2018-11-15

ポルトガルのヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオで1時間もうけた話

スペイン側のアヤモンテから、グアディアナ川を渡って20分、対岸のヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ(Vila Real
de Santo Antonio)の港に着いた。

港といっても、小さな船着場とローカル鉄道駅のような待合室があるだけ。
振り返ると、アヤモンテの白い町並みが対岸に見えていた。

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオからスペインのアヤモンテを望む

1981年に訪れたときは、確かヴィラ・サント・アントニオ(Vila Santo Antonio)という地名だったと記憶している。
いつのまにか、「レアル・デ」が付いていた。「王の村たる聖アントニオ村」といった意味だろうか。
ポルトガル語でも長くなるので、駅や道路の標識では、しばしば「VRSA」と表記されていた。

37年前は、この船着場のそばにある鉄道駅から、リスボン行きの夜行列車に乗ったのだった。
今では駅は町はずれに移転しているが、元の駅舎もホームもはっきりと残されていた。
古い写真に写っている2両編成の客車は、ディーゼル機関車が牽引するローカル列車である。

1981年のヴィラ・サント・アントニオ駅
2018年の旧駅跡

かつては静かな田舎町という印象だったが、ここもまた賑やかな観光地と化していた。
中心部の道路は歩行者専用になっており、カフェテラスが続いている。
おもしろかったのは、この町でくつろいでいる旅行者が、なぜか中高年ばかりであること。

「おじおば向けののんびりした保養地なんだよ」
妻は、そう断言した。そんな静かな町で、大きなスーツケースをごろごろ言わせながら早足で歩いている私たちは、まったく異質の存在で、みんなの注目を引いてしまった。

「まあ、ここまで来たら一安心、ビールを飲んで休憩しよう」と私は提案した。
旅の必須単語であるビールは、スペイン語ではセルベッサだったが、今日からはセルヴェージャである。

問題なのは2つ注文するとき。スペイン語ならば常にDos(ドス)といえばいいが、ポルトガル語だと、形容する名詞が男性形か女性形かで違ってくる。男性形ならばDois(ドイシュ)、女性形ならばDuas(ドゥアシュ)なのである。
……と偉そうに書いているが、当初はそれを知らずに、「Dois cervejas!」と注文していたのが恥ずかしい。まあ、見たまんま外国人だからいいだろう。

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオの中心部

37年前は、わずかな列車の待ち時間を利用して、町をほんの少しだけうろついた。
真っ白なスペイン南部の町並みとは打って変わって、カラフルな家々が印象的だった。

1枚だけ写真が残っていたのだが、日本にいるときにグーグルストリートビューでこの場所を特定するには時間がかかった。
撮影した日は曇っていたようで、日陰の向きで方角の検討をつけることができない。
奥のビルや周囲の家々の形をヒントに、何日もかけて町じゅうをチェックしてようやく特定できた場所は、賑やかになった通りのすぐそばだった。

1981年のヴィラ・サント・アントニオ住宅街
2018年のヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ住宅街

ところで、船で港に到着したのが15時20分。列車は16時27分発である。
1kmほど離れた駅へは、港近くに2、3台ほど並んでいたタクシーで行けば十分間に合うと思っていたのだが、ビールを飲んだり、写真を撮ったりしているうちに、スマホをふと見るとすでに「20分」という表示。

「まずい! 間に合わない!」
その次の列車は1時間半後。ファロに着くころには夜になってしまう。
冷や汗が出た直後、よくスマホを見ると「15:20」と表示されているではないか。
船で到着した時刻である。

「あれ? スマホの時計が壊れた?」

ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ中心部

2、3秒ほど脳味噌がフル回転したのち、「もしや……」と思って、隣の席にいたポルトガル人のおじさん、おばさんグループに声をかけた。
とくにそのうちで、一番近くに座っていたおばさんは、さっきから私たちのほうをちらちら見て、好奇心を隠しきれないようだったのである。

ところが、英語が通じないし、イタリア語まじりのインチキスペイン語も通じない。
しかたがないので、おばさんの腕時計を指し、川のかなたを指しながら、「ポルトガル、エスパーニャ、1時間?」と英語とスペイン語でいうと、奥にいたおじさんが理解してくれたようだった。
ポルトガル語で説明してくれたみたいなので、詳細はわからないが、要するに時差があるということだけは飲み込めた。

