2024-02-26

光に満ちた海辺の町ポリニャーノ・ア・マーレ

バーリ中央駅からイタリア鉄道で向かったのは、バーリから南東へ30kmあまりにあるポリニャーノ・ア・マーレ(Polignano a Mare)。
海岸に面した保養地で、1950年代末に「ボラーレ」 を全世界にヒットさせたドメニコ・モドゥーニョの生まれた町でもある。 

ポリニャーノ・ア・マーレの海岸

ポリニャーノ・ア・マーレの中心部へは駅から徒歩で15分ほど。海に突き出した旧市街にある旅行者用アパートに宿をとった。
その宿からすぐのところに、絶景のビューポイントがあった。

ポリニャーノ・ア・マーレの海岸

ポリニャーノ・ア・マーレといえば、この風景である。緑色の海と2つの岬にはさまれた狭い砂浜。
9月半ばとはいえ昼間は33度に達する暑さのなか、日中は海水浴客であふれていた。

ドメニコ・モドゥーニョの銅像

その一方の岬の突端近くに立つドメニコ・モドゥーニョの銅像。彼が作曲して歌った「ヴォラーレ」は、1958年のサンレモ音楽祭の優勝曲となり全世界で大ヒット。アメリカの第1回グラミー賞も受賞した。ヴォラーレ以外にも、「チャオ・チャオ・バンビーナ」「Dio come ti amo(愛は限りなく)」など、数多くのヒット曲があり、のちにはイタリアの国会議員も務めた地元の英雄である。

海沿いに立つ銅像の前では、観光客が銅像と同じ格好で記念写真を撮影。ここにくると、誰もが笑顔になるのがいい。
われわれも撮ってもらった。ちなみに、原題の「Nel ble dipinto di blu」は、「青(い空)の中で青く染まって」というような意味なので、この日の天気はぴったり。

ポリニャーノ・ア・マーレの海岸

ドメニコ・モドゥーニョの銅像がある岬の先にまわって、反対側の岬をまたパチリ。いくら撮ってもきりがない。
宿は、この写真の中央やや左あたりにあり、屋上からは海が見えた。

旧市街

プーリア名物のパニーノは「プッチャ(Puccia)」。複数形はプッチェで、ここのようにプッチャを売る店が「プッチェリーア」。ピッツァのような生地のパンで、店によっていろいろなものが練り込まれているという。
看板横に飾られているのはタコ! 南イタリアやギリシャでは、日本と同じくタコを食べるのだ。
もちろん、タコのプッチャもあった。

旧市街

狭い旧市街はどこも観光客で大混雑。海が見える路地は人気が高い。

夕暮れの海岸

夕食前の散歩。海水浴客がいなくなった砂浜に降りてみた。

夜の海岸

夕食を食べたあと、宿のそばからまたパチリ。本当にいくら撮ってもきりがない。

2024-02-23

明るい観光地となったバーリ旧市街

今回、バーリはちょっと下車をするだけ。これまでも何回か泊まったことがあるので、宿泊地は別の町にした。

バーリを紹介するときのお決まりのフレーズは、「昔の旧市街は治安が悪かったけれど、今はすっかりきれいになって観光客で賑わっている」というもの。アフターコロナで、この町もアルプスの北側から来たと思われるヨーロッパ人の観光客が闊歩していた。

バーリ旧市街

バーリ旧市街の入口の一つ。アーチ型の入口の向こうにこぢんまりとした美しい旧市街が広がる。

サンニコラ教会

旧市街の北側の海岸近くには、バーリの守護聖人である聖ニコラ(サンニコラ)を祀った聖ニコラ教会が建っている。

サンニコラ教会

聖ニコラ教会の地下には、聖ニコラの聖遺物が収められている。聖ニコラは3~4世紀の神学者で、ラテン語にすると聖ニコラウス。サンタクロースのモデルになった人物でもある。
カメラを構えていたら、この子にじっと見つめられてしまった。

