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2014-10-17

トリノ市内ぶらぶら歩き

しばらくブログの更新をごぶさたしてしまいました。
その間、9月上旬から10月上旬まで、25日間イタリアに行ってきました。
その前後は、たまった仕事に追われて更新する余裕もなく、2カ月ぶり。
イタリアの現地では、仕事や家庭サービスに追われてブログを更新できず。
というわけで、ちょっと時間がずれてしまいましたが、ぼちぼちと旅のご報告などをしていきます。
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旅の最初の目的地トリノ(トリーノ)に着いたのは、9月8日の夜。
その間、未明のドバイで5時間半も待ち時間があってうんざりしたり、ミラノ・マルペンサ空港でトリノ行きのバスの乗り場を間違えたり、トリノの小さな宿では門が閉まっていてしばらくあせったりとか、いろいろな難関はあったものの、なんとか晩飯にもありついて、熟睡することができた。

サン・カルロ広場

翌日は、体を慣らしながらのトリノ中心部散歩。3回目のトリノだが、前2回はどちらも数時間の滞在である。
そして、同行の妻は初めて。そもそも、今回の旅は妻とずっと一緒なのであった。
日本でさえ、平日は起きている時間のうち数時間しか顔を合わせていないのに、四六時中一緒に旅を続けることがはたしてできるのか、内心で不安を持ちながらの旅の序章である。

トリノのカフェ

もっとも、トリノはよくも悪くもイタリアっぽくない町である。
ヨーロッパの大都市ということで、旅の序章とするといい選択だったかとさっそく自画自賛。
トップの写真は中心部のサン・カルロ広場である。背中側に王宮がある。
2番目の写真は市内のあちこちにあるカフェ。
トリノはカフェの町である。ほかのイタリアならバールというが、ここではカフェなんだなあ。

トリノ市内

今から約150年前、イタリア統一の志士たちが、トリノのカフェで集って激しい議論を交わしていたのだとか。
そういえば、イタリア統一の中心となったのがヴィットリオ・エマヌエーレ2世をいただくサルデーニャ王国(前のサヴォイア王国)。
その事実上の首都がトリノだったため、統一イタリアの首都はしばらくトリノにあったというのは、まあここで偉そうにウンチクを垂れるほどのこともない、広く知られた話である。

ヴィットリオ・ヴェネト広場

この日は、カフェでコーヒーを飲み、トリノ名物のナッツ入りチョコレート「ジャンドゥイア」を買って、王宮を見学してからドゥオーモに行き聖骸布(のコピー)を見て、ヴィットリオ・ヴェネト広場で遅い昼食をとるという、100%お上りさんコースをたどった。
まあ、長旅で疲れているし、最初はこんなところでいいだろうという感じである。

ヴィットリオ・ヴェネト広場

しかし、どうしても天は私に波瀾万丈の旅をさせたかったらしい。
午後3時を過ぎたころに小さなハプニングを与えてくれようとは、ヴィットリオ・ヴェネト広場で子豚のステーキを食べていい気分になっていた私には想像もつかなかった。

2014-08-19

小樽の今昔写真(1) 1979年8月、1991年4月

小樽というと、北海道では押しも押されもせぬ観光地。
古い建造物や運河が残っていることでも知られている。
とはいうものの、保存建造物は別として町の姿は行くたびに大きく変わっている。
実は、運河の姿もすっかり変わっているのだ。

これが、1979年当時の小樽運河。運河の上にはしけが並んでいるのがわかる。
その後、札幌と小樽を結ぶ道路をつくるために、この運河を埋め立てるという話が起こり、町をあげて賛成・反対の運動が巻き起こったことは、もう地元の人でもないと覚えていないかもしれない。

1979年の小樽運河
43.197969,141.003008 (緯度,経度)