移転したヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオ新駅

賢いことに、スマホは国境を越えたところで時刻を自動修正してくれていたのである。
発車まで残り7分かと思っていたら、残り1時間7分に増量。
「1時間もうけた!」
そして、もうけた1時間は、もう1杯ビールを飲むことに費やすのであった。

タクシーで乗り付けた新駅からは、ファロ行きの普通列車が1時間半から2時間おきくらいに運転されている。
「この鉄道はよく運休するから、何かあったらここに電話して」
タクシーの運転手は笑いなからそういって名刺をくれたが、幸いなことに、すでにディーゼルカーはホームに到着しており、ポルトガル時間の16時27分の定刻通りにファロに向けて無事発車したのであった。

ちなみに、無人駅で券売機もなかったが、切符は乗車後に車掌から買うことで問題なかった。

2018-11-14

国境の町アヤモンテの今昔比較写真

前回予告したポルトガルとの国境の町アヤモンテ(Ayamonte)の定点対照写真である。

アヤモンテなんてどこにあるか知っている人は少ないだろうし、興味がないという人も多いだろう。
だが逆にいえば、1981年にここで国境を越えて、しかも町の写真を撮っていた人はほとんどいないだろうから、地元の人にとっても、そこそこ貴重な記録かもしれないと勝手に思っている。

まずはアヤモンテ駅である。
現在、鉄道はウエルバで行き止まりになっているが、かつてはそこからアヤモンテまで線路が続いていた。

旧アヤモンテ駅は、そのままバスターミナルに変身。町外れに位置しているため、今でも背後には何もない。

1981年のバスターミナル
2018年のバスターミナル

次の写真は、駅から中心部に向かう途中の脇道を入ったところ。
白い壁の家々が続いて、南スペインに来たなという印象だった。

今では、家が増改築されて2階建ての家が増え、壁の色もさまざま。
左端の家の看板に「TAL」と見えるのは、「HOSTAL」のこと。安宿である。

1981年のアヤモンテの住宅街
2018年のアヤモンテの住宅街

500mほど歩くとアヤモンテの中心部あたりに達する。
当時は、地元の人で賑わっており、少なくともここには観光客の姿は見えない。

現在も建物自体はほとんど変わっていないが、おしゃれな感じに整備されて、壁の色がここでもカラフルになっていた。

1981年のアヤモンテ中心部
2018年のアヤモンテ中心部

そして、川辺の様子がこれ。
ここから川沿いに真っ直ぐいくと、ポルトガルに向かうフェリーの乗り場になる。
フォークリフトだろうか、重機に二人乗りしているおじさんたちがかわいい。

川の中に立っているコンクリートの構造物が、今でも同じ場所に残っていた。

1981年のアヤモンテのフェリー乗り場近く
2018年のアヤモンテのフェリー乗り場近く

下の写真の正面左側が、フェリー乗り場になる。
1981年はEU統合前(シェンゲン条約前)なので、国境を越えるときにはパスポートチェックがあって、ちょっと緊張する場所だった。もっとも、貧乏学生には税関の検査はなかった。

今では、切符(1.75ユーロ)を買うだけで、気軽に行き来できる。

1981年のアヤモンテのフェリー乗り場近く
2018年のアヤモンテのフェリー乗り場近く

残念だったのは、当時の船の写真を撮っていなかったこと。
国境だからと、ちょっと緊張してカメラを出さなかったからかもしれない。

2018-11-12

川に面した国境の町アヤモンテ

ウエルバを13時に発車したバスは、人家もまばらな乾いたアンダルシアの野を走り、14時15分に終点のアヤモンテ(Ayamonte)に到着した。
この町の西側を流れるグアディアナ川は、ポルトガルとの国境でもある。
1981年の旅と同じく、船に乗って向こう岸のポルトガルに渡ろうという計画である。

アヤモンテのバスターミナル

ところが、バスターミナルは昔の駅の跡をそのまま使っているようで、市街地の東の外れにある。
タクシーも停まっていないので、石畳の上を、重い荷物をごろごろと20分ぐらい転がして歩かなくてはならなかった。

アヤモンテの中心部

37年前に来たときは、垢抜けない田舎町だという印象であったが、今回見ると、いつのまにか立派な保養地になっているようだ。
旅行のハイシーズンは過ぎていたが、地元スペイン人のほか、ヨーロッパの観光客が来ていた。

