイマイチ。
生ビールを飲もうと思ったら発泡酒だし、本物の生オリオンビールは注文する人が少ないと見えてやや酸化していた。刺身も量は多いのだが、ちょっと……。
値段は非常に安く、店主は一生懸命働いているようなのだが、残念ながらそれ相応の内容であった。

こりゃあ飲み直しが必要だとぶらぶら歩いているうちに、「エビスビールあります」という看板にひかれて、ふらふらと入ったのがその店だったというわけである。

今帰仁・仲宗根

じつは、店の前を1回通りすぎていた。
そのときに店内を覗いたのだが、周囲の店が賑わっているのに、ここだけ客はゼロ。
しかも、カウンターの向こうには、いかつい顔をしたお兄さんというか親父さんが仁王立ちしていたのである。

それでも、「ええい、ままよ。乗りかかった船、いや、通りかかったバーだ」と、清水の舞台から、いや万座毛の崖から飛び降りる気分でドアを開けた私であった。

今帰仁・仲宗根

「えっ、生ビールが発泡酒だったって? そりゃあ、いくら安くてもオレも飲まないよ。名護でエビスの生を出しているのはウチだけなんだ」
誇らしげなマスター。いかつい顔ではあるが、笑うとかわいらしくも見えた。

そのあとは、年格好が近いこともあって、初めて会ったとは思えないほど、あれやこれやと話をした。
名護出身の彼は、大学時代に名古屋に行ったらしい。名古屋芸術大学だという。
「なんでまた?」
「高校の同級生がそこに行くっていうからさ。オレも島から離れてみようかと思って」
名護だから名古屋というシャレかと思ったら、事実はもっと不条理であった。もちろん、同級生というのは男である。
沖縄出身の2人はたいそう珍しがられ、私が聞いただけでも大笑いする体験をいろいろとしたようだが、それをいちいち書いていったら、ブログの記事が5回ぐらいできてしまう。

今帰仁・仲宗根

そんな彼にぶらぶら歩きを勧められたのが、ここ今帰仁の仲宗根地区である。確かに古い家並みが残っていて、初夏の日射しに映えていた。

そうそう、名護の店の名前は「クィッキーウィッキー」。開店して間もないようである。
なぜ、わざわざ店の名前まで紹介するかというと、私が滞在した1時間半ほど、ほかに客が1人も来なかったからである。
「変だなあ。こんなことは珍しいんだけど」
「大丈夫? 次に来るまで店を続けておいてよ」
マスターは「大丈夫、大丈夫」と言っていたが、心配なのでこれを読んだ方は名護に行ったら立ち寄ってほしい。
場所は、宮里1丁目23番。有名な「宮里そば」の近くである。
料理も手が込んでいて、うまい。なかでも塩味のもつ煮込みが絶品だった。
「吉田類の酒場放浪記をいつも妻と二人で正座して見ているんだけどさ、沖縄にはもつ煮込みがないっていうから、つくったんだ」とのことである。

今回は、今帰仁の町並みというよりも、名護の店の話になってしまった。
今帰仁の町の雰囲気は、写真を見ていただければ味わっていただけると思う。
それはともかく、私はあまりにも写真に夢中になっていて、大失敗をしてしまったのである……。

2015-05-19

奥は昔の奥だった

楚洲から13時17分発の村営バスに乗ったのは私一人。
来た道を奥まで引き返した。もちろん、ヤンバルクイナが飛び出してこないかと、まばたきもしないで、目を皿のようにして見ていたが、残念ながら現れなかった。

奥のバス停

さて、奥の集落は、まさに沖縄本島の北の奥にある。
沖縄に住んでいる人でも、奥と聞くと、やんぱるの最果ての地という印象らしい。
といっても、そこそこ大きな町であり、宿も2、3軒あるようだ。また、ここはお茶がとれることでも知られている。

奥の集落

前にも書いたように、22年前に奥に来たときは、バスの折り返しのわずか15分ほどを利用して、集落のほんの表面をなでただけのような滞在だった。
「またこのバスで帰るからね」と運転手に念を押して、走って一周して写真を撮ったのである。

今回は、東線経由の次のバスまで1時間15分。その次の奥線なら1時間45分の余裕があった。
私は、集落が見渡せる丘に上り、路地という路地をくまなく歩き、奥の空気を堪能することができた。