結局、運河の一部を埋め立てて道路を広げ、残る運河の反対側で倉庫を整備するということになった。
というわけで、運河沿いに並んでいる倉庫はもう消えてしまったかと思ったら、古い写真の左にある薄紅色の倉庫が、道路沿いに残っていた! その両脇の建物も昔のままのようだ。

2011年の小樽運河

たまたまこのストリートビューには映っていないが、このあたりは今では観光客でいっぱいである。
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もう1枚の写真は、それから12年たって訪れたときのもの。
小樽駅前である。
いかにも地方都市という風情が好ましい。バス停でたくさんの人が待っている。

1991年の小樽駅前
43.198047,140.995402 (緯度,経度)

現在では、道路がかなり拡幅されて、昔の面影はまったくない。
道路沿いの家がすべて取り壊されてしまって、すっきりはしたが、どこかきれいすぎるんじゃないかと思うのは、散歩者のわがままな感覚か。

2011年の小樽駅前

バス停は立派になって、以前と同じ場所にあるのがわかる。

2014-08-12

留萌十字街の今昔写真 1979年8月

今回の今昔比較写真は、道北にある日本海に面した留萌。
増毛方面からバスでやってきて、留萌十字街で下車すると、ずいぶん商店街が賑わっていた記憶がある。
当時のメモには、ここから留萌駅まで歩いて列車に乗る40分の間に、ラーメンを食べたとある。
交差点には「本町3」と記されているのが見える。

留萌十字街
43.941498,141.640361 (緯度,経度)

現在の交差点名は本町2丁目のようである。
今回、ストリートビューで見て、あまりの変わりように目を疑った。
道路が拡幅されたのはいいが、商店街がすっかり姿を消している。
ネットを探しまくってかつての賑わいを確認し、さらに旧写真の中央にある「山下商店」が現在の「山下ビル」ではないかと見当をつけて、やはりこの場所だろうと断定した。

留萌十字街

ストリートビューの奥に向かう道が、旧写真の左奥-右手前を走る道。
昨今は、地方都市の商店街が軒並み消えているが、それにしてもここの変化には驚いた。
そもそも、「十字街」という名称は、十字路のある商業地区の中心地である場合が多いのだが、すでにここは場末となってしまっているようだ。

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ついでにもう1枚。留萌十字街から留萌駅に向かう道の途中のスナップだが、場所が特定できない。
仮店舗で「名古屋セトモノ市」というのをやっている。

留萌市内

場所特定のポイントになりそうなのは、左端ニある「キャバレー モンバサ」の看板。
もし、ご存じの方がいらっしゃったらお知らせください。

この写真の中央を拡大するとこんな感じ。

留萌市内

小さな器(皿?)が1枚10円! それ以外も30~100円という値段は、当時にしても安かったと思う。

2014-08-10

首里の街角の今昔写真 1993年3月

多忙でなかなか更新がままならない今日このごろ、
仕事の合間に気分転換でやっている日本各地の新旧対照をブログで公開してみようと思い立ちました。
古い写真は私が撮ったもの、新しい写真はグーグル・ストリートビューの画面をキャプチャーしたものです。
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まずは、沖縄県那覇市首里の街角で撮った写真2枚。
1993年というから、それほど古くはないけれど、こう見るとずいぶん昔のように見えるから不思議。
このときはまだ、モノクロ用とカラー用のカメラ2台持ち。
こうしたスナップ写真はモノクロで撮っていた。

まずは、首里桃原(とうばる)町にあった松山御殿跡。このときは庭園として開放されていた。
この庭園内にあった茶室で飲んだ「ぶくぶく茶」がなつかしい。
詳しい歴史については、ここ のページで。

松山御殿跡
26.223586,127.716925(緯度,経度)

ちなみに、これが庭園入口。バス停「桃原」前。
松山御殿跡

現在は、ライオンズマンション首里桃原が建っている

ライオンズマンション首里桃原

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もう1枚は、上の写真の少し南にある首里池端町の交差点。
角の店は赤瓦もゆかしい首里書房である。

