2016-08-24

多良間島でぶらぶら史跡めぐり

翌7月18日は、妻とその友人がダイビングに行くのを見送ったのち、多良間島の散歩に出かけた。
小さく見えても直径5kmほどの島なので、歩いて全島をめぐるのは大変。
でも、集落は島の北部に集中しているので、この範囲ならば午前中だけでもまわることは可能だともくろんだ。

多良間島の道

まず向かったのは、集落の北側から。
家並みを見るのは後回しにして、周辺にある遺跡、史跡をめぐることにした。

泊御嶽入口

これは泊御嶽の入口。御嶽(うたき)というのは、沖縄各島にある聖域のこと。
この入口には鳥居が設けられているが、これは明治以降に立てられたものであって、沖縄本来のものではない。
付近は、うっそうとした林に覆われていて、珍しい散歩者を直射日光から守ってくれる。

泊御嶽

なかに入ると、祭祀を執り行うための、こうした建物がある。
沖縄をめぐっていると、意外に新しく建て直されたものが多く、ここもまたコンクリート製でアルミサッシがついている。今一つ神秘さに欠けるようにも思えるが、台風が多い土地柄、しかたのないことなのだろうと、サッシがついた理由は察しがついた。
ときに、茅葺きや木造の昔ながらのものも見かけることがあるが、たいていそういうのは、あえて保存をしているケースが多いようで、やはり実用に使われるのは、ほとんどが新しいものである。

多良間方言の表記

史跡めぐりで、個人的に興味を引かれたのが、看板の表記である。
宮古諸島では、「人」が「ぴとぅ」というように、おそらく古代の日本語が残っていると言われている。
とくに、半濁音が多いのが特徴だ。沖縄本島で使われる「世果報」(ゆがふ)は、ここでは「ゆがぷ」なのだそうな。
畑が「ぱり」なのは、土が「張る」>「張り」から来ているのではないかと思う。
ちなみに、やまとことばの「春」は、暖かくなって土が「張る」状態に由来しているという説が有力だと聞いている。

前置きが長くなったが、この看板には、「ム゜」「イ゜」「リ゜」という文字が見える。ほかに、宮古島には「ス゜」もあったっけ。半濁点がついているけれども、「パピプ……」のような半濁音というわけではなく、「それに近いけれども、ちょっと発音が違う」くらいの表記のようだ。
「イ゜」は、「イ」の口の形で、舌と上顎の間隔を狭めて出す「ズ」に近い音のはず。「ス゜」は、「ツ」と「ス」の間のようなくぐもった音だった。、「ム゜」「リ゜」については未確認である。

もっとも、この表記は確立されたものではないようで、この看板にある「ウガム゜」(「拝み」=「拝所」のことだろう)を「うがん」と記したところもあった。
(となると、「ム゜」は口をしっかり閉じて母音なしで出す語尾のm音か?)
(で、多良間方言には「r」音以外に「l」音が現れるというから、「リ゜」は「l」かも)

里子之墓

さてこれは、18世紀の和文学者であり劇(組踊)作家である平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)の子孫の墓。
今でいえば、革命的文化人だったのだろう。琉球王朝に批判的だった彼は、とうとう王朝に処刑されてしまう。
その事件の顛末は、「落書事件」として知られるのみで、真相はすべて抹殺されてしまったという。

多良間島に流刑となった息子とその子孫の墓がここで、のちに朝敏の遺骨もここに収められた……とここに書いてあった。
平敷屋朝敏の名前は、沖縄の歴史や文学をほんのちょっとかじっただけでも知っているほどの有名人なのだが、そんな人の墓が、首里からはるか離れた多良間島の、しかも草が繁った脇道にあるとは驚いた。

多良間神社

能書きが続いたので、あとは簡単に。
これは多良間神社の拝殿。多良間神社は、島の興隆の礎を築いた16世紀の豪族、土原豊見親(んたばる・ とぅゆみゃ)の偉業をたたえて、明治になってからつくられたもの。
神社ではあるが、建物の内外とも、かなり沖縄化されている。