赤瓦のお宅

前回の短い訪問では、伝統的な平屋の家が多く、赤瓦もずいぶん残っていると記憶している。

で、今回の印象はどうだったかというと、22年のギャップを感じさせることなく、奥は昔の奥だった。
那覇の変化とは無縁……まったく無縁ではないだろうが、昔の印象そのままといってもよいくらいである。

奥の集落

ぶらぶらと歩いていると、どこかの家の前から話し声が聞こえた。
「おばあちゃんがいらっしゃったら、話をお聞きしたいんですけど」
どうやら、那覇からテレビ局のクルーが来ていて、取材の下交渉をしているようである。

奥の集落

沖縄の人にとっても、ここは貴重な存在なんだろうなあ……なんて思いながら歩いていると、目の前を軽トラックが走って行った。荷台のワンちゃんと目が合う。
とっさにカメラを構えて撮ったのがこの写真である。

この直後には、白く長いあごひげをたくわえたおじいさんが、トラクターにのって前を横切って行ったが、タッチの差で撮影のチャンスを逃してしまった。横顔は撮ったんだけど。

奥の集落

この集落では見事なシーサーをいくつか目にした。
黄色と赤の鮮やかなシーサー、こんなのを屋根に乗せて大丈夫かと心配するほど大きなシーサーなどなど。
そして、家の入口に鎮座していたのがこのシーサー。確かに魔よけの役割ならば、このほうがいいかもしれない。
それにしても、なんだかスマトラかボルネオの村のようにも見える。

奥の共同売店

そして最後には、例によって共同売店に突入。
さんぴん茶とクリームパンを買って、「前に来たときは、バスの折り返しの時間が短かったんだけど、今回はゆっくりできました」と、やはり不審者ではないことを強調。まあ、楚洲と違って奥ならば、旅行者には慣れているには違いないが。
「ああ、琉球バスの時代よね~」と、おそらく私より少し年下ではないかと思われるおねえさんは、にこやかに応対してくれた。

奥から辺土名への帰り道は、行きに使った西海岸経由の奥線ではなく、楚洲、安田、安波の東海岸を経由して、山越えをする東線を利用。この便の客は、最初から最後まで私一人。あとは、安田で荷物を運転手に託した人がいただけだった。

幸運にも、その便は、日に1回だけ、やんばるの森という研修・宿泊施設を経由するものだった。これも今回のダイヤ改正でできたコースで、途中は森また森の中を通り、カーブとアップダウンの連続。なかでも、山中にある安波ダムの堰堤の上を通っていくのには感激した。

もちろん、ヤンバルクイナがいつ出現してもいいように、目をしっかり開けていたが、視野に入ってくるのは深い森と、「ヤンバルクイナの飛び出し注意」「リュウキュウオカガメに注意」という看板だけだった。

「いやあ、楽しみました」
「なんにもないでしょう」
「そこがよかった!」
辺土名の終点で、私は興奮収まらぬ状態で運転手さんに運賃の650円を手渡したのであった。

あとは名護まで路線バスで1時間。結局、この日は都合5時間以上バスに乗ったことになる。

2015-05-16

あこがれの楚洲、そして痛恨の見逃し

辺土名からの国頭村営バスは、奥線と東線の2路線がある。
奥線は、辺土名から西海岸に沿って北上し、北端の辺戸(へど)を経て奥まで行く路線。

22年前に来たときは民間の琉球バスの路線だったが、撤退して村営のマイクロバスに変わった。
琉球バスで来たときは、目的地の奥での折り返し時間が15分ほどしかなく、大急ぎで村を半周して戻るしかなかった。それを逃すと次のバスは3、4時間後だったから。

国頭村営バス

東線は、辺土名から山越えをして、東海岸にある安田(あだ)、楚洲(そす)の集落に立ち寄って、安波(あは)で折り返す路線だった。
こちらも安波で20分くらいの折り返し時間しかなかったが、同乗した小学校の先生のご厚意で、帰りは辺土名に向かう地元の人の車に乗せてもらい、1時間半ほど滞在することができた。

だが、安田と楚洲には降りている時間がない。安田は通過して車窓から見たのだが、私の乗ったバスは楚洲は通らなかった。そう、楚洲は、まだ見ぬあこがれの集落となっていたのである。