国境の川が見えるアヤモンテの町

昔との定点対照写真を撮りつつ、西へ西へと歩いていくと、行く手に川が見えてきた。
これが国境のグアディアナ川だ。

国境の川が見えるアヤモンテの町

ここの観光客のほとんどは、自家用車でやってくるのだろう。
そんななかで、大きな荷物をごろごろ転がしながら歩いている東洋人の夫婦は、かなり異彩を放っていたと思う。

9月半ばまでのハイシーズンなら、日中30分おきにフェリーが運航されているのだが、このときはすでに1時間おきになっていた。次の出発時間は15時である。

国境のフェリー

ちょうど、対岸からフェリーがやってくるところが見えた。
「あんな小さい船のどこに車が乗せられるんだ?」
そう思ってよく見ると、なんと甲板に3台の車が見えた。なるほど、確かにフェリーには違いない。

国境のフェリー

同じ船に乗る乗客は、60~70人はいただろうか。どう見ても観光客ばかり。しかも、全員が全員、手ぶらまたは小さなショルダーバッグを下げている程度。
どうやら、両岸の町のどちらかに泊まっていて、時間つぶしに船で往復しているのだろう。
ここを旅の通過地点としているのは、私たちだけであった。

フェリーの船上

川の上流を見ると、大きな吊り橋が見える。あれができたことで、この船を利用する人は激減したのだろう。
でも、小さな船で川の国境を越えるなんて、とってもロマンチックではないか。

アヤモンテの定点比較写真は次回に。

2018-11-10

セビーリャからウエルバへの鉄路今昔

いよいよ、旅のメインイベントの1つ、スペインからポルトガルへのちょっと変わった国境越えである。
この日の目的地は、ボルトガル南部にあるファロ(Faro)の町。

現在は、セビーリャからの直行バスが、日に何本か所要2時間半で走っているのだが、それじゃおもしろくない。
1981年に利用したコースをたどっていくことにした。

セビーリャ・サンタフスタ駅

まずは、セビーリャ・サンタ・フスタ駅を10時に発車するウエルバ(Huelva)行きに乗車。
ウエルバまでは1時間半の旅である。

この区間は1日に3本しか走っていないので(ほかにマドリード発ウエルバ行きが2本あるようだ)、満員になったら大変と、日本にいるうちからネットで予約しておいた。

アンダルシアの車窓

だが、乗ってみたら車内はがらがら。6両ほどの編成の各車両に2、3人ずつが乗っているだけだった。
また、AVE(高速列車)と違って、乗車前の荷物検査もない。
気抜けして、車窓のアンダルシアの風景をぼんやり見つめる私であった。

もちろん、下の写真は、1981年に乗ったときのものである。

1981年の車内

1981年当時は、おんぼろなレールバスのような車両で、2倍くらいの時間がかかったように思う。
列車は速くなったしエアコンが効いて快適ではあるのだが、あの、行けども行けども続く乾いた大地を眺めながら、暑苦しい車内で過ごしたけだるい時間が懐かしい。

ウエルバ新駅

実は、終点のウエルバ駅は、つい最近になって新装オープンしたばかり。
500mほどセビーリャ寄りに移転して開業したことを、日本出発直前に知った。1日に5本くらいしか発着しないのに、ずいぶんな投資である。

しかも、町の中心から離れてしまったので、列車を降りた乗客の何人かは、がらんとしたタクシー乗り場で茫然とする始末。
バスターミナルへは歩いて30分近くかかるので、重い荷物を抱えた私たちはひたすら待つしかなかった。

1981年のウエルバ駅

上の写真が、1981年当時のウエルバ駅。
手前のホームに停まっているのは、スペインが誇る高速客車「タルゴ」。
マドリード方面からやってきたのだろう。自動で軌間変換する機能がついている車両なので、もしかするとさらにフランスに乗り入れていたのかもしれない。

当時はずいぶんな利用客がいたんだなあと感慨深い。

そのときは、ここからさらに西にあるポルトガル国境のアヤモンテまで、ローカル線に乗り換えて向かった。
だが、その路線はすでに廃止されている。
だから、ここでバスに乗り換えなくてはならないのである。

廃止されたウエルバ旧駅

ウエルバ駅から乗ったタクシーの運転手に、「バスターミナルまで。その途中で、ウエルバの旧駅を見たい」と伝えて、昔撮った写真を見せると、「おお、この駅は6カ月前まで使われていたんだよ!」と興味を示してくれた。