首里池端町交差点
26.22008,127.715941(緯度,経度)

ちなみに、これが首里書房を正面から見たところ。
首里書房

現在、ストリートビューによると、ここは空き地になっていた。

首里池端町交差点

首里書房は、モノレール首里駅近くに移転しているようである。

2014-05-31

向島ぶらぶら歩き

先日は、浅草から隅田川を渡り、向島百花園から東向島あたりをぶらぶらしてきた。
東武線と隅田川にはさまれた地域である。
父母のどちらの実家にも近いのだが、バスで通過したことはあっても、30歳を過ぎるまでめったに降りたことはなかった。

水戸街道にある魚大

この写真は、水戸街道の東向島三丁目交差点にある料理屋の魚大。
もとは魚屋だったそうで、おいしい魚が食べられると店のホームページに書いてあった。
店ができて70年というから、戦争直後に開業したのだろうか。このあたりは、空襲で焼け野原になったはずである。

鳩の町商店街

水戸街道を500mほど南下すると、小さな東向島一丁目交差点から東側に、墨堤通りまで「鳩の町商店街」が続く。かつて、遊里として知られていた一帯である。この付近は、東京大空襲で焼け残ったため、狭い道の両側に戦前からの古い家屋が今でも残っている。

同じ墨田区でも、玉ノ井のいろは通り、京島の橘銀座通り(現・キラキラ橘)では、ほとんどの家が建て替えられてしまっているのに対して、この商店街の東側には、まだこうした古い家が何軒も残っている。
この店は米屋。なかには、古い家屋をそのまま生かして、喫茶店にしているところもあった。

鳩の町商店街

鳩の町商店街をさらに東に進んだところにある酒屋(右奥)雨宮商店。
右手前の店(赤松商店)は化粧品店だったのか雑貨店だったのか。看板の「ラモナー化粧品」が興味をそそる。
ネットで調べてみると、大正4年に創業した石田香粧株式会社の商標で、同社は今でも下谷に本社を置き、戸田と蕨の工場で化粧品を製造して、OEMを中心とした事業を展開しているそうだ。

質屋

このあたりの道は、複雑怪奇に交わったり、離れたりで、実に簡単に道に迷う快感にひたれる。
そんななかで、鳩の町商店街から100mほど南、小さな四つ辻にひっそりとたたずんでいたのがこの質屋。
やっぱり、質屋は目立たないところに建っているのが本来の姿かなと思うのである。

昔のごみ箱

そして、古い板壁の家の前に置かれていたのがこれ。
この写真を見て何であるかがわかるのは、少なくとも東京生まれの人間では、50代以上だろう。
かつては、どの家の前にも、こんなごみ箱が置かれていたものだった。
週に2、3回しかごみを出せなくなる前の話である。

もっとも、ごみ出しの日時を限定したことで、今のような清潔な町になったのだと思えば、面倒もいたしかたない。
このごみ箱は、鉢植えの台として第二の(?)人生を送っていた。

向島の原風景

ぶらぶら歩いているうちに、日が傾いてきた。
夕日に照らされる木造の家、わけがわからないほどに込み入った道、雑然として統一のとれていない家並み、軒先の鉢植え……戦後の高度成長期に育った者にとって、まさにこれが東京下町の原風景である。
まあ、向島が下町かどうかについては議論があるかもしれないが、今や柴又や都電荒川線沿線を下町と呼んでいるのだから、向島を下町といっても問題はないだろう。