旧市街のフィアット500

聖ニコラ教会の横にあるサングレゴリオ教会は、バーリでも古い教会とのこと。シンプルな幾何学的な造型が美しい。

フィアット500

バーリはナポリ以南のイタリア本土では最大の都市だけど、旧市街はせいぜい500m四方の大きさ。散歩にはちょうどいい。

上の写真は、旧市街を歩いていて出会った旧型のフィアット500(チンクエチェント)。まだまだ南イタリアではよく見かける。

バーリ大聖堂

これがバーリ旧市街の中心に建つ大聖堂(ドゥオーモ)

バーリ大聖堂

バーリの大聖堂は見る角度によって、さまざまな表情を見せる。これは裏側から撮ったもの。

バーリ旧市街

バーリ旧市街の西側にある広場。旧市街には特別の許可がないと車が入れないので、この手前の駐車場には数多くの車が停まっている。
写真中央のアーチ型の入口の向こうが旧市街だ。

2024-02-13

明るく近代的に変身したバーリ駅

ルチェーラを朝に出て、列車でバーリ中央駅へ。バーリはプーリア州の州都で、ナポリ以南の本土では最大の町だ。
フォッジャから乗った列車は、この写真の電車ETR104、愛称「ポップ」(POP)である。

ETR104' POP

「ポップ」は、2010年代の終わりに登場したアルストム社製の3車体または4車体の連接車で、地方都市の近郊列車に使用されている。
同時代には、「ロック」も製造されて大都市近郊の幹線の普通列車に使われている。そちらは、日立製作所のグループ会社であるイタリア・日立レール社の車両だ。

ETR104' POP

カラーリングは、最近のイタリア国鉄の標準的なもの。正面のデザインはごついが、この色の使い方はいかにもイタリアだ。

バーリ中央駅

バーリ中央駅は、すっかりきれいになっていてびっくり。途中には、こんな吹き抜けもある。
以前は古めかしくて薄暗い駅だったが、明るく居心地のいい駅になった。

バーリ中央駅

バーリ中央駅からは、イタリア鉄道のほかにイタリア半島のかかとに向けて路線網を持つ南東鉄道(スドゥ・エスト鉄道)も走っている。
世界遺産の町アルベロベッロに向かう鉄道として観光客にもおなじみの路線だ。
以前は、イタリア国鉄お下がりの古いディーゼルカーやディーゼル機関車ばかりだったが、現在はイタリア鉄道の持ち株会社FSの傘下に入って体質改善を図り、何年か前にターラントまでの区間が電化された。このニュースには、私を含めて昔のこの鉄道を知る人びとは驚かされた。

近くまで撮りにいく余裕がなかったが、駅舎のそばから南東鉄道の車両を見たのが上の写真。車両は、ポーランド・ネワグ社製の最新型電車ETR322だ。3車体の連接車である。

メトロ・バーリ駅

南東鉄道のほかに、バーリからは内陸のマテーラ方面に向かうアップロ・ルカーネ鉄道、そしてバーリ空港やプーリア州北部に向かう北バーリ鉄道(トランヴィアーリア鉄道)も走っている。
この日、バーリ空港に到着するという妻の甥を迎えに、はじめて北バーリ鉄道に乗ることになった。

メトロ・バーリ駅

昔は1日に何本もないバスが走るだけの不便な空港だったが、今ではバーリ駅前広場の半地下からこんな電車が走っている。
もっとも、列車の運転間隔は約40分おきで、駅に着いたときは前の電車の発車直後。うんざりしながら発車を待つことになった。

 

2024-02-09

ルチェーラの夕べ

宿でひと休みして大聖堂周辺をぶらぶらしたあと、日が暮れないうちにと向かったのは町はずれの城砦だ。下の動画がそれである。ガイドブックには17時までと書いてあったが、9月中旬だったためか18時までオープンしているとのことで運よく入ることができた。

フェデリーコ2世は、シチリアて反乱を起こしたイスラム教徒をここに住まわせて自治権を与えたという。住民たちはその温情に応えて、彼に心から感謝して、いざ戦いがあると惜しみなく力を発揮したとのことだ。