多良間島

このほかにも山ほど遺跡や史跡の写真を撮ったのだが、このくらいにしておこう。
史跡めぐりを終え、集落めぐりの前に、やってきたのが八重山遠見台。
標高33mの高台になっていて、石垣島などの八重山諸島を遠望できることから、その名がついている。
多良間島を訪れる前は、津波に襲われたらどうするんだと心配をしていたが、なんとかここまでたどり着けば、超大津波でなければ助かるかもしれない。

現在はその頂上に灯台のような展望台ができていたので、蒸し暑い中をひいこら階段を上り、周囲を見渡した。
それが最後の写真である。
ここまで登ると、さすがに風が吹き抜けて、ほんの少しだけ涼しさを感じたのであった。

2016-08-18

多良間島「海の日ハーリー大会」に遭遇

地図で見るとわかるように、多良間島はまんまるに近い島で、直径は5~6km。空港は島の南西部にあるが、集落は北部にあり、フェリーが発着する前泊港も集落の近くにある。

空港から集落までは400円。村営バスの運転手に行き先を告げると、すぐ前まで運んでくれる。結局、このときの乗客は私一人だった。

前泊港前の横断幕

実は、ダイビングをしている妻が、やはりダイバーの知人と2日前から島に来ていた。
泊まっていたのは、2003年にできた村営の「夢パティオ たらま」という、ちょっと照れくさい名称の宿である。

空港に着いた旨のメッセージを妻に送ると、すでにこの日のダイビングを終えていたらしく、「ハーリー大会をやっているから、ぜひ港に来るように」という返事が届いた。

港に来いと言われても、右も左もわからなくて困ったが、スマホのGoogleマップを参考にしてたどりついた。
いやはや、20年前だったら、マップどころかメッセージも受け取れず携帯電話もなかったから、どうなっていたんだろう。

前泊港

宿から港までは歩いて10分ほど。海が見えてくると、遠くから歓声が断続的に聞こえてきた。
ハーリー船競走の真っ最中のようである。

ハーリー(爬龍)とは、中国から伝わった手漕ぎの高速船のことで、名前のように船首と船尾に龍の模様が彫られている。長崎のペーロンと同類なんだろう。

ハーリー大会

港には、各集落の名前入りのテントがいくつも立っていて、そこで自分たちのチームを応援しているらしい。
妻も、ちゃっかりそのテントの一つに入り込み、ベンチに腰をかけていた。

船は2艘だけで、那覇のハーリー大会にくらべると、実にのどかである。
集落対抗のほか、中学生チーム、たまたま入港していた海上保安庁のチーム、役場チームなどが交代で、沖にある杭まで行って海岸に戻るコースを懸命に漕いでいた。

ハーリー大会

妻と知人が世話になっているダイビングショップチームも登場したが、沖に出る前に、まっすぐに進むことができず、くるくると3回転したのち、あえなく地元の人に引っ張られて海岸に戻ってきて、会場は爆笑。

それにしても、島民のほとんどが集まったんじゃないかと思うほどの賑わいである。
2泊3日で、こんなに人間を一度に見たのは、これが最初で最後であった。
もっとも、あとで調べたら島の人口は1200人ほどなので、思ったより多い。暑くて寝ていた人も多かったのだろう。

即席売店

最後の写真は、海岸の入口に設けられた即席の売店。妻は、そこで多良間名物の「ぱなぱんぴん」を購入。
「ぱな」は花、「ぱんぴん」は揚げ菓子のことで、ドイツのプレッツェルを小さくしたような菓子だ。
子どものおやつにも、ビールのつまみにもいい。
「つくる人によって、味や舌触りが違うんだよねぇ」
昨年に続く2度目の来島となる妻は、偉そうな口ぶりでそう言っていた。