2014-05-17

浅草: 三社祭を待つ街角

今年も三社祭がはじまった。
たまたま16日の昼すぎに浅草に行ってみると、やけに観光客は多いし、観音様の境内には所狭しと店が出ているし、何事かと思った私である。

小学校時代に浅草に住んでいたにもかかわらず、三社祭を忘れていたなんて、江戸っ子の風上どころか、風下にも置いてもらえそうにない。

浅草東町会の神輿

ぶらぶら歩いていると、町のあちこちで神輿の準備をしているのが目に入る。
せっかくだからと、別の用事で持っていたカメラを取り出してパチパチと撮影。

浅草公園町会の神輿

前にも書いたけれど、小さいころは祭りが好きではなかった。
とくに、浅草に住んでいたころは、周囲の大人たちや同級生があまりに熱狂しているのを見て、どうにも近寄りがたいものを感じ、一人冷めていたものであった。

それは、浅草生まれではないよそ者という意識があったからかもしれない。
でも、父や母の実家がある向島あたりの祭りも、とくに興味を抱いたことはなかった。
要するに、あの熱狂が苦手だったのだ。

浅草公園町会の神輿

祭りで冷めていたのは、父親も似たようなものだったから、それは遺伝か家庭の雰囲気からきているのかもしれない。
とはいえ、三社祭のときには土曜日の授業が2時間で終わるので、それだけは楽しみだった。

そして、祭りが終わった月曜日には、同級生たちが顔をしかめながら、「神輿をかついで肩が痛くなった」と自慢げに話しているのを、「ふうん、そんなもんなのか」と聞くのが毎年の決まり事であった。

それでも、浅草を離れてみると、やはり懐かしい日々である。
大人になると祭りの意義もわきまえてきて、「祭りも悪くはないな」なんて、偉そうに評価するまでになった。

御幣棒を運ぶ人

そして、昨日である。

町を歩いていると、神輿の準備だけでなく、御幣棒を運ぶ人もよく見かけた。
ひさご通りの喫茶店では、町内の人たちで貸切りとなり、法被姿の人たちが打ち合わせらしきことをしていた。

町全体から浮足立っている様子がうかがえる。
そんな雰囲気も悪くはない。
あえて例えてみると、それは遠足に行く前の小学生の気分といったところか。

今日からは祭りも本格的になる。
観光客もたくさん出て、浅草は大賑わいになるに違いない。
でも私は、祭りの前の空気を味わうことができただけで、それでもう十分に満足したのであった。

2014-04-10

三陸縦断の旅14・終: 八戸臨海鉄道

ようやく三陸縦断の旅の最終回。
ながながと引き延ばしているうちに、三陸鉄道は南リアス線・北リアス線とも全線開通して、めでたい限りである。
願わくは、釜石と宮古を結ぶJR山田線も早期に復旧して、久慈から盛までつないでほしいものだ。
JR東日本によれば、この区間の復旧時には、三陸鉄道への編入をするとのこと。まだまだ時間がかかりそうだが、復興を遂げつつある山田町を走る列車を見たいものである。

八戸線・長苗代駅

さて、八戸市の東にある湊町をぶらついたあとは、陸奥湊駅から日中1時間に1本のJR八戸線に乗り、八戸の市街地を通り抜け、八戸駅の1つ手前にある長苗代(ながなわしろ)駅にやってきた。
なぜ、こんな田んぼのなかの駅で降りたのかというと、酔狂にも八戸臨港鉄道の貨物列車を撮影するためである。

八戸臨港鉄道

八戸港に近い北浜貨物駅と八戸貨物駅を結ぶ第3セクターの貨物鉄道で、1日5往復の列車が設定されている。
ちょうど帰りの新幹線に間に合う時間に走っているのがあったので、ここで降りて待ち構えたというわけだ。
そうして撮ったのが上の写真。天気が悪かったので、まあこんな出来である。
ヘッドマークには、「おかげさまで 八戸臨海鉄道40周年」と書かれていた。

撮影したのは、長苗代駅から1km以上八戸駅寄りの地点。駅に戻っても、次の列車にはかなり間があったので、八戸駅まで2kmほどを歩いてしまおうと思い立った。
地図によれば、途中で大きな道路があるので、運がよければバスに乗れるだろうという、例によっていい加減なもくろみである。