フェデリーコ2世の印象的なエピソードといえば、十字軍遠征を求める教皇との軋轢である。そんなことに興味のない彼は、さんざんはぐらかしていたのだが、破門をちらつかされて、とうとうエルサレムに向かって進軍することになる。
ところが、現地では戦うことなくイスラム教徒の君主アル・カーミルと意気投合。厚い友情を結んで、キリスト教徒とイスラム教徒の共存を実現する。

そして、キリスト教徒が安全にエルサレムに巡礼できるよう、話し合いをつけたのである。12、13世紀の人とは思えない、どこまでも破天荒で合理的な人だ。ところが教皇は、「イスラム教徒と戦わないとは何事か」と激怒して彼を破門してしまったのである。

夜の大聖堂前広場

さて、のんびりと町なかをぶらぶらしていたら、いつのまにかとっぷりと日が暮れた。昼間はまだ夏の暑さが残る時期だったので、夜になってようやく気温が下がると、中心部に人が増えはじめた。

8時を過ぎたところで、私たちは宿のマダムにすすめられたレストランに向かった。こんな田舎町に? と思うような創作的な料理が出てくる素敵なレストランでびっくり。

夜の大聖堂前広場

それにしても、宿のマダムもレストランのおやじも、私がフェデリーコ2世という名前を口にしたとたん、雄弁にその偉業をたたえはじめたのには驚いた。それだけ、この町では今も尊敬して親しまれているだろう。

路地裏のネコ

ネコちゃんも涼しい石畳で休憩中。

宿の朝食

ルチェーラの宿は旅行者用アパートではなくB&Bなので朝食が出る。
歴史がありそうな立派な建物だけあって、昔は居間だっただろう朝食部屋は、赤を基調にしたゴージャスな雰囲気。正直なところ客室はだいぶくたびれた感じだったが、この部屋は別格だった。

野菜を売る人びと

駅へ向かう路線バスの時刻と停留所を教えてもらい、スーツケースを引っ張って石畳を歩いていくと、あちこちで即席の露店が出ていた。
これは、色鮮やかな野菜売りのご夫婦である。

バスは町のあちこちを遠回りしていくので、1時間おきに発車するガルガノ鉄道に間に合うのか、心中穏やかではなかったが、そこはきちんと接続していることに感心した。
発車の5~7分ほど前には、私たちのバスを含めて、町の各方面からやってきた4台の小型バスが駅前に揃った。

2024-02-07

フェデリーコ2世ゆかりのルチェーラへ

ヴァストを出発したインターシティ(下の写真の左の列車)は、アドリア海に沿って南下。到着したのはプーリア州のフォッジャ駅である。

フォッジャ駅

フォッジャは、古くからプーリア州北部の交通の要衝でもある。右の赤い列車は、イタリア鉄道の誇る高速列車フレッチャロッサ。私たちが乗ってきたインターシティを追い抜いていった。

フォッジャ駅

そんな幹線の列車を横目に、ここフォッジャ駅でイタリア鉄道から私鉄のガルガノ鉄道に乗り換える。向かうのは、内陸にある町ルチェーラだ。
以前のガルガノ鉄道というと、オンボロな列車が走ってしょっちゅう遅れていたが、今ではこんな新型の電車が走っている。スイス・シュテッドラー社のETR330「FLIRT」である。乗り場は、フォッジャ中央駅の駅舎近くにあって非常に便利だ。

トロイア門

ルチェーラまでは20分。町外れにあるルチェーラ駅から、宿のある旧市街までは1kmほど。だらだらした上り坂で、しかも大きな荷物を持っているので心配したが、駅前に小型のバスが4台ほど待っていた。
なんと、市街のあちこちへ向かう小型バスが接続していたのである。昔のイタリアのローカル線では考えられない便利さである。これも、最近の鉄道復権を中心とした交通政策なのだろう。運転手は切符を買ってくるまで発車を待っていてくれた。