2016-08-17

沖縄 多良間島へ

旧盆も過ぎて今さらだが、7月なかばに沖縄の多良間島へ行ったときのことなどを書いてみたいと思う。

出発は7月17日の日曜日。羽田空港から那覇空港、宮古空港と2回乗り換えて、多良間島へ。
多良間島は宮古島と石垣島の中間に位置する島で、古くから宮古島とのつながりが強い。
かつては石垣島からも飛行機が飛んでいたが、今は宮古島から飛行機か船で行くしかない。

宮古空港

宮古空港からはRAC(琉球エアコミューター)のプロペラ機。39人乗りのボンバルディア社製だ。
以前はトラブルが頻出した同社製のプロペラ機だったが、最近では幸いなことにあまり不調を聞かない。

ちょっとドキドキはしたが、乗ったらもうどうしようもないので、運を天に任せるしかない。
十数人を乗せた飛行機は、ブルンブルンとプロペラを回しはじめて、めでたく離陸。
恐いと思うひまもなく、多良間空港まで20分で着いてしまった。
眺めもよかったし、こうなるともう少し乗っておきたかったと勝手なことを思うのであった。

宮古空港

ところで、RACやJTAの飛行機では、ちょっと楽しい到着の案内放送がある。
那覇から宮古に着いたときに知ったのだが、「到着地の方言で案内をします」というのだ。
そして、「たんでぃがー、たんでぃー」で始まったからビックリした。
これは、宮古方言の「ありがとうございます」のこと。那覇方言だと「にふぇーでーびる」だから、まったく違う。

「えっ、まさか、ずっと宮古方言で案内をするの?」と、さすがの私もあせった。
那覇方言ならば、何を言っているかくらい、ある程度見当はつくが、宮古方言になるとチンプンカンプンである。
……と思ったら、方言は最初の「ありがとう」でおしまい。
あとは標準語の案内になってしまった。
「なーんだ」と、ほっとしながらも少しがっかり。

機上から

で、多良間島到着のときはどうだったかというと、やっぱり多良間方言でやってくれた。
「すーでぃが ぷ」
東京・亀戸にある宮古島料理の店「ラッキー」のおばあに聞いた通りであった。
この最後の「ぷ」がユニークである。
多良間のことばを素でしゃべると、那覇の人にはもちろん、宮古の人にも通じないという。

ちなみに、下から2枚目の写真に、「かりゆす 多良間空港」という掲示が見えるだろう。
これは、那覇方言ならば「かりゆし」となるところだ。
ちょっとナマっていてかわいい。

多良間空港ターミナル

さて、多良間空港は2003年に現在の場所に移転したとかで、小さいけれどもこぎれいなターミナルが待っていた。
もちろん、飛行機からターミナルへは徒歩移動である。

多良間空港

降りたはいいが、那覇で預けた荷物を受け取らなくてはならない。
どこの空港でも同じなのだが、「ここをいったん外に出たら、戻ることはできません」という掲示があるので、私は荷物受け取りカウンターの前でしばらく待たなくてはならない。
ほかの乗客はというと、一人残らず素通りをして出て行ってしまった。
「ああ、地元の人はたいした荷物もないんだな」

エアコンの効いていない狭苦しい部屋にしばらく一人で残されていたものだから、心細いこと限りない。しかも、到着時間に合わせて運転されているという村営バスに置いてけぼりを食わないか、気が気じゃない。

荷物の運び出しにずいぶん時間がかかり、そろそろチビりそうになるころ、ようやくトラックが建物に横付けされて、シャッターがガラガラと音を立てて開けられた。

多良間村営バス

と、そのときである。
エアコンの利いた待合室から、ぞろぞろとさきほどの飛行機の乗客が"逆流"してきたではないか。
バカ正直に、暑くて狭いところで待っていた私が愚かだった。
あなどりがたし多良間島。私はさっそくその洗礼を受けることとなってしまった。