1981年は、駅の構内で乗り換えただけなので、こんな立派な駅舎だとは思わなかった。
ただし、もう営業をやめているので、カギがかかって入れない。しかも、周囲は2メートルほどのコンクリートの瓶がめぐらしてある。

ぐるりと駅の横にまわり込むと、足場代わりになりそうな50センチほどの鉄の棒が立てかけてあるのを見つけた。
周囲には人もいないし、これは決行するしかない!
助走をつけてその棒に足を乗せ、その勢いで塀の上に手をかけ、懸命にふんばって塀の上に登ることができた。
そうして撮ったのが、上の写真である。昔の写真とは、高さこそ違うが、近いアングルである。

ウエルバのバスターミナル

「思い出の写真は撮れた?」
駅前で待っていてくれた運転手が、にこやかに迎えてくれた。

アヤモンテ行きのバスは13時発。
しばらく、バスターミナル前の軽食堂で、腹ごしらえをして待つことにした。

2018-11-05

セビーリャ プラサ・デ・アルマス駅跡の日本人尋ね人

セビーリャを出発するまでに、ずいぶん回数がかかってしまったが、いよいよここからがこの旅のメインイベントである。
でも、ちょっとその前に、エピソードを一つ。

セビーリャの鉄道駅として、現在は旧市街の東側にあるサンタ・フスタ(Santa Justa)駅が玄関口となっているが、かつては町の西側にプラサ・デ・アルマス(Plkaza de Armas)という駅があった。下の写真である。
1981年は、この中央に停まっている列車に乗っていった。

1981年のプラサ・デ・アルマス駅

この駅は1990年に廃止され、その跡地がショッピング・モールとなっていたことは出発前に知った。
そこに行って撮ったのが下の写真である。

2階部分がつくられたため、以前とまったく同じ場所からは写真が撮れなくなってしまったが、外側のドームは以前のままであり、中央の時計も昔のまま残っている。

残念ながら、ショッピング・モールだったらしき部分は、ほとんどシャッターが閉まっていた。
そんななか、大勢の人の声が聞こえてくるので近寄って、なんとダンス教室!
下の写真の突き当たりの場所である。

.2018年のプラス・デ・アルマス駅跡

駅跡をぶらぶらしていると、壁に5組7枚の写真か貼られている一角があった。
駅のあった当時の写真である。

たまたまその写真に見入っている50代くらいの男性がいたので、にっこり微笑んでスペイン語であいさつすると、彼はおそらく「ここは昔、駅だったんだよ」ということをスペイン語でいう。
「そうでしょう、そうでしょう」と私は言いながら、トップの写真を見せた。
「学生時代の1981年、ここで撮った写真です」とイタリア語まじりのインチキスペイン語で説明すると、とても懐かしがってくれたようだった。

プラサ・デ・アルマス駅跡にあった写真

自分の写真を喜んでくれた人がいたことにうきうきしながら、改めて7枚の写真をみると、どうも気になる1枚がある。
上の3枚のパネルの一番左である。どうも、日本人としか思えない顔だちなのだ。
撮影されたのは1990年以前だから、中国人や韓国人も少なかっただろう。
帰国後この写真を見た友人は、「履いている靴が、当時は海外で普及していなかったアシックスのようなので、日本人の可能性は高い」というするどい意見を寄せてくれた。

それにしても、なぜここに日本人の顔写真が……。
しかも、7枚ある写真のうち、これだけが人物を真正面から撮っているのだ。

プラサ・デ・アルマス駅跡にあった写真

はたしてどんな人物なのか。
ちょっとみると、アリスにいた歌手の堀内孝雄さんのようにも見えるが、この時代に一人旅をしていたとは思えないし、写真家の柳沢信さんではないかという意見もあったが、私は顔を知らないのでなんともいえない。
医学者の向井万起男さんだろうという声もあったが、はたしてどうなのか。俳優の常田富士男さんにも似ていないこともない。
ま、いずれにしても、こんな感じの人はよくいたものだった。

とはいえ、着ているものも持ち物もオシャレだし、小ぶりのナップザックにポリ袋という持ち物を見て、裕福な駐在員か留学生ではないかという意見もあった。

もし、これは自分だ、あるいは私の知人だという方がいらっしゃれば、ぜひコメントに書き込んでいただきたい。

2018年のプラス・デ・アルマス駅跡

プラサ・デ・アルマス駅跡を外から見ると、こんな感じ。
この背中側には、大きくて明るいスーパーマーケットがあり、買物客で賑わっていた。
ショッピング・モールがシャッター街になってしまったのは、それが原因かもしれない。