バスは旧市街の南にあるトロイア門をくぐっていくが、運転手は「大聖堂(ドゥオーモ)に行くならば、ここで降りたほうがいいよ」とアドバイスしてくれた。大聖堂に行くには門をくぐって直進するのだが、バスは門をくぐってすぐに左折していった。

ルチェーラ大聖堂

泊まった宿は、この大聖堂のすぐそば。画面右奥の建物の2階にあった。

ここルチェーラは、「世界史の奇跡」「13世紀に生きた合理主義者」とも呼ばれるシチリア王兼神聖ローマ帝国皇帝のフェデリーコ2世ゆかりの地である。

旧市街

昼下がりとあって、旧市街は人出も少なく閑散としていた。とはいえ、堂々とした大聖堂やその前に広がる広場の雰囲気が、由緒ある町であることを感じさせる。

旧市街

ここルチェーラに泊まったのは、わけあって翌日の昼にバーリ空港に行かなくてはならなかったためである。もちろん、バーリに泊まるのが便利なのだが、過去に何度も訪れたバーリにに泊まるのもおもしろくない。近郊で宿泊地を探した結果、ここを選んだわけだ。

城砦

ローマ帝国衰退後、ランゴバルド人とビザンチン(東ローマ帝国)の間の戦いがあり、それまで栄えていた町は破壊されてしまったという。
ノルマン人による南イタリアの征服後、フェデリーコ2世がこの土地にエポックメイキングな出来事をもたらす。
シチリアで反乱を起こしたイスラム教徒をこの町に定住させ、当時先進的な文化を誇っていた彼らに対して信仰や貿易の自由を保障したのである。しかも、フェデリーコ2世は、なんとイスラム教徒の近衛兵まで組織したというから驚く。
町外れには、当時の城砦が残っているというので訪ねてみた。上の写真である。

2024-01-23

ヴァストの夕食にブロンデットを注文

バスに貴重品の入ったバッグを忘れるという凡ミスをしたけれども、無事に手元に戻ってきて一安心。
アブルッツォ州のヴァストは、アドリア海に面したイタリア東海岸の保養地の一つで、これから南に向かうために、ここらでのんびりと1泊ということで選んだ町である。

ヴァストの夕暮れ

イタリアの保養地というと、ゴージャスでスノッブな町を連想しがちだが、ここは実に庶民的で親しみやすい町であった。
気のいい宿の主人に、おすすめの散歩コースとレストランを聞き、しばし海沿いを散策。

夜の旧市街中心部

日が暮れるにつれて、旧市街に徐々に人が集まってくる。昼間には静かだったた大聖堂前の広場も、賑わいが増してきた。
レストランの予約時間である8時までは間があったので、まずは広場の出店でクラフトビールを飲むことにした。

地元のクラフトビール

本当に最近のイタリアのビールはうまい。ベルギーの技術を導入した小規模な醸造所が多く、酵母が効いた上面発酵のビールは私好みである。

ブロンデット

宿のオーナーおすすめのレストランで、おすすめの料理「ブロンデット」を注文。「この土地でしか食べられない」と強調していたけれど、まあアクアパッツァの一種で、入れる魚介がここの土地特有ということなのだろう。
店主に聞いてみると、シャコ、シタビラメ、ホウボウ、スズキ、ヒメジが入っているそうだ。
今回は前菜なし、これ一択である。この写真の皿が一人前。

白ワイン ペコリーノ

「魚介に合う白ワインを」とお願いして出てきたのがこのペコリーノ。おいしゅうございました!

ブロンデットにパスタ投入

魚介を半分ほど食べたところでパスタが出てくる。濃い魚介の出汁がからんで最高。
もう、これで腹いっぱい。

宿のオーナーのチンクエチェント

実は、宿のオーナーはチンクエチェント党だった。
40歳前後かと見えるが独身とのこと。あちこち旅行して独身ライフを満喫しているようだ。
日本にも近々行きたいと言っていたので、連絡先を交換して記念撮影。

宿のオーナーのチンクエチェント

駅まで乗せてもらった。私にとって初チンクエチェント乗車!
3人が乗って、2人分の大荷物を詰め込んだら、もう満杯である。
出だしはどうなるかと思ったヴァストだったが、終わってみれば楽しい初滞在だった。