もっとも、村営バスはちゃんと待っていてくれた。
タクシーのないこの島で、集落まで行く唯一の交通機関である。
外に出ると、日射しは東京のそれとはケタ違いに強かった。

2016-06-18

埼玉県 上尾の町並み

最近は忙しくなって、なかなかぶらぶら歩きができず、仕事で出かけたついでの散歩くらいしかできないでいる。
そんないきさつで訪れた町の一つが埼玉県の上尾である。

上尾というと、首都圏の人間にとってはベッドタウンというイメージしかないかもしれないが、かつては中山道の宿場町でもあったから、味わい深い一角でも残っているかもしれない。
そんなことを妄想しつつ、上尾で所用を済ませたのち、まだ日が出ていることもあって、駅の周辺から中山道まで歩いてみたのである。予習もなにもしていない、まさに行き当たりばったりのぶらぶら歩きだ。

上尾駅北側

駅のまわりはすっかり新しくなっているが、東口を出て100mほど北に歩くと、看板建築の商家が並ぶ、昔ながらの商店街があった。
踏切も健在で、高崎方面に向かうE233系電車が通りすぎていった。

上尾駅北側

最初の写真から90度左方向を写したのがこの写真。電柱には上尾1-1と記されている。
右側の道を100mほど歩くと駅にたどりつく。
角の店は「有限会社 文栄堂」で、事務用品店らしい。店頭には印鑑の陳列塔というべきものが据えられている。
左の高橋理髪店とは棟割長屋になっているようだ。

中山道上尾宿あたり

次に旧中山道に出てから駅を横目に見ながら南下。
上尾宿の案内板もあったのだが、どうやら何度かの大火に加えて、ベッドタウン化によって昔の面影はほとんどなくなってしまったらしい。
それでも、ぶらぶら歩いていると、まずまず古い家が目に入ってきた。

中山道上尾宿あたり


はたしていつの時代まで遡ることができるかわからないが、中山道沿いでこうした家を3、4軒見かけた。

そして、おそらく昔は町外れだっただろう場所にあったのが、下の愛宕神社。
新しい住宅が並ぶなかに、忽然として現れる。
柵もなく、開放的なところが気持ちいい。
境内には1722年建立という小さな庚申塔があった。

中山道上尾宿あたり


このあたりまで歩くと、戻るのも億劫なので、約10分おきに走っている大宮駅行きのバスに乗車した。
そのまま大宮まで乗っていればよいものを、宮原を過ぎたあたりで大宮まで走っているニューシャトルの駅が見えてきたので、発作的に下車。帰宅ラッシュのニューシャトルに乗ったことを後悔しながら、帰途についたのであった。

2016-05-22

大阪 1980年の南海平野線と現在の今昔比較写真(2)

前回の最後の写真の道を抜けると、平野線の軌道跡は遊歩道になる。
道にはレールと枕木をイメージさせる模様がついていて、なかなかニクい演出だ。
密集した住宅の間を、ゆるやかなカーブを描いて走るのだが、周囲には木々の緑が濃く、晩春の夕方の散歩にはうってつけである。

途中には小さな広場があり、平野線の電車が描かれていたり、平野線の歴史を記した看板が立てられていたりして、廃止から35年以上たっても周辺の人たちには忘れられない存在なのだろうか。

平野線のイラスト

広場にあった小さな丸いベンチの屋根は、平野駅舎の8角形の屋根を形どっていて、マニア度も高い。

そして、まもなく平野駅跡へ。
1979年に来たときに見た平野駅は実にユニークだった。

1980年の平野駅1番線

恵美須町行きと天王寺行きは別のホームから発車するのだが、この2つの乗り場がほぼ縦に並んでいた。これは、恵美須町行きの1番線ホームを平野駅舎側から見たところ。
天王寺行きは、この左側にある線路を通って駅舎に近い2番線ホームに入る。狭い土地を有効利用して、こういう形になったのだろうか。