八戸臨港鉄道

ところが、広い道に達する直前、目の前をバスが通りすぎていったのである!
「がーん。いや、駅に近いことだし、別路線のバスが走っているかもしれないぞ」
気を取り直して、近くに見つけたバス停にたどりついたのだが、そんなうまい話はなく、やっぱり1時間に1本ほどしか走っていない。
やむなく、さらに1km以上を駅まで歩いて行くことにした。

「せっかくだから、線路に沿って歩こう。途中に八戸貨物駅があるようだし」
小雨がぱらつくなか、舗装されていないぬかるんだ道を歩くこと数分。さっきのディーゼル機関車が、貨車の入換をする場面を見ることができた。
こちら側のヘッドマークは、「がんばろう!! 八戸」である。

八戸臨港鉄道本社


まあ、こんなわけで、それなりの満足感にひたりつつ、八戸駅近くまでやってきたときである。
道の左側に、古風な家を見つけた。
「どこかの旧家か、それとも資料館なんだろうか」
そう思いながら、近づいてビックリ!
なんと、この建物が八戸臨海鉄道の本社であった。
鉄道本社なんていうと、たとえ古くてもビルに入っているものだと思っていたから、ちょっとしたカルチャーショックである。すでにバッグにしまってあったカメラを再び取り出して、パチリと撮ったのが上の写真である。

八戸駅前


そして、これが八戸駅前。八戸駅の大きな建造物に対して、周辺の建物は、何軒かのホテルを除けばこうしたごく普通の商家や民家が並んでいた。

ところで、八戸から上野まで、「はやぶさ」でなんと2時間42分。これには改めて驚いた。
学生時代、急行「八甲田」やら「十和田」を使って何度も通った道だが、八戸あたりといったら上野から夜行列車に乗って、もう昼近くだったように記憶している。

2014-03-21

三陸縦断の旅13: 八戸市湊町

1泊2日の旅を長々と引きずってきたが、大団円までもう一息。
小中野から橋を渡ってやってきたのが湊町。
八戸港を控えた、文字通り港町である。

陸中湊駅前

上の写真はJR八戸線の陸中湊駅前。ローカル線の駅というと、町の中心から外れていることも少なくないが、ここ陸中湊駅は、まさに町のまん真ん中。
駅前には市場や店が立ち並び、魚のにおいが立ち込めている。
もっと朝早く起きてやってきていたら、さぞ活気のある光景を目にできただろう。

湊町店頭風景

すでに閉まっている店も多かったが、店頭にはこうした魚が所狭しと並べられていた。
手前左はホッケか。右はヒラメかな。その奥にはカニが見える。

湊町店頭風景

こんなふうに、干物をつくっている店もあった。
新鮮で値段も安いので、山ほど買っていきたいのは山々だが、そんなにいっぺんに食べないし、持って帰るのも大変だ。
魚の購入は断念し、小さな食堂で山盛りの海鮮丼を食べて気分を高揚させるのであった。

八戸湊町


そういえば、前夜の店「とまい村」で聞いた話では、震災で八戸港も被害を受けたのだが、かなりスピーディに復旧したとのこと。
津波の被害が岩手、宮城、福島ほどではなかったというのも理由だろうが、それだけ八戸港が貿易港としても漁港としても重要な位置を占めているということだろう。
政治力の影響かなとも一瞬思ったが、たぶんそうじゃないと思う。

八戸湊町


港町の風情を楽しんで、今回の町歩きは終了なのだが、まだ東京に帰る新幹線までには時間がある。
陸奥湊駅から八戸線に乗って、最後の目的地に向かうことにした。

2014-03-15

三陸縦断の旅12: 八戸市小中野

まだ続いている去年の三陸縦断の旅。
今回は八戸市の東側の様子である。
このあたりには、八戸港の繁栄の歴史を刻む古い町並みが残されているということで、市の中心部から路線バスでやってきた。