2024-01-15

アドリア海の保養地ヴァストで進退きわまった話

3泊したフォルリをあとにして、南イタリア・レッチェ行きのインターシティ(急行列車)に乗車した。最終的にはレッチェに行くことになるのだが、一気に行くのではなく途中で何か所か下車する計画である。
まず降りたのが、アドリア海沿岸のアブルッツォ州ヴァスト(Vasto)である。

広いビーチがある保養地で、丘上には旧市街があるというだけの情報だったが、むしろあまり情報のない町のほうが楽しみだ。
だが、この町に到着した直後、思い出すたびに冷や汗が出てくる「事件」が起きてしまうのである。

ヴァストの中心の広場

重いスーツケースを抱えて丘上の宿まで歩くのは不可能なので、ヴァストの駅からタクシーで行こうと考えていたのだが、そこそこの規模の町で保養地の駅のくせにタクシーが停まっていない。
どこかにタクシーの電話番号でも書いた貼り紙でもないかと思って探していると、駅前に市内の路線バスが到着した。市内バスの存在は事前の調べでも見つからなかったのだが、「系統番号1と書いてあるくらいだから、たぶん都心に行くのだろう」と思って乗ってみることした。

宿の窓から

「切符はどこで買うの?」と聞くと、車内中央部にある年季の入った券売機を示された。どう使うのか迷っていると、運転手が代わりに買ってくれた。
私はバスの前方に陣取って、Googleマップと車窓を代わる代わる凝視する。

駅を出るとバスは国道に出て、なんと丘上の町とは反対側に向かっていくではないか。
「これはマズい」とそわそわしていると、しばらくしてバスはUターンして国道を駅のほうに引き返す。
そして、今度こそ丘上に向かって快走していったのである。

丘上のヴァストの町

やがてバスは国道から脇道に入り、急坂を登っていく。丘上の都心に向かう道だ。ほっとした。
そして、町の入口にあたるジュゼッペ・ヴェルディ広場で停まると、大勢の人が降りていった。
宿のある停留所は2つほど先のようである。

「ロッセッティ広場に行きたいんだけど……」とそのバス停を運転手に聞いてみた。
「ああ、行くけれども、このバスは町を大回りするから、ここで降りて歩いたほうがいいよ」

それを聞いて、あわてて荷物をまとめて妻とバスを降りたのである。

北斎+トラボッコ

「列車から降りてすぐにバスに乗れて安上がりで済んだ。ラッキー!」
そう喜んでいられたのも、そのあと7、8分の間だけである。

荷物を引いて旧市街の中心部までやってきた。
「宿はもうすぐそばだから、冷たいものでも1杯飲んでいくか」
そういってテラス席に腰をおろした。広場の反対側には教会が建っていて、フォトジェニックな光景だ。
いざ、カメラを出して撮ろうと思った、そのときである。

ネコちゃん

「ない!」
このときは、スーツケースとショルダーバッグのほかに肩掛けの小さなバッグを使っていた。
それがないのだ。
カメラだけならまだしも、パスポートも財布もクレジットカードもそこに入れたままだった。

頭の中には、これからやらねばならないかもしれない、面倒なことがらが渦巻いた。
──バスの会社に連絡して、カード会社にもすべて連絡して、警察に行って、ローマまで行って大使館に顔を出さなくちゃならないか……まだ旅はこれからだというのに……。

海水浴場から見た丘上の町

まさに、進退きわまった状況である。
「でも、とりあえず今できることはないのか」
意外に冷静に考えて思い出したのが、さっきのバスの運転手のひと言である。
バスは町を大回りして、さっきのバス停に戻ってくるはずである。町の上下を結ぶ主な道はあそこしかない。