現在は、下の写真のような感じ。

2016年の平野駅跡

そして次は1番線ホームから2番線と駅舎を見たところ。駅舎はネコの額ほどで、そこを通り抜けるとすぐに商店街に出る。
まさにこの駅舎の屋根が8角形でユニークだったのだが、写真に取り損ねてしまった。
当時、私が持っていたレンズでは、駅前の道を精一杯下がっても全体を写し込めなかったのだ。
今思えば、それでも一応撮っておけばよかった。すべて後の祭りである。

1980年の平野駅ホーム

そして、同じ場所(たぶん)から撮ったのが下の写真。
古いレールを組んだ柱が見えるので、もしや昔のホームの柱を保存しているのかとも思ったが、古い写真と見比べてみると、そうでないことがわかる。
となると、このためにわざわざ作ったのか。これまたニクい演出である。
ちなみに、歩道に描かれたレールと枕木の模様では、到着ホームに2つ乗り場があったように見えるが、これはご愛嬌である。

2016年の平野駅ホーム

遊歩道を出てJR平野駅まで歩いていこうと思ったが、ちょっと距離がありそうなので、地下鉄の平野駅へ。
途中にある商店街は、なかなか味わい深かった。
街並みの写真も何枚か撮ったのだが、これはそのうちの1枚である。

平野の商店街


これで、このときの旅の写真はひとまず完。

2016-05-15

大阪 1980年の南海平野線と現在の今昔比較写真(1)

天王寺で阪堺電車の今昔写真を撮り終えたが、まだ時間がたっぷり残っていたので、かつて平野線が走っていた平野終点あたりまで足を伸ばしてみようと思いついた。

昔の写真はスキャンしてデジタル化し、クラウドに保存してあるので、いつでも呼び出して比較できるのである。
当時は想像もできなかった技術の進歩だ。

北田辺駅前

天王寺から地下鉄に乗ればすぐなのだが、それではおもしろくないので、バスで向かうことにした。
ところが、道路は混んでいるし、ずいぶん遠回りをしているようなので、途中から近鉄南大阪線に乗り換えて平野近くまで行くことにした。

北田辺駅前

おかげで、こんなときでもなければ歩くことはないだろう東住吉区のぶらぶら散歩を体験できた。
上2枚の写真は、北田辺駅前。このあたりには、なかなか趣深い商家があった。
古い家屋と商家の組み合わせというと、東京では看板建築が圧倒的なのだが、こちらではなんとも表現しがたい複雑な加工がほどこされていた。

その後も、あっちへ行ったりこっちへ来たりと、気ままに迷いつつ、ようやく日が暮れる前に平野にたどりついた。

西平野停留場1980年


上の写真は、廃止直前の1980年8月に撮影した西平野停留場。車両は239号車。味わい深い光景で、気に入っている写真の1枚だ。
どの停留場で撮ったのか、ずっとわからなかったのだが、グーグルストリートビューで探していたある日、左に写っている今村電化のビルが当時のままで今でも営業していることを見つけた。

西平野停留場跡の公園

今では公園になっており、時あたかも桜が満開の時期。夕暮れの温かい風のなかで、地元の人がのんびりと桜をめでていた。
今村電化のビルは桜の陰になっているが、看板にあるパナソニックの青いロゴがちらりと見えている。
公園のコンクリートの塀には、かつてここに平野線が走っていたことが記されていた。

西平野停留場跡の公園

次の写真もまた、どこで撮ったのかわからなかったが、去年かおととしになって西平野~平野間であると判明した。恵美須町からやってきた245号車が、まもなく平野終点に到着するところだ。

写真を拡大してみると、車掌が後ろの窓から顔を出して私のほうを見ていることがわかる。
それにしても、大阪市内とは思えない牧歌的な情景!