楚洲

ところが、沖縄に着いてから知ったのだが、幸運なことに今年の4月から路線と時刻が改正になっていた!
奥線のうち1便は奥から楚洲まで延長運転となり、東線の1便も楚洲から奥まで延長されていた。

しかも、うまく乗り換えると、楚洲に40分、奥に70分~90分滞在できることがわかったのだ。
地元の人の意見を聞いて利便性を上げたと書いてあったが、私のようなマニアックな人間にもありがたい改正である。

楚洲共同スーパー

というわけで、辺土名11時30分発の奥線楚洲行きで、まずは終点までいくことにした。所要時間はほぼ1時間である。
辺土名から奥までの間に、同乗していた数人のおじさん、おばさん方が1人、2人と降りていき、奥では日野市から来たご夫妻が下車。とうとう一人になった。
奥から楚洲までは、いよいよ初体験の路線である。

途中までは林のなかを走っていったかと思うと、ところどころで東海岸の荒々しい海岸線が見えてくる。
──全然、観光地化されていなくて、おもしろいなあ。
と左側の車窓に見とれていたそのとき、40歳ほどと思われる運転手が声を上げた。

「ほら、あれ。ヤンバルクイナ!」
「えっ、どこどこ?」
「今、道を横切っていったでしょ」
「……」

楚洲共同店

海に見とれていたのが間違いだった!
私は、走る車内から必死に周囲を見回したが、見つけられなかった。
バスは無情にも、そのまま走っていくだけだった。

見られるチャンスがまったくなければ、全然気にしなかったものを、紙一重で見る機会を逃したのは非常に悔しい。
──これは、野生のヤンバルクイナを見ずに死ぬことはできないぞ。
私はそう決心するのであった。

楚洲

11時31分、楚洲に到着。
目の前に海が開けた、小さな平地に30戸ばかりの家が並んでいる。
私以外の98%くらいの人にとっては、単なる沖縄の田舎の集落にしか見えないだろうが、私にとってはあこがれの地である。そこがなんの変哲もないところでも幸せだった。

例によって、まずはバス停前の共同店に突入。
意外に広々として明るい雰囲気である。60代後半と見えるおばさまがレジのところにいた。
「バスで来ました~。前からここに来たいと思っていたんですよ」
「今月から時刻が変わったからね」
と、和やかな会話を交わすことで、さりげなく不審者じゃないことを印象づける私。

空腹なのでパンを買いたかったが、まだ配送のトラックが来ていないようでパンがない。
しかたがないので、飲み物と甘い菓子を買って、店の前の小さな広場で食べることにした。

楚洲

店内の写真を撮らせてもらったのだが、そこで見つけたのが「やんばるくいな」なる泡盛。この記事の上から4枚目の写真である。
実物を見られなかった悔しさをまぎらわせるために、この泡盛の写真を撮る私であった。
「それは空港で買うと2倍近くするわよ、おほほほ、いかが?」

うーん、ちょっと食指が動いたが、このあとずっとこの瓶を抱えて移動するのも面倒なので、残念ながらあきらめた。

楚洲

折り返しの時間まで約40分。
小さな小さな集落なので、それだけあれば4周も5周もできる。あまった時間は、小さな広場でぼんやり過ごすことにした。

それにしても、車を使っても奥までは15分、南隣の安波までは20分。自動車が普及するまでは、さぞかし移動も大変だったに違いない。船が頼りの生活だったのだろうか。
正面の海を見ながら、昔の楚洲の暮らしを想像してみるのであった。

2015-05-15

辺土名で村営バスに乗り換え

名護バスターミナルからほぼ1時間、到着したのは辺土名(へんとな)である。
ここから先は、村営バスに乗って国頭村の小さな集落へ向かう予定だ。
村営バスの発車まで40分ほどあったので、町をぶらぶら歩いてみることにした。

辺土名シャンゼリゼをゆくバス

辺土名は、1993年に来たことがある。中心部には商店や銀行が建ち並んでおり、私はここを辺土名シャンゼリゼと勝手に呼ぶことにしている。
当時撮った写真をスマホでも見られるようにしてあるので、現状とくらべてみたのだが、町並みはそれほど変わっていないという印象だ。

沖縄の地方都市は完全なクルマ社会なので、町を歩いている人はほとんど見かけないのだが、辺土名はそれでも村役場があるだけあって、たまに歩行者を見ることができた。

辺土名シャンゼリゼに残る古い民家

22年前は、辺土名の民宿に泊まった。
インターネットで宿泊施設を探すなんて想像もできない時代だったから、バスで昼前に辺土名に着いてから、飛び込みで宿をとったのだ。