私は、荷物を妻にゆだねて、スマホだけを持ち(これだけは手に持っていた)、さっきのバス停まで走って戻ったのである。

丘上の町の夕暮れ

バス停まできて時刻表を確認。駅に向かう1系統はあと5分ほどでやってくるようだ。
「駅に行くバスはここに停まるんですよね」と近くで待っていた中年男性に聞く私。
息を切らした東洋人に問い詰められて彼は驚いたかもしれないが、「Sì」と答えてくれた。

そして、予定時刻より少し遅れてバスはやってきた。
待っている人は7、8人いたが、私はまっさきに入口に駆け寄った。扉が開いた。

丘上の町の夕暮れ

「さっきの運転手に間違いない」とまず確認して、ほんの少し安心する。

「小さなバッグの忘れ物はなかった?」
すると、彼は一瞬の間を置いて答えたのだが、その間がちょっと恐かった。
「座席を見てみたら」

そう言われて、前から2番目の席に一目散に走り込むと……あった。

へなへなと崩れかけたが、気を取り直して「あったよ!」と運転手に声をかけると、彼は表情を変えずに小さくうなずいただけだった。
バスの入口に戻り、乗車を待つ人たちに向かって「バッグがあったんです!」と元気に報告したが、誰もさして興味を示さず、入れ代わりにバスに乗っていった。
もっと南の地域だったら、みんなで揃って喜んでくれたかもしれないと思ったが、逆に考えれば忘れ物が残っていることが当たり前という意識なのかもしれない。

広場に戻ると妻は喜んでくれたが、私が突然走り出してどこに荷物を探しに行く気なのかと驚いていたらしい。
町を1周して戻るバスを待ち構えるとは考えつかなかったのだそうだ。
「ふふ、ちょっと頭を使っただけさ」と自慢げな私。

それにしても、あのバスの運転手のひと言のおかげで、機転を利かすことができたのは喜ばしい。
いや、待てよ。あのひと言がなければ、のんびりと町を1周してあわてることなく宿の最寄りのバス停で降りたはずだ。そうすれば、バッグを置き忘れることはなかったに違いない。

2023-12-22

水郷とウナギの町コマッキオへ

ラヴェンナでモザイクを大急ぎで見たあと、路線バスで訪れたのがポー川下流の水郷の町コマッキオである。
ヴェネツィアと同じく潟を埋め立ててできた町で、「小さなヴェネツィア」というニックネームがあるように、町のなかに運河が走る。

コマッキオの運河

ヴェネツィアから南に直線距離で50kmほどのところに位置しているが、ここにはあの喧騒はない。
もちろん、ヴェネツィアにくらべれば規模も小さく、観光ポイントも少ないが、その分だけのんびりと町歩きが楽しめた。

フェラーラのバスターミナル

さて、コマッキオ行きのバスが出るラヴェンナのバスターミナルは、町の東の端、駅の裏側にあった。宿泊地のフォルリからのバスは町の西の端から発着する。会社が違うからしかたがないかもしれないが、かなり迷った。
しかも、バスターミナルには何の表示も時刻表もなく、そばにいた人たちに聞いてもどこから乗るかわからず、心細いこと限りない。

時間になったら、遠くからバスがやってきた。乗り過ごすまいと構えていたらバスターミナルに入ってきて一安心。
何人かの女子高生が集まっていたので聞くと、そこがコマッキオ行きの乗り場だという。
いつもながら、イタリアの路線バスはハードルが高い。まあ、それがあるからうまく乗れたときの喜びが大きいわけだが。

コマッキオ近くの車窓

コマッキオまでは直線距離で30kmほどだが、あちこちの村に立ち寄っていくものだから、1時間以上もかかる。
沿道には海水浴場があって真夏には観光客で賑わうのだろう。ホテルや飲食店が並ぶ町も車窓から見えた。
コマッキオの近郊では、大きな松並木が続く。

漁師小屋トラブッコ

コマッキオが近づくと、車窓から見えたのが漁小屋トラブッコである。
アブルッツォやモリーゼでは観光用に残されているのを見たが、ここでは数多くのトラブッコが現役のようだ。
まるで東南アジアのような光景なのが興味深い。