2018-11-03

コルドバのいまむかし1981-2018年 定点比較写真

予定外のコルドバ訪問だったが、せっかくなので、ここでも37年前との定点比較写真をやってみた。
最初の2カ所は、メスキータが写り込んでいるので、すぐに場所が特定できた。

1981年のローマ橋

これは、1981年12月、グアダルキビル川を渡る「ローマ橋」(Puente Romano)の上から、メスキータを望んだ写真である。
冬ということもあるが、どこか寂しい田舎町といったたたずまい。
今から思うと信じられないが、観光客の姿もまばらだった。

2018年のローマ橋

そしてこれが、ほぼ同じ場所からの写真。
観光客がひっきりなしに橋を渡っている。
賑やかなイタリア人のグループが、メスキータをバックに記念写真を撮っていた。

1981年のメスキータ東側

次の1枚は、このローマ橋のメスキータ側。
写真の手前側が、橋のたもとにあるがトリウンフォ広場で、この写真の正面の道は「トリホス通り」(Calle Torrijos)という。
右に見える壁がメスキータである。
あたりまえのように自家用車が走り、道端に駐車している。

2018年のメスキータ東側

現在、車は通行止めになっているようで、観光客がのんびりと歩く道となった。
道の奥のほうには土産物屋や飲食店が建ち並んで賑わっている。

1981年のアグルパシオン・デ・コフラディアス広場

この写真を撮ったのは1981年のクリスマスの少し前のことである。
白壁の家が続く静かな町並みを歩いていると、どこからともなく女声の美しいコーラスが聞こえてきた。
やがて歌声が近づいてきて、彼女たちが姿を現した。

中学生か高校生くらいの女の子3、4人が歌っていたのは、イタリアの歌手ニッラ・ピッツィが1953年のサンレモ音楽祭で披露した「カンパナーロ」(鐘をつく人)というロマンチックな歌だった。

学校からの帰り道に、クリスマスで歌うための練習をしていたのだろうか。
ニッラ・ピッツィの艶やかな声とは対照的に、少女たちのさわやかで可憐な歌声が、静かな旧市街に響いていた。そのひとときが、この世のものとは思えず、いまも記憶に刻まれているのである。

2018年のアグルパシオン・デ・コフラディアス広場

実は、この撮影場所が最後までわからなかった。
メスキータの塔が写っているから、すぐにわかるかと思ったが、そうはいかなかった。

さして広くない旧市街とはいえ、狭い道が迷路のように続くなかで、この場所を探しあてるまで1時間近くもかかっただろうか。
最終的にヒントとなったのは、塔の先についている旗のようなものである。
おそらく金属でできているだろうかか、その向きは今でも変わっていないはずだと思い、だいたいの方向を知ることができた。そこまでわかっても、まだずいぶん時間がかかったのである。

そして、ようやく探し当てたここ「アグルパシオン・デ・コフラディアス広場」(Plaza Agrupación de Cofradías)には、カフェテラスが並び、観光客がひっきりなしに行き来する場所となっていた。
でも、背後の建物は昔のままである。

最後に、ニッラ・ピッツィが歌う「カンパナーロ」をYoutubeからリンクしておく。

2018-10-29

予定外のいきなりコルドバ訪問

セビーリャ旧市街の主だった場所は、着いた日に一通り歩き回ったので、翌日はコルドバに行ってみることにした。
コルドバへまでは高速鉄道ならば、わずか1時間半ほどである。マドリードに少し引き返す形になる。

指定券は券売機で買える。ただし、現金は使えず、クレジットカードもICチップが付いていないと使えない。
券売機は英語表示もあり、発駅、着駅、時刻などを入力するのはイタリアのものと同じ。
ただし、イタリアでは最後にカードを挿入口に入れるのだが、スペインではICチップをかざすようになっていた。

Taberna Bar Santos

コルドバ駅から旧市街のメスキータまでは2kmほど。
われわれはタクシーに乗らず、駅前から15分おきくらいに出ている3番のバスで地元の人たちにもまれながら、メスキータに近い川べりで下車した。
バスの乗り場も時刻表も、Googleマップでもわかるのだから、便利になったものである。

トリウンフォ広場

旧市街に入ったら、まず腹ごしらえ。
出発前に知人から勧められていた「タベルナ・バル・サントス」(Taberna Bar Santos)に迷わず入店した。トップの写真のような親しみやすい店である。