その日の宿泊者は、確か3、4人。
食堂で夕食をとっているときに、いろいろと話をした。
なかに、私よりも5歳くらい年上の男性がいて、どこから来たのかは忘れたが、やんばるの森にカミキリムシを採集にやってきたのだという。
「えーっ、ハブは恐くないんですか?」と思わず聞いてしまった。
すると、にやにやしながら「大丈夫だよ」と答えてくれたっけ。ヤンバルテナガコガネなんかよりも、カミキリムシのほうがずっとおもしろいらしい。
あの人は、いまどうしているだろうか。

1993年の辺土名

これは、当時の辺土名。
背景の家や店はあまり変わっていないが、この3人の少年はもう30歳くらいになっていることだろう。
学校を卒業して那覇に出ているのか、それとも地元に残って仕事をしているか。あるいは、東京か大阪あたりにいるのだろうか。

辺土名の比嘉理容所

この写真は、辺土名シャンゼリゼの中央あたりにある味わい深い「比嘉理容所」。
昔ながらの民家の正面に看板を立てて商店としているわけで、いわば看板建築の原始的な形といっていいかもしれない。
金曜日だから定休日でもないだろうし、店はもう閉めてしまったのか。

辺土名

表通りから1本入ると、もうそこは静かな住宅街と畑になる。そして、反対側はすぐ海だ。
この場所では22年前にも写真を撮っていたが、まったく変わっていない。
建物は古いけれど、きれいな花で飾られているのが心地よい。

国頭村営バスは、村役場が表通りに面しているあたりから発車する。立派な待合室もできていた。
先客は、私と同じように名護からやってきた60代くらいのご夫婦。東京の日野市から来たとのことで、奥(集落の名前)の民宿で知人と待ち合わせているそうだ。

国頭村営バス

そして、地元の70代くらいのご婦人2人。体も頭もお元気そうで、いろいろな話をした。
話をしながら、またまた昔のことを思い出した。
──22年前にこの村営バスに乗ったときには、同乗のおじいさんと話が通じなくて、那覇から来ている小学校の先生に通訳をしてもらったっけ。

彼女によれば、「名護を過ぎると、時間の感覚がまったく変わるのよ。バスを降りるときも、那覇だとせかせか降りるけれど、こっちだと、おばあが後ろのほうからのんびり歩いてきたかと思うと、小銭をじゃらーんと床に落として、それをまたのんびり拾う、という調子」なのだそうだ。

2015-05-12

魅惑の名護バスターミナル

コザに2泊したあとの最後の1泊は、那覇にするか名護にするか、最後まで迷っていた。
でも、よく考えると、最終日は那覇空港からの最終便なので、名護を夕方に出ても高速バスで十分に間に合う。じゃあ、なるべく田舎にとどまろうということで、名護をベースキャンプにして2日間をやんばる(山原)めぐりにあてることにした。

今回の記事は、肝心のやんばるめぐりを前に、個人的に気に入っている名護バスターミナルを紹介したい。

名護バスターミナル

沖縄南インターバス停から名護行きの高速バスに乗ろうとすると、運転手が「名護行きですよ。いいですか」と心配そうに確認するではないか。ここから名護に行く観光客なんて、まずいないのだろう。出だしから気分が盛り上がってくる。

約1時間で名護のバスターミナル着。ここはもう3度目だが、いつ見てもいい雰囲気である。
──そういえば、10年前に来たときに1日3便のローカルバスに乗ったら、運転手と意気投合して、その晩に名護のカラオケスナックに連れていってもらったなあ。
なんていう楽しい思い出もよみがえってくるのであった。

名護バスターミナル

名護のバスターミナルのどこがいいかというと、まず敷地が広くて停泊しているバスの数が多いこと。しかも、それが全部見渡せるから、乗り物ファンにとっては楽しくてたまらないのだ。

私は一応鉄道好きということになっているが、バスもけっして嫌いではない。とくに沖縄のバスは鉄道の代わりのようなもので、じつに楽しいのだ。
長距離を走る路線バスはあるし、琉球バス交通、沖縄バス、那覇バス、東陽バスの4社が入り乱れて、さまざまカラーのさまざまな形式が走っているのが魅力である。