コマッキオの運河

バスの運転手がこちらを振り返って、「ここで降りるといいよ」と教えてくれた。
バス停付近は殺風景だが、一歩町の中に入ると素晴らしい光景が広がっていた。
のどかな運河べりを仲良し4人組が楽しそうに話をしながら歩いていく。

サンピエトロ橋の近くで運河が分岐している。観光客が自転車でめぐっているが、ちょっと間違うと運河に落ちそうだ。 

トレッポンティ

これがコマッキオのシンボル。運河の交差点に架かる石造りの見事なトラッポンティ橋。スクランブル交差点の運河版である。

コマッキオ中心部

この町の名物はウナギ。日本のそれにくらべて丸々と太っているというが、残念ながらレストランはまだ空いておらず、食べることはできなかった。
上の写真の奥のレストランの店名は、Anguilla c'è(アングイッラ・チェ)。日本語にすると「ウナギあるよ」という意味だ。なんともストレートな名前である。
前日にフェッラーラでランチに入った海鮮料理のおいしい店は、この町に本店があった。距離は離れているけれども、同じフェッラーラ県なのでつながりが強いわけだ。

コマッキオ中心部

名物のうなぎは食べられなかったけれど、運河に浮かべた船がバールのテラス席になっており、冷やした地元の白ワイン、プロセッコが沁みた。

2023-12-20

ラヴェンナでモザイク三昧(下)

4世紀の末、ローマ帝国が東西に二分されたが、当初西ローマ帝国の首都だったミラノに代わって首都となったのがラヴェンナだった。
その後、西ローマ帝国は東ゴート王国に滅ぼされ、6世紀に入ると東ローマ帝国のユスティニアヌス帝がラヴェンナを制圧する。

そんな激動の時代につくられて、当時の繁栄を偲ぶよすがとなっているのがラヴェンナのモザイクなのだ。

サンヴィターレ聖堂

6世紀なかごろに完成したサンヴィターレ聖堂は、8角形をしたユニークな教会だ。イタリアでは珍しい存在で、東ローマ帝国内で栄えたビザンティン文化の影響だといわれている。

実は、ここには1981年に訪れたことがあった。写真が残っているのでわかったが、そのときは中で結婚式をしていたことを思い出した。

サンヴィターレ聖堂

ここもまた色鮮やかなモザイクを見ることができる。とくに、緑色が印象的だった。

サンヴィターレ聖堂

創建当時のモザイクが残されているのは一部に限られているが、注目は内部の構造である。
ほかのイタリアの教会と違って、祭壇を取り囲むようにいくつものアーチが連なり、独特の雰囲気をかもしだしていた。

ガッラ・プラキディア廟堂

さて、このラヴェンナ訪問のメイン・イベントが、このガッラ・プラキディア廟堂である。
サンヴィターレ聖堂と同じ敷地内にあるが、その素朴な外観からもわかるように建てられたのはずっと古く、キリスト教が西ローマ帝国の国教とされた直後の430年ごろという。

ガッラ・プラキディア廟堂

小さな建物のなかに一歩入ると、そこにはめくるめく世界が広がっていた。
皇帝の母だったガッラ・プラキディアの墓所といわれてきたが、どうやら字が読めない人たちのために、キリスト教の教えを絵解きする礼拝堂だったらしい。

ガッラ・プラキディア廟堂

内部には聖書に関する象徴的な図柄が、鮮やかなモザイクで描かれている。

それにしても、1981年にはすぐそばのサンヴィターレ聖堂に入ったのに、ここは見ていない。
当時はラヴェンナに関する日本語の情報なんてほとんどなかったからしかたないが、なんとも惜しいことである。

ガッラ・プラキディア廟堂

ところで、ネットで購入した5つの建物の入場券を見ると、ほかの教会や博物館は日付が指定されているだけだったが、ここと前回紹介したネオニア洗礼堂だけは、15分刻みで入場時間が指定されていた。
だが、次の目的地にいくためには、その時間まで待っているとバスに乗れない。