まず、ワインとこの店の名物のトルティージャ・デ・パタタ(スペイン風オムレツ)を注文。
さらに、隣の人が食べていたメニューの名前を図々しく尋ねて、それも注文した。
ジャガイモのアーリオ・オーリオであった。イモが重複してしまったが、わざわざ名前を聞いた以上、頼まないのも申し訳ないと思う、日本人の私であった。

上から見たメスキータ

腹ごしらえをしたら、いよいよメスキータに突入。
前回と違ったのは、塔の上から全体を見下ろせたことだ。それが、上の写真。あとから増改築したキリスト教会の部分がアンバランスである。

そして、内部は動画で撮ってみた。アーチの柱にしても、壁の幾何学模様にしても、まさにイスラム建築。
かつては、この広々とした場所で礼拝をしていたのだと思うと感慨深い。

記憶では、静謐といった雰囲気がぴったりだったのだが、さすがに世界遺産となって観光客が次々に訪れていてざわざわしていた。

内部の何割かはキリスト教会になっていたが、やっぱり違和感がある。
16世紀に、このモスクの一部を教会に改造すると発表されたときに、コルドバ市民が大反対したというのもよくわかる。
かつての異民族、異教徒支配の名残とはいえ、その芸術的価値を理解していた人びとに敬意を表したい。

そのあとは、白い家々と細い路地が続く旧ユダヤ人街をぶらぶら。
歴史的なシナゴーグ(ユダヤ教会)は改装中で入れなかったが、その近くに「セファルディの家」(Casa de Sefarad)と呼ばれる小さなユダヤ博物館があった。

セファルディの家

イスラム教徒の支配者たちは、商売の上手なユダヤ人を呼んで、町や国を栄えさせたという。
ところが、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服)が完了すると、やがてイスラム教徒やユダヤ教徒、そして改宗したイスラム教徒らに対する異端審問が行われ、多数の追放者や処刑者を生んでしまう。

この博物館では、ユダヤ教徒の知識人たちの伝記とともに、そうした悲しい歴史について記されていた。
受付にいた物腰の柔らかなイケメンのお兄さんは、ユダヤ人のインテリなのだろう、各国の観光客にそれぞれの国のことばで対応しており、片言ではあるがきれいな発音の日本語も話してくれた。

アンダルスの家

この写真は、セファルディの家の近くで公開されていた「アンダルスの家」(La Casa Andalusí)。こちらも、セファルディの家と同じく、イスラム風の美しい中庭をもった白い家である。

1981年の旧ユダヤ人街

37年前に、この地区を歩いたとき、白壁の向こうにちらりと美しい中庭をかいま見た。
ぜひとも、中に入って見てみたいと思いつつ撮ったのが最後の写真である。
入ってみたくなるでしょ!

残念ながら、そのときは公開されている家はなかったのだが、その望みがようやくかなったわけである。
これを見ただけでも、いきなりコルドバに来たかいがあったというものだ。

2018-10-25

夜のセビーリャ、乗った食った飲んだ

スペインの夜は長い。
地元の店は9時ごろから客が集まり、12時過ぎても町は賑わっている。
マドリードほどではなかったが、セビャーリャもそうだった。

最初の写真は、2007年に開通したセビーリャのトラム(路面電車)。
今どきの超低床車が、サン・ベルナルドからプラサ・ヌエーバ(ヌエーバ広場)までの1路線2.2kmを往復している。
この写真は、一方の終点であるプラサ・ヌエーバで撮ったもの。

プラサ・ヌエーバ終点

セビーリャは、トラムとは別に、メトロ(主に地下を走っているが、地下鉄というよりも軽鉄道というイメージ)もあるが、さすがに歴史的な旧市街の地下は簡単に掘れないようで、旧市街はこのトラムが走っているというわけだ。

今回は、観光地でもあるスペイン広場に行った帰りに、新市街でこのトラムに乗った。
電車はやがて旧市街に入り、セビーリャ大聖堂の横を通り、まもなく終点のプラサ・ヌエーバに着いた。
乗ってみると、あっという間である。

プラサ・ヌエーバを出発するトラム

ところで、旧市街の北西にあるプラサ・デ・アルマスのバスターミナルには、下の写真のような電車が保存されていた。
車両の大きさからいうと、昔の路面電車のようにも見えるが、屋根に乗っているのは大型の菱形パンタグラフである。
もしかすると、都心と近郊を結ぶ電車だったのかもしれない。