西平野~平野1980年


現在、軌道敷はカラオケ・ビッグエコーのビル(手前)やアパート(奥)に変わっていたが、この道の突き当たりにあるお宅が健在であった。

西平野~平野の現在


平野駅付近の探訪はまた次回。

2016-05-06

大阪 天王寺と阪堺電車の今昔比較写真(2)

前回の続き。
天王寺からあべの筋を南下して、最初の大きな交差点が阿倍野交差点。
ここで、かつては平野線(1980年廃止)と上町線が交差していた。

阿倍野交差点1979年

この写真は、1979年3月に交差点から西側を撮ったもの。写真の右側が、天王寺駅方面である。
正面に見える電車(249号車)は、恵美須町からやってきて平野に向かう系統。
手前の電車は、平野から来て、阿倍野交差点で右折して天王寺に向かう系統である。

阪堺電車というと、やっぱりこの色がいいなあ。
古い車両にはこの重厚な緑色が似合う。ドアと窓枠が茶色なのもおしゃれ。

阿倍野交差点2016年

現在、上町線は元気に走っているが、平野線はこれを撮った翌年に廃止になってしまった。

次の写真は、阿倍野交差点から100mほど西に行ったあたり。
これも同じく1979年3月に撮った平野線の電車(151号車)。
バックの低層の商店が時代を感じさせる。

阿倍野交差点付近1979年

そして、上の写真から37年。周辺はすっかり変わってしまったが、阪神高速(14号線)だけは昔のまま上を走っている。

阿倍野交差点付近2016年

次の写真は、天王寺駅前に到着寸前の電車(122号車)。方向幕は、すでに折り返し後の「住吉公園」に変わっている。
これを撮ったのは1980年1月。大学3年生の冬である。就職はしないことに決めていたので、のんきに南紀をめぐっていた。

天王寺駅前1980年

そして、これが同じ場所の2016年。道路が手前側に拡幅されたので、まったく同じ場所で撮ろうとすると車に轢かれること必定である。
背景中央の緑色の建物が、あべのハルカス。

天王寺駅前2016年

最後にもう1枚おまけ。天王寺駅に隣接する近鉄南大阪線阿部野橋駅の1979年の姿である。
バックの近鉄百貨店阿倍野本店が、現在のあべのハルカスがある場所。

近鉄阿部野橋駅1979年


当時は、駅を出たすぐのこんなところに踏切があった。
今回は、せめて近い場所で写真を撮れないかとうろうろしたが無理だった。電車内から撮ればいいのかもしれない。

2016-05-03

大阪 天王寺と阪堺電車の今昔比較写真(1)

大阪に来ると、いつも立ち寄っていたのが天王寺界隈である。
東京・下町に生まれ育った人間にとって、このあたりは居心地がよく、ぶらぶら散歩するのが楽しかった。

ところが、ここ数年の天王寺付近の変貌はあまりにも激しい。
きれいな建物ができて喜んでいる人も多いだろうが、昔の情緒ある町並みが懐かしい。

あべのハルカスと阪堺電車

あえてよかった点を挙げれば、阪堺電車(阪堺電気軌道)の乗り場への移動が楽になったことと、道路拡幅にともなって阪堺電車の線路が移設される予定で、おそらく乗り心地もよくなるだろうということか。
上の写真は、阿倍野交差点から天王寺駅方面を見たところ。あべのハルカスをバックにして、阪堺電車の旧型電車を撮ることができた。

あべのハルカスから見た阪堺電車

そして、これはその逆。つまり、あべのハルカスからあべの筋を見下ろしている。よーく見ると電車が走っているのが見える。
最初の写真を撮ったのは、高速道路の下にある交差点の右上角あたり。


この辺りでは、昔にも写真を撮っているので、例によって定点写真を撮影を敢行。
まずは、1979年の山陰旅行の帰りに立ち寄ったときの写真から。
この写真の右手前が、阪堺電車(当時は南海電鉄の軌道線)天王寺停留場(終点)を経て国鉄天王寺駅に至る。