八戸最古の洋風木造建築

小中野という停留所でバスを降りると、すぐ正面にあったのがこの建物。
脇にあった看板によると、大正7、8年ごろに建てられた八戸最古の洋風木造建築とのこと。当初は八戸商業銀行小中野支店として使用され、のちにカフェ「ハトバ」となり、その後は事務所として使われていたらしい。

八戸最古の洋風木造建築

かつてこの界隈はさぞかし賑わったのだろう。
屋根の丸いドームを見て、当時の人は大正モダンの到来を実感にしたに違いない。

自転車屋

残念ながら、今の小中野は、あちこちに空き地ができて、静かな町となっている。
そんななかに、ぽつんと残っていた安藤自転車店。もう営業はしていないようだが、看板が懐かしい感じ。
板壁の商家ではあるが、正面は横長の板を使っているところが洋風である。
そして、なんといっても中央の丸い窓がおしゃれ。

小中野

バスに乗ってぼんやりしているとそのまま通り過ごしてしまいそうだが、じっくりみると味わい深い小中野の町であった。
さて、ここから歩いてさらに東に向かう。橋を渡ると八戸港で栄えた湊町である。

新井田川


新井田川を渡る橋からは、なかなか活気ある町の雰囲気が味わえる。
右岸には八戸酒造の建物が見えた。
「男山」という銘柄はあちこちにあって北海道が有名なのだが、ここ八戸にもあることを知った。

八戸酒造


どうせあてもない散歩なので、ふらふらと酒造所の前へ。
朝っぱらなので酒を飲みたいとは思わないのだが、酒造所の前に下げられた杉玉(酒林)を見ただけで心地よくなった私であった。

2014-02-16

『「かど」と「すみ」の違いを言えますか?』 (青春出版社/青春文庫)

ここでちょっとコマーシャル。
私が関わった本が、このたび発売になりました。
先週から店頭に並んでいるかと思います。

編集者との飲み会からできた企画です。
日本語教師をやっていたときに仕入れたネタや、編集者からの提案、独自にうなりながら考えたネタが、全部で70あまり。
タイトル項目のほか、「のぼる」と「あがる」はどう違う? 「自然に」と「ひとりでに」はどう違う? 「あける」と「ひらく」はどう違う? 「いつも」と「つねに」はどう違う? 「機嫌」と「気分」はどう違う? 「内回り」と「外回り」はどうやって区別する? 「うら寂しい」の「うら」って何? なぜ「茶色」はお茶の色じゃないの? などなど、ほとんど全項目が1~2ページずつ、かわいいイラスト中心でわかりやすく楽しく説明しています。

1日=24時間なのに、「1日おきに風呂に入る」と「24時間おきに風呂に入る」はなぜ違うのか。
──これは、われながらよく考えついたネタです。自画自賛。

ことばの本というと、難しい四字熟語の意味を問うてみたり、一生に一度も出会うことのないような訓読みを出題したりと、頑固親父がつくったような本が多いのですが、この本はいつも無意識に使っていることばを再認識して、「へえっ、そうだったんだ」と目のウロコを何枚も落として、頭を柔らかくする本になっております。自画自賛。

どれも、説明は非常に簡潔にしてありますので、すべてを説明しつくしているわけではありません。
例外はありますし、地域や個人個人によって、ことばの意味は少しずつ違ってくるものです。
どうか、「この説明は間違っとる」と腹を立てることなく、「なるほどそういう考え方もあるよな」程度に笑って読んでやってください。言い訳。

ことばって、みんな一家言あって、大変なんですよね。なお、あくまでも「日本語研究会(編)」であって、著者は不詳です(笑)

(発行:青春出版社 青春文庫、日本語研究会(編)、定価:600円+税、初版発行:2014年2月20日、ISBN978-4-413-09590-7)

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