ちなみに、プラサ・デ・アルマスのバスターミナルの隣には、1990年まで鉄道駅として使われていた駅舎が保存されている。

保存されている古い車両

ところで、2泊したセビーリャで連続して通ったのが、旧市街のホテル近くにある「Los Coloniales」(ロス・コロニアレス)という店。
最初は日曜の夜だったので、夜遅くまで開いている店が少なくて、たまたまここに入ったのだが、これが当たりだった。

しかも、「テラスが満員なので、ここで待っていてくれ」といわれたカウンターが楽しかった。
客は、地元の人と観光客が半々くらいか。

ハモン・イベリコや野菜・タコのサラダなどをつまみに、生ビール、白ワイン、赤ワインと、すすめられるままに、いろいろと飲んで食べた。

楽しいタパスバー

まあ、食べものうまい店は、ほかにいくらでもあるだろうが、ここは店員のおじさん、お兄さんたちの愛想がいい。よすぎるくらい。
グラスワインは、おかわりするたびに量が増えていく。4杯目はグラスになみなみと注いでくれた。
1杯飲んでサッサと帰る客が多いなかで、2時間ほども粘ったわれわれである。

イタリア語まじりのインチキスペイン語と英語で、適当に楽しく意思を疎通させた。

これは、Tindo de verano(ティント・デ・ベラーノ)という飲み物をつくっているところ。
店によって作り方が違うそうだが、ここでは赤ワインをレモンジュースで割っていた。
スペインの暑い夏には、これがピッタリだ。

勝手に動画を撮って公開してしまったわけだが、まあ宣伝になるからいいよね。
スマホで動画を撮っているとは思わず、ずっとポーズを撮っている2人がかわいい。

2018-10-20

セビーリャの今昔を味わう定点比較写真

さて、しつこく書いているように、今回の旅の目的の一つは、37年前に来たコースをたどるセンチメンタルジャーニーなので、当時写真を撮ったのと同じ場所で撮影を試みた。

日本でも拙ホームページの1コーナー「東京 -昭和の記憶-」で公開している定点対照写真である。
2015年にはロシアでもやって、「ひたすら眺めていたシベリア鉄道」の本にも収録してある。(まだ本の在庫はあります!)

……と、宣伝はこのくらいにして本題である。
とりあえず、旧市街で撮った3カ所を紹介しよう。

まずは、旧市街中心部にありながら、賑やかな場所から少し入った地元の人向けの商店街といった風情のフランコス通りの今昔から。

1981年のフランコス通り
2018年のフランコス通り

古い写真は色が悪くて恐縮だが、カメラを構えていたら修道女が通りかかったのか、修道女が通りかかったからカメラを構えたのかは忘れたが、真正面で撮っては失礼なので、隅に入れて街並みを中心にしたアングル。
確かに、こんな地味な雰囲気の町だった。
今でも、建物はほぼ昔のまま。右側の建物は、正面をちょっと改装していることがわかる。

1981年のサルバドール広場
2018年のサルバドール広場

次は、やはり中心部にあるサルバドール広場。左は、イグレシア・デ・パスという教会。日本語にすると、平和教会という感じか。この写真手前側には、広場の名前になった大きなサルバドール教会があって、まるで教会銀座のよう。

今では、広場には日除けがかけられて、市民や観光客の憩いの場となっている。

1981年のセビーリャ大聖堂前
2018年のセビーリャ大聖堂前

この写真だけは、撮影場所をほぼ覚えていた。セビーリャ大聖堂の周囲である。
とはいえ、大聖堂はこの写真の背後にあって、この建物はインディアス古文書館というのだということを、今回知った。

1981年の写真では、大勢の人がバスを待っていたようである。
今回行ってみると、建物の外壁はきれいに修復されていた。バス停は移転したようで、観光馬車のたまり場となっていた。

セビーリャの中心部

実は、昔の写真はどこで撮ったかの記憶がなく、旅行前にGoogleストリートビューで、さんざん調べたのである。
最後の大聖堂前は覚えていたが、前の2枚がわからない。

なにしろ、当時は足の向くまま気の向くままで歩いたものだから、前後の写真の場所から足どりをたどり、「このあたりかな」、と見当をつけては「違ったか」という繰り返しであった。