名護バスターミナル

名護のバスターミナルには、琉球バス交通と沖縄バスが乗り入れているが、その事務所がターミナル内にあって、学校の職員室みたいな雰囲気の部屋が乗客からも見えるのも興味深い。

前回までは気がつかなかったが、「がじまる食堂」という地味な食堂もあった。中を覗いてみると一昔前の社食のような様子は魅力的だったが、まだ腹が減っていないので、残念ながら入らずに終わってしまった。

名護バスターミナルの時刻表

バスターミナルに貼りだされた手書きの時刻表もまた味わい深い。
10年前の写真を見ると、路線名も手書きだったが、さすがにIT時代になって、そのくらいはパソコンから印刷するようになったのだろう。

名護バスターミナルの売店

これは売店の入口である。飲み物やらパンやらお菓子やらを売っているのだが、中は薄暗くて、なんとも怪しげな雰囲気である。
コカコーラのロゴが入った冷蔵庫に貼ってあるのは、地元の民謡研究会の発表会を知らせるポスターだ。

名護バスターミナルの売店

それにしても、店内のこの荷物の積み上げ方はなんなんだろうか。
荷物の向こう側から、おばちゃん2人の話し声が聞こえてきたところから推察するに、この荷物がおばちゃんたちのプライバシーを守る砦のようなものなのだろうと思う。

私が冷蔵庫から飲み物を取り出すと、荷物の向こう側からおばちゃんが出てきて、ちゃんとお金を受け取って、ちゃんとお釣りを出してくれた。当たり前だけどね。

名護バスターミナル

事務所前は、いわば到着ホームのような設定である。名護バスターミナルに戻ってきたバスは、ここで客を降ろして、バス溜まりに向かう。
ここにコインロッカーがあるので、私は荷物をロッカーに入れて、やんばるの旅に出ることにした。ホテルで預かってもらうほうが費用もかからなくていいのだが、バスターミナルからホテルまで歩いてまた戻ってくるのは面倒なのだ。

それにしても、写真右端に見える「ドラム缶内で雑巾を洗うな!」という標語がおもしろい。
最後の!マークが、担当者のいらだちと怒りを端的に表現している。

名護バスターミナルのネコ

さて、雑巾を洗ってはいけないドラム缶の近くでは、何匹かのネコがうろうろしていた。写真では2匹のネコが写っているのが見えるだろう。

名護バスターミナル

さて、出発時間が近づいてきたので発車ホームに移動するのだが、その前にしつこくバス溜まりを撮影。
ここは、市の中心地から離れているので、周囲にあまり高い建物がない。だから、空がやけに広く見える。遠くの山並みもすがすがしいのだ。

名護バスターミナル発車ホーム

乗り場は4つか5つに分かれていたが、それほど混雑するわけではないし、頻繁にバスが出るわけでもない。残念ながら、10年前、22年前に来たときよりも、本数は3割減くらいになってしまっていた。
そんなことを懐かしみながら、ぼんやりと北に行くバスを待つ私であった。

名護バスターミナル発車ホーム

やがて、やってきたのは9時50分発の67系統辺土名(へんとな)行き。
辺土名は国頭村(くにがみそん)の中心地。村役場がある町である。
名護から辺土名まで約1時間。沖縄北西部の海岸に沿って走っていく。

2015-05-11

コザの南北問題

平敷屋から疲れ切ってバスに乗り、さあ今度こそホテルで一休みするつもりだったが、また貧乏根性が湧いてきた。
1993年にコザ十字路で撮った写真と同じ場所で、現在の写真を撮ってみようと思いついたのだ。
コザ十字路は、コザの中心部から北東寄りにある交差点である。

その写真というのがこれ。コザ十字路の北西側から南東方向を撮ったものだ。

コザ十字路1993年

すでに1990年代になっており、沖縄の町もずいぶん変わっていたので、那覇やコザの市内ではあまり写真を撮っていなかった。そんななかで、写しておいた数少ない写真の1枚がこれなのだ。

さて、それと同じ場所の現在の姿が下の写真。

コザ十字路2015年

以前の味わいのある建物は姿を消し、どこにでもあるような郊外の風景になってしまった。
まあ、22年もたったからしかたがない。それしても、もっと当時の街並みを撮っておけばよかった。