指定された時刻の1時間近く前だったが、とにかくトライしてみることにした。
入口でチェックしているおばちゃんに何かいわれたら、泣き落としするしかないと覚悟していたが、おばちゃんはQRコードを手元のタブレットで読み取ると、あっさりと入れてくれた。

そんな融通が利くのもイタリアのいいところである。観光客が集中する8月だったら、そうはいかなかったかもしれないが。、

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂

最後に訪れたのは、中心部から少し離れたサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂である。
建物の前まで来てわかったのだが、ここにも40年近く前に訪れて写真を撮ったことがある。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂

長方形の聖堂の内部の片側には初期の聖人たちが、もう一方には殉教者たちがずらりと並んでいて壮観である。
もちろん、すべてモザイクだ。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂

まさにラヴェンナはモザイクの町である。
あとから知ったことだが、幸運にも東ローマ帝国の支配が弱まったために、偶像破壊運動を免れてラヴェンナにこれだけのモザイクが残されたのだそうだ。歴史の綾を感じるエピソードである。

2023-12-14

ラヴェンナでモザイク三昧(上)

フォルリ滞在の3日目の日中に向かったのはモザイクで有名な世界遺産の町ラヴェンナ(Ravenna)である。
ラヴェンナへは、フォルリからの路線バスが1時間に1本ほどあることは調べがついていた。

だが、フォルリからのバスはラヴェンナの町の南側までしか入らないので、そこから旧市街まで7、8分ほど歩かなくてはならない。
そんなことがわかるのもグーグルストリートビューのおかげである。

ポポロ広場

 ラヴェンナの旧市街の中心にあるポポロ広場。フォルリの広場のほうがずっと広くて立派だが、こちらはなんといっても世界遺産の町である。そこはかとない風格が感じられる。

ポポロ広場

ラヴェンナの町は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の主要都市で、5世紀から6世紀にかけて、ビザンツ芸術の最高峰とされるモザイクが数多く残された。モザイクファンにとっては巡礼の町である。

オーバーツーリズムが問題になっている今日、もしかするとモザイクが見られる教会も予約制だといけないので、フォルリ出発前にネットで調べておいた。すると、華麗なモザイクが見られる市内の5カ所の教会や博物館をまわれる周遊パスを見つけることができた。
現地で当日券を買うこともできるそうだが、前もってネットで購入しておくことで手間が省けてよかった。

ダンテの墓

モザイク巡礼の前に、ダンテの墓にお参り。「神曲」の作者としてイタリアでは知らない人はいない大詩人である。
私は大学生時代に冒頭の一節を覚えたおかげで、イタリアでそれを暗唱するとかなりウケる。まあ、外国人が日本にきて「源氏物語」や「平家物語」の冒頭を語るようなものだろう。
ちょっとあざといが、そんな武器も持っておくとイタリア人との距離がグンと縮まるのだ。

ネオニア洗礼堂

まず入場したのが、ネオニア洗礼堂である。上の写真の右側の建物だ。八角形の外観が印象的である。
入口にいる係員が、スマホにダウンロードしたQRコードを読み取って中に入れてくれる。

ネオニア洗礼堂

内部の天井には、天使の姿や聖書に登場する人物が描かれている。
フレスコ画と違って、モザイクは年月がたっても輝きを保ち続けている。

ネオニア洗礼堂

椅子に座って天井を眺める人びと。壁にもさまざまな絵が描かれている。
もっとじっくり見ていたいのだが、先を急ぐのでほどほどにして外に出た。

«フェッラーラ エステ家の城とイタリア版うなぎパイ

著書

  • 社会人に絶対必要な語彙力が身につく本[ペンネーム](だいわ文庫)
  • 『ようこそシベリア鉄道へ』(天夢人)
  • 『定点写真でめぐる東京と日本の町並み』(青春出版社)
  • 『日本懐かし駅舎大全』(辰巳出版)
  • 『鉄道黄金時代 1970s──ディスカバージャパン・メモリーズ』(日経BP社)
  • 『国鉄風景の30年―写真で比べる昭和と今』(技報堂出版)
  • 『全国フシギ乗り物ツアー』(山海堂)
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