1979年の天王寺

現在は、道幅が約2倍に拡幅されており、しかも向こう側(西側)に拡幅されているので、この写真に写っている建物の面影はまったくない。

2016年の天王寺

もう1枚は、2006年に撮影したあべの銀座の様子。
阪堺電車天王寺停留所の西側にあった商店街である。
場末感漂う素晴らしい雰囲気だったのだが、残念ながら再開発によって跡形もなくなってしまった。

2006年のあべの銀座

もっとも、昔からあった店のいくつかは、再開発後に建てられたビルにも入居しているようだ。
ずっと行きそびれているグリルまるよしも、新しい店舗で営業していた。

2016年のあべの銀座跡

次回も、天王寺付近の今昔写真をお届けします。

2016-05-02

大阪 鶴橋駅周辺をぶらぶら歩く

多忙のため、しばらくごぶさたしてしまいました。
4カ月にわたって全力を尽くして連載していたシベリア鉄道横断記も無事に終わり、しばらくシベロスに陥っていたのに加えて、たまっていた仕事を片づけるのに時間がかかってしまいました。

世の中はすでに大型連休に入っていますが、ブログ再開のリハビリとして、4月上旬に訪問した大阪での話から。

鶴橋駅改札口付近

新大阪駅のすぐ北にある江坂あたりで仕事があったのは4月5日のこと。
昼過ぎに仕事は終わったのだが、日帰りするのももったいないので、自腹で宿をとって大阪散歩。
こんなことができるのは、フリーランスの特典である。

鶴橋駅改札口付近

まず向かったのが、鶴橋。
同じ大阪環状線の駅でも、京橋や天王寺周辺が垢抜けしてしまったのにくらべて、ここはまだまだディープな雰囲気が楽しめる。
なにより駅の改札を出ると、どの方向に行くにも薄暗い高架下を歩かなくてはならないのが不気味でおもしろい。
東京付近で現在これに匹敵するのは、かなり規模は小さいけれど、鶴見線の国道駅くらいか。

鶴橋駅前の商店街

駅前広場という概念を打ち破る狭苦しい場所には、売店、立ち食いうどん・そば屋、本屋、喫茶店などが軒を連ねている。
そこから、一番賑やかそうな方向にあるのが、アーケードの「鶴橋商店街」。狭い道の両側には、主に朝鮮・韓国食材の店が建ちならんでいる。

鶴橋駅前の商店街

東京の上野にもコリアンストリートのようなものはあるが、比較にならない賑わいである。
それに東京では日韓、日朝の微妙な関係といったうっとうしいことを意識してしまいがちだが、ここ鶴橋は少なくとも旅行者の無責任な目からは、とってもおおらかなので救われる。

鶴橋駅付近

これまでの訪問と違って、今回は欧米系の観光客が目立った。
商店街をぶらぶら歩いていたり、ベンチに座ってソフトクリームなんかを食べていたりして、ちょっとした国際的な観光地である。
彼らにとっては、私が南イタリアに行ってアルバニア人やギリシャ人の末裔が住んでいる村を見て喜んでいるような感じなのかもしれない。

鶴橋駅付近

日が出ているうちにもう少しまわりたいので、カウンター式の焼肉屋に入りたいのを我慢して、私は再び大阪環状線の客になるのであった。

2016-01-04

2016年 明けましておめでとうございます

新年、明けましておめでとうございます。

去年は意外な展開がいろいろと起こって、突然の多忙に陥り、更新もままならずに申し訳ありませんでした。
今年は、なんとか少しずつでもアップしていこうとと思っています。

シベリア鉄道の車窓

写真は、なんとかの一つ覚えですが、昨年9月に乗ったシベリア鉄道の車窓です。
「日経ビジネスオンライン」の連載ももう少し続きますので、お時間のあるときにご笑覧ください。

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