コザ十字路のすぐ近くには「銀天街」というアーケードがある。沖縄市がコザ市だったころには賑わっていたという商店街であるが、残念ながら現在はシャッターの閉まったままの店が多い。

20年以上前だったか、商店街の活気を取り戻そうと。テレビ番組とタイアップしたことがあったっけ。
10年前に来たときは、その関係なのか、商店街の真ん中に和田アキ子の像がドーンと派手に建っていたのを見た。

銀天街入口

はたして、現在はどうなっているのか。中を歩いてみるべきだったが、道路の反対側から見ると、営業している店が見えず、薄暗い。交差点まで戻って横断歩道を渡るまでの気力が湧いてこなかった。
ただ、周辺の商店の壁をペインティングしているところをみると、いろいろと試行錯誤しているのだろう。頑張ってほしいものである。無責任な旅人の感想にすぎないけど。

その代わりといってはなんだが、歩いて向かったのは銀天街とは反対側の丘にある越来城跡。越来は「ごえく」ではあるが、ウチナーグチの会話では一般的には「ぎーく」と発音するようである。民謡の「職業口説(くどぅち)」にも出てきたっけ。

越来城跡からの眺め

越来城跡はこぢんまりとした公園になっていて、コザの市内(正しくは沖縄市内だけど……)を見渡すことができた。
那覇が大都会になったことは、モノレールの車内からもわかるが、コザもまた大きな都市であることを実感する。

さて、今度こそホテルに戻って……と思ったが、そこでその日の朝にホテルの旦那から聞いた話を思い出した。
「南のパークハウスの先に、大きなイオンのショッピングモールができたんよ。グランドオープンは25日からだけど、もう昨日(22日)からプレオープンしてるから行ってみたら?」
「へえー、プレオープンって、誰でも入れるの?」
「地元の人には招待状が届いたけどね。大丈夫、誰でも入れるよ」

越来の坂道

そのときはさして興味もなかったが、ローカルニュースではどこもトップ扱いである。
まあ、ホテルから南へ1.5kmほど。国道に面していてバスでも行けるという。ものは試しと訪ねてみることにした。
招待状がなくても大丈夫かなと思ったが、そんなに人が集まるところで、沖縄の人がいちいち入口で招待券をチェックするわけがないと信じた。いや、けっしてけなしているんじゃなくて、ほめているんですよ。念のため。

行ってみると、それはそれは城砦のような大きな建物。
なかに入ると、プレオープンというのに、館内には多くの人が集まっていた
食事処、ファッションの店、そして大きな書店などなど。あんな立派で品揃えもよい書店は、東京でもそんなにあるものではない。
沖縄ならではの品もあって、地元の人も観光客も楽しめるようにできていた。
「中国人の観光客も見込んでいるらしいよ。那覇から観光バスで直行するっていうから」というホテルの旦那の話も本当らしい。
こんなものができたら、銀天街はひとたまりもないなあ、としみじみ感じてしまう。

ライカムのイオンモール

腹が減ったのでなにか食べようと思ったが、食事処はどこも東京で聞いたことがあるような店ばかり。これじゃしょうがないと帰ろうと思って館内案内図をみたら、オリオンビールのビアホールを発見。
結局、この日の夕食は、ここですませることにした。

オリオンビアホール

ところで、ショッピングモールは、沖縄市ではなく南隣の中城町に位置している。聞くところによると、ここは米軍のゴルフ場があったところだそうで、なるほどと思った。
そのゴルフ場の名前にちなんで、ライカムのイオンショッピングモールと呼ばれているらしい。
それにしても、このショッピングモールの文化的影響と経済効果は大変なものになるだろう。

そして、どこかの人が書いていたことの受け売りになるが、こうした施設の成功が続くことで、米軍基地がなくなっても沖縄は経済的に困ることはないと確信できたという。
沖縄の現状を知らない人は、いまだに「沖縄の人は基地がなくなったら、経済的にも困るだろう」などと言っているが、けっしてそうではないことが、すでに北谷でも証明されているし、ここでも証明されるだろう。
一抹の不安をもっていた沖縄の人もいただろうが、こうした成功が続くことで自信につながるに違いない。

だからどうしたと言われても困るが、普天間基地が返還されて、あの土地が再開発されたら、どんなことになるのかぜひ見てみたい気がする。
もっとも、普天間返還には辺野古の問題がからんでいるので、一筋縄ではいかないのだが……。


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