夕暮れの小さな広場

下の3枚は、今回の旅で撮った街角のスナップと教会内での写真。
一番下の写真は、さきほどのサルバドール広場に面したもう一つの教会であるサルバドール教会の内部である。

37年前の旅で、スペイン(少なくともアンダルシア)の教会にあるマリアさまは、どれもリアルで色っぽいことが記憶にあった。端正な顔だちは、日本人好みではないかと思う。
前回は、コルドバだったか、セビーリャだったかで、この色っぽい顔で涙を流しているマリア像を見て、20代なかばの純情な私はきゅんときてしまった。

サルバドール教会

この日は、どういう催しなのかはしらないが、そのマリア像の手に参拝者が次々とキスをしていった。
左の男の子は、そのたびにマリアの手を拭いている。
確かに、唾液を通じて病原菌がうつるといけないからね。消毒しているだろう。
大昔は、そんなことをしていたのだろうか。

2018-10-17

セビーリャの賑わいと素顔

マドリードから、アンダルシア州の州都セビーリャ(セビリア)までは約2時間半。
しかも、エアコン完備でリクライニングシートという快適な旅である。ちなみに、車内販売では缶ビールを売っていた。
最近のヨーロッパでは、車内でアルコール類を飲んではいけない国が多いが、スペインはよいようだ。
これがなくちゃ、暑い国ではやっていられない。

メトロボール・バラソル

どうしても、昔の旅と比較してしまうのだが、37年前はこの区間を古いコンパートメント式の客車に乗って移動した。
スピードは今とは比較にならず、行けども行けども乾いた大地が続いていた印象が残っている。
私が乗ったコンパートメントには、中年のご婦人が2人乗り合わせていたっけ。

メトロボール・バラソルの上からの眺め

宿は、セビャーリャの旧市街にとっておいた。狭い路地に面した昔ながらの邸宅を改造したようなクラシックな宿で、こぢんまりとした中庭やそれを囲むアーチ状の柱が、アラブの影響を思わせた。

昔のセビャーリャのことは、ほとんど記憶のかなただが、「住みやすそうだ」という印象を抱いたのは覚えている。
町は大きすぎず小さすぎず、冬だったからかもしれないが、落ち着いた雰囲気なのが気に入った。
イタリアのフィレンツェで学校に通ったあとだったので、「セビーリャにもしばらく滞在して、スペイン語を習ってみるか」と本気で考えた。

結局、お金が底を尽きそうだったので断念したが、無理をすれば1カ月はいられただろう。そうしたら、私の人生は少し変わっていたかもしれない。

旧市街の路地

では、現在のセビャーリャはどうかというと、記憶のなかの町よりもずっとモダンになっていて、人も多くて賑わっていた。
スペインに詳しい知人によれば、「1992年に万博があってから、すっかり変わりましたよ」とのことだったので、町の雰囲気の変化にはそれほど驚かなかったが、観光客が多いことにはびっくり。

月曜日朝のセビャーリャ

宿を出て、まず向かったのは、万博を記念して建てられた「メトロボール・バラソル」。
5分ほど歩いたところで、行く手に大きな建造物が見えてきた。パラソルというよりキノコというのが第一印象。トップの写真である。
キノコの笠の上に登れるようになっていて、まずは町を見渡した。新しい町を訪れたら、まず高いところに登るという私のモットーが実現できてなによりである。

もっとも、遮るものがないから暑いのなんのって。入場券(登頂券?)が飲物の割引券を兼ねているので、それで飲んだモヒートが全身に沁みた。

月曜日朝のセビャーリャ

その日は、宿に着いたのが4時ごろだったので、当日はあまり町を見られないと思っていたが、さにあらず。
たででさえ西ヨーロッパ時間帯の西端にあって日の入りが遅いうえに、まだ夏時間であった。
4時過ぎでも太陽が中天高くいたものだから、その日のうちに中心部の主な場所は巡ってしまった。

1~3枚目の写真が、観光スポットの集中する旧市街である。

月曜日朝のセビャーリャ

そして、4~6枚目は翌朝に撮った宿の近くの写真。
宿の前にある路地を50mほど歩くと、何の変哲もない、しかし庶民的な界隈に出る。

スペインに到着してから、土曜、日曜と、観光客や地元の若者が夜遅くまで騒々しくしていたのに疲れていたものだから、月曜日になり、朝日を浴びて人びとが働きだした様子が新鮮に感じられた。

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